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【図録紹介】「絵図でめぐる川崎—失われた景観をさぐる」(川崎市市民ミュージアム)

前回平塚市博物館で2017年に催された特別展「ひらつかの村絵図を読む」(以下「ひらつか」)の図録を紹介しました。その中で、神奈川県内の村絵図類をまとめた出版物の一例として、川崎市の「絵図でめぐる川崎-失われた景観をさぐる-」(2010年、以下「川崎」)を挙げました。

このブログでは主に江戸時代の相模国域のことを取り上げて来ているため、武蔵国(主に橘樹郡)に属していた川崎市域を取り上げる機会は多くありませんでした。東海道の六郷の渡し川崎宿を取り上げたのが主なものになりますが、近代まで時代が下ったり、現在明らかになっている地形・地質に関する知見を中心に記事を組み立てたこともあり、近世の村絵図を検討する展開にはなりませんでした。このため、手元の「川崎」の図録を活用する機会に恵まれませんでしたが、前回の記事で僅かながら触れたこともあり、この機会に簡単に目次をまとめておくことにしました。

この図録は104ページと、郷土史の特別展の図録としてはページ数が多く、更に別冊でトレース図集(29ページ)が付随しています。絵図の方は全てフルカラー刷りになっているのに対し、トレース図はモノクロの線描図になっていますので、カラー印刷のコストを多少なりとも抑える目的でこの様な構成になったものと推察されます。因みに「ひらつか」のトレース図は元図と同じカラーを引き継いだものになっていますが、これは元図をカラースキャンしたものを画像処理して作成したものと見受けられ、2つの特別展の間の年月に画像処理作業環境が著しく進化したことを感じさせます。

「絵図でめぐる川崎」市内村々概念図
川崎市内の江戸時代の村々の概念図と
絵図掲載ページ
(「川崎」10ページより)
「川崎」の目次は次の通りです。

  • ごあいさつ
  • ⒈ プロローグ 江戸時代の川崎市
  • ⒉ 村絵図の世界
  • ⒊ さまざまな絵図
  • [ノート]近世村絵図は誰によって描かれたか
  • 出品目録
  • 参考文献
  • 所蔵者・協力者一覧

「⒈プロローグ」では、「武蔵国絵図」など、より広域の絵図を掲載して、当時の川崎市域や周辺地域を概観する位置付けになっています。

「⒉ 村絵図の世界」では、以下の各村の絵図が掲載されています。複数の絵図が掲載された村が多くなっていますが、ここでは絵図の名称と年代を書き出し、別冊にトレース図が掲げられたものは前回の記事同様に「◎」を付しました。なお、各絵図には出品番号が付されているのですが、図録には必ずしも全ての絵図が採録されておらず、番号が飛んでいる所が何箇所かあります。出品番号は134まで振られており、1回の特別展としてはかなり多数の絵図が展示されたと言えます。

  • 稲荷新田・大師河原村
    • ◎稲荷新田絵図(天保9年・1838年)
    •  玉川河口川欠絵図(江戸時代後期)
    • ◎玉川河口域海岸町人普請絵図(寛文11年・1671年)
    •  新田開発成就絵図(宝暦12年・1762年頃)
    •  大師河原村塩浜耕地絵図(江戸時代)
    •  大師河原村潮除堤破損箇所絵図(宝暦10年)
    •  大師河原村塩浜新田御見分絵図(宝暦12年・1762年)
  • 池上新田・大嶋村
    •  池上新田絵図(文政4年・1821年)
    •  池上新田開発前後の大嶋村高入地絵図(宝暦12年・1762年)
    •  大嶋村・池上新田村境立会絵図(安永5年・1776年)
    •  大嶋村新組新高入場絵図(江戸時代)
    •  五ヶ村悪水落堀周辺新田絵図(江戸時代)
    •  大師河原村塩垂場付近御定杭絵図(江戸時代)
  • 川崎宿
    •  川崎宿絵図(享和2年・1802年)
    •  川崎宿の内久根崎町田畑絵図(文久元年・1861年)
    • ◎川崎宿の内新宿町田畑絵図(文久元年・1861年)
  • 下平間村
    • ◎下平間村絵図(江戸時代)
  • 沼部(ぬまべ)
    •  下沼部村絵図(江戸時代)
    •  下沼部村絵図(文政4年・1821年)
  • 上丸子村
    • ◎上丸子村小杉村上沼部村境絵図(文政7年・1824年)
  • 小杉村
    • ◎小杉村絵図(宝暦12年・1762年)
    •  小杉村絵図(寛政元年・1789年)
    •  小杉御殿図(江戸時代)
  • 宮内村
    • ◎宮内村絵図(江戸時代)
  • 下野毛(しものげ)村・瀬田村
    • ◎下野毛村絵図(天明8年・1788年)
    •  下野毛村麁絵図(天保7年・1836年)
    •  五ヶ村組合絵図(文化2年・1805年)
  • 久本(ひさもと)
    • ◎久本村絵図(江戸時代)
  • 作延(さくのべ)
    • ◎上作延村絵図(江戸時代)
  • 坂戸村
    • ◎坂戸村用水絵図(江戸時代)
  • 末長村
    • ◎末長村絵図(嘉永元年・1848年)
    •  末長村絵図(江戸時代)
  • 子母口(しぼくち)
    •  子母口村御林絵図(宝暦14年・1764年)
    •  子母口村御林梶ヶ谷村上地御林絵図(宝暦14年・1764年)
  • 梶ヶ谷(かじがや)
    • ◎梶ヶ谷村絵図(江戸時代)
    •  梶ヶ谷村小字地名図(江戸時代)
  • 馬絹(まぎぬ)
    • ◎馬絹村絵図(江戸時代)
    •  馬絹村絵図(江戸時代)
  • 土橋(つちはし)
    • ◎土橋村絵図(明和6年・1769年)
  • 菅生(すがお)
    • ◎下菅生村絵図(天保14年・1843年)
  • 天真寺新田
    •  天真寺新田絵図(享保16年・1731年)
  • (たいら)
    •  田畑山林惣絵図面(万延元年・1860年)
    •  再改 田畑山林絵図面覚帳(文久2年・1862年)
  • 長尾村
    • ◎長尾村絵図(江戸時代)
    •  長尾村絵図(江戸時代)
  • 登戸村
    • ◎登戸村絵図(天保14年・1843年)
    •  登戸村絵図(江戸時代)
  • (すげ)
    • ◎菅村絵図(寛保元年・1741年)
  • 金程(かなほど)
    • ◎金程村絵図(宝暦14年・1764年)
    •  金程村新開場見立絵図(宝暦14年・1764年)
  • 高石村
    • ◎高石村絵図(宝暦14年・1764年)
  • 王禅寺村
    • ◎王禅寺村絵図(宝暦12年・1762年)
    •  王禅寺村五人組絵図(享保3年・1718年)
    •  王禅寺村絵図(天保7年・1836年)
  • 片平村・五力田(ごりきだ)
    • ◎片平村絵図(天保7年・1836年)
    •  五力田村絵図(天保7年・1836年)

「⒊ さまざまな絵図」に掲げられた絵図は以下の通りです。

  • 海岸を描く
    •  稲荷新田下より潮田村下迄海辺新開場見立絵図(宝暦14年・1764年)
    •  川崎領海辺村々汐除堤并新開場見立絵図(明和2年・1765年)
    •  玉川より鶴見川迄海辺村絵図(江戸時代)
  • 道を描く
    •  東海道分間延絵図(部分:文化3年・1806年)
    •  東海道往還絵図(部分:江戸時代後期)
    •  東海道道中絵巻(部分:江戸時代後期)
    •  中原往還図(文久3年・1863年)
    •  溝口寄場組合村々図(江戸時代後期)
  • 多摩川を描く
    •  調布玉川絵図(部分:江戸時代後期)
    •  武蔵国玉川絵図(部分:明和2年・1765年)
    •  下沼部川欠絵図(文政5年・1822年)
    •  六郷川渡船場水制絵図(江戸時代)
    •  玉川通堤川除御普請箇所付絵図(嘉永2年・1849年)
  • 境界を描く
    • 麻生(あさお)村王禅寺村秣場出入裁許絵図(寛永10年・1633年)
    •  王禅寺村山論裁許下絵図(正徳元年・1711年)
    • ◎王禅寺村山論裁許絵図(正徳2年・1712年)
    • ◎片平村古沢村平尾村野論裁許絵図(貞享3年・1686年)
    • ◎小杉村等々力(とどろき)村境論裁許絵図(享保2年・1717年)
    • ◎下石原宿菅村郡境論裁許絵図(享保8年・1723年)

「ひらつか」では、複数の村にまたがる絵図については後続の主題毎の絵図をまとめた章に収めていました。それに対し、「川崎」では絵図の大半が「村絵図の世界」に収められ、各種の主題に従って描かれた絵図も、数村程度の地域を描いたものはほぼこちらにまとめられています。例えば、海岸線に関する絵図は稲荷新田・大師河原村や池上新田・大嶋村にも沿岸の塩田や潮除堤を描いたものとして登場します。

川崎市の方が市域が広く細長いため、個々の地域毎の特徴を際立たせることに主眼を置いた配列になったと言えるでしょうか。もっとも、個々の絵図から読み取れるものは一様ではありませんので、その時々によって分類が変わっていくのも自然なことではあります。例えば、「六郷川渡船場水制絵図」はここでは「多摩川を描く」の項に収められましたが、半面で六郷の渡しやその周辺を描いた絵図という側面もあります。また、中原街道(相州道)が小杉御殿跡の前で枡形を成していることが読み取れる小杉村の各絵図なども、中原街道の研究では見るべき絵図と言えるでしょう。

前回の繰り返しになりますが、こうした過去の村絵図をまとめた資料集が更に世に出ることを期待したいものです。
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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ通し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ通しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ通されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ通し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ通し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。

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『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』の補足など

今回は以前の記事の簡単な補足を。

以前『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』を書いた際に、twitter上でこんなやり取りをしていました。


この際のツイートが一昨日になってリツイートされたりtogetterでまとめられたりしたのを切っ掛けに、私も改めて以前書いた自分のブログの記事を読み返しました。この記事をまとめた折にはまだ「第1回内国勧業博覧会」の出品目録が「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているのに気付いていなかったので、引用した文献の内容をソースに当たってみるという作業をしていなかったのですが、今回読み返すに当たってはそれら出品目録もチェックしてみました。

該当する箇所を書き出してみます。
  • 礦石 (一)相摸國足柄上郡谷ケ村 ◯砥石 (二)靑色 
    (平山村 古瀨左十郎
  • 陶土 (一)薄靑色、大住郡戸川村 (二)白色 (三)アヅキ色 ◯砥石 (四)薄靑色 
    (仝村 桐山金藏
  • 砥石 (一)荒砥、武藏國多摩郡五日市村 
    (仝村 平山藤吉
  • 砥石 (一)淡黑色相摸國愛甲郡小野村 
    (仝村 小瀨村三司
  • 砥石 (一)剃刀砥、津久井郡吉野驛 
    (仝驛 吉野十郎
  • 砥石 (一)荒砥小淵村中村榮助 
    (仝村 中村吉間多

(以下出品目録引用は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)


この出品目録は出品者単位でまとまっているにも拘らず、掲載順序が出品物によって分類されており、同一人物が複数の出品を行った場合に、そのうちの最初の1つに合わせて分類されるという順列になっており、特定の出品物に関して出品者を探そうとすると、他の場所も探しに行かなければならないという、少々厄介な構成になっています。ただ、神奈川県から出品された砥石については、その後の追加分も含めて確認した限りでは、この6点ということになりそうです。

これに対し、以前の記事で引用した文章では「秦野市戸川、厚木市小野、相模原市藤野町、山北町谷ケ、川崎市中原区」と一覧が記されていました。このうち、津久井郡吉野駅と小淵村はどちらも相模原市藤野町(当時、現:相模原市緑区吉野・小渕)に属していますので、最初の4地点については上記の引用中の5町村と照合出来ます。しかし、最後の「川崎市中原区」に該当する村(何れも橘樹郡に属する小杉村、上丸子村など約20ヶ村)からの出品は記載されておらず、代わりに現在東京都あきる野市域に当たる「多摩郡五日市村」の出品が記載されています。

この点について、引用した記事を執筆された生命の星・地球博物館学芸員の田口公則様にメールで確認させて戴いたところ、御自身でもこの一覧を確認されて疑問を持たれたものの、私信でやり取りをした際に中原区の名前がとある文献(失念されたとのこと)に掲載されていたと指摘を受けて、引用した様な表記とした旨のご回答を戴きました。

この出品目録は限られた期間に受け付けた出品物をかなり限られた時間内に出版物とするために、後日に補遺を2度にわたって出版し、更に正誤・出品取り消し等の修正一覧を最終巻にまとめるなど、相当に慌ただしい編集を経て世に出たものです。従って、目録に出品物の遺漏のあった可能性がないとは言えないのですが、その出典が果たしてどの様な性質のものであったのか、砥石が出るのが珍しい土地であるだけに気掛かりです。


五日市の位置(「地理院地図」より)
五日市ということであれば、ここは秋川渓谷の麓に当たる地であり、奥多摩の山地南部に当たります。この地域の地質図(リンク先PDF)ではこの地域の地質は砂岩や凝灰岩の地層から成っている様です。「内国勧業博覧会」の出品目録では五日市村の砥石に「荒砥」と記されていますが、これには目の粗い砂岩や凝灰岩が主に用いられることと考え合わせると、確かに地質の特徴と合いそうです。


これだけでは物足りないので、「内国勧業博覧会」出品目録から別の話題を取り上げてみます。

こちらのページの左上には「銕砂」という表記が見えます。
  • 銕砂 (一)三浦郡金田村(二)秋谷村 
    (金田村 菱沼三郎兵衛
  • 銕砂 (一)鎌倉郡極樂寺接地七里ヶ濱 
    (大鋸町 森小十郎
  • 銕砂 (一)公鄕村字猿(島誤植ヵ) ◯白土 (二)字馬門 
    (仝村 石渡忠八

この一覧で「銕砂」が何のことかお気付きになった方もいらっしゃると思います。砂鉄のことですね。七里ヶ浜の砂浜が砂鉄を多く含んでおり、かつてはこれを研磨剤に使っていたことは以前紹介しました。


横須賀市秋谷の位置

三浦市南下浦町金田の位置

「内国勧業博覧会」ではこの七里ヶ浜の他、三浦半島の金田村(現:三浦市南下浦町金田)、秋谷村(現:横須賀市秋谷)、そして猿島(現:横須賀市猿島)からも出品されています。これらの出品者が具体的に何処で砂鉄を採集したのかは不明ですが、何れも海岸に砂浜が伸びる地であり、七里ヶ浜とも近いこともあって何らかの相関性を考えたくなるところではあります。確かに今でも三浦半島の砂浜では砂鉄が多い箇所が多く、砂浜が黒っぽいのが七里ヶ浜と共通する特徴となっています。

この相模湾や東京湾岸の砂鉄については、1950年代の研究論文がPDF化されて公開されているのを見つけました。その後の研究が存在するのかどうかは不明ですが、これに従えば、比較的近い地域から海岸付近に運ばれ、それが海岸付近の湾流や風の作用で砂浜に堆積したものということになる様です。こうした作用が古くから存在したのであれば、七里ヶ浜がかつて砂鉄の供給地であったのと同様、三浦半島に点在する砂浜も、あるいは中世には同様に砂鉄の供給地として機能していたのかも知れません。
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相模湾の塩田

以前の「小田原・松原大明神で祀られた亀」や「大磯の砂利」の記事でも少し触れましたが、相模湾西部の砂浜ではかつて塩田が営まれていたものの、その後廃止されたことが「新編相模国風土記稿」には複数の村で見られます。

そこで今回はまず、「新編相模国風土記稿」から塩田の記述を含んだ海に関する項目をひと通り攫ってみました(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)。各項目からは浜の名や規模に関する記述と塩田に関する記述以外は削除し、また塩田に関する記述を含まないものは省略しています。このため、大住郡、高座郡と鎌倉郡の村がゼロになっています。大住郡(平塚宿、須賀村)の海に塩田の記録がない理由はわかりませんが、高座郡側は広く砲術稽古場として使われていましたし、鎌倉郡側は七里ヶ浜が江の島道の通路となるなど、海浜が別の目的で利用されていたために、広い面積を必要とする塩田を作る余地が元々なかったのでしょう。もっとも、高座郡側の砂浜が砲術稽古場になる以前に塩田があったかどうかについては不明です。
  • 小田原宿(卷之二十四 足柄下郡卷之三):

    ○海 驛南にあり、東古新宿町濱より西山角町境まで、長千三百三十間餘、町裏に添て浪除堤あり、堤下より浪打際まで幅七八十間、是を小餘綾濱、袖ケ浦など唱ふ、古は三角町の屬新久に鹽田ありしに、元祿圖にも鹽濱と題す、寳永中富士山焚燒の後、屢怒浪に押れて廢せりと云、潮落五六間餘、…

  • 早川村(卷之三十一 足柄下郡卷之十):

    ○海 南方に在、…古より鹽田ありしに波荒となり、明和六年以後製鹽の事廢す、此海濱より西南の方福浦村に至る迄、海浦を總て片浦と唱ふ、其道程凡三里十一町餘、

  • 前川村(卷之三十七 足柄下郡卷之十六):

    ○海 南に在、濱邊を袖ヶ浦と云、古は鹽濱あり、正保元祿國圖等にも載、享保七年の頃より荒砂となり、製鹽の事次第に衰へしに、明和元年に至り全廢す、東は山西村境より、西は國府津村の海濱、二本松の邊に至る迄を鹽畑と號し、其反別凡六町四段三畝二十九歩、

  • ニノ宮村(卷之四十 淘綾郡卷之二):

    ○小名 △鹽海、志保美○正保の改には別村とす、元祿の改には二ノ宮村の内と傍記して、村高も本村に合す、其後村内に併入して、全く小名となりし年代詳ならず、古此海濱にて鹽を製造す、依て此名あり、今其事廢すといへども、永錢は舊に依て出せりと云、

    ○海 南方にあり、漁船六艘を置、…古へ鹽田ありし事は、小名の條に註記す、

  • 川勾村(卷之四十 淘綾郡卷之二):

    ○海 南方にあり、古へ鹽田あり、正保二年領主よりの村方割付に、鹽永五百七十文上納のこと見ゆ、今廢す、慶安年中の割付には、鹽永の沙汰なし、

  • 浦ノ鄕村(卷之百九 三浦郡卷之三):

    ○海 村の東方にあり、海岸に天神崎北方にて武相國界の出崎なり、雀ケ浦・細浦等の名あり、

    ○鹽濱 雀ヶ浦にあり段別二町六段餘、

  • 林村(卷之百十 三浦郡卷之四):

    ○海 西方にあり、潮干三町餘江戸まで海上二十一里、鹽濱あり横九十間餘長三十間、竈六を置、海中に磯二あり、あにや磯長六十間横三十間中磯長十間横六間と呼ぶ、

(強調はブログ主)


「新編相模国風土記稿」で塩田について記された村の位置
「新編相模国風土記稿」中、塩田について記された海浜

位置関係がわかりにくいので、地図上でこれらの村の位置をプロットしてみました。赤のタブが「風土記稿」編纂時点で既に廃止されていた塩田、緑が当時まだ現役だった塩田です。三浦郡の2箇所の塩田については、三浦郡の図説でも産物の一つとして取り上げられていました。こうして見ると、「新編相模国風土記稿」編集時にも操業していた塩田は専ら三浦半島に集中しており、そのうち浦郷村は東京湾側にありますので、相模湾に面した塩田で残っていたのは、少なくとも「風土記稿」上は林村だけだったことになります。

東京湾側の塩田は相模湾側に比べれば操業を続けている所が多く残っていました。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡(現在の川崎市横浜市の鶴見区〜保土ヶ谷区など)や久良岐郡(横浜市中心部〜金沢区など)の図説では、その「産物」の1つとして塩を挙げています。
  • 橘樹郡(卷之五十八 橘樹郡之一):

    鹽 川崎領の内海岸の諸村にて鹽竃を設て製す、上品にて播州赤穂の產におとらず、他へ運漕するに及ばず、纔に土地にてひさぐのみなり、

  • 久良岐郡(卷之七十三 久良岐郡之一):

    鹽 當所の鹽は鐡釜を以て製するゆへ、其色殊に白からず、行徳鹽より亦劣れり、按に當所の鹽濱は古より始りしにや、稱名寺所藏永和二年六月二十三日の文書に、稱名寺領内外敷地鹽垂場等事、早任觀應三年三月三日御寄進狀之旨、可令領掌と載せ、及び同寺所藏康安二年五月二十四日の文書にも鹽場の事出たり、


そして、荏原郡(東京都品川区〜大田区など)から久良岐郡にかけての各村々の塩田にまつわる記述を拾うと、次の様になります。
  • 荏原郡:
    • 東大森村 西大森村 北大森村(卷之四十一 荏原郡之三):

      もとより海濱なれば昔は漁鹽の利あり、すでに正保中の記録には鹽を貢せしことも見ゆ、いつの頃よりか鹽やくことはやみしかと、漁獵は今も事とせり、

  • 橘樹郡:
    • 潮田村(卷之七十一 橘樹郡之十四):

      產物鹽寳曆十四年池上太郎左衞門が願によつて燒出せり、鹽竈は巽の方西岸にあり、一町四段九畝十五歩、西南の方に一町七段許の菅野あり、爰にても元祿の頃までは鹽を製しぬ、其稼を廢して今は永錢のみを出せり、

    • 小田村(卷之七十一 橘樹郡之十四):

      水田多く陸田少し、この餘茅畑と號して南の方堤の内に九段九畝六歩の地あり、是昔の鹽燒場の跡なりと云、又堤の外に二十三町九段五畝十三歩の地ありて共に永錢を貢す、

    • 池上新田(卷之七十一 橘樹郡之十四):

      巽の方はすべて海岸にてこの邊に鹽竃二ヶ所あり、

    • 大師河原村(卷之七十一 橘樹郡之十四):

      萱野一段四畝ほどは海邊にあり、また芝原ありて廣さ四段二十八歩許、鹽竃も近村に同じく海邊にありて.鹽濱段數二十町六段九畝十六歩なり、

  • 久良岐郡:
    • 社家分村 寺分村 平分村(卷之七十四 久良岐郡之二):

      村内鹽濱あり、耕種の暇には鹽を製て餘業とし、又漁獵をなせるもあり、

      鹽濱六浦より三艘までの海邊にあり、當所の鹽は鐡釜にて煮るゆへ他の殊に白きものには似ず、下品なり

    • 洲崎村(卷之七十四 久良岐郡之二):

      村の南方なる入海の邊堤の内に鹽燒場あり、

    • 町屋村(卷之七十四 久良岐郡之二):

      土人鹽を燒て生產の資とす、

    • 谷津村(卷之七十六 久良岐郡之四):

      村民農業の暇には、薪を伐り鹽燒場に持行て鬻けり、

    • 宿村(卷之七十六 久良岐郡之四):

      農隙には薪をとり町屋洲崎等の村々に持出、鹽燒料となして生產をたすく、村内にも鹽竈ありて鹽を製すといヘど、もとより僅なれば他所ヘは販かず、古人西湖の趣ありと賞して八景を撰す、村内鹽濱の邊を小泉の夜雨と稱し、則八景の一なり、八景のことは谷津村能見堂の條に詳なり、

    • 坂本村(卷之七十六 久良岐郡之四):

      農隙には薪をとりて鹽燒料に、町屋村へ鬻て少く生產を資く、村内にも東北の方に鹽竈あり、宿村と入會の所なり、

    • 赤井村(卷之七十六 久良岐郡之四):

      爰も農耕の暇には薪を伐出して生產をたすく、(注:伐出先を明示していないが、直前の坂本村の記述を「ここも」と受けていることから、恐らく塩田に薪を供給していたものと考えられる)

    • 太田村(卷之七十八 久良岐郡之六):

      吉田新田開墾せざりし頃は、此邊海濱にして鹽竈ありしと云、今も鹽たれ坂など云は其遺名なりとぞ、

    • 中里村(卷之七十九 久良岐郡之七):

      村民農耕の間鹽を煮、或ば薪を伐て橘樹郡大師河原村に出すを餘業とす、

    • 峰村(卷之七十九 久良岐郡之七):

      旱損の地にて村民農業の暇には薪を伐笹を刈て、橘樹郡大師河原村に鬻き、鹽の薪として生產の資とせり、


これらの記述の中に、「播州赤穂」や「行徳」といった当時の塩の名産地とされていた地域の名が挙がっています。このうち「赤穂」は今でも塩の著名なブランドとして通用していますね。この「赤穂」(現在兵庫県赤穂市)を含めた瀬戸内から江戸に送られる塩は「下り塩」と呼ばれていました。

江戸時代は寛文から享保(一七世紀中葉―一八世紀初頭)にかけて、製塩が大いに発展したが、その生産の中心はほとんど瀬戸内海の沿岸に集中したかの観があった。それぞれの藩が殖産興業政策に基づいて海岸の随所において塩田の開発を保護奨励した結果、瀬戸内海の沿岸地方は能率的な入浜式塩田に好適の地として発展を約束され、東北地方や北陸地方の塩業はしだいに衰微していった。そして、ついには製塩を中止するか、藩の保護のもとに辛うじて余喘をたもつほかなかった。仙台、金沢の両藩が塩の専売を行なわねばならなかった事情は、こうした危機を打開するための手段でもあったわけである。

かくて瀬戸内海地方の塩田のみはわが世の春を謳歌し、当時の全国塩生産の九割までを、この地方の塩田によって占めていた。この時期に、塩田の開発が活発に行なわれ、十州塩田のうち有名な塩田はたいていがこの時期のものといってよい。すなわち、赤穂塩田の新浜は正保三年(一六四八)に、安芸の竹原塩田の開発は慶安三年(一八五〇)に、備後の松永塩田は寛文二年(一六六二)にそれぞれ開発され、その他、貞享年間には防州三田尻塩田の古浜が、享保年間に中浜が、宝暦年間に鶴浜が開発されている。つまり、寛文前後から享保年代にかけて、開発がどんどんとつづけられたのである。

しかし塩田の過剰施設の結果は、いきおい塩が需要を上回ってつくられ、それはひいて塩の価格の暴落を招くこととなった。そして享保年代の末になると、再生産ができなくなってしまった塩小作人が続出した。そこで、これに対処するため安芸の三原屋貞右衛門が休浜法を考えて十月から翌年一月まで塩つくりを休み、値段をつりあげることに努力した。

(「ものと人間の文化史7 塩」平島裕正 1973年 法政大学出版局 125〜126ページより、強調はブログ主)

十州(注:播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予の瀬戸内に面した国々)がとくにもてはやされたのは、地理・気象条件のうえからみて、海浜が遠浅で、潮に干満の差が多く、晴天に恵まれて雨量の少ないことと、塩田に用いる細砂の入手が容易なことや、藩主が領民にたいして理解があったり、すぐれたリーダーが輩出したことなどに由来するものと思われる。

(上記同書130〜131ページ)

この「9割」という数字については、別の所では「最大で7割」という数字も見られ、計算の拠り所を何処に求めたかによっても変わる様ですが、何れにしても日本国内でも特に気候条件に恵まれた地域が各藩の庇護の下で生産過剰になる程までに成長し、全国の塩の供給量を自ら制御できる力を付けていたというのですから、他の地域の塩田にとってはたまったものではありません。

もっとも、江戸という一大消費地にとって「下り塩」はあまりに遠方から運ばれてくるために、台風などの悪天候によって海路が荒れると入荷が途絶し兼ねないという課題もありました。そうした懸念もあって幕府からの庇護を維持され、江戸や北関東の塩流通の下支えをしていた行徳(下総国、現千葉県市川市〜浦安市)の塩田も、遠方から下ってくる塩に伍してその地歩を堅持していました。

上に掲げた武蔵国の塩田の中で、操業を止めたと記されている所の多くは、こうした江戸時代の主要産地からの低廉・高品質で流通量も多い塩に圧された結果なのかも知れません(久良岐郡の太田村の様に、吉田新田の大規模な埋め立てによって海浜が無くなったために塩田を止めざるを得なくなった様な事例は別ですが)。操業を止めても「永錢を貢す」、つまり塩にかかっていた年貢は従来通り納めなければならないとされた村も多かったので、その様な村ではその分を別の稼業等で補うことが前提であった筈ですが、幕府や藩の強いバックアップを期待できる地域ではないこともあり、やはり相当に不利だったのでしょう。特に久良岐郡の塩の質の悪さが指摘されていますが、より品質の良い塩を得るための新たな窯を誂えるだけの体力がなかった故ではないかという気もします。むしろそれでも、こうした強力な地域に対抗して何とか操業を続けようとする塩田も少なくなかったと言うべきなのかも知れません。

また、塩焼きに直接関わらない内陸の村でも、塩を煮詰める際に必要となる薪の供給源となっていたことも、「新編武蔵風土記稿」の記述から見えてきます。特に久良岐郡の中里村の様に、自らも塩を焼きながら併せて橘樹郡の大師河原まで薪を供給していた例もあり、薪の供給源が近隣に留まっていなかったことが窺えます。因みに、いわゆる「金沢八景」の1つに「小泉夜雨」があり、同地の宿村の記述に見える様に、この風景を構成する中に塩田があったことも追記しておいて良いかも知れません。相摸国側の浦郷村も金沢の入江に隣接する場所にあり、この付近の村々で営まれていた塩田と併せて見た方が良さそうです。

武蔵国側の塩田の実情の話が長くなってしまいましたが、これに対して相模湾の塩田は大半が操業を停止してしまっており、その理由に「波荒」「荒砂」等環境の悪化が挙げられており、時期的に富士山の宝永噴火と結び付けられているのが気に掛かります。あるいは宝永噴火の4年前の元禄地震の影響もあるかも知れませんが、何れにしてもこうした天変地異によって製塩に必要な環境が整わなくなったというのは、一見すると確かに納得しやすい理由であるように見えます。

しかし、以前「元禄地震報告書」(内閣府防災担当)を検討した時にも触れましたが、相模湾岸はこの地震によって多少なりとも隆起したと考えられる地点が多いのも事実です。関東大震災などの大地震の際にも隆起傾向があることが観測されていることと併せて考えると、小田原〜早川で「塩田が浪を被る様になった」というのはどうも腑に落ちません。何か別の要因で小田原・早川付近の海岸線の後退を説明できるものがあるかも知れませんが、今のところこれらの自然災害によって起き得る現象として上手く説明が付けられないのが正直なところです。

一方、前川村の項では「荒砂になったから」ことから塩田が次第に廃止されていったと指摘されていますが、

(瀬戸内)沿岸の地質は花崗岩が主なので、白砂青松の美しさ、遠浅の海べりは、沖の方まで浅い砂地がつづき、波おだやかで絶好の塩づくり浜になる。塩田で使う細かい砂の入手にも便利である。この砂は毛細管現象で海水中の塩分を吸い上げるのであるから、この砂の乾燥のよいことは必要条件である。

(「ものと人間の文化史7 塩」142ページより、注、強調はブログ主)

つまり砂が粗くなると砂粒の間隔が広がって海水を吸い上げ難くなり、効率が落ちてしまうという点を言っているものと思われます。これは一見すると宝永噴火によるスコリアが大量に流れ着くようになったと考えたくなります。しかし、河川の様に上流から運ばれて来るスコリアが直接堆積する場所ならば砂粒が変化するというのも有り得そうですが、酒匂川から相模湾岸を経て堆積した砂が、果たしてスコリアの流下量の増大で変異するという説明で本当に問題がないのか、疑問も残ります。

その点では、「新編相模」に記された「荒浪」「荒砂」といった状況が必ずしも実情を正確に表現していないのではないかという疑念も湧いてきます。もっとも、相模湾岸で塩田操業を止めた所でも、武蔵国内と同様に貢税は引き続き発生していた村もあり、こうした村では塩田を止めた分を別で稼がなくてはならなくなっていた点は一緒です。その点で、安易な理由付けでは塩田操業を止めてしまうということも出来なかったと考えられます。塩田を廃業するにあたって貢税を受ける名主も現地を視察して事情を確認の上で已む無しと判断しているでしょうから、実情に合わない説明では受け容れられなかったと思われるからです。先ほど見た「下り塩」の影響下では相模湾岸の塩田も元より不利な状況下にあったのは一緒でしょうから、多少なりとも不利な条件が増えれば撤退已む無しと判断されるのも宜なるかなとも思えるものの、天変地異を逆手に取って塩田にも影響が及んだかのように言い立てているとまでは、俄に判断しにくいということです。

その様な訳で、江戸時代の相模湾岸の塩田に関する「新編相模」の記述は、表向きで元禄地震や宝永噴火の相模湾岸への影響を示唆している様に見えながらも、その個々の記述にはなお地学面からの検討を必要とする面が残っており、他方で当時の塩の流通事情も併せて考えてみなければいけない、なかなか厄介な課題を提示している様に思えます。当時の関連史料が更に見つかったら、もう少し突っ込んで考えてみたい課題ではあります。
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