「小田原市」タグ記事一覧

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その4)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に続き、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

前回は現在の山北町域に属する村々の状況を、同町の町史で確認しました。これらの村々は「西山家(やまが)」に属することになりますが、「東山家」に属する現在の松田町域の炭焼については、同町が発行した「まつだの歴史」に次の様に記されています。

貞享三年(一六八六)「稲葉家引継書」に「松田村の内くぬき林を立置、毎年一念炭焼申し候、炭竃損い候えば、軽奉行これを遣し修覆仕り候、竃数壱口、炭焼八郎右衛門、才兵衛・理右衛門・太郎兵衛・小右衛門」とあり、小田原藩領内でも相当の産地であったことがうかがわれる。

万延二年(一八六一)の史料をみると、小田原領二十四ヶ村の農間稼炭買主の中に、弥勒寺村の市郎兵衛と中山村の源之丞の二名の名前が見える。この者たちは農間稼ぎに炭を仕入れて江戸に扶ちているのである。

松田は炭の生産が盛んだったようで、貞享三年(一六八六)の金手村・山北村・堀之内村(現小田原市)・宮の台村(現開成町)などの村鑑(むらかがみ)を見ると「松田惣領村炭釜手伝人足御用次第出し申候」とあり、炭焼きが盛んであったことがわかる。また大寺村・虫沢村なども炭焼きが盛んに行われていたようである。

一金拾五両也

右は友八炭山仕入金(たし)かに受取り申候、もっとも来る十月中に急度(きっと)五百俵相渡し申すべく候、念のためにかくのごとくに御座候

以上

(文化・文政年間か)九月廿二日

相州大寺村

中津川銀左衛門(印)

白子屋清五郎殿

これは、友八(大寺村の者)の炭山仕入金を確かに受け取った。十月中に必ず五百俵の炭を小田原宿の旅籠である白子屋に納めるというものである。

(上記書137〜138ページより)



松田惣領の位置(「Googleマップ」)
松田惣領は東山家と呼ばれた村々の南に位置し、村内を矢倉沢往還が通じ、継立場としての色合いの濃い村ですが、江戸時代初期には稲葉氏の代の小田原藩の主要な炭焼場であったことが史料に見えています。しかし、史料の日付を良く見ると、惣領での炭焼が盛んであったのは江戸時代初期で、その後は北側の東山家の村々へと炭焼が移っていった様に見えます。あるいはこの地域でも、当初は比較的交通の至便な場所で炭を焼いていたものが、前回見た様な山資源の問題で山奥へと炭焼場が移っていったのかも知れません。実際、前回の引用文中にあった、虫沢村の村民が隣の皆瀬川村にまで入り込んで炭を焼いていた事件も、入会地の炭材の不足が背景にあったと考えられ、炭材の確保が次第に難しい状況に陥っていったことが窺えます。

大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
青線は甲州道、紫は矢倉沢道、赤は東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
ここで掲載されている大寺村の文書の宛先に小田原宿の旅籠である「白子屋」の名前が登場しますが、この旅籠は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中でも、小田原に着いた弥次郎兵衛の台詞の中で「おいらァ小淸水(こしみず)白子屋(しらこや)に、とまるつもりだ」という形で紹介されています。この旅籠について他の記録を見ることは出来ませんでしたが、脇本陣であった「小清水」と共に名前が挙がっている訳ですから、それに匹敵するだけの格式を持っていた、比較的大きな旅籠ということにはなるでしょう。この旅籠が発注した500俵の炭は、恐らく旅籠の業務で使う分が主と考えられます。これが1年分と仮定すると1日当たり平均1俵と1/3程度の炭を1つの旅籠で消費する計算になります。1俵当たりの重さが記されていませんので総重量は計算出来ませんが、仮に小さな4貫(15kg)入りの俵としても500俵で7.5トンになり、1日平均20kg程度を消費する計算です。かなりの量である様に見えますが、宿泊客に出す料理の熱源の他、冬場の暖房に火鉢に入れる分など、旅籠で必要となる局面が意外に多いこと、旅籠に宿泊する客の多さを含めて考えると、これでも年間分としてはギリギリということになるのかも知れません。

これは炭の送付先に江戸以外の宛先が具体的に記された史料としては興味深い一例と思います。大寺村からですと、麓の松田惣領まで運び出せば(この間も中津川沿いに2里以上の距離がありますが)、そこから小田原までは矢倉沢道で一旦関本へ向かい、更に甲州道を南下する経路の継立で運び込めるでしょう。とは言え、1俵の重さ次第で馬1匹に積める俵の数も変わりますが、全体で500俵分となると、何れにせよ延べでかなりの回数馬が往復する必要があるでしょうから、その輸送費だけでも馬鹿になりません。また、9月下旬に受注して10月中に500俵納品完了というスケジュールですから、1ヶ月あまりで全ての業務を完了するにはそれなりに人を雇う必要もある筈です。予め相当額の仕入れ金が支払われているのは、そうした必要経費を充当しないことには、これだけの量の炭焼に対応出来ないから、ということになります。


山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
さて、「風土記稿」山川編に取り上げられた炭焼の村々のうち、東西山家の全16村については、各村の記述の中では炭焼に触れられていませんでした。これに対し、箱根山中に当たる宮城野村については、「風土記稿」の同村の記述にも

農隙には男は炭を燒、女は蓑衣を製して活計を資く、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と記されています。ただ、この村の炭焼の実情については他に史料を見出せなかったため、詳細は不明です。なお、西隣の仙石原村は山奥に位置することと間に仙石原関所がある関係で、通常は炭焼は行っていませんでしたが、弘化2年(1845年)には凶作によって村が困窮する事態となったため、関所に十分一銭を納める条件で一時的に炭焼を行う許可を求めた文書が「神奈川県史 資料編9 近世(6)」に掲載されています(860〜861ページ)。この文書では文化10年(1813年)から3年間炭焼を許可されて困窮時の救いとなったことが記されており、一時的な稼ぎとしてのみ認められていたことがわかります。

もう1箇所、足柄下郡の「土肥山辺」で炭焼を行っていたことが山川編に記されていますが、こちらは「風土記稿」の土肥吉浜村の項に次の様に記されています。

◯土產 △石 △炭土肥鄕中多く燒出せり、都下にて、眞鶴炭と云是なり、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、…は中略、強調はブログ主)


ここで「真鶴炭」という名称が登場しますが、「風土記稿」の真鶴村の項には

◯湊 東西百十五間、南北二百五間、深二丈餘、 東方を港口とす、港とは稱すれど、他國の廻船入津するに非ず、但風浪に逢ひ蹔し港中に泊するのみなり、當今小廻船八艘、石・薪炭 樒、又湯ヶ原温湯等を、都下に運漕す、魚艇五艘俗に生魚船と唱ふ、漁魚を都下に運致するものなり、を置て運漕に便す、海路の里程、江戸へ三十七里、三崎へ十八里、浦賀へ二十三里、下田へ二十六里、網代へ五里、按ずるに、港名古記に見えず、正保國圖に湊と載す、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、強調はブログ主)

とあり、真鶴村の湊が保有する小さな廻船が地元で産出する石の他に、近隣で産出する(しきみ)、湯河原温泉の湯とともに、薪や炭を運んでいたことを記しています。

真鶴村については以前足柄下郡の各村から産出する「石」の産地の1つとして取り上げました。安山岩質の溶岩ドームが海中に突出した形になっている真鶴半島に位置するこの村には、当時は小田原藩主が植えさせた黒松林がありました。今は遷移が進んで広葉樹林になりつつありますが、黒松林は積極的に炭材にするものではなく、「風土記稿」の真鶴村の項でも「林 巽方にあり領主の林なり、」(卷之三十二 足柄下郡卷之十一)とこの黒松林の存在以外には記していませんので、炭材を供給出来る林がなかったのが当時の実態でしょう。従って、土肥吉浜村の記す「真鶴炭」は、飽くまでも積み出し港としてその名が冠されていたことになります。

山川編の

足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、

という書き方では「是を」が指す範囲がその前に登場する村々全てに係る様にも読めてしまうのですが、位置関係から見てもこれは現実的ではなく、土肥吉浜村の記述との整合性からも「土肥山辺」のみを指すと捉えるべきでしょう。とは言え、土肥吉浜村の項の書き方では「真鶴炭」の呼称が江戸で流布していた様に読めますが、実態はどうだったのでしょうか。

この「真鶴炭」の名称が他の文献などに登場する例がないか、可能な限りで探してみましたが、見付けることは出来ませんでした。「湯河原町史 第三巻 通史編」では同町域の炭焼について、地元に伝わる史料を元に6ページほどに渡って記していますが(276〜281ページ)、「風土記稿」に記された「真鶴炭」の名称については触れられていません。同書では文化6年(1809年)の「御用留」の記録を元に、6箇所で全部で27の炭窯を構築し、約10,000俵もの炭を焼いて、山代金120両を入会山のある吉浜・鍛冶屋村に支払ったことが紹介されています。この年には相応の生産規模を誇ったことが窺えますが、実際は炭焼を行う際に根府川関所への願書が必要であったことから、「湯河原町史」では同地の炭焼は断続的に行われていたものと考えられており、その様な状況下では特定の地名が流通時に広く流布する状況はなかなか考え難いところです。

また、最初に紹介した3冊の参考文献のうち、「日本木炭史」では莫大な史料を収集して著されていますが、近世の炭の名称(193ページ)には「相模炭」の名前は書き上げられているものの、「真鶴炭」の名はありません。「木炭の博物誌」には相模国域で産出する炭の名称として「煤ヶ谷炭」「三保炭」が挙げられているものの(214ページ)、やはり「真鶴炭」の名前は出て来ません。無論、まだ探していない書物に登場例があるかも知れませんが、特に「日本木炭史」の様に史料の網羅性の高い文献にすら登場しないとなれば、やはり「真鶴炭」の名が人口に膾炙していた時期が存在したとは極めて考え難いでしょう。

ただ、土肥郷は伊豆に隣接する地ですから、同地の「天城炭」の知名度に対して思うところがあって、それに抗して自分たちの炭を売り込む目的で、石材で著名な積み出し港の名前を炭に冠することを思い付いたのかも知れません。

以上、ここまで津久井県や足柄上郡・下郡などの炭焼の実情を見て来ましたが、これを改めて「風土記稿」の山川編の記述と照して見てみましょう。山川編では足柄上郡の東西山家と宮城野村、足柄下郡の土肥郷の山辺を産地として挙げていましたが、その生産の実情は険しい地形の中から長距離を運び出さざるを得ない制約や、関所の存在などに縛りを受けながら、それでも幕末に向けて次第に生産量が増えていく状況であったことは史料から窺えました。しかしながら、それらの事情の中で産出される炭が、相模国の他の地域、特に前々回に確認した津久井県から産出される炭を差し置いて、相模国の代表的な産物として特記されるだけの特徴を持っていたことを裏付けられる記述には出会わなかったと思います。「山北町史」で一覧化された村明細帳の記述の中には、「白炭」と「鍛冶炭」の名前が見られますので、求めに応じて炭を焼き分けるだけの技量をこの地方も備えていたことは確かでしょう。けれども、そうして出来上がった炭が他の地方から送られてくる炭と比較して特段に優秀であったことを評価する様な記述も見つかりませんでした。

それどころか、足柄上郡・下郡よりも内陸に当たる筈の津久井県の方が、相模川を使った水運を手近に使える分だけ、炭に悪影響を与える陸運の距離を短縮出来ることから、水運が使えない足柄上郡よりも有利な立ち位置にあったとさえ言えます。荒川番所の取り分が5分の1だったのに対し、川村関所の取り分が10分の1と荒川番所の半分だったのも、それだけ山から陸運で運び出すのが困難だったことを領主側も認識しており、こうした事情に配慮していたことを示しています。

足柄上郡や足柄下郡の図説では産物に「炭」が入らなかったにも拘わらず、山川編で改めてこれらの郡の村々が追加されたのは何故なのか、津久井県が産地として取りあげられなかった理由同様に不明です。一連の史料を見る限り、この記述をそのまま当時の相模国の炭の産地の分布として捉えてしまうことには、問題があると言わざるを得ないでしょう。

強いて想像を逞しくするならば、山川編で取り上げられた村々が何れも小田原藩領であったことから、国産方役所の影響を考えてみることは出来るかも知れません。「風土記稿」の編纂に当たっては小田原藩が少なからず協力したと思われること、その結果として産物の記述に少なからず影響が表れたのではないかという見解を以前披露しました。前回見た様に国産方役所は領内の炭の産出についても関与していたことが幾つかの文書に見えていますから、恐らく昌平坂学問所に渡されたであろう領内の産物の一覧には「炭」も入っていただろうと思われます。特に、東西山家の炭の産出については各村の記述にも見えないことから、これらの地の炭焼については国産方役所の様な外部の部署からの情報がなければ、書き加えられることがなかったのではないかと思えます。宮城野村の炭焼や土肥吉浜村の「真鶴炭」も、その過程で山川編で改めて取り上げ直されたのでしょう。

一方、津久井県の村々については幕領として韮山代官所が治めていた期間が長く、文政11年(1828年)に県内の11村が小田原藩領となったものの、太井村(この村は一部が藩領となった)にある荒川番所は引き続き韮山代官所の管轄でした。従って、荒川番所が取り立てていた炭の五分一銭はその後も幕府に納められたことになり、小田原藩は県内の炭の産地を多く所領に得ながらも、国産方役所としては実質的に権限を持ち得なかったことになります。あるいはそのことが国産方から昌平坂学問所へ伝えられた炭の産地の一覧に影響し、結果として津久井県が炭の産地から抜け落ちてしまったのではないか、というシナリオは考えてみることが出来そうです。

さて、ここまで愛甲郡の各村については敢えて触れずに来ましたが、次回はこの村々の炭焼の由緒について見る予定です。

スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【旧東海道】その14補足:小田原大海嘯にまつわる史料2点

以前明治35年(1902年)9月の「小田原大海嘯」についてこのブログで取り上げたことがあります。これに関連して、ネット上で公開されている史料を2点ほど見付けたので、補足として紹介しておきたいと思います。

1つは「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されている「明治三十五年九月二十八日神奈川県下暴風海嘯被害記事」です。奥付によれば「神奈川県測候所」が同年の11月14日付けで発行したもので、全28ページほどの簡潔な冊子ですが、非売品とされており、この冊子が何処に向けて配布されたものかは不明です。検索出来た範囲内では、神奈川県立図書館や県下の公共図書館では蔵書しているところはない様です。

以前の記事では「神奈川県災害誌(自然災害)」(横浜地方気象台監修 1971年)を引用しましたが、特に天気図や浸水地域図はこの冊子のこちらのページに掲載されている図と良く似ており、恐らくこの冊子を参照して作成いるものと思われます。この冊子にはまた、9月26日午後10時から29日午後11時までの気圧・気温・風向・風速・雨量・天気のデータ被害の一覧表が掲載されています。この一覧表も、「神奈川県災害誌」に掲載されているものと共通です。その他の著述部分も共通する部分が多いので、恐らく「神奈川県災害誌」がほぼ全面的にこの冊子に依存して該当箇所の記述を進めたのでしょう。


また、この冊子には「附・明治三十五年九月五六両日 神奈川県下小田原以西沿海激浪記事」と題し、小田原大海嘯の直前にやはり小田原沿海を襲った高潮被害についても併せて記されています。この時もやはり死傷者を出す災害となったことは以前の私の記事でも触れましたが、記事ではこの高潮の原因となった台風(この冊子では単に「低気圧」とだけ記されていますが)が8月31日頃に小笠原諸島を経て本土へと向かったものであったこと、そして来る台風に備えて小田原沿岸では急遽防波堤の修築を試みていたものの、功を奏しなかったことが記録されています。

もう1つの史料は、「土木学会附属土木図書館」で公開されている「土木貴重写真コレクション」です。ここには「小田原大海嘯」の被災各地の20枚の写真が掲載されています。

「土木貴重写真コレクション」に見える地名
「土木貴重写真コレクション」に見える地名
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この20枚が撮影されたとする地点をおおよそで地図上でプロットしました。複数枚撮影された地点もありますので、全部で12地点に留まっていますが、相模湾西側の幅広い地域に及んでいることがわかります。

これらの写真の中には鉄路が写っているものが少なくとも6枚(他に「山王原」2枚目にも線路らしきものが見える)含まれています。このうち、「国府津橋」(今の「親木橋」か、地形から西から東を見る構図)と「酒匂村」の2点は小田原電気鉄道のものでしょう。馬車鉄道から電気鉄道に切り替わったのが明治33年(1900年)ですから、その翌々年に損害を出したことになります。他方、「石橋」(2枚)「吉浜」「土肥村門川」の3点に見える軌道は「豆相人車鉄道」のものでしょう。この鉄道は明治28年(1895年)に熱海〜吉浜間で開業、翌年小田原までの延伸を果たしましたが、これは小さな客車を人が押して進むというものでした。どちらも海岸近くを進む江戸時代からの街道に併用軌道として敷設されていたため、高潮を被りやすい地域を進む区間が長くなり、その結果被害箇所が増えたと言えるでしょう。

特に「酒匂村」や「門川」の写真では、鉄路があらぬ方向にねじ曲げられているのが見て取れます。傍らの電柱(恐らく架線柱兼用)も同じ方向に倒れかかっていますから、架橋部分で高潮の強い水圧に押されて曲がってしまったものと思われます。「石橋」の1枚目の写真では路盤が大きく削られて線路が宙にぶら下がってしまっており、他にも地盤を削られたと思われるものや、家屋が歪んでしまったものが多数見られることからも、当日の高潮の威力が窺い知れます。

当日の様子を描いた「小田原大海嘯全図」と共に、この災害の実情を伝える貴重な写真と言えるでしょう。




2015年9月のストリートビューに見える
江の島弁財天道標
P.S. 以前お伝えした遊行ロータリー交差点の「江の島弁財天道標」ですが、先日新たにガイドが設置されたそうです。

遊行ロータリー交差点江の島弁財天道標 #藤沢キュン : 全部假的


今回はしっかりした内容の説明が付けられており、更に英語の説明が付記されました。

また、ストリートビューの方は2015年9月の撮影分が追加され、復旧された道標が確認出来ます。なお、交差点の形状が変更された影響で、前回までのストリートビューと完全に同じ場所で比較することは出来なくなっており、右のストリートビューは道標が見えやすい位置に移動させています。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「毛吹草」の相模国の産物にまつわる補足

前回の記事の中で、「毛吹草」の第4巻に記された相模国の「名物」を引用しました。そのうち、「鼠大根」について「鼠の手に似ているという」と書いている点を事実誤認と言わざるを得ないと評価しましたが、ここにはこれまでこのブログで取り上げた他の産物についても挙げられていますので、今回はそれらの産物について照合した上で補足を加えたいと思います。

「毛吹草」の該当箇所を再掲します。

相模

  • 鎌倉 柴胡(カマクラ サイコ)
  • 紅花(カウクハ)
  • (ネズミ)大根鼠ノ手ニ似リト云
  • 海老(エビ)伊勢海老ノゴトシ
  • 江島 江豚(エノシマノイルカ)
  • 小田原 海雀(ヲダハラノウミスヾメ)魚也
  • 透頂香(トウチンカウ)
  • 甲鉢(カブトバチ)
  • 十間坂(ジツケンザカ) 星下梅(ホシクダリノムメ) 日蓮宗數珠ニ用之玉ニ星一ツヽ有ト云
  • 大礒 盆山 敷石(オオイソニボンサンノシキイシ)五色ノ石有之
  • 禰布川 飛石(ネブカハノトビイシ)
  • 秦野野大根(ハダノノノダイコン)

(岩波文庫 新村出校閲・竹内若校訂版 169ページより)


著者である松江重頼は江戸時代初期の京の俳人ですが、家業は撰糸商人で、その傍ら宿も営んでいた様です。他の国の「名物」の一覧に絹織物や綿織物の名前が多いのは、あるいはそうした家業故に触れることが出来た知識だったのかも知れず、そうだとすると「三浦木綿」が取り上げられていないのもそうした商人としての目での評価であった可能性もありそうです。

正保2年(1645年)に刊行された「毛吹草」は江戸時代を通じて何度も版を重ねていたことが、「早稲田大学古典籍データベース」に収められた「毛吹草」の写本や刊本の多さ(この記事を書いている時点では「毛吹草」で検索して11件ヒットします)で見て取れます。上記の岩波文庫の翻刻は、現在まで多数伝えられるこれらの写本の中から最も古いと思われるものを底本として、極力原本に近いものを再現しようとしたことが「解説」に記されていますので、上記の引用に後代の追記や改変はないものと考えています。また、「毛吹草」よりも時代が下った磯貝舟也の「日本鹿子(にほんがのこ)」(元禄4年・1691年)に掲載された相模国の「名物」を見ると

同國◯相模名物出所之部

  • 大根秦野と云野原にあり、たねをまかずして、おのれといでくる也、
  • 鼠大根かまくら邊より出る、鼠の手ににたり、よつてかく云ふ、
  • 柴胡同所よりいづる
  • 紅花同所よりいづる
  • 海老( )世にかまくらゑびと云
  • 江島江豚(イカル)
  • 小田原海雀( )
  • 同鰹の(タタキ)
  • 同粕漬梅( )
  • 同足駄( )
  • 同外郞透頂香
  • 同夢想枕
  • 盆山敷石大いそより出る、五色の石也、
  • 川村材木
  • 十間坂星下梅日蓮宗數珠に用、玉に星一ツ宛有、
  • 飛石禰布川と云所より出る、小田原近所なり、

(「古事類苑データベース」より、体裁は適宜調整)

と、選定されている品目や表記、更に「鼠大根」の「鼠の手ににたり」という表現から、明らかに「毛吹草」を参照していることが窺え、その影響の大きさを見ることが出来ます。

鼠大根」は上記の様に認識に妙な部分があるとは言え、三浦の高円坊大根について江戸時代初期に京でその名を知る人がいたことを示しています。「三崎誌」がこの大根を「鎌倉の産にもあり」と書いたのは、著者の木村伝右衛門もまた俳人であったことから、やはり「毛吹草」の記述を意識していたのかも知れません。また、「毛吹草」では「波多野大根」についてもその名を記していますが、自生していることを意識して「野大根」という名前になっており、「日本鹿子」の方はその点について解説が付されています。こうした遠方の大根がわざわざ京まで運び込まれることが当時あったとは考え難いところですが、特に大根の場合は品種が多彩であることが意識されていたために各地の品種が遠隔地でも知れ渡っていたのかも知れません。

「毛吹草」ではこの一覧の筆頭に「柴胡」が挙げられています。「鎌倉柴胡」という表記になっていることから、「日本鹿子」では鎌倉産であることを強調していますが、「毛吹草」はその点については追記はありません。江戸時代前期に遡った時に、「新編相模国風土記稿」に記されている柴胡の産地とどの程度隔たりがあったかは定かではありませんが、「風土記稿」の三浦郡図説に「北条五代記」の引用として城ケ島で鎌倉柴胡を採っていたことが記されており、産地に多少変動があることは意識されていたと思われます。また、「新編武蔵風土記稿」の根岸村の表記に「これ當國の内に生するものながら鎌倉柴胡とて世に用る所なり」とあるところを見ると、時に「鎌倉」を「相模」に近い広い地域を指すものとして意識していた面もありそうです。ただ、「毛吹草」や特に「日本鹿子」では、実際の産地の広がりについてはあまり知識がなかった可能性は高そうです。

他方、大磯の「敷石」については、延宝4年(1676年)と比較的早い時期に同地の小島本陣家が御用を承って独占的に砂利を出荷していることが史料によって確認出来、更に後年の記録に京・知恩院へ献上した実績も残されている点が気になります。「毛吹草」が大磯の砂利について名を知っていたのも、あるいは史料で確認出来るよりももっと早い時期に、大磯から京や近辺の庭園に砂利が運び込まれたことあった、という可能性について考えてみたくなるところです。根府川の「飛石」についても、その用途が「飛石」に限定されて記されているところからは、やはり同様の可能性を考えてみたくなります。無論、どちらも更に史料の裏付けが必要ですし、逆に「毛吹草」が引き金になって京の寺社が庭園用の砂利を所望する様になったという可能性も考えてみる必要がありますが、松江重頼が相模国(や他の各国)の名産についてどの様に知識を得たのか、という課題は、この一覧を考える上では検討してみるべきと思います。

「毛吹草」に記された名産のうち、残りの品目についてはまだ他の史料との照合をしていないので、後日機会が出来たら触れたいと思います。このうち、小田原の透頂香(外郎)については「風土記稿」の足柄下郡図説や山川編の産物一覧にありますので、その際に改めて取り上げます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

松崎慊堂「慊堂日暦」から補遺2題

先日来読み返している松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」から、今回は以前の記事の補遺という位置付けで2題ほど取り上げます。

先日まとめた「新編相模国風土記稿」の足柄下郡の街道の中にあった「観音順礼道」について、酒匂川の「廻り越し」の抜け道に使った可能性があるという指摘をしました。「慊堂日暦」の中でも実際に酒匂川の渡しを渡らず、飯泉の渡しを渡ったと記している箇所があります。天保4年(1833年)6月の箱根湯治の往路の記述です。3日の分は以前一度引用していますが、前日の様子を併せて見る必要からその箇所を含めて再掲します。

三日 早に発す。朝霞は四散し、或いは雨兆ならんかと疑う。境木にいたれば、津和奈の東覲にて、輿馬は絡駅如(らくえきじょ)たり、十余万石侯なり。戸塚駅にいたり朝飧を食す。游行寺に入り、出でて橋南の青柳店にて小飲す。藤沢にて竹輿に乗り、南郷にて小飯す。輿夫継ぎ大磯にいたる、輿夫の勇吉は(たけ)六尺、郷藩の陸尺(りくしやく)の亡命してここに在る者(竹田の産)なり。また継いで梅沢にいたる。夜、小八幡の農家(権次郎)に宿す。箱嶺の烟雲は騰々たり、枕上に雨を聴く。

四日 雨晴れ、竹輿にて飯泉を渡る。午、宮下の藤屋勘右衛門に達し、装を東南室に卸す。室には秋七草図(南湖)を掲げたり。

秋草の中にまじりてなぶられな唐なでしこよ余所のものとて

真顔

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 331ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主、以下扱い同じ)


3日の天気は下り坂で、朝方の慊堂の予感が当たって夜半には雨が降り出してしまいます。翌朝にはその雨は上がった様ですが、ここで慊堂一行は酒匂川を渡るのに飯泉へと迂回したと書いています。

まずこの日の道筋を推測してみます。前の晩に泊まった小八幡(こやわた)は国府津よりも小田原寄りに位置しており、観音順礼道への岐路は既に行き越しています。その点では酒匂村まで東海道を進んでから酒匂道を経て観音順礼道へと入る道筋も考えることが出来ますが、小八幡村からの道筋として考えると遠回りです。最初から「廻り越し」の意図があったとすれば、多少東海道を引き返すことになっても観音順礼道へ直接向かってしまった方が、トータルでの道のりでは若干有利です。下の地図はその推定で線を引いてみました。

「慊堂日暦」天保4年6月の酒匂川の渡し「廻り越し」推定ルート
「慊堂日暦」天保4年6月の酒匂川の渡しの「廻り越し」推定ルート
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ここで気になるのが、慊堂が敢えて「廻り越し」をした理由です。慊堂は漢学者として藩主に仕えていた身分ですから、江戸時代には武士の身分として渡し賃を出す必要はなかった筈です。従って渡し賃を懸念しての行為ではあり得ません。

別の理由としては途上の「飯泉観音」詣でも考えられなくはありませんが、「慊堂日暦」には飯泉観音へ詣でたとは書いていません。わざわざ東海道から迂回してこの観音に詣でたのであれば、多少なりともこの観音について記していても良さそうですが、それもないところから見て、その可能性も外して良さそうです。

そうなると理由として一番考えられるのは、前の晩に降った雨による増水で「酒匂川の渡し」が「川止め」になっていることを懸念して、という点でしょう。雨は既に上がっていましたから、「川明け」の可能性に期待して「酒匂川の渡し」まで取り敢えず行ってみるという考え方もあったと思われますが、小八幡村の位置関係からは、そこまで行ってしまってから飯泉に迂回するのであれば、最初からそのつもりで飯泉へ行ってしまった方が良いという判断だったのではないかという気がします。勿論、こうした判断を慊堂が自ら行ったと考えるよりは、小八幡村の方で渡し場の配慮や迂回の道筋を行く駕籠の手配をしたのでしょう。

ただ、そうなると辻褄が合わなくなってくるのが「風土記稿」の「飯泉の渡し」の記述です。以前まとめた一覧に含めた通り、多古村の項には

◯渡船場 酒勾川にあり、對岸飯泉村に達す、故に飯泉渡と唱ふ、五月初旬より九月中旬に至り、渡船二艘を置て、往來を便す、冬春の間は、土橋を架せり、飯泉及當村の持、東海道酒勾川渡船より川上十九町を隔つ、彼渡し留れば、亦此渡しも留む、

(卷之三十四 足柄下郡卷之十三、雄山閣版より、強調はブログ主、なお「東海道酒勾川渡船」は原文ママ)

とあります。つまり、もし「酒匂川の渡し」が「川止め」になっているのであれば、それに応じて「飯泉の渡し」も「川止め」になっていることになっていて、何れにせよ酒匂川を越えることは叶わなかった筈です。勿論、これは「酒匂川の渡し」側が「廻り越し」によって不利な事態にならない様に、近隣の渡し場と取り決めたものです。「風土記稿」の足柄下郡の項の成立は首巻の凡例に記されているところによれば天保7年、慊堂の箱根行きの僅か3年後です。この取り決めは慊堂の箱根行きの時には既にあったと見て良いでしょう。

もっとも、「飯泉の渡し」は舟渡しですから、徒渉の「酒匂川の渡し」よりは多少の水位上昇に対して融通は効きそうです。実際にこの日の酒匂川の渡しが川止めになっていたかどうかは「慊堂日暦」の記述だけでは判然としませんが、あるいは本来の取り決めが必ずしも厳守されず、「酒匂川の渡し」の川止めをよそに「飯泉の渡し」が密かに営業を続けていた状況があったのかも知れません。この辺りはもう少し事例を集めてみたいところです。




もう一題、先日「慊堂日暦」の「雁来紅(はげいとう)」を取り上げましたが、その続きです。

天保10年(1840年)、明和8年(1771年)生まれの慊堂は数え年で70歳になっていました。その年の8月28日に箱根に湯治に出かけ、9月13日に江戸へと戻ってきます。その帰宅した日について次の様に記されています。

十三日 陰。暁、発して大森站に抵れば天始めて暁なり。巳刻、荘に帰る。小雨。児孫門生、出てて謁して各々平安を賀す。窓を開けば、老少年鶏冠花は正に盛んにして、籬菊(りきく)はなお未だ開かず。夜、洞泄(どうせつ)二行。月なし。

(「慊堂日暦5」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫377 303ページより)


畫本野山草[3] 葉鶏頭
橘保國「畫本野山草」より「葉鶏頭」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
畫本野山草[3] 鶏頭花
同じく「畫本野山草」より「鶏頭花」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

帰り着いて庭を見れば、植えてあったけいとうやはげいとうが花盛りになっていた、という訳です。「籬菊」は垣根の菊のことですから、この文章自体は単に花壇を愛でていると見るべきでしょう。しかし、文政11年(1828年)4月の記述と合わせてみれば、これは食草とする意図を兼ねて植えていたことになりそうです。もっとも、「慊堂日暦」では時に庭に播種した植物についての記録が見えることがありますが、この年の記録では「老少年」や「鶏冠花」を何時蒔いたのかは見当たりませんでした。

既に高齢に達していた慊堂はこの年特に体調が優れなかったことが日記から読み取れます。下痢や熱に悩まされ、終日臥していたという記述が多く見られます。そこに同年の4月に門人であった渡辺崋山が獄に入れられたことを知らされ、崋山の身を案じて消息を様々な人に訪ねて廻ったり、老中水野忠邦に建白書を送ったりしています。その建白書が届けられた際の様子を、当時水野忠邦が領有していた浜松藩の藩校で経誼館の儒官を務めていた小田切藤軒に尋ねた日には、次の様に記されています。

(注:八月)五日 雨未だ止まず。勉強して藤軒に赴く。藤軒は迎えて云う。二十九日に書至り、持して相公〔水野忠邦〕に呈せり。公は従頭一覧し、徹底して云う、風聞は当るあり、当らざるあり、当るところは領略(りょうりゃく)せり。老人がこの事のために焦労小ならずと聞く、云々と。主人は蕎麦を供す。腹候のための故に、多食すること能わず。雨を()いて辞去して荘に帰る。

(「慊堂日暦5」295ページより)

この日も腹痛をおして雨中出向いていた様で、出された蕎麦もあまり食べられなかった様です。

こうしたことから察するに、この年の箱根行きは、恐らくはそうした心身の不調を少しでも和らげたいという意図があったのでしょう。しかし、滞在中も腹痛や感冒に悩まされていたり、上記にも「洞泄」とある通り帰宅早々に再び激しく下すなど、あまり効果のある湯治ではなかった様ではあります。帰宅時に花を付けていたけいとうやはげいとうも、そうした体調の中で12年前に同門から聞かされた植物のことを思い起こして、何かしらの効能を期して植えたものだったのかも知れません。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

相模国の山菜について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続いて、今回も「新編相模国風土記稿」に記された「蕨」「薇」「独活」「薯蕷」について見ていきます。

神奈川県史」や県内の市町史で確認した範囲では、これらの作物が村明細帳に現れる例は次の通りです。
  • 塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年九月 塚原村明細帳(村鏡、[南]131ページ)

    一御厨わらびつけ野寺四郎兵衛殿御使番之御中間衆毎年被参候、(シヲ)わらびつけ桶ノ馬三疋宛出シ関本村付送仕候、下りハわらび樽持人足八九人宛田古村村次仕候、

    一御厨ヨリ御勘定所参候山のいも、御厨御代官衆御配苻次第人足出し、田古村ヘ村次仕候、

  • 飯沢村(現:南足柄市飯沢):寛文十二年七月 飯沢村明細帳([南]455ページ)

    一御用之山ノいも、御配苻次第毎年出申候、

  • 苅野一色村(現:南足柄市苅野):貞享三年四月(九日) 苅野一色村明細帳(村指出シ、[南]668ページ)

    一御用之山之いも、御用次第納申候儀も御座候得共、近年ハ納不申候、

  • 皆瀬川村(現:山北町皆瀬川):貞享三年四月 足柄上郡皆瀬川村明細帳(指出帳、[県五]488ページ)

    一うど拾八九年以前美濃守様御代御赦免被遊候、

    一わらび拾八九年以前美濃守様御代御赦免被遊候、

    一山いも三年以前丹後守様御代御赦免被遊候、

  • 菖蒲村(現:秦野市菖蒲):貞享三年四月菖蒲村明細帳([秦]163ページ)

    一薯蕷御用次第出し。

  • 穴部村(現:小田原市穴部):貞享三年四月(八日) 足柄下郡穴部村明細帳(御指出シ帳、[県五]519ページ)

    一御用之山之芋此以前御配苻ニ而納候儀御座候、近年納不申候、

(出典略号は次の通り:[秦]…「秦野市史 第2巻 近世史料1」、[南]…「南足柄市史2 資料編近世(1)」、[県五]…「神奈川県史 資料編5 近世(2)」、塚原村については薯蕷の差し出しについて上記書134ページにも記載があるが省略)


寛文12年・貞享3年村明細帳に山菜・薯蕷の記述がある村々
上記村明細帳を書いた村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
共通しているのは、これらの明細帳が何れも小田原藩の稲葉氏統治下の事情を書き記していることです。稲葉氏が取り立てていた正月飾りについて紹介して以来、寛文12年(1672年)や貞享3年(1686年)の明細帳は各種産物の紹介の折に都度取り上げてきました。それらの稲葉氏の取り立てていた品目の中に、「わらび」「うど」「やまのいも」が含まれていた訳ですね。但し、苅野一色村や皆瀬川村の様に明細帳提出時点では赦免されていたり、菖蒲村の様に必ずしも毎年納めていた訳ではない村も含まれています。

この中でも塚原村はわらびについて具体的なことを書いているのが当時の実情を知る上では貴重な記録です。採ったわらびは「わらび漬け」にして、藩からの使者に応じて馬を3頭立てて関本村に継いでいたとしています。恐らくはそこから更に足柄道の継立によって藩主のもとに届けられていたのでしょう。用の済んだ樽は村へ送り返されており、それを取りに行く人足のことまで書いています。薯蕷については掘ったものをそのまま納入したのでしょうが、これも多古村(現:小田原市多古)へと継送りしていたことを記しています。

こうした貢上がこれらの産品に対して何時頃まで行われていたかは記録に現れるものは見当たりませんが、恐らくは正月飾りなどと同じ頃に実質的に廃止されているのではないかと思われ、その後の明細帳類ではこうした記録がなかなか拾えなくなっています。

他方、前回は取り上げませんでしたが、箱根の「七湯の枝折」でも「蕨」「独活」そして「狗脊」が箱根山中で、とりわけ宮城野村や仙石原村などで豊富に採れたことを、産物の部だけではなく木賀の部でも記しています。
  • 巻ノ七 木賀の部:

    ○一体此木賀ハ湯宿の外に商人屋少ししかれとも湯宿また何によらす貯置ゆへ不自由なる事なく別てこの所ハ宮城野仙石ニノ平へ近けれバ春の比ハ狗脊生推葺蕨独活の類多し四季ともに野菜ハみなかの村々より爰にひさく故にもの事たよりよし

  • 巻ノ十 産物之部:

    一狗脊 筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

    一蕨  同じく宮城野辺多し

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 47、71ページより)


恐らくは「風土記稿」の宮城野村の記述も、「七湯の枝折」のこうした記述をも参考にして書かれたものでしょう。「七湯の枝折」では2箇所で「狗脊」と書いており、それが他の山菜類と同列に扱われていることからみても、やはりこれは「ぜんまい」の意で書いているものと思われ、「風土記稿」もこの表記にそのまま従ったのでしょう。

そして、こうした山菜類は箱根に湯治で滞在した紀行文などに時折登場してきます。例えば、「木賀の山踏」(竹節庵千尋著、天保6年・1835年)では

(注:天保六年三月)明る廿二日、朝のうち曇りて日影も見す、昼過る比より折おり日の御影見ぬ。小田原の三笠屋のあるし、そか妻なるものをゐて早蕨(さわらひ)なとつみに往んとて連たち往ぬ。予も妻なるものをゐて小地こく山の近きあたりにてせんまい、わらひなととりぬ。この山の裾通萩はらにて、今は立枯しをおし分つゝ爪先登りに往て

立のほる煙り絶へせぬ小地獄の

山の麓にもゆる早蕨

せんまいも蕨もゝえて紫に

秋はさこそと見ゆる萩はら

やいとにはならぬ(よもぎ)も紫の

ちりけのあたりもゆる若草

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 416〜417ページより、強調はブログ主)

と、宿泊客が小地獄(今の小涌谷)にわらびやぜんまいの採集に出かけていることを記しています。「木賀の山踏」ではこの10日前の12日には「娵菜、たんほ、つくつくし」を摘み取りに出掛けています(同書407ページ)。つまり、湯治客のレクリエーションの一環で山菜採りが行われていた訳ですね。また、山菜採りに来ていたのは湯治客だけではなく、麓の小田原の街からも夫婦揃って山菜採りに出掛けて来ている訳ですね。

無論、無償で採り放題をやっていた訳ではなかった様で、天保15年(1844年)の高座郡辻堂村(現:藤沢市辻堂)の名主茂兵衛の「入湯小遣帳」には、同年の木賀温泉の滞在時の出費の記録の中に

四月朔日

一、弐拾八文          小入用

一、七文            わらび/ふき

二日

一、七文            ふき 八わ

一、十八文           うど

一、四文            わらび 壱わ

三日

一、十弐文           じねんじゃう 壱本

七日

一、六文            ふき 三わ

(「藤沢市史 第2巻 資料編―近世編」995〜996ページより、一部改行を/にて置き換え、…は中略)

とあり、採った分に対して個別に対価を払っていた様です。「じねんじゃう(自然薯)」は「薯蕷」のことと見て良いでしょうが、そうすると箱根の「やまのいも」は栽培したものではなく自生しているものを掘り出したのでしょう。

また、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」では、天保5年(1834年)の3月20日〜4月7日に箱根に滞在した記録が見られるのですが、その中で同行の2名がわらび採りに出掛けたことを書いています。

(注:三月)二十二日 晴、温。午陰。玄章と家児とは、出てて塔沢の渓流を()えて前山(明神岳)に登り(わらび)を採る。蕨は未だ多からず。帰って云う、絶頂にて望むところは極めて(ひろ)しと。また云う、小田原城は目中に在り、封内の人は往来することを得るも、外の人は上るを許さずと。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 79ページより、…は中略、傍注はブログ主)


この年はわらびの出が良くなかったのでしょうか。滞在先の宮の下から明神岳はかなり離れていますが、少々遠出をしないと目ぼしいわらびが見つからなかったのかも知れません。だからなのでしょうか、本来は要害の地として地元の人以外の立ち入りが禁じられている筈の場所にまで立ち入らせてわらびを採りに行った、と記している訳です。無論、素性の確かではない一見さんにまでこの様な「リスク」のある案内は恐らくしなかったでしょうが、この時点で既に幾度と無く箱根を訪れている慊堂の付き添いであれば身元に間違いはあるまいと判断して、宿の主人が特別に案内させたのかも知れません。こうした要害地への湯治客の誘導がどの位の頻度で行われたのかはわかりませんが、少なくともその様な指定を受けた場所であっても、箱根で生活する人々にはこうした産物を見出だせる土地として引き続き認識され続けていたことは確かな様です。

こうして見ると、特に箱根の湯治場にとっては、これらの山菜類は湯治に滞在する客向けの「春の風物」として演出できる格好の産物であったことが窺い知れます。その点では「風土記稿」に記されたこれらの産物のうち、特に宮城野村や仙石原村について記された分については、こうした実情を考慮して記録されたと見ることが出来そうです。
本草図譜巻49「蕨」
「本草図譜」より「蕨」
図上の訓は「けつ」だが
前ページに「わらび」の訓が併記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
本草図譜巻49「薇」
「本草図譜」より「薇」
こちらも図上の訓は「ひ」だが
前ページに「ぜんまい」の訓が併記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

本草図譜巻50「薯蕷」
「本草図譜」より「薯蕷」
「一種 じねんじゃう」と付記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
しかし、基本的には相模国内でも山間であればかなり広範囲で採集出来るものばかりであり、「風土記稿」の記述も津久井県や三竹山・久野村の記述が含まれるなど、相模国内の産地の選定の基準にやや不安定なものを感じます。また、表記にも一部不一致がある上に、「青芋」の時には「里芋」の呼称を俗称として本草学での呼称に拘っているのに、同じく本草学が否定する「狗脊」や「独活」の表記についてはそのまま使用するという点でも不統一が見られる状況に陥っています。

以下は個人的な見解なのですが、恐らくは「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所の面々が、これらの産物に対してはあまり明るくなかったことが、こうした混乱の要因なのではないかという気がします。「里芋」であれば、江戸市中でも普通に見かけることが出来る産物だったでしょうから、昌平坂学問所でも「実物」のイメージを持ちながら本草学の指摘を読み解くことが出来たでしょう。これに対し、わらびやぜんまい、うどについては江戸で目にできるとすれば既に漬物や干物になった状態であったでしょう。早蕨が山中でどの様に生えているかを知るには、その時期に山に入らなければ適わないことで、江戸詰めの武家が主体の学問所の面々には意外にそうした経験が少なかったのではないか、と思われます。その結果、地誌探索で村々から上がってくる産物の中に「狗脊」や「独活」の様な表記があっても、それを本草学での表記に合わせて統一的に書き換えることが充分に出来ず、多少混乱した表記のまま残ってしまったのではないでしょうか。

他方、津久井県の項を編纂したのは八王子千人同心ですが、彼らの本拠は八王子にという比較的山間に近い街場にあった上、個々の成員は基本的には周辺の各農村に居住していました。つまりその分だけ、昌平坂学問所よりは山間の産物について元から知識があったと考えられ、わらびについての記述も各村の報告を元に無理なく行えたのでしょう。この津久井県の分は他の郡の編纂に先立って行われて昌平坂学問所に納入されていましたので、あるいは学問所の面々も津久井県の記述に影響される形でわらびなどの山間の産物を積極的に記録する結果になったのではないかとも思います。

但し、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)の記すところでは、
  • ワラビ Pteridium aquilinum (L.) Kuhn var. latiusculum (Desv.) Underw. ex A.Heller

    県内では沖積地から山地まで分布し、日の当たる場所に生育する。(42ページ)

  • ゼンマイ Osmunda japonica Thunb.

    県内では全域に普通にみられる。(30ページ)

  • ウド Aralia cordata Thunb.; A. nutans Franch. & Sav., Enum. Pl. Jap. 2(2): 376-377 (1878) の基準産地は箱根

    県内では低地から山地までの林縁、樹林内の傾斜地、崩壊地などに普通。(1054ページ)

  • ヤマノイモ Dioscorea japonica Thunb.

    県内ではほぼ全域に分布する。シイ・カシ帯〜ブナ帯までの沖積地〜山地の林縁、路傍、畑縁、あきち、公園の植林帯などに普通に生える。(230ページ)

前回取り上げた「本草綱目啓蒙」や「農業全書」の記すところに反して、意外に江戸に近い丘陵地でも見掛けるものなので、その点ではこうした見解は当たらないかも知れません。また、江戸時代後期には立川や吉祥寺の辺りでうど栽培が行われていたので、昌平坂学問所の面々がこうした野菜に疎かったというのも些か腑に落ちない面もあります。この辺りはもう少し視野を広げて、特に江戸近郊の当時の事例を集めて更に検討する必要がありそうです。


因みに、箱根が江戸時代の紀行などに見える様な「山菜採り」を売りにするということは、現在では殆ど見られなくなっています。「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている明治初期〜中期の箱根の案内本を数点当たってみたものの、「七湯の枝折」を書き写したもの以外はこれらの山菜について記したものを見つけることが出来ませんでした。何時頃から消えたのかはわかりませんが、基本的には箱根に長期にわたって滞在する湯治客向けの「春先のレクリエーション」であったと言えそうですから、滞在期間の短縮や宿泊客の変遷がこうした風物の興亡に影響したのかも知れません。

次回はわらびや薯蕷の関連する民話を取り上げてみる予定です。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

NEXT≫