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「大田区」タグ記事一覧

【動画】多摩川台公園〜古墳と多摩川遊覧と浄水場〜

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以前鷹狩や中原街道について調べていた時に見つけた史料を思い出して、ちょっとロケハンのつもりで撮りに行ったもの。本格的に作るなら春先に桜を合わせた方が良いかなぁ、と思いつつ、折角なのでひとまず作品としてまとめてしまうことにしました。

因みに多摩川台公園はこの位置。

大きな地図で見る

徳川家定の多摩川遊覧の件ですが、元になった史料は「大田区史」の資料編の中にあったもの。迂闊なことに資料編のどの分冊に収められていたかメモしていなかったので、何処の家のものか失念してしまいました。もっとも史料の名前はわかるので、もう1回図書館に行けばすぐにわかることですが。

ともあれ、史料の名称は「玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録」と言います。嘉永3年2月27日、翌日に幕府の役人一行が当地に赴くので弁当の手配をするところから記録が始まります。その性質上家定の遊覧の目的は書かれていませんが、「徳川実紀」を見ると同年3月頃には家定の婚礼の祝儀について何度か記載が現れますので、その婚礼の挨拶を道すがら行う目的もあったのではないかと個人的には推察しています。予め中原街道を経て多摩川に至り、亀甲山筋を遊覧したあと碑文谷を経て下目黒の竜泉寺(目黒不動尊)で昼の膳を摂り、広尾・麻布を経て出発地である虎ノ門へと帰還するルートが予め定められ、その間の大名屋敷の名前が逐一挙げられています。但し「実紀」の当日の項には

この日 右大將殿には目黑のほとりへ成らせらる。(愼德院殿御實紀卷十四)

としか書かれていないので、これだけだと何をしに行ったかさっぱり不明なのですが。なお、徳川幕府において「右大将」は専ら将軍の世継ぎに対して使われていました。

これを受けて亀甲山周辺の見通しを良くするために竹木の伐採、道筋や小休処の整備、人足の手配から当日必要になる物品の手配まで、更には当日の行事を無事終えたあと関係者に配られた褒美の金額まで記されています。将来再び同様の遊覧で将軍家が訪問された時に備えるために記録を残したのでしょうか。もっとも、その数年後には時代が大きく変わる事件が起きる訳ですが。

そして、この史料に「御成御場所()絵図」が含まれ、村内の具体的な道筋が記されています。これによれば、下沼部の名主家に設置された「御小休処」を経て多摩川の渡船場に向かい、そこから浅間神社脇より「字亀山」に向けての道を進み、その先の山を上り下りして「御立場」に向かっています。つまり、明らかに亀甲山の上に登っている訳ですが、もしそこが古代の墳丘であるという認識があったら、果たしてこういう道筋を遊覧のために誂えたかどうか。明治維新後に墳丘の麓に浄水場を作るなどの動きを見ていると、どうもその認識はなかったのだろうという気がします。なお、今回は動画の進行を簡潔にするため名前を出せませんでしたが、東急線を挟んで多摩川台公園の向かいにある浅間神社内にも古墳があります。

因みに、最初に下沼部村に訪れた役人一行の肩書きが「御鳥見方」、その後のやり取りでも中心になっているのはこの「御鳥見方」で、「御鷹方」の名前も出て来ます。しかしながら当日は鷹狩は行われなかった様で(鷹狩のシーズンは冬が中心なので、既にオフシーズンと言って良い時期だったこともあるでしょうが)、飽くまでも鷹場を統括する責任者として彼らが受け持ちということになったのでしょう。

現時点では亀甲山古墳は未調査だそうですが、この遊覧の際に墳丘を平らげて見晴台に仕立てる過程で何かしら出ていてもおかしくなさそうで、どうして気付かれなかったのかという辺りも含めて、今後の発掘調査に期待したいところです。
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【動画】イチモンジセセリ〜多摩川河川敷にて〜

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これまで書き漏らしてましたが、昆虫の苦手な方には申し訳ない。

昨日の続きです。前々回の記事用の写真や動画を撮りに行った序で…にしては、魚眼レンズがあるのが変ですね(汗)。まぁ、これを試したかったというのがホンネです。

魚露目8号は以前デジタル一眼レフで試しに使ってみたものの、あまり思った様な結果が出ずに埃を被っていました。ビデオカメラを手に入れて、ふとこれで動画を撮るのも面白いかも知れないと思い立って、出来れば広い場所で小さな物のクローズアップを…ということで河川敷に来た次第。

イチモンジセセリはサイズとしては無難なところでしたが、ちょっとすばしっこいのが難点…。まぁ、もう少し色々と試してみようと思います。


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【動画】キタテハ〜多摩川河川敷にて〜

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先日の記事のために川崎へ行った序でに、多摩川の河川敷に降りて被写体を探してみました。クローズアップレンズの性能を試したかったというのもあるんですが。

動画だとちょっとした手振れがズームする時に響いてしまうのが難点です。三脚が使える状況なら良いのですが、相手が昆虫の様に小さくてすばしこい被写体だと、三脚を使っていたのでは自由が利かず、被写体を追うのが困難になってしまいます。今回もかなりの分数撮ったにも拘わらず、その大半を捨てる破目に…。

次回もう1回、この日撮った昆虫を取り上げたいと思います。
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【旧東海道】その2 六郷橋(3)

前回に引き続き、明治期に入ってからの六郷橋の架橋の歴史を掘り下げます。前回の明治初期の左内橋よりもう少し時代が下った頃の話です。今回ちょっと長めですが、一気に行きます。

前回は六郷橋の隣に架けられた鉄道橋である六郷橋梁を引き合いに出しましたが、大正14年(1925年)に六郷橋がようやく安定するまでに、同地には更にもう1本鉄道橋が架かります。六郷橋梁と並行して架けられた、現在の京浜急行、当時の京浜電気鉄道の橋です。

こちらの橋についても、三度前回までと同じ方が良いまとめを作っていらっしゃいますので、今回もそれを参照しながら話を進めます。

ref-6 京急六郷鉄橋の歴史


そして今回も、改めてこちらのページも併せて見ていきます。

ref-7 六郷橋の歴史


こちらのページに記載されている通り、京浜電気鉄道は当初、六郷架橋組合から六郷橋を購入して併用橋として利用しようと目論んでいます。しかし、結局強度が足りずに自前の橋を架けざるを得なくなり、当初は仮橋を木製で架けたものの、最終的にはトラス橋を明治44年に架けています。

この歴史をもう少し詳しく、順を追って見てみましょう。それぞれの時期に架けられた橋の様子がわかる資料がないか探してみましたが、昭和24年(1949年)に京浜急行電鉄(株)がまとめた社史「京濱電氣鐵道沿革史」(以下「沿革史」)が、参照できた中では辛うじて上記のページを補足するに足る情報を与えてくれましたので、こちらを引用しながら話を進めます。これ以上話を深めるには、恐らく京急本社に乗り込んで社内資料を拝見させて戴くしかなくなると思いますので…。

まず、六郷橋〜川崎大師間で営業を開始した大師電気鉄道が、品川方面への進出を目論んで京浜電気鉄道となった頃から、六郷川を越える必要が出てきたことになります。その際の経緯について、「沿革史」ではこの様に説明しています。

當社と六鄕橋の關係は、當社が川崎、品川間軌道敷設の出願をなした時に始まつた。卽ち明治丗二年六月、品川延長線敷設の爲め、假橋架設の設計をなしたが、後に現在の人道橋を買收して軌道併用にする事とし、當時の架設權所有者であつた石井泰助氏、山田三郎兵衞氏、外六名と交渉の結果、同丗三年七月十九日、買收の手續を完了した。所が工事設計に着手すべく橋梁調査をした處、電車運轉に堪へない事が判明したので、計画を變更し別に鐵橋を架設する案を立てて認可を申請したが、更に研究の結果之亦困難な事がわかつた。そこで『鐵材等取調の結果目下我が國にては間に合ひ難く一切外國に註文を要する處、材料到着をまち架設するには一年半乃至二ケ年を要す。然るに延長線の内、川崎・大森間は本年中に運轉開始可致豫定につき、六鄕橋は已むを得ず現橋の上流に竝列して橋杭を現橋と同一の位置になし單線軌道の假橋を架設一時運轉を致度』との願書を提出して許可を得、買收した人道橋の上流に長さ五十五間の木橋を架設し、翌丗四年二月一日の六鄕橋・大森間開通に間に合はせた。

(同書44ページ)


必ずしも資金に恵まれていない中で色々と試行錯誤する中で、開業予定日に間に合わなくなって止む無く木製の橋で急場をしのいだことがわかります。既設の六郷橋を併用するという案も、最初から併用ありきだったのではなく、一旦自前で架けるつもりでいたものを翻意したことから考えると、仮橋であっても架設費用が予想外に膨らむことが設計段階で明らかになってきて、まずは何とかコストダウンの道を探ろうと考えたのかも知れません。

当時架かっていた六郷橋の写真は、前々回取り上げた通り「六郷橋の歴史」のページで見られる通りですが、あの13径間の木橋と同じ幅で橋脚を打って仮橋を架けたことがこの記述から読み取れます。願書にその旨をわざわざ書くというのは、それでないと鉄道省から認可が下りない可能性を考えたのではないかと思います。ただ、六郷橋では強度不足だったのをどの様な構造で補ったのかまでは、参照できた資料からではわかりませんでした。

何れにせよ、頼りない木の仮橋で何時までも凌げる訳はなく、何とか早く鉄橋へと切り替えたかった様ですが、実際は輸送力強化のための複線化対応で橋の位置が変わり、その対応の際にもう1回仮橋を架けたので、鉄橋化実現に更に時間を要する結果になりました。この経緯は「沿革史」の続きにこの様に表現されています。

而して之を複線として運轉能率を上げる爲めには、鐵橋を架設せねばならなかつたが、神奈川延長線敷設に當り、京濱間直通運轉を敏速にする爲め、六鄕・大森間國道上の軌條を新設軌道に變更敷設する計画を樹てた結果、鐵橋の位置も變更を要するので暫く單線假橋のま丶運轉をなし、明治丗九年五月に鐵橋工事施行許可を受けた。

併し鐵橋の竣功には日時を要し、附近線路變更の完成迄に間に合はないので、一時其の豫定位置に假橋を造り、曩に買收した人道橋は修繕した上、明治丗九年十二月之を政府に献納した。

(同44~45ページ)


この間、明治39年8月には台風による水害で仮設橋の橋桁を1径間分失っていることが、「京急六郷鉄橋の歴史」に引用された「多摩川誌」の記事からわかりますが、これは移設前の初代の仮橋の方の様です。また、後で出てきますが明治43年にも水害で運行が途絶していますから、やはり仮橋の利用期間が伸びればそれだけ水害に恐々としながらの営業にならざるを得なかったでしょう。更に、同時期に輸送力増強のために車両の大型化も進めていますが、これは当然車重を増加させることに繋がり、仮橋への配慮がネックになってしまうという面もありました。

明治三十六年、…同年九月、將来の品川・神奈川間の直通運轉に備へ、五〇馬力電動機四箇附ボギー車一〇輛の建造認可を出願した處、速度制限問題及重量增加に伴ふ六鄕橋梁補强等困難な問題に遭遇し、翌明治三十七年七月、漸く認可を得て九月竣工した。

(同239ページ、…は中略、太字はブログ筆者)


最終的に仮橋での営業は明治44年までの10年に及びましたが、小破による運行途絶はあったものの、何とか流失までには至らずにこの10年を乗り切ったのは、隣の六郷橋もほぼ同期間を乗り切った点と併せて考えると、左内橋よりは幾分強度面では優れていたのか、それとも幸運にもこの期間の水害がそれほど甚大ではなかったのか。俄には判断できませんが、何れにしても営業面では綱渡り状態を続けていたのは確かな様です。

これを解消すべくいよいよ鉄橋架設に取り組む訳ですが、その段の「沿革史」の記述は次の通りです。

斯くて新假橋の竣成に依り、明治四十年十一月初めて複線運轉を行つたが、一方鐵橋の設計に就ては度々變更せられ、同四十二年五月に至り、工事準備に着手、橋臺橋脚及び付屬土木工事(工事區域四十七鎖)は鈴木由三郎氏に請負はしめ、鐵桁は川崎造船所に註文した。此の工事中明治四十三年九月の大洪水のため、假橋の一部破損して、五十六日間渡船連絡を行う等の事となつたが、同四十四年三月、着工以来一年有半にして全部竣功し、同年四月一日に開通した。そして之が開通は輸送力を增大し、恰も花季の乘客輸送に遺憾なからしむるを得た。

(同45ページ)


…花見の書き入れ時にちょうど間に合って良かった、というところでしょうか。

さて、多摩川に架けられた鉄道橋を架橋順に並べると、こうなります。
  • 明治5年(1872年) 最初の鉄道橋(初代六郷橋梁)
  • 明治10年(1877年) 六郷橋梁鉄橋化
  • 明治22年(1889年) 甲武鉄道(立川〜日野間)
  • 明治34年(1901年) 京浜電気鉄道(木橋による仮橋)
  • 明治39年(1906年) 京浜電気鉄道(複線化に伴う2本めの仮橋)
  • 明治44年(1911年) 京浜電気鉄道(鉄橋化)

以下略しますが、まだ東急も小田急も京王も登場する前の時代です。後に中央本線として官営化される甲武鉄道は別として、京浜電気鉄道の取り組みは意外に早いことがわかります。

この甲武鉄道が架けた多摩川橋梁はまだ現役で使用されています。曲がりなりにも民間鉄道が初めて多摩川に橋を架けたことになるのですが、Wikipediaの諸元を良く見ると施主は確かに甲武鉄道ですが、橋梁設計は「官設鉄道」になっています。つまり、甲武鉄道の頃はまだ鉄道用の橋梁の設計は、明治政府が抱えている技術者の力に頼らなければならなかったことになります。鉄道橋の設計を行うに足る技術がそもそも民間には流通していなかったと読むべきか、それとも技術はあったが明治政府が民間の設計技術を信頼していなかったのか、はたまた治水に悪影響を及ぼす様な施工をされるのを恐れて民間に自由にさせなかったのか…理由がどの辺にあったかは、この事実からだけでは俄に判断は出来ません。

ただ何れにせよ、京浜電気鉄道の六郷鉄橋は、多摩川を越える鉄道橋としては最初に純粋に民間が設計から行った事例であったということになります。つまりそれだけ、京浜電気鉄道としては高いリスクを背負っての架橋工事を行ったことになります。請け負った「鈴木由三郎」という人は、ネット上を検索してみたところ「月島の渡し」の由来や東京帝国大学の医科大学教室棟の建設にその名前を見る土木請負業者であった様ですが、それ以上の略歴等は良くわかりません。もっとも、「沿革史」にある通り幾度かの設計変更「せられ」と表現していたり、更に「京浜急行電鉄史資料所在目録」(1981年)から該当しそうな鉄道省の特許を拾うと

明43.217 監158 多摩川橋梁設計変更ノ件
明43.712 監897 仮橋使用延期ノ件
明43.712 監898 橋梁設計一部変更ノ件
明43.822 監1063 多摩川鉄橋橋脚一部変更ノ件
明44.331 監397 多摩川鉄橋上及其ノ前後電柱建設ノ件


これらは表題だけが並んでいるので内容までは不明ですが、少なくとも鉄道省側も民間の鉄橋架設に関して手放しで任せていた訳ではなさそうです。恐らくはかなりの「指導」が行われたのでしょう。東海道本線よりも電化では先行した京浜電気鉄道の六郷鉄橋の電柱について、鉄道省が何を示唆したのかも不明ですが…。

その結果出来上がった六郷鉄橋は、低水路上はトラス6連、高水敷上は上路プレートガーダー24連の鉄橋という構成になりました。官設鉄道の六郷橋梁の低水路上のトラスが3連と長めのものになっていたのに比べ、蒸気機関車が走らない分若干軽めの荷重想定で済む筈の京浜電気鉄道がそれより短いトラス6連となったのは、やはり上記の様に色々とリスクがある中で技術的に無理は出来ないという判断になったからなのでしょう。

それでも、大師電気鉄道として開業してから順調に路線を伸ばす京浜電気鉄道、恐らくはその営業成績に事業全体としては前途を高く評価する出資者が多かったのでしょう。リスクがあっても事業が安定すれば営業収入から架橋コストを返済できる目処があって、結果としてそれだけの投資を集めることができた、ということなのでしょう。

さて、六郷橋の方は上記の通り明治39年に献納されて晴れて「国営」となった筈ですが、しかしその後も相変わらず仮橋が架けられては流失を繰り返す有様でした。スポンサーシップとしてはひとまず周辺住民に負担が行く事はなくなったものの、利用者の側から見ると引き続き流失によって多摩川を越えるルートが途絶する危険に怯えながら六郷橋を利用し続けていたことになります。鉄道の方は近隣に2本も橋が架かって水害に耐えているのに比べると、その扱いには随分と隔たりがあったことがわかります。

今は国道以下市町村道に至るまで、道路や橋梁の普請を国や地方公共団体が行うのが当たり前になっているので、当時の実情が見え難くなっている嫌いはあると思います。この頃はまだ、国費が特定の道路や人馬などが渡る橋梁のために支出されるケースは極めて限られていたため、既に通行量が多くなっていた六郷橋といえども、仮橋での運営が長く続かざるを得なかったのです。

現在の様に積極的に公費を投じて道路整備を行う様に政策が変わった契機は、関東大震災でした。その復興事業の中で抬頭する自動車交通への対応が見直され、官費による道路・橋梁の積極的な整備が進められるようになったことで、初めて多額の資金を必要とする道路用の橋梁工事にも費用が回ってくるようになった、という訳です。実際、六郷橋がタイドアーチを伴った立派な姿になった大正14年(1925年)には、多摩川では他に二子橋が竣工し、翌年に日野橋が架橋されるなど次第に江戸時代からの渡し場が橋へと切り替えられていくことになります。

裏を返せばそれだけ、長大な橋を架けるには高度な技術とそれに伴う高コストが必要で、それらを揃えるには鉄道の様に運賃収入から賄うスキーマを確保するか、あるいは国などの政治的な裏付けの大きいスポンサーシップがなければ難しかったということになるのでしょう。地元の一名主や、有志の共同出資では、到底それらを賄い続けることは出来なかった…これが、六郷橋の歴史を紐解くと明らかになって来る事実だったと思います。

何だか江戸時代の話から随分話が時代を下ってしまいましたが、こうした後の時代の変遷を見極めた上で、改めて時代を遡って当時の様子を検証し直してみるのも、技術の変遷を見極めるには有効ではないかと思ったので、こんな話にまとめてみました。如何だったでしょうか。

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【旧東海道】その2 六郷橋(2)

前回の続きですが、今回は一気に時代が飛んで明治時代以降の六郷橋の話。

六郷橋だけを見ると、明治以降の歴史は落橋と復興の連続です。明治7年(1874年)に鈴木左内が通行料を徴収する橋を架けたものの、4年後に早くも流失して渡しに戻ってしまい、その後も流失しては渡しに戻ってしばらくすると再び架橋、ということを繰り返し、大正14年(1925年)に架橋された橋になってようやく、昭和59年(1984年)に拡幅のために架け替えられるまで60年近く京浜地帯の大動脈としての使用に耐えました。その間50年の間、両岸の町は橋に泣かされ続けたと言って良いでしょう。

鈴木左内は川崎宿の対岸、多摩川の左岸にあった八幡塚村の名主でしたが、八幡塚村では六郷の渡しの渡船権を川崎宿に一手に握られている現状に不満を抱き、幾度も幕府に改善の願書を送っています。川崎宿にとっては宿場の財政を支える重要な収入源であった渡船業ですが、主要な街道の渡船に一方の岸の村だけが関与して利権を吸い上げるというのは、対岸から見れば不公平の謗りを免れないものではあります。結局徳川幕府が倒れるまで八幡塚村の願いが叶うことはありませんでしたが、新たな政府になって川崎宿の独占権も確固たるものではなくなったので、八幡塚村側にも「今度こそ」という思いは当然あったでしょう。

この新たな六郷橋についても、前回同様こちらのページが良くまとめられています。

ref-7 六郷橋の歴史


このページに「多摩川仮橋麁図」という、左内橋の大まかな様子が描かれた図が載せられています。これだけだと川の中に橋脚を何本立てたのかがわかりませんが、両岸の描き方などから見て恐らく江戸時代からの伝統的な工法での架橋であったと判断して差し支えないでしょう。当時の技術では径間長(≒橋桁の長さ)はおよそ3間(約5.4m)が限界でしたから、60mの川幅を渡り切るには最低でも11径間が必要ということになります。実際、「多摩川仮橋麁図」の下に明治30年撮影の六郷橋(明治16年に再架橋された後翌々年に破損して修繕した後の姿)の写真がありますが、径間長が川岸付近で短くなっている分本数が増え、全部で13径間で構成されていることが窺えます。

さて、何故そんな技術的な話を始めたのか、それは同じ時期にもう1本、隣に架けられた橋との比較をしたいからです。明治5年の鉄道開業と同時に供用開始となった、日本初の鉄道橋の1つである六郷橋梁です。

この橋についても、同じ方が詳しくまとめたページがありますので、そちらも併せて参照しながら論を進めます。

ref-5 JR六郷橋梁の歴史


こちらの橋の姿は同ページに写真と錦絵が掲載されています。写真の方は、モデルらしき人間が土手の上に座ってポーズを決めている所から(こういう写真が当時流行ったのです)、恐らくは絵葉書か写真集のために撮影されたと思われますが、高水敷の位置を現在と照らして考えると恐らく上流側右岸、つまり川崎側から撮ったものと思います。上記「JR六郷橋梁の歴史」から諸元に関する箇所を引用しますと

「六郷川の鉄道木橋」(「史誌第13号」)によれば、流水部(川崎側)を渡る本橋は明治3年10月に着工、全長115メートル、檜(ひのき)製のラチス形(菱格子状)のトラス橋7連からなり、橋台には石材が使われたものの橋脚は木造(松丸太)であった。屈撓(くっとう)防止のため、橋脚からトラスに斜材を掛けた、独特の対束補強構造が採られていた。(クィンポストの支柱は振動が甚だしいため後で追加されたものという説もある。)


開業時の汽車の重量はWikipediaによれば約23トン(改造後の重量ということで開業時の重量は不明ですが、実際の営業時の値に一番近そうな「機関車運転整備重量」を見ています)、客車の重量が不明ですが当時の木製の車体でも乗客を載せれば1両当たり10トン前後の重量は確実にあったでしょう。何れにしてもこんな重たいものを橋で渡すなど、そしてそんな重たいものが時速30km以上(開業当初の平均速度)で走るなど、言うまでもなく当時の日本にとっては全く未知の領域でした。ましてやその様な日本にとって前代未聞の橋を、江戸初期以降200年近くもの間架橋を断念していた川に架けようというのですから、短期間で竣工させるには既にその技術を持っていた所から買ってくるしかなかったのは当然のことでしょう。

果たしてイギリス人技師が設計して出来上がった橋は、当時の日本人がそれまで見たこともない姿をしていました。今でこそトラス橋など珍しくも何ともありませんが、当時は明治2年(1869年)に関内に架けられた吉田橋など数えるほどしか例がありませんでした。そして、この吉田橋がその物珍しさから新たな観光名所化したのと同様、この六郷橋梁も新名所となったのでしょう。川崎大師へ参拝する途上、もしくはその帰途に、六郷の渡しの土手の上からその姿が一望に出来た筈ですから。だからこそ、絵葉書や錦絵の格好の題材となり、今でもこうしてその姿を偲ぶことが出来る訳です。「JR六郷橋梁の歴史」に掲載されている錦絵は、まさにそういう位置からの姿が描かれていますよね。

そして、この六郷橋梁の姿を、鈴木左内も当然目の当たりにしている筈です。そして恐らく、「六郷川にも橋は架けられる」という思いを抱いたのではないか。僅か2年後には周囲を説得して架橋に着手し、更にその翌年には竣工させたのは、そんな思いが強く左内を支配したからだという気がします。

しかし、左内が江戸時代の道役・善兵衛の「六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ」を果たして知っていたかどうか、知っていても大丈夫だと判断したのか。また、如何にも重そうな汽車が客車を引いて六郷橋梁を渡っていくのを見ながら、その見慣れない橋の姿の中に洪水による被害を最小化する工夫が盛り込まれていることに気付けていたかどうか。実際、六郷橋梁は5年後に鉄橋に架け替えられていますが、それは決して水害で流失したからではなく、トラスを組んだ檜の腐朽が予想以上に速く進んだからでした。

日本の在来の架橋技術では、橋桁にはそれだけの長さを持った太い丸太や木材を、継ぎを作ることなく用いるしかありませんでした。径間長がせいぜい3間しか取れなかったのは、要するにそれ以上長くすると橋桁に使った丸太や木材が荷重に耐えられないからですが、トラス橋はそうした制約を木材などの部材を巧みに組むことによって荷重を分散させ、1つ1つの部材の耐力以上の荷重に耐えさせるための仕組みです。初代の六郷橋梁の「全長115メートル、檜製のラチス形のトラス橋7連」から計算すると、1径間が約16m、木製でも在来型の橋梁の3倍の径間長で重い汽車を渡すことが出来たことになります。

そして、径間長を長くすることが出来る結果、洪水時の弱点になりやすい水中の橋脚の本数を減らすことに繋げられる訳です。洪水時の過大な水圧や上流からの流下物との衝突による橋脚の破損を極力食い止めるには、何よりその本数を削減することが一番で、トラスはその可能性を飛躍的に高めた点で日本にとって画期的な技術でした。先ほど名前を挙げた関内の吉田橋も、水中に1本も橋脚を打つことなく両岸を渡すことが出来た点が、当時の日本の社会にとって驚異的なことであった訳です。

また、橋脚の本数が減ればそれだけ1本1本の橋脚に掛かる荷重が増えてきますが、こちらも丸太を従来工法とは異なる形に組み、部材の本数を増やして荷重を分散させる工夫がなされています。更に、写真に見られる様に上流側には「舟形」を組んで上流からの流下物による橋脚の破損を防ぐ仕組みが念入りに仕組まれています。

これらの傾向は、5年後の架替に際して、再び「JR六郷橋梁の歴史」から引用すると、

全長は500メートル、流水部は径間100フィートの錬鉄製のポニー・ワーレントラス(筋交の傾斜方向が交互に変わるタイプで、トラスが上面まで覆っていないもの)6連(182メートル)、避溢橋は上路鈑桁24連から成り、石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚が作られた。木橋の時期は単線だったが、鉄橋に改架された際同時に複線化が図られた。


と全面的に強化され、複線化によって更に列車通過時の荷重が増えているにも拘わらず、橋脚の本数を更に減らすことに成功しています。橋脚自体も煉瓦を使って耐力を更に上げると同時に、杭打ちを鋳鉄に変えることで根掘れへの対策を強化しています。そして、この強化された橋も増水によって落橋することなく、新たな橋に役目を譲るまで35年の使用に耐え続け、架け替え後もトラス部分が他所へと送られて更に使用され続けるほどの耐久性を見せたのです。

こうした新しい橋の姿を左内も観察していると思うのですが、「ここにも橋は架けられる」という思いだけで自費を注ぎ込んでしまったのか、それとも私費だけでは到底手の届かない工費を前に「まずは在来型の橋で蓄財してから」とそろばんを弾いたのか、何れにしてもその思いは江戸時代初期の六郷橋と同様、度重なる流失という現実の前に潰れていく結果に終わってしまったのだと思います。

但し、六郷橋梁の檜のトラスが僅か5年で朽ちたという件は、確かに防腐剤の塗布の問題もあったかも知れませんが、在来型の工法で造られた橋がもっと長保ちをした点と突き合わせて考えると余りにも短く、この点は前回引用した「江戸の橋」の記述を思い起こしてみる必要があると思います。前回の引用でも当時の六郷橋が「槇一式」によって架けられていることが記されていますが、その耐食性能の良さは些か誇張されているのではないのかと思えるほどの言葉で明治初期の人が表現しています。

府下千住大橋の橋杭ハ 槇の木にて二百年の久しきを経て尚朽腐(きゅうふ)せず。

 琉球人富川親方に()す 談たまたま木材のことに及べり 彼人の話に「チアギ」(即槇の木の方言)ハ 二三百年を経るも尚 朽腐せざる故に「ヲキナワ」にてハ 甚だ此木を貴重すと
(「江戸の橋」44ページ、明治10年『工業新報』投稿の引用)


「槇」とは「真木」で、必ずしも樹種を指す言葉ではなく「最上の建築材を」指すと、この本の別の箇所で説明されていますが、何れにしても部材の質を最良にすることで、橋の寿命を飛躍的に伸ばすことが出来る、というのが在来工法の考え方です。そういう視点からは、5年で腐らせた檜の橋を見て、当時の職人なら「何故そんな木を使ったのか」と考えたかも知れません。

これに対して部材を大量に必要とする西洋型の技術では「部材に橋梁用としては最良とは言えないものであっても、防腐処理によって寿命を伸ばすことが可能ならば、その分安価で豊富な部材を用いやすい」という考えに立っていたことが窺えます。そして、5年で朽ちた木製のトラスの代わりが鉄であったということは、石炭の大量投入によって豊富に得られる鉄骨の方が、こうした橋梁の部材としては向いているという判断へと切り替わっていったことを意味しており、こうした技術コンセプトが日本に浸透していく歴史が窺える様に思えるのです。

次回もう1回、もう少し時代が下った頃の話を続けます。



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