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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その3)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回も継立について取り上げつつ、それ以外の沿道についての記述を見ていきます。



相州鶴間・武州鶴間の位置
相州鶴間・武州鶴間の位置関係
継立場の位置が確定出来ないため
ここでは仮に、武州鶴間側は「日枝神社」付近に
相州鶴間側は「鶴林寺」付近にマーカーを置いた
両者の距離は約1km
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
長津田まで途中の継立場を「継ぎ通し」ながら荷物を運んできた武四郎一行は、一転して比較的短い距離を継いでいきます。史料によって記載されている距離に多少幅がありますが、長津田から相州鶴間までは、「相州青山往還宿々控帳」(下記参照)に従うと1里10町(約5km)、武州鶴間から相州鶴間の間は、「新編相模国風土記稿」に従うと何と僅か5町(約550m)しかありません。この場合、長津田から武州鶴間の間は差し引き1里5町ということになります。但し、「日記」は8町(約880m)と記しています。何れにしても、国境を挟んで同じ名前を名乗る隣村同士だけに、村の中心となる集落同士でもさほど距離がないのは自明のことです。


この武州鶴間と相州鶴間との間の継立については、天保12年(1841年)に成立した「新編相模国風土記稿」に、次の様に馬と人足の場合によって継立場が異なることが記されています。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


武四郎は「日記」に継立の事実を示すのみで、その経緯などについては何も記していません。しかし、武州鶴間から相州鶴間の間の道筋には取り立てて急な坂などはなく、2つの村の間を流れる境川にも橋が架かっていて、荷運の困難となる要因がこれと言って見当たりません。その様な道筋で、こんなに短い区間で荷継が繰り返されるとなれば、その都度荷物の受け渡しや馬の載せ替え、更には駄賃の支払いが必要になるなど、荷主には要らぬ手間が増え、所要時間が長くなるなどの不便を強いられることになります。前回見た通り、この道中では武四郎の荷物を継立人足に運ばせていた訳ですから、荷主として多少なりとも違和感を感じていてもおかしくありませんが、「日記」にはその様な記述は一切ありません。

何故これ程までに短い距離を継ぐ様な運用が行われていたのでしょうか。ここでは「日記」を一旦離れ、他の史料を2点ほど見て、この2つの村の継立に何が起きたのかを類推してみたいと思います。1点めは、前回も一部引用しましたが、享保14年(1729年)の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページ)です。この史料は武州鶴間側の当時の名主家に伝わる文書で、相州鶴間が武州鶴間を相手取って訴訟を起こした際の一連の顛末が、双方の書状や裁許状などの写しによって明らかにされています。長大な文書ですので全文をここに掲載することは出来ませんが、裁判の経緯を掻い摘んで記せば、次の様になります。

  • 訴訟を起こした時点では、矢倉沢往還の継立を務めていたのは相州鶴間のみで、武州鶴間は務めていない(と、相州鶴間側が主張する)。
  • これに対して、当時何も夫役を担っていない(と相州鶴間側が主張する)武州鶴間にも継立役を負わせるべきとするのが相州鶴間側の主張。
  • 武州鶴間側は、既に武州木曽の定助郷を勤めており、また相州鶴間や長津田には歩行人足を出しているのだから、武州鶴間を無役とする相州鶴間側の主張は間違っていると反論。
  • 武州鶴間側の証人として武州木曽の名主が呼び寄せられ、武州鶴間側の主張通り、同村の定助郷を務めていると証言。


木曽一里塚碑
相州淵野辺村から境川を渡った先に位置する
府中方の小野路にも一里塚碑が残る
ストリートビュー
「今昔マップ on the web」で
同地の地形図の変遷を見る
武州鶴間が武州木曽の助郷を務める様になったのは、徳川家康の没後の元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へ遷座する際に、後の府中通り大山道を通過した時のことであることが、武州鶴間の反論でも、武州木曽の証言でも触れられています。武州鶴間から木曽までは直線距離でも8km以上も離れており、かなり遠方の村々まで助郷に駆り出されたことになりますが、この遷座の際はかなり大掛かりな行列を組んでいた関係で、隣接する村々だけでは人馬を補えなかったために、多少遠方の村にも助郷の要請が行ったのでしょう。その時の縁で、その後も木曽まで助郷を務めに行っていたことが、武州鶴間が矢倉沢往還の継立を拒否する根拠になっていた訳です。


また、武州鶴間は反論に際して自村を矢倉沢往還の「間の村」と表現しており、長津田や相州鶴間にも人足を出していると書いています。つまり、この時点では正式な「継立村」ではなかったことになります。この人足の出し方が、既に継立に近い運用であった様にも読めるのですが、何れにせよその様な事実があったとすれば、相州鶴間はその事実に目を瞑って訴訟を企てたことになり、その「勝算」を何処に見込んでいたのかが気になります。

こうした双方の申し立てを受けて、幕府の道中奉行や勘定奉行、更には江戸町奉行に寺社奉行が加わって、総勢10名の奉行が下した裁許は次の通りです。武州鶴間側の言い分が全面的に認められ、相州鶴間の訴えが退けられる判決となりました。

右御吟味被成候処、訴訟方相州鶴間村ゟ相手武州鶴間村ヲ一村之様申立、馬継不仕由申上候得共、相州・武州と国を隔候得、往古一村ニ而候とも、別村分り伝馬継候儀其所之例ニ而、古来ゟ相州鶴間村伝馬を継キ、武州鶴間村木曽村定助勤、其外江茂歩行人足継キ来り候間、訴訟方鶴間村申所難立、不及御沙汰候由被 仰聞、御尤に奉存候、依之有来り候通相州鶴間村伝馬継いたし、武州鶴間村定助・歩行人足(ママ)格〻可相勤旨被仰渡、双方奉畏候、右被仰渡候趣相背候ゝ、御科可被 仰付候、為後証連判一札差上ケ申所仍如件、

(上記書316ページより)


興味深いのは、ここで相州鶴間は武州鶴間とは元は1村であったという主張をしており、奉行もひとまずはその由緒を吟味した痕跡が見られることです。鶴間郷がやがて境川を境に分かれていった事情については、かつて武相国境を検討した際に少々検討しました。戦国期には既に別々の村となり、それぞれの領主によって収められていたであろうと考えられる鶴間が、享保の頃まで時代が下っても、なお奉行の面前でこの様な由緒を自村の主張の補強のために使っていたことになります。かつて同じ村であったという「義理」もあるのだから、ということになるでしょうか。自村の主張を少しでも正当化する意図が垣間見得ます。そうは言っても、享保の頃には既に別の村に分かれて独自の活動を行って久しいことが認定されてしまい、主張は認められずに終わるのですが、村のこうした由緒が時代が下っても影響を及ぼしていた一例と言うことが出来ます。

一方、相州鶴間としてはかなり無理のある訴訟であったにも拘らず、江戸の奉行所まで通う労力を掛けてでも敢えて訴えを起こすだけの動機があったことになります。それはひとえに、継立にかかる労力負荷が重荷になっていたということに尽きるでしょう。相州鶴間の継立は矢倉沢往還の東西方向だけではなく、八王子道の南北方向も担っていました。ですから、必ずしも矢倉沢往還だけの輸送需要だけのことではないかも知れませんが、2本の道の継立のために人馬を出す負担が過重になっていたからこそ、武州鶴間にも歩行人足を出すだけではなく、より本格的に継立役を分担して欲しいと考えた筈です。

当然ながら、その背景には矢倉沢往還の継立に対して、当時既に相応の輸送需要が存在していたことになります。その点で、この享保14年の裁許の一件は、当時の矢倉沢往還の継立の実情の一端を窺わせる史料であると言えます。

しかし、訴訟によって相州鶴間の訴えが否定されてしまったことで、武州鶴間はそれ以降も「継立村」となることはなくなった筈です。奉行の裁許が出たことを考えると、少なくとも相州鶴間側からこれを覆すのはかなり困難なことになったと考えられます。



次に、「新編相模国風土記稿」成立の3年前に当たる天保9年(1838年)に作成された「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307〜310ページ)には次の様に記されています。


人足之義

前鶴間ゟ向鶴間迄賃銭八文請取継立仕候、馬長津田ゟ向鶴間迄附越候、

(上記書307ページより、字下げも同書の文字数に従う)


ここで「前鶴間」と書いているのが武州鶴間、「向鶴間」が相州鶴間を指しています。一見すると、この記述は「風土記稿」とほぼ同様の運用を記述している様に見えます。しかし、上記引用箇所の少し手前で、長津田の次の継立場については

相州鶴間迄壱里拾町

と記しており、相変わらず長津田から相州鶴間に継いでいた様にも読めます。つまりこれだけだと、武州鶴間から相州鶴間の間だけ継立を請け負っている様にも読めてしまいます。その点で、この文書の記述は相互に若干混乱している様にも見受けられます。

この文書が写しであることから、原本の記述がどうであったのか、精確なところを読み取るのは難しくなっています。しかし、記述の整合性が今一つ綺麗に均されていない様に見えることから、この「人足之義」のくだりは後から追記された可能性もあると考えられます。それであれば、その際に「相州鶴間迄壱里拾町」の一文は訂正を入れ損ねたものとも読み取れます。

こうした混乱からは、武州鶴間が増え続ける矢倉沢往還の継立に対して引き続き人足を出し続けてはいたものの、飽くまでも享保14年の裁許に則って対応していたことが窺えます。つまり、この時点でも武州鶴間はまだ「間の村」という認識でいたのかも知れません。ただ、「新編相模国風土記稿」の「下鶴間村」の記述では、継立先について特に表現が分けられている訳ではないので、「武州鶴間」も継立村の1つであるかの様に見えているということが言えます。

「日記」に話を戻すと、武四郎の武州鶴間と相州鶴間の記述では、継立場の規模等に差異があった様には見えません。実際には相州鶴間の方が八王子道の継立も請け負っていた関係で武州鶴間より多少なりとも規模が大きかった筈ですが、こうした記述になったところから考えると、武州鶴間の継立場も「間の村」が片手間にやる程度のものではなく、実質的に常設と見える様な風情の場所で運用がなされていたのかも知れません。

因みに、矢倉沢往還を往来する「大山詣で」の参拝客が増加してきたのは、大山講が隆盛した江戸時代の中期頃、宝暦年間以降と考えられ、享保14年の裁許よりは後年のことになります。「日記」では、武四郎は武州鶴間、相州鶴間とも「茶店」が存在したことを記していますが、武州鶴間も増大する「大山詣で」の参拝客を無視出来なかったことが窺い知れます。

また、相州鶴間には旅籠が数軒あった筈なのですが、、武四郎はその存在を記していません。見逃してしまった可能性が高いと考えられますが、一方で明治元年に「神仏分離令」が発令された影響で大山講も大きな影響を受けていましたから、沿道の宿泊施設もその動向を見極めて店仕舞いするなどの動きがあった可能性もあります。これも他の史料との照合が必要な箇所と言えるでしょう。



ところで、事情は定かではありませんが、武四郎はこの道中ではかなり先を急いでいた様です。日程を見ると、あるいは東京から京都へ還幸していた明治天皇が、何時再び東京へ行幸することになるのかわからなかったからとも思えますが、「日記」の文面からは当の武四郎にさほど「焦り」を感じるのが難しく、彼にとっては別段普段通りのペースで進んでいたのかも知れません。

「日記」には長津田で昼食を摂ったことが記録されています。初日の宿泊地は厚木ですが、赤坂からの距離は途中の経由地によっても変わって来ますが概ね12里以上になります。東海道を進んだ場合には初日には精々戸塚辺りで宿泊するのが通例であったことと比較すると、相模川を初日に越してしまう武四郎の行程は、当時としてはかなりの「強行軍」と言えます。因みに、赤坂から長津田までは8里あまりもあり、この日の行程の半分以上を進んでおり、厚木の渡しを渡る頃には日が暮れていますから、冬場で日が短いことを考慮しても、長津田での昼食は幾らか遅い時刻になった可能性はありそうです。

以前このブログでも何度か取り上げた渡辺崋山の「游相日記」(天保2年・1831年)では、途中宿泊した折に主人と深夜まで酒を酌み交わして翌日は遅く出発したこともあって、1日に進む距離が短くなり、荏田と下鶴間で宿泊したことが記されていますから、「日記」とは極めて好対照な道中だったと言えるでしょう。

武四郎の道中が日程的に余裕がないものであった分、道中の周景の描写は比較的薄めになったのではないかと思われます。自宅を出てから相州鶴間に到着するまでの間の記述には、各継立場の簡単な様子と脇道に関する記述が出る程度で、周辺の田畑や作物についての記述は一切現われません。相州鶴間に着いた所で初めて

地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。從是小松原、大松原等有中を正面さして一筋道。見むきもやらず左右處々に畑も見ゆれども何れも芋麥のよし也。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより)

という、周辺の田畑についての記述が現われます。

地味の良さは人足から伝え聞いた可能性もありますが、冬場で休耕中の田畑が多い分、土の状態が見えやすかったということかも知れません。食べているものが良くない様に見えるというのは、茶店などで休憩している旅人の皿の上を見たのでしょうか。麦は冬を過ごさせるものですから実際に栽培されているものを見ている筈と考えられますが、やはり冬場では栽培されているものも乏しいことから、同行する人足に話を訊いたのでしょう。

鶴間以西の矢倉沢往還
鶴間以西の矢倉沢往還のルート図に
数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの
矢倉沢往還のすぐ南側に引地川源流地が見えるほか
かつての谷戸と思しき窪地が南北方向に何本も並んでおり
何れも矢倉沢往還の近くに端を発しているのが窺える
矢倉沢往還の走る辺りが
相模原台地の地下水が地上に現われ始める地帯に
相当していることがわかる
(「地理院地図」上で作図したもの
をスクリーンキャプチャ)
相州鶴間の水田は境川と支流の目黒川沿いに集中しており、その西側は相模原台地の上に当たり、水田に必要な利水が確保出来ないために、畑が大きく広がっていました。「大和市史4 資料編 近世」のまとめるところによれば、下鶴間村の村の水田14町7反3畝2歩(約14ha)に対して畑が74町1反9畝12歩(約74ha)あり、全耕地面積の8割以上を畑が占めていました(35ページ)。更に、村の西側は「相摸野」の南端が大きく占め、「鶴間野」などとも呼ばれるこの地は、西隣の栗原村に差し掛かる地域まで入会地となっていました。

「日記」の記述は、基本的にはこうした土地利用の実状をよく反映していると言えます。「小松原」「大松原」とあるのが、武四郎の見た「相模野」の描写ということになるでしょう。とは言え、やはり先を急ぐ道中では周囲に細かく目を配るほどの余裕はなかったと思われ、まして土地勘のない村の実状について掘り下げたことを書くのは無理なことであったでしょう。人足が相手では、聞き出せる村の実情についての情報も、限られたものになってしまうのは避けられないところです。

この点は、崋山の「游相日記」と比較するとその違いが良くわかります。彼の道行きの目的の一つは、その途上の農産物などを視察することにありました。その分、武四郎に比べれば「相模野」についての予備知識もありましたし、前日までの道中に現地の人々に訊ねて仕入れた情報も持っていました。その分、武四郎の「日記」の記述よりも一歩踏み込んだものになっています。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

鶴間原出づ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よつて、柴胡(サイコ)の原ともよぶ。諸山いよいよちかし。

(「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)所収、327ページより)


崋山はこの地域の養蚕についてとりわけ関心を持っていたことが、桑と山桑(柘)の違いについて具体的に記しているくだりからも窺えます。また、別の場所で長津田や鶴間が養蚕を行っていることを記していることからも、この地が養蚕に積極的に取り組んでいることを知った上で周囲の様子を見ていると考えられます。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via
ウィキメディア・コモンズ.)
そして、崋山自身が俳諧に精通していたこともあり、「相模野」が「柴胡が原」とも呼ばれていることは承知であったのでしょう。崋山が旅した天保2年9月22日(グレゴリオ暦:1831年10月27日)はミシマサイコの花期(概ね8〜10月)としてはほぼ終わり頃で、運良く道端で咲く柴胡の花を見られたかどうか微妙なことから、「柴胡多し」の記述を字義通りの目撃情報として受け取るべきかどうかは一概に言えませんが、少なくとも崋山が「相模野」に差し掛かった折に「柴胡が原」のイメージを重ねて見ているのは確かでしょう。

武四郎は、道中通過する地域についてのこうした予備知識は、持ち合わせていなかったのでしょう。また、桑は冬場には葉を落とすことから、周囲に桑を植えている家や畑があることに気付き難い季節だったことは考えるべきかも知れません。もっとも、武四郎が人足との会話で比較的裕福な村であると知らされた際に、継立や養蚕など村の経済の支えになり得る稼業について話題にならなかったのかという点は気掛かりです。特に養蚕は、幕末の開国後にそれまでの幕府の方針が転換されて積極的な推進・援助策が打ち出される様になっており、天保の頃とは違って憚りなく取り組むことが出来る環境になっていた筈です。しかし、「日記」には養蚕については触れられずに終わっています。あるいはこうした産業には、武四郎の興味が向かなかったのかも知れません。



今回は結局鶴間周辺の記述についての分析で終わってしまいました。次回はもう少し先に進みたいと思います。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その8)

前回まで「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見て来ましたが、今回は関連する話題をもう少し取り上げた上で、ここまでのまとめをしたいと思います。

相模原市のホームページには、「大沼の土窯つき唄」という仕事唄の歌詞と音声(MP3)が掲載されています。これは大沼新田で炭焼用の土窯を築く際に音頭を取るのに唄われていたものです。


大沼新田の明治39年測量の地形図
ほとりに「大沼神社」が建つ沼が大沼、東に小沼
(「今昔マップ on the web」)
大沼新田(現:相模原市南区西大沼・東大沼その他)は江戸時代には淵野辺村の一角で、水の得にくい相模野にあって地下に宙水があり、その上に「大沼」が出来て深堀川という境川の支流の源流地となっていた地域でした。今はこの大沼も、その東にあった小沼も埋め立てられて宅地と化していますが、現在の区画の形状にはかつての沼地の存在を窺う事が出来ます。

元は境川対岸の武州木曾村との入会地でしたが、元禄年間に知行替えによって代官支配になったのを切っ掛けに新田開発が行われ、宝永4年(1707年)に検地が行われて「大沼新田」が成立しました。しかし、土地が痩せていて耕作には不向きだった様で、「相模原市史 第二巻」では大沼新田の開発経緯について各種の文書を引いて解説した上で、次の様に記しています。

…上矢部新田村に比較すると、一戸あたりの平均所有反別は約三倍以上、一名あたりの耕作反別は約二倍以上となり、嘉永三年反別書上による場合は、なおこの二倍近くになるのである。これだけを見ると、大沼新田入植農民は恵まれているようにも見えるのであるが、大沼新田の場合はすべて見取り畑なのである。土地の伝承によると、開墾当初は肥料を与えなくても作物がとれたが、いく年かたつと土地が瘠せてくるのでそこを林畑として放置し、また新たに開墾したといっている。したがって嘉永六年(一八五三)の村高書上帳にも、烏山大久保領三九九石五斗九升一合中、本村出百姓分の四一石九斗七升三合は永荒引となって年貢の対象からはずされている。このように荒地が多かった上に、地味も瘠せていて、反収麦が四斗ぐらいしか収穫できなかった。田圃は大沼の池を利用したが雨が降らないと作れず、田植をしないで、ばら蒔きをする有様であった。

こんな状態だから、いきおい農間余業に頼らざるを得ず、養蚕や植林からの薪炭材の伐採その他が生業の主要なものとなっていた。

(上記書276〜277ページより、…は前略)


相模原市史 第二巻」では続いて薪炭材を得るために植林が進められ、麦蒔きが終わった農閑期に炭焼が行われていたとしていますが、その炭焼で使用する炭窯の構築については次の様に記し、その過程で「土窯つき唄」が唄われたことを紹介しています。

…庭の適当なところに深さ約一メートル、縦五メートル、横四メートルぐらいの矩形の穴を掘り、その中に一・五メートル(約五尺)に二・三メートル(約七尺五寸)の楕円を描いて、それに「ごず」(炭のくだけ)を五寸から一尺の厚さに敷き(これは土地の湿度の状態によって加減する)それに茅をのせる。そしてその上に一尺二寸に切った薪を二段に積み上げ、なおそれに「なぐり」(かさま・さしこみともいう)と称する細い薪を一〇把ほど一尺二寸から三尺ぐらいの厚さに積み重ねる。それらの全体には本町田・図師辺から買って来た粘土を約五寸ほどの厚さにすっぽりとかぶせる。ただ短辺の入口には積んだ薪のおさえとして二尺四、五寸の松その他の雑木の薪を立てかけて下には土管を置いて火口とし、反対がわには煙出しにする型をはめこんで置く。そして土がまつきがはじまる。部落のものがおたがいに奉仕しあって三〇人ぐらい集まり、手製の杵を逆手にとって、「おばばなーよ、どけえ行く、三升ざるをさげて、このえんやらやあ、よめの在所へ孫だきに、えーえんやーこのえんやらやあ」と土がまつき唄を謡いはやしながら周囲をめぐって、力をこめてつき固める。

(上記書277〜278ページより、傍点を下線に置き換え、…は前略、強調はブログ主)


この「相模原市史」に掲載された「土窯つき唄」は「木炭の博物誌」にも引用されています(154ページ)。歌詞が相模原市のホームページに掲載されているものと異なり、囃子詞も合いませんので、同一の唄か否かをこれだけでは判断出来ませんが、あるいは同じ節で歌詞を替えているだけかも知れません。なお、「神奈川県民謡緊急調査報告書」(神奈川県教育庁文化財保護課編 1981年)にも大沼の「土窯つき唄」は収録されていますが、炭窯の構築に際して唄われるとされているものは他には採録されていませんでした。

大沼新田の「土窯つき唄」の発祥を考える上では、同地で炭焼を行う様になる過程で、炭窯の築造技術がどの様に入って来たのか、特に土窯を使った炭焼が当初からのものであったのかどうかが気になるところです。ただ、前回まで見た津久井や宮ケ瀬の炭焼と比較した場合、少なくとも大沼新田の平坦な土地では横穴式土窯を掘れる様な斜面は存在しないことは明らかです。境川の河岸段丘面にはその様な斜面も存在しますが、ここは新田の地域の外にありますから、何れにしても横穴式土窯が津久井県から伝播してくる可能性は皆無だったと見て良いでしょう。他方、津久井の「ボイ炭やき」は手軽に大量に炭を焼くには良くても、単価が安くなることは避けられませんから、特に植林した林から炭材を伐り出せる様になった初期の頃にはそれほど豊富に炭材が採れたとは考え難く、あまり規模の大きくない大沼新田の炭焼には向いていなかったのではないかと思います。つまり、この地域に関しては当初から土窯を築いて炭焼を行った可能性の方が高いのではないかという気がします。それであれば、「土窯つき唄」はこの地で炭焼が開始されて早々に唄われ始めたのかも知れません。

もっとも、炭窯を造る際にはいざという時のためにも水が近くにあることが必要でしたから、大沼新田で炭窯の適地と言えるのは大沼から近い地域に限られていたことになります。「相模原市史」で炭窯が庭で造られていたと記すのも、水利の限られた土地では集落に近い場所で炭焼を行わざるを得ない事情もあったのでしょう。「木炭の博物誌」では炭窯を築く場所について「人家に近いところでは炭がまの煙が迷惑になる」(143ページ)としていますが、そこは事情を忍んで煙いのを耐えていたということでしょうか。

因みに、「相模原市史」は炭窯構築に必要な粘土を境川の対岸にある武州本町田村や図師村(どちらも現:町田市)から運んでいたとしています。富士山や箱根火山が過去に噴出させた火山灰土が分厚く堆積する相模原台地上では粘土が得難いことから、粘土層が露出している地域まで台地を降りて求めに行かなければならなかったのでしょう。炭窯の構築技術の変遷を考える際には、築造に必要な素材の有無も念頭に置く必要がありそうです。



愛甲郡の5ケ村の「御炭山」について見た際に、中荻野・下荻野両村が祀っていた「東照宮」を取り上げました。これらの村が神格化した家康を祀っていたのは、炭焼そのものへ成功を祈願するものと考えるよりも、家康がこの地に齎した恩恵への謝意に基づいたものと考えるべきでしょう。その点では、炭焼に関連した信仰の事例としてはやや特殊と言えそうです。

炭焼にもう少し直接的に関係しそうな信仰としては、「津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」(津久井郡文化財調査研究会編 1988年)が記す「山の神」が挙げられるでしょう。

信仰の対象は、山の神である。山の神は田の神が収穫が終わると山にのぼって山の神となると、言われるが、田の少ない津久井ではこうした伝説はない。山の神の縁日は一月十七日で、この日には「日待(ひまち)」を行い、山仕事に従事する者や猟師は山に入ることを禁じた。現在でも「山の神日待」を実施している地域があるが、最近では自治会の会合や新年会を兼ねて一年の計画をたてるという方法に変っている。また毎月の十七日に山入りを禁じている家もある。

山入りの行事は、二本の竹筒を水引きで結び中に酒を入れて山に供える。炭焼は、初山入(火入)の日と最終日(掃抜(はきぬき))には同じ行事をして簡素な祝を行う。

(上記書95ページより)


類似の信仰について記録がないか、神奈川県内の各市町史に付属する民俗編をざっと探してみたのですが、あまり記述を見出すことが出来ませんでした。ただ、意外にも「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」に同様の記述を見付けることができました。特に、縁日に山入りが禁忌されている点に共通する点が見られます。

山仕事をする人達は山の神を祀り、山の神様に仕事をさせていただいているという心持ちであった。毎月七日は山の神の命日だから山へ入ってはいけないといい、一般の人も薪採りで山に入る事をさけた。山の神の命日を八日だとする所や一七日とする所もあり江の島では八日・一八日・二八日は山に入るなといっている。

遠藤打越の炭焼きをしていた家では山の神のオヒョウゴを掛けて山講を行った。同じ遠藤神明谷には山の神の祠があり、二月一四日にオタキアゲといって正月の内飾りを燃やし、御馳走を供えた。また春は一月一七日、秋は一〇月一七日に山講を行い、この時薪や炭の値を決めた。部落によっては山仕事をする人々で太子講を持ち、一番年長者をカシラと呼んでカシラの家で寄合いをした。

(上記書335ページより)



藤沢市遠藤・打越の地形図と空中写真
現在も笹久保谷戸を中心に雑木林が残る(「地理院地図」)

どちらかと言うと炭焼に限定せず山仕事全般の神様という側面が強く、特に江の島では流石に炭焼は出来なかったでしょうから、木を伐る場合でも薪か木材だったでしょう。それでも、丹沢山地北部の津久井と相模原台地南端の藤沢市域に共通した信仰が見られることから、その間に位置する各村でも山仕事に従事する人たちの間で幅広く信じられていたものと思われます。ただ、こうした信仰が何時頃まで遡るのかといったことも含め、今回はあまり深く掘り下げることが出来ませんでしたので、機を改めて資料を集められればと考えています。



今回は近代以降の事情については詳細に触れる余裕がありませんが、ここまでの話に関連して2点ほどエピソードを取り上げます。

1つは「佐倉炭」についてです。例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」の出品目録には、旧相模国域からは
  • 足柄上郡谷ヶ村
  • 同郡川西村
  • 津久井郡鳥屋村
  • 足柄下郡沼代村
からの炭の出品が見られますが、この最後の沼代村(現:小田原市沼代)の炭は「佐倉炭」と名乗っています。当時の神奈川県域からは他に武蔵国多摩郡桧原村の炭が同じ様に「佐倉炭」と称して出品されています。

元は下総国佐倉藩の取り仕切る炭であった「佐倉炭」が出品されるとすれば、元来ならば明治以降の行政区画で言えば千葉県ということになる筈で、実際千葉県庁の出品物の中にも「佐倉炭」が含まれています。しかし、旧相模国域や武蔵国域で生産された炭が「佐倉炭」と名乗る例が示されている点からは、この頃には既に「佐倉炭」が地域を示すものというよりも一種の「ブランド」として独り歩きを始めていたことが窺えます。実際、時代が下って大正14年(1925年)の「愛甲郡制誌」でも

林產製造の中見るに足るべきものは所謂「相模の白炭」で古來「幕府の御用炭」と稱せられ名聲頗る高いものがあつた宮ヶ瀨村、煤ヶ谷村、愛川村等の奥山に多くを產し里山では黑炭を多く產出する、製炭法の當否は炭質の良否、燒步に深い関係のあるのは云ふまでもないことで先年白炭、黑炭(佐久良炭)の製炭法の講習を各所で開催して以來着々好成績を擧げつゝある。

(上記書208〜209ページより、強調はブログ主)

の様に、「佐倉炭」がその本来の地名から離れて表記まで変わってきている例が見られます。

「木炭の博物誌」では、現在の「佐倉炭」の産地は茨城や栃木で、特に従来からの製炭法を維持しているのは茨城県鉾田付近のみとしています(207ページ)。こうした記述からは、江戸時代に名を馳せた同地の炭焼がその後関東一円に広まる過程で、その名を引き継ぎながらも製炭法の方は更に各地で改良を受けていったものと思われます。「内国勧業博覧会」の例はその様な動きが明治初期には既に存在し、更に「愛甲郡制誌」の例は、かつて「御用炭」を産出し、その「佐倉炭」の発祥に際して技術を輩出した側の土地でも製炭法を「逆輸入」する流れがあったことを示しているのかも知れません。

もう1点は、神奈川県内の各市町史を点検する過程で、炭焼を養蚕や製茶と結び付けている記述が幾つか見られたことです。何れも相模原台地の上に位置する各市の「民俗編」に見られ、特に「座間市史」が比較的詳細に事情を書き記しています。

炭は主に商品として出荷することを目的に焼かれたが、ヤマを持つ人が材料の木材を提供し手間賃を払って炭を焼いてもらうこともあり、これを「賃焼き」といった。このような炭は養蚕の温暖育、すなわち蚕室を温めることに用いられたが、窯で一回焼くと、一年分の燃料として使うことができたという。

(「相模原市史 民俗編」74ページより、対象は旧津久井郡との合併前の市域が対象)

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、特に、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして蚕室の保温を行った。こうした意味において、養蚕とヤマとの関わりは深かったという。大正時代になると、座間宿に石炭屋が出来て、練炭を売るようになり、燃料は木炭から練炭に変わっていった。また、昭和十二年(一九三六)に陸軍士官学校が移転し、ヤマが減ってしまったため、養蚕組合では一時、麻溝台・大沼・谷口(相模原市)あたりのヤマを買って、薪炭を取りに行ったこともあったという。

養蚕組合が一番最後まで炭を焼いていたというが、炭よりも練炭の方が安く手に入るので、養蚕用の燃料も徐々に木炭から練炭へと変わった。その後、養蚕組合でも、粉炭を買って練炭の製造を始め、レンタンブチと言って、練炭を共同で作ったという。」

(「座間市史6 民俗編」219~220ページより)

家庭用の炭は、たいていはゾウキ(補注:ハンノキなどの雑木を焼いて炭にしたもの)で、良質なカタズミ(補注:クヌギ・ナラ・カシを焼いた堅炭)は、養蚕やお茶作り用に使われた。深見あたりでは、とくにお茶作り用にホイロ(焙炉)で使う炭を買いに来る人が多かったという。

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、ことに、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして、蚕室の保温を行った。春蚕(はるご)の時期は、二眠くらいまでの稚蚕期には、蚕室の炉の中へ炭を伏せ込んで暖をとるため、炭の需要が高かったという。しかし、マイシン(埋薪)という、薪も一緒に伏せ込む方法が採られるようになってからは、炭の需要は減ったという。

(「大和市史8(下) 別編 民俗」434ページより、補注は同所の別の箇所を参照の上ブログ主追記)

炭の用途は火鉢などの家庭用と、養蚕での部屋の保温や茶揉みに使うものがあった。中心は養蚕用でああったため、蚕が始まる前は忙しかったという。

(「綾瀬市史8(下) 別編 民俗」137〜138ページより)

炭焼きもまた冬から春にかけての小遣い取りの仕事であったが、大正時代の養蚕の盛んな頃には需要も多く、七、八月を除いてどこでも冬の間だけでなく一年中焼いていた。その頃には年平均三〇俵位は必要だった。それ程養蚕をしなくても、製茶には一俵位必要だし、普通年に一五俵もあれば充分だった。」

(「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」332ページより)


高座郡は明治時代に入って神奈川県内でも特に養蚕の発展が著しかった地域の1つです。同郡の村々は江戸時代には冬場の農閑期に炭焼を行っており、相模国西部の山間の様に年間を通して炭を焼いていた訳ではありませんが、こうした地域が寧ろ明治時代以降の養蚕の隆盛に伴って、その下支えとなる燃料として炭を自給する様になる傾向を示したことになります。「相模原市史」の場合だけ少し傾向が異なりますが、これは大沼新田の雑木林がこの頃には広大になり、外販用の炭焼が盛んになったことが背景にあります。「座間市史」の記述には、同時期に廉価で入手出来る様になってきた石炭との競合が指摘されていますが、石炭の場合は閉鎖空間での燃料として用いるには脱硫したものを使う必要があることから、その加工の手間で必要となる労力や経費を合わせた時にはまだ自前のヤマで焼く炭にも分があったということでしょう。「大和市史」では堅炭を養蚕などに用いる傾向があったことを記していますが、これは長時間蚕室を暖める必要があるために火持ちの良い炭が必要だったからだろうと思います。

近代に入って化石燃料の利用が増えていった中でも、炭は家庭用としてだけではなく、産業用途としても引き続き使われる局面が多々あり、そうした背景の下でなお盛んに炭焼が続けられていた、ということになるでしょう。



当初は4回程度でまとまるかと想定していましたが、思った以上に書くべきことが増えてしまい、今回を含めて8回になってしまいました。改めて、ここまでの記事の一覧を掲げます。


「風土記稿」が愛甲郡の各村の炭焼を取り上げたのは、明らかに小田原北条氏や「御用炭」の由緒を重視したものと言って良いでしょう。山川編で取り上げられた足柄上郡や足柄下郡の炭焼は、相模国全体で炭焼の盛んだった地域を考えると必ずしも地域の選択が妥当であったとは言い難い側面もありますが、相模国も山岳地域を中心に江戸の膨大な炭需要を下支えする地域の一角であったことは確かです。特に穀類の生産に乏しい山間にあっては、炭が村の稼ぎの主力となっていた地域が多く、荒川番所や川村関所でも貢税の対象として重視されていました。

その炭焼も白炭と黒炭に大別され、更に「御用炭」の様に将軍の茶の湯に用いられるものや、鍛冶炭の様に当時の産業用途のものといった種類に応じて炭が焼き分けられていたことも、伝えられている文書類によって明らかです。宮ケ瀬で発掘された「横穴式土窯」や、同地で行われていたと言い伝えられる「ボイ炭やき」の存在からも、相模国で焼かれていた炭が単一なものではなく、必要に応じて炭焼の方法を変えていたことを窺わせます。ただ、現状では当時のその具体的な技術を明らかにするには、史料がまだ充分とは言えない様です。

また、小田原の旅籠・小清水からの発注に見られた様に、炭焼では一度に生産される量が膨大となり、その運搬に必要となる労力も大きく膨れ上がる傾向にありました。つまり、当時の物流にとっても主要な運搬品目のひとつであったことがわかります。その様な品目が「日本木炭史」が指摘する様に運搬し難い性質を持っており、足柄上郡24ケ村が駄賃稼ぎの横暴を訴えた際の文書からも、炭の運搬が陸運にとって「難題」となっていた状況が垣間見えます。江戸時代当時の物流や交通事情を考える上では、こうした荷物の性質についても勘案する必要があると言えます。

江戸時代の相模国の炭については今回でひとまずの区切りとします。後日何か追記すべきことがまとまったら改めて取り上げたいと思います。

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柿について:「新編相模国風土記稿」から(その7)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に取り上げられた柿について見ていきます。前々回、前回と柿渋の貢税や流通を見るためにかなり厳つい話になってしまいましたが、今回は一転して柿にまつわる風習や民話を取り上げます。多少柔らかい雰囲気になると良いのですが。

柿の民俗誌―柿と柿渋」(今井 敬潤著 1990年 現代創造社)では、柿をはじめとする果樹を巡って行われていた「成木(なりき)責め」について、次の様に紹介しています。

…成木責めは小正月行事の一つであり、果樹に刃物で傷をつけ、「なるかならぬか、ならねば伐るぞ」と一人が言うと、もう一人が、「なります、なります」というような問答を行い、その年の豊穣を約束させるものである。問答の内容、対象となる樹には若干の違いはあるが、北海道・沖縄を除き、全国的に行われていた。成木責めを行う樹のほとんどは柿であるが、他の果樹について行っていたところもある。福島県(柿・梨)、京都府相楽郡南山城村及び福知山市(柿・栗・みかん)、島根県(柿・みかん・桃)、岡山県(柿・梅・桃)、熊本県阿蘇郡(柿・ゆず)などがそれで、わが国にある果樹のほとんどの種類がみられる。この中で、特に福知山市の栗、岡山県の桃はそれぞれの地域の特産果樹であり、その豊穣を願う農民の熱い思いが伝わってくる。

(上記書55ページより、強調はブログ主)

今でも地域によっては引き続き行われているものの、次第に廃れつつある様です。

「成木責め」が何時頃まで遡る風習なのかははっきりしませんが、

柳田国男は、成木責めを「草木が物を言ったと云ふ時代からの、古い仕来りとしか思はれぬ」としたが、多くの民俗学者は、これを比較的新しい風習であるとみているようである。すなわち中山太郎は、小正月の夜に婦人の尻を叩く呪術が全国的に行われているとして、成木責めは「此の婦人の尻たたきを果樹の上に移して結実の豊作を祈った呪術なのである」とし、鈴木棠三は粥占に用いた粥の木で叩くことが供進の作法としてあったものが、尻叩きや成木責めに発達した、とみている。また桜井徳太郎は、「この成り木責めのまじないは、今では(中略)こっけい極まりなき芝居となっている。しかし始源を訊ねれば、民間の関心を集めていたおどしの呪法から出発したものであることがわかる」としている。つまり、いずれも成木責めはもっと古風な習俗から発展して現在の形態になったとするのである。

(「成木責めと問樹と―日本と中国における果樹の予祝儀礼―」斧原 孝守著 2000年3月「東洋史訪」6号所収 18ページより、「Japanese Institutional Repositories Online」収録)

としており、さほど古い風習という訳ではなさそうです。とは言え、江戸時代後期には多くの地域で行われる様になっていたものではある様です。なお、上記論文で引用されている中山太郎の「果樹責」は「国立国会図書館デジタルコレクション」上で閲覧可能ですが、この中で成木責めの元となったと考えられる「嫁樹」や「尻叩き」といった風俗などについて紹介されています。

「成木責め」が行われていたのはほぼ全国的ということですから、神奈川県も当然例外ではなく、

十五日のところが多い。足柄上郡山北町の共和では実のなる木に一人が登り、一人が下にいて、下でなたで傷をつけ「なるかならぬか」というと上の者が「なります、なります」というのを、「なんねえ」となたで切るまねをする。するとまた「千万俵なりましょ、なりましょ」と上でいう。そこで切り口のところに十五日のあずきがゆをのせる。秦野市では一人で問答するのが多い。秦野市の弥勒寺や三廻部では「なるかなんねえか。ならねえと首ぞっきるぞ。なりましょ、なりましょ」といいながらなたで木の幹を叩く。弥勒寺ではこれをナリモッコという。

(「日本の民俗 神奈川」和田 正洲著 1974年 第一法規出版 243〜244ページより)

という記録があります。また同書では、前日14日が「サイトバライ」(セートヤキ(サイトヤキ)・ドンドヤキ・サギチョウ)で、川崎市宮内ではそのサイトヤキの燃えさしで成木責めをした、という例も併せて報告しています。この本では何れもどの果樹で行うかは記されていませんが、「秦野市史 別巻 民俗編」では

十五日には「かゆ」を使っての占いが今日でも田原地区などには見られるが、その占いの一種として成木責めがある。

庭の樹木(主にかき)にナタで傷をつけ、かゆを塗り、「なるか、ならぬか ならなきゃぶった切るぞ」と、樹木におどしをかける。

そのそばに隠れていた子供が木の代弁をして、

「成り申す、成り申す。」

と答えるのである。この成木責めを最後まで行っていたところは戸川、今泉、森戸などである。成木責めに関連した行事として、蓑毛にオテナガと呼ばれる行事がある。オテナガ(御手長)がどのような意味なのか伝承でははっきりしないが「今年の農作物のできをうらなう行事だと」伝えている。

(同書502ページより)

と、やはり主に柿に対して行われる風習であったとしています。その他、屋上屋になるので引用は省略しますが、「茅ヶ崎市史3 考古・民俗編」(561〜562ページ、「ナリモソ」と称されている)、「大磯町史8 別編民俗」(526ページ)、「城山町史4 資料編 民俗」(20ページ)でも、柿をはじめ栗・梅といった木々に対して行われていたとされており、更にまた、こちらの記事では平塚市土屋で柿の木で「成木責め」が行われていたことが記されています。但し、「相模原市史 民俗編」では成木責めは旧相模原市域ではほどんど見られないとしており(247ページ)、座間・海老名・大和・綾瀬・寒川の市町史の民俗編でも成木責めに関する記述がないことから、相模原台地の上に位置するこれらの地域では見られない習俗だったのかも知れません。

特に江戸時代まで遡った時には、農家の屋敷の庭に多く植えられていたのが柿であることを考えれば、屋敷に身近なところに植えられていた柿が成木責めの対象として最も多く選ばれていたのも自然なことでしょう。神奈川県内でも比較的広範囲にこうした風習があったということは、それだけ柿が多くの地域で植えられていたと考えて良さそうです。



柿が登場する民話として有名なものは「さるかに合戦」でしょう。江戸時代には既に「増補獼猴蟹合戦」として出版されたものが国立国会図書館に蔵書されているなど、広く知られた昔話として親しまれていた様です。

神奈川県内に伝わる民話で柿の登場するものがないか探してみたところ、「神奈川県の民話と伝説」(萩原 昇著 1975年 有峰書店)に津久井郡の話として「茶と栗と柿と()」という話が収録されていました。

むかし、あるところに、ちと頭の足りん息子がおったと。

村の若い衆は、汗水たらして働いてるっちゅうにこの息子ときたら、いい年をしてゴロゴロ、ゴロンと寝ころんでおった。

で、おとうと、おっかあは、みっともねえやら、情けないやらで困り切っておった。

ある日、おとうは、息子に、

「そんなにゴロゴロしていてよくからだに虹がわかねえもんだな。どうだ、町ばへ行ってこいつでも売ってきたら」

と、茶と栗と柿と麩を出してきた。

息子はあくびをしてから、それらを背負って、それでも出かけて行った。

町ばへ入ると、息子は、でかい声で、

ちゃっくりかきふ、ちゃっくりかきふ、

ちゃっくりかきふ、いらんけー

と、流して行ったが、町ばのもんは、何のことかさっばりわからんもんで、誰も呼びとめんかったと。

息子は、そっくり背負って戻ってきた。

「おとう、おっかあ、いま帰ったどう。腹へったで、飯にしてくんな」

と、土間に籠を置くと、囲炉裏端にぶっつわり大飯をかっこみ始めた。

おとう、籠の中をのぞいて、

「やいっ! 一つも売れてねえでねえか。てめえ、いままでどこをほっつき歩いていただっ!」

「んや、おらは、ちゃんと町ばを、ちゃっくりかきふ、ちゃっくりかきふ、ちゃっくりかきふ、ってどなって流していたんや。だども、誰も声をかけてくれんかっただ」

「なんや、その、ちゃっくりかきふ、ってのは」

息子は、むっとなった。

「なんやだと? おとうが、おらに売ってこいと言ったもんでねえか。茶と栗と柿と麩のことじゃ。おやじ寝ぼけてんのか」

「この馬鹿たれ。なんぼ忙しいというても、みんなくっつけて言うやつがあるか。いいか、茶は茶で別べつ、栗は栗で別べつ、柿は柿で別べつ、麩は麩で別べつなんや。わかったかっ! もういっぺん売りに行ってこいっ!」

つぎの日、息子は町ばを、

茶は茶でベーつべつ、栗は栗でベーつべつ、

柿は柿でベーつべつ、麩は麩でベーつべつ

と、流して行ったが、さっばり声がかからん。

そんでも、ホホンとして帰ってきた。

おやじと、おっかあはそれを聞いてあきれてしまい、

「馬鹿につける薬はないわい」

と、言うと、息子は、

「ほんなら、飲む薬でもいいど」

と、ぬかして大飯くらって、ゴロンと横になったとさ。

(上記書下巻33〜34ページ)



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相模原市緑区若柳の位置
北側に相模川を挟んで甲州道中の与瀬宿がある
残念ながらこの本では津久井郡で採録された話であること以外、具体的な採録地などが記されていませんが、「神奈川県昔話集 第二冊」(神奈川県教育委員会監修 1968年)では「茶・栗・柿」の話として津久井郡相模湖町若柳(現:相模原市緑区若柳、江戸時代には津久井県若柳村)で昭和36年(1961年)に採録されたものであることを記しています(111〜112ページ)。

「神奈川県昔話集」では同様の話が「日本昔話集成」(関 敬吾著 1950~58年 角川書店)にも収録されていることが指摘されており、ネット上で「茶と栗と柿」で検索すると幾らかバリエーションはあるものの、同様の話が多数ヒットします。「民話・昔話集内容総覧」(2003年 日外アソシエーツ)では、「茶栗柿」「ちゃっくりかきふー」などの名称の話が収録された民話集が30点以上掲げられています。その点では、特定の地域の景観や立地に依存した話ではないでしょうが、あまり能力の高くない倅が町に行って商いに挑むのですから、そういう町があまり遠い村では、ちょっとリアリティがないという関係はあるかも知れず、この若柳村も甲州道中の宿場町とは相模川の対岸という位置関係にあります。なお、「神奈川県昔話集」では「麩」は入っていませんが、全国の例では「麩」や「酢」を加えたものも多く、「神奈川県の民話と伝説」ではその点を考慮して加えたのでしょうか。

話の筋はともかくとして、父親が倅に「ちょっとこれを町で売って来い」と、さほどの仕込みも必要とせずに手渡した商いの品が茶と栗と柿であった、ということは言えるでしょう。これも当時の農家の一般的な風景が背景にあって成立する民話であり、その中に柿があったことからも、こうしたちょっとした商いの種として庭先や畑の畔で盛んに栽培されていたことが偲ばれます。



もう1つ、文化11年(1814年)の高座郡深見村(現:大和市深見)の名主であった小林家を訪問した小山田与清(ともきよ)の旅日記には、同家の先代の隠居所が柿の木の下にあり、その隠居が「柿園の翁」と自称していたことが記されています。

満守が父の烏知麿は早う世を捨てて、柿の木あまた植ゑたる下に草のいほり引きむすびて隠れ家となし、みづから称へてかきぞののをぢとなんいふ。そは花咲の翁のあとを慕ひ、またはななのくしびめでんの心なるべし。

源内は寛政九年(一七九七)七月に名主を退き、地頭所から苗字・帯刀を許され代官格を命ぜられ、惣領熊蔵が名主役を継いで源内を襲名した。翌年父源内は地頭所坂本家から三人扶持をあてがわれた(『大和市史』4資料編近世)。今なら定年退職年金というところか。

隠居源内は烏知麿(うちまろ)と改名し、しかも柿の木下の小庵にちなんで「柿園(かきぞの)(をぢ)」と自称したとは、その風流志向がしのばれる。与清は「花咲の翁」の下に「松永貞徳、号を長頭丸とも花咲翁ともいへり。京都に柿の木あまた掘り植ゑてそこに家居せしは、心を敷島の道によせて柿本のひじりを慕へるなるべし」と割注を加え、柿の木を植えて万葉の人麻呂を慕った貞徳のように、烏知麿も敷島の道(和歌)に心を寄せるのだろうとゆかしがっている。「ななのくしび」とは中国晋代の竹林の七賢人を思いあわせ、その隠居住まいをたたえたのであろう。

(「深見村小林源内と小山田与清」安西 勝著 1990年 「大和市史研究」16号 所収 2~3ページより)



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深見村小林家付近の空中写真(Googleマップより)
この小林家の位置する丘陵地は北側にかつての深見城址のある場所で、東側を境川が流れ、現在は東名高速道路に分断されているものの屋敷の前には水田が広がります。

この名主家を訪れた小山田与清は小林家とは親戚関係であった様ですが、和学者で詩歌も嗜む与清と源内は学問的・文化的な交流が深く、上記に引用した論文ではその全貌が説かれています。今回はその仔細には立ち入りませんが、隠居生活を送る庵が柿の木の下にあることを故事になぞらえて評する辺りに、その交流の雰囲気がにじみ出ていると思います。当時の農家の庭では珍しくなかった柿の木も、時にはこうして風流な景観を作り出す一助となった1つの例と言えるのではないでしょうか。

次回、近代以降の柿の生産の変遷を少し追って、ここまでの話をまとめたいと思います。

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上鶴間村以北の滝山道(その2)

滝山道の話は(その1)を書いてから随分と間が開いてしまいました。なかなかその先を調べる手掛かりが見つからないからなのですが、今回の継立の件を書いて一旦保留ということになりそうです。

前回も引用した「新編相模国風土記稿」の下鶴間宿の記述を改めて引用します。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


滝山道の方は前回見た通り引き続き相州高座郡内の各村々を通り抜ける道筋となっていました。しかし、それらの村々の中には継立の行き先である「武州多磨郡原町田村」はありません。つまり、継立はここで滝山道を離れ、境川を渡って武蔵国へと一足先に入ってしまうことを示唆しています。実際、「風土記稿」の各村々の記述では、何れの村も継立を行っていたとは記していません。

下鶴間→原町田の継立道
下鶴間→原町田の継立道
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込み加工したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
前回嘉永7年(1854年)の道標を兼ねた庚申塔のある三叉路を紹介しましたが、継立はここで東側の道へと進みます(「大和市史」第2巻第2編第4章「村の古道」による)。この先の道筋は「迅速測図」に描かれた道筋から判断すると、境川に沿って現在の鶴間橋まで降りてきたところで境川を渡り、その先で現在の都道56号線の道筋に沿って原町田へと向かいます。横浜線の開通に伴って道筋が分断されたため、現在の都道56号線はその手前で右折してしまいますが、かつての道筋はそのまま横浜線の線路に突き当たるまで残っており、横浜線を越えた先の細い路地を経て現在の都道47号線の道筋へと合流して原町田の継立場に入った様です。以上の道筋を「ルートラボ」上で描いてみたのが左の地図です。

さて、ここで問題は大きく分けて2つあります。1つは「継立はこの先何処で馬を継いだのか」という点です。そしてもう1点は、江戸時代の継立が当初からこの道筋を使っていたのか、変わったとすればそれは何時頃からで、何故なのかという問題です。「新編相模国風土記稿」は「八王子道」の継立と示唆していますから、何れにしても最終的には八王子方面へと送り届ける荷物を継いでいたと思われますが、その荷物が「八王子道」を進まずに別の方角へ向かったとすれば、何故その様な状況になっていたのかが課題です。

原町田村は現在のJR横浜線及び小田急線の町田駅周辺を中心とする地域で、現在は「町田駅」と称しているJRの駅も明治41年(1908年)の横浜鉄道開業の頃は「原町田」という名称でした。


原町田村は戦国時代には北の本町田村と1村で「町田村」と称していましたが、後に分村したことが「新編武蔵風土記稿」に書かれています。この「新編武蔵」では、原町田村で定期市が開かれていたことが記されています。

村の中央に東西へ通ずる街道あり、これを神奈川道と云、長八九町ばかり、又南北への往來あり、これ江戸への道なり、村内を經ること凡五町なり、…民間五十八軒、村の中央なる町の内に軒をつらぬ、土人農隙には男は薪を伐いたし、又は黑川炭を燒く、女は蠶を業とし、木綿糸を繰る、これらの物を每月二の日ことに村内にて市をなし、近鄕の人輻湊して賣買せり、

(卷之九十 多磨郡卷之二、雄山閣版より、…は中略)


「新編武蔵風土記稿」は「新編相模国風土記稿」と同じく昌平坂学問所の手によって編纂されたもので、起稿されたのは文化7年(1810年)、完成は文政13年(1830年)と実に20年もの歳月がかかっています。「新編相模」はそれに引き続いて編集が始められたのですが、恐らくはその間に編集方針が見直されたのでしょう。2つの風土記では記載されている項目に多少差があります。その違いのうち特に目立つのが街道や継立にまつわる記述で、「新編相模」の方では当時の相模国内の継立網をかなりの程度まで追うことが出来るレベルで記述されているのに対し、「新編武蔵」の方では残念ながらこうした網羅性が目指されておらず、特に脇往還の継立については記録されていない所が数多くあります。この原町田村もその1つで、「新編相模」では下鶴間村からの継立があると指摘されているにも拘らず、それを継いだ原町田村の記述にはその点が含まれていません。このため、下鶴間から原町田へと継がれてきた荷物が次にどちらに向けて送られたのか、わからなくなってしまっています。

先日紹介した「八王子千人同心の地域調査―武蔵・相模の地誌編さん―」(2005年 八王子市郷土資料館編)には、「新編武蔵」の地誌捜索に際して各村々に宛てて書上を提出する様に依頼した際に、どの様な項目について書くべきかを指示した「地誌捜索問目」が掲載されています(37〜39ページ)。言わば地誌書上の「テンプレート」なのですが、凡そ70あまりに及ぶ項目の中には

一村内 何方より何方迄の往来道有か、或ハ何地より何地江の伝馬継有か 継送ハ当村より何村々迄道法何里 但横道江継立候場所ともニ訳

(同書38ページ上段)

と、書上の項目として街道や継立に関するものも仔細に記述する様に指定されていたことがわかります。しかし、何故かこの項目の記述は各村で徹底できなかった様です。こうした状況が生じた理由についても今後改めて調べてみる必要はありそうです。

ただ、この「新編武蔵風土記稿」の「多磨郡」の部は先日も触れた通り八王子千人同心が地誌捜索を担当した郡の1つに当たります。そして、その草稿の一部が八木家文書として残っており、その中に原町田村の草稿も含まれていました。幸い、町田市域の草稿の翻刻が自費出版されていましたので、そこから原町田村の街道に関する記述を抜き出してみます。

街道 東より西するの一路 西森村野内にかかる事凡八九町にして 東金森村に至り神奈川往還なり △道巾九尺許 但原町田宿ノ内道巾ハ拾間許

南より北するの一筋ハ村内を経る事 凡五町許 道巾九尺許 北本町田へ懸り江戸街道なり △道幅九尺許

(「翻刻 八木家文書に見る「江戸時代の町田」―「新編武蔵風土記稿」の草稿」矢沢湊 2008年 32ページより)



現在の原町田4丁目付近の「神奈川往還」
ストリートビュー
明治時代以降の開発で道幅は却って狭まっている
「道幅10間」というと約18m、現在でもこれだけの道幅があればかなり広い歩道と自転車専用レーンを伴った2車線道路か、4車線の車道を確保することが出来る程の広さです。江戸時代の東海道でも主要な宿場での道幅は精々5〜6間といったところですから、10間というのはそれを遥かに凌ぐ、当時の江戸市中でさえなかなか見られない道幅です。

この記述が草稿であるだけに、本当にこんなに道が広かったのかという疑問も湧きますが、こちらのブログには幕末に撮影された原町田の写真が載せられています。これを見ると、右手の高札や左手の馬を繋ぎ留めるための柱の位置と両脇の家並みとの間に広い空間が空いており、道というよりも広場の様な景観が写っています。一緒に写っている人馬の大きさから見ても、確かにこの草稿の記述の通りの道幅があったことが確認出来ます。ここは現在の原町田3丁目〜4丁目に当たり、かつてはこの付近が中心地であったことが窺えます。

もっとも、これは継立場としての必要性からと言うよりは、やはりこの地で定期的に行われていた市のための広場として設けられた空間と考えるべきでしょう。接続されている道が9尺(約2.7m)と、継立が運営されていた道筋としてはやや手狭なので、そこまでの通行量があったとは考え難く、その継立のためのスペースとしては、他の街道の例と照らし合わせると不必要に広いと感じます。

この原町田の市については、上記の草稿を翻刻された矢沢湊氏が次の様に解説されています。

原町田村の成立について、造形美術家・三橋国民氏の研究を要約すると、三橋一族(土方・夏目・山村氏)は古来定住していた琵琶湖東岸付近から、主家(足利・上杉氏)の鎌倉下向に従って移住した。その後、関東各地の騒乱により最終的に一族は山内上杉氏の重臣大石氏の滝山城―沢山城に拠った。そして小武士団の長(三橋氏の祖先・新右衛門)は「一族の永世帰農」を、北条氏照に請願して認可を得たあと、永禄の初め頃に町田の原野へ一族は定着して、荒れ地を開梱しながら開村したものと見られる。更に一族の総意によって浄土宗勝楽寺が永禄十年(一五六七)に創建された。

三橋国民氏御所蔵の「明和四年(一七六七)原町田村古代旧絵図之写」(寸法縦27cm×横115cm)がある。…絵図の中央を左右に街道が通る。左は八王子方面、右は神奈川方面である。この街道は古来「巽(たつみ)街道」とも呼ばれ実際は北西から南東に走るのである。原町田村にはこの街道に沿って上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)の小名がある。上は浄運寺付近から北西の部分・下は勝樂寺付近から南東の部分で、中は上下に挟まれた浄運寺の東端から勝樂寺の参道迄の間であった。この中が「但原町田宿ノ内道幅ハ拾間許」の所であり、その距離は約三丁(約330m)である。ここに原町田村の殆どの村人が住居を構えていた。

(上記書131ページ、…は中略)


また、別の原町田の歴史や写真を紹介した書物では、秣場を巡っての争議に際して提出された訴状に記された由緒等を引いて、次の様に説明されています。

本町田村で「二・七の市」と呼ばれる市場が開かれていたので、これを分けてもらって市場を開設しようとした。しかし本町田村では、原町田で市場を開設することを承知しなかった。そこでときの領主北条陸奥守の家老、永野中将に市開設の訴願をして幾度かの話合いの結果、やっと本町田は「七の市」原町田は「二の市」と二つに分けて開設するということで解決し、天正十四年(一五八六)から市場が始まることになった。この件に関しても先きの「連署訴状」に次の如く記載されている。

「殊一月ニ市六市立申候所ヲ新町之者ハ古来之田地本町田村ニ捨置罷出候間、市之義ハ此方ニ立可申卜申上、六市なから原町田村ニ立置申候処二、本町田村之もの共、市ヲ望存知、又々間之原ニ罷出八拾年先きのへ申ノ年山屋を取立市を立可申計略仕候間、原町田村より陸奥守様御家老永野中将殿之申上候様ハ原町田村並ニ而又々山屋を立候へハ、馬草取場も無御座迷惑ニ奉存旨、猶森村木曽村入合草刈り場之由、三ヶ村一同御訴訟申上候処、双方被召寄対決之上、本町田之者市を望申候間三市返シ候者、山屋をやぶらせ可申由被仰付候間、原町田村へハ月頭之市ヲ望三市取後市ヲ三市本町田村に返シ、七拾七年先丙ノ亥之年山屋を引せ候て、干今両町田ニ三市ツ、立来り申候、月頭之市原町田村之取申儀右之証拠にて御座候事」。

(「絹の道・原町田」森山兼光 1983年 武相新聞社 98ページより)

幕府の農村商業停止方針に対して、原町田村は農村ではあるが、しかし市を開催して商業地として繁栄しているので、農間商いをさせて欲しいという「許可願書」がある。天保十四年(一八四三)七月の「農間商ひ渡世に付原町田村申上書」だが、この文中に「往古より月々六度之市場御聞済ニ相成」と記されていることを基に推測すると、文政末か天保に入った頃に、今までの「二の市」に「六の市」を加えて回数を増やし「二・六の市」とし、毎月六回開催するようになったのではないだろうか。

(同書100ページより)


つまり、この街場は戦国時代までは本町田(原町田の北方)の方で市が月6回(2の付く日と7の付く日)定期的に開かれていたものが、原町田が開墾された後にその半分を譲ってもらう形で市が開かれる様になり、やがて市が街道筋にあることが効いてそちらに賑わいが移っていったことになります。それであれば、それ以前はこの街場はほとんど存在しなかったと言って良く、同地で当初から継立が行われていた可能性はかなり低そうです。

また、継立がその様な道筋を辿っていたのであれば、継立以外の旅人などの往来はどうであったのかという問題も出て来ます。亀井野下鶴間での様子を伝える際に引用した「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」(天保9年の道中記と推定されている)は「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に収録されていてものですが、金沢文庫に収められているこの道中記の全文の翻刻は未出版である様です。「史料集(31)」には下鶴間での宿泊までの部分しか収められていないので、その先については原本を当たるしかないのですが、幸いなことに横浜市金沢区の生涯学習グループの活動でこの道中記を読む勉強会を催した際の記録がこちら(リンク先PDF)に公開されていましたので、今回はこちらを利用させていただくことにしました。

これによると、下鶴間で一泊した一行は翌朝6時に出発し、そこから1里ほど進んだところにあった「ケ成ノ宿場(地名不覚)」(上記活動記録による)で休憩しています。この道中記の著者が地名を忘れてしまったということなのですが、「かなりの宿場」という表現から考えると、この地が「原町田宿」であった可能性が高そうです。また、「宿場」という表現は同地で継立が行われていたことを示唆している可能性が高く、それであれば「新編相模」では八王子道沿いの継立が下鶴間村の先では記録されていませんから、やはりそちらの道を進んだのではなさそうです。但し、上記の「風土記稿」の草稿でも「原町田宿」という表記が見られるものの、同地の農間渡世を書き上げた享和4年(1804年)の史料が「翻刻 八木家文書に見る「江戸時代の町田」」や「絹の道・原町田」で紹介されていますが、これには旅籠など宿屋であったことを示す稼業が含まれていないので、街道の拠点としては飽くまでも立場としてのみ機能していたのかも知れません。これらの稼業の中では「酒そば」が2名、「草履草鞋」が1名いるのが、道行く旅人を当て込んだ稼業ということになるでしょうか。

原町田を発った一行は次に「小山村」で休息して腹拵えをしています。もっとも、「名物饅頭・うどん等相用、その風味至って宜しからず。 」と、かなり不満足な昼餉であった様ですが。小山村は相模国・武蔵国双方に存在するため、この記述だけであればどちらに来たのかを特定することは出来ませんが、原町田村で休憩したということであれば、その先で神奈川往還を進んだことになりますから、昼食を摂ったのは武蔵国側の小山村であったことになるでしょう。


馬場交差点の位置
そして、この小山村の域内に「馬場(ばんば)」という小名があり、現在も交差点に地名が残っています。更に、この交差点のすぐ南を流れる境川にも、「馬場橋」という橋が架かっています(「下馬場」交差点のすぐ南側)。ここは原町田からは8km弱(約2里)隔たっていますので、継立を行うとすれば丁度良い距離感です。ここから八王子まで更に10km程あり、山間を越えていく道筋になることを考えると、その間で更にもう1回馬を継ぐ必要がありそうですが、少なくとも地名との照合や、上記の道中記の記述を考え合わせると、この小山村で継立を行っていた可能性が高そうです。

但し、「新編武蔵」では小山村の項では村内を通過する街道についても、そこで行われていた継立についても、全く触れられていません。辛うじて小名の最後に「馬場」の名が記されているのみとなっています。先ほどの草稿には小山村の分が含まれていませんので、元から街道や継立について記述されなかったのか、それとも草稿にはあったものが割愛されたものかは不明です。

中途半端ですが今回は一旦ここまでとして、次回改めて江戸時代の滝山道の下鶴間以北の道筋について考えてみたいと思います。

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上鶴間村以北の滝山道(その1)

以前江戸時代の滝山道を藤沢宿から下鶴間村まで追いました。ここから北の道筋がどうなっていたかなのですが、当時の実情がなかなか十分に掴めずにいます。差し当たり、わかったことを書き並べてみようと思います。

今回も「新編相模国風土記稿」の記述からスタートします。「下鶴間村」の記述は以前も紹介しましたが、改めてここで引用します。
下鶴間:今でも黒塀の屋敷が残る
下鶴間の黒塀の屋敷(再掲)

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


これを受けて、下鶴間村の北に隣接する上鶴間村(現:相模原市南区上鶴間・上鶴間本町)から「八王子道」あるいは「滝山道」に関する記述を拾ってその先を追うと、次の様になります。
  • 上鶴間村:

    「八王子道村を通ず幅三間

  • 鵜野森村(現:相模原市南区鵜野森):

    「八王子道、南北に貫けり幅三間許

  • 淵野邊村(現:相模原市中央区淵野辺・淵野辺本町):

    「矢倉澤八王子道の二路共に幅三間村内を通ず、」

  • 上矢部村(現:相模原市中央区上矢部・矢部新田他):

    「八王子道東西に貫り幅二間、

  • 小山村(現:相模原市中央区小山・宮下本町他):

    「瀧山道村の中程を貫き西界にて北に折れ、武州小山村に達す、

(何れも卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より、強調はブログ主)



このまま橋本宿に向かうのかと思いきや、小山村の西の端で北へ曲がって武蔵国へと入ってしまうことが記されています。橋本村の記述を見ても、

八王子道係れり幅二間當所其繼立をなせり人夫四人、傳馬二匹を定員とし、北方武州多磨郡八王子、南方郡内、當麻村へ各二里八町を繼送れり、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)

と、「八王子道」とは書かれているものの、南は当麻村へと向かっていることを示唆していて藤沢方面への道があることは記されていません。もっとも、「迅速測図」を検討する限り、橋本宿の南端から東へ向かう道筋があり(現在の神奈川県道505号線と国道16号線の交差点付近)、この道筋が小山村に入って滝山道の筋に合流しています。


明治39年1/20000地形図「長津田」から下鶴間付近
(「今昔マップon the web」より)

まず、この道がどの辺を通っていたのかを突き止めてみましょう。「迅速測図」などを手掛かりに下鶴間宿からの道を辿ってみます。「迅速測図」では宿場の中程から北へ向かう「至原町田村」と記された道があり、上の明治39年の地形図でもほぼ同じ位置に北へ向かう道筋が見えています。この道は「迅速測図」で「至藤沢駅」と記された辺りの三叉路でふた手に分かれますが、このうち左手、つまり西側の道筋が八王子方面に向かう道筋です。一方、東側の道筋は下鶴間村からの継立を検討する際に追うことになります。


下鶴間宿からの道の三叉路に立つ庚申塔
ストリートビュー


旧浅間社・富士塚跡(ストリートビュー
国道16号の整備に伴って浅間社は移転した
この三叉路の角には今もストリートビューに見える通り庚申塔が立っています。この庚申塔は嘉永7年(1854年)の日付をもち、「右原町田八王子みち/左くほさハみち」と刻まれています。つまりこの庚申塔は道標を兼ねており、ここが古くからの道筋であることを物語っています。なお、「くほさハ」が何処の地名を指しているのかは未確認です。「さハ=沢」と言うからには何処かで谷戸地形を越える様にも見えてしまいますが、実際はここから先の道筋に谷戸らしい地形は武相国境を越えるまでありません。

また、このストリートビューの位置の背面には国道16号線が見えています。滝山道はこの辺りからこの国道16号線に時に重なりながら並行して相模原台地の上を北西へと向かいます。と言うより、この道が直線化されて経由地を変えながら、国道16号線として首都圏の環状道路の一角に組み入れられて現在に至る訳ですね。近代の道路交通網の整備の過程で江戸時代までの古い道筋の位置付けが変更されたことになります。現在もこの国道と重なっている区間の周囲に旧道の痕跡が残っています。

また、この国道の整備に伴って、かつてこの滝山道の脇にあった浅間社(現・浅間神社)が下鶴間宿の南側に移転し、跡地には富士塚跡を示す石碑のみが残されています。これも、当時の道筋を偲ぶ手掛かりと言うことが出来ます。

一方、最初に引用した「風土記稿」の下鶴間村の記述にある通り、滝山道は下鶴間村でふた手に分かれ、西側の道筋が下鶴間村を通らず台地の上を通過することについては以前も紹介しました。この道筋は現在は区画整理によって大半が失われていますが、国道16号線付近の曲線の坂道の区間が残されており、周囲の直線的に整理された区画の北端にあって、ここが古道であることを主張するかの様です。

滝山道:下鶴間宿から脇道を経て相模原市内を経由
滝山道の相模原市内の道筋
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
ここから先の道筋を、大筋でルートラボ上に引いてみました。この区間では境川の段丘のすぐ上の平坦地を進んでいることがわかります。標高グラフを見ても相模原台地のなだらかな地形のお陰で標高の変化が緩やかであることが窺えます。「迅速測図」などに見られる様に、この道の周辺は畑や桑畑が多かったものの、道筋に沿って各村の集落が連なっている区間があったことが窺えます。今もこの道沿いには、敷地の広い古い民家が点在しています。地下水が非常に深い位置にある相模原台地にあって、比較的水利の良い所を経由していたことになるのでしょうか。今回はこの沿道の集落の水利についてまでは調べ切っていませんので、この点は今後改めて見てみたいと考えています。

道幅については、上鶴間村から淵野辺村にかけては3間(約5.4m)、その先では2間(約3.6m)であったことが「風土記稿」に記されています。これは脇往還としては比較的広い道幅ということになるのですが、これをもって比較的交通量が多かったと考えて良いかは何とも言えません。この問題については次回改めて取り上げます。

なお、淵野辺から小山にかけての区間は、その多くが相模原補給廠などの敷地に飲み込まれ、道筋が消失しています。現在の国道16号線は、これらの施設を避けて南寄りを直線的に進むように計画されたことが窺えます。また、現在の古淵駅付近でも横浜線の開通に伴って一部道筋が消えている区間があります。

「風土記稿」の指摘する小山村の西境で北に折れるポイントですが、現在の相模原市中央区と緑区の区境に残る道筋がここに当たると考えられます。ただ、かつての小山村の範囲には現在の緑区東橋本の区域が含まれていますので、その点ではここは「西の境」と考えるには少々苦しい位置ではあります。


現在の境川・蓬莱橋付近(ストリートビュー
左の民家の陰に二十三夜講の祠が見えている
この道に沿って境川に降りると、現在は「蓬莱橋」と銘打たれた橋が架かっています。ここはかつては精進場で橋の名前も「精進橋」という名であったことから、確かにこの道筋が巡礼など村の外部からの旅人の往来に使われていたことがわかります。因みに、同地の伝承ではこの精進場は「あずきとぎばばあ」が出たために、穢れがついて渡る人もなくなってしまったたとされ、事態を重く見た村の名主が安永10年(1781年)に講中の願主となって二十三夜講を祀って橋供養を行ったと伝えられています。橋の名前もそれに伴って「蓬莱橋」へと付け替えられた様です。境川の流路は近年の治水工事に際して直流化が進められたために多少位置が変わっていますが、今も橋の近くには二十三夜講の菩薩が祀られた祠が立っています。

この橋を渡った先で現在は町田街道などと呼ばれる様になった道に少しの区間合流し、そこから鑓水方面の道へと入ります。この辺りからの道筋の検討からは次回以降に廻しますが、その前に次回は下鶴間村からの継立の行き先を検討するところから始めます。

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