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短信:「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されていました

このブログを始めて間もない頃に、当時ネット上で公開されていた「多摩川誌」(建設省関東地方建設局京浜工事事務所)を紹介しましたが、8年ほど前にこのサイトが廃止されてしまったことをお伝えしました。

最近になってFedibird(マストドン)に参加したのを切っ掛けに、右のような形でこのブログの過去記事を1日1回ずつ紹介しています。その一環で「多摩川誌」を紹介した記事を見返した折に、ふと「多摩川誌」は「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)で公開されているのではないか、と思い立って検索を試みました。

その結果、以下の場所で「多摩川誌」が閲覧できることを確認できました。

多摩川誌 〔本編〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション


「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」に指定されているため、ネット上で閲覧するにはIDを取得してログインする必要があります。とは言え、現在の「デジタルコレクション」では全文検索にも対応しているため、従来のHTML並みの検索が行えるのが強みです。実際、「多摩川誌」を引用していたこちらの記事にページ数とリンクを追加する際にも、全文検索で容易に該当箇所を見つけることが出来ました。

また、「多摩川誌」には「本編」以外の別巻が付随していますが、これらも全て「デジタルコレクション」上で公開されていました。

従来のHTMLとは形が違うとは言え、再びネット上で閲覧できる場所を得たのは大きなメリットです。
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「ルートラボ」終了対応:中原街道のルートに手を入れました

先日の「LatLongLab」の終了発表以来、「ルートラボ」で作成したルート図を「地理院地図」で作成した地図に差し替える作業を少しずつ進めています。「ルートラボ」では表現出来なかった複数ルートの表示や、「明治期の低湿地」や「陰翳起伏図」等との合成など、差し替えに際して多少情報を追加した地図もありますが、「ルートラボ」終了までの時間が限られていることもあり、基本的には作成したルート自体には手を加えることなくそのまま使用する方針で作業を進めて来ました。しかし、中原街道のルート図を差し替える段になって、少しルートに手を入れることにしました。

以前の記事で、「地理院地図」で過去の空中写真を重ねて表示させる機能について紹介しました。この機能を使って、中原街道の道筋のうち開発によって失われた区間について、多少なりともトレースし直してみる作業を、この差し替え作業を始める前から少しずつ進めていました。「ルートラボ」のルート図を差し替える作業を始めたことで、中原街道の作業は一旦中断せざるを得なくなっていましたが、この機に完成させて差し替えることにしたものです。

都心部から小杉付近までは1936年頃の古い空中写真を重ねることが出来ますし、そこから横浜市都筑区南山田町辺りまでは1940年代後半の空中写真が使えます。この区間では現在の国道1号線(第二京浜国道)や神奈川県道45号として大幅に拡幅される前の道幅が、都心部など一部先行して拡幅された区間を除いて見えています。


1936年頃の空中写真に見える、洗足池(東京都大田区南千束)の南を通過する中原街道(中心十字線、以下同じ)
東急池上線の洗足池駅との間が比較的空いており、将来この方向に拡幅されることがわかる
1940年代後半の写真でもまだ拡幅されていないことが確認出来る(「地理院地図」)


また、多摩川では昭和9年(1934年)に廃止された「丸子の渡し」に繋がる道筋がまだ見えており、右岸側(川崎市側)では堤防内がまだ田畑などに利用されていた状況を確認出来ます。今回の修正では基本的にこれらの道筋をトレースする様にしており、特に現在は失われてしまった道筋を特定するのに有効な手法と言えると思います。


1936年頃の空中写真に見える、多摩川河川敷を丸子の渡しへ向かう道筋
その南側の土地は畑として利用されていると考えられる
大正年間に堤防が出来るまでは渡しのすぐ傍らまで集落があった(「地理院地図」)

それ以外の区間では1960年代前半の写真のみになってしまいますが、この時点でもまだ拡幅工事を施される前の状況が見られます。また、特に横浜市都筑区の勝田(かちだ)・茅ヶ崎付近(旧:武蔵国都筑郡勝田村・茅ヶ崎村)では港北ニュータウンの開発によって周囲の地形ごと道筋が完全消滅した区間があり、その道筋を追う上では重要な手掛かりを与えてくれます。他にも保土ケ谷バイパスをはじめ各所に開発による地形の消滅の影響を見ることが出来、時代を遡る上でのヒントを得ることが出来ます。


1960年代の空中写真に見える、横浜市都筑区茅ヶ崎一丁目付近のかつての中原街道
かつては尾根筋を上っていたと考えられ、西側に沢筋が見えているが
現在はこの辺りの地形は大きく変わっており、街道の痕跡は地形共々全く残っていない(「地理院地図」)

なお、これらの写真は何れもモノクロで解像度が現在のものと比べてまだ粗く、特に屋敷林や建物などの影が被ってしまっている箇所では道筋を見極め難くなってしまっています。その様な箇所では無理に写真をトレースせず、現在の地形図と照合して補っています。

また、これらの空中写真では当時の技術的な限界から多少の誤差を含んでおり、「地理院地図」で重ねて表示させる上では各種の補正作業が施されていることについては、以前の記事でも紹介したこちらの論文で説明されています。ただ、こうした補正作業を経ても誤差が完全には取り除けておらず、特に写真の辺縁部では以下の様に道筋など繋がらなくてはならないものが繋がらない箇所が見受けられます。


空中写真の繋ぎ目で中原街道が互いにズレてしまっている箇所
横浜市都筑区池辺町付近の中原街道や、それ以外の道筋もかなりズレている(「地理院地図」)

従って、以前の街道の位置をこの機能によって完全に特定することは出来ません。街道の線形などから総合的に判断するのに留めた方が良さそうです。それでも、道路拡幅後に不自然な形で残った歩道や脇道が、かつての街道の名残であることを確認する程度には有効に活用出来ると思います。

中原街道・空中写真トレース版
中原街道・空中写真トレース版
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この様な形でルートを引き直した結果は右の様になりました。街道の性格を考え、江戸時代初期に小杉(現:川崎市中原区小杉陣屋町)と中原(現:平塚市御殿)の2箇所にあった「御殿」の位置にマーカーを打ってあります。

なお、空中写真では既に道筋を付け替えられた後の状態になっている箇所(厚木基地南側と「廻り坂」など)では、過去の地形図を参考に概略で線を引いています。相模川の西側についても既に失われた区間が多いとされていますが、こちらについては原則的に現道を元に線を引いています。

また、今回併せて寒川町が「中原街道」のガイドを立てている「別ルート」の道筋を破線で追加しました。これは「田村通り大山道」の宿場でもある一之宮を経由せずに、大蔵村(現:寒川町大蔵他)の辺りから直接田村の渡しへと向かう道筋です。幕末の一之宮村に伝わる「一之宮村外二十七ケ村組合麁絵図面」(「寒川町史15 図録」78ページ所収)ではこの道筋を「中原宿往來」と記しており、この時期の一之宮村ではこちらを本道と考える例があったことがわかります。もっとも、実際は継立を運用する上では一之宮村の本集落を通る大山道を経由する必要があったと考えられ、多くの絵図では田村の渡しから大蔵村への道筋を大山道などよりも細く描くものが目立ちます。その様な事情を考え、今回はこの別ルートは破線で描き入れるに留めました。


墓地の傍を通る細い道に
中原街道であることを解説するガイドが
寒川町によって立てられている
このガイドから南側30mほどの路傍に立つ
地蔵菩薩立像(寛延2年・1749年)の
右側面には「□(「田」と推測される)村道」と刻まれており
「田村の渡し」へと通じる道であることが確認出来る
ストリートビュー
中原街道・空中写真トレース版一之宮付近
中原街道・空中写真トレース版一之宮付近
1960年代の空中写真と合成
この時点で既に工場の敷地などによって
道筋が失われた区間が少なからずある

この「別ルート」も現在では工場の敷地になったり区画整理が行われたりしたことによってかなりの区間が失われており、1960年代の写真を頼りに線を引き、その時点で既に失われていた区間については大筋での推定をしています。

中原街道について後日仔細に検討する機会を持ちたいと考えていますが、この図についてもその機会に改めて見直したいと思います。それまでの暫定的な図とお考え下さい。

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【図録紹介】「絵図でめぐる川崎—失われた景観をさぐる」(川崎市市民ミュージアム)

前回平塚市博物館で2017年に催された特別展「ひらつかの村絵図を読む」(以下「ひらつか」)の図録を紹介しました。その中で、神奈川県内の村絵図類をまとめた出版物の一例として、川崎市の「絵図でめぐる川崎-失われた景観をさぐる-」(2010年、以下「川崎」)を挙げました。

このブログでは主に江戸時代の相模国域のことを取り上げて来ているため、武蔵国(主に橘樹郡)に属していた川崎市域を取り上げる機会は多くありませんでした。東海道の六郷の渡し川崎宿を取り上げたのが主なものになりますが、近代まで時代が下ったり、現在明らかになっている地形・地質に関する知見を中心に記事を組み立てたこともあり、近世の村絵図を検討する展開にはなりませんでした。このため、手元の「川崎」の図録を活用する機会に恵まれませんでしたが、前回の記事で僅かながら触れたこともあり、この機会に簡単に目次をまとめておくことにしました。

この図録は104ページと、郷土史の特別展の図録としてはページ数が多く、更に別冊でトレース図集(29ページ)が付随しています。絵図の方は全てフルカラー刷りになっているのに対し、トレース図はモノクロの線描図になっていますので、カラー印刷のコストを多少なりとも抑える目的でこの様な構成になったものと推察されます。因みに「ひらつか」のトレース図は元図と同じカラーを引き継いだものになっていますが、これは元図をカラースキャンしたものを画像処理して作成したものと見受けられ、2つの特別展の間の年月に画像処理作業環境が著しく進化したことを感じさせます。

「絵図でめぐる川崎」市内村々概念図
川崎市内の江戸時代の村々の概念図と
絵図掲載ページ
(「川崎」10ページより)
「川崎」の目次は次の通りです。

  • ごあいさつ
  • ⒈ プロローグ 江戸時代の川崎市
  • ⒉ 村絵図の世界
  • ⒊ さまざまな絵図
  • [ノート]近世村絵図は誰によって描かれたか
  • 出品目録
  • 参考文献
  • 所蔵者・協力者一覧

「⒈プロローグ」では、「武蔵国絵図」など、より広域の絵図を掲載して、当時の川崎市域や周辺地域を概観する位置付けになっています。

「⒉ 村絵図の世界」では、以下の各村の絵図が掲載されています。複数の絵図が掲載された村が多くなっていますが、ここでは絵図の名称と年代を書き出し、別冊にトレース図が掲げられたものは前回の記事同様に「◎」を付しました。なお、各絵図には出品番号が付されているのですが、図録には必ずしも全ての絵図が採録されておらず、番号が飛んでいる所が何箇所かあります。出品番号は134まで振られており、1回の特別展としてはかなり多数の絵図が展示されたと言えます。

  • 稲荷新田・大師河原村
    • ◎稲荷新田絵図(天保9年・1838年)
    •  玉川河口川欠絵図(江戸時代後期)
    • ◎玉川河口域海岸町人普請絵図(寛文11年・1671年)
    •  新田開発成就絵図(宝暦12年・1762年頃)
    •  大師河原村塩浜耕地絵図(江戸時代)
    •  大師河原村潮除堤破損箇所絵図(宝暦10年)
    •  大師河原村塩浜新田御見分絵図(宝暦12年・1762年)
  • 池上新田・大嶋村
    •  池上新田絵図(文政4年・1821年)
    •  池上新田開発前後の大嶋村高入地絵図(宝暦12年・1762年)
    •  大嶋村・池上新田村境立会絵図(安永5年・1776年)
    •  大嶋村新組新高入場絵図(江戸時代)
    •  五ヶ村悪水落堀周辺新田絵図(江戸時代)
    •  大師河原村塩垂場付近御定杭絵図(江戸時代)
  • 川崎宿
    •  川崎宿絵図(享和2年・1802年)
    •  川崎宿の内久根崎町田畑絵図(文久元年・1861年)
    • ◎川崎宿の内新宿町田畑絵図(文久元年・1861年)
  • 下平間村
    • ◎下平間村絵図(江戸時代)
  • 沼部(ぬまべ)
    •  下沼部村絵図(江戸時代)
    •  下沼部村絵図(文政4年・1821年)
  • 上丸子村
    • ◎上丸子村小杉村上沼部村境絵図(文政7年・1824年)
  • 小杉村
    • ◎小杉村絵図(宝暦12年・1762年)
    •  小杉村絵図(寛政元年・1789年)
    •  小杉御殿図(江戸時代)
  • 宮内村
    • ◎宮内村絵図(江戸時代)
  • 下野毛(しものげ)村・瀬田村
    • ◎下野毛村絵図(天明8年・1788年)
    •  下野毛村麁絵図(天保7年・1836年)
    •  五ヶ村組合絵図(文化2年・1805年)
  • 久本(ひさもと)
    • ◎久本村絵図(江戸時代)
  • 作延(さくのべ)
    • ◎上作延村絵図(江戸時代)
  • 坂戸村
    • ◎坂戸村用水絵図(江戸時代)
  • 末長村
    • ◎末長村絵図(嘉永元年・1848年)
    •  末長村絵図(江戸時代)
  • 子母口(しぼくち)
    •  子母口村御林絵図(宝暦14年・1764年)
    •  子母口村御林梶ヶ谷村上地御林絵図(宝暦14年・1764年)
  • 梶ヶ谷(かじがや)
    • ◎梶ヶ谷村絵図(江戸時代)
    •  梶ヶ谷村小字地名図(江戸時代)
  • 馬絹(まぎぬ)
    • ◎馬絹村絵図(江戸時代)
    •  馬絹村絵図(江戸時代)
  • 土橋(つちはし)
    • ◎土橋村絵図(明和6年・1769年)
  • 菅生(すがお)
    • ◎下菅生村絵図(天保14年・1843年)
  • 天真寺新田
    •  天真寺新田絵図(享保16年・1731年)
  • (たいら)
    •  田畑山林惣絵図面(万延元年・1860年)
    •  再改 田畑山林絵図面覚帳(文久2年・1862年)
  • 長尾村
    • ◎長尾村絵図(江戸時代)
    •  長尾村絵図(江戸時代)
  • 登戸村
    • ◎登戸村絵図(天保14年・1843年)
    •  登戸村絵図(江戸時代)
  • (すげ)
    • ◎菅村絵図(寛保元年・1741年)
  • 金程(かなほど)
    • ◎金程村絵図(宝暦14年・1764年)
    •  金程村新開場見立絵図(宝暦14年・1764年)
  • 高石村
    • ◎高石村絵図(宝暦14年・1764年)
  • 王禅寺村
    • ◎王禅寺村絵図(宝暦12年・1762年)
    •  王禅寺村五人組絵図(享保3年・1718年)
    •  王禅寺村絵図(天保7年・1836年)
  • 片平村・五力田(ごりきだ)
    • ◎片平村絵図(天保7年・1836年)
    •  五力田村絵図(天保7年・1836年)

「⒊ さまざまな絵図」に掲げられた絵図は以下の通りです。

  • 海岸を描く
    •  稲荷新田下より潮田村下迄海辺新開場見立絵図(宝暦14年・1764年)
    •  川崎領海辺村々汐除堤并新開場見立絵図(明和2年・1765年)
    •  玉川より鶴見川迄海辺村絵図(江戸時代)
  • 道を描く
    •  東海道分間延絵図(部分:文化3年・1806年)
    •  東海道往還絵図(部分:江戸時代後期)
    •  東海道道中絵巻(部分:江戸時代後期)
    •  中原往還図(文久3年・1863年)
    •  溝口寄場組合村々図(江戸時代後期)
  • 多摩川を描く
    •  調布玉川絵図(部分:江戸時代後期)
    •  武蔵国玉川絵図(部分:明和2年・1765年)
    •  下沼部川欠絵図(文政5年・1822年)
    •  六郷川渡船場水制絵図(江戸時代)
    •  玉川通堤川除御普請箇所付絵図(嘉永2年・1849年)
  • 境界を描く
    • 麻生(あさお)村王禅寺村秣場出入裁許絵図(寛永10年・1633年)
    •  王禅寺村山論裁許下絵図(正徳元年・1711年)
    • ◎王禅寺村山論裁許絵図(正徳2年・1712年)
    • ◎片平村古沢村平尾村野論裁許絵図(貞享3年・1686年)
    • ◎小杉村等々力(とどろき)村境論裁許絵図(享保2年・1717年)
    • ◎下石原宿菅村郡境論裁許絵図(享保8年・1723年)

「ひらつか」では、複数の村にまたがる絵図については後続の主題毎の絵図をまとめた章に収めていました。それに対し、「川崎」では絵図の大半が「村絵図の世界」に収められ、各種の主題に従って描かれた絵図も、数村程度の地域を描いたものはほぼこちらにまとめられています。例えば、海岸線に関する絵図は稲荷新田・大師河原村や池上新田・大嶋村にも沿岸の塩田や潮除堤を描いたものとして登場します。

川崎市の方が市域が広く細長いため、個々の地域毎の特徴を際立たせることに主眼を置いた配列になったと言えるでしょうか。もっとも、個々の絵図から読み取れるものは一様ではありませんので、その時々によって分類が変わっていくのも自然なことではあります。例えば、「六郷川渡船場水制絵図」はここでは「多摩川を描く」の項に収められましたが、半面で六郷の渡しやその周辺を描いた絵図という側面もあります。また、中原街道(相州道)が小杉御殿跡の前で枡形を成していることが読み取れる小杉村の各絵図なども、中原街道の研究では見るべき絵図と言えるでしょう。

前回の繰り返しになりますが、こうした過去の村絵図をまとめた資料集が更に世に出ることを期待したいものです。
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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ通し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ通しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ通されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ通し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ通し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。

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