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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その5)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は国分以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



武四郎は旅の初日に長距離を進み、「その1」で見た「厚木の渡し」を渡って厚木(現:厚木市厚木町、他)の街に入ります。この街について「日記」には

三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、ルビも同書に倣う、以下の「日記」引用も同書より)

と記されています。

渡辺崋山の「游相日記」では、崋山はこの街に数日間留まって、街の有力者などと連日会ったり写生に出かけたりした様子を詳しく書いています。それに対して武四郎の場合は西への旅路を急ぐ中での1泊ですから、この街の様子を自分の目で見て廻ったと言うよりは、多くは宿泊先で聞いた情報を書き記している様で、伝聞を示す語尾が目立ちます。「三千軒の市町」というのも、「新編相模国風土記稿」では実際の家を「三百三十戸他長吏八戸」(卷之五十五 愛甲郡卷之二)と「日記」の10分の1程度の数を示していますから、地元の人が誇張して武四郎に伝えたのでしょう。

実際、武四郎は翌朝も宿を急ぎ発って更に矢倉沢往還を進みます。厚木からは一旦岡田(現:厚木市岡田)まで南下した後、西へ折れて愛甲(現:厚木市愛甲東)へと向かいます。愛甲村では農家ばかりで荷継は名主家で行ったことを記したのに続き、「日記」には次の様な記述が見られます。

按ずるに厚木より糟谷に行には此處までは下らず。直道を船子村え切り候はゞ餘程近くぞ覺ゆ。

(「日記」649~650ページより)


土地勘がない武四郎にも、西に向かう前に南下して幾らか遠回りをしていることに、朝日や並行している相模川の位置などで気付けたでしょうから、もっと近道があるのではないかと彼の荷物を担いでいる人足に話しかけたのかも知れません。一方、船子村(現:厚木市船子)の名前は流石に武四郎が知っていたとは考え難く、恐らくは人足から伝え聞いたのでしょう。街道の周囲が水田であったと「日記」にも記されていることから、遠方まで視界を遮るものが殆どなく、あるいは街道から船子村の集落が水田越しに見えていたかも知れません。

厚木付近の国道246号線の変遷
厚木付近の矢倉沢往還→国道246号線の変遷
青線:かつての矢倉沢往還の道筋 黄色線:旧246号線の道筋
橙色線:現在の国道246号線(大和厚木バイパス)の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地(リンク先PDF)」を合成しているが、水田を示す黄色が大きく拡がっている)
「今昔マップ on the web」で同地の地形図や空中写真の変遷を見る

実際、明治初期に編纂された「迅速測図」で見ても、厚木村の西側は広大な水田地帯になっており、ここを抜ける道は畦道としてはあったと思われるものの、旅人や荷継などが通過するには足下が十分ではないぬかるみやすい道筋であったのでしょう。「その1」で取り上げた十文字の渡しから関本へ至る道筋の様に継立の抜け道として使うには、整備が行き届いていなかったであろうと考えられます。

かつての矢倉沢往還は昭和31年(1956年)国道246号として指定されますが、厚木付近はその後の整備によって道筋が大きく変わり、船子の地を通過する様に付け替えられました。「日記」からは実に80年以上の歳月が過ぎていました。武四郎が連れの人足と語り合ったのであろう「船子経由の近道」は、図らずも遠い将来の国道の通過地を「予言」する形になりました。

これが実現するためには、一帯の水田を埋め立てて市街地へと大規模に作り替える再開発計画を、待つ必要があったということになるのでしょう。過去の地形図や空中写真で変遷を追うと、国道246号線が最初に船子を経由する様になった1960年代には、一帯にまだ広大な水田が残っていたものの、大和厚木バイパスが開通した1970年代には、周辺が急速に市街地に切り替えられているのがわかります。現在では、旧246号線が恩曽川と並行して進む厚木市温水(ぬるみず)の「赤羽根」付近では水田が僅かに残っているものの、現在のバイパス周辺にかつての水田地帯の面影を探すことは、殆ど不可能になっています。



File:Tokaido07 Hiratsuka.jpg - Wikimedia Commons
宝永堂版「平塚:縄手道」
高麗山の丸い特徴のある形が強調されている
当時の浮世絵で平塚宿を描く場合
かなりの確率で高麗山が取り上げられている
(By 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido,
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons
Mt.Komayama(高麗山).JPG
現在の高麗山(2006年撮影)
独特の山体は現在も当時のまま
(By FlyMeToFullmoon(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく)
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons

その愛甲からは、

爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

(「日記」649ページより)

と、東海道の平塚宿の西に位置する高麗山(こまやま)が比較的近くに見えると書いています。この山については、善波峠の記述でも

此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、

(「日記」650ページより)

と、馬入川(相模川)から高麗山を経て大磯や国府津までの遠景を一時足を止めて眺めていた様です。


矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
愛甲から高麗山までは直線距離で約10km、善波峠からは9kmほどと、どちらもそこまで「近い」と言える距離だったかは微妙なところです。それでも、武四郎の目には「高麗山」の姿は容易に目に付いたのでしょう。彼自身は郷里である伊勢・松阪から東への往来などで、大磯宿から平塚宿付近を通過する際にこの山の姿は何度となく目にしているであろうものの、それらは何れも南側から、そしてかなり近くからの姿であった筈です。それに対して、「日記」の際の「高麗山」の姿は北側から、それもかなり離れた場所から眺めたものとなり、勿論武四郎には初めて見るものだったでしょう。それでも武四郎に「あれが『高麗寺山』か」と認識させる程度に、高麗山の位置と形は独特のものであったということが言えます。

彼にとっては、不慣れな道を急ぐ道中にあって、通い慣れていたであろう東海道との位置関係を認識し得るひと時ではあったでしょう。同行する人足からのアドバイスも受けた可能性もありますが、「高麗山」の独特の姿や位置は、その位置関係を彼に容易に知らしめる役目を果たしたと言って良さそうです。



下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
参考のために「田村通り大山通り」を追加
(「地理院地図」状で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

下糟屋・高部屋神社とかつての矢倉沢往還
当時の集落はこの辺りに集中していた
ストリートビュー

愛甲を出た武四郎が、「その2」で取り上げた善波(現:伊勢原市善波)で荷を継ぐまでの間に、「糟谷」(下糟屋、現:伊勢原市下糟屋)と「神渡」(神戸(ごうど)、現:伊勢原市神戸)の2箇所で継立を行っていることを記録しています。どちらも大山詣での頃には賑わうことを記しています。

しかし、この区間の継立村は、他の史料で確認する限りでは若干異なっています。まず、「新編相模国風土記稿」で各村の記述を拾うと次の様になっています。

  • 下糟屋村(卷之四十四 大住郡之三):

    脇往來四條係れり、大山道幅二間下同矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、

  • 伊勢原村(卷之四十六 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 神戸村(卷之五十 大住郡卷之九):

    往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、

(以上何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


見ての通り、ここに挙げた3村は何れも矢倉沢往還の他にも主要な道が通り、交通の要衝となっていたことがわかります。とりわけ伊勢原(現:伊勢原市伊勢原)は大山詣でに向かう中継地として特に賑わった地であり、継立でも要衝となっていたことが示されています。しかし、「日記」では伊勢原の名前は出て来るものの、この街については特に何も記されておらず、継立についても記載はありません。また、「日記」で継立を行ったとしている神戸については、通常は継立場ではなく、公儀の継立の際にのみ人馬を出していたとしており、その点では公儀とは言えない武四郎一行が神戸で継立を行っている点と整合しないことになります。

また「風土記稿」の記述自体も、下糟屋村の記述では同村からは伊勢原まで18町、つまり半里(約2km)を継ぐとしているのに対し、伊勢原村の記述の方は同村から江戸方の継立先は愛甲としており、下糟屋村の記述と噛み合いません。こうした不整合は特に大住郡の街道の記述に多く、恐らくは村からの報告をほぼそのまま記したのでしょうが、これをどの様に解釈すべきかも課題となってきます。

一方、「その3」でも紹介した、天保9年(1838年)の「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307~310ページ)で、この区間の記述は次の様になっています。

嶋織部知行所外弐給/同州愛甲郡愛甲村

一高九百五拾九石余

月番/名主/定七

内高弐百弐拾壱石/戸塚宿へ助郷相勤申候、

此間粕屋村有り

伊勢原迄壱里

飯河三郎知行所/同州大住郡伊勢村(原脱)

一高四拾七石

月番持/組頭/善兵衛

善波村迄壱里

伊勢原ゟ善波村之間/板戸・白根・神戸

田原清之丞知行所/同州同郡善波村

一高三百拾三石

名主/清吉

内半高/東海道平塚宿へ加助郷相勤申候、

近来相州はたな領御鷹匠内山七兵衛組御野先相成候付、 御鷹御用相勤候故、前後継場村〻ニ而ニ而往還役相勤申候、

曽屋村迄壱里

此所善波峠と申難所なり、

(上記書308ページより、一部改行を「/」に置き換えの上、文意に合わせて適宜単語を入れ替え、強調はブログ主)


こちらでは、下糟屋村(粕屋村)は継立村に入っておらず、愛甲の次は伊勢原で馬を継ぐことになっています。その点では「風土記稿」の伊勢原村の記述と整合していることになります。また、神戸村はこの文書でも継立村に入っておらず、公儀の際の継立についても触れられていません。

何れにせよ、「日記」の継立はこうした記録に見られる継立村の配置と上手く合いません。何故この様な事態になったのでしょうか。

考え得る可能性の1つは、「その2」で二子・溝の口や荏田を「継ぎ通し」した問題を取り上げた時と同様、武四郎の記憶違い、もしくは書き間違いでしょう。「下糟屋」を「糟谷」と書いていたり、「神戸」を「神渡」と書いていたりと、ここでも地名表記の漢字が現地で一般的に使われていたものとは異なっています。記述の精度に留保がつく以上、何かしらのミスが紛れ込んだ可能性を考えない訳には行きません。しかし、「日記」の記述の何処がどの様に間違っているのかを具体的に示すことが出来ない以上、可能性があるという以上の指摘をすることは出来ません。特に、神戸村の記述がこの様な形で「日記」に登場する部分については、ここで何かしらの所要を済ませたのでないとすると武四郎の記憶に留められているのが不自然になりますから、かなり確度が高いのでしょう。

他方、「日記」の記述通りに継立が行われたとすると、何故伊勢原を飛ばして「継ぎ通し」されたのか、普段は継立を行わない筈の神戸村がどうしてこの時は荷を継いだのか、その理由を探る必要があります。世田谷から長津田までの長距離を継いだ際には、何かしらの不正が行われた可能性を考えましたが、下糟屋から神戸の区間ではこうした不正は行い難かったのではないかと思われます。上記で見た通り、下糟屋から伊勢原まではわずか半里と至近にある上に、以下で見る通りこの2つの村は組合などの活動を通じて交流が深いことから、双方の村民が顔を見知っている可能性が世田谷の例より遥かに高いからです。

しかし、「伊勢原市史」に掲載されている当時の文書を探した限りでは、幕末のこの区間の継立の事情を直接説明出来るものを見つけることは出来ませんでした。特に神戸村に関しては近世の現存文書がないと「伊勢原市史 資料編 近世2」に指摘されており、この村の立場からこの問題を考えるのはほぼ不可能な状況にあります。ただ、「伊勢原市史 通史編 近世」に記されていた明治維新直後のある「事件」が、あるいはこの問題を考える上でのヒントになるのではないかと思えました。そこで今回は、これを手掛かりに個人的な見解を述べてみたいと思います。

同書の「第4章 伊勢原の町」中の「第9節 伊勢原村寄場組合」では、幕末に関東一円の村々で組織された「寄場(よせば)組合」について、伊勢原とその周辺の村々の諸事情について紹介し、解説しています。文化2年(1805年)に幕府が治安維持の目的で新設した「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)(関八州取締役等とも呼ばれる)」に対し、その活動を補佐する目的で、文政10年(1827年)に村々を編成してその中心となる村を定めることになりました。矢倉沢往還周辺の25ヶ村(東組15ヶ村、西組11ヶ村)については、当初は東海道の大磯などの宿場を寄場として編成する案が提案されましたが、矢倉沢往還周辺からでは遠過ぎるために村々の反対に遭い、この村々の中から寄場を出すことになりました。そして、伊勢原村は、一帯の25ヶ村の中では村高が47石余りと最も小さかったものの、大山詣での拠点として宿駅としての施設が充実していたことから、関東取締出役の役人が宿泊するなどの形で利用することが多かったこと、そして25ヶ村のほぼ中程に位置している上に大山街道が集中する立地であるために、他の村から通いやすいこともあり、他の村々から請われる形で寄場となったことが、史料を数点引用しながら詳説されています(343〜348ページ)。


しかし、この伊勢原村が明治に入った頃から一時的に寄場を下糟屋村に譲っていたことが、「下糟屋村組合への変更」という項で紹介されています(348〜351ページ)。これによれば、明治元年(1868年)11月頃には寄場は伊勢原村から下糟屋村に移され、翌々年の明治3年5月26日付で再び寄場を伊勢原村に戻しています。何故寄場が移されたのか、残されている史料からは詳らかにはならない様ですが、何か金銭面での混乱が発生したものと同書では考えられています。

「日記」の道中は明治2年のことですから、ちょうど寄場が下糟屋村へと移されていた時期に当たります。寄場組合は治安維持のための自治組織ですから、専ら陸運の担い手である継立に直接関係するものではありません。しかし、下糟屋に寄場の肩代わりを依頼しなければならない程の大きな混乱が伊勢原村に発生していたとすれば、その混乱が継立の運営にも及んでいたとしても不思議ではありません。

そして、明治3年に伊勢原村への寄場組合の復帰に際して神奈川県に提出された請け証文には、伊勢原村の他に下糟屋村(この請け証文では「下粕屋村」と書いている)、上粕屋村と並んで、神戸村の名主(上粕屋村のみ代理)が名を連ねています(350〜351ページ)。この証文によって、神戸村が下糟屋村と共にこの問題に関与していたことを窺い知ることが出来ます。とすれば、寄場組合の問題が継立にも影響を及ぼしていたのであれば、神戸村がその肩代わりをしていても不思議はありません。そして、この様な状況で神戸村が継立を肩代わりしていたならば、「その2」で見た様に善波村の継立場の場所がわからなかったのも合点が行きます。神戸村の人足にとっても善波まで荷を運ぶのが初めてであった可能性が高いからです。

繰り返しになりますが、以上は飽くまでも推測であり、今後更に史料を探し出して検証すべきです。ただ何れにせよ、武四郎にとっては自分の荷を運んでもらっている継立の村々の諸事情は、預かり知らぬことであったと言え、そのために委細が記されていないのでしょう。その分、「日記」の継立に関する記録を読み解く際には、関連する史料に当たって検証する必要が多々あると言えます。



次回もう1回、「日記」に記された矢倉沢往還の継立や沿道の様子を見ていきます。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ通し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ通しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ通されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ通し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ通し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回まで、3回に分けて「新編相模国風土記稿」の大住郡の産物で取り上げられた穀物や野菜について見て来ました。


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
今回取り上げている町村の位置(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの作物が何故「新編相模」で大住郡の、引いては相模国の産物として取り上げられたのかを考える上で、もう1点見ておくべき史料があります。「新編相模」の編纂に当たっては、まず各村々から「地誌取調書上」という村明細帳を提出させています。今回の一連の穀類・野菜に関連して名前の挙がった村や町のうち、「地誌取調書上」が伝わっているのは平塚宿のみですが、その文政8年(1825年)5月の書上には、

一土地相応いたし候産物無御座候

(「平塚市史2 資料編 近世(1)」74ページより)

と記されています。「新編相模」の大住郡の図説や山川編では甘藷・越瓜・西瓜を平塚宿の産物として記していますが、その平塚宿からは当初、同地の産物として挙げられるものはない、と昌平坂学問所に報告している訳です。従って、図説や山川編の平塚宿の産物の記述は、「地誌取調書上」よりも後の何らかの機会に、別途情報を得て付け加えられたものであったことになります。

無論、「新編相模」には「地誌取調書上」に記されたものがそのまま採用された訳ではなく、この書上を元に各村や町を地誌探索に巡回した結果も踏まえて編集が成されています。また「新編相模」の大住郡の項が記されたのは天保11年(1840年)と、「地誌取調書上」が提出されてから15年もの時間が経っていました。ですから確かに、その間に更に追記すべき情報を昌平坂学問所が現地から得ていた可能性は充分に考えられます。

とは言え、以前も取り上げましたが高座郡福田村の地誌取調書上である「地誌調御用内改帳」(文政7年・1824年)には

一土地相応之作物 里芋・麦作之類

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 784ページより)

と記されていたのに、「新編相模」では里芋や麦が福田村や高座郡の産物として取り上げられることはありませんでした。また、地誌取調書上以外にも、例えば前回取り上げた「楳澤志」で梅沢の名物とされていた越瓜(更には梅や鮟鱇)も「新編相模」では取り上げられていませんし、足柄上郡宮城野村の産物として地元が推していた蕎麦も、村の産物の中には名前が載ったものの足柄上郡の産物としては数え上げられずに終わりました。つまり、他の郡では地元が産物として考えていたものが「新編相模」上では必ずしも記されていない例が多いのに、大住郡の野菜や穀類については逆に地元から当初報告がなかったものを後から追記するという、逆の動きになっています。それでいて、その大住郡の産物として挙げられた個々の野菜や穀類には、それに足るだけの由緒などが存在したことを裏付けることが出来ず、一体どうしてこの様な郡による扱いの違いが生じたのか、なかなか説明し難い状況にある訳です。



こうした状況が生じた事情を考える上では、「新編相模」が成立するまでの経緯を考えてみる必要があると思います。そのためにはその編集過程で書かれたり集められたりしたものについて、更に関連する史料を集めて読み解くべきなのですが、現時点ではまだその様な史料を見ておりません。ですから、以下は飽くまでも現時点の私なりの個人的な推論に過ぎません。今後の調査に向けての差し当たってのまとめということでご勘弁下さい。

まず、「新編相模国風土記稿」の性質について2つほど確認しておくべきことがあると思います。1つは、「新編相模」の中では産物に関する記述は、残念ながら主要な項目と呼ぶには余りにも文量が乏しく、むしろ傍系に属する記述であったと言わざるを得ないことです。「新編相模」の中で最も紙面を割いて書かれているのは、各村や町の「由緒」に直結するものであり、各村の寺社もその延長線上で語られています。この目的のために、村々に伝わる文書や、寺社の数多くの由緒や宝物について記すことに多大な労力を振り向けており、それらの量が多い村や町ほど文量が増えるという結果になっている訳です。

その結果として、産物の様に傍系に属する事項の記述は相対的に薄くなってしまう傾向が避けられず、恐らく調査や記述のために必要な労力も村や寺社の由緒に関するもの程にはかけることが出来なかったことが考えられます。産物の由緒にまつわる文書があれば、例えば波多野大根の際の香雲寺の文書を転記するといった形で文量を増やすといった例も見られ、特記事項があれば必ずしも簡略に留めるというものでもなかったものの、実際は大半の産物の記述が一文で簡潔に示されるに留まっており、その生産の実態などについては他の史料を探ってみなければ明らかになることが乏しいのは、これまで延々と紹介してきた産物の例を見れば明らかと思います。

100 views edo 046.jpg
歌川広重「名所江戸百景」より「昌平橋聖堂神田川」
昌平坂学問所は湯島聖堂に設置され
孔子の生地に因んでその名が付けられている
("100 views edo 046" by 歌川広重
- Online Collection of Brooklyn Museum.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
もう1点は、「新編相模国風土記稿」の場合、その編纂に当たった昌平坂学問所は江戸にあり、津久井県を担当した八王子千人同心も八王子に本拠があった、という点です。つまり、基本的には相模国の「外部」の人たちが相模国の地誌編纂に携わったことになります。これは、「新編相模国風土記稿」や「新編武蔵風土記稿」の編纂の切っ掛けになった「新編会津風土記」の事情と比較した場合、「新編会津」は会津藩主が命じて編纂させたもので、当地を治めている藩が統治に必要な情報を書き付けた様々な文書を直接参照できる環境にあったのに対し、「新編武蔵」や「新編相模」の場合はそうした統治に携わっていた領主とは直接関係のない外部の人間が行っている関係で、その様な統治文書の類を直ちに閲覧できる環境にはなかったという違いがあります。実際、武蔵国にしても相模国にしても、それぞれの国内はこれらの地誌が編纂された江戸時代後期には、幕領の大半は旗本に細分化されており、一部の藩領を除くと国内を統括的に治めている領主がいない中で、それぞれの領地に赴いて不案内な地の地誌を探索していたことになります。

無論、八王子からは津久井県は隣接する地域に当たり、八王子千人同心にとっても比較的近接した地区の探索ではあった訳ですし、また鎌倉郡玉縄領の梅干について触れた際に、同地の渡内村の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りしていることを紹介しました。これらの例の様に相模国に多少なりとも縁があったり土地勘があった人が関わった例がなかった訳ではありません。しかし、全体としてみればこうした事例はむしろ例外的であったと見て良いでしょう。

さて、「新編相模」の成立については、以前より何度か紹介している首巻・凡例に記されている次の年代が1つ手掛かりになると思います。
新編相模国風土記稿相模国図
「新編相模国風土記稿」山川編に収録された「相模國圖」(再掲)

一高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、

(首巻・凡例より、雄山閣版より引用)

これに従えば、大住郡は「新編相模」の中では淘綾郡ともども一番最後に手掛けられたことになり、その前には愛甲郡と足柄上郡・足柄下郡が手掛けられています。また、高座郡や三浦郡については大住郡の編纂と同じ頃に改訂が施されています。

このうち、足柄上郡と足柄下郡はその大半を小田原藩領が占めていたのに対して、他郡では旗本や相模国外の藩に細かく分掌された村が大半を占める地域が多く、比較的まとまった地域を一手に掌握する行政機関が足柄上郡と足柄下郡以外には存在していなかったという点が特徴と言えます。江戸時代初期には中原代官の様な地方を包括的に統治する組織もあったのですが、時代が下ると中原代官が解体されてしまい、所轄としていた幕領が旗本などに振り分けられてしまい、「新編相模」の頃には地域を俯瞰的に治める統治者がこれらの地域からいなくなっていた、という事情があります。大住郡の統治の移り変わりについては、平塚市博物館の「ひらつか歴史紀行」に図が掲載されています。


個人的には、こうした統治の実情の違いが「新編相模」の編纂に影響を与えた可能性があるのではないか、と考えています。小田原藩は以前漆について紹介した際に見た通り、「国産方」という地域の特産となるべき産品の開発に多大な労力を注いでいました。当然ながら、その過程で藩領内でどの様な産物が存在しているのかについては少なからず情報を集めていた筈で、藩を治める観点から有望なものを見極める作業も行っていたでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第2巻今井村御陣場跡図
雄山閣版「新編相模国風土記稿」今井村の御陣場図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
こうした小田原藩が統治のために持っていた情報を、昌平坂学問所がどの程度参照したのかを裏付ける史料はまだ見ていません。ただ、足柄下郡の部が成立したのと同じ天保7年(1836年)9月に、当時の小田原藩主であった大久保忠真の手によって、天正18年(1590年)の小田原戦役の際の徳川家康の陣場に石碑が建立されています(小田原市による紹介)。「新編相模」の今井村の項(卷之三十三 足柄下郡卷之十二)でこの陣場跡について絵図2枚と共にかなりの紙数を割いて紹介していること、そして建立の年と足柄下郡の部の編纂の年が符合するという事実からは、小田原の地誌編纂事業を目の当たりにして忠真も刺激を受け、家康の足跡を記念し世に広めるものを残すべきと考えた可能性を考えたくなります。そうであれば、忠真も昌平坂学問所の求めに応じて少なからず協力する様に指示を出していた可能性は高くなるでしょう。

そのためか、足柄上郡や足柄下郡の産物の記述には、それまでに完成されていた諸郡に比べるとかなり豊富な品名が並びました。これらの中には、蛤石など津久井県で見出されたものが手掛かりとなっていたと思われる品目もあるものの、寧ろ先行して提出された津久井県の産物を手掛かりに他の産物を探る上では、その地域に精通した人の手引が有効であった可能性もあります。山岳地帯では水田や畑を開き難い分、山で採れるもので生計を立てる村が多く、産物の多様さはそうした地形に根差した土地利用を反映した側面も少なくないとは思われるものの、各村からの報告をまとめる上では、より上位の統治機構である藩からの情報が大いに手助けになったのではないでしょうか。

こうした足柄上郡や足柄下郡の編纂を終えた後では、引き続き行われた愛甲郡や大住郡、淘綾郡の産物の一覧が当初あまりにも「貧弱」なものに見えたのかも知れません。このうち淘綾郡の場合は村数が極端に少ない上、土地が痩せているという認識が強調されていたので、産物の点数が少なくなるのも止むを得ないと考えたのかも知れません。しかし大住郡の場合は村数も多く、比較的広い郡域を抱えている上に、

土地平坦にして、西北の隅にいたりて山嶺あり、所謂大山・堀山等なり、されば村落をなすに便ありて、空閑の地少し、土性は野土黑眞土砂交れり、水田少く、陸田多し、水田、二千九百五十七町二段一畝十歩五厘、陸田、四千九百五十二町五段八畝二十八歩六厘、

(卷之四十二 大住郡卷之一 雄山閣版より)

と、一帯の開墾が比較的早い時代に行われていたことを記しており、こうした土地の割に産物の記述が乏しいのは問題だと考えたのではないか、という気がします。そこで、改めて大住郡の幾つかの村に問い掛けをする機会を得て、その結果回答を得た品目を大住郡の一覧に書き加えたのではないでしょうか。

そういう目で見てみると、足柄上郡と同時期に編纂されていた愛甲郡についても、「新編相模」以外の記録がなかなか見出せない椎茸が記されており、その点に同様の傾向を読み取ることが出来そうです。但し、その愛甲郡田代村から提出された「地誌取調書上」(文政9年・1826年3月「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」)には「蚕・麦・小麦・粟・稗芋」が記されていたのに、「新編相模」にはこれらは同村の産物として取り入れられておらず、この点では大住郡とは産物の扱いが異なっています。因みに愛甲郡には一部小田原藩やその支藩である荻野山中藩の藩領もありましたが、田代村は旗本領の1つでした。

また、既に完成していた高座郡や三浦郡、更に鎌倉郡についても同様の疑問が持たれたことから、多少手を入れようと考えたのかも知れません。しかし、こちらについては追加の調査はあまり成されなかったのか、また地誌取調書上を見返して一旦却下された産物を「復活」させることは考えなかったのか、結局福田村の様な例でも産物の記述が戻ることはありませんでした。一方、鎌倉郡の部については特に記述が分厚くなっていることもあってか、これ以上追記がなされることはなかった様ですが、それでも山川編の段階で更に何か付け加えようという動きがあり、その結果として「鎌倉椿」や「」が追加されたのかも知れません。

その結果、全体として見ると、相模国の産物の取捨選択の基準が郡によってまちまちになってしまったのではないかと思います。無論、それぞれの村々の中ではこれらの品目が比較的積極的に生産されていた可能性は高いと見て良いのでしょう。しかし、その一覧を統一的な基準で整理されたものとするには、昌平坂学問所の立ち位置や、「新編相模」の編纂にかけられる労力のバランスの範囲内では、なお十分に吟味し直す余裕を持てなかったのではないかと思えるのです。

もっとも、他方では編纂に掛けた時間の長さから、担当者の世代交代が影響した可能性も考えてみる必要もありそうです。「新編相模」の首巻の凡例の終わりには、総勢で27人の名前が記されていますが、その一覧の前に

一本州編纂開局より竣功まて、前後事に預りしもの、年次に随ひ、其姓名を左に擧ぐ、

(雄山閣版より)

と記されていることから見ても、年次によって携わった人々が入れ替わっていったと見るのが自然でしょう。であれば、担当者によって産物の取捨選択の基準が変わってしまった可能性を考えることも出来ると思います。

また、「新編相模」に先行する「新編武蔵」でも、武蔵国内には川越藩・忍藩・岩槻藩といった藩が存在しており、特に川越藩は比較的多数の村々を所領としていましたから、これらの藩が「新編武蔵」の編纂に影響を及ぼすことがなかったのか、今後「新編会津」共々読み進める機会を持った暁には、そうした観点から「新編相模」と記述面の比較を行う必要があると考えています。この辺りは相模国の域外のことになりますので、着手するのはかなり先のことになりそうですが…。


次回、明治時代以降のこの地域の甘藷や西瓜、大麦の生産について記してまとめとする予定です。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧で取り上げられた大住郡の穀類や野菜について、個別に見て行きます。

4.葱


今でも葱は長ネギの他、ワケギの様な種(現在では長ネギとは別種と考えられていますが)や「九条ネギ」の様に地名を冠した種が知られています。「農業全書」の「葱」の項でもこれらの種がまとめて取り上げられています。
本草図譜巻四十五「葱」
「本草図譜」より「葱」
続く数ページで複数の品種が紹介されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

()ひともし

和名きと云う。きハ一字なる故、後世に、ひともじと云。わけぎ、かりぎ、ねぎなど云も、本名きと云故なり

(ひともじ)ハ、冬を大葱(たいそう)ねぶか>と云。春夏を小(そう)と云。春夏(ひともじ)ハ糞培手入次第に、いか程(かぶ)の内を分取(わけとり)ても、又もとのごとく数多くさかゆるゆへに、わけぎと名付るなるべし。大葱(おほねぎ)ハたねを取べき分ハ根のふかきを好まず。大かたに(つちか)ひ、よき程に肥しをき、三月よく実り、たねの黒き時取てよく干し、もみて取べし。二三日も筵などおほひ、少むしをきて取出し、日に干してうちとるもよし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 276〜277ページより、以下「農業全書」の引用は何れも同書より、ルビ・注は一部を除き省略、…は中略)


そして、栽培に適した土地については次の様に記しています。

◯苗地の事。(ひでり)にいたまざる、物かげのしめり気ありて、少ひきめなる細沙地(こすなぢ)を、よくこなし、(こゑ)をうち、乾しさらしをきて、四月(まく)べき前、猶も細かにこなし、(つちくれ)ちりあくたなど、少もなくして、(うね)のはゞ三尺バかり少深くがんぎを切、さて河の細沙と、灰とに、小便をうちさらし置たるにたねを合せ、をよそ一()の畠ならバ、たね三升ばかりの積りにて蒔べし。がんぎハ間をいかにもせばく切べし。

(277ページより)


「本草綱目啓蒙」の葱の項では

子ギ一名子ブカ筑前にてオホ子ギと呼ぶ古名き故に又ヒトモジと云圓葉内空く末尖り臭氣多し夏莖を抽て花を開く小にして色白く多く簇る後實を結ぶ色黒し葉四時枯れず常に食ふべし葉本根上色白し卽藥用の葱白なり武州の岩槻濃州の宮代の葱白長くして尺に近しこれをシロ子ギ濃州と呼ぶ又下野の梅澤上野の鹿沼にもあり皆名產なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナをひらがなに置き換え、以下の「本草綱目啓蒙」の引用も同様)

と主に長葱について記し、「ワケギ」などについては続く「集解」の中で解説されています。ここでは名産の地名が幾つか挙げられていますが、その中にはやはり相州に属する地名は見当たりません。


伊勢原市小稲葉付近の地形図・土地利用図
(「地理院地図」より)
「風土記稿」では小稲葉村(現:伊勢原市小稲葉)で産するとしていますが、ここで言う「葱」がいわゆる「長ネギ」で良いのか、ワケギなどであったかは定かではありません。ただ、少なくとも同地の名前を冠する固有のネギがあった訳ではない様です。その他、同地の江戸時代の葱の生産について、裏付けとなる史料は見つけられませんでした。

ここは前回まで取り上げた平塚宿周辺の砂丘地帯からは北に外れた場所に当たり、相模川やその支流である歌川・玉川等の作った氾濫原に由来する低地が広がり、その中に自然堤防が点在する様な土地です。その点では「農業全書」が指摘する湿った砂地が適するとする条件に合っていると言えます。

5.越瓜


本草図譜巻五十三「越瓜」
「本草図譜」より「越瓜」
「あさうり」と「しろうり」の2種類の訓が記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「越瓜・豇豆」
「梅園草木花譜」夏之部より「越瓜」(右・再掲)
「越瓜」と「豇豆」が並んで描かれたのは
共に蔓草だからか
こちらも花だけで実は描かれていない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

6.西瓜


本草図譜巻七十一「西瓜」
「本草図譜」より「西瓜」
訓は「さいうり」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻4「西瓜」
「梅園草木花譜」夏之部より「西瓜」(左)
これも花だけで実は描かれていない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


「農業全書」では「瓜の類」として「甜瓜(あまうり)まくわ>/菜瓜(さいくハ)越瓜(あさうり)胡瓜(きうり)冬瓜(とうぐハ)西瓜(すいくハ)南瓜(ぼうぶら)絲瓜(へちま)瓠瓜(ゆふがほ)」(246ページ)がまとめて扱われており、

瓜に大小あり。小さき物甘く、大きなるハ淡し。甜瓜(てんくハ)甘瓜(かんくハ)と云、唐瓜といふ。夏月貴賤の賞翫する珍味たり。暑気をさり、渇きをやめ酒毒を解す。

(246ページより)

と、何れも夏場の暑気払いになるとしています。そこで、ここでもこの2つについては一緒に扱うことにしました。

そして、これらの瓜を植えるのには、次の様に砂まじりで水捌けが良く、但し水利の良いあまり肥沃ではない土地が適していると記しています。

◯瓜を(うゆ)る地の事。黒土、赤土黄色の少ハ沙交りて、光色ありて、粘り気すくなきがよし。さのミ肥たる(このま)ず。土性よく強く湿気ハなくして、(ひでり)に水を引に便りよきをゑらぶべし。土地肥(やハ)らかにして、ふくやかなるハ、よくさかへふとるといへども、味よからず。瓜を作るべき地は、前年(まへどし)に小豆を作りたるよし。其次は(きび)跡もよし。冬より耕し、雪霜にさらし、幾度もうちこなし置べし。

(247〜248ページより)


一方、「本草綱目啓蒙」では個々の瓜毎に項目が設けられ、個別に解説されています。「越瓜」の方は訓に「アサウリ」のみが記されていますが、本文中で「シロウリ」を含む他の訓について検討されています。

越瓜

アサウリ[京]

〔一名〕…

胡瓜(キウリ)に次て出形胡瓜より長大にして[尺に至る]刺なし青白色糟に藏め食用とす又生食熟食又可なり和州には シロウリ アサウリ 二品あり竪に筋あるを アサウリと云ふ豫州にては通してシロウリと呼ぶ讃州には クロウリと呼ぶあり皮色深く[青し]肉は白しなますに上品とす故に又モミウリとも云是田雞瓜なり…

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、一部手書きの傍注を[]内に収めて挿入、…は中略、後略)


西瓜

スイクハ唐音の轉なり サイウリ大坂

〔一名〕…

數種あり皮深緑色にして瓤赤く子黒き者は尋常の西瓜なり其子未だ熟せざる寸は色白し熟する寸は黒し又黒白斑駁なるあり玳瑁子と云奥州津軽には皮白く瓤黄子赤き者ありシロ西瓜と呼ぶ本草原始の月明瓜なり城州木津には皮黃にして瓤赤き者あり木津西瓜と呼ぶ勢州には皮瓤共に黃色なるあり下品とす北伊勢赤堀村の產は皮厚瓤黃にして子赤し上品とす赤ホリと名く又九州の產は瓤子共に赤し又ナガスイクハは濶さ五寸許長さ一尺皮淺緑色にして越瓜(アサウリ)の如し瓤赤して味佳なり京師の菜店にて南京と呼ぶ是西江志の雪瓜なり時珍の説にも長至二三尺と云り雲州筑州にて南京と呼ぶ者は尋常の形にして皮薄く瓤に粉ありて味沙糖の如しと云…

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

そして、これらの記述でも産地の名が登場しますが、それらの中には相州に属するものは含まれていません。

越瓜については「本草綱目啓蒙」でも粕漬けにしたり、そのまま食したりすることが記されているものの、相模国でどの様に食されていたのかについてはこれといった記述を見掛けませんでした。強いて挙げれば、大住郡ではなく淘綾郡の梅沢の地誌である「楳澤志」で、越瓜を同地の名産として挙げている文中に、

越瓜(しろうり) ()れのみ当村の名産にして(よき)味。瓜形隣里比なし、肉厚して大さ(かめ)の如し。四方()め、梅澤(ひしお)瓜と称す。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

この最後に「梅沢醤瓜」という名称が挙げられていることから、酒粕か別の調味料で漬けたものが食されていたことが想像される程度です。因みに、この付近の地形も以前取り上げた通りで、大磯丘陵の南端に細長く発達した海岸段丘や砂丘が伸びており、特に海岸沿いの砂丘地帯は「農業全書」の記す瓜栽培に向いた土地の条件に合っていた様に見えます。

他方、西瓜については、夏場の紀行文・道中記にその名前が時折登場するのを見かけます。明和8年(1771年)の旅日記「いせ参宮道中小つかい帳」(安孫子周蔵)では、

【明和八年七月十四日】

一、五十文 さ川(注:酒匂川のこと)、河越ちん

一、三十文 もち、あめ、すい瓜

一、五十文 四ノ宮ノ渡しちん、わき渡し也

(「藤沢市史料集(三十一)・旅人がみた藤沢⑴—紀行文・旅日記抄—」藤沢市文書館編 11ページより引用、強調はブログ主)

と、酒匂川と相模川の渡しの間の何処かで西瓜を買った記録があります。

また、天保15年(1844年)の「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」と題された足柄上郡雨坪村(現:南足柄市雨坪)に伝わる道中記では、これも7月の暑い盛りの帰路に2度ほど西瓜を買っているのを確認出来ます。

南足柄市雨坪の位置(Googleマップより)

一弐百文 藤沢宿巴屋孫左衛門 止宿

一十六文わら代

一百三十弐文 平塚ニ而西瓜

山神様江参詣

一五十文 なし 三ツ

一弐拾文 国府津鼻 西瓜

(「藤沢市史料集(31)」 65ページより)

この道中記は以前梨を取り上げた際にも紹介しました。平塚と国府津で西瓜に支払った金額に大きな隔たりがある理由は引用文だけではわかりませんが、複数人で旅をしていたとすれば、平塚では全員が西瓜を食べ、国府津では他の面々は梨を食べたのに対してひとりは西瓜を食べたのでしょう。


座間市新田宿の位置(Googleマップより)
また、天保10年(1839年)7月の「寿命院高野山道中小遣記録」と題された、高座郡新田宿(現:座間市新田宿)の道中記(「座間市史 2 近世資料編」648〜665ページ所収)では、山伏であった「寿命院」が高野山に向かう途中でしばしば西瓜を買い求めたことが窺えます。相模国内では新田宿を出た後梅沢の先と箱根権現に詣でた後の2回だけですが、それ以降も東海道を西に向かう途中で幾度も西瓜への支出が記録されています。瓜類が夏場の暑気払いに向いていることは上記「農業全書」にも記されている通りですが、寿命院が山伏という、治病や健康に関する当時の知識に比較的精通していたであろう身分であったという点からは、彼が遠路を進む上でバテを防止するために西瓜を積極的に食べる様に心掛けていた様にも思えます。

これらの例から見ても、暑い盛りに遠路を進む上で西瓜は特に道中で喉を潤す目的で買い求められることが多かったのでしょう。以前紹介した平野栄の「鎌倉紀行」(明治9年)では鎌倉の農地で西瓜が小麦とともに栽培されていたことを紹介していますが、これも同地を訪れる参拝客向けに振る舞うことを目的としてのことだったのかも知れません。

「風土記稿」では白瓜・越瓜については小稲葉・平塚・上下大槻村を、西瓜については平塚・上下大槻村を産地として挙げていますが、ここまでの穀類・野菜同様に関連する史料を見出すことは出来ていません。ただ、西瓜に限っては、明治10年の「第1回内国勧業博覧会」の相模国からの西瓜の出品者に、藤沢駅、三浦郡八幡久里浜村(現:横須賀市久里浜)とともに大住郡須賀村の名前が見出せます(因みに越瓜の方は武蔵国域からは保土ヶ谷駅岩間村からの出品を確認できるものの、相模国域からの出品はなかった様です)。この須賀村も平塚宿の南東に隣接しており、やはり砂丘地帯の上にある村で、地味が西瓜の栽培に適していたと言えそうです。


さて、ここまで大住郡の項で産物として取り上げられた6種類の穀類・野菜について見て来ました。何れも土地の地味を考えれば栽培に適しており、その土地の主要な産物たり得る条件があったことは窺えるものの、大住郡や更には相模国を代表する程の由緒などがある訳ではありません。次回はこの問題について、私なりに掘り下げて考えてみたいと思います。

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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は大住郡の産物に取り上げられた野菜・穀類をまとめて取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯西瓜大住郡平塚宿、上下大槻村に產す、

    ◯越瓜和名、志呂宇里◯大住郡小稻葉・平塚・上下大槻四村より出づ、

    ◯甘藷俗にさつまいもと稱す、大住郡八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々より產するを佳品とす、

    ◯葱大住郡小稻葉村に產す、

    ◯戮豇和名、佐々計◯大住郡南原村より出づ、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯大麥上下大槻二村に播殖するを、最佳品とす、

    ◯戮豇佐々計◯南原村產、

    ◯葱小稻葉村產、

    ◯甘藷八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々の產を佳品とす、

    ◯越瓜志呂宇里◯小稻葉・平塚・上下大槻四村產、

    ◯西瓜平塚宿、上下大槻村產、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、適宜改行を挿入)


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
上記に登場する町村の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編」と「大住郡図説」の記述では、「大麦」が「大住郡図説」にのみ記述されていて「山川編」にはないという違いはあるものの、それ以外の内容は実質的に同一のものとなっています。

正直なところ、これらの産品に関してはどう取り扱うべきか、「風土記稿」の産物を調べ始めた頃から私の中では頭の痛い課題の1つになっていました。当時何処でも作られていたと思われるこれらの産物が、相模国を代表する産物として「風土記稿」に取り上げられた理由が見つけられずにいるからです。多少地質面で産地が限られてくるものも含まれているとは言え、少なくとも、この地から産するこれらの産物が当時の世に広く知られる存在だったということではない様ですし、それ以外の観点から相模国の代表的な産物として賞賛される様な存在だったことを裏付ける史料も、これといって見当たらないのも事実です。

しかし、調べを進めていくうちに、どうやらこれらの産物についてはある共通の課題がある様に思えてきました。そこで、今回はまず個別にこれらの産物の江戸時代当時の実情がどうであったかを確認した上で、この課題についてまとめて考えてみたいと思います。

その前に、「風土記稿」のこの記述中に数回登場する「平塚」については少々解説が必要かも知れません。勿論これは、東海道の宿場町の1つであった平塚宿のことですが、そこがこれらの農産物の産地の1つに挙げられている点に多少違和感を感じる人もいるのではないかと思います。

「風土記稿」では平塚宿の範囲について

宿の廣袤、新宿を合て東西十九町五間餘、南北二十四町餘東、馬入村、巽、須賀村、南、海、西、淘綾郡高麗寺村、及大磯宿、乾、花水川に限、山下村、及郡内徳延村、北、中原上下宿、南原村、艮、八幡村、

(卷之四十八 大住郡卷之七より)

と書いています。隣接する村の数を見ても、意外に広い地域が平塚宿の範囲内にあり、南は海に面し、ほぼ東西に進む東海道に沿って宿場が伸びていたにも拘らず、むしろ南北の方が長い地域になっていたことがわかります。

江戸時代の平塚宿の領域
江戸時代の平塚宿の領域(概要)
青線は旧東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャし、リサイズ
数値地図25000(土地条件)」を合成)
そこで、この範囲を大筋で「地理院地図」上で示してみたのが右の図です。平塚市博物館サイト内の「平塚・石仏めぐり-旧市内編- (4・旧平塚宿):旧平塚宿」に記されている

旧平塚宿というのは、現在の平塚一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目、中里、桜ヶ丘、上平塚、達上ヶ丘、諏訪町、富士見町、豊原町、唐ヶ原、撫子原、黒部丘、花水台、虹ヶ浜、董平、桃浜町、龍上ヶ丘全域と立野町、追分、大原、見附町、錦町、八重咲町、松風町、袖ヶ浜のそれぞれの一部の範囲です。

という記述と同ページの地図を頼りに概要を描いただけですので、必ずしも正確なものはありませんが、概ねこの地域が平塚宿の領域であったと考えて下さい。平塚宿は公儀の継立を勤めるに当たって1万坪(約3.3ha)分の地子を免除されていましたが、それはこの領域の中から、ということになります。

平塚宿付近の迅速測図
東海道の南北に、松林に挟まれて畑が散在している
(「今昔マップ on the web」より)
また、先ほどの図では「土地条件図」を重ね合わせてみましたが、平塚宿の領域のかなりの範囲を「砂丘」が占めていることが良くわかります。これは後ほど同宿が産出していたとする各産物の性質を考える上では重要なポイントになると思います。こうした砂丘の多くは「御林」として松林にされている地域が多かったものの、全てが林に覆われていた訳ではなく、東西に伸びる砂丘に沿って御林の間に畑があったことが、明治初期の「迅速測図」でも確認出来ます。

江戸時代の平塚宿を描いた浮世絵は、専ら京方の縄手道の向こうに見える高麗山(歌川広重:「東海道五十三次」保永堂版など)か、馬入の渡し(同:狂歌入東海道など)を描くものばかりでしたから、東海道の南や北に展開する御林や畑のイメージがあまりありませんが、実際はその領域の内部に少なからず林や畑を抱えていたことは、念頭に置いておいた方が良いでしょう。

1.大麦


「大麦」については「山川編」に唯一取り上げられませんでしたが、ここで名前の上がった上大槻村・下大槻村(現:秦野市上大槻・下大槻)の記述には含まれています。

  • 上大槻村(卷之四十九 大住郡卷之八):

    當村に播殖する大麥は、他に勝れて佳品なり、

  • 下大槻村(同上):

    當村の大麥も佳品なり、



上大槻・下大槻の位置(「地理院地図」より)
この2村は金目川と支流の水無川などが合流して秦野盆地から流出する「切れ目」の谷間に位置しており、上流側が上大槻、下流側が下大槻という位置関係になっています。

その2村で産出する大麦の質が良かったとしている訳ですが、大麦自体は当時どこの村でも作付けるものでした。江戸時代初期の農書である「農業全書」では次の様な表現で、稲作の終わった後に植えて田植えの前に収穫できる大麦を、稲の次に重点的に作付けるべき穀物と評していました。つまり、大麦は稲について「主食」と位置付けられる穀物であった訳です。

麦ハ秋うへて夏熟す。四時(しいし)しき>の気をうく。旧穀<こぞめのこめ>のつくる時いできて、民の食をたすけつぎ、新穀の出来る時に至る。されば稲に次で、五穀の中にて貴き物なり。此ゆへに、聖人是を重んじ、春秋にも稲と麦との損毛をバ書させ給へり。実に近世静謐にて、人民多くなりぬ、麦作のつとめ疎かならバ、食物乏しかるべきに、都鄙是を作る事専なるゆへ、麦の多きこと甚いにしへに勝れり。されバ今民のやしなひの助となる事、是に続く物なし。実にめでたき穀物なり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 151〜152ページより、ルビ・注は一部を除き省略)


本草図譜巻四十「大麦」
「本草図譜」より大麦
複数の品種が描き分けられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「大麦」
「梅園草木花譜」より「大麦」(右)
訓は「ふとむぎ」と記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

そして、この後かなりの紙数を割いて麦の作付に適した地味や播種から収穫までの手順について解説しています。因みに当時は「麦」とだけ書いている場合は基本的に「大麦」のことを指すことが多く、「農業全書」でも「大麦」のことを基本的に「麦」と書いており(但し裸麦についても麦の項で言及しています)、「小麦」については「小麦を種る事。地のこしらへ、其外大麦にかはることなし。(166ページ)」として「大麦」との栽培法の異なる部分を重点的に書き記しており、結果的に「大麦」の数分の1の文量で収まっています。「大和本草」でも大麦については「麦」とだけ記しており、

麥は五穀の中稻につぎて最民食を助く殊に夏の未舊穀の盡る時民の飢を救ふ民用に甚利あり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と、「農業全書」とほぼ同様の指摘をしています。

産品全国相模国
大麦 (石)5,035,709.675138,835.277
小麦 (石)1,645,111.56356,350.942
裸麦 (石)2,205,252.1647,318.797
小麦/大麦比 (%)32.6740.59

※「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より、全国相模国の該当項目を抜粋。

※産品名は現代の表記に置き換え。

※小麦/大麦比は小数点下第3位で四捨五入。

実際、当時の各種文書では大麦が小麦よりも多く栽培されていたことを示すものが多数存在しています。その全貌を俯瞰できるものとしては江戸時代が終わって間もない明治9年(1876年)の「全国農産表」が良いでしょうか。左にその中から全国と相模国の大麦・小麦・裸麦の生産量を書き出してみました。全国では小麦の生産量は大麦はおろか裸麦の生産量にも及んでいなかったことがわかります。相模国では「相州小麦」の名で呼ばれるほどに小麦が名産で、そのことを反映してか小麦の生産量の比率が全国に比して高くなっており、その分特に裸麦の生産が僅かなものになっていますが、それでも小麦の生産量は大麦の生産量の4割程度に留まっています。無論、この比率が江戸時代を通じて不変のものであったという訳ではありませんが、基本的には大麦の生産量が小麦を下回ることはなかったのではないかと考えられます。

これは、大麦は基本的にそのまま炊いて食するのに対して、小麦の方は基本的に製粉などの行程を経て加工する必要があった点が大きい様です。「本草綱目啓蒙」でも「小麦」について「小麥は飯に炊かず只磨して麵となす」と記し、そこに手書きで「能登には飯に炊くなり」と補注が記されているのに対して(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)、大麦については「苗小麥より大にして其米は專ら飯に炊き又麫となすべし」(同上)と、その調理法の違いを書いています。なお、「本草綱目啓蒙」では大麦・小麦それぞれについて、各地の呼称の違いを書き上げていますが、それらの地名の中には「相州」に関するものは含まれていません。

その他、江戸時代に記されたもので相州の大麦に良品があることを明記したものは、探した範囲では見つけることは出来ませんでした。例によって明治10年「第1回内国勧業博覧会」の出品目録で相模国域から出品された大麦を確認すると、鎌倉郡の平戸村(現:横浜市戸塚区平戸)と大町村(現:鎌倉市大町)、足柄下郡小竹村(現:小田原市小竹他)とともに、大住郡からは南矢名村(現:秦野市南矢名)の名前はありますが、上大槻・下大槻村の名前はありません。「秦野市史」でも

『風土記稿』の土産の項にのせるたばこ以外の作物名は上・下大槻村に大麦・甘藷・越瓜・西瓜の名がみえるが、これらは村方に残る史料で確認することはできない。

(「秦野市史 通史3 近代」112ページより)

としており、「風土記稿」がどの様な根拠でこの様な記述に及んだのか、確認する術が今のところ存在しないのが実情です。

これ以外の作物については次回以降に見ていきます。

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