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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その2)

前回の記事に引き続いて、先月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索で新たにヒットする資料をもとに、何か新たな発見があるかどうかを試してみます。

今回は前回の「馬入橋」を受けて、「酒匂橋」を取り上げることにしました。酒匂橋につては馬入橋ほどに落橋を繰り返した記録は残っていないものの、明治から大正にかけての経緯については更に探すべき史料が存在する可能性も感じているからです。


酒匂橋酒勾橋馬入橋
明治1〜10年
(1868~77年)
0件0件0件
明治11〜20年
(1878~87年)
0件0件4件
明治21〜30年
(1888~97年)
5件5件7件
明治31〜40年
(1898~1907年)
19件7件23件
明治41〜大正6年
(1908~1917年)
29件7件9件
大正7〜昭和2年
(1918~1927年)
42件23件37件
ひとまず「デジタルコレクション」上で「酒匂橋」と入力して検索すると441件の資料がヒットします。結果を絞り込むため、明治元年から10年区切りで分類すると、右の表の様になります。比較のために馬入橋のヒット件数も併せて表にしてみます。更に、「新編相模国風土記稿」で「酒匂」の表記は「酒勾」の誤りであるとするなど、「酒勾橋」の表記に拘った資料も存在するため(全体で91件)、こちらについても同様にヒット件数を一覧化しました。

ヒットした資料の出版年が早いのは馬入橋の方ですが、その後の件数の伸びという点では、「酒匂橋」と「酒勾橋」を足した件数の方が多くなっています。OCR精度の課題はありますので、この件数も多少の誤差はあると考えられますが、それぞれの検索キーワードに対して誤差が同じ様に出ると考えると、件数の分布の傾向については大筋でその通りに読み取って良いのではないかと思います。

ヒットした資料を点検して見えた傾向からは、「酒匂橋」や「酒勾橋」のヒット件数が「馬入橋」より増えた最大の要因は、文芸作品での登場回数が意外に多いという点にある様です。中には単に酒匂橋を通過したことを記す程度のものもあります(「千歳之鉢(ちとせのはち)」泉鏡花著 「柳筥」所収 明治42年 春陽堂、「箱根撮影記」田山花袋著 「花袋紀行集 第1輯」所収 大正11年 博文館 など)。しかし、酒匂橋周辺の景観を愛でるものも少なからず見つかります。こうした事例から数点引用してみます。

電車(でんしや)(うご)()した。停車場(すていしょん)(わき)から大迂廻(おほまはり)して國府津(こふづ)(くわん)(まへ)()ると、それからは(のき)(ひく)(ちひ)さな(いへ)ばかり(なら)むだ狹苦(せまくる)しい(まち)(とほ)ッて、二條(にでう)軌道(れいる)(はし)ッて()く。酒匂橋(さかはばし)(ところ)まで()ると、(きふ)四邊(あたり)(ひら)けた。(ひだり)には相模(さがみ)(うみ)眞近(まぢか)(たゞよ)ふて()る、(みぎ)には箱根(はこね)連山(れんざん)畑田(はたけ)(へだ)てゝ(そび)えて()る。(さむ)(はず)だ、孖山(ふたごやま)(いたゞき)には(ゆき)化粧(けはひ)して、それより(たか)山々(やまやま)凍雲(とううん)(つゝ)まれて()る。

(「唯一人」柴田流星 著 明治42年 左久良書房 243ページ)

春月や歩めば長き酒匂橋  ルイ笑

(「春月(募集俳句其一)※」から 「ホトトギス」第12巻第7号 明治42年 ホトトギス社 所収 74ページ上段後ろから4行目。なお、「袖珍新俳句※」(有田風蕩之 (利雄) 編 明治44年 博文館)に同じ句が掲載されている(52ページ後ろから8行目)。)

酒匂橋(さかはばし)(ちか)くなりて、相模(さがみ)の山々に(ゆき)(しろ)(つも)りたるを

酒匂橋(さかはばし)わたるたもとにかゝりけり

さがみの山のゆきのしらゆふ

(「()めぐみの(あめ)※」弘田由己子著 「わか竹」第8巻第4号 1915年4月 大日本歌道奨励会  所収 50ページ)

國府津(こふづ)から小田原(おだはら)への一里半(りはん)は、三四の部落(ぶらく)半農半漁(はんのうはんぎょ))と松並木(まつなみき)とが交錯(かうさく)して、(また)(かは)つた(おもむき)()せてゐる。酒匂橋(さかはばし)(うへ)眺望(てうばう)は、すでに定評(ていひやう)があるから()かぬ、月明(げつめい)(まつ)葉越(はご)しに富士(ふじ)(なが)めて、(ほし)漁火(ぎよくわ)との文目(あやめ)もないなどは、興趣油然(きやうしゆいうぜん)たるを(きん)ずることができぬ。(しか)しカメラマンとしては橋上(けうじやう)眺望(てうばう)よりも、()(はし)主人公(しゆじんこう)としての(こうづ) (ママ・「図」欠か)手腕(しゆわん)(ふる)ふべきであらう。それは左岸(さがん)(すなは)酒匂(さかは)(はう)からするが()い、海岸(ルビ判読不能)に三(きやく)()てゝ(やま)背景(バツク)とし、(ある)ひは土手(どて)から(うみ)背景(バツク)として白帆(しらほ)添景(てんけい)する、(いづ)れにしても對岸(むかふぎし)(はし)(すそ)(おほ)きな(まつ)東海道(とうかいだう)並木(なみき))があつて、構圖(こうづ)引立(ひきた)てゝくれる。

(「東京近郊寫眞の一日」松川二郎 著 大正11年 アルス 94〜95ページ、強調及び傍注はブログ主)



松濤園跡地。現在は社会福祉法人施設になっている。
ストリートビュー
また「酒勾の一日※」(菜花野人著 「むさしの」第2巻第9号 1903年 古今文学会 所収 11〜14ページ)や「新婚旅行日記※」(靄霞女史著 「性」第2巻第5号 1921年 天下堂書房 所収 480〜483ページ)では、酒匂橋近くにあった「松濤園」に数日間滞在しながら酒匂周辺や小田原・箱根へ足を伸ばした旅行の様子が描かれています。松濤園は現在は営業は行っていませんが、当時は貸別荘として営業していました。

これらの文芸作品での表現から、この頃には酒匂橋近辺が観光の拠点として機能していた様子が見て取れます。また、「花(二)※」(眞下喜多郎著 「ホトトギス」第27巻第8号 大正13年 ホトトギス社 所収 26〜30ページ)では、松濤園に滞在しながら周辺を散策する中で、ちょうどコンクリート橋に架替工事中だった酒匂橋の様子が伝えられています。

Odawara Gyosho Tokaido.jpg
「行書版東海道」中の「小田原」
歌川広重 - ボストン美術館,
パブリック・ドメイン, Wikimedia Commonsによる)
東海道五十三次 小田原 酒匂川-Odawara MET DP122890.jpg
「隷書版東海道」中の「小田原」
歌川広重 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。,
CC0, Wikimedia Commonsによる)

酒匂の周辺が眺望スポットであることを記した江戸時代の紀行文などは、私が知る限りでは見ていません。大磯宿から小田原宿にかけては間が4里と他の区間に比べて距離が長い上に、渡し場で時間を取られる、小田原を箱根越えに備えて宿泊地とするケースが多いことから日没近くにこの区間を通行することが多いなどの要因が重なって、風景を愛でるほどの時間の余裕が乏しいことが理由として考えられそうです。

しかしながら、歌川広重が最初に保永堂版「東海道五十三次」で小田原を描く際には、酒匂川の渡しを俯瞰しながら遠方の箱根方面の山々を描く構図を採用しています。以後広重が東海道を繰り返し描く中で、「行書版」「隷書版」「双筆五十三次 (広重と三代豊国との合作)」「人物東海道」「東海道風景図会」の計6作品で、酒匂川の渡しと箱根の山々を描く構図を採用しています。広重が何故小田原の風景としてこれほどまでに酒匂川の渡し場に拘ったのか、その理由については詳らかにされてはいません。しかし、時代が下って酒匂橋付近からの眺望が愛でられる様になったことと併せて考えると、あるいは広重もこの眺望に惹かれて酒匂川の渡し場の風景を描き続けたのかも知れません。



「酒匂橋」や「酒勾橋」でヒットした資料の中には、「馬入橋」で見られた「官報」が含まれていないことが1つの特徴です。このことは、酒匂橋の損傷や落橋の報告が、馬入橋の様には中央政府に上がっていないことを意味しています。これまで私が調べた範囲でも、酒匂橋は馬入橋ほどの損傷を受けた記録があまり出て来ない傾向がありました。「デジタルコレクション」のヒット結果も、ある程度この傾向を裏付けていると見ることが出来ます。

その主要な要因と考えられるのが、明治20年頃からの箱根登山鉄道の前身に当たる「小田原馬車鉄道」の敷設、更に「小田原電気鉄道」への更新です。委細はこちらの記事で検討しました。継続的な収入を見込める鉄道事業が架橋や修繕の費用を応分に負担していたことが、酒匂橋の維持に少なからず貢献していたのではないかということです。

「日本写真帖」(田山宗尭 編・明治45年)より「酒勾橋」
「日本写真帖」(田山宗尭 編 明治45年刊)より
「酒勾橋」
撮影年は不明だが
小田原電気鉄道開業後の明治33〜44年に絞ることは出来る
写真帖では「勾」表記だが親柱は「匂」である様に見える
(「デジタルコレクション」より該当箇所切り抜き)
その見立てを補強してくれそうな資料が、「デジタルコレクション」上でヒットした中に1点確認できました。「工学会誌」第230巻(明治34年5月 工学会刊行)所収の「論說及報吿 小田原電氣鐵道工事槪要※」(武永 常太郞著)です(261〜297ページ)。それまでの馬車鉄道を電気鉄道に更新する際の工事の内容が仔細に記録されており、その中には酒匂橋を含む全ての橋梁の工事も含まれています。

ここではまず「◯橋梁ノ支持力計算※」(290〜291ページ)の項で10トンと想定されている電車の重量に耐えられる橋桁の太さが見積もられています。続く「◯橋梁の材料」(291ページ)では橋に使用する木として「槻、杉、栗、松」が使われた箇所が具体的に記述され、更に橋台に使用された石材の寸法などが仔細に記されています。そして、「◯橋梁ノ數及小橋架設法一斑※」及び「◯各橋の幅員」(292〜293ページ)で、酒匂川の川幅が「百九拾六間」(約356m)であること、酒匂橋は「長千百七拾六尺杭木三本建四十八枠高水中沼入共貳拾尺橋台鏡通上口拾貳尺高拾八尺敷拾六尺妻手上口四尺高拾八尺敷六尺砂利止石垣妻手共長拾九尺高一尺七寸」と大きさが仔細に記されています。

更に「◯其架設費」(293〜294ページ)で酒匂橋の架橋に「金七千貳百九拾四圓六拾一錢五厘」を要したことが記されていますが、全21橋の架橋に「金三萬貳千八百六拾五圓五拾三錢四厘」を要していますから、酒匂橋がその22%を占めていること、更に「◯增資確定、社名改稱、並ニ工事進行※」(264〜265ページ)で増資額が「四拾壹萬五千圓」とされていることから、橋梁工事全体で増資分の8%ほどを費やしていることになります。

当時はまだ自動車が走っていたのは東京や横浜のごく限られた地域のみでしたから、電車が橋梁に掛ける荷重は当時橋を渡っていく人馬などに比べて桁違いの重さを掛ける唯一の存在であったことになります。更に橋上に鉄路を敷設したり架線柱を設置する必要があるので、その分も橋に掛ける荷重に加わることになります。こうした状況への対処のために、小田原電気鉄道がその敷設に当たって酒匂橋をはじめとする各橋の架設にかなり重点的に労力を割いた実情が、この資料でかなり明らかになると思います。

もっとも、その後も度重なる水害で酒匂橋も損傷を受け、都度修繕に追われていたことはこのブログでも取り上げました。その様子の一端を伝える文章も、「デジタルコレクション」の全文検索で新たに見つかりました。

酒匂橋(さかはばし)の富士、足柄野、箱根(はこね)の山と、眺望は種々(いろいろ)に動く、橋は今夏の洪水(こうずゐ)で危く流失せんとしたのを丸太(まるた)や板で膏藥(つくろ)ひをしたままである。向岸は(なが)れたので架け()へたものの是れも()りに一時と云つた(ふう)である流は淸く石は(しろ)し。

(「東海道名所探訪記※」眞山靑果著 「学生文藝」第二巻第五号 1911年 聚精堂 所収 36ページ、くの字点は適宜展開)


こうしたこともあり、架橋の費用については次第に神奈川県が負担する方向に傾いていきます。こうした動向について記した資料も新たに1点見つけることが出来ました。

彼の酒匂橋も昨年十一月、通常縣會で改修が議决になりましたに付まして、土地の靑年が戌申詔書の御趣意に基き、本縣知事の告諭の下に成立しました、勤儉事業の手始めに河床確定の爲め、土砂を利用して護岸設備に着手するとのことで一千内外の靑年が新年匆々の大活動と申す譯でござりますから幾分の興味もあらうと存じまするし。

(「新譯觀音經㈡※」勿用杜多著 「六大新報」第334号(明治43年2月6日)六大新報社 所収 11ページ)


なお、大正12年(1923年)には関東大震災が起こり、同年7月にコンクリート橋に切り替えられたばかりの酒匂橋も全損してしまいます。「デジタルコレクション」でも、この時期以降には震災報告書の類が急増しています。その中から、次の旅行案内記は震災後も景色の魅力を喪っていないことを記している点を汲んで1点のみ引用します。著者は上記「東京近郊寫眞の一日」と同じ人物です。

酒匂橋(さかはばし)はコンクリート(つく)りの白色(はくしよく)立派(りつぱ)(はし)であつたが、震災(しんさい)(ため)木葉(こつぱ)みぢん破壊(はくわい)せられて、(いま)工兵隊(こうへいたい)()けた木橋(もくけう)()()わせてゐる、(しか)()橋上(けうじやう)風光(ふうくわう)(なほ)()てがたく、月明(つきあかり)(まつ)()()しに富士(ふじ)(なが)めて、海上(かいじやう)(ほし)漁火(ぎよくわ)との文目(あやめ)もないなどは、興趣油然(きやうしうゆぜん)たるを(きん)ずることができない。旅館(りよくわん)松濤園(せうたうゑん)別荘(べつそう)(ふう)()(かた)松風(まつかぜ)(なみ)のひゞきとが(まくら)(かよ)ふのがうれしい。

(「土曜から日曜 改版」松川二郎 著 大正14年 有精堂書店 27ページ、傍点は下線で代用)




ところで、上記で「酒匂橋」と「酒勾橋」のヒット件数を示しました。これだけを見ると、「デジタルコレクション」中ではそれぞれの漢字表記で個別に検索を行っているかの様に見えます。しかし、検索結果を追っていくと、実際は必ずしもその様にはなっていないことがわかります。
「酒匂橋」で検索
「箱根大観」がヒット
「酒匂橋」でヒットした中に「箱根大観」が含まれているが…
ヒットしたのは「酒勾橋」
該当箇所の表記は「酒勾橋」になっている。

その1つの例が「箱根大観」(佐藤善次郎、森丑太郎著 明治42年 林初三郎刊)の中に見られます。ここでは「酒匂橋」で検索を行っており、「箱根大観」の検索結果にはOCRテキストの一部も表示されていることから、確かに「酒匂橋」でヒットしたことがわかります。しかし、該当箇所(6ページ)を見てみると「酒勾橋」の表記が「酒匂橋」と置き換えられたものであることがわかります。

OCRテキスト中で「酒匂橋」「酒勾橋」の表記をそれぞれ堅持すべきなのか、それとも「酒匂橋」に統一すべきなのかは、使い勝手という点では一長一短あることですので、一概に決められることでは必ずしもありません。しかし、蔵書全体をOCRで処理する前にどちらを選択するかをポリシーとして決めておき、そのポリシーに一貫して準拠して処理を進めるべきではあります。他の検索結果を見ると基本的には「酒匂橋」「酒勾橋」それぞれの表記個別に検索が行われている様に見えるものの、一部にそれと異なるポリシーで処理されたものが混ざっている様です。

何故この様な状況が起きているのかはわかりませんが、別の事例では明らかに誤植と思しき箇所を何らかの方法でOCR結果を修正したと思しき箇所も見つかっていることから、あるいはOCR結果をレビューして修正する過程でこの様な事例が紛れ込む結果になったのかも知れません。今のところ要訂正箇所の報告を受け付ける専用の窓口は引き続き設けられていませんが、こうした事例については折を見てOCRの精度向上に努めて欲しいところです。

もっとも、中には資料自体に明らかに誤植があるものを「正しく」直したと思われる例も見つかっており(「大筥根山」井土経重著 明治42年 丸山舎書籍部、「匃」の様な字が使われている)、この様な例も含めてどの様なポリシーを設定すべきなのかは、なかなか悩ましいものがあります。

次回更にもう1回、別の検索事例を紹介したいと考えています。
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「春日局から稲葉正則宛の書状に見られる「雲雀」を巡って」再考

以前、春日局から稲葉正則に出された書状に見られる「雲雀」と「鮎ずし」をめぐり、主に正則の鷹狩について検討しました。この書状が出された寛永20年(1643年)には正則はまだ20歳という若さでしたが、この「雲雀」を得るためには鷹狩をしたと考えられるものの、実際に正則がこの年に鷹狩を行ったことを裏付ける史料は他に見当たらないことを指摘しました。

Kasuga no tsubone.jpg
春日局(再掲)
麟祥院所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
Inaba Masanori.jpg
稲葉正則(再掲)
稲葉神社所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons

しかし、正則がこの時点で鷹狩を行ったとすると、ある問題点に突き当たることについてはこの記事中で検討していませんでした。今回はその問題点を改めて取り上げて、この書状の持つ意味をもう一度考えてみたいと思います。

ある問題点というのは、江戸時代には基本的に鷹狩は将軍の許可なく行い得ず、そのための鷹場を拝領する必要があったことです。「江戸幕府放鷹制度の研究」(根崎 光男 2008年 吉川弘文館)では、江戸時代初期、特に寛文期の鷹場の下賜について、仙台藩伊達氏の事例を挙げて次の様に指摘しています。

慶長六年(一六〇一)九月、伊達政宗は諸大名に先駆けて家康から恩賜鷹場を下賜され、その領域は武蔵久喜地域の一〇〇余か村であった。徳川氏の関東領国に恩賜鷹場を下賜されたことは、伊達氏が徳川氏の鷹場支配権の一端を担い、上下関係として編成されたことを意味する。政宗はこの鷹場でたびたび鷹狩を行い、幕府・将軍に「鷹之鶴」をはじめとする諸鳥を献上したが、一方で大御所や将軍からは鷹や「御鷹之鶴」などを下賜された。…また、伊達氏は豊臣政権下において鷹献上大名の一人であったが、徳川政権発足後も松前氏に次ぐ鷹献上大名として位置づけられ、近世中期以降も同様であった。

政宗は寛永十三年(一六三六)五月二十四日、七十歳で死去し、忠宗が二代藩主となって遺領を継いだ。このなかで、久喜鷹場はどのように推移したのであろうか。同年十二月二日、仙台藩江戸宿老古内主膳正重広らが国元の宿老石母田大膳宗頼らに送った書状によれば、「昨日朔日御登城被成候処、久喜御鷹場御直ニ如陸奥守(伊達政宗)代被遣之由被 仰出、其上早々参候而鷹ヲモ遣可被申候由、色々御懇之上意共申も愚ニて候、箇様之御仕合、其元ニ御座候御親類衆・御一家・御一族衆、宿老衆へも、何も可被申聞之由 御意候」とあり、登城時に将軍家光より久喜鷹場を政宗のときと同じように下賜され、早々に出かけて鷹狩をするように仰せがあったことを親類・一家・一族へ申し伝えよ、との忠宗の意向があったことを報じていた。このように、忠宗には政宗時代の久喜の恩賜鷹場が下賜されたとはいえ、改めて将軍から恩賜鷹場の下賜が執行されており、そのまま世襲しえるものではなかったのである。

鷹場の下賜が属人的要素により執行されていたことは、四代藩主綱村の代になると、よりいっそう明瞭となる。万治元年(一六五八)七月十二日、忠宗が亡くなり、そのあとを継いだ綱宗が同三年に幕府から逼塞を命じられたことで、その子綱村(幼名亀千代丸)が二歳で遺領を継ぎ、四代藩主となった。寛文元年(一六六一)十月六日、幕府奏者番太田資宗は亀千代丸の後見人である伊達宗勝・田村宗良に、「亀千代殿御幼少之御事候間、久喜之御鷹場被指上可為御尤由御沙汰承候間、御老中迄一往御断被仰上可然存候、御成長之時分ハ定面亦被遣ニ而可有御座候、唯今ハ右之御断一段御尤之儀与拙者式も存事候、為御心得如是御座候」という内容の書状を送った。ここでは、亀千代丸が幼少であるため、久喜鷹場を返上せよとの幕府の「御沙汰」があったことを伝えていた。この事例では、恩賜鷹場の返上が幕府老中たちの評議により決定し、亀千代丸が成長したさいには再度下賜されるだろうとの見通しが述べられていた。幕府が藩主の幼少を理由に恩賜鷹場の返上を命じていたのは、この下賜が個人を対象としていたことを示すものであり、その人物が恩賜鷹場の下賜条件を満たしているかどうかを検討して決定していたのである。

…伊達家の事例は、寛文期でも恩賜鷹場の下賜が個人を対象としていたことが明らかである。この時期、家格の確定や幕府職制の確立という社会状況にあったことは確かだが、恩賜鷹場を下賜される対象者を家格や幕府役職という枠組みで説明することはできない。恩賜鷹場を下賜された大名の顔ぶれをみると、将軍家と血縁関係にある大名、家格の高い大名、幕府重職を務めた大名が多いとはいえ、その基準を満たした大名がすべて等しく恩賜鷹場を下賜されていたのではなく、やはり属人的要素で執行されていたといわざるをえないのである。

(114〜116ページ、以下も含め、傍注も同書に従う、注番号は省略、…は中略、強調はブログ主)


つまり、先代の藩主が拝領した鷹場は次の代に無条件に相続される性質のものではなく、特に次代が幼少の場合には一旦返上を命じられることさえあったということになります。稲葉正則が寛永11年(1634年)に家督を継いだ時点では数え年で12歳、元服したのは寛永15年(1638年)と後年のことですから、伊達氏の事例と重ねればやはり鷹場は一旦返上して幕府内で相応の実績を上げなければならなかった筈ということになります。事実、正則自身が鷹場を直々に拝領したのは老中首座に就任した寛文6年(1666年)のことでした。

更に同書では、下賜された鷹場での鷹狩は飽くまでも本人にのみ認められたものであり、本人以外は利用を認められていなかったことを細川忠興の事例を挙げて指摘(117〜118ページ)した上で、次の様に結論づけています。

恩賜鷹場の下賜は、家格を基礎としながら、原則として家に対してではなく、属人的要素により執行されていたのである。恩賜鷹場を下賜された大名の場合、それが後継者に引き継がれず、一代限りで終わっていたことが多いのは、そのことを如実に示しているといえよう。「大猷院殿御実紀附録」には「鷹場賜る事は、三家又は老臣にかぎれば」とあり、御三家は家に対して、そのほかは幕府・将軍に長年奉公した老臣に限られていたとあり、そのことを裏づけている。もちろん、これは全体的な傾向であって、この傾向から外れている事例もあり、厳密にいえば藩主に限らず、隠居した元藩主や藩主の嫡男をも対象としていたのである。…恩賜鷹場は家格を意識しながらも、徳川家および大御所・将軍との個人的な関係のなかで下賜されていたのである。

このように、恩賜鷹場の下賜儀礼は、大名の徳川将軍家への奉公に対する御恩の一環として、「慰み」や「養生」のために執行されたものであり、まさに恩賜鷹場と称しうる性格を有していたのである。この鷹場は、近世前期においては、関東ばかりでなく、畿内近国にも位置づき、公儀鷹場の一角を占めていた。その意味で、恩賜鷹場を下賜された大名らは、江戸・京都滞在時における鷹狩の場を保障されると同時に、公儀鷹場の支配権の一端を担うことになったのである。

(120〜121ページ)


これに従えば、いわゆる「御三家」以外の大名については、飽くまでも将軍との個人的な関係にあった人物にのみ鷹狩の場が保証されていたことになります。

そうなると稲葉正則の場合は、春日局からの返礼の書状が示す様に寛永20年という早期に鷹狩に臨んだと見られるのは、相当に「異例」であったと言わざるを得なくなります。更には、正則自身が自身の鷹場を拝領するまでの間に、主に御厨で鷹狩を複数回行ったことが窺える史料も以前の記事で紹介しました。もう1つ更に、正則が鷹場を拝領した後のことになるとは言え、子の正道がまだ江戸での役職を得る前から御厨へ鷹狩に行っているのも、正則には断りを入れいてるであろうにしても、本人以外に鷹狩が認められていなかった原則に照らせば外れていることになります。

こうした事情を具体的に説明できそうな史料は今のところ私は見ていませんし、どの様な説明を付けるのが適切なのかも判断しかねているのが正直なところです。ただ、確実に言えそうなのは、どの様な説明になろうとも、「御三家」に匹敵するかの様に見える厚遇が実現可能となるには、正則が3代将軍家光とは「乳兄弟」という間柄であったという事実、つまり両者の共通の乳母である春日局の存在を抜きにして語ることは不可能であろうと考えられることです。鷹狩の扱いが飽くまでも正則個人の「属人的要素」によって説明されるしかないとすれば、彼にとって特筆されるべき要素として挙げられるものは、やはり大奥を掌握し、老中をも凌ぐとさえ評価される実権を握っていた春日局との直接的な血筋ということにならざるを得ないでしょう。

以前の記事では、正則が雲雀を春日局に贈った意味を

この雲雀は正則が小田原藩主としていよいよ「独り立ち」する年齢となり、その手筈が整ったことを局に対して「報告」するのに、最良の選択肢であったと考えることが出来るのです。

と読み解きました。しかしそうであってみれば、この雲雀には、春日局抜きには正則には成し得なかったであろう地位に対する謝意が込められていたとも読み解けるのではないか、という気もしてくるのです。




南足柄市塚原の位置(Googleマップ
さて、以前の記事では「小田原市史」に掲載されていた小船村や網一色村の寛文12年(1672年)の村々の明細帳から鷹狩に関する箇所を抜粋して掲載しました。今回は「南足柄市史2 資料編 近世⑴」に掲載されている塚原村(現:南足柄市塚原)の同年の村明細帳を紹介します。この明細帳について、同書では次の様に解説しています。

この年の村明細帳は稲葉氏が領内の年貢・諸役その他の実態・旧慣を把握するために差し出させたものである。一般に◯筋◯村の表紙がついた美濃判二折のものであるが、当村のは横半帳に細字で書かれており、「村中覚書之事」を付加して宝永五年(一七〇八)以降に写書きされたものである。現存する市域の村明細帳中最も詳細な内容を持つ貴重な史料である。

(144ページより、以下も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)


実際のところ、この村明細帳は上記「南足柄市史」の127〜144ページまで、実に18ページを占めており、上下2段に100項目を超える記述が続きます。後ろに上記解説にある後年の追記が含まれているとは言え、ここまでの長さに及ぶ詳細な村明細帳は、現在の南足柄市域に限らず、旧相模国全域でもなかなか類を見ないものです。もちろん、江戸時代初期に作成されたあと明治に入るまで、この明細帳が事あるごとに参照されたり、然るべき役所などに差し出される非常に重要な資料でした。

ここまで詳細な明細帳になると、鷹狩に際して村が差し出した人足などの記述もかなり具体的になってきます。鷹狩に関する項目は次の様にかなりの数に上ります。

一御鷹匠衆御越被成候得、十月ヨリ三月迄之間寄馬又ハ人足ニ而も出申儀御座候、(130ページ下段より)

一御厨ヨリ御鷹部屋参候鳥もち壱桶宛、御厨御代官衆御配苻次第人足出シ、田古村村次仕候(131ページ下段より)

一御餌指(エサシ)方々ニ而取出シ候御鷹之餌、田古村又ハ岩原村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ(巣)鷹見分御越候節、馬壱疋宛出し村次仕侯、

一御鳥見衆御厨へ網張御越候節、馬壱弐疋宛出し上下村次仕侯、并御網之鳥切之通り申候、則田古村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ御鷹野御越候荷物附送り之人馬、上下共五六疋又ハ七八疋ほど宛出シ村次仕候、并御鷹之鳥節々通り申候、則田古村へ村次仕候、壱年中ハ上下度々之儀御座候(以上132ページ上段より)

一川村御拾分一之鳥もち、村次ニ而小田原青物町参候、此附送人馬六七疋、又ハ八九疋宛出シ田古村へ村次仕候、(133ページ上段より)

一御鷹部やヨリ和田川原筋ニ而(しぎ)網御張被成候節、御網之鳥田古村村次仕侯、

一御鷹前羽申儀御座候得、御鷹尋申人足出し申儀御座候、(以上133ページ下段より)

一御鷹部屋ヨリ鴫網張御中間衆被参、五日も十日逗留被致候得薪出シ申候、并御網之鳥田古村村次仕候、(135ページ上段より)


何れも「村次」つまり継立の用事であったことがわかります。鷹匠や配下の人々の移動もさることながら、鳥もちや獲物の鳥の運搬など、何かと鷹狩絡みの用事が発生して村民が忙しく使われていた様子が窺えます。また、鷹を使った狩だけではなく、鴫の猟には網(霞網か)が使われていたこともわかります。

また、この村明細帳には鮎に関する御用についても記載があります。

一川御奉行衆河内川筋、又ハ御厨川筋取らセ御越被成候御鮨之道具、并荷物持送人足拾五人・馬四疋宛上下出シ村次仕候、毎年夏中ハ上下度々之儀御座候、并川御奉行衆川筋御座候内ハ、間一日置御鮨箱弐箱宛通り申侯、此持人足四人宛出シ田古村へ村次仕候、自然壱箱宛参候儀も御座候、則御勘定所ヨリ明箱御(返)シ被成候間、人足弐人宛出シ怒田村又ハ関本村へ村次仕候、(132ページ下段より)

一狩川筋鮎盗申御番御足軽衆壱人宛九月ヨリ十月迄之間御付、当村居被申候、則宿薪出し申候、(135ページ上段より)


1つ目の項目には鮎ずしを作るための道具を収めた箱を持ち運ぶ人足を出したことが記されています。御厨までこれらの道具を運ばせていることから、御厨で鮎を獲って鮨を作らせていたことがわかります。春日局に贈った「鮎ずし」も、あるいは同様にして作られたものなのかも知れません。

また、2つ目の項目では酒匂川の支流である狩川に番人がついていたことが記されています。この川沿いには矢倉沢往還が並行しており、この川は藩の鮎の漁場として禁漁になっていました。この番人はその監視のために置かれたものですが、村からはその番人宛に賄いなどのための燃料である薪を差し出していたことが記されています。これも当時の小田原藩の鮎漁を巡る諸相の1つを物語る項目と言えるものです。正則が春日局に「鮎ずし」を贈った意味も、こうした藩の鮎漁の位置付けとも繋がっていると言うべきなのでしょう。
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再補足→『津久井県の「漆」』補遺:「ホイ」って何?

一昨年に、「『津久井県の「漆」』補遺:「ホイ」って何?」という記事について「解決編」と銘打った記事を書きました。安政6年(1859年)足柄下郡府川村(現:小田原市府川)が発行した嘆願書に登場する「ホイ」という言葉について、その意味を探るものでしたが、この時点では後続の記事を書くことになるとは思っていませんでした。しかし最近になって、更に補足すべき資料を見つけましたので、改めて取り上げることにしました。

問題の資料は「神奈川県民俗調査報告21 分類神奈川県方言辞典(Ⅰ)―自然・動物・植物―」(2003年 神奈川県立歴史博物館、以下「辞典」)です。たまたま神奈川県の他の方言を確認しようとして図書館で見つけたものですが、ふと「ホイ」のことを思い出して探してみたところ、この様な記述を見つけました。

ホイ 萌芽。めばえ。ひこばえ。若枝のこともいう。「ホイが出てる」。<⑯清川、(63)城山、(64)愛川(半原)>→カミソリボイ・キッポイ・ケホイ。

(上記書43ページより、下線は同書では市名・郡名の省略を意味する。括弧数字は実際は丸数字で、どちらも出典文献を示すがここでは省略)



「ホイ」が採集された地点
「ホイ」が採集された地点
赤点が「辞典」、青点が文書
(「地理院地図」上で作図したものを画像出力し
リサイズ)
この調査に従えば、「ホイ」の採集例は厚木市愛甲郡清川村、津久井郡城山町(現:相模原市緑区の城山地区)、愛甲郡愛川町半原の4地点で、小田原市域は含まれていません。小田原市域は久野、国府津、水之尾、江之浦、上曽我の5地点が調査地点に含まれていますが、たまたまこの調査の際には採集出来なかったということでしょう。従って、この調査結果だけを元に「ホイ」の分布域を特定するのは問題があります。少なくとも府川村の場所は上記4箇所からかなり離れていますし、その間に位置する村々でも使われていた可能性を否定できません。更にこれらの地点の外側でも、「ホイ」という言葉が使われていた可能性もないとは言えません。

とは言え、現在の神奈川県下では主に県西部で使われる言葉であった様です。県外への拡がりがあったかどうかは今のところ不明ですが、その採集された地域の地形からは、山仕事に関係のある言葉だった可能性がありそうです。厚木市は相模川西岸に中心地がありますが、調査地点を見ると川入、七沢、上古沢、戸田と4地点中3地点は比較的山間に近く、採集結果はその影響が反映した可能性が考えられます。

今のところ江戸時代の文書中に「ホイ」という言葉を見出したのは、府川村の嘆願書の1件だけです。そもそも、私の乏しい経験の中では、江戸時代の文書中で現在「方言」に分類される言葉を見出す事例は意外に見かけない様に思えます。当時はまだ「標準語」という概念が登場する前ですが、それでも多くの文書は江戸幕府や地方で行政を取り仕切る役人などとの間でやり取りする目的で書かれたものです。その様な文書の中では、こうした役人に通じる言葉に統一する圧力が働きやすいことが、「方言」に類する言葉を見掛け難い状況を生んでいたのかも知れません。その意味では、同様の事例を他の文書に見出す可能性はかなり低いと言わざるを得ません。

ただ、府川村から嘆願書を出すに当たっては、彼らの使っていた「ホイ」をより標準的な言葉に置き換えなければいけないという意識が働かず、それが結果的に嘆願書に「ホイ」という言葉を使うことに繋がったのでしょう。こうした事例が少ないながら他にないのか、折を見て更に探してみたいと思います。
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南詢病居士=京極高門「湯沢紀行(春の家づと)」より(その2:片瀬川の「渡し」)

前回に続き、南詢病居士=京極高門(以下「高門」)の「湯沢紀行(春の家づと)」を読み進めていきます。今回も「近世紀行日記文学集成 一」(津本 信博編 1993年 早稲田大学出版部、以下「集成」)に所収されている翻刻に従って読み進めます。

小田原宿で酒匂川の川止めのために2泊を余儀なくされ、その晩に伊豆大島の「貞享の噴火」を見に浜辺に出て来た高門ですが、前回引用した文章の続きは次の様になっています。

むかしより相州を瀟湘となづくる事はもろこしの瀟湘といふ所瀟と湘との水行合て海にいでたるが絶景なりといへり 此海辺は早川逆和川のふたつのながれ落あひて其(ママ)海にいづ よりて境致彷彿たりとて来朝の名僧刀士皆詩賦をなして此所を賞す もろこしの瀟湘にもやゝまされりとなん 此やどりは梶枕ならねど波の音に夢もおどろく斗也

みなと舟入江にかすむ月もみずうきねの浪のよるの春雨

(「集成」107~108ページ、傍注はブログ主:「末」か)


小田原宿と酒匂川・早川の位置関係
小田原宿と酒匂川・早川の位置関係
赤破線は旧東海道、実線部分が小田原宿
(「地理院地図Vector」上で作図したものを画像保存
該当箇所の地理院地図
瀟湘(しょうしょう)」という地名が出て来ますが、これは中国の山水画の画題である「瀟湘八景」で著名な地域です。これが後に日本各地の「八景」に繋がっていくのですが、高門はかつて相模国を訪れた中国の僧侶や刀工たちが瀟湘の名勝地に勝っていると称賛したと言い、小田原から見える早川と酒匂川の河口が瀟湘の風景に似ていると記しています。

高門の言う様な、相模国の名勝を中国からの渡来人が瀟湘になぞらえて称賛したという記録が具体的にどの様な書物に記されているのか、私が探した限りでは見つけることは出来ませんでした。高門自身も当然ながら中国大陸に渡って瀟湘の風景を観たことはない筈ですし、酒匂川と早川の河口の位置関係を見て瀟湘と結び付ける発想は、多分に観念的なものである可能性が高いでしょう。

実際、前回触れた通り高門が小田原宿の浜に出て来たのは日暮れ近い時刻、もしくはそれ以降であった筈ですから、酒匂川や早川の河口を十分に見通せる明るさではなかったのではないかという点も疑問点です。2つの河口の間は3.7kmほども離れていますので、その中間に位置する浜辺からでもそれぞれ1km以上も隔たっていることになります。旧暦9日ならば晴天であればある程度の月の光はあったと考えられるものの、それで双方の河口を見通すに十分であったかは定かではありません。

ただ、後に金沢八景の短歌を詠み、それが広重の版画に掲載されることになる高門が、まだ若い頃から「瀟湘八景」に少なからず関心を持ち、その知識を積極的に取得しようとしていたことが、この記述から読み取れるのも事実です。特に、中国の渡来人が日本の風景を母国の名勝になぞらえていたという言い伝えに、後の「金沢八景」に繋がる動機を見出していたとも考えられます。

他方で、伊豆大島の噴火の様を見るべく浜に出て来た筈の高門が、その様子について書き記したところですぐに次の話題に移ってしまっていることから、高門が噴火の様子にはそれほど強い関心を寄せなかったことも感じ取れます。貞享の噴火開始から2ヶ月弱という時期、この噴火の被害が具体化するのはもう少し先のことだったことが、前回引用した「熱海名主代々手控」の続きにも見えています。

翌年の年〓は大嶋村に灰降り、田畑及山林共に埋り申候、又椿の木の如きは、人家近傍にあるの分皆灰に埋まりて屈折し、恰も雪折樹の如し、其他の木々も皆同様の姿となれり、野牛野馬等は食物なき故斃死す、

(「地震史料集テキストデータベース」より、「増訂大日本地震史料 第1巻」903ページのOCR結果、強調はブログ主)

まして、小田原の地に伊豆大島の詳細な状況が伝わるには、江戸時代の通信事情を考えれば更に時間が必要だったと思われ、高門も遠方の噴火の様子に更に思いを巡らせるには情報や知識が足りなかったのではないでしょうか。



さて、高門は大名家の出ということもあって小田原でも相応の宿には泊まったでしょうが、海の近さ故か波の音が高くて眠れない夜を過ごしたことを、「梶(楫)枕ならねど」つまり船の中で寝ている訳ではないのに、と評した上で歌を一首詠んでいます。

それに引き続いて翌日の様子は次の様に続きます。

明れば川をわたりて行々田面をみて

影ひたす山もみどりに今朝の雨はるゝ門田の苗代の水

たそがれ時藤沢に宿とふ 又遊行の道場に詣ず 折ふし初夜の行事にあふ (らい)賛殊勝なり 予曾野良の国師の紀年録といふものをみ侍りしに開山遊行上人国師に参禅して和歌を呈す

となふれば仏も我もなかりけりなむあみだぶの声斗して

国師いはく 未徹在と上人再参してよめる

捨はてゝ身はなきものとおもひしにさむさきぬれば風ぞみにしむ

国師命従して年中薬籠を附して信を表せたる のぼりし時礼塔の偈あれどいそがはしくてしるさず 今おもひいづ

謁開山塔曽感熊野権現護念仏

称名行願感権現徹骨宗風嗣法燈七十

州中遊戯了徳輝並塔聳山稜

門外ちかき寓りにかへる

あけば又ひばりなく野を分ゆかむ床は草葉のかり枕して

(「集成」108ページ、以下も含めルビも同書に従う)


藤沢宿を次の宿りにすることは、元より鎌倉へ立ち寄る思惑を持っていたことから、当初から決めていたと考えられます。恐らくは酒匂川の川止めがなければ箱根を発ったその日のうちに藤沢入りする腹積もりであったのではないかと思えますが、病弱な高門は健脚ではなかった様ですので、川止めで小田原に足止めされた分、却って旅程が短くなったのは都合が良かったのかも知れません。

ただ、藤沢宿に宿泊することにした目的は翌日からの鎌倉入りのためだけではなかったことが、この記述からわかります。すなわち、「遊行の道場」つまり清浄光寺(遊行寺)に詣でることも、帰路の訪問先の1つとして考えていた訳です。高門は後に出家して黄檗宗(おうばくしゅう)の僧となりますが、若い頃から少なからず仏教に関する書物を読み漁っていた様で、その過程で時宗にも関心があった様です。

ただ、到着が夕刻になってしまったために閉門まで時間がなく、境内の「礼塔の偈」を筆写することが出来ず、記憶した限りを記すに留まっています。この「礼塔の偈」が現存しているのかどうかについては、今回は確認が取れませんでした。



清浄光寺の門前近くに宿泊した翌日は江の島を経て鎌倉へと向かいますが、その記述は次の様になっています。

(ママ)江の島に行すがら朝塩のほど片瀬川をわたる 雨のなごりに猶水増りければ籃輿(かご)にてはいかゞと駒うちいれて

かへるさのふるさとちかきかたせ川塩のひるまもまたでこゆらん

といひつゝ行 砥上が原(やつ)松皆此あたりにてもろこしが原につゞきたる浦路なり

(「集成」108ページ、傍注はブログ主:「日」か)


「朝塩」はもちろん「朝潮」の意でしょう。例によってこの日(貞享元年3月9日はグレゴリオ暦で1684年4月23日)の潮位をこちらのサイトで計算してみます。江の島付近の地名がないのでここでは比較的近い「伊東」で代用しました。その結果、満潮時刻は6時42分と出ました。実際は多少の時刻のズレはあると思われるものの、高門が書いた通り片瀬川に潮が上がってくる状況であったことは間違いない様です。

問題は、この片瀬川の渡河の際の状況の記述です。酒匂川が川止めになるほどの雨のあとまださほど日が経っていない影響もあって増水しているので、駕籠に乗っては如何かと勧める人間がいたことを書いていますが、「駒うちいれて」と、徒渉していたことを窺わせる表現が見えます。

後に江島道の片瀬川の渡河地点は「石上の渡し」となります。その様子については以前道中記・紀行文を中心になどで取り上げてきました。この中で引用した紀行文・道中記の中では明和8年(1771年)の我孫子周蔵「いせ参宮道中小つかい帳」が最も古い事例でした。「湯沢紀行」はそれよりも87年も前の片瀬川の「渡し」の様子ということになります。

但し、高門は川の名前は「かたせ川」と記してはいますが、渡し場の名前については記していません。高門の「湯沢紀行」より10年前の延宝2年(1674年)に徳川光圀が鎌倉や江の島を訪れた際の紀行である「鎌倉日記〔徳川光圀歴覧記〕」には、

片瀬川

藤沢海道ノ南へ流出ル小川也。駿河次郎清重討死ノ所也。東鑑ニ片瀬ノ在所ノアタリニテハ片瀬トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川卜云。

海道宿次百首   参議為相

打ワタス今ヤ汐干ノカタセ川 思ヒシヨリモ浅キ水カナ

(「藤沢市史料集(31) 旅人がみた藤沢(1)」2007年 藤沢市文書館編 1ページより、…は中略)

と、「石上」の地名は出て来るものの、そこに片瀬川の渡し場があったことは記していません。ただ、石上は片瀬川の西岸側に位置する字ですから、その地を経由した様な記述になっているということは、光圀も石上の地を経由した可能性の方が高そうです。

一方、渡河の際には潮が引くのを待っていたことを、参議為相(冷泉為相)の短歌を引いて紹介しているものの、光圀自身がこの川をどの様に渡ったのかは記録されていません。ただ、この短歌を引用していることから考えると、光圀も片瀬川の畔で潮待ちの上で渡渉したのではないかとも考えられます。そうだとすると、光圀の頃にはまだ「渡守」はいなかったのではないかと思われます。

更に、これも以前取り上げた延宝8年(1680年)の自住軒一器子「鎌倉紀」では、片瀬川を渡る際に「はゞひろき流れの末をわたり」とだけ記しており、やはり渡し場があったとは書いていません。これも渡渉した可能性が高い記述になっています。

これらを踏まえて考えると、高門が目撃した様な「渡守」が片瀬川に出没する様になっていくのは、10年前の光圀、4年前の一器子との間のことであることになります。光圀や一器子の渡河を手助けする地元民が実際にはいた可能性を考慮する必要はありますが、この間にどの様な変化があったのかを考えることが、江島道の変遷を考える上で重要なポイントになると思います。因みに、江島道に杉山検校和一が道印石を設置したのは元禄年間と言われており、高門が江島道を進んだ4年以上後のことですが、江の島への参拝客が漸増する時期にあったのは確かでしょう。

そして、彼らが渡してくれることによって潮待ちの必要がなくなることから、「またでこゆらん」と歌に詠み込むことになった訳です。あるいは片瀬川で待ち受けていた「渡守」が高門に「潮待ちが要らない」ことを吹き込んだのかも知れませんが、「湯沢紀行」のもう少し後ろの部分で為相の歌の引用が見えますので、為相の片瀬川での「潮待ち」についても、この時既に知識を持っていた可能性は少なからずあると思われます。

光圀が延宝2年の鎌倉訪問を元に水戸藩で「新編鎌倉志」を著して出版するのは、高門の箱根湯治の翌年、貞享2年のことです。従って高門が片瀬川を渡ろうとした際には、この光圀からの知識を得る機会は無かった筈です。高門の片瀬川についての知識は「新編鎌倉志」とは別のルートであった可能性の方が高そうですが、少なくとも高門は現地に到着するまで潮待ちが必要になるかも知れないという予備知識を持っていたと考えて良いでしょう。酒匂川の川止めのために当初の予定より2日ほど遅れていた高門にとっては、更なる時間待ちを強いられる事態が無くなったのは、ありがたいことであったに違いありません。

「湯沢紀行」の片瀬川の渡河に関する記述は、江戸時代後期の舟を使う方法とは異なり、江戸時代初期には渡渉を手助けする形で始まったことを示す貴重な史料になり得ることは確かですが、もう少し確定的な分析が行えるためには同じ頃の史料が更に発掘されることに期待したいところです。高門も渡河地点の地名を書いていない以上、彼が後に石上の渡しとなる箇所を渡ったと言えるためには、当時の江島道の道筋が後の「江島道見取絵図」のそれと大勢で違っていないことを確認できる史料が必要です。また、高門の貞享から我孫子周蔵の明和までの間の石上の渡しの様子を書いた紀行文や道中記も出てきて欲しいところです。

次回は「湯沢紀行」の金沢での足跡を追う予定です。

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南詢病居士=京極高門「湯沢紀行(春の家づと)」より(その1:伊豆大島の噴火)

今回はまた新たな紀行文を読み込んでみたいと思います。南詢病居士「湯沢紀行」という貞享元年(1684年)の紀行文ですが、その中にいくつか興味深い記述が見えますので、それらを掘り下げてみます。

今回は差し当たり「近世紀行日記文学集成 一」(津本 信博編 1993年 早稲田大学出版部、以下「集成」)に所収されている翻刻に従って読み進めます。巻末の解題によれば、著者は次の様に紹介されています。

南詢病居士とあるのは、京極高門のこと。万治元(一六五八)年―享保六(一七二一)年。二月十七日没(六十四歳)。丹後田辺藩主京極高直の二男(ママ)。初名高明、名は分知、通称兵部。号は三蛙軒。但馬豊岡二千石を領す。中院通茂門下、歌人『曲妙集』『隅田川十五番歌合』(元禄十年)『三蛙文集』『浦のしほかひ』などの著がある。

(「集成」597ページ、以下同書の解題は全て同ページ、傍注はブログ主:他の複数の資料では三男)


後ほど掘り下げる予定ですが、この京極高門(たかかど)が金沢八景を詠んだ歌が、広重の金沢八景図のシリーズにも取り上げられています。この人物は様々な号を使い分けていた様ですが、「南詢病居士」という号は高門が生まれつき体が弱かったことを自ら揶揄してのものでしょうか。以下は「高門」で通します。

最初にこの翻刻の問題を指摘するところから始めないといけません。解題によれば、この翻刻は

版本。元禄十三年版。早稲田大学図書館蔵、服部文庫。函架番号=イ17―一五三七。表紙は後装、縦二十六・九センチ、横十八・四センチの半紙本、袋綴。原装の表紙は題簽(だいせん)がはがれ、打付書で「湯沢紀行」とある。下巻が「春の家づと」、墨付九丁、一面九行、一行二十字内外。和歌、漢詩二字下げ。

(ルビはブログ主)

と説明される版本に従っているとのことです。そして、この版本の他に「湯沢紀行」を伝えるものとしては

伝本 写本は官内庁書陵部(椿亭叢書21)、国会の二本。版本は元禄十三年版が京大、刊行年不明の版が国会、京大、乾々の三本。活字本として『増補紀行文集』(田中書店、盛文堂、明治二十七年)がある。ただし部分的翻刻に留まる抄本。

の存在を挙げています。

ところが、この翻刻は次の様に始まります。

春の家づと

やよひ五日温泉(いでゆ)よりあがりてあすはいでたゝんとて折たるわらび故郷への草づとになど人々いひあへるに

梅柳折手に猶もあかなくの家づとなれや春の早蕨

(「集成」107ページ、ルビも同書に従う)


「春の家づと」は解題にある通り、「下巻」のタイトルです。つまりこの翻刻は、後半部分のみに限定されてしまっています。解題ではその内容について

内容 貞享元(一六八四)年春三月五日、湯沢温泉を出発し、小田原―藤沢―もろこしが原―江の島―鎌倉―金沢を経て十一日に江戸に至る旅。相模に湯浴みに出かけた帰路、鎌倉の五山礼塔を拝すための旅であった。和歌十四首、漢詩十一首も収む。

と書いていて、この稿本が帰路のみを書いている様に記しており、その出発地を「湯沢温泉」とのみ紹介しています。普通の紀行文は出発前の様子から往路の様子をまず書くのが順序ですが、その部分がこの翻訳で使用された稿本には含まれていない様です。

実際の「湯沢紀行」にはその出発前から往路、そして湯治中の様子までが前半部分に記されていることが、この紀行を取り上げた文章で確認できます。例えばこちらの文章では湯治先が箱根・塔ノ沢であること、出発前にかなり逡巡したこと、湯治中も寝込むことがあったことなどが紹介されています。また、島田 筑波「湯澤紀行の著者京極高門について」(「書物春秋」第7号:1931年4月)では、

湯澤紀行は貞享元年に出版になつた箱根溫泉の紀行であつて、江戸時代に箱根溫泉のことを詳しく紹介してゐる。紀行はこの書が初まりであらう。然しながらこの紀行の著者は、煙霞病客とだけしてあるので、果して何人の著述なのか今日まで知られず居たが、偶た本文をよむでゐるうちに、

木賀のつゞきのいで湯に宮の下といふ所あり、ふかく谷底に九折なる道をくだりつれば、堂賀島とて夢窓國師草堂の舊跡あり。…無縫塔あり、夢窓國師閑居の地と勒す。又かたはらの大石に

夢想國師此所にて

世の中をいとふとはなき住居にて中々すてき山賤の菴

と云ふ詠歌を石工に命して、後のかたみにえらしむ

とあるので、自分わざ/\此地に赴いて、その夢想國師座禪石なるものを見たところ、石の裏に京極高門としてあつたので、初めてこの湯澤紀行の著者は、京極高門であることを發見した。

(上記書23~24ページ、傍点は下線で代用、…は中略)

と、「湯沢紀行」の記述を元に堂ヶ島の石碑を確認しに赴いたことまで記されています。

更に、井上 泰至「旗本歌人の隠逸と旅 京極高門」(「サムライの書斎」2007年 ぺりかん社 所収、以下「隠逸」)では、その稿本について、注に

(8)杏雨書屋本『湯沢紀行』は、『春の家つと』と合綴、後者の表紙も存。ただし、題簽は摩滅。京都大学附属図書館本『湯沢紀行』も合綴、刊記には「元禄十三庚辰孟春吉日/江戸日本橋南壹丁目経師屋/京五条橋通扇や町川勝五郎右衛門」とある。

(上記書66ページ)

と報告されています。後者の京都大学附属図書館本が刊行年が一致する早稲田大学図書館本と同じものと考えられるものの、「合綴」と書かれていることから考えると、京都大学の方は前半と後半が一揃いになっていると見られます。となると、元禄13年版が後半の「春の家づと」だけで刊行されたとは考え難くなります。

こうしたことを考え合わせると、「集成」で翻刻された早稲田大学図書館本は、何らかの事情で前半の部分を失った状態にあるのではないかと考えたくなります。そして、どういう訳か「集成」で翻刻を担当した人はその事実を認識できておらず、早稲田大学図書館本で全編が完結できていると考えて翻刻を行い、解題を著したものと見られます。どうしてこの様な状況になってしまったのかはわかりませんが、現状では「湯沢紀行」の翻刻を掲載している紀行文集を「集成」の他に見つけられていません。「隠逸」では

(4)伝本は、無窮会神習文庫・国立公文書館内閣文庫各蔵の二本あるが、前者は奥書によれば、高門と同時期に活躍した中院門の旗本歌人阿部遂良本を祖本とした、『霞関集』の編者石野広通本をさらに書写したもので、本文・排列からも善本と位置づけられる。引用もこれによった。

(上記書65ページ)

としていますが、こうした伝本を直接参照するのは一般向けにはやはりハードルが高いと言わざるを得ず、近い将来全編の良質な翻刻が出版されることに期待を寄せるしかありません。



その様な事情で、今回使用する翻刻からは紀行の前半が欠落しており、読み始めでは「やよい」つまり旧暦3月のことであることはわかるものの、何年のことであったかがわからなくなってしまっています。巻末には

貞享改元甲子の春相模に湯あみにまかりしかへるさに鎌倉の五山礼塔のこゝろざしにて立より侍りけれど官暇二旬ばかりなれば道もあはたゞしく筆にまかせてそのまゝ旅の日記の箱うつし置侍り かきあらたむべきにしもあらねば人もみる事あらじかし

やよひ十一日帰府してしるす

南詢病居士艸

(112ページ)

とあり、ここでようやく「貞享改元甲子」つまり貞享元年のことであることが判明する格好になってしまっています。この年の高門は数え年27歳、まだ若かったこともあって湯治のために得られた休暇もさほど長いものではなかったということになるのでしょう。とは言え、帰路に鎌倉に立ち寄る予定が当初からあった様ですし、そのための日数も含めて箱根を早めに発ったものの様です。

しかし、紀行は引き続いて次の様に記します。

此ころの雨にて逆和(さかわ)川に水いでゝとまりぬれば小田原に宿す あけば水落なんといへどけふもこゆる人もみえず こよひも又こゝにかりねす 伊豆の大島やくる事はやふた月ばかりなりといふ 浜にいでゝみる 海岸より風いでゝもえいづ (ふいがふ)の火をふくやうにみゆ つくしにもあらぬしらぬ火なり

(107ページ、ルビも同書に従う、強調はブログ主)


酒匂川が増水によって川止めとなってしまい、先に進むことが出来なくなったため、小田原宿に到着した日とその翌日は足止めを余儀なくされています。そこで、2ヶ月ほど前から噴火を始めたという伊豆大島の様子を見に海岸線に出た、と書いています。

伊豆大島の噴火の歴史については気象庁のサイトにまとめられていますが、その中の1684~90年(天和4~元禄3年)の「天和噴火」が、ちょうど「湯沢紀行」の時期と重なります。天和4年2月14日に噴火開始とされていますが、わずか7日後の2月21日に「貞享」に改元されます。このため、「貞享の大噴火」とも称されています。

地震史料集テキストデータベース」で「伊豆大島」をキーに検索すると、かなりの点数の史料がヒットします。 その中で、天和・貞享の噴火の経緯が比較的詳細に記録されているのは次の「熱海名主代々手控」です。

[未校訂]天和四年○貞享元年甲子二月十四日より大嶋の絶頂より噴火致し、焼上る火の色は朱の如くにして、毎日毎夜間斷なく、晝は火見えず、暮方より見える、二月下旬の頃野火の如く、東の方焼る、此は野火にて有るべくや、三月上旬の頃は天氣あしく雨降り候故、雲覆ふて火見えず、天気あがれば亦前の如く焼上りて、其高さは遠方よりは一丈程に見え申候、折々大石など吹上候や、火の玉の如き塊ふもとに落下致し、亦震動は十八里程へだて候故か、折々聞え申候、同年七月下旬の頃までは火勢見え申候、其以後は唯煙り斗り見え申候、

(「地震史料集テキストデータベース」より、「増訂大日本地震史料 第1巻」903ページのOCR結果)


伊豆大島と小田原・熱海の海岸との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
熱海と小田原では伊豆大島までの距離に多少の差はありますが、その見え方については大筋では同じと言えるでしょう。手代の「昼は火は見えず」という記述から考えると、高門が「鍛冶場のフイゴが吹く火の様に見えた」というのも同様に夕刻以降の話と考えられます。実際、「あけば水落なんといへどけふもこゆる人もみえず」という表現からは、渡し場が営業する時間帯は少しでも早く酒匂川を渡河する機会を窺っていたと思われるので、それが叶わないと決まってから浜に出たのでしょう。

1986年(昭和61年)の伊豆大島の噴火は全島避難に繋がるほどの大規模なもので、当時のことを記憶されている方も多いと思いますが、当時も相模湾岸の平塚海岸からも噴火の様子が見えたという証言があります。右の平塚市博物館のツイートはその1つですが、これ以外にも相模湾周辺からの目撃情報はある様です。

この時の噴火規模についてはかなり詳細なデータが揃っていますが、その際の規模の噴火が相模湾岸から見えたという事実から、天和・貞享の噴火の際の規模を推定する際にある程度の目安になります。気象庁のサイトでも「大規模」と評価されている通り、最終的には噴火活動が7年もの間に及んだ伊豆大島の噴火史の中でも特筆される規模だった訳ですが、噴火開始から2ヶ月の時点で既にかなりの規模に達していたと考えて良いでしょう。

問題は「海岸より風いでゝもえいづ」という表現の解釈でしょう。小田原の海岸からですと、地球が球形であることからその曲率の影響で伊豆大島の海岸線は水平線の下になります。その点では溶岩流が小田原から見えていたとしても、それがこの時点で既に海にまで到達していたと言えるかどうかは、この文章からだけでは判断が付かないのではないかと思います。この場合の「海岸」は当然大島のそれを射すでしょうが、そこから風が出て燃え出ているということは、既に溶岩流が海岸まで流出していたことになるのでしょうか。実際、気象庁のサイトに「溶岩を北東海岸にまで流出」とありますので、最終的には溶岩流が海岸に到達したこと自体は確かでしょう。しかし、高門が目撃した時点で溶岩流が既に海岸まで届いていたと考えられるかどうかは、他の情報も併せて判断する必要があるでしょう。

何れにせよ、江戸時代の伊豆大島の噴火について、この様な形での目撃情報が書かれた紀行文はなかなか珍しいのではないかと思います。東海道は相模湾岸から比較的近い場所を通っているとは言え、噴火を見られるのはやはり夕刻以降でしょうから、その時間帯には宿を定めて休んでいるケースが殆どでしょうし、そうでなければ次の宿場への移動を急いでいて、道中洋上の噴火の様子に注意を払う余裕はなかなかないでしょう。また、比較的海に近い小田原宿でも宿場の人が高門を浜辺に手引していることを考えると、宿泊後に宿場の人が案内する様な機会がなければなかなか見えなかったのではないかとも思えます。

つまり、高門が噴火を見学する機会を持てたのは酒匂川の「川止め」があればこそのことで、鎌倉へ向かうべく先を急いでいた筈の高門にとっては痛い停滞ではあったでしょう。しかし結果的には滅多に見られないものを目撃する機会を得て、またその様子を書き留めた貴重な記録を生み出すことに繋がったと言えそうです。

次回は帰路をもう少し先に進んだ箇所について取り上げる予定です。

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