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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その5)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は国分以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



武四郎は旅の初日に長距離を進み、「その1」で見た「厚木の渡し」を渡って厚木(現:厚木市厚木町、他)の街に入ります。この街について「日記」には

三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、ルビも同書に倣う、以下の「日記」引用も同書より)

と記されています。

渡辺崋山の「游相日記」では、崋山はこの街に数日間留まって、街の有力者などと連日会ったり写生に出かけたりした様子を詳しく書いています。それに対して武四郎の場合は西への旅路を急ぐ中での1泊ですから、この街の様子を自分の目で見て廻ったと言うよりは、多くは宿泊先で聞いた情報を書き記している様で、伝聞を示す語尾が目立ちます。「三千軒の市町」というのも、「新編相模国風土記稿」では実際の家を「三百三十戸他長吏八戸」(卷之五十五 愛甲郡卷之二)と「日記」の10分の1程度の数を示していますから、地元の人が誇張して武四郎に伝えたのでしょう。

実際、武四郎は翌朝も宿を急ぎ発って更に矢倉沢往還を進みます。厚木からは一旦岡田(現:厚木市岡田)まで南下した後、西へ折れて愛甲(現:厚木市愛甲東)へと向かいます。愛甲村では農家ばかりで荷継は名主家で行ったことを記したのに続き、「日記」には次の様な記述が見られます。

按ずるに厚木より糟谷に行には此處までは下らず。直道を船子村え切り候はゞ餘程近くぞ覺ゆ。

(「日記」649~650ページより)


土地勘がない武四郎にも、西に向かう前に南下して幾らか遠回りをしていることに、朝日や並行している相模川の位置などで気付けたでしょうから、もっと近道があるのではないかと彼の荷物を担いでいる人足に話しかけたのかも知れません。一方、船子村(現:厚木市船子)の名前は流石に武四郎が知っていたとは考え難く、恐らくは人足から伝え聞いたのでしょう。街道の周囲が水田であったと「日記」にも記されていることから、遠方まで視界を遮るものが殆どなく、あるいは街道から船子村の集落が水田越しに見えていたかも知れません。

厚木付近の国道246号線の変遷
厚木付近の矢倉沢往還→国道246号線の変遷
青線:かつての矢倉沢往還の道筋 黄色線:旧246号線の道筋
橙色線:現在の国道246号線(大和厚木バイパス)の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地(リンク先PDF)」を合成しているが、水田を示す黄色が大きく拡がっている)
「今昔マップ on the web」で同地の地形図や空中写真の変遷を見る

実際、明治初期に編纂された「迅速測図」で見ても、厚木村の西側は広大な水田地帯になっており、ここを抜ける道は畦道としてはあったと思われるものの、旅人や荷継などが通過するには足下が十分ではないぬかるみやすい道筋であったのでしょう。「その1」で取り上げた十文字の渡しから関本へ至る道筋の様に継立の抜け道として使うには、整備が行き届いていなかったであろうと考えられます。

かつての矢倉沢往還は昭和31年(1956年)国道246号として指定されますが、厚木付近はその後の整備によって道筋が大きく変わり、船子の地を通過する様に付け替えられました。「日記」からは実に80年以上の歳月が過ぎていました。武四郎が連れの人足と語り合ったのであろう「船子経由の近道」は、図らずも遠い将来の国道の通過地を「予言」する形になりました。

これが実現するためには、一帯の水田を埋め立てて市街地へと大規模に作り替える再開発計画を、待つ必要があったということになるのでしょう。過去の地形図や空中写真で変遷を追うと、国道246号線が最初に船子を経由する様になった1960年代には、一帯にまだ広大な水田が残っていたものの、大和厚木バイパスが開通した1970年代には、周辺が急速に市街地に切り替えられているのがわかります。現在では、旧246号線が恩曽川と並行して進む厚木市温水(ぬるみず)の「赤羽根」付近では水田が僅かに残っているものの、現在のバイパス周辺にかつての水田地帯の面影を探すことは、殆ど不可能になっています。



File:Tokaido07 Hiratsuka.jpg - Wikimedia Commons
宝永堂版「平塚:縄手道」
高麗山の丸い特徴のある形が強調されている
当時の浮世絵で平塚宿を描く場合
かなりの確率で高麗山が取り上げられている
(By 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido,
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons
Mt.Komayama(高麗山).JPG
現在の高麗山(2006年撮影)
独特の山体は現在も当時のまま
(By FlyMeToFullmoon(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく)
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons

その愛甲からは、

爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

(「日記」649ページより)

と、東海道の平塚宿の西に位置する高麗山(こまやま)が比較的近くに見えると書いています。この山については、善波峠の記述でも

此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、

(「日記」650ページより)

と、馬入川(相模川)から高麗山を経て大磯や国府津までの遠景を一時足を止めて眺めていた様です。


矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
愛甲から高麗山までは直線距離で約10km、善波峠からは9kmほどと、どちらもそこまで「近い」と言える距離だったかは微妙なところです。それでも、武四郎の目には「高麗山」の姿は容易に目に付いたのでしょう。彼自身は郷里である伊勢・松阪から東への往来などで、大磯宿から平塚宿付近を通過する際にこの山の姿は何度となく目にしているであろうものの、それらは何れも南側から、そしてかなり近くからの姿であった筈です。それに対して、「日記」の際の「高麗山」の姿は北側から、それもかなり離れた場所から眺めたものとなり、勿論武四郎には初めて見るものだったでしょう。それでも武四郎に「あれが『高麗寺山』か」と認識させる程度に、高麗山の位置と形は独特のものであったということが言えます。

彼にとっては、不慣れな道を急ぐ道中にあって、通い慣れていたであろう東海道との位置関係を認識し得るひと時ではあったでしょう。同行する人足からのアドバイスも受けた可能性もありますが、「高麗山」の独特の姿や位置は、その位置関係を彼に容易に知らしめる役目を果たしたと言って良さそうです。



下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
参考のために「田村通り大山通り」を追加
(「地理院地図」状で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

下糟屋・高部屋神社とかつての矢倉沢往還
当時の集落はこの辺りに集中していた
ストリートビュー

愛甲を出た武四郎が、「その2」で取り上げた善波(現:伊勢原市善波)で荷を継ぐまでの間に、「糟谷」(下糟屋、現:伊勢原市下糟屋)と「神渡」(神戸(ごうど)、現:伊勢原市神戸)の2箇所で継立を行っていることを記録しています。どちらも大山詣での頃には賑わうことを記しています。

しかし、この区間の継立村は、他の史料で確認する限りでは若干異なっています。まず、「新編相模国風土記稿」で各村の記述を拾うと次の様になっています。

  • 下糟屋村(卷之四十四 大住郡之三):

    脇往來四條係れり、大山道幅二間下同矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、

  • 伊勢原村(卷之四十六 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 神戸村(卷之五十 大住郡卷之九):

    往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、

(以上何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


見ての通り、ここに挙げた3村は何れも矢倉沢往還の他にも主要な道が通り、交通の要衝となっていたことがわかります。とりわけ伊勢原(現:伊勢原市伊勢原)は大山詣でに向かう中継地として特に賑わった地であり、継立でも要衝となっていたことが示されています。しかし、「日記」では伊勢原の名前は出て来るものの、この街については特に何も記されておらず、継立についても記載はありません。また、「日記」で継立を行ったとしている神戸については、通常は継立場ではなく、公儀の継立の際にのみ人馬を出していたとしており、その点では公儀とは言えない武四郎一行が神戸で継立を行っている点と整合しないことになります。

また「風土記稿」の記述自体も、下糟屋村の記述では同村からは伊勢原まで18町、つまり半里(約2km)を継ぐとしているのに対し、伊勢原村の記述の方は同村から江戸方の継立先は愛甲としており、下糟屋村の記述と噛み合いません。こうした不整合は特に大住郡の街道の記述に多く、恐らくは村からの報告をほぼそのまま記したのでしょうが、これをどの様に解釈すべきかも課題となってきます。

一方、「その3」でも紹介した、天保9年(1838年)の「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307~310ページ)で、この区間の記述は次の様になっています。

嶋織部知行所外弐給/同州愛甲郡愛甲村

一高九百五拾九石余

月番/名主/定七

内高弐百弐拾壱石/戸塚宿へ助郷相勤申候、

此間粕屋村有り

伊勢原迄壱里

飯河三郎知行所/同州大住郡伊勢村(原脱)

一高四拾七石

月番持/組頭/善兵衛

善波村迄壱里

伊勢原ゟ善波村之間/板戸・白根・神戸

田原清之丞知行所/同州同郡善波村

一高三百拾三石

名主/清吉

内半高/東海道平塚宿へ加助郷相勤申候、

近来相州はたな領御鷹匠内山七兵衛組御野先相成候付、 御鷹御用相勤候故、前後継場村〻ニ而ニ而往還役相勤申候、

曽屋村迄壱里

此所善波峠と申難所なり、

(上記書308ページより、一部改行を「/」に置き換えの上、文意に合わせて適宜単語を入れ替え、強調はブログ主)


こちらでは、下糟屋村(粕屋村)は継立村に入っておらず、愛甲の次は伊勢原で馬を継ぐことになっています。その点では「風土記稿」の伊勢原村の記述と整合していることになります。また、神戸村はこの文書でも継立村に入っておらず、公儀の際の継立についても触れられていません。

何れにせよ、「日記」の継立はこうした記録に見られる継立村の配置と上手く合いません。何故この様な事態になったのでしょうか。

考え得る可能性の1つは、「その2」で二子・溝の口や荏田を「継ぎ通し」した問題を取り上げた時と同様、武四郎の記憶違い、もしくは書き間違いでしょう。「下糟屋」を「糟谷」と書いていたり、「神戸」を「神渡」と書いていたりと、ここでも地名表記の漢字が現地で一般的に使われていたものとは異なっています。記述の精度に留保がつく以上、何かしらのミスが紛れ込んだ可能性を考えない訳には行きません。しかし、「日記」の記述の何処がどの様に間違っているのかを具体的に示すことが出来ない以上、可能性があるという以上の指摘をすることは出来ません。特に、神戸村の記述がこの様な形で「日記」に登場する部分については、ここで何かしらの所要を済ませたのでないとすると武四郎の記憶に留められているのが不自然になりますから、かなり確度が高いのでしょう。

他方、「日記」の記述通りに継立が行われたとすると、何故伊勢原を飛ばして「継ぎ通し」されたのか、普段は継立を行わない筈の神戸村がどうしてこの時は荷を継いだのか、その理由を探る必要があります。世田谷から長津田までの長距離を継いだ際には、何かしらの不正が行われた可能性を考えましたが、下糟屋から神戸の区間ではこうした不正は行い難かったのではないかと思われます。上記で見た通り、下糟屋から伊勢原まではわずか半里と至近にある上に、以下で見る通りこの2つの村は組合などの活動を通じて交流が深いことから、双方の村民が顔を見知っている可能性が世田谷の例より遥かに高いからです。

しかし、「伊勢原市史」に掲載されている当時の文書を探した限りでは、幕末のこの区間の継立の事情を直接説明出来るものを見つけることは出来ませんでした。特に神戸村に関しては近世の現存文書がないと「伊勢原市史 資料編 近世2」に指摘されており、この村の立場からこの問題を考えるのはほぼ不可能な状況にあります。ただ、「伊勢原市史 通史編 近世」に記されていた明治維新直後のある「事件」が、あるいはこの問題を考える上でのヒントになるのではないかと思えました。そこで今回は、これを手掛かりに個人的な見解を述べてみたいと思います。

同書の「第4章 伊勢原の町」中の「第9節 伊勢原村寄場組合」では、幕末に関東一円の村々で組織された「寄場(よせば)組合」について、伊勢原とその周辺の村々の諸事情について紹介し、解説しています。文化2年(1805年)に幕府が治安維持の目的で新設した「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)(関八州取締役等とも呼ばれる)」に対し、その活動を補佐する目的で、文政10年(1827年)に村々を編成してその中心となる村を定めることになりました。矢倉沢往還周辺の25ヶ村(東組15ヶ村、西組11ヶ村)については、当初は東海道の大磯などの宿場を寄場として編成する案が提案されましたが、矢倉沢往還周辺からでは遠過ぎるために村々の反対に遭い、この村々の中から寄場を出すことになりました。そして、伊勢原村は、一帯の25ヶ村の中では村高が47石余りと最も小さかったものの、大山詣での拠点として宿駅としての施設が充実していたことから、関東取締出役の役人が宿泊するなどの形で利用することが多かったこと、そして25ヶ村のほぼ中程に位置している上に大山街道が集中する立地であるために、他の村から通いやすいこともあり、他の村々から請われる形で寄場となったことが、史料を数点引用しながら詳説されています(343〜348ページ)。


しかし、この伊勢原村が明治に入った頃から一時的に寄場を下糟屋村に譲っていたことが、「下糟屋村組合への変更」という項で紹介されています(348〜351ページ)。これによれば、明治元年(1868年)11月頃には寄場は伊勢原村から下糟屋村に移され、翌々年の明治3年5月26日付で再び寄場を伊勢原村に戻しています。何故寄場が移されたのか、残されている史料からは詳らかにはならない様ですが、何か金銭面での混乱が発生したものと同書では考えられています。

「日記」の道中は明治2年のことですから、ちょうど寄場が下糟屋村へと移されていた時期に当たります。寄場組合は治安維持のための自治組織ですから、専ら陸運の担い手である継立に直接関係するものではありません。しかし、下糟屋に寄場の肩代わりを依頼しなければならない程の大きな混乱が伊勢原村に発生していたとすれば、その混乱が継立の運営にも及んでいたとしても不思議ではありません。

そして、明治3年に伊勢原村への寄場組合の復帰に際して神奈川県に提出された請け証文には、伊勢原村の他に下糟屋村(この請け証文では「下粕屋村」と書いている)、上粕屋村と並んで、神戸村の名主(上粕屋村のみ代理)が名を連ねています(350〜351ページ)。この証文によって、神戸村が下糟屋村と共にこの問題に関与していたことを窺い知ることが出来ます。とすれば、寄場組合の問題が継立にも影響を及ぼしていたのであれば、神戸村がその肩代わりをしていても不思議はありません。そして、この様な状況で神戸村が継立を肩代わりしていたならば、「その2」で見た様に善波村の継立場の場所がわからなかったのも合点が行きます。神戸村の人足にとっても善波まで荷を運ぶのが初めてであった可能性が高いからです。

繰り返しになりますが、以上は飽くまでも推測であり、今後更に史料を探し出して検証すべきです。ただ何れにせよ、武四郎にとっては自分の荷を運んでもらっている継立の村々の諸事情は、預かり知らぬことであったと言え、そのために委細が記されていないのでしょう。その分、「日記」の継立に関する記録を読み解く際には、関連する史料に当たって検証する必要が多々あると言えます。



次回もう1回、「日記」に記された矢倉沢往還の継立や沿道の様子を見ていきます。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その6)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に引き続き、愛甲郡の炭焼について、特に家康の由緒に関してもう少し掘り下げてみます。

前回は三増村の「御炭山」の位置が「三増峠」の東にあることを示したところで終わりました。「風土記稿」に引用された「甲陽軍鑑」の記述によれば、この辺りは小田原北条氏の頃には芝山になっていたとしており、その後国境の峠の見通しが良いのは軍略上は拙いとする徳川家康の指摘に従い、雑木林にするべく植樹されたとする「大三川志」や古老の言い伝えを引用しています。実際は三増峠は「風土記稿」にある通り愛甲郡と津久井県の間にあり、甲相国境にある訳ではないので、この点は家康が位置関係の誤認を前提にして指示を出したことになりますが、何れにせよ家康の命によって一帯が林になったという訳です。

「風土記稿」で引用されている「甲陽軍鑑」は口述を主体としていることから、細部の記述を史料として扱う場合に問題があることが良く指摘されています。また、「大三川志」も家康没後100年以上経った後の編纂で、「甲陽軍鑑」を参照し得る位置付けにあることが気になります。「徳川実紀」にも

甲相の境なる三增峠といふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せし め。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)

(東照宮御實紀附錄卷五、「J-TEXTS 日本文学電子図書館」より引用)

と記されているものの、この「常山記談」もまた後年の編であり、史料としては「大三川志」と大差ない位置付けということになります。

三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
中原道は後年の道筋で
天正18年時点のものと同一と言えるかは不詳
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「大三川志」は家康が天正18年(1590年)7月29日に鷹狩をしながら三増峠を見たとしていますが、これは家康が小田原を陥れた後に江戸へと移動中のことであったことになります。この時の家康の移動ルートの詳細は不詳ですが、後に家康が好んで鷹狩を行うのは中原周辺の豊田から田村の渡しにかけての地域で、この時もその道すがらで鷹を放ったと仮定しても、この辺りから三増峠までは20km以上も離れています。三増峠の現在の標高は約320mあり、標高10m程度の中原周辺から見た時に、その間には三増峠の眺望を阻害しそうな標高の山はなさそうなので、地形上は見えてもおかしくはないと言えます。もっとも、夏の湿度の高い盛りに江戸に向けて移動している点からは、よほど視界良好でないと見えなかったのではないかという懸念もあります。

ただ、家康がこれだけの遠方から三増峠を見通せたとするのが事実ならば、遠目でも峠の位置が視認出来る程度に、かなり広範囲にわたって柴山になっていたことになるでしょう。その場合、後に「御炭山」となる三増峠の東側も、位置関係から見てこの頃はまだ柴山であったことになり、とても炭を出せる状態ではなかったことになります。因みに、「甲陽軍鑑」の記述通りであれば「三増峠の戦い」が起った永禄12年(1569年)には既に一帯が柴山と化していたことになり、家康が同地を目撃したとする天正18年時点でも引き続き森林にはなっていなかったとするところから、20年以上同地が柴山として使い続けられていたことになります。つまり、これらの書物の記述の通りなら、前回見た煤ヶ谷村の例ともども、これも小田原北条氏の治政下でかなり広範囲にわたって森林資源に強い負荷がかけられていたことを裏付ける景観ということになるのかも知れません。

また、この記述の通りなら、この地が「御炭山」として使われる様になるには柴山が雑木林になってからということになりますので、相応に年月を経てからということになりますが、慶長年間(1596〜1615年)には炭の産出が可能な状態になっていたとすれば、10年程度で炭焼用の炭材を出せるだけの雑木林への転換を果たしたことになります。これは戦国時代末期に既にそれだけの造林技術を家康一行が持っていたことを意味するのですが、上記の様に史料としての位置付けに課題があることから、更に裏付けとなる史料を探す必要があると思います。「風土記稿」に引用された一連の文献は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての、「御炭山」を含む相模国の山林の変遷を考える上では非常に気掛かりな記述であることは確かです。



さて、「風土記稿」の三増村の項では、「又左衞門、三郎左衞門、市右衞門」という3人の農民を家康の旧領から連れてきてこの地に住まわせて炭を納めさせたとしており、その子孫に伝わる文書が掲載されています。家康は関東へ転封される以前には三河や駿河、遠江などを所領としていましたが、以下で取り上げる文書の記述からは三河国の農民であった可能性が高そうです。では、何故彼ら3人をこの地へ移住させる必要があったのでしょうか。

「御炭山」に指定された5ケ村は、戦国時代に炭の産地であった煤ヶ谷村からさほど隔たっている訳ではありません。戦国時代に炭焼の実績が多々あった煤ヶ谷村からも、江戸時代初期には江戸城に御用炭を納めていました。例えば同地には寛文元年(1661年)12月の請書が次の様に伝えられています。これによれば、明暦元年(1655年)から3ケ年で合計330俵の御用炭を江戸城が確かに受け取ったと証されています。

請取申上納炭之事

合三百三拾俵   但壱俵三歩入

右是明暦元未之歳ゟ酉之年迄三ケ年分、前々ゟ煤ヶ谷村ゟ引付ニ而上納仕由、当丑年請取御本丸御用遣申者也、仍如件、

御賄勘定役人

寛文元年十二月十日

木村藤左衛門(印)

(他4名連署略)

坪井次(右)衛門殿   長谷川藤右衛門(畏守)(印)

(「神奈川県史 資料編6 近世3」529ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


しかし、煤ヶ谷村には5ヶ村の様には諸役御免の特権は与えられませんでしたし、「風土記稿」もこの「御用炭」については何も触れていません。これに対して5ケ村には敢えて旧領から人を連れて来て炭を焼かせ、その炭に対して特権を与える格差が存在したことになります。

これについては、相模国内での炭焼に何かしらの不足を感じ取ったために、それを補わせる役目をこの3人に担わせた、と考えるのが妥当なところでしょう。当時の相模国の炭焼技術について具体的に記述した史料が見当たらないので、実際にどの様な技術がこの時に伝えられたのか、またそれまで同様の技術が相模国になかったのかは明らかになりません。飽くまでも史料上に伝わる人の動きから技術の動きを類推する以上のことは出来ませんが、武士が帰農したのではなく農民をわざわざ連れてきたと記すことからも、そこに特定の技術導入の目的があったと見るのが自然な流れです。

そして、この炭が茶の湯の席で使われたことと考え合わせると、やはり茶道の「炭点前(てまえ)」に耐えられる炭を焼く技術を持ち合わせた人間を連れて来たと見るのが一番筋が通りそうです。茶の湯において当時から炭の形・質・組み方・火相などが観賞の対象となっていたことは、最初に「日本木炭史」を引いて紹介しました。上記の三増峠の件と併せて見た時には、山林の資源管理技術を持った人間を入植させた線も考えられるのですが、それであればこの3名が炭に特化して名が伝えられることもないと思いますので、やはり炭の質に関しての技術を導入する方に主眼があったのだろうと思われます。

その際に気になるのが、小田原には一時的にせよ、千利休の高弟である山上(やまのうえ)宗二が来ていたことです。豊臣秀吉の怒りに触れて高野山経由で逃れてきた宗二が身を寄せた先が小田原であり、その著書「山上宗二記」にも炭の点前に使う「炭斗(すみとり)」が記されていることからも、彼が小田原の北条氏政・氏直親子の前で茶を点ててみせていれば、炭点前について知らせる機会はあったものと思います。

Hondō of Sōun-ji.jpg

箱根・早雲寺本堂
この地で惨殺された山上宗二の追善碑がある
(By 立花左近 - 投稿者自身による作品,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
ただ、宗二が高野山に逃れてきたのが天正16年(1588年)頃、小田原に入るのはそれ以降で、翌々年の天正18年には小田原包囲に際して箱根湯本の早雲寺で秀吉と再び面会するも、改めて秀吉の怒りを買って惨殺されてしまいますから、宗二が小田原にいたのは僅か2年足らずのことです。それでなくても小田原は秀吉との応対に追われている頃であり、茶の湯炭のために新たな炭焼技術を導入する様な余裕は、時間の面でも労力的な面でも到底なかったでしょう。少なくとも、家康が改めて炭焼技術を導入しようとしていることからは、それ以前に宗二をはじめ小田原を訪れたであろう茶人たちが炭点前に耐えられる炭焼をもたらした可能性は薄いことになりそうです。

ところで、「御炭山」5ケ村の由緒の委細について、「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収の史料番号125「愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳」の冒頭に次の様に書き記されています。因みにこの文書は、天保5年(1834年)に下荻野村で御炭山の支配について争議が起きた際に山中役所に提出されたものですが、5ケ村ではこうした争議などが起きる度に「御炭山」の由緒について繰り返し書き記して関係する役所に都度報告してきたことがわかります。

御炭山御由緒之義、乍恐

権現様三河国ゟ御入国之節、又左衛門・三郎右衛門・市右衛門申者御供仕、三増郷住居仕、三河国御吉例ヲ以、三増郷最寄三増村・上川入村・荻野村三ケ村ニ而山見立、御茶湯炭焼立、右三ケ村ニ而炭六百俵

御本丸御上納仕候御由緒ヲ以、慶長八卯年八月伊丹利右衛門(勝重)様・木部藤左衛門(直方)様ゟ黒印の御書附、三増郷千石之処、御鷹飼之廻り大、惣別諸役御免之御書附被下置候、

御炭山焼場之義、 三増村又左衛門・上川入村三郎右衛門・下荻野村市右衛門焼場由御座候、然ル処、三増村・上川入村・下荻野村右三ケ村共、文(禄)元年辰五月ゟ中原御代官成瀬五左衛門(重能カ)様御支配相成、慶長八卯二月御検地御縄入相成申候、

(上記書856〜857ページより、、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)



これによれば、「御炭山」で焼かれた炭600俵は「御本丸」へと送られたとしていますから、主な送付先は江戸であったことになります。基本的には江戸城での茶の湯の席でこれらの炭が用いられたことになるでしょう。


豊田本郷・清雲寺の位置
「新編相模国風土記稿」卷之43大住郡豊田本郷村清雲寺銚子杯之図
「風土記稿」卷之四十三 大住郡卷之二
豊田本郷の項より清雲寺・銚子杯之図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所を切り抜き)

他方で、家康が相模国で鷹狩を楽しむ際は中原御殿を使うことが多かったのですが、御殿の造営前は豊田本郷の清雲寺が宿泊に用いられていました。中原御殿造営後もこの清雲寺に鷹狩後に立ち寄って茶を点てていた様です。「風土記稿」では造営後の由緒の方が記されていますが、地元の名主家に伝わる文書からは、それ以前から利用されていたものの様です。

◯淸雲寺 豊年山と號す、臨濟宗、鎌倉壽福寺末、開山樂林妓、文明十三年七月十一日卒、本尊釋迦、慶長四年二月十日、東照宮中原御殿御逗留ありて、此邊御放鷹の時、當寺へ入御あり、境内の井水、淸冷なりとて御茶の水に召上られ、是より當寺を御茶屋寺と稱せり、其時寺領十石の御朱印を賜はり、旦銚子杯を賜りて、今に寺寶とす、其圖左の如し、

(卷之四十三 大住郡卷之二 雄山閣版より)


中原周辺は水田地帯で林が少ない景観ですから、点前に必要な炭は多少なりとも山間から取り寄せるしかなかったでしょう。後に御殿周辺で御林が多数造営される様になったものの、これらは何れも建材として利用する目的の松林で炭焼用の雑木林ではありませんでした。「御炭山」の属する各村が後に中原代官の所領となった際に檢地を行ったことが上記の文書に記されていますが、恐らくは中原での家康の茶の席で用いる炭もこの「御炭山」から供給されたのではないかと思われます。

後に「佐倉炭」が相模国の炭焼に学び、江戸時代の東の茶の湯炭としての地歩を固めていくのも、恐らくはこの「御炭山」の系統の炭焼技術だったのでしょう。残念ながら、この「佐倉炭」にしても、「木炭の博物誌」によれば現在では「技術を失った」(117ページなど)とされていますので、当時の技術の実態を明らかにすることは困難になっている様です。

なお、上記文書で見られる様に中原代官であった成瀬家の預かる地となったこの5ケ村については、その後中原代官が廃止されると元禄年間から越智清武(上野館林藩)や牧野成貞(下総関宿藩)の所領となり、その後も所領が転々と交替します。「御炭山」からの炭の貢上が廃止されて代永銭を領主に納める様になったのは、幕領から私領に切り替えられて以降の元禄11年(1698年)の頃からで、直接的には幕領ではなくなったことが代永への切り替えの理由とされています。

しかし、「日本木炭史」に見られる様に、この頃には江戸での炭の消費が既に飛躍的に伸びていたことから、幕府でも増大する炭の需要を確保することに腐心しており、元禄の頃には既に「天城炭」を始め関東各地の炭が流入する状況になっていました。そうした中では相模国の「御炭山」から産出される炭の地位も相対的に下がってしまい、幕府の「御用炭」としての役目を終えてしまったことも、代永への切り替えの背景にはある様に思えます。

その一方で、炭貢上による助郷や鷹飼人足などの諸役御免はそれ以降も幕末まで堅持されました。「厚木市史 近世資料編(5)」には、これらの村々が享保年間以降に免除された諸役の一覧が挙げられていますが(422ページ)、周辺各村が助郷の負担に苦しむ中で一貫して人足や役金の負担を免れていたことが窺え、「御炭山」を擁する各村に齎した恩恵は小さなものではなかったと言えるでしょう。



さて、「風土記稿」の中荻野村と下荻野村の項では、この「御炭山」に「東照宮」を祀っていたことが記されています。神格化された家康が現地で祀られていた訳ですね。中荻野村に2体、下荻野村に1体の石祠であったとしていますが、このうち下荻野村の1体については天保5年(1834年)5月の日付を持つ「下荻野村公所・子合持御炭山東照宮絵図」という文書が伝えられています(「厚木市史 近世資料編(5)」423ページ所収)。ここには寛政12年(1800年)4月に奉納された「権現様石宮」の正面図が描かれ、「惣丈弐尺三分」(約69cm)間口「壱尺」(約30cm)奥行「壱尺七寸」(約51cm)その他屋根部などの細部の寸法が記されています。そして、名主、組頭、百姓代2名の名前が刻まれていたことが記されています。この絵図には更に木製の鳥居・石灯籠2体(それぞれ文化2年と文政11年の奉納日が刻まれる)、そして他の社地に設置された石碑等の正面図が併せて記され、この東照宮がかなり手厚く、また長期にわたって祀られてきていることがわかります。因みに、この文書が作成された天保5年は上記の下荻野村の争議の年に当たっており、この絵図は恐らくその争議に際して下荻野村の「御炭山」の由緒を代官宛てに明らかにする一環で記されたのでしょう。


厚木市上荻野・荻野神社(ストリートビュー
これらの「東照宮」が現在に伝えられているか、「厚木市文化財調査報告書第42集 厚木の小祠・小堂」(厚木市教育委員会 2003年)の荻野地区の小祠の一覧を確認したところ、1体だけ「東照宮」と呼称されている小祠が現存することが記されていました(222ページ)。それによると、現在は荻野神社の境内に安置されており、総高81cmと石祠としては比較的大形のものです。右側面に「中荻野/馬場中」、左側面に「元和八年(1622年)壬戌建立/嘉永四年(1851年)辛亥再建」と刻まれており、徳川家康が亡くなった元和2年から6年後には祀られる様になり、その後恐らくは幾度かの更新を経てきたその最後の石祠ということになるでしょう。ただ、掲載されている平成12年撮影の写真などから窺える限りでは、これが「東照宮」であることが確認出来るものが付属していない模様で、この石祠については荻野神社を訪れた方々のネット上の訪問記でも話題にされていない様です。荻野神社はかつては「石神社」と呼ばれ、上荻野・中荻野・下荻野3村の鎮守であったことから、この「東照宮」をかつての「御炭山」から遷すことになった際に荻野神社の境内が選ばれたのでしょう。

「厚木の小祠・小堂」では、荻野地区の「東照宮」と記された石祠が1体しか記載されていないため、残りの2体の行方については明らかに出来ませんでした。ただ何れにせよ、これもかつての「御炭山」の存在を現在に伝える史蹟と言えそうです。

次回は、かつての宮ケ瀬周辺で大量に発掘された江戸時代の炭窯跡を取り上げる予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その5)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回から愛甲郡図説に取り上げられた村々の由緒を確認します。

愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編でのみ取り上げられた足柄上郡・下郡の各村のうち、各村の記述で炭焼について触れられていたのは宮城野村と土肥吉浜村のみでしたが、愛甲郡の6村については一転してどの村も記述が厚めになっています。結論を先に書いてしまえば、愛甲郡の村々が炭の産地として「風土記稿」に取り上げられたのは、各村に伝えられる「由緒」の故であることが、山川編や愛甲郡図説の文面に既に見えています。その点で、この6村は他の郡の炭焼とは一線を画す存在と言えます。

この由緒は、煤ヶ谷(すすがや)村(現:清川村煤ヶ谷)と、それ以外の三増(みませ)・角田・田代(以上、現:愛川町)・中荻野・下荻野(以上、現:厚木市)の5村の2種類に分けて見ることが出来ます。まずは戦国時代末期の由緒を伝える煤ヶ谷村から先に見てみましょう。ここでの「風土記稿」の記述は由緒を示す文書の引用が特に長くなっていますが、今回は敢えてその部分も可能な限り含めます。なお、一部の文書で村名が「すゝがき」と記される例がある点についても「風土記稿」中で別記されていますが、ここでは省略します。

北條氏分國の頃は

  • 板倉修理亮 【役帳】曰、板倉修理亮十五貫文、中郡煤ヶ谷領家方下古澤共、大普請時半役六十三貫三百八十文、同所癸卯檢地增分、此役重而惣檢地上改可被仰付以上、七十八貫三百八十文、
  • 井上加賀守 六十五貫七百五十文、煤ヶ谷井上加賀守地所吉澤共、此内九貫四十七貫七百五十文、癸卯檢地增分、
  • 同雅樂助 十二貫七百五十文、煤ヶ谷地方井上雅樂助、此内九貫七百五十文、癸卯檢地增分

等知行す、其頃村民炭を燒て每年十二月小田原に貢ぜし事、

  • 元龜二年十二月 名主傳兵衞所藏文書曰、傳馬八匹無相違可出之、御臨時之炭自煤ヶ谷參分被召寄、御用可除一里一錢也、仍如件、未十二月二日自厚木小田原迄、宿中幸田奉之、
  • 天正元年十二月 傳馬十二匹可出之每年相定すゝがき炭五十俵被召寄御用也、仍如件、癸酉十二月すゝがより小田原迄江雪奉之、
  • 五年十二月 傳馬八匹可出之すゝがき炭届用可除一里一錢者也、仍如件、丑十二月十六日すゝがやより小田原迄宿中、
  • 十三年十二月 傳馬十二匹可出之每年被召寄、すゝがき炭五十俵被召寄、御用也、仍如件、酉十二月すゝがきより小田原迄宿中江雪奉之、以上數通の文書、皆北條氏の傳馬朱印を押す、

の文書に見えたり、今も土人農隙に是を燒活計となせり、白炭と呼り、又此地良材に富るを以て小田原に運致せし事、

  • 天正七年五月 御備曲輪御座鋪幷塀材木…以上貳百卅三丁、木數以上貳百七拾七人、山造口養四貫七百九文、坂間鄕寅歳年貢秩父前より可出、以上五百五十四人、人足、以上右來六月晦日を限而必可爲出来、然者材木之寸方少も無相違樣堅可申付候、若於妄之儀者奉行人可處巖科者也、仍如件、天正七年己卯五月二十六日山奉行、板倉代井上代安藤豐前奉虎朱印あり、按ずるに、文中地名を載ざれど、板倉井上は其頃の地頭なれば、當所の山より出せしは論なし、
  • 十六年七月 三間梁百間之御藏材木、煤谷へ申付分二百八十本、柱長九尺五寸方五寸、山造九十三人、人足五百六十人、五十丁、棟木土臺長二間方四寸、六寸、同廿五人、同百人、六十丁、棟木長二間方五寸、同三十人、同百二十人、百丁、短柱長二間方五寸、同五十人、百丁、小貫立長八尺五寸方四寸、此代二貫文、以上百九十八人、山造口養三貫三百六十六問、以上九百八十人、人足、倩賃、十九貫六百文、以上二十六貫九百六十六文、右八月廿日可爲出來、此日限至于蹈越可被懸巖科者也、仍如件、天正十六年戊子七月十三日、板倉殿安藤豐前奉、虎朱印、

の文書に所見あり、

◯舊家傳兵衛 世々里正を勤む、北條氏より炭材木等の事に依て出せし文書七通其分前に出す及豐太閤の制札を藏す 先祖は井上氏なりしが按ずるに、【役帳】に當所の地頭井上加賀守、同雅樂助とあり、是等の支族なる歟、御打入の頃氏を改て山田千阿彌宗利と號し、當村に在て豆州金山より出す材木及炭等の御用を奉りし人に附屬して其事を辨ぜしとなり、夫より子孫連綿して今に至る、

(卷之五十八 愛甲郡卷之五 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、扱いも以下同じ、適宜リスト化して整形、…は中略)



愛甲郡清川村煤ヶ谷の位置(Googleマップ
「日本木炭史」では、この4件の文書について「新編相州古文書」という文献から引用していますが(91〜93ページ)、この「新編相州古文書」は元来が「風土記稿」の編纂に当たって各村から収集した文書を書き写した史料集です。「日本木炭史」に載っている他の史料を勘案しても、恐らくこれらの文書が、相模国での炭焼の行われていた具体的な地名が確認出来る最も古い記録ということになるでしょう。勿論炭焼自体はそれ以前から相模国内でも各所で行われていたに違いありませんが、元亀2年(1571年)以前については今のところ裏付けを取ることは出来ないことになります。年代的には小田原北条氏の4代目氏政から5代目氏直の頃に当たります。

煤ヶ谷から小田原までの道筋(概念図)
煤ヶ谷から小田原までの道筋(概念図)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの4通の記録によれば、煤ヶ谷で焼かれた炭は伝馬によって小田原まで運ばれたことになります。当時の継立場がどの村に配置されていたかなど、具体的な経営実態は不詳ですが、煤ヶ谷からは伊勢原まで下って矢倉沢道へと出て(この間約2里半)、ここから更に関本を経て小田原までは7里程にもなりますから、かなりの長距離を陸送したことになりそうです。輸送量や積み荷へのダメージを考えると、あるいは煤ヶ谷から玉川沿いに岡田へ向かい、そこから相模川の水運に載せて小田原まで運んだ方が、多少遠回りでも利があったのではないかとも思えますが、少なくともこれらの文書からは、水運を部分的にでも活用したことを窺う事は出来ません。


また、この地は良材の産出にも長けたとしており、小田原からの求めに応じて伐り出した木材を運び出していたことを明かす文書が2通掲載されています。その際に併せて莫大な数の人足を求められており、この村にかけられた負担がかなり大きなものであったことが窺い知れます。更に、運び出す前に狂い無く採寸することが求められており、角材などの形にしてから出荷していたことがわかりますが、煤ヶ谷から小田原までの距離を考えると、折角製材しても運送中に傷が付くなどの影響などはなかったのかが気になります。もっとも、そもそも陸路しかない地から丸太のままで木材を運び出すこと自体が極めて困難であることを考えれば、予め多少なりとも製材して細分化しないことには搬出出来ないという事情が優先されたのかも知れません。因みに、一旦製材した後は水気に曝してしまうと寸法に影響が出てしまいますから、この状態にしたものを運ぶ以上は水を被りかねない海路を行く訳に行かず、やはり陸路を考えていたことになりそうです。

ともあれ、煤ヶ谷から小田原までのこの距離を考えると、確かに優良な森林資源の供給地ではあったのでしょうが、それにしてももっと近隣にも供給地があった筈ではないかと考えたくなります。江戸時代になって、足柄上郡での炭の産地が多々記録されている状況から見ても、距離的にはこれらの地の方が近傍にあるのですから、炭の供給の主力になりそうなのは戦国時代にあっても足柄上郡・下郡域の方が先であってもおかしくはありません。しかし、江戸時代の消費量に比べれば煤ヶ谷の4通の文書に記された炭の量は決して多いとは言えませんが、煤ヶ谷村に同様の文書が複数残っている状況からは、この遠隔地からの炭の供給が常態化していたことがわかります。

戦国期の類似の文書が相模国内の他の地に伝わっていませんので、当時の相模国の炭や他の森林資源の供給状況の全貌はわかりません。しかしながら、小田原からこれほど離れた地に対して多大な負担を強いて炭や木材を供給させていることからは、あるいは小田原に近い山の木々がかなり伐り尽されてしまっていて、遠隔地にまで手を広げないことには小田原の求めに応じられない程になっていたのかも知れません。無論、その背景には氏政の頃に小田原北条氏の勢力が関東一円に拡大していたため、その戦力に必要となる武具の生産が更に必要であったこと、小田原の町も相応に人が集まり、都市化が進んでいたこと、武田氏による小田原包囲時の城下への放火による建物への損耗などの影響があったと考えられるでしょう。

「風土記稿」では、江戸時代に入ってからも煤ヶ谷村が炭焼を行って農間渡世をしていることを書いていますが、同村の延享元年(1744年)12月の村明細帳でも

一男耕作之間ニ者白炭・鍛冶炭・真木・薪勝手次第山稼仕、厚木町市場道法弐里余附出シ売代替渡世送り申候、

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」541ページより)

と記し、白炭や鍛冶炭を焼いていたことを記しています。この時の主な搬出先は厚木までの2里あまりとされており、この距離であれば当時の炭の搬出距離としては比較的近傍であったと言えるでしょう。厚木の町で消費される分に留まったのか、それとも厚木から更に相模川の水運に載せられて江戸まで送られていたのかはわかりません。

他方、三増・角田・田代・中荻野・下荻野の5村の由緒は何れも徳川家康の東国入り後の動きに関するものです。以下、長くなりますが「風土記稿」から関連事項も含めて一通り書き出します。
  • 中荻野村(卷之五十七 愛甲郡卷之四):
    • 御打入の頃より年每に炭を貢せしを以て、諸課役を免除せらる炭百二十三俵を貢せしが、元祿十一年より炭代永を納む、詳なる事は三增村の條に出す、
    • ◯御炭山 西方上荻野村を隔て、角田村に跨れり高十八町峯を界とす、是も下荻野村と入會なり、御打入後此山にて御茶事に用ゐられし炭を燒て貢す當村及三增・角田・田代・下荻野五村より六百俵を貢す、詳なる事は三增村の條に出す、故に此名あり、山中に東照宮を勸請し奉る石の御祠三所二は當村一は下荻野村持、
  • 下荻野村(同上):
    • 當村も前村と同く炭を貢せしを以て諸課役を免除せらる炭六十九俵を貢せしが、元祿十一年より炭代永を收む、
    • ◯御炭山 同[西]方上荻野・中荻野二村を隔てあり、是も前[西山]と同く中村と入會なり山中に東照宮を勸請し奉れる事、旣に前村に云へる如し、
  • 角田村(卷之五十八 愛甲郡卷之五):
    • ◯御炭山 南にあり登十三町程、 中下荻野二村持の御炭山に續き峰を界とす、一に鹽河山志與久可宇也末と云、御打入の後此山にて御茶事の炭を燒て貢ず、故に村民傳馬夫役を免除せられて今に然り當村炭數百二十俵元祿十一年より代永を領主地頭に收む、猶三增村條に詳載す、
  • 田代村(同上):
    • 御打入の頃より炭を貢ずるを以て諸の課役を除かる三增村條に詳載す
    • ◯御炭山 三所にあり、中下荻野・角田・三增等の村々と同く公に炭を燒し所なり當村六十俵を貢ず、後年永錢を地頭に收む、詳なる事は三增村條に辨ず、按ずるに永祿十二年十月三增合戰の時、北條衆當所の山に敗走せしこと、【關八州古戰錄】に見えたるは曰、…以上山々の内なるべし、
  • 三增村(同上):
    • …[天正]十八年小田原陣の時五月豊太閤制札を與へ見まし村と記せり六月東照宮よりも亦賜はれり本多中務少輔忠勝、平岩七之助親吉、戸田三郎右衛門尉忠次、鳥居彦右衞門尉元忠等奉て連署す、御打入の後諸の課役を免除せらる、是每年炭を貢ずる故なり詳なる事は御炭山の條に出す、
    • ◯御炭山 北方にあり登五町程御打入の時三州より從ひ奉りし農氏三人又左衞門、三郎左衞門、市右衞門と云、子孫今村民にあリ、彼地の舊例に據て當村の山十八町、及角田田代中荻野五村(ママ)の山にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、年每に六百俵を貢ず當村二百二十八俵據て慶長中諸課役を除かる村民又七所藏文書曰、先日者大儀候然者御茶之湯炭御やき候に付て、見ませ千石之所、御鷹之え之上り犬惣別萬諸役引申候間、其分御心得可有之候爲其如斯狀進し候以上、猶々上り上り犬惣別之諸役引申候間每年其分御心得可有候以上、卯九月十日みませの鄕又左衞門殿、九郎右衛門殿、參木部藤左衛門華押、伊丹理右衞門華押 按ずるに、又七小野澤を氏とし、祖又七は天文十二年八月十日死し、今に連綿すと云、享保十三年にも伊奈半左衞門忠達承り改て免除の下知あり相州愛甲郡三增村・角田村・田代村・中荻野村・下荻野村右五ケ村、此度人馬相免候儀者、先年權現様御入國之節三河國より又左衞門、三郎左衞門、市右衞門御供仕、其上御茶之湯炭御吉例として六百六十俵宛御本丸江每年御上納仕候譯に付、朝鮮人琉球人數度之來朝之節、人馬御免幷御鷹御用何に而も御免被下候趣願出候に付、願書留置相免者也、享保十三年申二月 加藤武治右衛門栗田彌藤治池田文八郎今本書は失ひて冩を藏、 元祿十一年より炭代として、永錢を領主に納む、今も山中に炭竃あり、
    • ◯三增峠 乾の方志田山御炭山の中間、長竹村津久井縣に屬に跨り、峯を界とす登凡五町、道幅二間、永祿十二年合戰ありしは此麓なり、其頃は芝山なりしを【甲陽軍鑑】大全曰、此時は皆柴山なり、今は大形木立なり云々、 天正十八年七月東照宮關東へ遷らせ給ふの時、此峠を御遠見あらせられ、安藤彦兵衛直次、彦坂小刑部元正或は直道に作る、小栗忠左衞門久次等に命ぜられ、樹木を植しめらる、【大三川志】曰、天正十八年七月廿九日神祖小田原を發し放鷹し給ふ、甲相の境三增峠を望み、永祿中の戰場を遙に望み給ひ、此山森々と茂らざるに依て、永祿中武田信玄備を壘て押通り、北條の兵を敗る、此地敵國の境なれば備有る可き處也北條家武装衰へ此地の見透く如くしたるに依て敗軍す、今より雜木を植茂らせば、敵の軍備も容易には成難しと、安藤彦兵衞直次、彦坂小刑部直道、小栗忠左衞門久次に此山を茂林になす可しと命じ給ふ、又故老諸談其餘の書にも此事見ゆ、其傳異同あれど、意同ければ略す、故に今雜木繁茂せり、

(前文を受けて「同」等と表記したり、表記が欠落している箇所については、その意味する所を[ ]に表記)


5村では何れも、家康が東国入りを果たした後、茶の湯用の炭を焼かせるために「御炭山」を設け、年に5村合わせて600俵余りを貢ずる様になったこと、その見返りに諸役を免ぜられていたこと、そして元禄11年(1698年)から炭ではなく代永銭を領主に納める様になったことを書き記しています。

中荻野・下荻野・角田の御炭山の位置(推定)
中荻野・下荻野・角田の「御炭山」
角田村の「御炭山」については推定地
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
今回はまず、ここで記されている「御炭山」の位置を可能な限りで示します。名前は同一ですが、実際は複数の山が「御炭山」と呼ばれていました。御用地であることを知らしめる意を強く含んでいた地名と言って良いでしょう。

最初に中荻野村と下荻野村の「御炭山」は、何れも上荻野村の北側にある飛地に位置していました。Googleマップ上で厚木市下荻野中荻野の範囲を表示させると、どちらも南側の本村に対して北側にかなり広い飛地が点在していたことが観察出来ます。「厚木市文化財調査報告書 第36集 厚木の地名」(1996年 厚木市教育委員会)によれば、これらの地は明治時代に入っても「炭山」という小字として存続していましたが、中荻野の方はその後「狐平」という小字と合併されました。右の地図ではこの「厚木の地名」の付図から場所を特定しています。現在はこれらの地はゴルフコースになっている様です。

次に角田村の「御炭山」については、「愛川町文化財調査報告書 第15集 あいかわの地名—高峰地区—」(愛川町教育委員会 1985年)では「今回の調査にあらわれなかったもの」として「風土記稿」の引用を掲載(72ページ)しているものの、場所については記載がありません。ただ、中荻野や下荻野の「御炭山」と峰を隔てて接している場所にあったとしていますので、上記の地図ではこの記述を頼りに凡その場所を指し示しています。位置関係としてはこの3村の「御炭山」が相互に近接していたことになるものの、角田村の「御炭山」は中津川渓谷のかなり急な赦免に面しており、また炭窯の設置場所として南面が好まれる中でやや北向き加減なのが気になります。



愛川町田代の位置(Googleマップ

三増の御炭山の位置(推定)
三増の御炭山の位置(推定)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
田代村については「御炭山」が3箇所にあったと「風土記稿」は記していますが、「愛川町文化財調査報告書 第18集 あいかわの地名—田代地区—」(愛川町教育委員会 1989年)では「その所在ははっきりしない。」(9ページ)と書いており、「風土記稿」にもその場所を推定すべき手掛かりとなるものが見えないため、現在の愛川町田代の町域内の何れかということ以上は不明です。田代村の中間を中津川が流れ、両岸に山が連なる地形であるため、この両岸に分散していた可能性は高そうですが、これも推測の域を出ません。

そして三増村の「御炭山」ですが、これについても上記の「あいかわの地名—高峰地区—」では角田村の「御炭山」同様、「風土記稿」の引用を提示するのみで、その場所については記していません(71〜72ページ)。ただ、「風土記稿」の村の北にあったとする記述と、「三増峠」が「志田山」と「御炭山」の間にあったとする記述から、三増峠の西にある志田山に対し、御炭山が三増峠の東に位置していたことがわかります。右の地図ではこの記述を頼りに凡その位置を示してみました。

ここまでで大分長くなりましたので、この5ケ村の「御炭山」については、次回もう少し掘り下げて検討します。
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蜜柑について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

梅園草木花譜夏之部「橘(ミカン)」
「梅園草木花譜夏之部」より「(ミカン)」の花の図
花の右側に、箱根の関の北では育たない旨の記述がある
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧に記された「蜜柑」について見ていきます。今回はまず、江戸時代の小田原藩領の村明細帳に見られる蜜柑の貢税について紹介します。

柿については、稲葉家が小田原藩主だった時代に大和柿や小渋柿を貢上させていたことを以前紹介しました。これと全く同様に、蜜柑についても領主の検分の上で貢納していた記録を、小田原藩領の村明細帳に幾つか見出すことが出来ます。今回も私が見出し得た範囲での記述を挙げますが、他にも事例があるかも知れません。ただ、柿に比べると件数が大分少なくなっています。

  • 足柄上郡壗下(まました)村(現:南足柄市壗下):

    貞享三年(1686年)四月 壗下村明細帳(侭下村御指出帳、「南足柄市史2 資料編近世(1)」228ページ)

    一蜜柑 毎年御見分ニ而代永上納、五分上納仕、五分木主被下候、

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):

    貞享三年四月(十二日) 足柄上郡西大井村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」466〜467ページ)

    一蜜柑御見分之上五分指上、五分木主て□

    一上蜜柑御菓子上り、外代物て指上申候、

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):

    貞享三年四月(十一日) 足柄上郡山北村明細帳(差出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」492ページ)

    一蜜柑御見分之上五分差上ヶ五分木主被下候、

    上蜜柑御菓子上り、外ハ代物ニ而差上ヶ申候、

    永壱貫文上蜜柑六千替/中蜜柑七千替/下蜜柑九千替此直段ニ而永納仕候、

    一柑子御運上毎年鐚銭弐貫六百三拾弐文/但シ、枯木御座候得御引被遊候、納申候、

  • 足柄下郡曽我谷津村(現:小田原市曽我谷津):

    貞享三年四月 足柄下郡曽我谷津村明細帳(田畑指出帳、「神奈川県史 資料編5 近世(2)」502ページ)

    一蜜柑木数年〻御改被遊、蜜柑なり申候得、御見分之上御運上ニ而上納仕候、

  • 足柄下郡新井村(現:足柄下郡湯河原町福浦):

    貞享三年 足柄下郡新井村明細帳(「神奈川県史 資料編5 近世(2)」540ページ)

    一蜜柑之木大小八本、内四本苗木、

    此御年貢毎年御見御割付次第指上申候、

  • 足柄下郡真鶴村(現:足柄下郡真鶴町真鶴):

    寛文十二年(1672年)七月 足柄下郡真鶴村明細帳(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」451ページ)

    一 蜜柑御年(貢)、毎年御検見次第指上ケ申候、

    但、年ゟ御菓子・蜜柑被仰付出し申候、

(それぞれ引用資料中で変体仮名が使用されている場合は小字に置換、一部改行を「/」に置き換え)


「蜜柑」の貢税について記された村々の位置
上記明細帳の村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

ここで挙げた6村のうち、上4村は大和柿・小渋柿の貢納についても記載がありました。壗下村と西大井村は柿渋も納めていましたから、かなりの品目が貢税として課せられていたことがわかります。

もっとも、壗下村と山北村に関しては永銭で代わりに納めたことが記されています。また、西大井村も「代物」で一部を納めたことを記しており、必ずしも蜜柑の現物を納めていないことがわかります。これは、この貢税の性質を考えると少々不思議です。

大和柿や小渋柿の貢税については、当時の藩主であった稲葉正則の「永代日記」に、藩領内の各地域に役人を派遣して検分を行った上で貢納分を決めていたことが記されていました。これと同様に、蜜柑についても派遣した役人の名前が、「永代日記」の寛文元年(1661年)9月21日の記述に見えています。

一 当秋蜜柑検見之者共

土肥筋へ沖田惣左衛門/有沢平太夫 西郡へ小俣長右衛門/福家五右衛門

右之通被 仰出候付、今晩小田原へ申遣之、

(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」273ページより)

何故か派遣先が藩領全域ではなく、藩領の西側に限定されていますが、上記の村明細帳には東筋、つまり酒匂川の東側や、中筋と呼ばれた酒匂川と支流の狩川の間に位置する村も含まれていますので、「永代日記」の記述がたまたま西筋に役人を派遣した時のもので、他の地域には他日別途派遣が行われたのかも知れません。


大和柿や小渋柿の際にはその後納められた柿を江戸屋敷などに配分した記録がありましたが、「神奈川県史」などの採録された範囲では蜜柑について同様の配分がなされた記録は収録されていませんでした。ただ、上記村明細帳の中に「御菓子」という表記が見えることから、この蜜柑が大和柿や小渋柿同様茶の湯の席に供される目的で徴収されており、その点から推測すると恐らく蜜柑についても同様の配分は行われたのではないかと思われます。

こうした手間を掛けて蜜柑を手に入れようとしているにも拘らず、金銭での貢納で済まされているというのは些か妙です。江戸時代後期には漆や柿渋などの小物成の貢納が形式化して代永で納められている例が多数ありますが、この蜜柑の場合はそうした形骸化の例には当たらないのではないかと思います。私の個人的な見立てですが、村明細帳の中に「上蜜柑」「下蜜柑」といった品質に関する表記が見えることから、恐らくは、茶の湯の席に供するに足りる品質の蜜柑が十分に確保出来なかった村に代永を命じたのではないかと考えられます。そうであるとすると、村々には予め必要とする蜜柑の質や量について割り当てが行われ、その目標に達しているかどうかを逐一チェックされていたということになるのかも知れません。

そして、この蜜柑の貢納も、大和柿や小渋柿同様、 元禄2年(1689年)に藩主大久保忠朝が中止の触書を出しました。改めてその際の触書を掲げます。

蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより再々掲、強調はブログ主)


梅園草木花譜夏之部「柚」
「梅園草木花譜夏之部」より「柚」の図(左)
枝の特徴的な長い刺が描写されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
蜜柑と一緒に「柚子」の貢納が中止されているのですが、私が見ることが出来た村明細帳の中には柚子の貢納について記したものは見当たりませんでした。しかし、こうして大和柿や小渋柿共々貢納廃止となった経緯から見て、やはり蜜柑と同様に役人を派遣して質を見極めた上で貢納させていたのでしょう。柚子の場合は流石に茶菓としてそのまま供されることはなかったのではないかと思いますが、祝宴など何らかの形で客をもてなす際に利用したのでしょうか。何れにせよ、江戸時代初期から蜜柑と一緒に柚子が小田原藩領で栽培されていたことを示す史料の1つであることは確かです。



さて、「風土記稿」の記述には「領主より公に献呈せり」といった記述が幾つか見られます。これは小田原藩から幕府に対して献上された品々の中に蜜柑が含まれていたことを指しています。

江戸幕藩大名家事典」(小川恭一編著 1992年 原書房)では、文政年間の「八冊武鑑」を元に各藩からの「時献上」の品々を書き上げています。「時献上」とは「大名・交代寄合・付家老の家々が、毎年封内の名産を定時に献上すること」(同書下巻139ページ)ですが、小田原藩からは

正月3日御盃台竹箏岩藪柑子、2月粕漬鮑、暑中粕漬小梅、干鰺、9月里芋、11月甘鯛披、寒中蜜柑、在着御礼箱肴

(上記書中巻239ページより、強調はブログ主)

といった品々が幕府に献上されていたとしています。また、小田原藩の支藩として天明年間に愛甲郡に成立した荻野山中藩からも、

正月3日御盃台竹に藪小路、9月10日薯蕷、11月12日蜜柑、在着御礼干鯛

(上記書中巻236ページより、強調はブログ主)

と、やはり蜜柑を献上していたことが記されています。


荻野山中藩の陣屋跡地は一部が公園になっている
ストリートビュー
愛甲郡に属する村々での蜜柑の生産に関する江戸時代の記録は見つかっておらず、その後も同地で蜜柑の生産が盛んに行われる様になったという話もありません。その点では荻野山中藩の蜜柑の貢納は不自然ではありますが、恐らくは支藩として小田原藩から蜜柑の提供を受けていたのでしょう。余談ですが在着御礼の干鯛も海のない同藩の産物としては考えられませんから、やはり同様に小田原藩からの提供があったと考えられます。本来は領内の産物を献上するものであったとは言え、実際は領内では産出しないものを献上する例は当時多々あったことで、荻野山中藩としても献上に足る質の品々を確保するために小田原藩の助力が必要だったということでしょう。

一方の小田原藩の方も、稲葉家の時代には領内各地から徴収していた柿については幕府への献上品とはしていなかったのに対し、蜜柑については江戸時代後期に献上していた記録がある訳です。大和柿や木練柿ではどうしても近畿圏の「本場」に敵わなかったのに対し、蜜柑は前回も紹介した通り古代に朝廷に貢いでいた記録もあることが、献上品の選定に当たっての判断に影響したということなのでしょうか。因みに、紀州徳川家からは毎年9月に大和柿と蜜柑が2度づつ幕府に献上されていました(上記書575ページ)。

ともあれ、こうした献上品のための蜜柑も領内から調達する訳ですから、その負担は引き続き領内の村に課せられていたことになります。但し、「風土記稿」の記述から考えると、稲葉氏の時代の様に領内隈なく役人が良品を捜し廻るという運用ではなく、前川村など特に良品が出やすい村から調達する運用に変えられていたということになりそうです。

次回、もう少し蜜柑についての話題を取り上げます。

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