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「石上の渡し→山本橋の記録:小川泰堂「四歳日録」より」補足

先日の記事の追記で、服部清道氏が山本橋の橋銭を「3文」と記述している文献を引用しました。その際にはまだ服部氏が何を典拠にしているのかわかっていなかったのですが、その後その典拠が見つかりましたので、補足として改めて記事を起こすことにしました。

典拠は「現代の藤沢」(加藤徳右衛門著 昭和8年・1933年)という、昭和初期に藤沢町の町会議員を務めていた人物の手による地誌です。ひとりの著者の手による地誌としては800ページに近い大冊で、特に著述された頃の統計が数多く盛り込まれており、当時の状況をかなり仔細に知ることが可能です。現在は、昭和55年(1980年)に「藤沢郷土誌」として復刻刊行された版で読むことができます。

この中で、山本橋の橋銭に関する記述が見られるのは、次の2箇所です。
  • 藤澤驛附近 今をさる四十有五年前までは藤澤宿より江の島道が一本あるのみ。而も人家は庚申堂で盡き右に小高き丘の松原は松汀松原と稱し桃咲く野道で砥上ケ原の里に續いた寂莫たる地點。砥上には農家點々として境川を以て盡き片瀨に隣れるもの。境川は渡船場であつたを明治十二、三年頃架橋し山本橋と稱したは付近一帶の地が片瀨の大地主山本家の所有であつた爲め名付けられたものたるとか。架橋費は山本家と鵠沼村の負擔で渡橋賃を取つたもの。人一人が文久錢一文馬が五文、車も駕も四文であつた。縣道となりて沙汰止みとなつた。架橋されても江の島行の渡船營業は暫らくの間行はれたものたりし。(513ページ)
  • 境川沿岸石上に屬する地點(現在の湘南水通の水源地脇)目標とされた一本の松がありしと、今は河線の變更されて舊川敷其儘に殘壕として空しく荒れ果てける。茲が明治十年頃は砥上の渡船場であつた、以て高座、鎌倉が連絡され其渡し錢は五文であつた。江戸粹人の江の島詣の行程に頗る旅情の纒綿たる處、前面にある川名、片瀨の無名たる連峰の翠綠は決して價なさものでなかつた。就中この風光を眺めつゝ渡し場より水路江之島詣の通路もまた風情たるもの。この川は潮の剌引の利き滿潮を利用して荷足船の出入多く藤澤商業の波上場であつた。藤澤より三浦半島に送る貨物、總房(ママ)よりの鹽干魚も茲に陸上され藤澤に非常な便利を與へた地點は渡船場より下流幾許でもなかつた。其川岸に六左衛門川岸と稱するものありしは鵠沼の豪農六左衛門(現在の齋藤保氏の祖)專用たるものあつたと、蓋し六左衛門は農業のかたはら肥料輪入或は材木其他の輸出入に手を染めたものとか。
     この渡船場も時代の要求に架橋さることゝなり而もそれは有料で渡橋料は三文であつた。而してこの街道も縣道に指定され縣費によりて架橋され料金は徹廢されたのである。(731〜732ページより)

(何れも「藤沢郷土誌」(「現代の藤沢」改題)より、傍注はブログ主)


前者の記述では山本橋の開通時期を「明治12、3年頃」と書いていますが、これは「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」や小川泰堂の示す「明治6年」からはかなり隔たりがあります。「名付けられたものたるとか」という書き方からは、古老などからの聞き取りをそのまま記したものと見受けられます。少なくとも、過去の地誌取調の結果を参照した様には見えません。

服部氏はこの2箇所の記述のうち、後者の記述を採用して「3文」と書いたと言えそうです。何故こちらを選んだのかは不明ですが、明治12年頃には更に新通貨である円が普及していたであろうと考えられますから、どちらの記述も他の史料との照合を経ずにそのまま使うのは問題ありと考えます。特に新通貨の普及事情については、「現代の藤沢」内で関連のありそうな章を一通り探してみましたが、明治時代をかなり下っても江戸時代の旧通貨がその額面のまま通用していたことを示す記述は見当たりません。徳右衛門が何故その点に何も疑問を抱かずに山本橋の橋銭について書いたのか、少なからず気になる問題です。

強いて考えれば、明治初期にはまだ江戸時代の銭貨が補助貨幣の代用として通用していた実情があり、「現代の藤沢」の記述にはその様な当時の実情が反映している可能性も考えられます。もっとも、Wikipediaに

一厘貨幣としては寛永通寳銅一文銭が依然その役割を果たしていた。また、寛永通寳真鍮四文銭は二厘、文久永寳銅四文銭は一厘半、天保通寳當百銭は八厘(明治4年太政官布告第658号)、寛永通寳鉄一文銭は16枚で一厘、および寛永通寳鉄四文銭は8枚で一厘として通用した(明治5年太政官布告第283号)。このうち寛永通寳鉄一文銭および鉄四文銭は明治6年12月25日(正式には1897年の貨幣法施行時に廃止)に、天保通寳は明治24年(1891年)末をもって通用停止となった。鉄銭の通用制限額は五十銭、銅銭は一圓と定められた。

(「日本の補助貨幣 1. 歴史的経緯」より)

とある通り(この経緯は「明治財政史. 第11巻 通貨」(1905年・明治財政史編纂会 編、リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」)等で確認可能)、天保通宝でさえ1銭に満たない極めて低いレートで兌換されていたことが記録されています。となると、「現代の藤沢」の記述通りに寛永通宝を3枚出しても、たった3厘としてしか受け取ってもらえなかったことになってしまい、泰堂が橋銭として支払った「1銭」には遠く満たないことになってしまいます。従って、「藤沢の現代」に見られる橋銭の価格は、少なくともこの通りに江戸時代の文銭を出したということではないと考えることになりそうです。


何れにせよ、藤沢界隈での通貨事情を考える上では更に多くの事例を集めて検証しなければなりませんが、橋銭の様な少額の決済がいつまでも旧通貨でも行われていたと考えるのは、やはり不自然な面があるのは否めません。その点では、山本橋の橋銭については泰堂の「1銭」の方に信憑性があると言えそうです。但し、その後のインフレ事情を考えると、飽くまでもこれは山本橋開通時点の記録として考えておく必要があると思います。「現代の藤沢」の方の旧通貨での橋銭の記述については、上記の様な注釈付きでの紹介に留めるべきではないでしょうか。
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小川泰堂「四歳日録」の地名表記の問題:石神(石上)、鵠沼(くゝいぬま)

前回の記事で、小川泰堂の「四歳日録」(以下「日記」)中に記録された、「石上の渡し」の「山本橋」への切り替えの経緯について、課題と思われる点を幾つか挙げました。その際に泰堂の地名の表記についても挙げようと考えたのですが、文量が多くなりそうなのと、「石上の渡し」の話題からはやや逸れることから、前回の話題からは外しました。今回はこの地名表記の問題に関してまとめてみたいと思います。

まず、「日記」の該当箇所の引用を再掲します。なお、以下「(上)」「(下)」はそれぞれ「藤沢市史料集(二十二) 小川泰堂「四歳日録」(上)」及び「藤沢市史料集(二十三) 小川泰堂「四歳日録」(下)」(以上 藤沢市文書館編集・発行)を指します。

(注:明治六年・1873年 十二月)八日 晴、片瀬へゆく。石神の(わたし)、橋となる。昨七日より人を往來(ゆきゝ)せしむ、橋錢(はしせん)一人一錢なり。こは區長(くてう)山本莊太郎の發起(ほつき)丹誠(たんせい)によるといふ。橋番(はしばん)の男に橋名(はしのな)をとへばいまだ(きか)ずといふ。我れ心中に龍口山(りうかうさん)()の山本氏起立(きりつ)せしゆゑ、龍本橋(りうほんきやう)などありたしと思へり。

((上) 67ページより。以下を含めルビも同書に従っているが、何れも原文に付されているもの。漢字表記も異体字を用いている箇所と現行の漢字を用いている箇所が共存しているが、Unicodeで表記可能な限り同書に従う。括弧内の注と強調はブログ主。なお、以下の「日記」の引用では西暦併記は省略します)



石上(現:鵠沼石上)付近の明治20年測図の地形図(左)と現在の地形図
何れも表記は「石上」で統一されている(「今昔マップ on the web」より)

江島道見取絵図:石上村付近
「江島道見取絵図」石上村付近(再掲)
2ヶ所に「石上」の表記が見え
「石神」は見当たらない
一般には「石上の渡し」と表記される鵠沼の字(現:藤沢市鵠沼石上)を、泰堂はここで「石神」と書いています。この表記について「日記」の他の箇所での表記を探したところ、以下の例を確認出来ました。

  • (明治七年一月)十二日 …毛利(もうり)元昌(げんしやう)石神(いしがみ)の川に(たけ)二尺にあまる大鯉魚(たいりぎよ)()たりとて招かる。

    ((上) 77ページより)

  • (明治七年五月)九日 …この頃とかくに身やましくて打臥(うちふし)かちなるを、八萬(はま)しきりに野遊(やゆう)をすゝむるにぞ。津谷(つや)佐智(さち)家婢(おみな)二人とを(たづさへ)(つへ)を引て石神(いしかみ)(へん)散歩(さんぽ)し、初て(せみ)をきく。阿秋淵(おあきふち)女子(おなご)()(せり)(つま)しめて大いに(きやう)あり。

    ((上) 97ページより、「擕」の字は手偏が「隹」にのみ掛かる形の異体字が用いられている(リンク先はグリフウィキの該当字のページ)。)

  • (明治八年五月)十三日 …此頃(このころ)八萬(はま)とかくに身の不快(ふくはい)(つげ)(うち)ふしがちなるゆゑ、近頃(ちかころ)石神(いしかみ)なる山口莊次郎伊豆(いづ)溫泉(おんせん)汲取(くみとり)病者(びやうしや)(よく)せしむるよしきゝて、これを(たづさ)徐々(じよじよ)として其家(そのいへ)(いた)る。入浴(にうよく)いとこゝろよし、新樓(しんろう)は山本橋に相對(あいたい)眺望(みはらし)又よろし。此樓(このろう)對橋樓(たいきやうろう)など(なづ)けたしと思ひぬ。

    ((下) 33ページより)

  • (明治八年五月)十六日 …けふも亦石神(いしがみ)入浴(にうよく)せり。

    ((下) 34ページより)

  • (明治十年四月)八日 …(くも)る、石亀(いしかめ)なる莊司(しやうじ)溫泉(おんせん)(よく)せんとて、八萬(はま)(たづさ)へて立出(たちいで)たるに、(もゝ)の花今を(さか)りにて目覺(めさむ)るこゝちせり。石亀(いしかめ)には浴室(よくしつ)營繕(えいぜん)(いま)()らすといふ。

    ((下) 177ページより)


最初の4件は何れも「石神」と記しています。その一方、最後の1件は「石亀」で、同日の記述では2ヶ所で同じ表記を用いています。

泰堂は弱冠16歳の頃(文政13年・1830年)に、藤沢宿とその周辺の地誌である「我がすむ里」を書き上げています。こちらでも同様にこの地名の表記例を洗ってみると、
  • 凡例(3ページより):

    …一 東は戸部川首塚、辰己は石神固瀬川、南は一本松の古塚、未申は砥上が原大庭の古城、西は白旗明神、戊亥は本入台、北は新八(やと)にいたる

  • 砂山観音堂(39ページより):

    …これより木部(屋)・蔵前をすぎて庚申堂あり、町の名とす、十町余にして石神の渡船場にいたる、むかしの固瀬川と云も、この辺より海までをいふ

  • 石神大明神(39ページより):

    渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像なり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る、石神の船渡より越行て、左りに駒立山、右に義経の隠れ井戸あり、往還の馬くらい橋ハ馬鞍置橋なり、おきの反切(かへし)いとなる、此辺ハ、文治のむかし義経腰越の宿にて討手の切脱(ぬけ)、こゝに身を逃れし跡とて其名のこれり

  • 固瀬川(52ページより):

    水源二流なり、一流ハ藤沢喜久名橋を流れ、音なし川といひ、一流ハ戸塚より戸部川となり、二流川名橋の辺に会し石神を経て固瀬川とて海に入る、

(以下も含めいずれも「藤沢市史料集(二) 我がすむ里・鶏肋温故」藤沢市文書館編集・発行より、「…」は中略、強調はブログ主)

と、やはり「石神」の表記は見えるものの「石上」は見当たらず、また「日記」に1例だけあった「石亀」も見当たりません。

泰堂が地元の地名表記にどの様な拘りを持っていたのか、その全てをここで検討する余裕はありませんが、ここでどうしても外せないのが「鵠沼」のルビの問題です。件数が多いので全ての例を引用出来ませんが、ここでは出現パターン毎に集計を試みることにしました。その結果が以下の表です。
くゝいぬま38件
  • 明治六年:
    • 1/7
    • 1/26
    • 2/1
    • 2/19
    • 3/28
    • 6/1
    • 6/16
    • 9/2
    • 10/25
    • 11/16
  • 明治七年:
    • 3/14
    • 4/3
    • 4/10
    • 5/18
    • 6/17
    • 8/17
  • 明治八年:
    • 1/6
    • 2/9
    • 7/18
    • 7/27
    • 7/30
    • 8/17
    • 11/17
    • 11/22
    • 11/23
    • 11/25
  • 明治九年:
    • 5/19
    • 8/2
    • 10/21
    • 11/13
    • 12/9
    • 12/17
    • 12/18
  • 明治十年:
    • 1/29
    • 1/31
    • 2/8
    • 3/15
    • 7/4
くゝひぬま2件
  • 明治七年:
    • 12/19
  • 明治八年:
    • 7/10
くゝゐぬま3件
  • 明治八年:
    • 5/18
  • 明治九年:
    • 8/17
    • 9/9
くくいぬま1件
  • 明治九年:
    • 1/6
くぐいぬま1件
  • 明治八年:
    • 10/29
(ルビなし)10件
  • 明治六年:
    • 7/14
    • 8/15
    • 8/17
  • 明治七年:
    • 1/14
    • 1/31
    • 3/18
    • 7/12
    • 7/25
  • 明治九年:
    • 1/7
    • 10/7
鵠村
(ルビなし)
1件
  • 明治七年:
    • 6/19
  • 漢字部分は最後の1例を除き「鵠沼」で共通のため、ルビ部分のみ書き出した。
  • 何れも「日記」の印字で判断しているが、一部印刷が不明瞭のため、表記から解釈したものを含む。

見ての通り、泰堂はルビを振っている全てのケースで、若干の表記のブレは見られるものの「くくいぬま」もしくは「くぐいぬま」と読ませており、現在地名として定着している「くげぬま」は1件もありません。

これに対し「我がすむ里」ではどうなのか、現在の唯一の翻刻本である「藤沢市史料集(二)」では
  • 永勝寺(50ページより):

    …この門前永勝寺横町ハ、鵠沼村神明宮また固瀬・江の島それそれの通路にして、砥上が原、八松原の名所も茲より入を順路とす

  • 神明宮森(51ページより):

    鵠沼村にあり、森のうちに、神明天照皇大神鎮座まします、当社ハ、むかし奈須与市宗高、元暦の闘ひに扇の的を射る時、一心に天照太神を祈念し奉り、難なく其的を射て落し、誉れを一天にあげしより、常陸国真壁郡に母方の所縁あるに依て茲に太神宮を勧請せりと云伝ふ、

  • 西之土居(59ページより):

    …これより引地橋まで、稲荷村分なり、南側同じく坂戸分、御並木九十四間にして、次引地橋まで、鵠沼上村分也、この町屋を車田とよぶ、江の嶌脇道あり、中古まで、台町より車田の辺、多くハ風早とのみ唱へたるや、元政上人の身延紀行に、藤沢のこなた風早といふ處より入りて、龍の口にいたると見へたり

  • 引地橋(59ページより):

    往還にかゝる土橋なり、鵠沼・稲荷・折戸・羽鳥四ケ村の預りなり、橋を渡り、右側すこし稲荷分、養命寺の辺にてハ折戸村なり、左り側四谷まで羽鳥村、この辺すべて大庭の庄と云ふ

(以下も含め、「くの字点」は適宜然るべき表記に展開)

に出現例があるものの、ルビはありません。ですが、その「凡例」には「㈣ 底本にルビがあっても最少限におさえた。」と記されていることから、原本にはルビがあるのではないかと考え、編集と出版を担当した藤沢市文書館に問い合わせてみました。その結果、確かに原本には大半の漢字にルビが振られており、「鵠沼」には「くゝいぬま」「くぐいぬま」の例を見出したとの回答を戴きました。

従って、少なくともこの2例の地名に限っては、泰堂はほぼ生涯に亘ってかなり強い拘りをもって表記をしていたことが窺えます。それだけに、「石神」と拘ってきた泰堂が何故、最後に「石亀」と書いてしまったのかは、少なからず気になるところです。


泰堂が「石神」を「石亀」と書いてしまった理由について、具体的な理由を記したり仄めかしたりしている箇所は「日記」には見当たりません。但し、この「石亀」と記される少し前の箇所に、「日記」には次の下りがあります。

(注:明治十年三月)十五日 晴、寒計(かんけい)三十二度。(きう)には二月朔日(ついたち)なり。けふは大分に(こゝろ)よければ餘義(よき)なき要用(ようよう)ある故に鵠沼(くゝいぬま)試歩(しほ)し齊藤六左衞門をとふ。家におらで(その)歸宅(きたく)をまつ。家人(かじん)洒をすゝめられしかども口中に熱氣(ねつき)ありて(あじわ)()ならず、依てのまず。主人のかへるを(まち)てこれに(めん)してかへる。此夕(このゆふへ)三畱(みとめ)(かつ)を訪ひ要事を(べん)じてかへりて()す。

十六日 晴。

十七日 晴。

十八日 雨。

十九日 晴。

二十日 晴。

二十一日 強雨(がうう)

二十二日 晴、東陽(とうよう)(せがれ)小笠原(あつむ)來る。

二十三日 (くも)る、戸塚驛(とつかえき)木倉屋(きくらや)の母來る。

二十四日 雨ふる、庭の木瓜(ぼけ)花さく。

二十五日 晴、十六日我れ(やまひ)再發(さいはつ)せして人事不省(じんじふせい)なり、人びと混雜(こんぞう)せしかども(おぼ)へす。夜の(あく)るやうに(ようや)く物のあやめも(わか)りて、人心地(ひとこゝち)なりぬ。

((下)175〜176ページより)


泰堂の子孫の方が執筆された「日記」の解説によれば、泰堂は脳梗塞を患っていたと考えられるとのことで、この9日間に及ぶ人事不省のあと4ヶ月ほどで「日記」の執筆を取り止めてしまうのも、病状の進行で体力的に困難になったからと推測されています。その間の日々の天気などの記事は、意識が戻った後に家人などにその間の出来事を尋ねて廻って後記したものでしょうが、やがて「日記」の字に手の自由が効かなくなった影響が出てしまっていることについて記すなど、日を追う毎に困難さが増しているのが窺えます。

「石亀」と書いてしまった日の記事は、そうした身体を少しでも「リハビリ」する目的で、妻と共に2年前に訪れた「山本橋」脇の温泉に出掛けたことを書いている訳ですが、こうした泰堂の病状の影響が「石亀」の表記に現れたのではないかと、つい考えてみたくなります。無論これは憶測の域を出ないことで、事実「日記」では人事不省後の7月4日に、以前と変わらず「鵠沼(くゝいぬま)」と記しているのですから、少なくとも泰堂の病気だけで全てを語ることは出来そうにありません。

ただ一つ言えることは、先日の記事にも見られた通り、「石上」の発音は時に「石亀」の様に聞き取られていたのは確かであり、それは泰堂が何らかの事情でつい「石亀」と書き取ってしまう程に、強い転訛であったということでしょう。隣接する片瀬でも、後に編集された「鎌倉郡川口村郷土誌」(大正2年・1913年)の第2編第5章第3節「方言、訛言」に採録された例の中に
  • 毬彚 イガ(エガ)
  • 煎える ニエル(ネール)
  • 胡蘿蔔 ニンジン(ネンジン)
  • 鳥居 トリイ(トリエ)
  • 綿入 ワタイレ(ワタエレ)
  • 襷 タスキ(タスケ)
  • 銭 ゼニ(ゼネ)
  • 銭入 ゼニイレ(ゼネイレ)

(何れも括弧内が訛言、本文中の出現順(イロハ順))

の様に「i」→「e」の転訛の例が見られます。今となっては、この地域でこうした転訛を聞くことは滅多になくなりましたが、当時はまだ転訛が多く聞かれる土地であったと言えるでしょう。

そして、その転訛の傾向はそのまま「鵠沼」の読みにも現れていたということになりそうです。この点について、鵠沼郷土資料展示室の運営委員であった渡部 瞭氏は次の様に書いています。

1842(天保13)年に刊行された『新編相模國風土記稿』には「鵠沼村久久比奴末牟良」と万葉仮名の読みが記され、「くくひぬまむら」であったことが判る。あるいは「くぐいぬまむら」であったかも知れない。

これが「くげぇぬま」と訛り、さらに「くげぬま」になったと考えられるが、いつの段階から正式地名と認識されるようになったかは、明確な資料に出合っていない。あるいは『新編相模國風土記稿』の時代には既に「くげぬま」と言われていて、「そもそもこれは「久久比奴末」だったのだよ」と、わざわざ読みを加えたとも思われる。

(「鵠沼を巡る千一話/第5話 難読地名鵠沼」より)


泰堂の「日記」はこの「風土記稿」の「久久比奴末」という記録を補強するものであると言えます。藤沢周辺では、「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所と深い関係を持っていた福原高峯が存在しましたが、泰堂が「我がすむ里」を書いたのは昌平坂学問所が相模国全域から地誌取調書上を集めていた頃(文政7〜8年)よりも後(文政13年)であり、昌平坂学問所が「風土記稿」を執筆していた頃には泰堂は藤沢を離れて江戸に拠点を置いていました(天保2〜15年)。こうした年代の「ズレ」を考慮すると、福原高峯とは違って「風土記稿」と泰堂の間の直接的な関係はなく、従って「日記」は「風土記稿」の記述については意識せずに書かれた可能性が高いと考えられます。それにも拘らず、「風土記稿」も「日記」も共に「くくひぬま」と記していることから、少なくとも鵠沼村の名主などの上層部では「くくひぬま」が正式な読みとして共有されていた可能性が一層高まります。

しかし、今のところ「くくいぬま」の音を伝える史料は「新編相模国風土記稿」と泰堂の「我がすむ里」「日記」のみであり、そもそも当時の鵠沼村の「音」を窺い知れる史料がなかなか見つからないのが実情です。江戸時代の紀行文や道中記では、「石上の渡し」の様には「鵠沼」の名が登場する機会が殆ど見られません。東海道は鵠沼村の北境を、江島道は村の東辺を通過していたものの、それらの土地を通過する際に登場する地名は「引地」「車田」そして「石上」といった字名の方が記されるケースが專らで、本村の名称である「鵠沼」が記されるケースが見当たらないからです。また、明治時代初期の公文書やこれに準じる文書では、ルビなどの形で地名の読みを記述するケースがそもそも乏しく、こちらも鵠沼村の「音」を見出す目的では使えません。

鵠沼が自村や周辺地域の記録以外の、外部の人々によって記される様になるのは、明治20年(1887年)の東海道線の開業後間もなく別荘地・保養地として開拓される様になってからのことです。「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められた観光案内書等で当時の記述を探っても、ルビがあるものは基本的に「くげぬま」とあり、「くくいぬま」の音を示しているものは見かけられません。それらの中で最初期に「鵠沼」の名が登場するのは明治25年(1892年)の「全国鉄道名所案内」(野崎左文 著:リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」上の該当ページ)ですが、ここではルビはないものの「鵠ヶ沼」と「ヶ」を間に挟んだ表記が採られているのが目を引きます。通常は「か」や「が」の音を充てられる「ヶ」ですが、「くくいがぬま」という読みの記録は今のところ見つかっておらず、恐らくこの線は薄いと見られるでしょう。むしろ、「くげぬま」と読んだ際の「げ」が「鵠沼」の2文字中に上手く収まらないと著者の野崎左文が考えた故に、「げ」を収める先として「ヶ」を間に挟んだ様に見受けられます。

やがて江之島電氣鐵道が明治35年(1902年)に部分的に開通して「鵠沼駅」が開業すると、ますます多くの観光客が現地を訪れる様になり、その過程で「くげぬま」の読みが一般に定着していったのでしょう。その頃に「くくいぬま」の読みに固執する人が地元にまだいたかどうかは定かではありませんが、少なくとも藤沢近郊の外から鵠沼に訪れた多くの人々には、「くげぬま」以外の「本来の読み」が存在したことは、知られることはなかった様です。

泰堂の「日記」は、この様な藤沢や周辺の地名の変遷を考える上での、ひとつの資料としての側面もあると言えそうです。
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短信:ついに「ルートラボ」「うごけ!道案内」の終了が発表されてしまいました

前回の記事の追記で既にお知らせしましたが、「ルートラボ」や「うごけ!道案内」等のサービスを提供していた「LatLongLab」が、来年3月末で終了することが発表されてしまいました。

LatLongLab サービス終了のお知らせ


「ルートラボ」も「うごけ!道案内」もこのブログでは少なからず地図やプレゼンの作成で活用していましたので、これらのサービスがなくなってしまうのは大変に痛いことです。

このうち「ルートラボ」については、2015年頃に一度Silverlightの廃止への対応の動きが鈍いことを記事にしたことがありました。その後細々とメンテナンスは行われていましたが、結局ビジネスとしては旨味がなかったので、今回の判断になってしまったということなのでしょう。「うごけ!道案内」については初めてサービスが発表された時以来、特に目立った動きはなかったので、あまりユーザがいなかったのが正直なところの様です。

最近はYahoo! Japanに限らず地図サービス全般が、より具体的に大きな収益を得られそうな方向にサービスの選別を強めていると思います。残念なことではありますが、広告事業を展開するツールの1つとして地図を活用する傾向が強い現状下では、「LatLongLab」の様な地理学的なツールはビジネスとしてはなかなか成立させ難いのかも知れません。

何れにせよ、残り8ヶ月ほどで廃止されることは動きませんので、それまでに然るべき措置を執らなければなりません。差し当たって「ルートラボ」の方は「地理院地図」で作図したものに差し替える作業を少しずつ進めています。「標高グラフ」については最初は「ルートラボ」のスクリーンキャプチャを取得して加工する方法を採りましたが、その後「地理院地図」にも標高グラフと同等の機能(「機能>断面図」の項目)が追加されているのに気付いいたため、以後はこちらを利用する様にしました。その他、「地理院地図」と「ルートラボ」の機能の違いを考慮して地図を作成し直しているため、1日に記事1本を処理し切れるかどうかというペースに留まっています。とは言え、作業する内容は基本的に固まっていますので、こちらは作業量以外の問題はありません。

問題なのが「うごけ!道案内」の方で、こちらは同様のサービスが他にありません。私としては作成したプレゼンが再生出来れば良いことなので、YouTubeなどで再生出来る動画に変換出来れば対処出来るのですが、私の古い作業環境ではブラウザ中の動きを動画にダウンロードする手段がなく、どうしたものか考えあぐねています。取り敢えず「LatLongLab」の運営側には動画としてダウンロードする機能を移行手段として準備する様に要望していますが、聞き入れてもらえるかどうかは勿論未知数です。まずは「ルートラボ」の方の作業を着実に進めながら様子を窺うより他ありません。

後日動きがあれば、改めてお知らせをしたいと思います。
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石上の渡し→山本橋の記録:小川泰堂「四歳日録」より

前々回の記事前回の記事で、石上の渡しにまつわる私の過去の記事を再掲しました。その際、石上の渡しや山本橋についてはその後新たな情報を得ていないということを書いたのですが、その直後に別件で分析を始めた資料の中で、偶然石上の渡しから山本橋に切り替えられた頃の記録を見つけました。今回はその記録についてまとめることにしました。

今回調査している資料はこちらです。

藤沢市史料集(二十二) 小川泰堂「四歳日録」(上)

藤沢市史料集(二十三) 小川泰堂「四歳日録」(下)

(以上 藤沢市文書館編集・発行、以下「(上)」「(下)」、または「日記」)


小川泰堂(文化11年・1814年〜明治11年・1878年)は幕末から明治にかけて活躍した藤沢の医師です。「高祖遺文録」「日蓮大士真実伝」といった、日蓮に関する編著作で知られる人ですが、藤沢の地誌として「我がすむ里(藤沢名所図絵)」を弱冠16歳の時に著した人という側面もあります。


「四歳日録」は明治6年(1873年)の元旦から明治10年の7月までの4年あまりにわたって書き続けられた泰堂の日記です。今回この「日記」を紐解いたのは、以前の記事で取り上げた「中空日記」に見られる藤沢宿付近の観天望気に繋がる記述が、何かしら見つけられるかどうかを捜すのが目的だったのですが、その中で偶然山本橋へ切り換えられた翌日の記述を見つけ、それを切っ掛けに山本橋に関連する記述を捜す作業を先に行うことにしました。


明治20年測図の地形図に見られる山本橋と、同地の現在の地形図
この時点では明治6年に架橋された山本橋が存続していたと見られる
(「今昔マップ on the web」)より

「日記」の該当箇所は次の通りです。

(注:十二月)八日 晴、片瀬へゆく。石神の(わたし)口、橋となる。昨七日より人を往來(ゆきゝ)せしむ、橋錢(はしせん)一人一錢なり。こは區長(くてう)山本莊太郎の發起(ほつき)丹誠(たんせい)によるといふ。橋番(はしばん)の男に橋名(はしのな)をとへばいまだ(きか)ずといふ。我れ心中に龍口山(りうかうさん)()の山本氏起立(きりつ)せしゆゑ、龍本橋(りうほんきやう)などありたしと思へり。

((上) 67ページより。以下を含めルビも同書に従っているが、何れも原文に付されているもの。漢字表記も異体字を用いている箇所と現行の漢字を用いている箇所が共存しているが、Unicodeで表記可能な限り同書に従う。括弧内の注はブログ主)


この記述と、「日記」の他の箇所から読み取れることは、概ね次の通りと考えられます。

① 開通日の問題


まず、「日記」に従えば山本橋の開通日(竣工日)は明治6年12月7日だったことになります。今のところ山本橋の開通日を書いている資料はこの日記以外に見ていませんので、現時点では「『四歳日録』に従えば」という留保が外せません。ただ、上記書の解説を執筆された泰堂の御子孫によれば、泰堂は「日記」を書く上で時には下書きを行った上で清書をしていたとのことであり、ルビがまめに振られるなど日記としては他者の目に触れることを意識したかの様な一面も見られることから、この様な記述の精度には相応に気を配ったのではないかと考えられます。

これに対して考えなければならないことが2点ほどあると思います。まず1点目は、前回の記事に登場する「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」の記述には「明治6年10月」と記されていることです。「日記」の日付とは2ヶ月程度のズレがあることになります。「取調書」の方は開通から30年以上経過してからの調査に基づいたものですから、自身の見聞を書き付けているであろう「日記」の記述よりは間接的なものと言わざるを得ません。しかし、そのことを以って一方的に「取調書」の方を誤りと結論付けてしまうのは尚早と言うべきでしょう。同種の記録を更に探索する必要があります。

小川泰堂邸と山本橋等の位置関係
小川泰堂邸と山本橋等の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」「陰翳起伏図」等合成
別ページで表示
2点目は、山本橋の架橋工事の開始時期です。「日記」には架橋中の様子に関する記述は見られません。この橋、あるいは石上の渡しを泰堂が通過するのは、藤沢宿内にあった泰堂の家の位置から考えて、江の島や龍口寺常立寺といった片瀬村(現:藤沢市片瀬)の寺院を訪れる際の途上であったと考えられます。因みに「日記」の記述によれば、泰堂が鎌倉へ行く際には江島道を通らず、手広・常盤を経て長谷へと向かう「かまくらみち」を使うのが常でした。


そこで、山本橋が開通する直前に江の島方面に向かった日の記述を「日記」から探すと、3ヶ月ほど前の同年9月11〜12日だったことがわかります。この2日間に泰堂は自宅と片瀬の間を2往復していることになります。

十一日 曇る、午前七時八萬(はま)(注:泰堂の妻)を(たづさえ)龍口寺(りうかうじ)參詣(さんけい)し、常立寺(じやうりうじ)に一盃をすゝめられ、又茶店(ちやてん)嶋屋(しまや)(なにかし)樓上(ろうしやう)酒飯(しゆはん)し正午人車(じんしや)(たす)けられて(かへ)る。東京より根本明甫(めいほ)・藤懸亥淵(かいえん)・柴田孤松(こしやう)及び藤助・根本の(せかれ)辰麿(たつまろ)五名(とごにん)來訪(らいはう)せり。(よろこん)宴飲(えんいん)(うなが)し午後四時これに(ともなは)れて又片瀬(かたせ)の方に散歩(さんぽ)し、此夜は江の嶋觀濤軒(くはんとうけん)宿(しくす)。…

十二日 朝六時より大雨(たいう)(ぼん)(かたふ)く、午後晴る。常立寺の案内(あんない)にて皆々一齊(いつせい)龍口寺(りうかうじ)(さい)し、仁兵衞・藤助外二名とは至急(しきう)橫濱(よこはま)(いた)るとて發車(はつしや)す。亥淵(がいえん)孤松(こしやう)明甫(めいほ)淸談(せいだん)(あま)りありとて()(たづさ)へて(ともな)ひつれ、我が艸廬(さうろ)(かた)りあかす。…我れ昨日(きのふ)は家に居らず、今日午後(ごゝ)四時(しゝ)還行(かんかう)發輿(はつよ)(注:留守中に寒川神社の御輿が藤沢に来ていたものが帰還する際のことを記している)を拜して燈下(とうか)(しる)す。

((上) 51〜52ページより、以下も含め「…」は中略。なお、「擕」の字は手偏が「隹」にのみ掛かる形の異体字が用いられている(リンク先はグリフウィキの該当字のページ)。また「宴」の字はウ冠(宀)が鍋蓋(亠)に置き換えられた異体字を用いている(グリフウィキにも登録なし)。何れもUnicodeに登録がないためこの字で代用。)


しかし、ここには石上の渡しの名前は全く登場しません。勿論、石上の渡しで山本橋架橋に向けた動きがあった点についても記述はありません。これを、この3ヶ月ほど前の時点ではまだ工事が始められていなかったと解すべきか、それとも泰堂が工事に興味を示さず記述しなかったと見るべきかは、この記述だけではどちらとも解釈できません。

ただ、前回の記事で紹介した「皇国地誌」などの記述から、この橋が木製であったことはわかっており、概ね在来の工法によって築かれたものであろうと推測できます。それであれば、40m弱の橋をこの3ヶ月の間に架けてしまうこと自体は、それほど難しいことではなかったのではないかと思われます。また、先述の「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」の「明治6年10月」という日付も、竣工日ではなく起工日と取り違えた可能性も考えられます。それであれば9月時点では架橋に向けて何ら動きがなかったことになります。

何れにせよ、この点を考える上では更に別の史料が必要です。

② 橋銭の問題


「日記」の記述では橋銭は「ひとり1銭」だったとしています。これは、前回紹介した服部清道氏の「3文」と一致しません。服部氏は「藤沢市史資料 第十一集」の中でこの話を記す際に出典となる文書を示していないので、服部氏が参照している史料がどれなのか、探し出す必要があります。

そもそも、明治4年(1871年)には新たな通貨である「円」が発行されていますから、それから2年あまり経った山本橋開通時点で旧来の通貨による橋銭の支払いが認められていたのか、という問題が服部氏の「3文」という橋銭にはあることになります。ただ、旧通貨から新通貨への切り替えは実際にはスムーズには進まず、旧通貨の新通貨への引き換え停止は何度も繰り延べされて明治の中頃まで続けられています。橋銭についてもその点を配慮して当初は新旧両方の通貨に対して価格を設定せざるを得なかったのかも知れません。そうであれば、泰堂の「1銭」と服部氏の「3文」が同時期に並存していた可能性もあり得ることになります。


因みに、「日記」中で山本橋の橋銭の記述が登場するのはここのみです。その後も泰堂は幾度となく江の島方面に出掛けていますので、その都度橋銭を支払っていた筈ですが、そうした細かい出納については「日記」では滅多に記されていません。

③ 橋の名称の問題


橋番をしていた男性が橋の名を問われて「聞いていない」と答えてます。これは、実際に橋に名前がまだなかったためとも考えられますし、何らかの事情でこの男性に橋の名称が伝わっていなかったためとも考えられます。これも更なる史料収集が必要です。

開通から1年ほど経過した7年12月の「日記」には

(注:十二月)九日 …日仁上人(注:常立寺住職)の誘引(ゆういん)(より)て…片瀬(かたせ)常立寺(しやうりうじ)きに(いこ)ひたるに、…(しい)一泊(いつぱく)をすゝめられしかども、…(いとま)()ぐ。日仁上人…我が(かへ)るを送らる。山本橋にいたる(ころ)日もたそがれけれは、こゝに上人に()し夜をかけて家にかへる。

((上)133ページ、強調はブログ主)

と書いていますので、仮に開通時点で橋の名称が決まっていなかったとしても、その後1年未満で「山本橋」の名称が決まって周知されたことになります。

また、この橋には橋の名称を掲げる橋銘板の掲示が、少なくとも開通時点ではなかった(若しくは目立たない箇所にあって泰堂も橋番の男性も気づき損ねた)ことになります。もっとも、そもそもこの時代に、橋の名称を橋に掲げる習慣がどの程度あったのかについても確認が必要です。

因みに泰堂は橋の名称について個人的な考えを書いていますが、その内容から橋の創立者である山本荘太郎とは知己であったことがわかります。但し、「日記」には泰堂と関係のあった人物の名前が非常に多数登場しますが、その中で山本荘太郎の名前は他に1回登場するのみです。この山本荘太郎については、藤沢市の他の史料に名前が登場しますので、後日それについて取り上げて改めて山本橋との関連を考えてみたいと思います。



この他にも、泰堂が「石上」(現:藤沢市鵠沼石上)を「石神」と表記している点についても検討が必要ですが、これについては他の地名の表記についても一緒に取り上げた方が良さそうですし、そうなると山本橋の話題から若干逸れて行ってしまいますので、これについては次回以降に廻します。

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【過去記事再掲】石上の渡しについて(その2)

前回に引き続き、今回も閉鎖した以前のブログから、「石上の渡し」について私なりに調べてまとめた記事を再掲します。2011年に5回に分けて公開したもののうち、残りの2回です。当時はGoogleブックスで検索してヒットした文献へのリンクを含んでいましたが、今回確認したところ表示出来なくなっていたため、その箇所は書き改めています。

石上の渡しについてはこの記事以降に得た情報が乏しく、現在も当時と私の見解が殆ど変わっていないのが実情です。ただ、明治になって早々に山本橋が架橋された後、県によって架け替えられるまで水害等で落橋したという記録を見ていませんので、在来の工法でもこの位置での架橋は十分に可能であったと言えます。その様な箇所が永きにわたって舟橋として運用されて渡し賃を申し受けていたという実態は、鎌倉幕府の頃からの由緒のある渡河地であったという根拠がなければ考え難いことであり、こうした観点から当時の記録を更に探して検証する必要があると考えています。

④ 紀行文・旅日記から(4)渡し賃の変遷


引き続き、石上の渡しの話題。今度は渡し賃の問題です。

最初に、今回見ることが出来た紀行文(何れも「藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)」所収)から、一通り渡し賃の記されたものを並べてみます。必ずしも石上の渡しであることが明記されていなくても、文脈からこの渡しである可能性が高いものを含みます。

「いせ参宮道中小つかい帳」明和八年[出羽国村山郡楯南村]安孫子周蔵
「八日
 一、弐十壱文 ゑのしま舟ちん、海渡し
 一、八文 ふち沢江の出口渡し
 一、五十文 平つかより馬」
「参宮道中記」安永六年[出羽国村山郡高屋村]今井公七
「…此間ニ舟橋ニ五文出ス」
「伊勢参宮旅日記」文政六年[陸奥国牡鹿郡大瓜村]菊枝楼繁路
「…夫より川有、舟セン五分」(五文の誤り?)
「伊勢道中記」文政九年[出羽国田川郡清川村](藤四郎)
「…次ニ橋賃五文ニ而渡ル」
「道中記」文政十年[出羽国田川郡酒田]石塚長三郎
「…カタ瀬村入口ニ茶屋アリ 出口ニ川アリ、橋賃五文渡レハ、石上村」
「伊勢参宮日記」弘化二年[陸奥国]藤原某氏
「…つなき舟のわたし有、五文ツゝなり」
「伊勢参宮並諸国神社・仏閣礼拝道中記」安政五年[陸奥国閉伊郡(末前村)七瀧]久兵衛
「…十丁斗行て小川小ばしあり拾弐文つゝ」
「御伊勢参宮道中記」文久二年[出羽国田川郡肝煎村]森居権右衛門
「…石神村爰ニ片瀬川ト申川 渡賃拾二文出し」
「旅中安全」文久二年(著者不明)
「一 廿四文 渡船」※この辺り2人での道中と推測
「道中記」年次不詳[出羽国村山郡寒河江]著者不明
「一 江の嶋 …此間さきニ川有、舟ちん五文なり…」

事例が多くなりましたが、幕末の安政年間以降は、当時の政情不安を反映してインフレが進んでいましたので、相応に12文まで渡し賃が跳ね上がっていますが、それ以前は5文で安定していた様です。最後の「道中記」も、逆に5文の船賃から安政年間以前であろうと考えたくなる程です。因みに、「旅中安全」については相模川の渡しまでは3人での道中で、江の島での宿泊が2人に減っているのですが、わざわざ江の島までついて来て宿泊せずに引き返すよりは、江の島へ向かう手前で別れたものと考えた方が辻褄が合うものと考えました。それであれば1人前12文で他の同時代の事例と同じになります。

問題は、最初の安孫子周蔵の事例でしょう。今回見た紀行文の中では最初の事例に当たるのですが、8文とそれ以降よりも高い値段になっています。これをどう解釈すべきか、もう少し詳しく分析する必要があります。

「神奈川の東海道(下)」(神奈川東海道ルネッサンス推進協議会、神奈川新聞社発行)にこの安孫子周蔵の明和8年の紀行文について解説されているのですが(166~169ページ)、この本に従えば周蔵独りでの道中ではなく、3名での道中であったとのこと。そうなると、この渡し賃が1人前なのか3人前なのか、俄に判断し難くなります。3では割り切れない額であることから1人前と考えると、その後の事例よりも高い金額を渡し守に支払ったことになってしまいます。

何故その様なことになったのか、手掛かりになりそうな史料を探っていて、この渡しについての興味深い申し合わせ書が見つかりました。

差上申一札之事(控)

一 石上船賃銭割方之儀、去未年より段々御吟味御座候処、此度 寺社御奉行 土屋能登守様ニおゐて御吟味分明ニ相分、先規之通村一対に罷成候上ハ於渡場初穂奉加として、先年之通り(びた)九貫文宛差上可申儀被御渡候奉畏候。万一違犯仕候ニおゐてハ如何様ニ茂御仕置奉受可申候。右之義共子孫江申伝違背為仕申間敷候。為後証惣百姓連印仕差上申処如件
安永四未年十二月九日
石上村

(以下百姓連名連判8名分、及名主重兵衛署名と印)

御地頭所
御役人衆中

これは「藤沢市史資料 第十一集(服部清道編 藤沢市教育委員会)」に収められていたものですが、編者によれば、「この文書は、石上渡しが漸く幕吏の眼のつけるところとなり、寺社奉行の吟味によって渡場初穂奉加として鐚九貫文宛年々上納することを申し渡されたことについての石上村惣百姓の連印請書である。」とのこと。

徳川光圀もかつてこの地を訪れていることを考えると、幕府が全く関知していなかったというのもおかしなことですが、恐らくはその頃は取るに足らない交通量だったので黙認していたのでしょう。それが、江の島詣でが庶民にも普及してくるにつれて交通量が増え、それに伴って渡し賃収入が膨れたために、幕府としても取り締まることを考えたのではないでしょうか。

そして、この「安永4年(1775年)」という年を上のリストに当てはめてみると、丁度安孫子周蔵(明和8年=1771年)と今井公七(安永6年=1777年)の間に来ます。偶々なのかも知れませんが、その後5文でひとまず安定した事を考えると、どうやらそれまで少々高い渡し賃を吹っ掛けていたことを幕府に咎められた、という見方が出来そうです。実際のところ、上には引用しませんでしたが、周蔵は石上の渡しを8文で渡った同じ日に、馬入の渡しを10文で渡っているのです。2つの河川の規模の違いを考えると、石上の渡しの8文は如何にも割高です。苦情が幕府の耳に入ったとしても不思議ではありません。

そして、その様に考えていくと、この渡しがその後舟橋の運用へと変わっていくのも、幕府に渡し賃を据置かれたために「労力削減」を考える様になったと考えると合点がいきます。野良仕事の合間に渡しの仕事をする手前、あまり人を張り付けて置けないとすれば、舟橋に変えて渡し賃を取る番人だけを置く様になっていったのではないでしょうか。

⑤ 石上の渡し→山本橋へ


「石上の渡し」が明治に入って山本橋へと変わっていくことは既に触れた(再掲時注:先行する記事で「新編相模国風土記稿」の「石上の渡し」の記述を取り上げた際に、「山本橋」への架替について紹介した)通りですが、最後にこの経緯を少し浚ってみたいと思います。

明治初期のローカルな地誌を探るには、まずは「皇国地誌」を紐解くのが妥当な所でしょうか。以下、私が閲覧したのは「藤沢市史料集 11村明細帳 皇国地誌村誌」(藤沢市教育委員会)に収録されていたものです。

まず、鵠沼村の「山本橋」の項には、次の様に記されています。

山本橋 鎌倉府ノ頃武蔵国八王子駅ヨリ府ヘノ往来渡リニシテ天正年間マテハ砥上渡リト唱ヒシヲイツノ頃ヨリカ石神渡リトナリシヲ明治六年片瀬村ノ農山本某ノ発明ニシテ架梁トナスサレハ其旧名ヲ襲フテ砥上橋トコソアルベキニ山本橋ト標セルハ惜ムベシ橋ノ(やや)西ニ今(なお)老松ニ株アリ渡リナリシサマ著ルシ
中央ヨリ東南東字石神土耳砥上ナリニアリ片瀬川ニ架シ鎌倉郡片瀬村ヘ通シ江島往来トス長十七間幅弐間半木製ニシテ修繕ハ本村片瀬両村ノ民費トス

他方、片瀬村の同じ「山本橋」の項には、この様に書かれています。

山本橋 三等往還藤沢駅ヨリ江ノ島鎌倉通ニ架リ村ノ北方片瀬川ノ上流ニアリ本村ヨリ鵠沼村エ通ス水量三尺橋間長二十三間巾二間ノ木製ニシテ山本庄太郎自費修造ス

帝国大学図書館に保管されていたものの震災で焼けてしまったこの「皇国地誌」については、各地方に保管されていた各村分の写しを見るしかありません。渡しの両岸にあった鵠沼村や片瀬村についても、それぞれ地元の旧家に保管されていたものが所収されています。鵠沼村の村誌の奥付には「明治十二年二月一日編成」、片瀬村の方は「明治十年五月」とあり、また鵠沼村の方は神奈川県の役人の名前になっているのに対して片瀬村の方は村の「用掛り」の名前が記されているなど、両資料が編纂の段階の異なるものであることが窺えます。が、何れにしても最終的な彫琢を経る前の、より地元の見立てに近い記述になっているものと考えられます。

このため、両者の記述に齟齬があるのは「新編相模國風土記稿」等と良く似た経緯と考えられるのですが、より詳述することを目指したためか、単なる齟齬では済まない食い違いが現れています。それが上記中私がアンダーラインをした箇所ですが、橋の修繕費の受け持ちについての認識が食い違っているというのは、穏やかな話ではありません。

鵠沼村側の記述を更に良く見ると、架橋を企てた農家の名前が片瀬村の方には「山本庄太郎」と明記されているのに、鵠沼村側が「山本某」とされていたり、「山本橋ト標セルハ惜ムベシ」「今仍老松ニ株アリ渡リナリシサマ著ルシ」と、渡しが廃されてしまったことへの未練と暗に山本橋への批判的な眼差が見え隠れしています。

実は、明治末期に編まれた「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」には、この山本橋について次の様に記されています。

旧クハ藤澤ヨリノ往還ニ船渡アリ、石上渡ト唱ヘ、当村ト鵠沼トノ持ナリシカ、後明治六年十月片瀬ノ豪農山本庄太郎私費ヲ以テ巾弐間半、長廿三間ノ木橋ヲ架シ、橋銭ヲ徴収セシモ、其後明治三十三年ヨリ縣費ヲ以テ架橋スルニ至レリ

つまり、最初に私費で架けられたこの橋は、引き続き通行料を徴収する目的で架けられたものだったのです。服部清道氏によれば橋銭は当初3文であったとしています(藤沢市史資料 第十一集)が、架橋の時期と通貨の切り換えの時期を考えると、この額も早々に円に切り換えられた筈で、その後の物価変動に応じてスライドしていったものと想像出来ます。それはさておき、幕府が無くなって上納金も廃止になったと思われるものの、引き続き「渡し」業務を続けるつもりであった筈が、片瀬村から橋を架けられてしまったことに対して、鵠沼村側が不満に思うところがあったのではないでしょうか。

もっとも、これも上記にある通り神奈川県が改めて費用負担して架橋したことで、最終的に通行量徴収の運用が廃止され、恐らくそれに従って対立も解けたことでしょう。因みに、藤沢から片瀬(今の江ノ島駅)まで江ノ島電気鉄道が開通するのは明治35年、山本橋の県費架橋からは僅か2年後のことでした。江の島詣での参拝客が只でこの橋を渡って行った期間は、さほど長くはなかったと思われます。

なお、初代の山本橋の規模についても鵠沼村と片瀬村とで長さで6間(約10.8m)もの違いがありますが、これをどう判断するかは不明です。但し、片瀬村の方に「水量三尺」とあることから、橋の下の通船を考えて水上90cmほどの空間が出来る様に考慮していたことが窺えます。

「石上の渡し」の件は今回で一旦締めて、後日また何か気付いたことがあれば追記したいと思います。

※引用文中の強調・ルビはブログ主が付けたものです。

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