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「春日局から稲葉正則宛の書状に見られる「雲雀」を巡って」再考

以前、春日局から稲葉正則に出された書状に見られる「雲雀」と「鮎ずし」をめぐり、主に正則の鷹狩について検討しました。この書状が出された寛永20年(1643年)には正則はまだ20歳という若さでしたが、この「雲雀」を得るためには鷹狩をしたと考えられるものの、実際に正則がこの年に鷹狩を行ったことを裏付ける史料は他に見当たらないことを指摘しました。

Kasuga no tsubone.jpg
春日局(再掲)
麟祥院所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
Inaba Masanori.jpg
稲葉正則(再掲)
稲葉神社所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons

しかし、正則がこの時点で鷹狩を行ったとすると、ある問題点に突き当たることについてはこの記事中で検討していませんでした。今回はその問題点を改めて取り上げて、この書状の持つ意味をもう一度考えてみたいと思います。

ある問題点というのは、江戸時代には基本的に鷹狩は将軍の許可なく行い得ず、そのための鷹場を拝領する必要があったことです。「江戸幕府放鷹制度の研究」(根崎 光男 2008年 吉川弘文館)では、江戸時代初期、特に寛文期の鷹場の下賜について、仙台藩伊達氏の事例を挙げて次の様に指摘しています。

慶長六年(一六〇一)九月、伊達政宗は諸大名に先駆けて家康から恩賜鷹場を下賜され、その領域は武蔵久喜地域の一〇〇余か村であった。徳川氏の関東領国に恩賜鷹場を下賜されたことは、伊達氏が徳川氏の鷹場支配権の一端を担い、上下関係として編成されたことを意味する。政宗はこの鷹場でたびたび鷹狩を行い、幕府・将軍に「鷹之鶴」をはじめとする諸鳥を献上したが、一方で大御所や将軍からは鷹や「御鷹之鶴」などを下賜された。…また、伊達氏は豊臣政権下において鷹献上大名の一人であったが、徳川政権発足後も松前氏に次ぐ鷹献上大名として位置づけられ、近世中期以降も同様であった。

政宗は寛永十三年(一六三六)五月二十四日、七十歳で死去し、忠宗が二代藩主となって遺領を継いだ。このなかで、久喜鷹場はどのように推移したのであろうか。同年十二月二日、仙台藩江戸宿老古内主膳正重広らが国元の宿老石母田大膳宗頼らに送った書状によれば、「昨日朔日御登城被成候処、久喜御鷹場御直ニ如陸奥守(伊達政宗)代被遣之由被 仰出、其上早々参候而鷹ヲモ遣可被申候由、色々御懇之上意共申も愚ニて候、箇様之御仕合、其元ニ御座候御親類衆・御一家・御一族衆、宿老衆へも、何も可被申聞之由 御意候」とあり、登城時に将軍家光より久喜鷹場を政宗のときと同じように下賜され、早々に出かけて鷹狩をするように仰せがあったことを親類・一家・一族へ申し伝えよ、との忠宗の意向があったことを報じていた。このように、忠宗には政宗時代の久喜の恩賜鷹場が下賜されたとはいえ、改めて将軍から恩賜鷹場の下賜が執行されており、そのまま世襲しえるものではなかったのである。

鷹場の下賜が属人的要素により執行されていたことは、四代藩主綱村の代になると、よりいっそう明瞭となる。万治元年(一六五八)七月十二日、忠宗が亡くなり、そのあとを継いだ綱宗が同三年に幕府から逼塞を命じられたことで、その子綱村(幼名亀千代丸)が二歳で遺領を継ぎ、四代藩主となった。寛文元年(一六六一)十月六日、幕府奏者番太田資宗は亀千代丸の後見人である伊達宗勝・田村宗良に、「亀千代殿御幼少之御事候間、久喜之御鷹場被指上可為御尤由御沙汰承候間、御老中迄一往御断被仰上可然存候、御成長之時分ハ定面亦被遣ニ而可有御座候、唯今ハ右之御断一段御尤之儀与拙者式も存事候、為御心得如是御座候」という内容の書状を送った。ここでは、亀千代丸が幼少であるため、久喜鷹場を返上せよとの幕府の「御沙汰」があったことを伝えていた。この事例では、恩賜鷹場の返上が幕府老中たちの評議により決定し、亀千代丸が成長したさいには再度下賜されるだろうとの見通しが述べられていた。幕府が藩主の幼少を理由に恩賜鷹場の返上を命じていたのは、この下賜が個人を対象としていたことを示すものであり、その人物が恩賜鷹場の下賜条件を満たしているかどうかを検討して決定していたのである。

…伊達家の事例は、寛文期でも恩賜鷹場の下賜が個人を対象としていたことが明らかである。この時期、家格の確定や幕府職制の確立という社会状況にあったことは確かだが、恩賜鷹場を下賜される対象者を家格や幕府役職という枠組みで説明することはできない。恩賜鷹場を下賜された大名の顔ぶれをみると、将軍家と血縁関係にある大名、家格の高い大名、幕府重職を務めた大名が多いとはいえ、その基準を満たした大名がすべて等しく恩賜鷹場を下賜されていたのではなく、やはり属人的要素で執行されていたといわざるをえないのである。

(114〜116ページ、以下も含め、傍注も同書に従う、注番号は省略、…は中略、強調はブログ主)


つまり、先代の藩主が拝領した鷹場は次の代に無条件に相続される性質のものではなく、特に次代が幼少の場合には一旦返上を命じられることさえあったということになります。稲葉正則が寛永11年(1634年)に家督を継いだ時点では数え年で12歳、元服したのは寛永15年(1638年)と後年のことですから、伊達氏の事例と重ねればやはり鷹場は一旦返上して幕府内で相応の実績を上げなければならなかった筈ということになります。事実、正則自身が鷹場を直々に拝領したのは老中首座に就任した寛文6年(1666年)のことでした。

更に同書では、下賜された鷹場での鷹狩は飽くまでも本人にのみ認められたものであり、本人以外は利用を認められていなかったことを細川忠興の事例を挙げて指摘(117〜118ページ)した上で、次の様に結論づけています。

恩賜鷹場の下賜は、家格を基礎としながら、原則として家に対してではなく、属人的要素により執行されていたのである。恩賜鷹場を下賜された大名の場合、それが後継者に引き継がれず、一代限りで終わっていたことが多いのは、そのことを如実に示しているといえよう。「大猷院殿御実紀附録」には「鷹場賜る事は、三家又は老臣にかぎれば」とあり、御三家は家に対して、そのほかは幕府・将軍に長年奉公した老臣に限られていたとあり、そのことを裏づけている。もちろん、これは全体的な傾向であって、この傾向から外れている事例もあり、厳密にいえば藩主に限らず、隠居した元藩主や藩主の嫡男をも対象としていたのである。…恩賜鷹場は家格を意識しながらも、徳川家および大御所・将軍との個人的な関係のなかで下賜されていたのである。

このように、恩賜鷹場の下賜儀礼は、大名の徳川将軍家への奉公に対する御恩の一環として、「慰み」や「養生」のために執行されたものであり、まさに恩賜鷹場と称しうる性格を有していたのである。この鷹場は、近世前期においては、関東ばかりでなく、畿内近国にも位置づき、公儀鷹場の一角を占めていた。その意味で、恩賜鷹場を下賜された大名らは、江戸・京都滞在時における鷹狩の場を保障されると同時に、公儀鷹場の支配権の一端を担うことになったのである。

(120〜121ページ)


これに従えば、いわゆる「御三家」以外の大名については、飽くまでも将軍との個人的な関係にあった人物にのみ鷹狩の場が保証されていたことになります。

そうなると稲葉正則の場合は、春日局からの返礼の書状が示す様に寛永20年という早期に鷹狩に臨んだと見られるのは、相当に「異例」であったと言わざるを得なくなります。更には、正則自身が自身の鷹場を拝領するまでの間に、主に御厨で鷹狩を複数回行ったことが窺える史料も以前の記事で紹介しました。もう1つ更に、正則が鷹場を拝領した後のことになるとは言え、子の正道がまだ江戸での役職を得る前から御厨へ鷹狩に行っているのも、正則には断りを入れいてるであろうにしても、本人以外に鷹狩が認められていなかった原則に照らせば外れていることになります。

こうした事情を具体的に説明できそうな史料は今のところ私は見ていませんし、どの様な説明を付けるのが適切なのかも判断しかねているのが正直なところです。ただ、確実に言えそうなのは、どの様な説明になろうとも、「御三家」に匹敵するかの様に見える厚遇が実現可能となるには、正則が3代将軍家光とは「乳兄弟」という間柄であったという事実、つまり両者の共通の乳母である春日局の存在を抜きにして語ることは不可能であろうと考えられることです。鷹狩の扱いが飽くまでも正則個人の「属人的要素」によって説明されるしかないとすれば、彼にとって特筆されるべき要素として挙げられるものは、やはり大奥を掌握し、老中をも凌ぐとさえ評価される実権を握っていた春日局との直接的な血筋ということにならざるを得ないでしょう。

以前の記事では、正則が雲雀を春日局に贈った意味を

この雲雀は正則が小田原藩主としていよいよ「独り立ち」する年齢となり、その手筈が整ったことを局に対して「報告」するのに、最良の選択肢であったと考えることが出来るのです。

と読み解きました。しかしそうであってみれば、この雲雀には、春日局抜きには正則には成し得なかったであろう地位に対する謝意が込められていたとも読み解けるのではないか、という気もしてくるのです。




南足柄市塚原の位置(Googleマップ
さて、以前の記事では「小田原市史」に掲載されていた小船村や網一色村の寛文12年(1672年)の村々の明細帳から鷹狩に関する箇所を抜粋して掲載しました。今回は「南足柄市史2 資料編 近世⑴」に掲載されている塚原村(現:南足柄市塚原)の同年の村明細帳を紹介します。この明細帳について、同書では次の様に解説しています。

この年の村明細帳は稲葉氏が領内の年貢・諸役その他の実態・旧慣を把握するために差し出させたものである。一般に◯筋◯村の表紙がついた美濃判二折のものであるが、当村のは横半帳に細字で書かれており、「村中覚書之事」を付加して宝永五年(一七〇八)以降に写書きされたものである。現存する市域の村明細帳中最も詳細な内容を持つ貴重な史料である。

(144ページより、以下も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)


実際のところ、この村明細帳は上記「南足柄市史」の127〜144ページまで、実に18ページを占めており、上下2段に100項目を超える記述が続きます。後ろに上記解説にある後年の追記が含まれているとは言え、ここまでの長さに及ぶ詳細な村明細帳は、現在の南足柄市域に限らず、旧相模国全域でもなかなか類を見ないものです。もちろん、江戸時代初期に作成されたあと明治に入るまで、この明細帳が事あるごとに参照されたり、然るべき役所などに差し出される非常に重要な資料でした。

ここまで詳細な明細帳になると、鷹狩に際して村が差し出した人足などの記述もかなり具体的になってきます。鷹狩に関する項目は次の様にかなりの数に上ります。

一御鷹匠衆御越被成候得、十月ヨリ三月迄之間寄馬又ハ人足ニ而も出申儀御座候、(130ページ下段より)

一御厨ヨリ御鷹部屋参候鳥もち壱桶宛、御厨御代官衆御配苻次第人足出シ、田古村村次仕候(131ページ下段より)

一御餌指(エサシ)方々ニ而取出シ候御鷹之餌、田古村又ハ岩原村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ(巣)鷹見分御越候節、馬壱疋宛出し村次仕侯、

一御鳥見衆御厨へ網張御越候節、馬壱弐疋宛出し上下村次仕侯、并御網之鳥切之通り申候、則田古村へ村次仕候、

一御鷹匠衆御厨へ御鷹野御越候荷物附送り之人馬、上下共五六疋又ハ七八疋ほど宛出シ村次仕候、并御鷹之鳥節々通り申候、則田古村へ村次仕候、壱年中ハ上下度々之儀御座候(以上132ページ上段より)

一川村御拾分一之鳥もち、村次ニ而小田原青物町参候、此附送人馬六七疋、又ハ八九疋宛出シ田古村へ村次仕候、(133ページ上段より)

一御鷹部やヨリ和田川原筋ニ而(しぎ)網御張被成候節、御網之鳥田古村村次仕侯、

一御鷹前羽申儀御座候得、御鷹尋申人足出し申儀御座候、(以上133ページ下段より)

一御鷹部屋ヨリ鴫網張御中間衆被参、五日も十日逗留被致候得薪出シ申候、并御網之鳥田古村村次仕候、(135ページ上段より)


何れも「村次」つまり継立の用事であったことがわかります。鷹匠や配下の人々の移動もさることながら、鳥もちや獲物の鳥の運搬など、何かと鷹狩絡みの用事が発生して村民が忙しく使われていた様子が窺えます。また、鷹を使った狩だけではなく、鴫の猟には網(霞網か)が使われていたこともわかります。

また、この村明細帳には鮎に関する御用についても記載があります。

一川御奉行衆河内川筋、又ハ御厨川筋取らセ御越被成候御鮨之道具、并荷物持送人足拾五人・馬四疋宛上下出シ村次仕候、毎年夏中ハ上下度々之儀御座候、并川御奉行衆川筋御座候内ハ、間一日置御鮨箱弐箱宛通り申侯、此持人足四人宛出シ田古村へ村次仕候、自然壱箱宛参候儀も御座候、則御勘定所ヨリ明箱御(返)シ被成候間、人足弐人宛出シ怒田村又ハ関本村へ村次仕候、(132ページ下段より)

一狩川筋鮎盗申御番御足軽衆壱人宛九月ヨリ十月迄之間御付、当村居被申候、則宿薪出し申候、(135ページ上段より)


1つ目の項目には鮎ずしを作るための道具を収めた箱を持ち運ぶ人足を出したことが記されています。御厨までこれらの道具を運ばせていることから、御厨で鮎を獲って鮨を作らせていたことがわかります。春日局に贈った「鮎ずし」も、あるいは同様にして作られたものなのかも知れません。

また、2つ目の項目では酒匂川の支流である狩川に番人がついていたことが記されています。この川沿いには矢倉沢往還が並行しており、この川は藩の鮎の漁場として禁漁になっていました。この番人はその監視のために置かれたものですが、村からはその番人宛に賄いなどのための燃料である薪を差し出していたことが記されています。これも当時の小田原藩の鮎漁を巡る諸相の1つを物語る項目と言えるものです。正則が春日局に「鮎ずし」を贈った意味も、こうした藩の鮎漁の位置付けとも繋がっていると言うべきなのでしょう。
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矢倉沢往還関本「村」の関本「宿」への昇格願書

史料探索のために「南足柄市史」の資料編を改めて確認しているのですが、エピソード的に取り上げてみたい史料を見つけました。今回はこの史料を中心に考えられることを書いてみたいと思います。

この史料の「南足柄市史」上での表題は「219 慶応四年八月 関本村を関本宿と改称の願書」となっています。

(表紙欠)

恐以書付申上

一当村人馬御継場之(儀)ハ、先年駿・甲・信右三ケ国之往来而、登り駿州竹之下村(静岡県小山町)迄、箱根山続足柄山打越、四里拾六(町)之大難所、下り小田原宿迄、弐里弐拾八町之御継立仕候、 御朱印・御証文御方様并ニ諸家・御藩御荷物継立仕候程之義而者、中古格別之御通行之、尤是迄諸御役方御通行之節、隣村相雇、助合人馬被差出、村名を以御伝馬御継立仕候、然ル処当今之御時勢至り、日々御通行弥増罷在、東海道筋往還同様始末、村方人足ニ而ハ御継立不相成節ハ、前(顕カ)申上候通り隣村相雇、御用人馬相勤メ、御定メ賃銭被下置候上ハ、聊道中筋ニ茂相振れ居り候義申、往々夥敷(おびただしく)御通上有(ママ)之候上、人馬御賄付、近村助合雇立候而茂、宿名有之候ハヽ、猶亦近村へ之聞江茂宜敷、尤雇賃銀不足等之分ハ、是迄当村方(ママ)罷在候程之義付、御伝馬御用御差支不相成様仕度、既重キ 御高札ヲも御建置被遊候程之義御座候間、何卒格別之以 御憐愍ヲ当村宿名御歎伺申上候通り、 御聞召被(遊カ)、宿名 御免被 仰付下置候様、御歎願奉申上候、右願之通り達 御聞下置候ハヽ、小前一同私共迄難有仕合存候、以上、

慶応四辰年八月

関本村

(「南足柄市史2 資料編 近世⑴」547ページより、返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)


関本村の位置
関本村の位置
大雄山最乗寺は関本の南西方向約4kmの山中
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

関本村の高札場跡
ストリートビュー

関本村(現:南足柄市関本・大雄町)はこれまで幾度かこのブログでも登場しましたが、矢倉沢往還が小田原からの甲州道と和田河原村で合流した先の台地の上に位置し、両往還の継立場となっていました。また、大雄山最乗寺への入り口に当たっており、参拝客の拠点となっていました。

この願書が書かれた慶応4年(1868年)という年は幕末も大詰めの時期に当たっていて、同年の4月には江戸開城に伴って徳川慶喜は謹慎となり、その後の会津戦争も8月には大詰めを迎えていました。そして、翌月8日には明治に改元することになります(以上何れも旧暦)。以下で示す様に関本村も次々と官軍関係者が通行する状況を目の当たりにしていますから、これまで長年培われてきた社会が大きく変動しようとしている様子を肌身で感じている最中に、この願書が書かれたことになります。

関本村にはこの様な状況下で、東海道に匹敵するほどの継立の負荷が発生したこと、そしてその過大な負荷に対応するべく、周辺の村々から助郷を調達して必要な人足を充足したことが、この願書には記されています。実際、慶応4年には足柄峠を越えてくる戊辰戦争の官軍関連の通行が急激に増えたことが、関本村の隣の継立場である苅野一色村(現:南足柄市苅野の一部)が翌明治2年にまとめた「継立人馬日締め帳」に見えています。


辰三月廿七日

一人足四人  御下り 関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭五百三拾文/増賃銭五百六拾六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

御総督御内/雀部八郎様

右同断

一人足四人  御下り 関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭五百三拾文/増賃銭五百六拾六文

肥後御藩中/岩男内蔵允様

右同断 御下り

一人足拾弐人 右同断

此賃銭壱貫五百九拾文/増賃銭壱貫七百六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

肥後御藩中/近藤左助様/仁保達三郎様

辰三月廿七日 御下り

一人足六人  関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭七百九拾三文/増賃銭八百五拾壱文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

御官軍御用/名倉千之様/川村周八様

辰三月廿九日 御下り

一人足九人  関本村迄但壱人付百三拾壱文五分

此賃銭壱貫百九拾弐文/増賃銭壱貫弐百七拾六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文

御官軍御賄御用/柴田権次郎様

御手代/須田宇助様

(「南足柄市史3 資料編 近世⑵」482〜484ページ、以下の同書からの引用も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、「辰」は慶応4年を指す、一部改行を「/」に置き換え、「…」は中略、強調はブログ主)


これを受けて、東海道の宿場同然に関本も「村」ではなく「宿」を名乗り、高札などの施設を宿場に相応しいものに整備することを許可して欲しいというのが、この願書の趣旨です。

考えようによっては、関本村は一時的とは言えこの負荷を捌くために必要な人足の手配を「村」を名乗ったままでも行い得ている訳ですから、宿場を名乗れないことが継立を運営する上での制約となったとは必ずしも言えません。その点では、この願書はいささか行き過ぎたことを願い出ている様にも見えます。それでも関本村がこの機に乗じて「宿」への格上げを願い出ようと考えた背景として、ある近隣の村々とのトラブルが思い当たります。

「南足柄市史6 通史編Ⅰ」p542-図3-3
「峰通り概念図」(再掲)
(「南足柄市史6 通史編Ⅰ」ページより)
以前松浦武四郎「東海道山すじ日記」を分析した際、松田(現:松田町)から苅野一色村への道筋として、本来の矢倉沢往還の道筋を通らずにバイパスしてしまう「峰通り」というルートを使ってしまう問題があったことを紹介しました。関本村としては、本来同村を経由する荷物や通行人から得られた筈の利益を失うことに対して座視する訳には行かない立場でした。以前の記事でも紹介した通り、関本村と峰通りを使っている継立村との間での争議に絡む史料が、「南足柄市史」にも多数収録されています。

流石にその様なトラブルがあることを願書に直接書く訳にはいかなかったと思いますが、この機に「関本宿」を名乗ることが出来れば、あるいは「峰通り」を続けている近隣の村々に対しても、それなりに牽制となるのではと考えたのかも知れません。無論これは推測の域を出ないことではありますが、あるいは宿場という「箔が付く」ことで、近隣の継立場も勝手な判断をしにくくなるかも知れない、あわよくば罰則を課して歯止めをかけられるかも知れないという思惑が、「願書」の端に見え隠れする様にも思われます。

しかしながら、この「願書」には日付はあってもその「宛先」が記されていません。何しろ幕府が倒れてしまった直後ですし、まだどの様な政治体制が採られるのかもわからない中では、これまでの様に小田原藩に送り届けてももはや意味はなかったかも知れません。と言って、1つの村の願書を受け付けてくれる役所の様な組織がどうなるのかも不明な時期とあっては、これを何処に提出したものか、わからなかったのではないかと思われます。従って、この願書は何処にも提出されることなく、下書きのまま手許に措かれていた可能性も考えられます。表紙がない状態というのが本来あった表紙の跡が見えているのかどうかは不明ですが、下書きであったとすれば元からその様なものがなかったのかも知れません。

実際のところ、関本「村」がその後関本「宿」となったことを示す史料はありません。上記の苅野一色村の締め帳は願書の翌年に書かれたものですが、この中でも「関本村」と記されています。一方で、関本村の積年の悩みの種だった「峰通り」の問題は、明治5年(1872年)になって5年前には思いもよらない形で決着を見ることになります。「南足柄市史」上で「陸運会社設立に伴う峰通りの通行公認書」と表題を付けられた次の史料が、その結末を現在に伝えています。

取替申一札之事

一今般郵便陸運枝道御開相成候付、私共村々御開御免許願立候処、字(峰)唱候間道通路いたし候より彼是差縫(さしもつれ)、然ル処平塚駅周旋人立入取扱ヲ以、両村示談行届合村いたし候、然上双方共故障無之御願通被 仰付、双方共(いささか)申分無御座候、依之後年至り異論無之証書して和熟対談左之通、

郵便陸運    関本村 仰付候、

陸運会社    矢倉沢村 仰付候、

陸運会社    神山村 仰付候、

一矢倉沢村より神山村(松田町)合村町屋通路間道往復之儀、全便利之地故、旅人之頼継立方取急候節、則間道附通し、刎銭(はねせん)して荷物壱駄付銭五拾文充、両村より関本村差出可申候事、

一間道筋旅人歩行立ヲ以通行致候者、矢倉沢村より手心ヲ以、関本村之往来通路之儀心附いたし可申事、

一関本村より曽屋村(秦野市)通、継通し之節、神山村合村町屋継場之廉ヲ以、往返共口銭差出可申、尤荷物壱駄付何程相定メ候義、駅々議定通差出可申事、

一此度示談行届合村いたし候上、両村境界内人馬口銭相互取遣いたし申間鋪候事、

右之通取極仕為後証取替一札差出申処、仍件、

明治五申年六月

足柄上郡/矢倉沢村/百姓代/桜井善左衛門(印)/組頭/桜井小左衛門(印)/名主/田代五郎左衛門(印)

神山村/百姓代/北村六右衛門(印)/組頭/北村源左衛門(印)/名主/田中六左衛門(印)

神山村合村/組頭/竹内半七(印)//竹内四郎左衛門(印)

前書之通立入取扱申候付、依之奥印いたし候、以上、

東海道平塚駅/枝道周旋方取扱人/加藤新兵衛(印)

関本村/御役人中

(「南足柄市史3 資料編 近世⑵」487〜488ページより、署名の改行は一部「/」にて置き換え、日付との位置を調整、強調はブログ主)


この史料の中でも引き続き「関本村」と書かれていることからも、5年前の願書に記された「昇格」はついに果たされることはなかったことがわかります。一方で、江戸時代以前から長距離の陸運を担ってきた「継立」の制度が新政府の下で「陸運会社」として改組されることになり、関本村も周辺の継立村共々新たな会社制度の免許を出願して無事認められています。そして、平塚駅の執り成しの下で「峰通り」問題の解決が図られ、この近道を使った場合には刎銭として荷物1駄(馬1頭分の荷物)に対して50文づつを関本村に支払うことなどの条件で合意を得ることが出来ました。


慶応4年時点で願書の草案を練っている際には、5年後に継立制度そのものが無くなってしまう未来など、草案の主はもちろん、「峰通り」問題に関与する村々の誰も全く予想だにしなかったでしょう。その様な中で作成されたこの願書は、江戸幕府から明治政府へと社会全体が変わっていこうとする中で、村の措かれた役割がどの様になっていくのか見えにくくなりつつも、その地歩を少しでも確保しようという動きが垣間見える史料であると言えるでしょう。
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「たかね日記」(稲葉正通)における「矢倉沢の蛤石」

以前、春日局から稲葉正則に送られた書状に記された「雲雀」について分析を披露しました。その際に「御殿場市史 第4巻 近世史料編」に掲載された史料を引用しました。神奈川県在住の私にとって神奈川県外の市町村史を読む機会はあまりなく、この機にと他の史料も探していたところ、稲葉正通(まさみち)の著した「たかね日記」(以下「日記」)という紀行文が掲載されているのを見つけました。今回は、この「日記」に記録された「蛤石」について取り上げます。

稲葉正通について、同書では次の様に解説しています。

筆者の正往は稲葉正則の嫡子で、はじめ正通といい、寛永十七年(一六四〇)の生まれであるから、この日記が書かれたのは正往が三十七才の時である。父正則が長命であったため、三十七才の働きざかりでも、ほとんど活動する機会もなく(正則は三十五才で幕府老中を勤めている)、本書執筆の四年後にようやく奏者番兼寺社奉行に任ぜられ、間もなく京都所司代に転任している。かれが父と同じ幕府老中に就任したのは、元禄十四年(一七〇一)六十一才の時であった。

(上記書179ページ、以下ページ数は何れも同書より)


実際は家督相続以前からそれなりに活動はしていたのですが、やはり父の隠居まではそれほど重要な役職に就くことはなく、その時間をこの様な領内の視察を兼ねた鷹狩などに使っていた様です。

「たかね日記」については次の様に紹介されています。

本書は、延宝五年(一六七七)十二月十日より十六日に及ぶ、小田原から関本―御殿場―三嶋―箱根を経て小田原に帰る、鷹狩りを中心とした紀行文である。その間御殿場に四泊している。本巻所収の「稲葉日記」には、稲葉正則の御殿場滞在についての記事が多く見られるが、文芸作品として少なからぬ潤色があるにせよ、本書のような詳細な滞在記事は類がない。宿としたいわゆる御殿場屋敷のたたずまいの記述も珍しく、竹之下・二枚橋・深良・須走各村の名主の動き、特に西田中村八郎右衛門(名主、芹沢将監の子孫)の案内などが記されて興味深い。文章は伝統的な記行文の模倣(もほう)であるが、正往は当時の大名の常として、漢学及び国学に造詣が深かったという。なお末尾に「越智正通」とあるのは、稲葉氏の本流河野氏がはじめ越智氏を名のっていたからである。本書の原本はもと稲葉家が所蔵していたが、現存かどうかは不明である。

(179~180ページ、以下も含めルビ、傍注も同書に従う)


稲葉正通(正往)「たかね日記」経路図
稲葉正通(正往)「たかね日記」経路図
(172ページより)
従って、「日記」の記述の主要な部分は御殿場を中心とする駿河国で鷹狩を行って過ごした日々の記述であり、相摸国の記述は出発初日の足柄峠までの区間と、帰路の箱根峠を越えて小田原城へと戻るまでの区間の足取りのみに限られています。この鷹狩の様子なども一度仔細に分析したいのですが、やはり現状の私の環境では県外の史料などは容易にアクセスできませんので、その点は他日にその様なことが可能な機会があればと願っています。

正通一行は解説にある通り延宝5年12月10日(グレゴリオ暦1678年1月3日)に小田原城を出発して狩場のある御殿場へと向かいます。記されている地名から一行は甲州道を進んだことがわかります。関本には最乗寺(「日記」では「最上寺」という表記になっている)があることに触れたのち、矢倉沢にあった関所に到着します。

辰の時ばかりに(矢倉)沢といふにいたる、そのかみ、この道は鎌倉に往来の駅路にてありけるが、いつの頃よりか箱根路にかゝりて,むかしの道はたえ/\なり、されどいまも甲斐・駿河へこゆるかたなれば、関所とす、あしがらの関とかいひし古きあともおもひ出らる、関やにいりてしばらく休らひ、ここより坂をのぼるに、冬枯たれどしげき茂りの山路はるかにして、自雲生ず、民の家だにもなし、ゆきかひに道もさりあへぬ岩かどありて、くるしくのぼる、こゝにいさごこりて其状貝に似たるあり、いつの世よりか、かくは成けん、山(しず)のことわざに蛤石とそいふめる、ゆくてに(かや)(葺)ける堂あり、あしがら(足柄)の地蔵といふ、森の落葉の霜の色はな(花)よりも猶めづ(珍)らかなり、矢倉が嶽のうしろにつゞける山なん八重山といふ、

あしがらやはやくの跡をふみ分て

ゆくへも遠き雲の八重山

(上記書170ページより、強調はブログ主)


冬場の「辰の時」はやや遅めの時刻になっている筈ですから、今の朝9時くらいには矢倉沢の関所に到着したことになるでしょうか。正通は「日記」に夜遅い時間に出発したと書いているのですが、岩原村(現:南足柄市岩原)を過ぎる頃に空が白み始め、関本(現:南足柄市関本)に着いた頃には夜が明けたことを書いています。その間約4kmほどありますから、一行はそこそこのペースで歩いていたと考えられ、そこから逆算すると出発したのは夜明け前と表現する方が適切な時間帯だったと見られます。もっとも、暗いうちに小田原の街中を抜けて甲州道を進んだため、これらの沿道の村々は「こゝもとにやおもふ(170ページ)」と書き記している通り、周辺の様子を窺うことは覚束ないことではあった様です。

小田原城を出発してからここまで休まずに歩いてきたため、足柄峠を越える前にここで一旦休憩を採ることにした様です。「日記」ではこの旅路の目的について「小鷹狩して民のかまどの煙をも、うかゞひ見むとて、(170ページ)」と鷹狩りがてらに領民の視察を兼ねていたことを記しています。その視察のうちに関所などの視察を含んでいたかどうかについては記述からは定かではありませんが、やはり藩主の嫡男が訪れたとあれば関所側は相応の対応が必要だったでしょう。

矢倉沢地蔵堂および周辺史跡の位置
矢倉沢の範囲と地蔵堂および周辺史跡の位置
(再掲:Googleマップ上で作成したものを
スクリーンキャプチャ)


夕日の滝全景
蛤石はこの付近の地層で見られる(ストリートビュー
関所を発つと民家が絶え、冬枯れの草が茂る道を登り始めます。ここで正通は「蛤石」について記しています。「矢倉沢の蛤石」については以前このブログでひとまずまとめましたが、その際に取り上げた史料は何れも江戸時代後期のもので、江戸時代初期のものは見つけていませんでした。つまり、この「日記」が今のところ私が見つけた「蛤石」の最も古い記録ということになります。

正通は「こゝにいさごこりて其状貝に似たるあり、」と伝聞の形では書いていません。しかし、正通一行が直接見に行ったのだとすると、記述に実情と食い違う箇所があることに気付きます。

以前まとめた通り「蛤石」は「蛤沢」で見られます。これは地蔵堂を過ぎて甲州道を逸れ、夕日の滝がある沢へと降りなければなりませんので、地図で確認出来る通り「地蔵堂」の記述が「蛤石」の記述より先に来なければ行程の順に噛み合わないことになります。

無論、江戸時代の紀行文では必ずしも時系列や道順にそぐわない順で記述されている例が数多く見つかりますので、この「日記」の場合も意図的ないし記憶違いなどの理由で記述の順序が入れ違ってしまった可能性もあります。しかし、本来鷹狩の目的で一行を引き連れて狩場へと向かっている最中のことであり、もしもわざわざ「蛤石」を見に行ったのであれば当然「日記」にもそのことがわかる様に書いたのではないかと思われます。こうしたことから、正通は実際には「蛤石」を見には行っておらず、一行のうちの誰かから「蛤石」について聞かされたことを書き留めた可能性の方が高いと私は考えています。

その場合、正通は誰からその話を聞いたのかが気になります。「(しず)のことわざに蛤石とそいふめる、」とこちらは伝聞の形を取るところから見ると、やはり正通に随伴していた家臣などからということになるでしょう。そうだとすろと、「蛤石」はこの時点で既に藩士の間で既知のこととして伝わっていた可能性が高くなります。

従って、「いさごこりて其状貝に似たる」つまり砂が固まって貝の様な形になったという観察も、正通のものと考えるよりは、道中でその様に説明されたものと理解する方が良さそうです。以前まとめた様に「本草綱目啓蒙」などでは化石の成り立ちについて比較的正確に理解されていたことが窺えるのに対し、この「日記」の記述ではまだその様な理解が成立していなかったのではないかと推測できます。この山の中に海のものが出土するなどということは、当時の知識では理解し難いことではあったでしょう。

「日記」の他の部分については、後日改めて取り上げてみたいと思います。
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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その7)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」、引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より)を取り上げます。今回で相模国域の解説を終えたいと思います。



その1で見た通り、十文字の渡しを渡った先で近道を経由した武四郎一行は、次に関本(現:南足柄市関本)で荷物を継いでいます。前回見た通り「峰通り」という抜け道も存在しましたが、今回は少なくとも関本を飛ばす選択はしなかったことになります。

「日記」では関本の街について「畑村にして少し町並有」と書いており、小さな街と見ていたと考えられます。これに対し、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)では

戸數六十五…甲州道の左右に列す、凡四町許、

(卷之二十 足柄上郡卷之九 以下も含め何れも雄山閣版より、…は中略)

と、街道の両側に約400mにわたって街並みが続いていたとしています。更にこの辺りの矢倉沢往還(甲州道)の道幅も「五間許(約9m)」と、当時の東海道の幅に匹敵する広さをもっていたことが記されてます。こうした規模であれば、少なくとも「日記」に「少し」と表現される様な景観ではなかったのではないかと思われます。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(再掲、概略、
地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

現在の関本・南足柄郵便局入口交差点
進行方向が矢倉沢方面
その右角にかつての高札場が再現されている
ストリートビュー

もっとも、「矢倉沢通見取絵図」(リンク先は東京国立博物館画像検索のサイト、画像の左が関本の集落)で確認すると、関本の集落はもう少し東の、現在の「竜福寺」交差点より更に小田原寄りの辺りから始まっていました。この「竜福寺」交差点から南へ折れる道が大雄山最乗寺へ向かう道で、関本の集落がこの辺から始まっていたのも立地の点で理解出来ます。

これに対し、怒田から急坂を登って関本に入った場合、かつての高札場があった辺り、現在の南足柄郵便局入口交差点辺りで本来の道筋に復帰したと思われます。この推定が正しいとすると、関本の街には中ほどから入ったため、関本の街を出るまであまり長い距離を通過しなかった上に、恐らくは関本の賑わいの中心になったであろう最乗寺への辻を経由しなかったことになります。当時の関本の継立場の位置がわかりませんが、武四郎一行が通った道の途上にあったのであれば、継立場へ迂回を余儀なくされることもなかった筈です。

武四郎自身の感覚では関本くらいの規模の集落は「小さい」部類に入ると感じられた可能性もありますが、武四郎一行が通った道筋が本来の矢倉沢往還のそれではなかったために、通過した集落の距離が短くなって武四郎に「小さい」と感じさせる結果になったとも考えられるのではないかと思います。



関本を出た武四郎一行は、箱根外輪山の北の山腹を登って行きます。ここからは「片上里」であると「日記」に記されています。この辺りから集落が立地できる平場が少なくなっていくことを、この言葉で表現していると言えます。

関本を出ると「雨坪村、弘西寺村、苅岩村、一色村、」を経て矢倉沢村(現:南足柄市矢倉沢)に入ると「日記」に記されていますが、後ろ2村はそれぞれ「苅野岩村」「苅野一色村」(どちらも現:南足柄市苅野、苅野岩村が関本寄り)が本来の名称です。「日記」の矢倉沢村の記述は次の通りです。

矢倉澤人家二十軒斗。茶屋有。此處關所有しが正月二十六日之御布告にて今は戸を〆切て誰も守者なし。西山の端畑斗なり。二十丁上りまた十六七丁、下りて地蔵堂村人家十七八、是を足柄(あしがら)の地蔵と云り。

(「日記」650〜651ページより)



現在の矢倉沢関所跡
進行方向が足柄峠方面
右手の民家の入口に関所跡の石碑と傍示杭が
立っている(ストリートビュー
「明治2年 法令全書」22〜23ページ
明治2年の「法令全書」より
関所廃止の布告が掲載されているページ
(中程の「第五十九」)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

ここではまず、明治政府の布告に従ってちょうど閉鎖されたばかりの矢倉沢の関所について記しています。箱根山とその周辺には、箱根の他に根府川、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶの6箇所に関所がありました(矢倉沢にあった裏関所を別に数えて7つとする数え方もあります)が、これらが全て布告によって一斉に閉鎖されたことになります。矢倉沢に置かれていた関所について「風土記稿」は

◯御關所 小名關場にあり、惣構二十間許、領主大久保加賀守忠眞預りて番士を置く、番頭一人、常番二人、先手足輕一人、中間一人、總て五人を置て守らしむ 往来繁き時は番頭一人、先手足輕一人を加ふ、建置の始詳ならざれど、土人の傳によれば、大庭又五郎と云もの、天正小田原落去の後、始て常番人となると云、村内江月院の鬼簿に、又五郎の法名を錄して、慶長十五年八月死すと見ゆ、其子又五郎慶長十九年、小田原御城番近藤石見守秀用の手に屬し、寶曆の頃に至り、子孫大久保氏の藩士となりしとぞ、全く御入國の時、始て置れし所と見ゆ、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と原則的に5人体制で運営されていたことが書かれています。武四郎が矢倉沢の関所跡を通過したのは閉鎖布告から20日あまり後だったことになりますが、その時点で既に外郭の幅20間(約38m)の敷地からは人が引き払われ、無人と化していたことがわかります。

武四郎はこの布告を「1月26日」と書いていますが、「法令全書」に記録された布告の月日は「1月20日」になっています。

[第五十九]正月廿日(布)(行政官)

今般大政更始四海一家之御宏謨被爲立候ニ付箱根始諸道關門廢止被 仰出候事

(「国立国会図書館デジタルコレクション」を元にディクテーション、強調はブログ主)

武四郎も京都行きの準備の一環で従来通り通行手形を準備しようとした過程で、この布告によって手形が不要となったことを知ったのに違いなく、従って出発前から事情は承知済みだった筈です。その際に何らかの理由で間違った日付を伝えられたか、若しくは取り違えて覚えてしまったのでしょう。

それまで当然の様に存在していた関所が廃止されて、手形の精査のために時間を取られてしまうことなく素通り出来る様になったことは、当時の人々には多大なインパクトを与える事件であったと想像されます。しかし、「日記」は閉鎖された関所の建物について簡単に触れるのみで、武四郎の心の内を伝える言葉は皆無です。この冷静さはあるいは、この「日記」を報告書として明治政府に提出する腹積もりがあってのことかも知れません。

何れにせよ、この箇所は「日記」の中でも、この旅が行われた「明治2年」という年を最も象徴する記述と言えるでしょう。




ところで、矢倉沢村は本来継立村であった筈ですが、「日記」では荷物を継いだことが記されていません。「風土記稿」では

今は甲州及び駿信二州への通路となる、當村人馬の繼立をなせり、東方關本村迄一里八町、西方駿州駿東郡竹ノ下村迄二里廿九町を送る、但し苅野一色・苅野岩二村と組合なり、月每に上十五日は當村、下十五日は、十日は苅野岩村、五日苅野一色村、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と、関本寄りの苅野岩村、及び苅野一色村と3村で交替で継立村を務めていたことが記されています。武四郎一行は11日にここを通過していますから、本来は上の月の担当である矢倉沢村が継立村だった筈です。

ここまで世田谷から長津田の間の二子・溝ノ口下糟屋から神戸の間の伊勢原が継通しで通過されたことを見て来ました。いずれも「日記」の記載漏れであった可能性も否定出来ないものの、他方で何らかの事情で実際に継通しが行われていたとも考えられることを指摘しました。

矢倉沢の場合も記載漏れの可能性と実際に継通しが行われた可能性の両方が考えられます。ただ、関本からは割増の駄賃を支払ってこの3ヶ村での継立を飛ばして竹之下まで継通す運用があったことを、「南足柄市史」の通史編で次の様に解説しています。

三か村分担継立を利用者側の立場にたって見る時、そこに設定された人馬賃銭を宝永五年(一七〇八)の例で比較すると、表3—6のようになる(『市史』2No.198、『市史』3No.156)。つまりこの三か村経由で設定された賃銭の額は「本荷」「軽尻」「人足」共に、関本村から竹之下村へ向かう上りの場合、①矢倉沢村継立②苅野一色村継立③苅野岩村継立の順、竹之下村から関本村に向かう下りの場合、反対に①苅野岩村継立②苅野一色村継立③矢倉沢村継立の順で賃銭額に高低があり、荷送りの日によってわずかではあるが運賃に差が出ることが確認出来る。また、この三か村で継立を行わず、直接関本村から竹之下村まで継ぎ通すことも可能で、その場合の賃銭は前述のいずれよりも高額に設定されており、継ぎ替えの煩雑さを回避した継ぎ通しの有利さが賃銭に反映されていると考えることが出来る。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ 自然・原始・古代・中世・近世」539〜540ページより、強調はブログ主)








関本23
15
12
33
22
17
43
29
22








32
24
16
苅野岩



172
116
84
48
32
24


苅野
一色


160
108
78
62
41
31




矢倉沢148
100
72
359
239
177
222
147
111
212
140
106
200
132
100
竹之下

※各項目3つの数字は上から本荷/軽尻/人足(1人当たり)による継立の際の駄賃。単位は「文」。

※「—」は該当運用なし、「?」は記載なし

※「関本」の縦の列は「関本村明細帳」より、それ以外は「小田原藩からの人馬賃銭御尋ねにつき回答書」より該当する数字を拾って構成。

ここで「南足柄市史 通史編」に掲載されている「表3-6」が、継通し時の駄賃の事情を理解するには今ひとつわかりにくいので、指示されている2つの史料を元に別の表を作成することにしました。2つの史料は「関本村明細帳(相模国足柄上郡西筋関本村指出帳)」(宝永5年・1708年、「南足柄市史2 資料編 近世(1)」498〜503ページ)と「小田原藩からの人馬賃銭御尋ねにつき回答書」(宝永5年、「南足柄市史3 資料編 近世(2)」437〜438ページ)です。この2つから関本〜竹之下間の賃銭を抜き出して整理すると、右の表の様になります。


関本〜
竹之下
継通し
関本〜
苅野岩
〜竹之下
関本〜
苅野一色
〜竹之下
関本〜
矢倉沢
〜竹之下
359
239
177
254
171
127
260
172
130
262
173
131

※各項目3つの数字は上から本荷/軽尻/人足(1人当たり)による継立の際の駄賃。単位は「文」。

更に、この表から関本から竹之下までの下りの継立で、途中の3村のいずれかで継立を行った場合の駄賃を計算すると、右の表の様になります。中間の3村の何処が請け負ったかによって若干の差異はあるものの、いずれの場合も、「南足柄市史 通史編」の指摘通り、継通した場合の方が駄賃が50〜100文前後割高になる様に設定されています。それによって中間に位置する継立村を「保護」していた訳です。

幕末から維新の頃にはインフレが相当に進んでいましたので、宝永5年から160年余りも経った「日記」当時の駄賃はこの通りではなかった可能性が高いですが、比率の面では変動はなかったのではないかと思われます。何れにせよ、駄賃を少しでも安く済ませたいのであれば、この3ヶ村でも継立を行う選択をすることになりますが、その分だけ荷物を載せ替えるための時間が余分に掛かることになります。関本村の人足にとっては、継通しを請け負うと4里あまりの長丁場である上に足柄峠越えを含む厳しい荷運に挑むことになるのですが、矢倉沢までの僅かな距離の少額の継立を請け負うよりは、駄賃を稼ぐ良い機会であった訳です。

武四郎はこの区間では、少しでも先を急ぐために竹之下までの継通しを選択した様です。まだ日の短い冬場の旅路のことですし、まして山中とあれば日暮れの早さを念頭に置いておかねばなりません。関本の継立場に到着した時点で何時頃になっていたのか、「日記」には記されていませんが、出来れば暗くなってしまう前に宿泊地に着きたいと思えば、懐事情に問題がない限りは関本からの継通しを選択したとしても不自然なことではありません。

その点では、ここまでの3箇所の継通しの中では、この関本から竹之下の継通しが一番記述に確証があると言えそうです。




現在の地蔵堂。右手が足柄峠方面
ストリートビュー
矢倉沢「旧」関所を過ぎると、20町上って16~7町下った所に「地蔵堂村」があり、人家が17~8軒並んでいたことを記しています。現在は県道78号(足柄街道)となってアップダウンを平坦化されている矢倉沢往還は、当時はもっと沢に降りていく道筋であった様ですので、ほぼ「日記」の記載通りの道筋であったと言えます。「日記」では「地蔵堂村」と表記していますが、この場合の「村」は「集落」くらいの意で、実際は足柄峠まで矢倉沢村の内です。


地蔵堂については「風土記稿」では

◯足柄地藏堂 聖徳太子の作佛を置、長五尺二分、六緣山誓廣寺の號あり、相傳ふ、往古駿州仁杉駿東郡に屬すと云處に、杉の大樹あり、靈木の聞えあれば、其木を伐り、當所及駿州竹ノ下村駿東郡の屬、當國板橋村足柄下郡の屬、の三所に、一木三躰の作を置と云、堂は文化十四年囘祿に罹り、文政十一年再建す、正七の兩月十四日を緣日とす、七月は殊に參詣のもの多く、駿州御厨邊の村々よりも參詣す、乳を病なる婦人立願すれば必其驗ありと云江月院持、下同、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と紹介しています。当時はかなりの参拝者を集めていたこともあり、人足からその旨武四郎に説明があったのでしょう。



地蔵堂を過ぎた先の「日記」の記述は次の通りです。

また九折いよいよ嶮處を上る一りりて(ママ)

足柄峠地蔵堂有。甘酒をうる。八郎兵衞と云者一人住り。是駿相の境なり。是より南の方を眺むれば沼津、原、吉原、一目に見ゆ。また東の方は峯つゞき。楮〔猪〕鼻岳を越て仙石原の方に出るに、然し是は雪時ろう獵人共が往來する斗のよし。西の峯つゞきは阿彌陀木、矢倉岳等。其後ろは谷村(やむら)の關所に當ると。是より片下り一り八丁。往古の湖道なれば其麓に至ては並松の大樹等、今に其比の者〔物〕といへるもの殘れり一り

(「日記」651ページより)


足柄峠で少し休憩をとって周囲の山々や遠方の宿場などを見ています。「日記」の「楮鼻岳」の表記が引用元の紀行文集では「猪鼻岳」と修正されていますが、これは「金時山」の別称です。足柄峠からは、この金時山を経由して尾根伝いに仙石原へ抜ける道が存在していますが、こうした地元民だけが使う道筋は地元の人間でなければ知り得ない話でしょうから、継立人足などから得たものと思われます。上記の通り既に廃止された谷ヶ(現:足柄上郡山北町谷ヶ)の関所の位置を記しているのも、やはり今回の旅路がどの様な場所を経由しているのか、他の拠点との位置関係で理解出来るようにという工夫からでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第1巻足柄嶺眺望圖
「風土記稿」卷之二十一 足柄上郡卷之十
矢倉沢村の項中「足柄嶺眺望圖」
富士山の姿が大きく描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所のみ切り抜き、画質補正)
足柄峠からの富士山
現在の足柄峠からの眺望
やはり富士山の存在感の大きさが際立つ
(By Jungle(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく),
CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons

一方ここには、東から足柄峠に登って来たのであれば、とりわけ際立つ存在になる筈の山が挙げられていません。それは「富士山」です。「風土記稿」でも足柄峠からの眺望が描かれていますが、それと共に

河内

足柄の山の峠にあがりてぞ一本けふきてそに作る、富士の高嶺の程は知るゝ堀川百首

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

という歌が掲載されています。これらが示す通り、足柄峠からは富士山はほぼ西北西の方角に見えますが、その間には他の山が全くなく、広い裾野を持つ富士山のほぼ全体が見渡せるスポットです。

時間帯や天候の影響も考えられるものの、ここまでの「日記」の記述には天候が悪かったことを窺わせるものはありません。旧暦2月ならまだまだ乾いた澄んだ空気を期待出来る季節であり、富士山が見えにくい状況にあったとはあまり考え難いところです。

それにも拘らず「日記」に記載がないのは、やはりその目的が新政府への報告書として読まれることを前提にしているからでしょう。武四郎としては「本道」である東海道との位置関係の方に関心があり、そのことがわかりやすい地点を挙げたものと思われます。その点では、多くの地点から「見えてしまう」富士山は、却って報告に含めるのは相応しくないと判断したのかも知れません。



これでようやく駿相国境まで辿り着きました。次回簡単にまとめと補足を行いたいと思います。

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相模国の山菜について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続いて、今回も「新編相模国風土記稿」に記された「蕨」「薇」「独活」「薯蕷」について見ていきます。

神奈川県史」や県内の市町史で確認した範囲では、これらの作物が村明細帳に現れる例は次の通りです。
  • 塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年九月 塚原村明細帳(村鏡、[南]131ページ)

    一御厨わらびつけ野寺四郎兵衛殿御使番之御中間衆毎年被参候、(シヲ)わらびつけ桶ノ馬三疋宛出シ関本村付送仕候、下りハわらび樽持人足八九人宛田古村村次仕候、

    一御厨ヨリ御勘定所参候山のいも、御厨御代官衆御配苻次第人足出し、田古村ヘ村次仕候、

  • 飯沢村(現:南足柄市飯沢):寛文十二年七月 飯沢村明細帳([南]455ページ)

    一御用之山ノいも、御配苻次第毎年出申候、

  • 苅野一色村(現:南足柄市苅野):貞享三年四月(九日) 苅野一色村明細帳(村指出シ、[南]668ページ)

    一御用之山之いも、御用次第納申候儀も御座候得共、近年ハ納不申候、

  • 皆瀬川村(現:山北町皆瀬川):貞享三年四月 足柄上郡皆瀬川村明細帳(指出帳、[県五]488ページ)

    一うど拾八九年以前美濃守様御代御赦免被遊候、

    一わらび拾八九年以前美濃守様御代御赦免被遊候、

    一山いも三年以前丹後守様御代御赦免被遊候、

  • 菖蒲村(現:秦野市菖蒲):貞享三年四月菖蒲村明細帳([秦]163ページ)

    一薯蕷御用次第出し。

  • 穴部村(現:小田原市穴部):貞享三年四月(八日) 足柄下郡穴部村明細帳(御指出シ帳、[県五]519ページ)

    一御用之山之芋此以前御配苻ニ而納候儀御座候、近年納不申候、

(出典略号は次の通り:[秦]…「秦野市史 第2巻 近世史料1」、[南]…「南足柄市史2 資料編近世(1)」、[県五]…「神奈川県史 資料編5 近世(2)」、塚原村については薯蕷の差し出しについて上記書134ページにも記載があるが省略)


寛文12年・貞享3年村明細帳に山菜・薯蕷の記述がある村々
上記村明細帳を書いた村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
共通しているのは、これらの明細帳が何れも小田原藩の稲葉氏統治下の事情を書き記していることです。稲葉氏が取り立てていた正月飾りについて紹介して以来、寛文12年(1672年)や貞享3年(1686年)の明細帳は各種産物の紹介の折に都度取り上げてきました。それらの稲葉氏の取り立てていた品目の中に、「わらび」「うど」「やまのいも」が含まれていた訳ですね。但し、苅野一色村や皆瀬川村の様に明細帳提出時点では赦免されていたり、菖蒲村の様に必ずしも毎年納めていた訳ではない村も含まれています。

この中でも塚原村はわらびについて具体的なことを書いているのが当時の実情を知る上では貴重な記録です。採ったわらびは「わらび漬け」にして、藩からの使者に応じて馬を3頭立てて関本村に継いでいたとしています。恐らくはそこから更に足柄道の継立によって藩主のもとに届けられていたのでしょう。用の済んだ樽は村へ送り返されており、それを取りに行く人足のことまで書いています。薯蕷については掘ったものをそのまま納入したのでしょうが、これも多古村(現:小田原市多古)へと継送りしていたことを記しています。

こうした貢上がこれらの産品に対して何時頃まで行われていたかは記録に現れるものは見当たりませんが、恐らくは正月飾りなどと同じ頃に実質的に廃止されているのではないかと思われ、その後の明細帳類ではこうした記録がなかなか拾えなくなっています。

他方、前回は取り上げませんでしたが、箱根の「七湯の枝折」でも「蕨」「独活」そして「狗脊」が箱根山中で、とりわけ宮城野村や仙石原村などで豊富に採れたことを、産物の部だけではなく木賀の部でも記しています。
  • 巻ノ七 木賀の部:

    ○一体此木賀ハ湯宿の外に商人屋少ししかれとも湯宿また何によらす貯置ゆへ不自由なる事なく別てこの所ハ宮城野仙石ニノ平へ近けれバ春の比ハ狗脊生推葺蕨独活の類多し四季ともに野菜ハみなかの村々より爰にひさく故にもの事たよりよし

  • 巻ノ十 産物之部:

    一狗脊 筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

    一蕨  同じく宮城野辺多し

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 47、71ページより)


恐らくは「風土記稿」の宮城野村の記述も、「七湯の枝折」のこうした記述をも参考にして書かれたものでしょう。「七湯の枝折」では2箇所で「狗脊」と書いており、それが他の山菜類と同列に扱われていることからみても、やはりこれは「ぜんまい」の意で書いているものと思われ、「風土記稿」もこの表記にそのまま従ったのでしょう。

そして、こうした山菜類は箱根に湯治で滞在した紀行文などに時折登場してきます。例えば、「木賀の山踏」(竹節庵千尋著、天保6年・1835年)では

(注:天保六年三月)明る廿二日、朝のうち曇りて日影も見す、昼過る比より折おり日の御影見ぬ。小田原の三笠屋のあるし、そか妻なるものをゐて早蕨(さわらひ)なとつみに往んとて連たち往ぬ。予も妻なるものをゐて小地こく山の近きあたりにてせんまい、わらひなととりぬ。この山の裾通萩はらにて、今は立枯しをおし分つゝ爪先登りに往て

立のほる煙り絶へせぬ小地獄の

山の麓にもゆる早蕨

せんまいも蕨もゝえて紫に

秋はさこそと見ゆる萩はら

やいとにはならぬ(よもぎ)も紫の

ちりけのあたりもゆる若草

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 416〜417ページより、強調はブログ主)

と、宿泊客が小地獄(今の小涌谷)にわらびやぜんまいの採集に出かけていることを記しています。「木賀の山踏」ではこの10日前の12日には「娵菜、たんほ、つくつくし」を摘み取りに出掛けています(同書407ページ)。つまり、湯治客のレクリエーションの一環で山菜採りが行われていた訳ですね。また、山菜採りに来ていたのは湯治客だけではなく、麓の小田原の街からも夫婦揃って山菜採りに出掛けて来ている訳ですね。

無論、無償で採り放題をやっていた訳ではなかった様で、天保15年(1844年)の高座郡辻堂村(現:藤沢市辻堂)の名主茂兵衛の「入湯小遣帳」には、同年の木賀温泉の滞在時の出費の記録の中に

四月朔日

一、弐拾八文          小入用

一、七文            わらび/ふき

二日

一、七文            ふき 八わ

一、十八文           うど

一、四文            わらび 壱わ

三日

一、十弐文           じねんじゃう 壱本

七日

一、六文            ふき 三わ

(「藤沢市史 第2巻 資料編―近世編」995〜996ページより、一部改行を/にて置き換え、…は中略)

とあり、採った分に対して個別に対価を払っていた様です。「じねんじゃう(自然薯)」は「薯蕷」のことと見て良いでしょうが、そうすると箱根の「やまのいも」は栽培したものではなく自生しているものを掘り出したのでしょう。

また、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」では、天保5年(1834年)の3月20日〜4月7日に箱根に滞在した記録が見られるのですが、その中で同行の2名がわらび採りに出掛けたことを書いています。

(注:三月)二十二日 晴、温。午陰。玄章と家児とは、出てて塔沢の渓流を()えて前山(明神岳)に登り(わらび)を採る。蕨は未だ多からず。帰って云う、絶頂にて望むところは極めて(ひろ)しと。また云う、小田原城は目中に在り、封内の人は往来することを得るも、外の人は上るを許さずと。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 79ページより、…は中略、傍注はブログ主)


この年はわらびの出が良くなかったのでしょうか。滞在先の宮の下から明神岳はかなり離れていますが、少々遠出をしないと目ぼしいわらびが見つからなかったのかも知れません。だからなのでしょうか、本来は要害の地として地元の人以外の立ち入りが禁じられている筈の場所にまで立ち入らせてわらびを採りに行った、と記している訳です。無論、素性の確かではない一見さんにまでこの様な「リスク」のある案内は恐らくしなかったでしょうが、この時点で既に幾度と無く箱根を訪れている慊堂の付き添いであれば身元に間違いはあるまいと判断して、宿の主人が特別に案内させたのかも知れません。こうした要害地への湯治客の誘導がどの位の頻度で行われたのかはわかりませんが、少なくともその様な指定を受けた場所であっても、箱根で生活する人々にはこうした産物を見出だせる土地として引き続き認識され続けていたことは確かな様です。

こうして見ると、特に箱根の湯治場にとっては、これらの山菜類は湯治に滞在する客向けの「春の風物」として演出できる格好の産物であったことが窺い知れます。その点では「風土記稿」に記されたこれらの産物のうち、特に宮城野村や仙石原村について記された分については、こうした実情を考慮して記録されたと見ることが出来そうです。
本草図譜巻49「蕨」
「本草図譜」より「蕨」
図上の訓は「けつ」だが
前ページに「わらび」の訓が併記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
本草図譜巻49「薇」
「本草図譜」より「薇」
こちらも図上の訓は「ひ」だが
前ページに「ぜんまい」の訓が併記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

本草図譜巻50「薯蕷」
「本草図譜」より「薯蕷」
「一種 じねんじゃう」と付記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
しかし、基本的には相模国内でも山間であればかなり広範囲で採集出来るものばかりであり、「風土記稿」の記述も津久井県や三竹山・久野村の記述が含まれるなど、相模国内の産地の選定の基準にやや不安定なものを感じます。また、表記にも一部不一致がある上に、「青芋」の時には「里芋」の呼称を俗称として本草学での呼称に拘っているのに、同じく本草学が否定する「狗脊」や「独活」の表記についてはそのまま使用するという点でも不統一が見られる状況に陥っています。

以下は個人的な見解なのですが、恐らくは「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所の面々が、これらの産物に対してはあまり明るくなかったことが、こうした混乱の要因なのではないかという気がします。「里芋」であれば、江戸市中でも普通に見かけることが出来る産物だったでしょうから、昌平坂学問所でも「実物」のイメージを持ちながら本草学の指摘を読み解くことが出来たでしょう。これに対し、わらびやぜんまい、うどについては江戸で目にできるとすれば既に漬物や干物になった状態であったでしょう。早蕨が山中でどの様に生えているかを知るには、その時期に山に入らなければ適わないことで、江戸詰めの武家が主体の学問所の面々には意外にそうした経験が少なかったのではないか、と思われます。その結果、地誌探索で村々から上がってくる産物の中に「狗脊」や「独活」の様な表記があっても、それを本草学での表記に合わせて統一的に書き換えることが充分に出来ず、多少混乱した表記のまま残ってしまったのではないでしょうか。

他方、津久井県の項を編纂したのは八王子千人同心ですが、彼らの本拠は八王子にという比較的山間に近い街場にあった上、個々の成員は基本的には周辺の各農村に居住していました。つまりその分だけ、昌平坂学問所よりは山間の産物について元から知識があったと考えられ、わらびについての記述も各村の報告を元に無理なく行えたのでしょう。この津久井県の分は他の郡の編纂に先立って行われて昌平坂学問所に納入されていましたので、あるいは学問所の面々も津久井県の記述に影響される形でわらびなどの山間の産物を積極的に記録する結果になったのではないかとも思います。

但し、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)の記すところでは、
  • ワラビ Pteridium aquilinum (L.) Kuhn var. latiusculum (Desv.) Underw. ex A.Heller

    県内では沖積地から山地まで分布し、日の当たる場所に生育する。(42ページ)

  • ゼンマイ Osmunda japonica Thunb.

    県内では全域に普通にみられる。(30ページ)

  • ウド Aralia cordata Thunb.; A. nutans Franch. & Sav., Enum. Pl. Jap. 2(2): 376-377 (1878) の基準産地は箱根

    県内では低地から山地までの林縁、樹林内の傾斜地、崩壊地などに普通。(1054ページ)

  • ヤマノイモ Dioscorea japonica Thunb.

    県内ではほぼ全域に分布する。シイ・カシ帯〜ブナ帯までの沖積地〜山地の林縁、路傍、畑縁、あきち、公園の植林帯などに普通に生える。(230ページ)

前回取り上げた「本草綱目啓蒙」や「農業全書」の記すところに反して、意外に江戸に近い丘陵地でも見掛けるものなので、その点ではこうした見解は当たらないかも知れません。また、江戸時代後期には立川や吉祥寺の辺りでうど栽培が行われていたので、昌平坂学問所の面々がこうした野菜に疎かったというのも些か腑に落ちない面もあります。この辺りはもう少し視野を広げて、特に江戸近郊の当時の事例を集めて更に検討する必要がありそうです。


因みに、箱根が江戸時代の紀行などに見える様な「山菜採り」を売りにするということは、現在では殆ど見られなくなっています。「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている明治初期〜中期の箱根の案内本を数点当たってみたものの、「七湯の枝折」を書き写したもの以外はこれらの山菜について記したものを見つけることが出来ませんでした。何時頃から消えたのかはわかりませんが、基本的には箱根に長期にわたって滞在する湯治客向けの「春先のレクリエーション」であったと言えそうですから、滞在期間の短縮や宿泊客の変遷がこうした風物の興亡に影響したのかも知れません。

次回はわらびや薯蕷の関連する民話を取り上げてみる予定です。

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