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注:当面、この記事は先頭に固定しておきます。最新記事は次の記事(09/13時点:「「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑶)」)からです。

2023/04/28追記:固定した記事のために最新記事に気付いてもらいにくい状況を考え、本文を追記に移動しました。


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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑶)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索を使って、「鵠沼」の「よみ」の変遷をと見てきました。今回も引き続き、「鵠沼」の「よみ」の変遷について「デジタルコレクション」から読み取れることを書き連ねてみたいと思います。


2.3. 明治30年代〜大正年間初期の傾向


以下の記事では、前々回掲出した検索結果の集計一覧を適宜参照下さい。

この頃になると「鵠沼」の名が登場する出版物の点数が飛躍的に増えてきます。それと共に「よみ」を「くげぬま」と記す資料の比率が大幅に上がってきます。一方で、「くくいぬま」系の「よみ」や、それ以外の誤植や誤謬の可能性が高いものの件数には大きな変動が見られません。こうした検索結果の件数の変化から見て、基本的には「くげぬま」の「よみ」が世間的に定着したのはこの時期と考えるべきでしょう。

流石にこの件数になると全てをここで紹介する訳には行きませんので、どの様な傾向が読み取れるかを幾つかサンプルとして取り上げながら紹介することとします。

「くげぬま」が定着した理由のうちには勿論、鵠沼が別荘地、更には高級住宅地として世間に認知されてきたことが関連あるでしょう。当初は鵠沼を含む湘南一帯に、温暖な紀行を見込んで保養施設が造られたこともあり、病を得て転地療養に訪れる人が目についていました。その中には斎藤 緑雨の様な文筆家も含まれており、「デジタルコレクション」でヒットした資料中にもその著作や関係者による記録なども散見されます。

鵠沼(くげぬま)よりしたるわが手柬(しゅかん)の一(せつ)を、(しも)抄記(せうき)すべし。…

(「長者短者」明治35年・1902年、「緑雨全集 : 縮刷※」斎藤 緑雨 著 大正11年・1922年 博文館 所収 719ページ)

君が痩のわれにまされる春の朝とりて別るゝ手と手の寒さ(くげぬまに綠雨君を訪ひて

(「むらさき」与謝野 寛 著 明治34年・1901年 東京新詩社 16ページ)


しかし、鵠沼はやがて政界や財界の有力者や文化人が居を構える地へと変わっていきます。それに伴っていわゆる「紳士録」の様な名簿類での住所としての「鵠沼」の登場回数が増えていきます。実際、「デジタルコレクション」上でヒットした資料のうち、かなりの点数をこうした名簿類が占めています。但し、これらの多くは地名にルビを振らないケースが多く、こうした資料で地名の「よみ」を知ることが出来るケースは稀です。珍しい例として「横浜繁昌記 : 附・神奈川県紳士録」(横浜新報社著作部 編 明治36年・1903年 横浜新報社)では前半に横浜周辺の名所案内が掲載されている中に「鵠沼」や周辺地の紹介があり、それらには「くげぬま」のルビが付されています。しかし、末尾の紳士録では「鵠沼村」をはじめとする地名にルビは付されていません。

一方、前回紹介した通り明治19年に開場した鵠沼海水浴場は日本の主要な海水浴場として定着し、多くの海水浴客を集める様になります。また、明治35年(1902年)には江ノ電も開業し、東京からの交通の便が更に向上します。その様な状況に相俟って、当時の観光案内や衛生案内書の類でも鵠沼海水浴場を紹介するものが数多く見られる様になります。

鵠沼(くげぬま)海水浴  藤澤停車塲より半里余海波静かに潮水淸く風光亦江の島に讓らず故に婦人小兒の浴塲に適す旅館には鵠沼館、待潮館あり宿料甚だ廉なり

(「通俗衛生顧問」岡崎 亀彦 編 明治35年・1902年 築地印刷所 52ページ)

鵠沼海水浴塲  江の島と相對(あひたい)し、大磯(おほいそ)に至る海岸(かいがん)なる鵠沼(くげぬま)は、西南に豆相(づそう)連山(れんざん)相對(あひたい)し、海氣(かいき)淸涼(せいりやう)なれば、海水浴塲に適當(てきたう)す。東屋(あづまや)鵠沼館(くげぬまくわん)待潮館(たいちやうくわん)、三井樓等の旅館(りよくわん)あり、宿泊料(しゆくはくれう)比較的(ひかくてき)(れん)なり。此地藤澤驛(ふぢさはえき)を去る二十町、電車(でんしや)の便あり。江の島よりは渡船(とせん)便(べん)あり。

(「日本漫遊案内 上巻」坪谷善四郎 編 明治36年・1903年 博文館)



それに伴って、これらの資料にありがちだった間違いと言わざるを得ない「よみ」の例も明治30年代にはまだ多少見られるものの、時代が下るといわゆる「誤植」に属するものが増え、現地を訪れることなく編集を行ったと疑念を抱かせる様なものが減ってきます。当時は活版印刷ですから、例えば

飄吉(へうきち)――やあ、(きみ)は、鵠沼(くげぬさ)()()たんだね。

(「少年膝栗毛」黒田 湖山 著 大正2年・1913年 博文館 186ページ)

と1文字だけ違っている様なケースは単なる誤植と見られ、実際同書の別の場所では「飄吉(へうきち)――…走太君(そうたくん)()てば鵠沼(くげぬま)()、」(190ページ)の様に正しく表記されています。この資料の場合は他が合っていますので「くげぬま」の方に計数しましたが、

(すこ)(とほ)くなりますが片瀨(かたせ)鵠沼(くげぬた)あたりで小松原(こまつばち)(うち)()ころんで雲雀(ひばり)(こゑ)をきいたこともあります。

(「婦人週報 第貳卷 第五號※」大正5年・1916年 婦人週報社 6ページ)

の様に資料中に誤植1件のみが出現するケースは「その他」に計数しましたので、その分取材不足を疑わざるを得ない様な事例は減っていることになります。それだけ「くげぬま」の「よみ」が世間に浸透してきた傍証とも言えます。

また、次の例は鵠沼を訪れた外国人が書き記した文章で、ここでは「Kugenuma」とローマ字で「よみ」が記録されています。

避暑として目下は有名になり貴紳の別莊が數多建てられました相州鵠沼は、私が最初參りました頃に宿屋が一軒しかなく、從て日本人も杖を曳くもの少なく誠に寂しい地でした、…

Kugenuma, a little village in Sōshū, is now a well-known place, boasting its many inns and villas of the wealthy; but when I first went there it was a extremely quiet and lonely (sea-side) resort. There was only one inn there, frequented by very few travelers, and the whole place had a solitary look.

(「外国紳士滑稽実話」エフ・ダブリュー・イーストレーキ(Frederick Warrington Eastlake) 著 明治36年・1903年 金刺書店 65〜67ページ)

この様な文章も、「鵠沼」の「よみ」が外部から流入する人々には最初から「くげぬま」として受け入れられていたことを支持するものになっています。この文章はまた、鵠沼が海水浴場や別荘地として開発されてから外部からの流入者の増加までの間に多少の時間が必要だったことを証言するものにもなっています。

こうした人々の定着や往来が増えてきたことが背景となって、文学作品の中で「鵠沼」が登場する機会が増えてきます。特に当時の小説の中に鵠沼を舞台とするものが多数見られます。


因みに、明治30年代頃から小説などの文芸作品の出版物では、数詞など一部の例外を除いてほぼ全ての漢字に逐一ルビを振ることが増えてきます。その結果、個々の地名にも都度ルビが付されることになり、当時の地名の「よみ」の確認には有力な存在になっていきます。

松村(まつむら)には是非(ぜひ)ゆつくり()ひたいが、松村(まつむら)近邊(きんへん)(おそ)ろしい(もの)一人(ひとり)ついて()る(であらふと(ぼく)(おも)つた、(しか)松村(まつむら)には(あえ)(その)有無(うむ)()はなかつた)(うへ)に、(ぼく)明治(めいぢ)評論(へうろん)()めに夏期(かき)附錄(ふろく)編輯(へんしう)手傳(てつだひ)をして()たので、三()にあけず鵠沼(くげぬま)松村(まつむら)()つたのは鵠沼(くげぬま)であつた)から今日(けふ)()明日(あす)()いと()()(こと)松村(まつむら)催促狀(さいそくじやう)にも、曖昧(あいまい)返事(へんじ)ばかりして()たが…

(「思出の記」徳富 蘆花 (健次郎) 著 明治34年・1901年 民友社 430ページ)

いたつきは おこたりぬれど/()のやせの まだしるき()の/この(ころ)を なぐさめばやと/鵠沼(くげぬま)に いざなひゆけば/あまつ(そら) (くま)なく()れて/朝凪(あさなぎ)に (うみ)はしづけし…

(「うた日記」森 鷗外 著 明治40年・1907年 春陽堂 466ページ)

(きやう)さんは廂髪(ひさしがみ)黑縮緬(くろ)のお羽織(はおり)、こぼれ()緋縮緬(ひぢりめん)(ふり)(なま)めかしく、流石(さすが)鵠沼(くげぬま)美人(びじん)(おと)にきこえた煙󠄁草(たばこ)()看板娘(かんばんむすめ)

(「スヰートホーム」内藤 千代子 著 明44年・1911年 博文館 38ページ)

江の島に遊びて岩本樓にやどりける時

くげぬまの燈火みえてくれそむる江の島凉しいざ一夜ねん

(「大和田建樹歌集 : 一名・待宵舎歌集」大和田 建樹 著 明治44年・1911年 待宵会 183ページ)


その他枚挙に暇がないほどの文学作品が「デジタルコレクション」上で見つかります。これらはまた、別荘地・保養地としての鵠沼の風景や、そこに集うようになった人々の諸相を窺わせてくれる側面も持っています。


他方、公共の出版物でルビが振られているケースは非常に珍しく、特に「鵠沼」の地名の出現する頻度がそれなりに高い「官報」では殆ど「よみ」を見出すことは出来ませんでした。そういう中で例外的にルビが見られたのは、明治39年(1906年)3月23日の「第六八一六號」に掲出された郵便局設置に関する告示です。郵便局設置の告示で必ずしも常にルビがある訳ではないので、この時に限ってルビが付された理由は定かではありません。

逓信省告示第九十七號

本日ヨリ左記三等郵便局ヲ設置ス但郵便物集配事務ヲ取扱ハス

鵠沼(クゲヌマ)郵便局 神奈川県高座郡鵠沼村

(14ページ)

こうした事例が極めて少ないため、公的機関が何時頃から「くげぬま」を正式に使う様になったのかを確定することは出来ませんが、この官報の事例から、少なくとも明治39年頃までには公的機関でも「くぐいぬま」ではなく「くげぬま」を「鵠沼」の「よみ」として使用する様になっていたことになります。

また、「高座郡地誌」(川上 安二郎編 明治40年・1907年 廣文堂川上書籍店)では

鐵道ハ鎌倉郡ヨリ來リ、本郡藤澤ニ入リ鵠沼(クゲヌマ)、明治、茅ヶ崎、鶴嶺ノ諸村ヲ()テ中郡平塚(ヒラツカ)ニ達ス、是レ即チ東海道線路ニシテ明治二拾年六月ノ布設(フセツ)ニカヽル、

(3ページ)

と「クゲヌマ」の「よみ」が採用されています。編者兼発行者の川上 安二郎は奥付によれば藤沢の人であり、地元で書店を営んでいた様です。「藤沢市史資料 第30集※」(藤沢市教育委員会 編 1986年 藤沢市教育委員会)によれば、鵠沼の賀来神社の社殿階段据柱を明治36年に奉納した藤沢大坂町の有志者の名前中に、「川上 安二郎」が含まれています。そういう人物が藤沢町の隣接地である「鵠沼」の「よみ」を「クゲヌマ」と記していることからも、この時点で既に地元の人々にも「くげぬま」の「よみ」が広まっていたことが窺えます。

こうして「くげぬま」という「よみ」が定着していく中、これまで制作されてきた「新旧対照市町村一覧」では明治36年版(1903年)に「ク々イヌマ」の「よみ」が記されているのを最後に、「くくいぬま」系の「よみ」を記した対照表がなくなります。この数年後に鵠沼村が藤沢町に吸収される格好で合併し、以降は藤沢町の大字の1つとして「鵠沼」が登場することになったこともその原因の1つではありますが、明治28年頃には既に「くげぬま」が定着し始めていたことを考えると、この様な資料の改訂に際して「よみ」の部分までタイムリーに更新されていたかどうかは疑問が残ります。

その様な中で、この時期以降「くくいぬま」系の「よみ」が記されている資料の多くを占める様になるのが、辞典の類です。

書名編著者出版年出版社「鵠沼」の項の記述
実用帝国地名辞典大西 林五郎
  • 1901
  • 増補版2版:
    1903
吉川 半七 他くぐいぬま 鵠沼村 相模―高座
帝国地名大辞典富本 時次郎1902~3又間精華堂
  • 第1卷鵠沼(クヾヒヌマ) 神奈川縣相摸國髙座(カウザ)郡にあり、村役塲を本村に置けり、
  • 第4卷鵠沼(ク々ヒヌマ)海水浴(カイスヰヨク) 神奈川縣 相摸國高座郡鵠沼(ク々ヒヌマ)村の海濱に在り、…
難訓辞典井上 頼圀, 高山 昇, 莵田 茂丸 合編
  • 1907
  • 2版:1933
啓成社鵠沼 クグヒヌマ 地名。相模國高座郡――村。
大日本地名辞書吉田 東伍
  • 二巻・再版:
    1907
  • 1922~3
  • 1937
冨山房中巻※:鵠沼(クグヒヌマ) 今鵠沼村と云ふ、引地川と片瀨川の間にして、藤澤驛の南二十餘町、海濱の沙丘の間に在り、…(鵠は白鳥の古名、クグヒなり、方俗訛りてクゲヌマと唱ふ)…
日本百科大辞典三省堂編輯所 編1908~19(該当巻は1910)大日本百科辞典完成会第參巻※:くげぬま(鵠沼) 神奈川縣相模國高座郡の海岸に在る海水浴場。正しくは「くぐひぬま」といふ。
帝國地名辭典太田 爲三郎 編1912三省堂上卷クグイヌマ(鵠沼) 【神奈川】相模國高座(コウザ)鵠沼(クゲヌマ)」を見よ
クゲヌマ(鵠沼) 【神奈川】相模國高座(コウザ)郡に在りし村。明治四十一年藤澤町に合す。…鵠はクグヒと訓むを正しとす。今誤󠄁りてクゲヌマと呼ぶ。
言泉:日本大辭典落合 直文
  • 改修版:
    1921~22
  • 1927~28
大倉書店くぐひぬま 鵠沼【名】〔地〕くげぬま(鵠沼)を見よ。
くげぬま 鵠沼【名】〔地〕『くぐひぬま(鵠沼)の訛』相模國高座(カウザ)郡藤澤町の大字。…
※初版の「ことばの泉 : 日本大辞典」(1898年)には「鵠沼」に関する項目なし。
※索引の記述は省略

これらの辞書では何れも「くくいぬま」系の「よみ」で項目が立てられるか、「くくいぬま」系の「よみ」が「くげぬま」へ転訛したことが説明されていることがわかります。「難訓辞典」と「大日本地名辞書」が刊行された1907年、つまり明治40年が転訛についての記述が追加される1つの境になっている様にも見えますが、その間に具体的な契機が何か存在したのかは今のところ確認できていません。ただ、それまでは文献に見られる「くくいぬま」系の読みを飽くまでも「正」とする姿勢だったものが、この年以降に刊行される辞書類では実情を追認する様になったことは確かでしょう。

一方、旅行案内で「くくいぬま」系の「よみ」について記したものは、今回「デジタルコレクション」上では次の1件のみしか見つかりませんでした。

鵠沼と砥上ヶ原 停車場(ていしやば)より(しばら)(すゝ)めば、線路(せんろ)左側(ひだりがは)沿()ひて人家(じんか)三々五五點在(てんざい)せり、此邊(このへん)を一(たい)鵠沼(くげぬま)といふ、(いにしへ)はクグヒヌマといひしが、(なま)りてクゲヌマと()ぶに(いた)れり、

(「東海道旅の友車窓の名勝観」神谷 市郎 (有終) 編 明治42年・1909年 博文館 26ページ)

「大日本地名辞典」よりは2年ほど後の刊行になりますので、この編者が辞典から探し出してきて改めて記述したものかも知れませんが、そもそも「よみ」の変遷について触れていない案内書が大半を占めていた中で、この様な知見を見つけ出してきただけでもかなり珍しい存在であったのは確かです。

またこの頃に記された紀行文でも、「くくいぬま」系の「よみ」を掲げたものは次の1点のみでした。

鵠沼こはくゝひぬまの略稱鵞鳥のごとく白き大鳥なり村は藤澤停車塲をさること凡そ十八町ばかり…

(「明治三十六年一月 神奈川縣見聞錄」[李家 隆彦 著] 1903年 長島 格 70ページ)

著者は奥付に明記がありませんが序文から判断しました。「略称」と記した意図はわかりませんが、既に江ノ電が開業していたことは江の島について記している箇所に記述が見えますので、鵠沼駅などの呼称から「くげぬま」と呼ばれていることは察知している筈と見られます。そうであれば、あるいは「転訛」の意で「略称」という言い方を用いたのかも知れません。

更に、文学作品中でも「くくいぬま」系の「よみ」が用いられているものもなかなか見当たりませんでした。前回紹介した江見水蔭の「廃船万里号」もそうした例の1つですが、詩句でも次の例を挙げられてる程度でした。

小林吉明君を相州鵠沼にとひ參らせける時

嗣滿

くゝひぬまともにはるはるおりたちてあさるや深きえにしなるらん

(「裏錦 第八卷 第九十六號※」明治33年・1900年 尚絅社 所収 「鵠沼雜詠 八月三十日」52ページ)

詩句に「くくいぬま」系の読みが詠み込まれていたのは今回検索した中ではこれが唯一でした。この中井 嗣滿が詠んだ短歌への返しとして小林 吉明が詠んだ「おり立ちてあさるえにしはの名のくゝひの首の長くあらなむ」という短歌も、「くくひぬま」の読みが前提にあって初めて成立する歌になっています。


以上の様に、この頃の資料からは「くげぬま」の定着に伴って「くくいぬま」系の「よみ」が「過去のもの」という位置付けに変わっており、実用から外れていることを読み取ることが出来ます。「くくいぬま」系の「よみ」が文学作品で殆ど用いられなかったのは、やはりそれらが執筆された頃には使われなくなっていたからと考えるのが妥当でしょう。「廃船万里号」が「くゞひぬま」を敢えて採用した理由は引き続き不明ですが、上記の短歌の例は通常は用いられなくなった呼称を敢えて友人との間で用いることで、何らかの「特別さ」を演出したかったのかも知れません。

もっとも、以前「鎌倉郡川口村郷土誌」に掲載された同地の転訛に「i」音が「e」音に変わる傾向が見られることを紹介しましたが、これが鵠沼を含む一帯の古くからの傾向であったのだとすれば、「くくいぬま」の様に表記していた時代でも実際の発音は「くげぬま」に近いもので、移住者が増える過程でその発音を写し取った「くげぬま」の方が表記でも定着していった、ということなのかも知れません。残念ながら今のところ明治初期以前に実際にどの様に発音されていたかを記した資料が見つかっていませんので、現時点ではこれも推測の域を出ません。



今回もかなり長くなってしまいましたので、続きは更に回を分けたいと思います。
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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑵)※追記あり

前回を受けて、今回も「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索で「鵠沼」の「よみ」の変遷を検討します。今回は前回の最後に掲げた「よみ」の件数分布を受けて、どの様なことが言えるかを例を挙げて考えてみます。


2. 明治〜大正年間


以下の記事では、前回掲出した検索結果の集計一覧を適宜参照下さい。

なお、前回触れ損ねましたが、今回の集計の対象は「デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」資料と「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」資料です。「国立国会図書館内限定」資料は国立国会図書館に赴かないと参照が出来ないため、今回の集計の対象に入れることは出来ませんでした。基本的には「国立国会図書館内限定」資料の件数は今回の集計対象としている出版年にはあまり多くはないため、こちらまで集計対象とした場合に大きく結果が変動する可能性は少ないと見ていますが、まだ未確認の資料はそれなりに残っているということでもあります。

2.1. 明治初期(明治元〜20年)の傾向


「デジタルコレクション」中で、明治に入って最初に「鵠沼」の「よみ」を曲がりなりにも記しているのは次の出版物です。

車田(字くるまだ) 藤澤町鵠沼(こくぬま)村入合の縄手にして凡そ三町程なり

(「箱根熱海温泉道案内」橋爪貫一 編/加藤清人 画 橋爪貫一 明治10年・1877年 13丁)


この出版物の奥付によれば、著者や画家、出版を引き受けた書店何れも東京の人であり、鵠沼の外部の人物によって記されていることになります。そうした中で記された「鵠沼」の「よみ」は「こくぬま」と、現地で実際に使われたことが確認できないものになっています。現在の様に地名の「よみ」が地方公共団体によって規定されるより以前においては、地名の「よみ」の「正誤」は容易に決することは出来ないものではあります。しかし、外部の人物によって出版物に記された地名が現地で実際に使用されている痕跡が確認できない場合は、やはり現地での確認作業を経ていない可能性を疑わざるを得ません。

因みに、「神奈川文化  第2巻第2号」※(神奈川文化研究会刊 出版年不詳)所収の「箱根溫泉と其案内書に就いて」(關 靖 著)中で、同じ橋爪貫一著の「箱根熱海温泉道案内」が明治4年刊であることを記しています。この明治4年版は参照できていないため明治10年版との差異は不明であり、「車田」の項の記述が明治4年版でどの様になっているかも未確認です。ただ、この案内書は恐らくは改定と出版を繰り返し、相応の販売実績を上げたものと思われます。なお、神奈川県立図書館にも同書の蔵書がありますが、そちらの書誌情報も明治10年になっています。


「箱根熱海温泉道案内」は基本的には江戸時代の旅行案内である「道中記」に良く見られた横に長い判型で、筆書き風ではないものの活字ではなく行書で彫られているなど、江戸時代までの出版の流儀に従っている点が特徴的な出版物です。まだこの頃は新たな活字印刷ばかりではなく、従来型の出版物と入り混じった形で書籍が流通していたことが窺えます。恐らくは出版物の内容についても江戸時代までの流儀を引き摺っていると考えられます。

明治元年から20年までで「よみ」が見られたのは上記1件のみですが、そもそもこの20年の間の国立国会図書館の蔵書自体点数が少なく、傾向を追うのは困難です。「鵠沼」が見られるもののルビが振られていない他の資料では「神奈川縣地誌略」※(川井景一 著 池田眞七 1875年)など神奈川県全域を対象に含む地誌が目立ち、包括的に神奈川県を取り上げるなどの機会がなければ「鵠沼」に注目する機会が少なかったことが窺えます。

2.2. 明治21〜30年の傾向


この頃から「鵠沼」の名が記載された資料が増え、それに伴って「よみ」が掲載された資料の点数も増えます。この頃から国立国会図書館の蔵書の点数自体も増えていますが、「鵠沼」に触れる資料の増加の理由はそれだけに留まらないと考えられます。

明治18年(1885年)に大磯に海水浴場が開場したのに続き、翌19年に鵠沼で海水浴場が開場します。こうした動きを意識してか、この頃に「鵠沼館(こうしょうかん)」(明治19年開業)や「東屋(あずまや)」(明治25年開業)等鵠沼を代表する旅館が開業し、やがて一帯の別荘地の開発へと繋がっていきます。

検索結果からはこうした動きを受けて観光案内書の類に「鵠沼」の地名が登場する機会が増えていることが窺えます。しかし、「くくいぬま」系9件、「くげぬま」系9件、その他8件とそれぞれに拮抗していることからわかる通り、この時期にはまだ「鵠沼」の「よみ」は必ずしも世間に認知されているとは言えない状況が見えています。比較的件数が少ないので、この26件は一覧として掲出します。

「くくいぬま」系「くげぬま」系その他
  • 年は和暦で統一、元号は省略。なお、明治21年=西暦1888年。
  • 資料の中には版を重ねたと考えられるもの、別の資料をほぼ転記に近い形で再出版したと見られるものなどが少なからず含まれているが、それらを1つにまとめることなく別々にカウントしている。

「くくいぬま」系の「よみ」が掲載されている資料は「新旧対照市町村一覧」が6種もあり、明治22年の第1版から幾度も版を重ねて出版され続けたことがわかります。その「著作の趣意」に市町村制の施行(明治21年)に伴って旧町村が合併したりした所が多いため、その新旧対照の便宜を図ることを目的として作成したこと、それを警察部内に留めず外部に頒布することで便宜を図ったことが記されています。当時はこうした政府の機関が作成した資料を頒布目的で出版するケースも少なからずありましたが、その様な資料に「くくいぬま」に属する「よみ」が記されたということは、こうした政府機関ではまだ従来から伝えられる「くくいぬま」に属する「よみ」が引き続いて使われていたことを意味しています。「大日本市町村名鑑」「市町村一覧」も「新旧対照市町村一覧」と基本的に同種の著作で、大半がこの種の資料で占められていることになります。

一方、それらの資料に先立って明治22年の「教育週報」という雑誌では

◯神奈川縣通信。=耕餘塾同窓會。神奈川縣高座郡羽鳥村なる同塾にては、毎年一回同窓會を開き、新舊生徒職員其他同塾に關係ある人々が會同する由なるが、去る三日第八回同窓會を鵠沼(くゞひぬま)待潮舘に開きしに、來會者八十名、野外演習ベースボール綱引等の諸遊戯あり…

(「教育週報 第一號※」教育週報社 1889年・明治22年4月20日 13ページ)

鵠沼に出来た「待潮舘」という旅館で催された同窓会の報告記事が掲載され、その「よみ」は「くゞひぬま」とされている点が注目に値します。この「待潮舘」は後に「對江館」と名を変えますが、当時まだ開業したばかりの頃に当たり、ここで「耕餘塾」の同窓会が持たれたのは、この塾が鵠沼村の隣の羽鳥村にあったことから、地元でのこうした新設旅館の動きを逸早く知り得たからでしょう。この文章は従って近隣住民の報告と考えられることから、彼らはまだ「鵠沼」の「よみ」は「くゞひぬま」であると認識していたことになります。


これらに対し、明治23年8月2日発行の「女学雑誌 第224号」に掲載された「きよめぬ庭 其十九 夏のそら」(洒落齋主人)では
さらば鎌倉(カマクラ)、かしこはよろしからず。いで()(しま)はよかんめれ、されど此所(こゝ)()あきぬ。そがもよりの鵠沼(くげぬま)、かしこもさほどのところにてはあらず。

(19ページ・合本679ページ)

と「鵠沼」の「よみ」を「くげぬま」と書き取っています。今のところ「デジタルコレクション」中で「よみ」を「くげぬま」とする資料の中では、これが最も早い出版物という位置付けになります。しかし、著者の「洒落齋主人」という人物については「デジタルコレクション」上での検索結果でもこの「女学雑誌」の連載が大半を占めており、今のところ委細が不明です。他の資料に「東京府 洒落齋主人」とあるものの、「女学雑誌」上の人物と同一である裏付けがありません。ただ、この人物の文章は何れも「戯文」と呼ぶべき内容で、問題の文章も各地の名所への旅行を画策する中で「鵠沼」が候補の1つとして挙げられる内容となっていることから、この人物と鵠沼との関係を匂わせる要素が希薄です。とすると、この「くげぬま」の「よみ」は鵠沼の外部の人間によって書き取られたもの、と考える方が良さそうです。しかし、この人物がどの様にして「くげぬま」という「よみ」を知ったかについては確認する術がありません。

以下、「くげぬま」と「よみ」が記された資料の筆者を一通り確認してみると、石川 千代松山田 美妙(びみょう)など、名前の明確なものの多くは鵠沼の外部の出身者であることがわかります。匿名と考えられる文章の場合でも、何れも外部から鵠沼へと訪れた様子を書いており、鵠沼やその近隣在住の人物の手によると考えられる文章は殆ど含まれていませんでした。

その中で「三浦郡及神奈川県地誌」を編纂した「三浦郡教育会」は奥付によれば横須賀・汐留に拠点があり、既に現在の横須賀線に当たる鉄道も開通していましたので、鵠沼からそれほど隔たっているとは言えません。そうした地で学校向けの教材として編纂された地誌に

勝地 …高坐郡ノ鵠沼(クゲヌマ)ハ、桃花ノ名所ナリ、

(7〜8折)

と記している点は、あるいはこの地誌が編纂された明治29年頃には、「くげぬま」の「よみ」が定着し始めていたことを示すものかも知れません。

また、「雪月花 第一輯」に収録された「水鞆繪(みづどもゑ)」を著した江見(えみ) 水蔭(すいいん)については、出身は岡山ですが「雪月花」が世に出た明治29年に東京・牛込から鵠沼の隣の片瀬に居を移していました(リンク先は「水蔭叢書 (名家小説文庫 ; 第7編)」所収の「自序」)。その点を考慮すると「水鞆繪」の中で

して(また)(みぎ)(はう)(まなこ)(てん)ずれば、鵠沼(くげぬま)(ちか)指呼(しこ)(あひだ)()つて、人家(じんか)點々(てん/\)(かぞ)へつべし。

(35ページ)

と「鵠沼」の「よみ」を「くげぬま」と書き取っているのは、居を移した現地で聞き取ったものである可能性が高くなります。従ってこれも「くげぬま」の「よみ」が定着してきていたことを示す資料の1つに挙げられそうです。


ところが、同じ水蔭が12年後の明治41年(1908年)の「廃船万里号」では

先刻(せんこく)大森(おほもり)停車塲(ていしやぢやう)出會(でくわ)した女優(ぢよいう)美壽江(みすえ)に、學士(がくし)(はじ)めて()うたのは、鵠沼(くゞひぬま)海水浴塲(かいすゐよくぢやう)東屋(あづまや)であつた。

(後編 129ページ)

と、「鵠沼」の「よみ」を「くゞひぬま」と書いています。上記「自序」にある通り、水蔭は明治31年には「神戸新聞」の「三面主任」に任ぜられたのに伴って神戸へと転出していますので、片瀬には2年弱しか居住していませんでした。それからかなり年数が経ってから著した新たな小説の中では、「鵠沼」の「よみ」を旧来のものに転換したことになります。

次章で後述しますが「廃船万里号」の頃には既に「鵠沼」の知名度が上がり、それと共に「くげぬま」の「よみ」も定着してきていた頃に当たります。その頃になって一般には知られていたとは言い難い「くぐいぬま」の「よみ」を敢えて採用したのは、水蔭の中でどの様な判断があってのことだったのか、今回調べた中では明らかに出来ませんでした。ただ、「水蔭叢書」中の「自序」の記述を見ると、片瀬での2年弱は水蔭にとってはあまり印象深い期間ではなかった様にも見えますので、あるいはその周辺の地域にもあまり印象がなく、後年に改めて小説で「鵠沼」の名を使う際には別の資料に当たって旧来の「よみ」を見出したのかも知れません。

※2023/08/20追記:この点については下記に追記をしました


そして、「こうのぬま」「こくぬま」「くがぬま」など、何れも鵠沼では使用されていない「よみ」を記した資料の点数は、「くげぬま」と記した資料の点数とほぼ拮抗しています。このことからは、明治20年代当時はまだ「鵠沼」が一般にはあまり知られていなかった可能性が高いと考えられます。併せてこの頃には、何かしらの資料に当たって確認を取るにも、まだその様な資料も充実していなかった時期であることは念頭に置く必要はあります。こうした中では、江戸時代にも「難読」と目されていた「鵠沼」の「よみ」は、現地に赴くか、現地の事情を良く知る人物から指摘を得ることがなければ、知る術がなかったということになるでしょう。

今回「デジタルコレクション」上で見つかった資料からは、鵠沼が海水浴場や別荘地として開発が始められた時期と、「くげぬま」という「よみ」が現れる時期にある程度の相関性があることが見えてきます。しかし、「くげぬま」が用いられる様になった経緯を窺わせる様な資料はなく、飽くまでも「よみ」の現れ方から推し量ることが出来る範囲に限られています。この時期の未見の資料を更に探してみる必要は残っています。

ここまででも既にかなり長くなってきましたので、明治31年代以降の状況については、回を改めて続けることとします。

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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑴)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索を使って、「その1」、「その2」と2本記事を書きました。それらに引き続いて、当初は今回の記事を「その3」として公開する予定だったのですが、調査すべき分量の多さから「その3」には先に「箱根の蕎麦」を題材にして出しました。しかしそれでも難航し、他の話題の記事をアップしながらこちらの記事も並行して手掛けていたのですが、結局「その3」からでも4ヶ月も遅れることになってしまいました。

今回は「鵠沼」の「よみ」の変遷を窺い知れる資料が「デジタルコレクション」上で更に見つからないかどうかを検索して確認することにしました。これについては小川泰堂(たいどう)の「四歳日録」中の地名表記について取り上げた際、泰堂自身は「くく(ぐ)いぬま」に準じた「よみ」に徹していたこと、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)でも「久々比奴末牟良(くくひぬまむら)」とその「よみ」を記していることを紹介しましたが、その時には他の史料を見つけられずに終わっていました。

そこで今回「デジタルコレクション」で「鵠沼」やその「よみ」で検索を試みたのですが、一部の検索キーでは想像以上にヒット数が多く、それらの扱いに手間取ったために、ズルズルと時間がかかる結果になってしまいました。

今回はその結果を、江戸時代以前と明治以降に分けて検討したいと思います。


1. 江戸時代以前


まず、天文20年(1551年)10月の「道者売券写」という文書が、「厚木市史」と「平塚市史」の資料編に収録されているのを見つけました。これは「伊勢神宮文庫」の「三方会合(えごう)記録」に収録されているものです。


定 永代賣渡申御道者之事

さかミ(相模)の國

あつき(厚木)かうり(郡)一圓とハ申共、其内も在所小名付申候一圓

一とむろのかう

一高森かう

一ゑひなのかう

一さまのかう

一あいきやうのかう

一はせのかう

おの野(マヽ)のかう

一なゝさわのかう

一い山のかう

一おきのかう

一とかいのかう

一岡さきのかう

一大上のかう

一すかのかう

一柳嶋のかう

くゝいぬまのかう

一吉岡のかう

天文廿年辛亥十月吉日    宮後 南倉藤次へ弘幸書判

岡本鳴子や善兵衞殿    口入 下馬所 藤二兵衞

〔読み下し〕

右、この御道者当知行相違無きもの也、然りと雖も、急用あるに依り、直銭三十五貫文、岡本鳴子屋善兵衛殿へ永代売り渡し申す処、実正明鏡なり、末代相違有るべからざるものなり、同じく天下大法の徳政ややもすれば乱れ行うとも、この道者の儀、別して申し合わす子細候間、相違すべからざるものなり、以後に違乱の儀候はば、我ら罷り出で、その裁き申すべきものなり、

(「厚木市史 中世資料編※」535〜536ページ、「平塚市史 1 (資料編 古代・中世) 本編※」では183〜185ページに同じ史料が掲載されている)


この文書がどの様な性質のものであるかについては、「厚木市史」では次の様に解説しています。

中世においても伊勢神宮への参拝は盛んであり、参拝にあたっては御師が介在し、道者の世話をして金品を得ていた。そのため道者は(しき)つまり利権として把握されていた。南倉弘幸は厚木郡の利権を三十五貫文で鳴子屋善兵衛に売り、徳政があっても権利を主張しない旨を約束したのである。なお、当時厚木という郡名は使用されておらず、おそらく遠く離れた伊勢の住人南倉弘幸が、愛甲郡と間違えたものであろう。

(537ページ)


「道者売券渡」に登場する地名
「道者売券渡」に登場する地名
(「地理院地図」上で作図したもののを
スクリーンキャプチャ)
この文書の中に「一くゝいぬまのかう」が見えており、この地名について「厚木市史」では注に「藤沢市鵠沼(くげぬま)」と断定を避ける書き方をしているのに対し、「平塚市史」では「藤沢市鵠沼」と特に疑問を挟まない書き方をしています。「厚木市史」が断定を避けた理由はわかりませんが、「くゝいぬま」が他の地名を指している可能性がないかを検証するために、この文書に挙げられている地名がどの程度の範囲に広がっているのか、地図上でプロットしてみました。

結果は右の通りです。大半の地名が相模川の本支流流域に位置しており、「くゝいぬま」と「とかい(2市史とも「砥上」かと解釈している)」の2地点が境川河口付近に位置する分布になっています(「岡さき」は金目川水系の鈴川沿い)。大筋で現在の神奈川県中部域に固まっていると言える分布ですが、この文書がこの地に在住しない人物同士での権利譲渡に関するものであることから、この範囲外に大きく外れた地域を念頭に置いている可能性は極めて低いと思われます。

そうすると、この文書が対象とする現在の神奈川県中部域内で、「くくいぬま」の様な読みになりそうな、そして遠方の住人が話題にする程度に比較的広い地域を指し示す地名があるかという問題になります。私が知る限り、その様な「よみ」になりそうな地名としては現在の「鵠沼」以外は見当たらないと思います。従って、「くゝいぬま」が現在の「鵠沼」を指し示している可能性は極めて高いと考えられます。

そうであるとすれば、この文書は「鵠沼」の「よみ」を書き残した、現時点では最古の史料である可能性がかなり高そうです。

因みに、「鵠沼」という地名を伝える最古の史料として知られているものは、現時点では「天養記」とされています。これは天養年間(1144年2月〜1145年7月)に伊勢神宮の所領となっていた大庭御厨(おおばみくりや)に関する神宮側の記録です。その中に次の様なくだりがあります。

官宣旨 ◯天養記

左辨官下伊勢大神宮司

應任先宣旨、停止源義朝濫行、且令召進犯人、且任大神宮例、祓淸致供祭勤、相模國大庭(高座郡)御厨神人寺訴申、以高座郡字鵠沼郷、恣巧謀計、今俄稱鎌倉郡内致妨間、淸原安行字新藤太䓁、打破伊介神社祝荒本田彥松頭、打損神人八人身及死門事、

天養二年二月三日

右大史中原朝臣(宗遠)(花押影)

少辨源朝臣(師能)(花押影)

(読み下し)

左弁官下す 伊勢大神宮司

まさに先の宣旨に任せ、源義朝濫行を停止し、且は犯人を召し進ましめ、且は大神宮の例に任せ、祓い清め供祭勤を致すべし、相模国大庭御厨神人等訴へ申す、高座郡字鵠沼郷をもって、ほしいままに謀計を巧らみ、今俄に鎌倉郡内と称へ妨げを致すの間、清原安行字新藤太等、伊介神社祝荒本田彦松の頭を打ち破り、神人八人の身を打ち損じ、死門に及ぶ事、

(「神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(2)」伊藤 一美著、「藤沢市文化財調査報告書第42集」藤沢市教育委員会 2007年 所収 3〜4ページから、原文は「神奈川県史 資料編1 古代・中世(1)」からの引用 資料番号778)


大庭御厨自体は元は平景正(鎌倉景正)が開墾した私領を伊勢神宮に寄進して成立した「寄進型荘園」ですが、その一角に「鵠沼郷」があったことがこの文書から読み取れます。原文は上記の通り全て漢文で書かれていますので、当然ながら当時「鵠沼」をどの様に読んでいたのかについては記載がありません。「くゝいぬま」の「よみ」が示された「道者売券写」までは400年あまりの隔たりがあります。


その他に今回の検索で新たに発見できた史料は、次の2点でした。

1つめは「神奈川県史」に掲載されていた「寬永五年十一月 羽鳥村総百姓年貢減免等訴状」という文書です。

乍恐申上候事

一当年近郷辻(堂)三ツ七分ノ取、くゝいぬま(鵠沼)四ツ壱分ノ取、大庭弐百石ノ高ニ而弐百卅(俵)と定納御座候処、羽鳥田畠共六ッ半被仰付候事めいわく仕候、其上近年(取)りを御出、役束御付くりや御させ候事めいわく申候、当年ゟ三ツ半御定被成、取そん処御座候間、けそん御引候て可被下候事、

右之段あら/\申上候、仍如件、

たつ(寛永五カ)ノ十一月七日

羽鳥村

相百姓中

ほしの作兵衛様御申上候、

(「神奈川県史 資料編8 近世5上※」807〜808ページ)



羽鳥村と鵠沼村の位置関係(「今昔マップ on the web」)
羽鳥村は鵠沼村とは引地川を挟んで西隣に位置しています。この史料では最初の項目で羽鳥村の年貢の割合が近隣の村々に比べて高いことを訴えており、その中で鵠沼村も引き合いに出されているのですが、その際に「くゝいぬま」とひらがなで表記された訳です。この訴状では引用した中でも他に「たつ(辰)」「ほしの(人名のため特定困難:星野か)」がひらがな書きになっていますが、引用しなかった中にも「さこ(雑魚)」「とうし(湯治)」「あたみ(熱海)」など、全体的にひらがな書きになっている箇所が目立ちます。恐らくはこの文書の作成者があまり漢字が得意ではなかったためにひらがなで書き留めた箇所が多いのでしょうが、結果的に「鵠沼」の「よみ」が書き留められる貴重な例となりました。

言い方を変えれば、その様な事情がなければなかなか「よみ」が文書に書き留められる例を見出すのは難しいということになりそうです。

もう1点は高橋景保(かげやす)の編纂した「地勢提要」(リンク先は「早稲田大学古典籍総合データベース」)中の記述です。この著書がいつ頃著されたか正確なところは不明ですが、リンク先の写本には文政7年(1824年)の跋があることから、それよりは前に著されていることは確かです。同年には「風土記稿」の編纂のための調査が開始されたばかりですから、景保は「風土記稿」を参照することなく「地勢提要」を書いたことになります。因みにこの書は景保が指導した伊能忠敬の全国測量結果を元に編纂したものですので、その測量の完了よりは後に書かれていると考えられます。

「デジタルコレクション」では「古事類苑 地部4」(神宮司庁古事類苑出版事務所 編 神宮司庁刊 明治29〜大正3年)に採録された相模国の記述がヒットしましたが、念のため出典元を確認したところ、「古事類苑」には基本的にはルビも含めて採録されていることがわかりました。但し、一部に表記の異なる箇所も見えているため、以下は出典元の方から引用しました。

相摸 [高㘴郡]鵠沼(クヽイヌマ) [陶綾郡]國府(コフ)本郷 [足抦下郡]酒匂(サカハ)村 神山村 風祭(カサマツリ)村 [足抦上郡]苅野岩(カノイワ)村 [大住郡]馬入(バニウ)村 [津久井縣(ツクイケン)千木(チキ)良村

(赤枠は[]にて代用、「淘綾」「足柄」など通常とは異なる漢字が使用されている箇所も同書に従う)


この一覧が掲載されているのは「郡邑島岐一竒名異称」の中であるため、景保としてはここに掲げられた村々の名称については「難読」と見立てたということになるのでしょう。その中に「鵠沼(クヽイヌマ)」も含まれていた、ということになります。忠敬が鵠沼村を含む一帯を測量のために訪れたのは享和元年4月22日(1801年6月2日)のことでした(リンク先は鵠沼郷土資料展示室運営委員・渡部 瞭氏「鵠沼を巡る千一話」)。その記録から景保がこの地名を見出した、という流れになりそうです。

今回の「デジタルコレクション」の全文検索では新たに3件の事例を追加出来たに留まりましたが、それらは何れも「くくいぬま」に準じる「よみ」であり、「くげぬま」に準じる「よみ」を記したものを見出すことはありませんでした。因みに、試験中ながら古典籍資料の全文検索が出来る「次世代デジタルライブラリー」でも「くげぬま」「くくいぬま」等の「よみ」で同様に検索を試みていますが、古典籍資料の中にこれらの検索でヒットしたものはありませんでした。

2. 明治〜大正年間


国立国会図書館に所蔵されている蔵書の冊数という点では、どうしても近代的な出版事業が社会に広まってからの方が出版点数が多くなる関係で、明治以降の出版物の方が検索点数という点でも大きくなります。このため、今回の検索でも結果の検証の中心は明治以降の出版物ということになります。

とは言え、「デジタルコレクション」で「鵠沼」を検索すると約21,000件、「くげぬま」でも約1,300件と、ヒットする件数があまりにも膨大なため、今回は明治元年(1868年)を起点に10年刻みに大正年間を含む昭和2年(1927年)までの「よみ」の傾向を集計し、その推移を追う方法を採りました。大正年間までとしたのは、その頃までには現在の「くげぬま」の「よみ」が定着していることへの考慮です。また、基本的には出版時時点の「よみ」が採録されている可能性が高い資料でないと計数の意味がありませんが、時代が下ってしまうと過去の「よみ」の変遷を振り返る様な記述が増えてくる点でも「よみ」定着後の件数を追う意味が薄れていくと判断しました。

「デジタルコレクション」上で今回の検索を実施する際に考慮しなければならない問題の1つが、「デジタルコレクション」では「ルビ」がOCR対象として検出されていないケースが多いことです。「次世代デジタルライブラリー」でOCRの対象になった行の分布を見ても、ルビの箇所を行として正しく認識したケースが少ないことが窺えます。このため、「デジタルコレクション」上を検索する際は「鵠沼」等の漢字表記で検索を行った上で、ヒットした資料を個別に点検してルビが振られているかどうかを確認する必要があります。

もちろん、読みを本文中に取り込んで表記しているケースもありますので、そちらも別途検索しなければなりません。その場合は「くげぬま」「クゲヌマ」の様にひらがな・カタカナの両方での検索が必要になりますし、「くくいぬま」「くくひぬま」「くぐいぬま」の様に濁点や表記の揺れも一通り検索する必要があります。

そこで今回はまず、「くげぬま」「くくいぬま」等の読みでの検索を考え得る限り様々なパターンで試し、更に「鵠沼」で検索してルビなどの形で読みが示されているものを探索しました。以下はそれらの検索結果を集計したものです。参考までに出版物での登場件数の推移を併せて見られる様にする目的で「鵠沼」の検索結果の件数を併せて掲出しましたが、これでわかる通り、ルビなどの形で「よみ」が示されているものはその一部に留まっています。

年代 (10年刻み)「くくいぬま」系「くげぬま」系その他参考:「鵠沼」件数
1868~1877 (明治元~10)0016
1878~1887 (明治11~20)00012
1888~1897 (明治21~30)998140
1898~1907 (明治31~40)189211440
1908~1917 (明治41~大正6)72044748
1918~1927 (大正7~昭和2)918421348
  • それぞれひらがなとカタカナ、及びローマ字の表記を合算している。なお、「沼」については「よみ」のブレが見られないため、「鵠」の方にだけルビが振られている例についても計数の対象とした。
  • 「くくいぬま」系には「くくいぬま」「くぐいぬま」「くくひぬま」「くぐひぬま」の検索結果を合算している。因みに「デジタルコレクション」では繰り返しの「ゝ」などは自動的に直前の文字と置き換えて検索するため、結果的に「ゝ」などを使わない表記と同一件数になる。
  • 同一の資料中に「くくいぬま」系と「くげぬま」系両方が登場する場合は、両方に計数している。

「デジタルコレクション」自身のOCR精度の問題も引き続きありますし、何度か同じ検索キーを指定して検索を繰り返すと、その間に検索結果の表示順序が変わってしまうという現象も確認しましたので、計数の精度を確保するのにかなり難儀しました。上記の結果はOCRが正しく認識しなかった分も加算して調整していますので、「デジタルコレクション」にそれぞれの検索キーを指定した結果よりは多くなる傾向にあります。その調整作業自体のミスなどによって多少の誤差を含んでいる可能性が少なからずありますが、大筋での傾向はそれほど外れていないと思います。

これらの検索結果から、どの様な傾向が読み取れるかについては、長くなりますので次回に譲ります。

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短信:SNS向けのボタンを整理しました

昨年の10月にイーロン・マスクがtwitterを買収して以来、twitterの先行きに疑問を感じてFedibird(マストドン)にアカウントを作り、そちらに次第に軸足を移していきました。現在はtwitterよりもFedibirdで過ごす時間の方が長くなっています。

マストドンはFedibird以外にも多数のサーバ(インスタンス)上で運用される分散型のSNSですが、これらのサーバ向けにブログ上に投稿ボタンを準備するとなると、投稿先のサーバを予め指定する必要があることから、従来のtwitterやFacebookの様な投稿ボタンより複雑な仕掛けが必要になります。

また、最近になってFacebookやInstagramを運営しているメタ社が「threads」というSNSを新たに立ち上げ、僅か数日で数千万アカウントの登録を記録するほどの急激な成長を見せています。他にもtwitterの創業者であるジャック・ドーシーが手掛ける「Bluesky」というSNSもβテストを続けているなど、SNSが更に分散していく動きが出てきました。

こうした流動的な状況の中で、SNSへの投稿ボタンを撤去してブログ記事のタイトルとURLをコピーするボタンだけに切り替えたブログがあるという情報が流れてきました。確かに今となっては、新たに発生するSNSに合わせて個別の投稿ボタンをその都度準備するのも労力に見合わなくなりつつあると思います。また、投稿ボタンを設置したところで大抵の場合投稿先のSNSの画面上で投稿を更に編集できる画面に遷移することが普通で、それであればSNS上でコピーしたタイトルとURLをペーストするのでも手間はさほど変わらないことになります。

今回はこちらのブログを参考にURLコピーボタンを設置することにしました。ボタンの配置やサイズはCSSを調整しています。

この先SNSを巡る諸事情が更に整理されてくる様な状況が起きれば、その状況に合わせてボタンを入れ替えることも再び検討することになると思いますが、それまではひとまずこのボタンで運用することとします。
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