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緑IT事務所「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」について、他

先日、twitter上に「今昔マップ on the web」の谷謙二さんのこんなツイートが流れてきました。

リンク先の「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」にアクセスすると、こんな地図が表示されました。

「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」初期画面
「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」初期画面

右下の「i」アイコンに、この地図についての説明が仕込んであります。

当サイトは、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』に記載された村(または宿、町、新田等)の大まかな位置を示し、国立国会図書館デジタルコレクションにおける該当ページへのリンクを提供するものです。

各村の位置情報は以下の方法で作成しました。

  • 風土記稿本文と迅速測図を参考にして現代の地名を比定
  • CSVアドレスマッチングサービスを用いて地名から緯度経度を取得

現在地の比定および位置情報の信頼性について一切の保証を致しません。

データはLinkData.orgで新編武蔵・相模国風土記稿 村データとしてCC-BY-SAライセンスで公開しています。


この地図を製作した緑IT事務所のニュースによれば、この地図が最初に公開されたのは2016年1月のことであり、また当初は「新編武蔵風土記稿」のみに対応していた様です。最初の公開から3年以上経過していますが、上記のツイートが流れて来るまで、私はこの地図の存在には気付いていませんでした。「新編相模国風土記稿」に対応したのが何時頃のことかは確認出来ませんでしたが、現在は両方の風土記稿を網羅した状態になっている様です。

私のブログでは、江戸時代の相模国内の村の位置を示す際には、現在の住所として残っている地名であれば「Googleマップ」上でエリアを示す地図を埋め込むなどの手法で紹介してきました。ただ、これは飽くまでも現在の住所であり、江戸時代の村の範囲を厳密に示すものとは必ずしも言えません。明治時代以降に様々な要因によって範囲が変わってしまっている例は数多あり、飽くまでも目安として示しているつもりです。この地図で示されている位置もその点では同じと言って良く、その点で上記説明にある断り書きは理解出来るものです。

初期状態の小縮尺では、地図上で相互に重なってしまう村の数が丸数字で表示されていますが、左上の「+」をクリックしてズームインしていくと、次第に表示される村の名前が増えてきます。それらの村名をクリックすると、バルーンの中にリンクが表示され、

「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」鵠沼村のリンクを表示させた状態
「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」鵠沼村のリンクを表示させた状態

このリンクをクリックすると、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている風土記稿の該当ページが表示されます。

国立国会図書館デジタルコレクション「新編相模国風土記稿」鵠沼村の該当ページ
国立国会図書館デジタルコレクション「新編相模国風土記稿」鵠沼村の該当ページ

「新編武蔵風土記稿」では内務省地理局のものを、「新編相模国風土記稿」では鳥跡蟹行社の方を参照している様です。「国立国会図書館デジタルコレクション」には、他に雄山閣版初版の風土記稿が収められていますが、そちらを参照する場合でも、ひとまず該当する村がどの巻に収められているかを確認することで、検索の一助になります。

「地理院地図」の様に、地図をブログなどの記事中に埋め込んで表示させる様なインターフェースは準備されていない様なので、今のところこのブログから直接該当箇所を表示させる様な使い方は出来ませんが、江戸時代の村々のおよその位置関係を知る上では非常にわかりやすいと思います。私のブログでは特に「新編相模国風土記稿」の参照回数が特に多いことから、右の「リンクツリー」の「参考資料」に、「江戸後期 武蔵・相模国 村名マップ」へのリンクを追加しました。



12月16日にYahoo!ブログのサービスが終了し、同サービス中の全てのブログが閲覧出来なくなりました。私のブログの記事中からは、5つほどYahoo!ブログへのリンクがありましたが、このうち期限までに移行を済ませたのは1件のみでした。この1件については既に移行先へのリンクの付け替えを済ませましたが、残りの4件については移行されなかった場合に備え、該当記事のウェブ魚拓を取得させていただいておりました。近日、これらのリンク先の変更を行います。
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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その3)

今朝方「その2」を上げたばかりですが、一気に行きます。

前回まで、江戸時代の東海道の保土ヶ谷から戸塚までの区間が、戦国時代の後北条氏統治の頃までは遡らない可能性が高いことを見てきました。そうなると、この区間については徳川家康が江戸入りした後に新たに開発されたことになってきますが、その点について「戸塚区」がなかなかユニークな指摘をしています。

戸塚区汲沢町…の旧家森家に伝わる同家家譜には次のようにある。

(家譜頭部略)

三代

義秀 森織部正、往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也。天正十九年村境(普請脱カ)を被仰付、谷切・峯切・道切・川切の四通の御触。義秀弟長慶は権大僧都法印、保土ヶ谷円福寺七代住職。

(家譜以下略)

(太田勇「鎌倉街道周辺の旧家を訪ねて」郷土戸塚区歴史の会発行「とみづか」第三号)

この家譜は直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難いが、三代義秀の時、天正十九年(一五九一)、山を削って谷を埋め、川の流れを変えて道を切り開く、まさに空前の大土木工事がこの地において行われたことを、簡潔な表現のうちに雄弁に物語っている。

この時、保土ヶ谷の権太坂を通り境木(地蔵堂が出来たのはもっと後の万治二年のことである)で武相国境を越えて品濃坂を下る道も同時に開かれたと思われる。そして森家家譜に出て来る谷切、峯切、道切、川切によって切り開かれた道は柏尾を経て矢部で柏尾川を渡り、吉田、戸塚を過ぎて大坂を登り、原宿から鉄砲宿の坂を降りて、遊行寺横へ出るというもので、汲沢村の村境南縁は、まさにこの新道の貫く所であった。…

(63~65ページ、文中太字はブログ主)


家譜が少々長いので該当する代である義秀の部分以外をカットしましたが、初代から十七代までの家譜がひと通り掲載されています。そして、三代の義秀の箇所以外では同種の事業を行ったという記述が見当たらないので、義秀の行った普請が森家の戦国時代から大正時代に及ぶ歴史の中でも異例の大規模なものであったことが窺えます。

「区史」自ら「直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難い」と認めているものの、確かにそれほどの普請を行う必要がある様な大規模な施設が、当時のこの地方に他に思い当たるものがないので、その点では普請を行った対象としては東海道が最有力候補ということになりそうです。

更に、この森家が汲沢村の名主であり、「往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也」とわざわざ断っていることから、中田と隣接する岡津の地に当時存在していた「岡津陣屋」のことが想起されます。

岡津陣屋は元は後北条氏が築いた支城の1つであった岡津城で、現在の岡津小学校と岡津中学校を含む一帯にありました。ここに、徳川家康が後北条氏滅亡後に関東代官の一人として彦坂元正を派遣して岡津陣屋を開いたのですが、元正はここで東海道整備の指揮に当たります。当然、普請に当っては周辺の村々の名主に声を掛けて回っていることでしょうから、森家はそうした指示を受けて実地に当たる立場にあったことになり、その観点でもこの家譜の記述は街道の普請を指すものである可能性がますます高くなると思われます。

以上、保土ヶ谷から戸塚へ向かう道筋が江戸幕府開設の頃の普請である可能性が高いことを長々と解説してきました。特に、この道が岡津陣屋の指揮の下に行われた可能性が高いことを念頭に置いて改めてこの区間の道筋を眺めた時に、昔ながらの伝統的なルート取りとは異なる道筋があることに気付きます。

旧東海道:川上川と平戸永谷川に沿う区間
旧東海道:川上川と平戸永谷川に沿う区間
旧東海道:不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進む区間
不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進む区間

(何れも「地理院地図」上で作図したものとスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」等を合成、
茶色の破線は旧東海道の道筋(概略):別ページで表示


それは、品濃坂を降りた辺りから川上川沿いを、更には平戸永谷川沿いを進んで赤関橋へと向かう区間と、不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進んで五太夫橋へと向かう区間です。


川上川(右)と平戸永谷川(左)の間にて(ストリートビュー

特に、川上川と平戸永谷川がごく細い地峡を挟んで隣接する間を東海道が抜けるこの場所は象徴的で、どちらの川が溢れても通れなくなる可能性のある、普通に考えればかなりリスクの高い所を通り抜けており、私は永年この道取りが大変不思議で仕方がありませんでした。多少なりともアップダウンを減らしたかったのだろうにしても、もう少し尾根筋を経てこの区間を回避することを考えなかったのだろうか、と。今はこの位置で川上川から平戸永谷川へ流入する様に潜函が埋められていますが、このことも現在の治水技術上から見て水害防止上対策が必要だと判断されやすい地形であることを裏付けています。

これらの区間以外は、権太坂から境木を経て品濃坂を降りてくるまでは典型的に尾根筋を経る道筋ですし(途中品濃一里塚付近で谷宿谷戸を横切るとは言え、谷戸頭に当たるので足元への影響は軽微)、上記の各支流を渡る箇所以外ではほぼ山際に沿って進んでおり、あまり無理を感じない道筋を通っているだけに、尚更この3本の河川に寄り添って進む区間が異質に見えます。

ちょうどこの区間を原付二種で走った動画がアップされ直しましたので、こちらも参考になさって下さい。これの1:04~1:52で川上川〜平戸永谷川沿いを、3:35~3:52で舞岡川沿いを進んでいます。

後日記(2017/11/01):動画の作者さんが該当動画を削除された様ですので、動画の埋込みタグをコメントアウトしました。

これが、上記で見た様に、これらの区間の普請を彦坂元正率いる岡津陣屋の指導の元に行ったのだとすれば得心が行きます。森家家譜に「谷切・峯切・道切・川切」とあることもその裏付けになりますが、これらの区間では街道の整備と共に大規模に治水工事をセットにして行ったのではないでしょうか。

旧日光街道:草加〜蒲生間の新綾瀬川沿い
旧日光街道:草加〜蒲生間の
新綾瀬川沿い
(「地理院地図」上で作図したものと
スクリーンキャプチャ
別ページで表示
大規模な河川改修工事を行った上で、敢えて街道を川沿いに進ませた区間の例としては、日光道中・奥州道中の草加宿〜蒲生宿間に現れる、新綾瀬川沿いの直道が挙げられると思います。こちらは上記の東海道沿いの各河川よりも更に大規模に、排水目的で新たに掘った新綾瀬川沿いに堤を築き、その上を街道を通すという、より大胆な工法が採用されています。


【ニコニコ動画】【車載動画】原付で日光街道を走ってみた
(その4)草加-蒲生
こちらについては、原付で日光街道を撮影されたこちらの動画が大変丁寧に解説されていますのでご参考にどうぞ。恐らく街道歩きをされている方々には良く知られた動画シリーズの1本ですね。後半のMADな部分はさておき(笑)、冒頭から4:56辺りまでが該当区間になります。特に、1:52~2:20辺りでこの区間の工事についてわかりやすく図解されています。

この、治水工事を施して増水時の排水を十全に確保した上で敢えてその脇に街道を通すという、当時としては画期的な方法論が、東海道のこれらの区間と大変に良く似ています。

そして、こうした新たな手法は、やはり誰かがその技術を外から持ち込まなければ実現不可能なものです。当時の具体的な普請の記録が見つかっておらず、現在は河川の改修も進んだので具体的な施工の内容を窺い知ることも困難ですが、徳川家康が江戸入りに際して各地に配備した代官が、それぞれに江戸時代の交通網を整備する上で重要な役割を果たしていることを考えると、彼らがこうした新しい技術を各地に浸透させていった可能性はかなり高いと思われます。

その点で、江戸時代初期に同地に存在した岡津陣屋がこの地で果たした役割は、恐らくかなり大きかったのではないかという気がするのです。

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