FC2ブログ

「神奈川県植物誌2018 電子版」の発行と、当ブログでの過去の引用箇所との照合(その2)

神奈川県植物誌2018 電子版」(2018年 神奈川県植物誌調査会・編)の発行を受けて取り敢えずの記事を書いてから、続きを程なくアップするつもりが、はや2年以上が経過してしまいました。これまで私のブログ内で「神奈川県植物誌」を引用した箇所について、最新版で書き換えられたり書き加えられた箇所を照合した一覧を作成して掲出するつもりでいたのですが、意外に作業量が多く、なかなか手が付けられないまま歳月が流れてしまう結果となりました。

そこで、「その1」で取り上げた「ムラサキ」についてだけでも、まずは先行して前回版と今回版を並べて掲出すべきと考えました。前回版である「2001年版」の方は以前の記事からの再録ですが、比較のためにそのまま再掲します。

◉2001年版:

ムラサキ属 Lithospermum L.

多年草。葉は互生。萼は基部近くまで深く5裂し、裂片は線形となる。花冠は高盃状または漏斗状で、喉部に5個の条や突起があることもある。分果は卵形、平滑またはしわがある。世界に約60種があり、日本には在来種3種があり、数種が帰化している。

(2) ムラサキ Lithospermum erythrorhizon Siebold & Zucc.

多年草。根は太く、色素シコニンを含み、乾燥すると濃紫色になり染料に用いられれる。茎は直立し開出した粗毛がある。葉は無柄、粗毛が密生し、数本のやや平行した脈が上面に凹んで目立つ。花冠は筒状、先は5裂し平開する。分果は白色で平滑。北海道、本州、四国、九州;東アジアに分布する。県内では、かつては丹沢や箱根の草原に多く点在し(箱根目58、丹沢目61)、山麓や丘陵地にもあった(横植誌68)が、乱獲と環境の変化で今は著しく減少し、県西山地のごく一部に稀に見られるだけである。「神奈川RDB」では絶滅危惧種、「国RDB00」は絶滅危惧ⅠB類とされた。

(1174、1176ページより、「…」は中略)


◉2018年版:

7.ムラサキ属 Lithospermum L.

多年草.葉は互生.萼は基部近くまで深く5裂し,裂片は線形となる.花冠は高盃状または漏斗状で,喉部に5 個の条や突起があることもある.分果は卵形,平滑またはしわがある.世界に約60種があり,日本には在来種3種があり,数種が帰化している.イヌムラサキ属Bunglossoides Moenchやホタルカズラ属Aegonychon Grayを分ける見解(平凡新野生5)があるが,属を広く扱う見解を採用した.

(2)ムラサキ Lithospermum murasaki Siebold; L. erythrorhizon Siebold & Zucc., nom. superfl.

多年草.根は太く,色素シコニンを含み,乾燥すると濃紫色になり染料に用いられる.茎は直立し開出した粗毛がある.葉は無柄,粗毛が密生し,数本のやや平行した脈が上面に凹んで目立つ.花冠は筒状,先は5裂し平開する.分果は白色で平滑.北海道,本州,四国,九州;東アジアに分布する.本種の学名にはL. erythrorhizonが使われてきたが,L. murasakiを正名とする見解が示された(秋山・大場 2016 植研 91: 255-262).県内では,かっては丹沢や箱根の草原に多く点在し(箱根目58,丹沢目61),山麓や丘陵地にもあった(横植誌68)が,乱獲と環境の変化で今は著しく減少し,県西山地のごく一部に稀に見られたにすぎず,1988年の標本を最後に確認されていない.『国RDB15』は絶滅危惧ⅠB類,『神RDB95』は減少種,『神RDB06』は絶滅危惧ⅠA類としたが,絶滅した可能性が高い.一番新しい標本を記しておく.標本:津久井郡藤野町石老山 1988.5.26 浜中義治 KPM-NA1100097.

(1336ページより、「…」は中略、強調はブログ主)


現在の石老山の地形図
一帯は針葉樹林や広葉樹林を示す記号で埋め尽くされている
(「地理院地図」より)
最後に標本が採集された石老山(現:相模原市緑区)のどの辺りで見出されたのか、詳しいことはわかりませんが、多少なりともムラサキの生息に適した草原環境が、当時は残っていたのでしょうか。空中写真や地形図を見る限り、今は森林が広く覆う山に変わっているのは確かです。

このブログでは、主に次の記事で相模国の紫根について取り上げました。

特に「その1」では「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)の中で、箱根外輪山の明神ヶ岳へ登る斜面で紫根を掘り取ったり、足柄上郡宮城野村の茶屋の庭先で掘って来た紫根を天日に干す様子が記されていることを紹介しました。引用にもある通り、当時の斜面は「木立なくして草のみしげれり」と記される様な草原環境で、それが紫根の生育に適していた訳ですが、今はこうした草原環境が平地・山地を問わず激減してしまったことが、ムラサキには大きなダメージとなってしまったと言えるでしょう。

こうした記述が含まれた史料が数多く見つかっている訳ではありませんが、「新編相模国風土記稿」等の記述も含め、当時はまだ紫根が生息できる環境が相模国内に相応にあったものと考えられます。それが、200年足らずの後には全く無くなってしまったことになります。

因みに、「神奈川県植物誌 2018」ではムラサキの項の続きにこんな項目が挙げられています。

*セイヨウムラサキ Lithospermum officinale L.

多年草.ムラサキに似るが茎はよく分枝し,寝た毛が密生,開出粗毛はない.葉はやや密につき,無柄.ヨーロッパ原産.在来のムラサキより栽培しやすいために染料シコニンの材料として使われる.県内産の標本は栽培のものであり野生化していない.

(1338ページより、冒頭の「*」は凡例によれば「県内に確実な分布のないものや栽培種などで参考として取り上げたもの」の意)


栽培種として外来種が持ち込まれているとは気付きませんでした。今のところ県内では野生に逸出した例は見つかっていない様ですが、在来種よりも栽培しやすいという特性を考えると、今後仮に「神奈川県内でムラサキ再発見」という標本が見つかったとしても、外来種との取り違えには気をつける必要はありそうです。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

「地理院地図」リニューアルに伴う埋め込み地図への影響について

今年の3月に、「地理院地図」のリニューアルがアナウンスされていました。

リニューアルされた機能の中で私のブログでも比較的利用する機会が多そうなのは、色別標高図の「自動作成」機能だろうと思いますが、基本的には以前私のブログで紹介した際と本質的に変わったとは感じなかったため、今回は取り上げずにおりました。

しかし最近になって、このリニューアルに際して「地理院地図」をブログ記事に埋め込んだ際のメニューの表示の制御が変更され、当初意図しなかったメニューが表示される様になってしまったことに気付きました。特に一部の地図ではブラウザによってはメニューが大きく表示される様になってしまったために、肝心の地図が表示される面積が殆ど半減してしまい、視認性を損ねているものが出来てしまっていることがわかりました。

地理院地図埋め込みリニューアル後の状態
左側のメニューが大きく表示される様になってしまい、地図が表示される面積が半減してしまった
再掲該当箇所を「地理院地図」上で開く

そこで、ひとまずこの地図のメニューの表示を調整し直すと共に、この地図については標高のカラーリングを「自動作成」機能を使って再作成してみることにしました。「自動作成」だけではメッシュが比較的粗いので、間を更に調整してカラーリングを割り振り直したところ、以前よりも視認性の良いものを作ることができました。

該当箇所を「地理院地図」上で開く


これまで記事中で「地理院地図」を使用した箇所は多数ありますが、表示に支障が出ている箇所は折に触れて直していく予定です。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

「歴史をひもとく藤沢の資料 5 善行地区・湘南大庭地区」(藤沢市文書館)から

ここ5年ほど、藤沢市文書館が年1冊のペースで刊行を続けている「歴史をひもとく藤沢の資料」というシリーズがあります。今年の3月にはその第5弾として「善行地区・湘南大庭地区」が刊行されました(以下「藤沢の資料」)。ここの地区にはかつて、私のブログでも取り上げたことがある「藤沢飛行場」があったので、関連する史料を新たに見つけられる可能性を感じて紐解いてみました。今回は、「藤沢飛行場」に関する記述を中心にこの本を紹介します。

善行公園のストリートビュー
公園敷地内に「善行寺跡」のガイドが見えており
付近から寺のものと考えられる遺物が発掘されたことが紹介されている
「善行地区」は、小田急江ノ島線善行駅を中心に東は境川、西は引地川で区切られた地域です。「湘南大庭地区」はその西隣に当たります。この2地区は江戸時代までの村域界を必ずしも反映せず、1970年代後期に新たな線引きされて出来上がった経緯があること、その関係で江戸時代の大庭村が善行地区と湘南大庭地区に分割されたこと、善行は江戸時代には藤沢宿の所属であったことから善行地区単体で叙述する歴史資料が限られていることなどから、この両地区については併せて取り上げることとしたと説明されています(「善行地区と湘南大庭地区について」26〜27ページ)。

目次の概要は次の様になっています。
  • 画像で見る善行・湘南大庭
  • 善行・湘南大庭の歴史をひもとく
  • 善行・湘南大庭の歴史資料

最初にその地区の画像資料を紹介し、続いてレポート形式でその地区の主だったトピックを解説した上で、この地区の歴史資料の概要を紹介しています。この構成はここまで発行された4巻とも共通しています。また、各巻には何れもCD-ROMが付属し、藤沢市文書館が収集・管理する該当地区の資料の目録がExcelファイル及びPDFとして収められています。

「画像で見る善行・湘南大庭」の章は次の各項から構成されています。「善行・湘南大庭の歴史をひもとく」の章も大筋でこれらの各項を解説しています。
  • 大庭御厨と大庭氏
  • 大庭城の興亡とその跡
  • よみがえる大庭城—発掘調査の成果から—
  • 江戸時代の善行
  • 絵図から見る「相給村」大庭
  • 善行・湘南大庭の旧地形と史跡図
  • 親子二代の民権家(ブログ主注:金子小左衛門・角之助親子)
  • 時代に翻弄された施設—消えたゴルフ場と飛行場—
  • 「住みよいまち造り」に向けて—西部開発の諸相—
  • 写真に見る善行地区・湘南大庭地区の移り変わり


現在も「神奈川県立スポーツセンター」敷地内に残る
旧藤沢ゴルフ場の「グリーンハウス
ストリートビュー
この中ではやはり、中世の大庭城に関する紹介が比較的大きくなっています。また、戦後の湘南大庭地区の「湘南ライフタウン」や善行地区の「善行団地」についても写真や記述が多くなっています。それらに比べると、「藤沢飛行場」や隣接する「藤沢ゴルフ場」については、掲載されている絵図類や記述はやや少なくなっています。そして、両者の中でも「藤沢ゴルフ場」に関する記述の方が多く、「藤沢飛行場」についてはあまり記述は多くありません。

巻末には各項目ごとに参考文献が掲げられていますが、これを見ても「藤沢飛行場」について直接記された文献は見当たりません。関連する項目として戦時中の「藤沢海軍航空隊」に関するものが「藤沢飛行場」について触れている可能性を考えられる程度に留まっています。これらを見ても、「藤沢飛行場」については少なくとも今のところは歴史資料は多くないことが窺えます。実際、CD-ROM中の資料一覧を「飛行場」で検索しても、「藤沢飛行場」に該当するものは3点のみで、これらは何れも写真資料として本書に掲載されています。

その様なこともあり、以前の記事で触れた「厚木道」と「藤沢飛行場」との関係について触れている資料を見出すことは出来ませんでした。しかし、そこに限らなければこの飛行場について新たな知見を得る余地はありそうです。例えば、戦後の飛行場の廃止までの経緯については次の様にまとめられています。

戦後、GHQは日本の航空機の飛行を禁止していたが、昭和25(1950)年に民間航空の再開が決定された。その流れを受けて、藤沢飛行場は、昭和28年2月12日に東洋航空工業株式会社(戦後の国産機第2号であるTT-10練習機の製造元、この1号機は東京都立産業技術高等専門学校科学技術展示館所蔵)によって東洋航空藤沢飛行場として設置が申請され(運輸省告示第44号)、3月28日に飛行場の供用が開始された。また、日本人パイロットによる旅客機の運航を目指すことを目的とした「日本青年飛行連盟」によって、昭和28年12月には藤沢飛行場が訓練基地として確保された。昭和31年には、日本青年飛行連盟と民間航空飛行団体「おおとり会」が合併し、社団法人「日本飛行連盟」となり、民間パイロット養成などを行った。その後日本飛行連盟は、昭和38年11月3日に日本赤十字社直轄の「赤十字飛行隊」(民間パイロットによるボランティア)を結成した。その本格的な初出動が、昭和39年6月の新潟地震であつた。飛行隊は、セスナ機に看護婦と医療品を積んで、液状化で水浸しとなった新潟空港とを往復、延べ8回出動した。(神野2012)

その4か月後の昭和39(1964)年10月31日に、藤沢飛行場は飛行場の供用を廃止した。そして翌年7月に荏原製作所によって、飛行場の跡地に標準ポンプの量産のための工場が竣工した。

(「藤沢の資料」53ページより)


文中に「神野2012」とあるのは巻末の参考文献参照の指示で、「聖マーガレット礼拝堂に祈りが途絶えた日」(神野 正美著 2012年 潮書房光人社)を指しています。同書の223~225ページに、飛行隊のパイロットのひとりである高橋淳氏への聞き取りを中心に関連する記述が見えます。但し、新潟空港の震災被害については詳しい状況の解説はありますが、藤沢飛行場側の委細については触れられていません。

とは言え、藤沢飛行場が廃止される僅か数ヶ月前に、震災被害地への医療物資供給の基地として活用されていたという事実は、今となってはあまり知られていない出来事であり、こうした史実を掘り起こして紹介するのも「藤沢の資料」の制作意義と言えそうです。

また、それだけに直前まで有効利用されていたこの飛行場が、直後に廃止された理由も気になるところですし、実際「赤十字飛行隊」の基地が調布飛行場に移転したのは翌昭和40年と、藤沢飛行場の廃止後しばらく基地が定まらない空白の期間があったことがわかります。が、「藤沢の資料」では廃止の理由については特に何も触れていません。こうした未知の課題について頭出しすることも、こうした資料目録にとって必要なことと言えそうです。

他方、「藤沢の資料」は基本的に藤沢市文書館が保有する資料を紹介するのが目的で編纂された書物ですから、同館が保有しない資料については十分に触れることが出来ない面があるのは当然のことです。実際、「藤沢飛行場」を「東洋航空」が保有してからの事業については充分に触れられておらず、実際、この飛行場が江の島等への遊覧飛行の基地となっていた点については記述が見られません。

とは言え、本書の様な観点で編纂された資料目録は意外に乏しく、地区内の資料の探索には十分に活用出来るものと思います。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

「江島記行 藤沢」(魚屋 北渓)について

新型コロナウィルス禍の煽りで、私が日頃利用している図書館も軒並み閉鎖されてしまっているため、必要に応じて文献を参照しに行くことが出来なくなっています。特に地方史・郷土史関係の書物は、これらの図書館では貸出禁止の扱いとされているものが多いので、貸出業務だけが制限付きで開けられていても目的を果たすことが出来ないのが実情です。

そこで、今回は以前の記事を作成する過程で見つけたものの、結局記事では使う場所を見つけられなかった浮世絵を1枚紹介したいと思います。魚屋 北渓(ととや ほっけい)の「江島記行 藤沢」という絵です。

江島記行 藤沢(魚屋 北渓)
江島記行 藤沢(魚屋 北渓):シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)


この絵の存在を知ったのは「みゆねっとふじさわ」を検索してのことですが、他に「ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)」と「シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)」にも同じ絵が所蔵され、デジタル化されたものが公開されています。上のイメージは、パブリック・ドメインのイメージを許諾なしで利用可能であることが宣言されているシカゴ美術館のものを縮小して掲載しています。

この浮世絵は昨年松露にまつわる2件の日記について調べる過程で見つけたものです。「みゆネットふじさわ」の解説にもある通り、絵の中心で茶屋の娘が客の旅人に「松露通(しょうろかよい)」と記された台帳を手渡しています。絵の上部には2首の狂歌が書かれていますが(ボストン美術館のデジタルコレクションでは、この2首がローマ字で読み解かれています)、どちらも松が取り上げられており、松露は直接詠まれていないものの、藤沢の名物として知られる松露に肖って選ばれたものと考えられます。

「みゆネットふじさわ」の解説によれば、この絵は全部で16枚続きのシリーズのうちの1枚で、現在はそのうちの14枚の所在が確認されているとされています。ボストン美術館のサイトで「Enoshima Kiko」で検索するとその全部がヒットします(15点がヒットしますが、うち「神奈川」に重複があります)。「みゆネットふじさわ」では、この画集は高輪を出発して東海道を下り、江島道を経由して江の島へと旅行した際の記念に制作されたと考えられている、としています。

その様な画集の1点としての藤沢の画題に、名物とされた「松露」を象徴するものが描かれている訳です。藤沢を象徴するものとして松露が取り上げられている画集の例は非常に珍しく、私が調べた限りでは他の例を見つけることが出来ませんでした。松露の流通に携わる人の姿を記録したものは、今のところこれが唯一と言えそうですし、この絵に登場する「松露通」の存在を確認出来るものも、この絵以外には見ていません。

もっとも、それだけに現状では当時こうした松露の買い付けを行っていた彼らの活動の実情を明かす史料が何も見つかっていないのが実情です。今はこの絵を手掛かりに、その裏付けとなる史料が見つかるのを待つしかありません。

一方、この絵で私が気になるのは、この絵の構図です。特に、松露の買い付け人の2人が「左へ」向かおうとしている点が引っ掛かります。

藤沢宿周辺と富士山の位置関係
藤沢宿周辺と富士山の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:別ページで表示
この絵では右側に描かれた茶屋から左にかけて、道がやや登り加減に描かれています。そしてその向こうに、富士山が見える様に描かれています。しかし、藤沢界隈の街道の中に、この条件に合致する場所が思い当たりません。富士山は藤沢からはほぼ西側に位置します。大鋸橋の西側では旧東海道はほぼ東西に伸びていますので、この区間が該当することはありません。大鋸橋の東側の旧東海道は北東から南西に向かいますので、この区間なら富士山が見えている可能性はありますが、道はほぼ平坦か、むしろ遊行寺に向かって降りて行く点が合いません。江島道に入れば、巌不動尊へ向かう辺りに上り坂がありますが、「江島道見取絵図」ではこの辺りには建物が描かれておらず、茶屋の存在が合いません。そもそも、「みゆネットふじさわ」の解説が「峠」と書く通り、茶屋はかなり高い場所に位置していた構図になっていますが、江島道にはそこまで高い場所に登って来る区間がありません。

従って、この絵は実景を描写したと考えるよりは、北渓が自由に発想して構図を決めた可能性が高いと考えられます。しかし、先述した通りこの絵は江の島への道中を描いた画集の1枚であることから、構図を考える上でも自らが歩いて眺めたであろう風景を念頭には置いたと思えます。

つまり、この富士山が見える様に描かれた構図では、江戸方が絵の「右」に来る位置関係にあったことは北渓も見ていた筈だろうと思います。その絵の中で買い付け人の2人が「左へ」向かおうとする構図を採ったということは、江戸とは反対方向に向かう様に北渓が描いたことになります。彼らが「松露通」を茶屋に置き忘れたのは、茶屋で荷物からその帳簿を取り出して広げていたらしい(つまり仕入れの記録を見返していた)と推察出来ます。そのことや、数多くの行李を背負う姿から、彼らは松露の仕入れは済ませた様に見えますが、それで江戸から離れる方へ向かうとなれば、彼らは江戸とは別の場所で松露を売り捌こうとしていることになります。

無論、北渓が何処まで実景を意識して構図を決めたと言えるか、現時点ではかなり心許ない面があります。しかし、北斎の門人という絵師が、絵から受け取る印象にそこまで無頓着であったとも思えません。少なくとも、買い付け人たちが江戸以外へ向かおうとする姿を描くことに、北渓が違和感を感じずにいた様に見えます。

昨年の記事で紹介した日記には、松露は江戸の他に大山道の中途にあった子安(と思われる地)へと運ばれていた記録がありました。こうした記録の事例が少ないので、松露の出荷先を列挙するにはまだ足りませんが、北渓のこの絵は江戸以外へと持ち込まれる松露の量が意外と少なくなかったことを、暗示するものになるのかも知れません。勿論、飽くまでこれも絵から受ける印象に留まっていますので、江戸以外での松露の消費事例を示す史料をもっと捜す必要があることを、示唆されていると受け取るべきでしょう。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

「柿について:「新編相模国風土記稿」から(その3)」補足:「金手丸」の記事について

以前の記事で、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)を取り上げた際、同書では柿の産地として全部で10ヶ村の名を挙げ、更にその中から金手村(現:大井町金手)の柿を「金手丸」と称して特に良質であることを記していたにも拘らず、同書以外に「金手丸」の記録を見出すことが出来ないと紹介しました。

最近になって、現地に「金手丸」の木とされる柿の木がまだ現存するという記事が、数年前のタウン誌「タウンニュース」に掲載されていたことを知りました。記事が発表されてから既に4年近くが経過していますが、以前の記事との関係を書き留めておく意味で取り上げることにしました。

大井町固有種の柿 「金手丸」風前の灯 現存3本、江戸時代に珍重の品」(「タウンニュース」足柄版 2016年11月19日号)


記事にはその柿の木のうちの1本の写真が掲載されています。背景に所有者の家屋の蔵と見受けられる建物が写っており、江戸時代にはこの様な柿が主に庭や畑の畦で栽培されていたという景観と一致しています。記事中に見える通り、幹の下の方に大きな「うろ」が空いてしまっているのがわかります。記事の日付から晩秋に近い季節ということもあり、既にかなり葉が落ちた状態で、枝に残った柿の実が良く見えていますが、記事で指摘されている樹勢が弱ってきているという点がどの程度のものか、この状態からは良くわかりません。

この記事で紹介されている持ち主の方が投稿された柿の花の写真が、大井町のサイトに掲載されています。「タウンニュース」の記事の翌年の撮影ということになりますので、その後も生息はしている様です。ただ、その後を伝える記事はネット上を検索した限りでは見当たりませんでした。

「タウンニュース」の記事では、この柿の木の分析が試みられているとされていますが、どの様な調査が行われているのか、またその結果が出たのかが気になります。江戸時代に「金手丸」と呼ばれた柿がどの様な素性のものであったのかが解明されれば、この地で柿が栽培される様になった経緯などを考えるよすがになるのかも知れません。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

NEXT≫