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「【江島道】「見取絵図」に沿って(その2) 」補遺:「アキラ」について

今回は前回の記事に続いて「七湯の枝折」の「禽獣類」の続きを書く予定だったのですが、もう少し時間が掛かりそうなので、先に別の記事の補足を簡単に記して間を稼ぐことにしました。

以前「江島道」について「江島道見取絵図」に沿って検討を重ねた際に、ラフカディオ・ハーンの「江の島行脚」(「日本瞥見記(原題:“Gilimpses of Unfamiliar Japan”)」所収、明治23年・1890年)の記述をいくつか取り上げました。その際、ハーンに同行していた「アキラ」という青年について、「何者なのか不明」と記しましたが、この「アキラ」について少しだけ新たな情報を得ましたので、その話をもとにもう少し掘り下げてみます。

原文「Glimpses of Unfamiliar Japan」中で
「アキラ」が庚申堂のことを知っていると
ハーンに告げる箇所
ここでは「My guide」と表記しているが、
日本語訳では「アキラ」と意訳している
(Googleブックスより)
ハーンは「日本瞥見記」の中ではこの青年については「Akira」としか記していません。これを受けて「全訳・小泉八雲作品集」(平井 呈一 訳 1964年 恒文社)でも「アキラ」とカタカナ書きで統一しています(一部に「My guide」などアキラのことを指す別の表記を「アキラ」と意訳した場所も含む)。フルネームも不明であった訳ですが、昨年発行された「藤沢市史ブックレット11 幕末・明治、外国人の見た藤沢」(小風 秀雅 2020年 藤沢市文書館)の中で

ガイド役の真辺晃が、庚申の堂なら藤沢村にあると教えてくれた。その庚申の堂は、本街道に面した境内の中にあった。

(上記書83ページ、強調はブログ主、なお、以下とフルネームの漢字表記が異なっているが原文ママ)

と漢字でフルネームを記していたことから、これを手掛かりに関連する資料を探してみました。

その結果、次の論文がCiNii上で公開されているのを見つけました。

ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時」永田 雄次郎(2012年2月 「人文論究」61巻4号 1~21ページ)


この論文中で、「Akira」が「真鍋晃」である根拠については次の様に紹介されています。

「テラ」とチャの叫ぶ声がして、ハーンはついに日本の寺院を横浜で目のあたりにし、石段をかけ登り、山門に歩を進める。富士山と寺院の景観の取り合わせに感激しながら、本堂に彼を招き入れた一人の若い僧侶に出会っている。後に、ハーンの松江赴任にまで同行する「アキラ」こと真鍋晃である。ハーンにとってアキラは、「とても卓越した英語を話す(exclams in excellent English)」人物として、驚きを持って迎え入れられた。東京で学んだというアキラの英語を、「少し妙なアクセントではあるが、上品な言葉を選んで使っている」ともハーンは評している。もちろん、英語を使用する民族に属し、文学に精通する者には当然備わった理解力であるが、この評価は、日本における英語教師として活躍する彼の資質の高さを示していよう。

真言宗の僧、真鍋晃こそは、ハーン来日直後、多大な影響を与えたと言ってもよい人物なのであるが、従来の研究書では、その経歴は不明とされる。その意味では、ハーン研究史上、「謎の人物」として第一に教えられるかも知れない。詳細な伝記的記述がないにしても、真鍋晃の重要な役割は、本稿で次第に明らかになれば幸いであると祈ることにしよう。

アキラは、一八九〇年(明治二三)の「千家宮司邸日記」で、「九月十三日夜、一、同日英国人ラフカジオ・ヘルン通辯人真鍋晃大社参拝候」と記されているところにより、今日、「真鍋晃」と多くの研究書で紹介される。だが、ハーンの著書では、すべて「アキラ」と記される。

(上記書3ページ、注番号省略、強調はブログ主)


この「千家宮司邸日記」については、注に示されている「へるん先生生活記」(梶谷 泰之 1998年 恒文社、1964年 松江今井書店版の再版)中に次の様に解説されています。

九月十三日夜 一、同日英国人ラフカヂオ・ヘルン通辯人真鍋 (アキラ)大社参拝候。御当館ヘモ参殿、御家宝、御書院ニテ拝見許サル。正五位殿、管長殿、御面会、茶菓ヲ饗セラル。

(千家宮司邸日記)

これは…大社の千家宮司邸の日記の記載であるが、…ハーンが初めて杵築(この町名は、大正十四年に大社と改称)の出雲大社を訪問した記録である。ハーンは着任後、二週間目、早くも出雲大社を訪問したのであった。

(上記書67ページ、ルビも同書に従う、…は中略)


つまり、出雲大社の宮司の日記にハーンとアキラが訪問した折の記録が残っていた訳です。初出が1964年ですから、既に50年以上前にアキラの氏名だけは特定できていたことになります。

ただ、上記の論文や文献でも、アキラ青年の経歴は残念ながら不明のままです。「【江島道】「見取絵図」に沿って(その2) 」では私は「アキラがそもそも何者なのかがハーンの記した文章からでは不明なので、あまり有名だったとは思えない庚申堂のことを何故アキラが知っていたのかわかりません」と書いたのですが、これだけアキラの委細が不詳なのであれば、寧ろ逆にアキラが「庚申堂」を知っていた点をアキラの人物像推定に使うべきではないか、という気がしてきました。

江島道:藤沢庚申堂
庚申堂(再掲)
江島道:藤沢庚申堂境内に並ぶ庚申塔群
境内に並ぶ庚申塔群(再掲)

藤沢宿から江の島道沿いにやや南に下った辺りに位置する「庚申堂」は、少なくとも江戸時代の江の島詣などで外部からの旅行客が訪れる様な知名度のあるお堂ではありませんでした。「新編相模国風土記稿」や「江島道見取絵図」の様に包括的な調査を行った結果作成されたものであれば「庚申堂」の記載はありますが、それとてほぼ名前だけの記録です。明治時代も半ばまで進んでハーンが「江の島行脚」で詳細に書き留めるまで、この「庚申堂」の前を通っていると思しき道中記・紀行文で「庚申堂」の名前を記したものは、私が見た限りでは見つかっていません。外部の人々にはほぼ知られていない存在だったと言って良いでしょう。

他方、藤沢宿周辺の江戸時代から明治時代の住民にとっては、「庚申堂」の名は単にこのお堂そのものを指すだけではなく、小川泰堂が「我がすむ里」(「藤沢市史料集」(2)所収)で「庚申堂あり、町の名とす、」と記す通り、お堂周辺の集落を指す「(あざな)」としても用いられていました。実際、同じ泰堂の明治6〜10年の日記である「四歳日録」(「藤沢市史料集」(22)及び(23)所収)でも「庚申堂」の名前は字として頻出します。それであれば、藤沢宿や、宿内に足繁く通う用事があったであろう周辺の村々の人々にとっては、「庚申堂」の名前はその所在地周辺を指し示すものとして周知のものになっていたでしょう。

ですから、もしアキラ自身が初めからこの藤沢宿の「庚申堂」を知っていたのであれば、彼の出身は藤沢宿内か、もしくはその周辺であった可能性が極めて高いと考えるのが妥当ということになるでしょう。

そして、「江の島行脚」の明治23年時点で青年であったアキラが、幼少の頃には廃仏毀釈運動を目の当たりにしている筈にも拘らず仏教に強く帰依した人間として書かれていることから、彼の家系も僧職かそれに近い家柄だったのではないかと推定されます。そうなると、「真鍋晃」という実名共々、アキラについての史料を探す範囲をかなり絞ることが出来るのではないかと考えられます。

但し、「江の島行脚」には脚色を意図した多少の省略があったことは以前の分析でも示しましたので、他の部分に脚色を意図した改変が全く皆無であったことを前提には出来ないと言わざるを得ません。例えば、実際はアキラが人力車の車夫たちに庚申塔をまとめて安置してある場所を知らないか問い合わせて、その結果をハーンに伝えた可能性もないとは言えません。人力車の車夫であればその性質上から一帯の地理については当然の如く熟知していた筈でしょう。それをハーンが記述をシンプルにするために、アキラが車夫とやり取りしていたことを省略して、アキラ自身が庚申堂の存在を知っていたかの様に書き改めている可能性もありそうです。となれば、上記の「藤沢宿内もしくはその周辺出身」というアキラの人物像は成立しないことになってしまいます。

とは言え、史料が極めて限定されている現状では、こうした推定に基づいて更なる史料の探索を行うことには意義があるのではないかと思います。既にこの様な推定の下で行われた調査があるのかも知れませんが、私が探した範囲では該当する調査結果を見出すことが出来ませんでした。機会があればその様なフィールドワークを試みてみたいものです。

因みに、アキラはハーンに従って松江へ赴いたあと、程なく姿を消してしまいます。その事情は詳らかではなく、具体的に辞去した日も明確にされていませんが、ハーン自身が「日本瞥見記」に記しているところでは、

一八九一年七月二十日  杵築にて

アキラはもはやわたくしの身辺にはいない。仏教雑誌の編集をするのだといって、神聖なる仏教の都、京都へ行ってしまった。——自分は神道のことは何も知らないから、出雲にいても大してお役に立つまいと、再三辞退していたのであるが、さて、いなくなられてみると、わたくしはすでに迷い子になったも同然の感がする。

(「第十一章 杵築雑記」冒頭、「全訳・小泉八雲作品集」平井 呈一 訳 1964年 恒文社 326ページ)

と、仏教に帰依する人としては神道の地では活路を見出だせないことをハーンに対して話していた様です。これについて「ラフカディオ・ハーンと石仏の美」では、ハーンとアキラの仲違い説も存在することを紹介しつつも、

時の経過の内に、ハーンの語る思いはいかなるものか、真偽の問題は多少存していようとも、この文学者の寂しさを滲ませた告白は真実であると信じてみたいのである。

(上記書10ページ)

と評しています。ハーンの通訳としての仕事が無くなって辞去した後に、東京など関東方面に戻るのではなく京都へと向かっている辺りも、ハーンの記述通りであればアキラの置かれた立ち位置などを推定する際に使うことができそうです。
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「七湯の枝折」の「禽獣類」(その6:残りの鳥獣類)

たった2行しかない「七湯の枝折」の「禽獣類」の分析に、まさかこれほどの回数に分けて記事を書き続けることになるとは思っていませんでした。前回に引き続き、今回残りの3種についてまとめます。

5. 猿


倭漢三才図会 巻第40「猴」
「和漢三才図会」の「猴」
項目の下に「猿」の字が記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
日本に幅広く生息しているサルは「ニホンザル」で、これは日本固有種です。「和漢三才図会」など本草学では「猴」の字を用いることが多く、「本草綱目啓蒙」にも記される通り、「猿」の字は本来日本に生息しないテナガザルの仲間を指す字であるとのことですが、「七湯の枝折」の「禽獣類」では「猿」の字が用いられていますので、本稿でもこちらで通します。

最近では冬場になると毎年の様に神奈川県内を横断する様に放浪するニホンザルが現れて、見掛けても刺激しない様に住民に注意が呼びかけられたり、農作物等への被害をもたらす存在として駆除の計画が発表されたり実際に駆除されていることが報道されたりして、野生のニホンザルがあまり良いイメージでは語られないことが増えてしまいました。神奈川県内のニホンザルの分布については、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」(神奈川県立生命の星・地球博物館編 2003年 有隣堂)が次の様に記します。

分布:北海道を除く日本列島に分布する日本固有種。神奈川県では藤野町・津久井町と、丹沢山地、西湘地区に分布している。

神奈川県では、藤野町・津久井町に分布する南秋川個体群、丹沢山地個体群(愛川町、厚木市、伊勢原市、秦野市、山北町など)、西湘個体群(南足柄市、小田原市、箱根町、真鶴町、湯河原町)の3つがある。全体で約20群、900頭が生息する。

(上記書34ページ、…は中略、強調はブログ主)

箱根が現在もニホンザルの分布域に入っています。30年ほど前の調査になりますが、「箱根山のサル」(福田 史夫 1992年 晶文社)では、箱根の二子山周辺から南部の外輪山にかけて、全部で7つの群れを見出しています(24~30ページ)。

前回も引用した「東雲草」(雲州亭橘才 文政13年・1830年)の記述では「狐おほふく鹿少し」(「神奈川県郷土資料集成第6集」342ページ、以下の引用も同所から)とありました。実は「猖」の字は「狂った」といった意味で特定の動物を指す用法はありません。また、次の「狐」に掛けて「狂った狐」と解しても意味が上手く通らず、「猪猖」や「猖狐」に何か特別な意味を含めた用法も見当たりません。私の見立てでは、ここは飽くまでも箱根に生息する動物を挙げていると考えられることから、箱根の動物で漢字1文字で表記できるものを探していくと、同じ音を持ち字形も比較的近い「(ショウ)」(猿状の架空の動物やオランウータンを指す)と「(ショウ)」を混同した可能性が最も高いのではないかと考えます。ただ、何故一般的な「猿」や本草学で使われている「猴」ではなく「猩」を選ぼうとしたのか、その意図は不明です。私のこの見立てが正しければ、橘才は当時の箱根の猿が多いと見ていたことになります。


この「東雲草」の記述を別にしても、紀行文中の箱根の猿に関する記述にはなかなか出会うことが出来ませんでした。私が見出したのは今のところ次の2本だけに留まっています。

あけて悔しき箱根山。   峠には四くわんの。    すゐかいを湛へては。

山頭に孤猿(こえん)梢に叫ぶ。   聲(おの)づから凄まじし。

(「上下紀行」徳永種久 元和3年・1617年、「日本紀行文集成 第4巻」297ページ、ルビ一部を除き省略、強調はブログ主)

過函嶺

其二

天正神兵下此城。徒傳五世北條名。崖餘二鼎祠壇古。影落雙峯鏡水清。猿狖已愁蛇倒退。

畑霞無盡鳥哀鳴。欝紆高岫過關去。紫氣遙生富士平。

(「改元紀行」大田南畝 享和元年・1801年、「日本紀行文集成 第3巻」1979年 日本図書センター 773~4ページより、但し漢詩の返り点は「大田南畝全集 第8巻」135ページに従う、…は中略、強調はブログ主)

どちらも箱根の山中の険しさを際立たせる存在として描かれている点が共通しています。

前回の鹿に比べると、猿はあまり積極的に狩猟の対象とされていた様に見えません。「大和本草」でも妊娠した猿を狩猟したところ祟りに遭ったことを挙げて戒めることを書いていますし、「本朝食鑑」では妊娠した猿が猟師に狙われると自らの腹を指し示して懇願すると、狩猟を戒めることを書いています。しかし実際は、当時猿もしばしば狩の対象になっていたことは確かです。

こうした猿の狩猟に関する視点の違いが良く見える例として、箱根のことではありませんが「慊堂日暦」の中で木曽福島に滞在していた時のエピソードを書き出してみます。

(注:文政12年・1829年10月)十四日 早起すれば、山靄(さんあい)は茫然たり。静菴曰く、晴兆なりと。飯後に寓に帰り、まきに入って封君に謁せんとせるも、昨労を以ての故に、臥養すること終日。猟夫は主人に一老猴を(おく)る。蓋し余のために銃するところ、日腹を以ての故にこの惨毒に及ぶ、視るに忍びざるなり。丑刻、たちまち雨ふる。

十五日 なお雨ふる。主人は猴肉を享す。余は食うに忍びざるなり。主人のために(ことさら)(ねぎ)()を食す。蕎麪(そば)条を進むれば甚だ佳し。ここに来ってしばしばこの味を享す、妙は言うべからず。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 6ページより、ルビも同書に従う)

木曽福島の猟師としては、体調を崩して臥せっている慊堂のことを思って、老いた猿を鉄砲で撃って持ってきた訳ですが、当の慊堂にはそのことがわかっていても拒絶感の方が先に立って喉を通らなかった様です。無論、体調を崩した慊堂のために猿を捕らえて来るという発想からは、猿を薬用もしくはそれに近い用法を期待してのことと見られ、

狩にまつわるサルの伝承としては、むしろサルを薬用として使用する慣習の方が重要である。サルをとるのを嫌った西南日本でも、実際にはサルの肉の味を知っている狩人がかなりあるし、サルの胆や脳が薬に用いられることは心得ている。それは、こっそり獲って売買する人があったことを意味するであろう。

サルの脳は黒焼にして神経病にきくと称し、今でも台湾から輸入しているそうである。もとはニホンザルの首を切りとって、鑵または壼に入れ、縄をまきつけた上から粘土を厚く塗り、空気が通わないようにして蒸焼にすると、黒くて表面が銀白色に輝くサルの黒焼ができる。これをサンコヤキといって猟師にたのむ人が多かった。女の血の道の薬という説もある。『本草綱目』にはみえないので、和風の用いかたらしい。あちらでは頭骨を湯に入れてその湯で小児を浴せしめると、ものにおそわれたような症状によいとある。サンコヤキというのは、三光焼の意とも、山猴焼であるとも考えられるがよくわからない。しかし、この製法は西は九州から北は秋田・岩手まで同じである。そして、もし空気が入ると白く灰のようになって効がうすいという点も、まったく同じ話として耳にするのである。

(「ものと人間の文化史14 狩猟伝承」千葉 徳爾 1975年 法政大出版局 144〜145ページより、…は中略)

積極的とは言えないまでも、特別な効能を持った獣として、全国的に狩猟の対象となっていたと考えて良さそうです。

前回まで見てきた様に、「七湯の枝折」作者のふたりが「禽獣類」の項を書くに際しては、箱根の猟師に同地の鳥獣類について話を訊いていた可能性が高いと考えられることから、この「猿」についてもこうした狩猟の実情について話を聞いた可能性も考慮に入れる必要はあると考えます。但し、当時の箱根の狩猟の実情が不明であるうちは、「七湯の枝折」の記述がどの様な局面を意識してのものであったかについては、これ以上は判断材料がないことになります。

6. 兎


倭漢三才図会 巻第38「兎」
「和漢三才図会」の「兎」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「七湯の枝折」の「禽獣類」に挙げられた3種類の哺乳類の中で、一番判断に困るのがこの「兎」かも知れません。「山鴫」と同様に、箱根の「兎」に関する記述を見出す機会が全く無いからです。鹿や猿については触れていた「東雲草」も、兎については記述が見られません。しかも、鹿・猿の様には生息域などのきめ細かい調査が行われていない点も追い打ちを掛けています。


これも「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」から神奈川県内のノウサギの分布についての記述を見ると、

分布:本州・九州・四国の平地から山地まで広く分布する日本固有種。生息する環境も森林・草地など多様である。神奈川県では平地から箱根・丹沢山地のブナ林まで広く生息する。厚木市など都市部の河川敷にも生息している。

と、比較的生息数は多い様に見えます。神奈川県に限らず、全国的に見てもノウサギがレッドデータに何らかの形で登録されている都道府県や地域はありません。

また、箱根町のウェブサイト上の「生きもの図鑑」には

箱根地域のノウサギは、キュウシュウノウサギという亜種で冬でも白くなりません。体重は2~2.5kgで、後ろ足が長く発達しています。

 雪の箱根山地を歩くと、小さな前足の跡が縦に並び、その前に大きな後ろ足の跡が横に並んだ足跡を目にします。これがノウサギの足跡です。ほかにキツネやタヌキ、テン、ニホンリスなどの足跡もあります。

上記サイトより)

今のところ、箱根地域のノウサギについて実情を伝えてくれる文章は、これ以外に見つけられずにいます。

このため、江戸時代の兎については全般的なことしか言えません。「ウサギの日本文化史」(赤田 光男著 1997年 世界思想社)によれば、「ウサギは山野のどこにもいて、比較的容易に捕獲でき」「捕獲数において他の獣より格段の差をもって多数を占める」として、昭和40年および59年の獣類捕獲数でウサギが96%も占めていることを挙げています(147ページ)。ただ、その狩猟の実態について書き記した史料が乏しく、江戸時代の会津藩の各村からの書上帳にもクマの捕獲については記述があってもウサギの捕獲については記述が全く無いことを書き記しています(156ページ)。そして、秋田県のマタギ村各村の狩猟の実態について民俗学的な調査の成果を挙げ、「山に湧くようにいるウサギをワラダや罠という簡単な方法で、あるいは鷹や鉄砲によって仕留め、肉は売却されたり食膳に盛られて山の暮らしを支えた。」とまとめられています(177ページ)。

こうした事例を果たして江戸時代の箱根の狩猟にどの程度適用して良いものか判断しにくい面がありますが、上記のウェブサイト上の「生きもの図鑑」に

昔は今よりも多く生息していたそうで、ほかの地方と同様に「わっか」と呼ばれるくくりわななどで捕獲したそうです。前足が短くて下り坂に弱いのを利用して、山の上から下へ追い、大声を出してノウサギがすくんだところを捕えたこともあったそうです。

獣肉を食べるのを嫌った江戸時代でも、ウサギは鳥の仲間だとこじつけて食べていたくらい、おいしかったそうです。

上記サイトより)

と記していることから、ウサギ猟の実情はさほど大きく異るものではなかったと考えられます。

こういった点を考慮すると、江戸時代の兎が主に食肉用に狩猟の対象となっていたことは確かです。ですからこれも、箱根の狩猟民から「七湯の枝折」の作者の2人に伝えられたと考えるのが自然でしょう。ただ、箱根と兎との結び付きを具体的に思い描くには、あまりにも史料が存在しないのが実情です。

7.「鷹」


梅園禽符「鷹」
「梅園禽符」の「鷹」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、絵が正立する様に回転)
「禽獣類」の項に掲げられた5種類の鳥のうち、唯一「鷹」だけが他の野鳥から引き離されて末尾に置かれています。また、唯一この「鷹」だけが、他の4種と違って特定の「種」と必ずしも結び付けることが出来ない名称が用いられています。勿論、記述はこれだけしかありませんので、「七湯の枝折」の編著者である文窓と弄花が、現在のタカ目またはハヤブサ目(一般に「鷹の仲間」と考えられる種類)に分類される鳥のうちのどれを意識したのかは、全く不明です。

一応、現在のタカ目またはハヤブサ目で箱根地域に生息しているとされているものを挙げてみます。これまで分布図を引用してきた「かながわの鳥図鑑」で箱根地区に何かしらのマークが付いているものを選んでいくと、「ツミ」「サシバ」「ノスリ」「オオタカ」「チョウゲンボウ」「トビ」「ハヤブサ」の7種が該当します。うち、分布図で箱根地域に通年で見られるとされているのは「ノスリ」「チョウゲンボウ」で、残りの種は季節によって渡ってくるとされています。特に「ノスリ」が箱根全域で満遍なく見られる印が付されています。

一方、「箱根の鳥」(箱根町野生鳥類調査団 昭和60年 かなしんブックス⑥)ではこのうち「ノスリ」と「オオタカ」以外の5種に「ハイタカ」が取り上げられていますが、「かながわの鳥図鑑」では「ハイタカ」は「オオタカ」の項目の中でまとめて取り上げられています。

江戸時代の本草学では「鷹」をどの様に認識していたのか、もう少し掘り下げてみます。「大和本草」では

鷹鶻方ヲ案ニ鷹ノ類三種アリ(ハヤブサ)ノ類鷹ノ類鷲ノ類ナリ今案ニ白鷹(オホタカ)(ハイタカ)(クマ)鷹ハ鷹ノ類也中上ニハ(クマ)鷹ヲモ(カフ)テ鳥ヲトラシム(ハヤブサ)サシバナトハ(コツ)ノ類也(ワシ)(トビ)等ハ鷲ノ類也

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビも同書に従う)

と、鷹の仲間が3種類に分かれることを書いています。これに従えば、「鷹」には「鶻」や「鷲」までをも含んで意味する場合と、それらを外してオオタカやハイタカ、クマタカを意味する場合の2通りがあることになります。

他方、「本朝食鑑」では「鷹」「隼」「(はしたか)」「鷲」「(くまたか)」「雎鳩(みさご)」「(とび)」の7種に分類され、「大和本草」で1つにまとめられていたハイタカやクマタカを分けて記述しています。この場合の「鷹」はほぼオオタカを指すことになります。「和漢三才図会」では「鷹」「(はしたか・はいたか)」「雀鷂(すずみだか・つみ)」「(はやぶさ)」「佐之婆(さしば)」「角鷹(くまたか)」「(わし)」「(とび)」「(みさご)」「鷸子(つぶり・つぐり)」「(くそとび)」とかなり細分化されており、「本草綱目啓蒙」では「鷹」の他に「(ワシ)」「(ミサゴ)」「(とび)」に項目が分かれています。本草学でも人により鷹の仲間の分類の仕方が異なっており、その分「鷹」の指す範囲が異なることがわかります。

箱根の「鷹」についての触れた紀行文も、私が今まで見たものの中では見出すことが出来ていません。「東雲草」には「鳥鶏少し、」という記述は見られますが、「鷹」については触れられていません。鷹の場合は狩猟の対象となるよりは、むしろ鷹狩に用いられる方が多かったと考えられるものの、小田原藩では稲葉氏の時代に鷹狩を許可されていた以外には鷹狩の記録がなく、その様な中で箱根の鷹がどの様に位置づけられていたのかも不明です。

その点で、「禽獣類」に「鷹」が何故挙げられたのか、現時点では最も判断が難しいと言わざるを得ません。そもそも、「鷹」の一文字で作者の2名がどの様な鷹の仲間を意識していたのかも判断材料がありません。ただ、トビの様に鳴き声に特徴のある鷹の仲間は多くないことから、道中や宿での滞在中に姿に気付かれる機会はなかなかなかったものと思われます。となると、この「鷹」も箱根の狩猟民などから指摘を受けた可能性が高いことになりますが、箱根との結び付きが薄い上に狩猟等の用途も判断し難く、「禽獣類」のうちに含められた意図を測り兼ねる存在になっています。

これでひとまず「禽獣類」に登場する野鳥や哺乳類について一通り検討したことになりますが、次回もう1回、ここまでの分析を踏まえて「禽獣類」の「七湯の枝折」中での位置付けを考えてみたいと思います。
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「七湯の枝折」の「産物」から

前回、「新編相模国風土記稿」の箱根の温泉村の記述に、「七湯の枝折」の影響が窺えることを紹介しました。折角なのでこの「七湯の枝折」に掲載された箱根の「産物」を、「風土記稿」同様一覧にまとめておくことにしました。

「風土記稿」にも記述があるものについては「◯」を記してあります。既に別の記事で取り上げたものもありますが、今後「風土記稿」の産物を取り上げる際に改めて「七湯の枝折」も参照しながら紹介することになると思います。なお、「山川編」あるいは足柄下郡の図説のどちらかで取り上げられていれば「◯」としましたが、箱根を産地としないもののこれらの一覧に含まれている産品については括弧付きで◯を付けました。

Umebachisou.JPG

ウメバチソウ(Wikipediaより)
こうして見ると、「七湯の枝折」で取り上げられた産物のうち、主要なものは「風土記稿」にも採録されているものの、あまり代表的なものとは言えないものについては「風土記稿」では割愛されたと見て良いでしょう。例えば「一輪草」つまりウメバチソウ自体は箱根に限らず日本の山間でも比較的普通に見られるため、「風土記稿」では箱根の産物としては除外したのではないかと思われます。もっとも、「七湯の枝折」のこの産物一覧の特徴として、「太布」「すね当」あるいは禽獣類など、自然や風物に属するもので必ずしも部外に移出することを意図しているとは考えられないものも多数含まれているので、こうしたものは「風土記稿」でいうところの「産物」には当たらないと判断されて除外されているのかも知れません(はその点では「風土記稿」でも取り上げられたのはかなり異例ではあった訳ですが)。

また、「風土記稿」の産物の並びが当時の本草学で使われていた諸物の並べ方に概ね従っていたのに比べると、「七湯の枝折」の産物の並びはあまり整理されていません。特に主要なものを取り上げた前半部分はほとんど順不同といった風情になっています。以下の表では順序は整理せず出現順に並べてあります。

以前紹介した「山椒魚」がその冒頭に来て記述も特に長くなっていること、絵図が比較的大きく配置されていることから考えると、この「七湯の枝折」自体が箱根の温泉宿に訪れた上客に閲覧させて楽しませることを前提に作成されたことを示しているのかも知れません。「くさめくさ」の何とも奇妙な紹介も、その点では「山椒魚」のやや俗な感じと対をなすものと言えそうです。他方、「柴胡」は既に何度か取り上げた通りですが、他にも「石長生」「箱根蛇骨」など薬用を意識して効能を記しているものが幾つか含まれており、箱根が元来「湯治場」であることを思い起こさせられます。鹿の胎児が取り上げられているのもその一環と言えるでしょう。

その他、茶道の生花に用いる「鉈袋」が取り上げられていたり、その鳴き声から和歌の季語にもなっている「かしか蛙(カジカガエル)」が紹介されているなど、様々な興味を掻き立てられるものが含まれている一覧である様に思います。

「七湯の枝折」産物の図2「七湯の枝折」産物の図1
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色(沢田秀三郎釈註書より)

品目記述風土
記稿
関連
記事

䱱魚図
又山椒ノ魚とも書く
註4黒魚(さんせううを)

小児五疳の妙薬なり功能世人の知る所なれバ略之但し男子にハ雄魚を用ひ女子にハ雌魚を服さしむ此魚のとれる比ハ弥生の末よりう月はしめ比をさかりとす其ある所ハ溪谷清水の流れに住む或ハ丘にもあがり木なとにも登る是をとるに法あり大かた小雨降る夜なと松明をともし身ニハ蓑かさうち着て扨溪川の岩間に右の松明を本のえた杯に立かけいかにもしつかに身をひそめおれバ松明のあかりに付て魚集りよるとそ其時石をとりのけ手つらまへにして竹の筒に入れ持帰る也此竹筒といふハ節一つをこめて切りロヘ少さく穴を穿ち是へせんをさし置也右とりたる魚ハ塩をふりかけて殺し日に干し乾すなり此魚当山ニとるを地魚と唱へて形大キク功尤よろし又大山辺にてとるを旅魚とて形少サく功も又うすし求る人よくよく弁ふべし

1/2

筥根草ノ図
石長生(はこねさう)

筥根山中に生すすへて湿瘡るいニ此悼を煎じて蒸しあらヘバ邪毒を去りかわかすとぞ茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく至て美事也是をすきや箒木に結ハせて用るに甚タ雅なる者也

1/2

一輪草図
又梅草梅花草ともいふ芦の湯に限り生す
(うめばちさう)

此草ハ一茎一葉一花なり花形白梅のことく少しく青色ありて花ひら(コト)ことくかゝえひらく但し秋草にて仲秋の比をさかりとす近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也

明礬
芦の湯明凡山より出ル

芦の湯明ばん山の半腹に明ばんわき出ル所あり其近辺の小石ニ花のごとくまとひ付てあり色ハ少し黄にして青白こもこも交り其製別に出ス

1/2

釣鐘つゝじ

枝葉ハ常の註5躅躑のことく花形つりかねのことく皆下に向てひらく是も又芦湯ニ多し

筥根蛇骨(硅華)

底倉より多く出ル功能血をとゝめ湿瘡なとに麻油ニて解付てよしとす

湯の花
芦ノ湯産也

他國ニくらふれハ此所の湯花白甚タ白し功能硫黄ニ似て少し異なり湿瘡ニよし湯本臺の茶や辺ニて是をあまた見せ先ニひさく

山梨
筥根山の産なり

是を塩ニつけて貯ふニよく酒毒魚毒ヲ解ス或ハ註6硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也

木葉石
色赤し姥子ヨリ出ル

他国ニある所の木葉石といふものハ石質和らかにして木葉の形たしかならす當山ニ出ルハ石甚タかたく木葉の跡あざやかにして至而面白し

虎班竹

筥根山中生ス是太細ありといへとも大概烟管竹位のふとみなり甚奇竹也

鉈袋大小あり

藤かつらにてあみたるものなり樵夫是ヲ腰ニつけて鉈をいれ山路を往来ス茶人此中へかけ筒して花活ニ用ゆ甚タ雅也

くさめくさ

是ヲ干してもみ鼻ニ入るゝにくさめ出ること妙也

砥石袋

樵夫の具也繩ニてあみたるもの也

太布(タフ)

猟師の着物也藤にて織れるもの也是を着して山ニ入るに茨棘も通す事あたわず至て丈夫なるもの也染色大てい鼠多し

すね當

猟師の用るもの也右の太布打着し上ニすねの所へ是ヲつくり観世より又ハ熊の皮ニて作る

◯植物類

註7[酋阝]躅

明ばん山ニ多く生ス

馬酔木

あせみといふ葉ハ茶の葉のことく花ハ至て白く花ひら五ツあり芦の湯辺殊二多し

遅さくら

芦の湯の桜ハ高山故にや花こせて細かし四月ヲ盛とす大てい芳野多し

◯薬品類

細辛/柴胡

筥根山中より出ル功能謄疾をのそく薬店是をかまくら柴胡といふ

1/2

胡黄連

味苦く小児疳症註8驚風を治す

(後日注:「せんぶり」のこと)

神代杉

千石原より多く出る杉戸ニ用ゆ杢細密にて見事なり巾五六尺迄あり

火打石瓦

宮城野辺より出る石質かたく色黒し火の出る事常の石より多しくらまの火打石卜同物也

◯魚虫類

鱒魚

箱根湖水より出ル他国より大キクして味ひよろし

腹赤

同断

()

かしか蛙

堂ケ島の谷川ニアリ其声ひぐらしのことし

ほたる

底倉尤よろし形大キク光至てつよし

(◯)

()

◯禽獣類

鶯 時鳥 雲雀 山鴫 鹿 猿 兎 鷹

右之類いつれも沢山なり取わき鹿の註9腹篭ニ上品あり

1/2/3/
/4/5
/6

◯野菜類

秦の大根

秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

(◯)

註10狗脊

筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

1/2/3

同じく宮城野辺多し

1/2/3

「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 (1975年 箱根町教育委員会)68〜72ページより、くの字点は適宜置換え、字母を拾えなかった漢字については[]内にその旁を示す

[註]:何れも同書より

  1. 黒魚(さんせううを))とあるは後人の補筆なり。以下(石長生(はこねさう))(うめばちそう)(桂華)も同じ。
  2. 躅躑=躑躅(つゝじ)。
  3. 硯ぶた=口取りざかなを盛るひろぶた。
  4. [酋阝]躅=躑躅(つゝじ)。
  5. 驚風=小児脳膜炎の類。
  6. 腹篭=胎児の意で薬用に供すか。
  7. 狗脊=ぜんまい。

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「七湯の枝折」の「禽獣類」(その5:鹿)

「七湯の枝折」の「禽獣類」の検討も随分と長くなってしまいました。前回に続き、この項に記された野鳥や獣を検討します。今回は、「鹿」について見ていきます。

4. 鹿


倭漢三才図会 巻第38「山羊・鹿」
「和漢三才図会」の「鹿」
鹿は江戸時代にも絵画の題材に
取り上げられる機会は多かったが
野鳥の様に本草学の観点でまとめられた絵図集が
哺乳類にはなかなか見当たらない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「七湯の枝折」の「禽獣類」では、ここからは哺乳類が3種取り上げられています。最初に取り上げられているのは「鹿」です。

まずは現在の鹿の分布状況を確認しましょう。神奈川県内のニホンジカの分布について、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」(神奈川県立生命の星・地球博物館編 2003年 有隣堂)では次の様に記します。

分布:北海道、本州、九州、四国、屋久島や慶良間列島などの島々に生息するが、地域によって大きさの変異が大きい。かつては標高の高い山地を除く神奈川県全域に生息していたと考えられるが、現在は丹沢の山麓からブナ帯までの山地に限られている。江戸時代までは平野部に生息していたが、人間の活動が広がるにつれて山地へと追いつめられていった。これは神奈川県だけではなく、関東地方全体にいえることである。箱根のシカは明治時代から大正時代にかけて絶滅し、神奈川県では丹沢だけに生き残った。丹沢のシカは、戦後の占領軍による乱獲や1953~54年のオスジカの狩猟解禁によって、一時激減した。1960年代初めには蛭ヶ岳・丹沢山などを含む主稜部に限られていたが、その後の大規模な植林によってシカに適した草地が増え、数が増大した。シカの生息密度が高い地点では、採食によって植物相に変化がでてきている。餌の条件が悪化したことなどにより、近年捕獲されたシカの角は、一昔前のものより小型化している。近年、分布の拡大が見られ、箱根の山地や平塚市の丘陵地でも目撃されるようになった。

(上記書80~81ページ、強調はブログ主)


つまり、箱根には長らく鹿がいなくなっていて、最近になって再び箱根で見られる様になりつつあるということです。恐らくは丹沢山中で繁殖した鹿が箱根に入り込んで来ているのでしょう。

とは言え江戸時代まで遡れば鹿が箱根にもいたことは確かで、実際に鹿を目撃したと書いている紀行文もあります。

(注:天保10年・1839年4月25日)別れて行に、程なく木賀と塔沢(たふのさは)との道を石にしるしてあり。谷の細道たどり行に、足もとより雲起り、雨ふりくべき空となれば、いそぎ行に、小鹿壱ッ来り、おのれを見て横ざまに草がくれぬ。

「鹿など、かくゆきゝするは、まだ里とほからん。雨ふりきたらばいかにせん」

と、只いそぎにいそぐ。

(「玉匣両温泉路記」(原 正興 天保10年・1839年)より、「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 177~178ページ、ルビも同書に従う、強調はブログ主)


ただ、紀行文などに鹿が登場する際には、鳴き声が聞かれる方が多かった様です。

塔の沢長温泉して聞く鹿の声

(「川柳旅日記 その1 東海道見附宿まで」山本 光正 2011年 同成社 122ページより)

(注:8月)十七日空もさためなけれと心おこして箱根路にかゝる、…日くるゝほと、からうしてあしの湯なる勝間田かりつきぬ、…夜に入てほともなきにしはしまとろむほと鹿のこゑ耳にさゝあてたるやうに二こゑ三声きこゆ、いとかなしくかつはめつらしさに、つま戸おしあけて見れは、雨はやますなから月ほのかにさしいでたり、見れはすこし見おろさるゝ山のをのへに立て鳴なり

雲分て高根の月にやとるよは枕のしたにをしか鳴なり

(「箱根日記」清水浜臣 文化10年・1813年、「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集」神奈川県図書館協会編 1969年 388~389ページ、…は中略、強調はブログ主)

(注:11月)二日、此家に朝夕来ならせるさすり法師、たんさく一ひらとうてゝ、此ゆふへ南おもてにやとりける旅人の、おのれにたひたる也とて、見するを見れは、鹿といふ題にて鳴しかの心のほとはしらねともわか身をつめはあはれなりけり、とかい付いたり、時にふれてあはれならすしもあらねは、おのれさへ身をつみて

秋にしてなきやむ鹿のつまこひは数にもあらぬ思ひなりけり

(「中空日記」香川景樹 文政元年・1818年、「奈良女子大学学術情報センター 江戸時代紀行文集」、改行を一部割愛、強調はブログ主)

湯本橋をわたる。三嶋屋てふあるしは、おのれか好む滑稽をものしけるゆへ、談笑いさゝか時をうつし、笹の葉まなをたうへ歩み出す。此あたりにてをとゝしの秋、鹿のつま恋ふ声を聞むと、やまと歌、あるは唐うた、あるは滑稽をめつる友とち、三たり、よたり、いさなひ、丑みつ過る頃、たち出て、林間に酒をあたゝめ居るを、旅人は山賊と見しおもゝちゆへ、鹿きゝに来りしもの、ともになんあり、心おきなく通り給へかしと言へは、よろこひ通りぬ。

(「凾山紀行」又玄亭楚南 天保3年・1833年、「神奈川県郷土資料集成 第6集」431ページ、強調はブログ主)

「中空日記」の例は秋も深い頃の記述であり、訪れてきた法師が持ち出した歌題ですから、実際には鹿の鳴き声を聞いた訳ではないのでしょうが、箱根の山中に滞在中のひとコマということで、香川景樹も不自然さは感じなかったので、法師の歌題を受け取って一首詠んだのでしょう。「凾山紀行」の著者の「又玄亭楚南」は小田原藩家老であった大久保又右衛門忠洪の俳号で、この例は鹿の声を聞こうと友人を誘い合わせた際の様子を面白おかしく書き記していますが、鹿の鳴き声が箱根の山歩きのお目当てになることもあったことを示す、興味深い例と言えます。「本朝食鑑」でも牡鹿の鳴き声の寂寥を愛でて歌などに詠み込むことが好んで行われていたことが記されていますが、箱根の山中の風景に鹿の鳴き声が合うと見立てる人が多かったということなのかも知れません。

「七湯の枝折」の書き方では、江戸時代には鹿は箱根にたくさんいた様に読めるのですが、「七湯の枝折」と並んで江戸時代の箱根の地誌としても参照される「東雲草」(雲州亭橘才 文政13年・1830年)の記述は

抑、七湯炎暑たりとも(カヤ)かたひらを用るにおよはす、土剛くして家居大躰壁なし、水は自在にてをの/\竹の□土樋也、松、さくら、桃かしは、くぬき□木の用木少し□□□川ともに大石おほく、又竹多く家〻大躰焚ものとす、鮎鱒(アユマス)やまめすくしくあり、鳶鳥鶏少し、鵙鶺鴒(モスセキレイ)多く秋鳴虫更になし、猪猖狐おほふく鹿少し、女は糸機まれに冬は山菅を採置(ミノ)を制す、男は挽物をし、又は湯場にかせきすみやく事を産業とす、然したべ物はよろしくかろきものも平生米を食する也

(「神奈川県郷土資料集成 第6集」341~342ページ、強調はブログ主)

と、鹿は江戸時代にも箱根での生息数は多くなかったとする記述が見られます。

上でも書いた通り、箱根の鹿は明治から大正の頃に一旦絶滅したと考えられていますから、この「東雲草」の記述の通り、箱根の鹿は元々あまり多くなかったのかも知れません。だとすると、箱根で「鹿の鳴き声を聞いた」という紀行文などの記述には、あるいはカジカガエルの声を聞き間違えたものが混ざっている可能性も考える必要がありそうです。鹿の数が多くないのであれば、その分鳴き声を聞く機会も多くはならないと考えられるからです。

さて、「七湯の枝折」の「禽獣類」の中で、「鹿」だけは名前のみではなく追記があります。つまり「取わき鹿の腹篭ニ上品あり」と「鹿の腹篭」というものが紹介されています。引用に使っている箱根町教育委員会版では、「胎児の意で薬用に供すか」と疑問形で注が付されており、委細が良くわからなかった模様です。

この鹿の胎児の薬用については、辛うじて次の様な記述のある本を見出しました。

鹿の胎児の皮で笛を張るというのは、単に軟らかい薄皮というだけで、まじないのような意味ではなかろうかと思うが、この鹿の胎籠りのサゴと呼ぶものは、別に特別の用途があった。つまり、これを黒焼にして産後の肥立ちのよくない女にのませると効果があるとされたのである。早川孝太郎氏によると、明治のはじめ、鹿一頭が全身で五十銭から七十銭の値段で売買された時代に、サゴは一頭が七十五銭から一円もしたという。それはべつに鹿自身の責任ではなくて、人間の側で勝手に価値を認めたにすぎないのだが、このために孕んだ鹿が多くねらわれたことは確かで、それがあのように多数に群れていた鹿を、ついに過去のものにしてしまった一因ということができる。

サゴはもともと白米を指す言葉のオサゴではなかったかと思う。早川氏の郷里の山間に行なわれた鹿の姿を射て豊作を祈る新春の祭儀では、その鹿の模型の腹に白米を(つと)に入れておき、これをサゴと呼んでいた。関東ではひろく神仏に供える白米の紙包をオサゴというが、これはシトギの代用品で、もともと御散供といった言葉らしい。いわゆるウチマキに近いものである。それを模型の鹿の胎内にも入れたので、ついには本物の鹿の胎児をもそう呼ぶことになったのであろう。日本の漢方薬では鹿胎仔と呼び、宮崎県北部の山村ではこれを転用して、生まれて間もない仔鹿までもロクタイジと称しているのと似ている。

それはさておき、ロクタイジは『本草綱目』などには見えず、小野蘭山先生は、鹿胎を薬にすることは『本経逢原』という書にあると説明されている。この書物はあまり著名とは思われないので、おそらくこれを妙薬として用いることは、日本の在来民間医療に出るもので、名称だけを外来語にかりたのではあるまいか。つまり、こうした生命の萌芽の中に、人に活力を与える霊力なども含まれているように感じたことから、これを薬用に供するようになったもので、ここにも一種の鹿に関する信仰の片端がうかがわれる。

(「ものと人間の文化史14 狩猟伝承」千葉 徳爾 1975年 法政大出版局 99〜100ページより)


「本草綱目啓蒙」についての記述が見えますが、「和漢三才図会」や「大和本草」、あるいは「本朝食鑑」では、鹿の胎児の利用については、その皮を笛などに利用することについては触れられているものの、薬用については一切触れられていませんでした。「本草綱目啓蒙」の記述も、鹿の胎児の薬用については「本経逢原」という書物に書いてあることは記しているものの、それがどの様な効能があるのかといった肝心な話には一切触れられていないという、いささか奇妙な書き方になっています。この「本草綱目啓蒙」は小野蘭山の講義録ですから、あるいは実際の講義では効能等に触れられたものの弟子が書き漏らした可能性もあるのですが、ひょっとすると山間の風習で鹿の胎児が重用されていることに、蘭山が疑問を抱いて漢方の原典に当たってみたものの、なかなかそれらしき記述を見いだせなかったというニュアンスでこの様な講義をしたのかも知れません。何れにせよ、そこまで典拠が追いにくいものであれば、日本の鹿の胎児利用は漢方とは関係なく全く日本の山間で独自に編み出されたものと考えて良いのではないか、というのが上の引用の意です。(当段落のリンクは何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」宛)

箱根町教育委員会版が指摘する「薬用」も飽くまでも推測の域を出ておらず、あるいは「和漢三才図会」などに登場する胎児の皮を利用する方を意識していたのかも知れません。先ほどの「ものと人間の文化史14 狩猟伝承」では

薄い動物の皮を椀のような形の器に張り、これを唇でしめして吹くと、発情期の雌鹿の鳴き声のようなビビッという音がする。これを吹くとその音にさそわれて雄鹿が集まってくる。それを射撃してとる猟法が笛鹿で、この発音器が鹿笛あるいはオキなどと呼ばれる。…しかし実際の四国や九州の狩人たちは、木の瘤などを割ってこれにひきがえるの皮あるいは鹿の胎児の皮など、ごくうすい皮を張り、一端を湿して口をあてて吹き、ビビッと鳴らしていた。私は四国の山間で、鹿笛で千頭の鹿をとったので千匹供養をした祖先のことを話してくれた老猟師に会ったことがある。この笛は鹿の腹ごもりの仔の皮を張り、七庚申つまり庚申の日を七回迎えるほどの時間をかけて作ったから、よく鹿がとれるのだという。全財産を失ってもこの笛は手放してはならぬと言い伝えられていたそうである。つまりは、それに値するだけの鹿猟の利益をあげることができると考えられたのであろう。

(上記書98〜99ページより、…は中略、強調はブログ主)

と四国や九州の例が掲げられています。こうした風習が箱根を含む東日本にもあったものかは不明です。

箱根の例では鹿の胎児を薬用にしていたのか、それとも胎児の皮を使っていたのかは判然としませんが、どちらにしてもこうした用途が当時の山間の風習に根差したものであることは変わらない様です。ですからこれも、箱根山中の狩猟民がこの様な風習を「七湯の枝折」の作者である文窓と弄花に伝えたものを、江戸住まいの作者2人が珍しく感じて書き留めたものなのかも知れません。鹿の利用という観点では、肉を食用とする他に角や皮、体毛など幅広い用途が考えられるにも拘らず、敢えて胎児の利用に着目した点に、作者2人の視点が見えるとも感じられます。

因みに、鹿の狩りについては「凾山紀行」の別の場所に

此五月、芦の湯に湯あみせしとき、端午の朝霧のふかきをおしわけ、弓矢を携へ、此石の上にて、毛靭のかまとよりみをかり出し、弓杖をつき、猪鹿や来らんと、下手の横数寄ゆへ、かくなん桑門の□□□手してたゝすむ、折柄霧いよ/\深く、二三間さきも見えさる所に、田夫野人とおほしきをのこ、壱人、誠に鼻つき合せ、おのれを見つけ、胆をつふしにけさるゆへ、恐るゝ者にはあらす、芦の湯に湯あみ中の慰みに、弓矢をもて出たりといへは、今日は御節句ゆへ、お神様かおあそひに御出なされたると、存ましたと云ふゆへ、左あらは、天狗と見たるかといへは、左様に御坐ると答ふて、大わらひせしことを、是またおもひ出し、ひとりゑみをふくむうちに、けふも霧ふかく、小雨ふりけり。

(上記書432ページ)

という記述が見られます。小田原藩家老という立場故の事情もあるでしょうが、箱根に湯治に訪れた客が鹿狩りを試みる例も時にはあった様です。

今回もまた記述が長くなってしまいましたので、再度回を分けます。

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「七湯の枝折」の「禽獣類」(その4:山鴫)

前回は補遺を1回挟む格好になってしまいましたが、改めて「その3」に続き、「七湯の枝折」の「禽獣類」に記された野鳥や獣を検討します。今回は、「山鴫」について見ていきます。

3. 山鴫(やましぎ)


「水谷禽譜」ヤマシギ
「水谷禽譜」より「ヤマシギ」
脚がやや短く頭が少し大きい特徴を書いており
絵もある程度それに倣ったものになっている
頭部の斑も数は異なる様だが反映されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
Scolopax rusticola.jpg
ドイツの鳥類学者ヨハン・フリードリヒ・ノイマンの
図鑑に掲載されたヤマシギの絵
左の絵より実態に近い姿を描けている
後背でミミズ様の餌を啄んでいる
(By Johann Friedrich Naumann
- Naturgeschichte der Vögel Mitteleuropas 1905,
or earlier works., Public Domain,
via Wikimedia Commons

「かながわの鳥図鑑」ヤマシギ分布図
ヤマシギの神奈川県内の分布図
図中の記号の意については前回記事参照のこと
(「かながわの鳥図鑑」96ページより)
ヤマシギは「その3」で検討したウグイスやホトトギスとは少し傾向の違う野鳥と言えます。ウグイスやホトトギスの様には、特徴のある啼声で世間に幅広く知られている鳥とは言えないからです。ヤマシギも全く囀らない訳ではありませんが、その啼声でヤマシギを特定するのは困難と言って良いでしょう。と言ってその容姿が一般の人々にまで広く知られている訳でもなく、基本的には野鳥について詳しくなければ知らない人が多いのが実情でしょう。

従って、箱根八里を越えていったり、箱根の温泉に逗留したりしている最中に、啼声を耳にしてヤマシギの存在に気付く可能性はほぼ皆無に等しく、姿を見掛けてヤマシギであることに気付く可能性も低いであろうと思われます。その点を反映してか、私が調べた限りでは、箱根にまつわる紀行文で「山鴫」の名を見出す事例にはお目にかかっていません。このため、「七湯の枝折」に何故「山鴫」の名が挙げられたのか、その意味する所を推し量り難くなっています。

そこで、ヤマシギの現在と江戸時代当時の状況を全般的に検討して、どの様な意図で「山鴫」が挙げられたのかを推察してみることにします。ヤマシギは現在も「鳥獣保護管理法」の定める「狩猟鳥」のリストに掲載されています。しかし、神奈川県のレッドデータブックでは非繁殖期の「希少種」に挙げられている他、他の都道府県でも準絶滅危惧種以上に指定する都府県が増えているなど、減少が懸念されている野鳥の1つです。「かながわの鳥図鑑」(日本野鳥の会神奈川支部編 1992年)に掲載されている神奈川県の「分布図」にも、普通に見られることを示すマークが付されている地域が1つもありません。箱根エリアでは、仙石原・芦の湯エリアに越冬期にまれに見られることを示すマークが付いているのみです。

裏を返せば、かつては今よりは観察される機会の多い野鳥であったと考えることも出来ます。とは言え、ヤマシギがかつては何処でも普通に見られると言えるほどに数の多い野鳥であったかどうかは、更に検証する必要があります。「七湯の枝折」の「四時勘考」で「春は山鴫が多く住む」と書くのを果たして字義通りに受け取って良いかについても同様です。

では、江戸時代の「山鴫」はどの様に認識されていたのでしょうか。まず、本草学の書物に当たってみると、「山鴫」という単体の項目は存在しないことに気付きます。「和漢三才図会」では「」の項の中に「保度(ホト)鷸」「胸黑(ムナクロ)鷸」などの細目が並び、その細目の1つとして

山鷸一名姥鷸 大ニシテ於杓鷸ヨリ而頭頸胸背灰紫色有黑斑翅尾亦同色ニシテ而有黑纖紋腹赤黑斑ニシテタリ雌雉之色觜長シテ而黑脛灰色常山田溪澗故名山鷸

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と記し、山中の田の渓澗に見られるので「山鷸(鴫)」の名があることを書いています。「本朝食鑑」でも「鴫」の項目中で数々のシギの仲間を挙げ、その終わりの方で

一種大イニ似杓鴫ヨリモ而頭頸胸背淡灰紫色有黒斑翅尾色亦同黒繊紋腹白觜長シテ而居山田溪澗山鴫竹鷄

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、竪点省略)

と説明しています。「大和本草」や「本草綱目啓蒙」では何れも「鷸」の記述の中で「山鷸」の名を挙げるのみで、具体的な説明はほぼありません。

ヤマシギがウグイスなどの様に庶民に飼育されてその存在を知られていた可能性はあるでしょうか。江戸時代の鳥の飼育の指南書では、「喚子鳥(よぶこどり)」の中で「ヤマシギ」の名は無いものの、同じチドリ目の仲間が9種類ほど掲げられ、「ゑがい(餌飼い)」「生ゑ八分あをみ入粉一匁」と飼育が可能である様に書かれています。しかし、その末尾には

右しきの類あらまし如此さしてかひ鳥に用る事なし籠飼よろしからず庭箱又ははなし飼よしゑかひは魚又はむしにて飼なりするゑに付かふべし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と、実際にはあまり飼育に適さないことも記されています。実際、ヤマシギを京都市動物園の野生鳥獣救護センターで保護した際の記録によれば、鳥用のすり餌とミルワーム,コオロギは全く食べてくれず、専らミミズを食していたとのことです。こうした食性を考えると、「喚子鳥」の記述の通りの給餌でチドリ目の野鳥を飼育できたとは考え難いものがあります。こうした点を考慮してか、「大江戸飼い鳥草紙」(細川博昭 2006年 吉川弘文館)では、「江戸時代に日本で飼われていた可能性のある和鳥」(83〜84ページ)の一覧にシギ目の鳥を掲げていません。

飼育されていなかったとすれば、食用などでの利用という側面ではどうでしょうか。上記の主だった本草学の書物では、「本朝食鑑」に肉は「甘温無毒」、効能として「補虛煖人」と記しているのが見え、更に数々の鴫の仲間では「母登鴫(ほとしぎ)」と「胸黒鴫(むなぐろしぎ)」が最良で、「山鴫」はこの2種には劣るけれども他6種ともどもやや良い、と評価しています。また、「和漢三才図会」でも「保登鷸」を最良とし、「胸黒鷸」をこれ次ぐとしていますが、「山鷸」については記載はありません。他方、「大和本草」では全般的に「鷸」の食味を劣っていると否定的な評価を下しています。「本草綱目啓蒙」の本文では「鷸」の食味に関する記述はありません。


一方、「料理物語」(著者不詳 寛永13年・1636年)では「〔しぎ〕汁、いり鳥、やき鳥、こくせう、ほどは、ほねぬきにもよし、其外いろ/\」と、かなり多様な料理方法が記載されています。他の料理本では、例えば「料理無言抄」(舟木伝内包早 享保14年・1729年)には「鷸」には48品目あることを記した上で、それらのシギ類について個別にコメントを記しています。そして、「山鷸」については

山鷸(ヤマシキ) 一名姥鷸(ウバシキ)

杓鷸()ヨリ大ニシテツチクレバトノ如シ頭(クヒ)(ハラ)(ムネ)()灰紫黒斑有羽尾同シ色ニシテ黒細キ紋有腹雌雉(メキジ)二似ル觜長クハギ灰色ツチクレバトニ似味不佳秋初ニ有之澤山ニ有モノ田鴫也

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)

と評価しています。その食味についてあまり前向きなことを書いていないことが気に掛かります。因みに、「鴫には48種」という表現は「献立筌」(宝暦10年・1760年)にも

但し鳥にも甚集類多し…鴫にも四十八しぎといひ伝へ…よって右の魚物に准して惣名にてしるし置く故札一枚なり

(「翻刻 江戸時代料理本集成 第四巻」吉井 始子他翻刻 1979年 臨川書店 134ページより、…は中略、強調はブログ主)

という記述が見られますが、この料理本の中ではそれらのシギについて個別に解説している箇所はありません。


その他にもシギの名前を含んだ料理本としては
などを見つけました(リンク先は何れもCiNii上の論文「古典料理の研究」)。このうち、特定のシギの名前を書いているのは、「ぼとしぎ(タシギの意)」と記した「料理献立早仕組」と、「ぼと鴫」「うば鴫(ヤマシギのこと)」「山鴫」「葉鴫(委細不詳:あるいは「クサシギ」か)」といった名称を見出すことが出来る「小倉山百種献立」のみで、他は何れも「鴫」とのみ記され、「山鴫」を特定して記しているものは「小倉山百種献立」の「山鴫のじわ/\煮」(上記論文269ページ)のみでした。

こうした料理本の傾向を考えると、江戸時代にはシギの仲間を捕らえて食材とすることは比較的一般的に行われていたことはあったものの、「山鴫」だけが取り立てて獲物として重要視されていた訳ではなかったと考えられます。食味という点でもヤマシギを他のシギの仲間との比較で最上とするものは、探した範囲ではありませんでした。


以上の江戸時代の山鴫の諸事情を考え合わせると、「七湯の枝折」の「禽獣類」に取り上げられた「山鴫」は、基本的には食材とするために狩猟された獲物として考えられていた可能性が一番高いのではないかと思われます。そして、シギの仲間を総じて扱うことが多い時代に敢えて「山鴫」と書いていることから考えると、ホトトギスを松崎慊堂に見せた箱根の狩猟民の様な存在が、「七湯の枝折」の作者である文窓と弄花に「山鴫」の名を伝えたのかも知れません。箱根の様な山中であれば、シギの仲間で見掛ける機会が多いのはまず「山鴫」ということになるでしょう。ただ、現状では江戸時代の箱根の狩猟民の実情が良くわからないので、これも飽くまでも類推の域を出ないことは言うまでもありません。


今回もまた記述が長くなってしまいましたので、再度回を分けます。

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