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短信:【江島道】大源太公園付近のストリートビューが一部更新されました

一昨年の3月頃、大源太公園敷地内に江島弁財天道標が移設されたことを短信で紹介しました。その時点ではまだGoogleマップのストリートビューには反映されていませんでしたので、更新されたのを確認次第追記する旨予告していました。

先日久々に同地のストリートビューを確認したところ、一部ですが更新されているのを見つけました。公園の植樹の根元に小さなスペースを確保して、そこに石段を設けているのが確認出来ます。Googleマップ上でこのストリートビューを表示させると昨年2018年8月の撮影と表示が出ますが、この表示箇所に仕込まれたプルダウンによって過去のストリートビューを閲覧出来ますので、直前の2017年時点との比較をすることが可能です。


ストリートビュー

但し、更新されたのはかつての江島道上の分だけで、これですと道標まで距離があり過ぎて委細は良く見えていません。もう少し近い地点のストリートビューを見ようとすると、道標移設前の2017年2月撮影分が出て来てしまいます。因みに、公園の向かいの民家でも工事前の光景が写っています。


ストリートビュー

こちらの道はマンションの構内を周回するのみで通り抜けは出来ませんので、住民や配送などの目的がある車両以外は基本的に入って来ない道であるために、更新されずに残ったのでしょう。その性質を考えるとこの道のストリートビューが更新されるまでは時間が掛かりそうです。

現在ストリートビューに写っている範囲では、移設された道標の傍らにガイドが併設されているのは確認出来るものの、その内容までは判読は出来ません。同地を訪れた方々の写真を拝見する限り、基本的には、道標についての簡単な解説と、道標が片瀬市民センターの敷地からこの公園へと移設された経緯が記されている様です。道標本体は角が一部欠損するなど経年の影響は否めませんが、比較的良好な状態が保たれている様に見受けられます。末長く保存されることを願いたいところです。
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短信:国立国会図書館のDOI(Digital Object Identifier)対応について

先日、国立国会図書館よりDOI(Digital Object Identifier)対応についてのプレスリリースが公開されました。

「DOI」について、プレスリリース(リンク先PDF)では次の様に説明されています。

コンテンツの電子データに付与される永続的識別子で、世界的に流通 しています。"https://doi.org/"にDOIを続けることでURLとして機能し、永続的なリンクとすることができます。国際規格「DOI System」(ISO 26324)。


「永続的」であることから、万一元の公開URLに変更が加わった場合でも、リンク切れを起こしにくくなることが期待される機能です。私のこのブログからは、「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)へのリンクを中心に100を超えるリンクが既に張られている状態であり、今後のリンク切れ対応の可能性が減るのであれば、今からリンク先をDOIに切り替えるのも有意義かも知れないと思い、私のブログ中のリンクの切り替えを検討しました。

しかし、「デジタルコレクション」中の個々の資料へのリンクを張る場合、その中の「コマ番号」(ページに相当する)まで含めて指定することが出来るのですが、DOI経由の場合には「コマ番号」を指定することが出来ないことがわかりました。この点について国立国会図書館宛に問い合わせたところ、現時点ではDOIで「コマ番号」を指定出来る様にする予定はないとのことで、また現行の「デジタルコレクション」へのリンクURLも持続的に提供する想定であるとの回答を得ました。

このことから、私のブログ中のリンクURLもそのままとし、今後新たにリンクを追加する場合も当面「デジタルコレクション」へ直接リンクする方向で統一することにしました。国立国会図書館のコンテンツとしては過去には「近代デジタルライブラリー」があり、これが「デジタルコレクション」に統合された際にURLが変更されたケースがあります。こうしたケースが今後全くないとは言えませんが、少なくとも当面は頻発することではないと思われます。

その点では、今のところDOIを永続的なURLとして利用する様な動機には乏しい様に見受けられます。しかし、DOIがISO規格の中に組み入れられていることから、国際標準を優先的に利用することが推奨される様な局面ではDOIが活用されることになるのかも知れません。
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【図録紹介】「絵図でめぐる川崎—失われた景観をさぐる」(川崎市市民ミュージアム)

前回平塚市博物館で2017年に催された特別展「ひらつかの村絵図を読む」(以下「ひらつか」)の図録を紹介しました。その中で、神奈川県内の村絵図類をまとめた出版物の一例として、川崎市の「絵図でめぐる川崎-失われた景観をさぐる-」(2010年、以下「川崎」)を挙げました。

このブログでは主に江戸時代の相模国域のことを取り上げて来ているため、武蔵国(主に橘樹郡)に属していた川崎市域を取り上げる機会は多くありませんでした。東海道の六郷の渡し川崎宿を取り上げたのが主なものになりますが、近代まで時代が下ったり、現在明らかになっている地形・地質に関する知見を中心に記事を組み立てたこともあり、近世の村絵図を検討する展開にはなりませんでした。このため、手元の「川崎」の図録を活用する機会に恵まれませんでしたが、前回の記事で僅かながら触れたこともあり、この機会に簡単に目次をまとめておくことにしました。

この図録は104ページと、郷土史の特別展の図録としてはページ数が多く、更に別冊でトレース図集(29ページ)が付随しています。絵図の方は全てフルカラー刷りになっているのに対し、トレース図はモノクロの線描図になっていますので、カラー印刷のコストを多少なりとも抑える目的でこの様な構成になったものと推察されます。因みに「ひらつか」のトレース図は元図と同じカラーを引き継いだものになっていますが、これは元図をカラースキャンしたものを画像処理して作成したものと見受けられ、2つの特別展の間の年月に画像処理作業環境が著しく進化したことを感じさせます。

「絵図でめぐる川崎」市内村々概念図
川崎市内の江戸時代の村々の概念図と
絵図掲載ページ
(「川崎」10ページより)
「川崎」の目次は次の通りです。

  • ごあいさつ
  • ⒈ プロローグ 江戸時代の川崎市
  • ⒉ 村絵図の世界
  • ⒊ さまざまな絵図
  • [ノート]近世村絵図は誰によって描かれたか
  • 出品目録
  • 参考文献
  • 所蔵者・協力者一覧

「⒈プロローグ」では、「武蔵国絵図」など、より広域の絵図を掲載して、当時の川崎市域や周辺地域を概観する位置付けになっています。

「⒉ 村絵図の世界」では、以下の各村の絵図が掲載されています。複数の絵図が掲載された村が多くなっていますが、ここでは絵図の名称と年代を書き出し、別冊にトレース図が掲げられたものは前回の記事同様に「◎」を付しました。なお、各絵図には出品番号が付されているのですが、図録には必ずしも全ての絵図が採録されておらず、番号が飛んでいる所が何箇所かあります。出品番号は134まで振られており、1回の特別展としてはかなり多数の絵図が展示されたと言えます。

  • 稲荷新田・大師河原村
    • ◎稲荷新田絵図(天保9年・1838年)
    •  玉川河口川欠絵図(江戸時代後期)
    • ◎玉川河口域海岸町人普請絵図(寛文11年・1671年)
    •  新田開発成就絵図(宝暦12年・1762年頃)
    •  大師河原村塩浜耕地絵図(江戸時代)
    •  大師河原村潮除堤破損箇所絵図(宝暦10年)
    •  大師河原村塩浜新田御見分絵図(宝暦12年・1762年)
  • 池上新田・大嶋村
    •  池上新田絵図(文政4年・1821年)
    •  池上新田開発前後の大嶋村高入地絵図(宝暦12年・1762年)
    •  大嶋村・池上新田村境立会絵図(安永5年・1776年)
    •  大嶋村新組新高入場絵図(江戸時代)
    •  五ヶ村悪水落堀周辺新田絵図(江戸時代)
    •  大師河原村塩垂場付近御定杭絵図(江戸時代)
  • 川崎宿
    •  川崎宿絵図(享和2年・1802年)
    •  川崎宿の内久根崎町田畑絵図(文久元年・1861年)
    • ◎川崎宿の内新宿町田畑絵図(文久元年・1861年)
  • 下平間村
    • ◎下平間村絵図(江戸時代)
  • 沼部(ぬまべ)
    •  下沼部村絵図(江戸時代)
    •  下沼部村絵図(文政4年・1821年)
  • 上丸子村
    • ◎上丸子村小杉村上沼部村境絵図(文政7年・1824年)
  • 小杉村
    • ◎小杉村絵図(宝暦12年・1762年)
    •  小杉村絵図(寛政元年・1789年)
    •  小杉御殿図(江戸時代)
  • 宮内村
    • ◎宮内村絵図(江戸時代)
  • 下野毛(しものげ)村・瀬田村
    • ◎下野毛村絵図(天明8年・1788年)
    •  下野毛村麁絵図(天保7年・1836年)
    •  五ヶ村組合絵図(文化2年・1805年)
  • 久本(ひさもと)
    • ◎久本村絵図(江戸時代)
  • 作延(さくのべ)
    • ◎上作延村絵図(江戸時代)
  • 坂戸村
    • ◎坂戸村用水絵図(江戸時代)
  • 末長村
    • ◎末長村絵図(嘉永元年・1848年)
    •  末長村絵図(江戸時代)
  • 子母口(しぼくち)
    •  子母口村御林絵図(宝暦14年・1764年)
    •  子母口村御林梶ヶ谷村上地御林絵図(宝暦14年・1764年)
  • 梶ヶ谷(かじがや)
    • ◎梶ヶ谷村絵図(江戸時代)
    •  梶ヶ谷村小字地名図(江戸時代)
  • 馬絹(まぎぬ)
    • ◎馬絹村絵図(江戸時代)
    •  馬絹村絵図(江戸時代)
  • 土橋(つちはし)
    • ◎土橋村絵図(明和6年・1769年)
  • 菅生(すがお)
    • ◎下菅生村絵図(天保14年・1843年)
  • 天真寺新田
    •  天真寺新田絵図(享保16年・1731年)
  • (たいら)
    •  田畑山林惣絵図面(万延元年・1860年)
    •  再改 田畑山林絵図面覚帳(文久2年・1862年)
  • 長尾村
    • ◎長尾村絵図(江戸時代)
    •  長尾村絵図(江戸時代)
  • 登戸村
    • ◎登戸村絵図(天保14年・1843年)
    •  登戸村絵図(江戸時代)
  • (すげ)
    • ◎菅村絵図(寛保元年・1741年)
  • 金程(かなほど)
    • ◎金程村絵図(宝暦14年・1764年)
    •  金程村新開場見立絵図(宝暦14年・1764年)
  • 高石村
    • ◎高石村絵図(宝暦14年・1764年)
  • 王禅寺村
    • ◎王禅寺村絵図(宝暦12年・1762年)
    •  王禅寺村五人組絵図(享保3年・1718年)
    •  王禅寺村絵図(天保7年・1836年)
  • 片平村・五力田(ごりきだ)
    • ◎片平村絵図(天保7年・1836年)
    •  五力田村絵図(天保7年・1836年)

「⒊ さまざまな絵図」に掲げられた絵図は以下の通りです。

  • 海岸を描く
    •  稲荷新田下より潮田村下迄海辺新開場見立絵図(宝暦14年・1764年)
    •  川崎領海辺村々汐除堤并新開場見立絵図(明和2年・1765年)
    •  玉川より鶴見川迄海辺村絵図(江戸時代)
  • 道を描く
    •  東海道分間延絵図(部分:文化3年・1806年)
    •  東海道往還絵図(部分:江戸時代後期)
    •  東海道道中絵巻(部分:江戸時代後期)
    •  中原往還図(文久3年・1863年)
    •  溝口寄場組合村々図(江戸時代後期)
  • 多摩川を描く
    •  調布玉川絵図(部分:江戸時代後期)
    •  武蔵国玉川絵図(部分:明和2年・1765年)
    •  下沼部川欠絵図(文政5年・1822年)
    •  六郷川渡船場水制絵図(江戸時代)
    •  玉川通堤川除御普請箇所付絵図(嘉永2年・1849年)
  • 境界を描く
    • 麻生(あさお)村王禅寺村秣場出入裁許絵図(寛永10年・1633年)
    •  王禅寺村山論裁許下絵図(正徳元年・1711年)
    • ◎王禅寺村山論裁許絵図(正徳2年・1712年)
    • ◎片平村古沢村平尾村野論裁許絵図(貞享3年・1686年)
    • ◎小杉村等々力(とどろき)村境論裁許絵図(享保2年・1717年)
    • ◎下石原宿菅村郡境論裁許絵図(享保8年・1723年)

「ひらつか」では、複数の村にまたがる絵図については後続の主題毎の絵図をまとめた章に収めていました。それに対し、「川崎」では絵図の大半が「村絵図の世界」に収められ、各種の主題に従って描かれた絵図も、数村程度の地域を描いたものはほぼこちらにまとめられています。例えば、海岸線に関する絵図は稲荷新田・大師河原村や池上新田・大嶋村にも沿岸の塩田や潮除堤を描いたものとして登場します。

川崎市の方が市域が広く細長いため、個々の地域毎の特徴を際立たせることに主眼を置いた配列になったと言えるでしょうか。もっとも、個々の絵図から読み取れるものは一様ではありませんので、その時々によって分類が変わっていくのも自然なことではあります。例えば、「六郷川渡船場水制絵図」はここでは「多摩川を描く」の項に収められましたが、半面で六郷の渡しやその周辺を描いた絵図という側面もあります。また、中原街道(相州道)が小杉御殿跡の前で枡形を成していることが読み取れる小杉村の各絵図なども、中原街道の研究では見るべき絵図と言えるでしょう。

前回の繰り返しになりますが、こうした過去の村絵図をまとめた資料集が更に世に出ることを期待したいものです。
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【図録紹介】「ひらつかの村絵図を読む」(平塚市博物館)

今年も相変わらず思う様に活動出来ない中、最寄りの図書館で入手出来る資料の範囲で記事を書いてきました。県内各地の博物館などで興味深い催し物が色々と行われていることは折に触れて情報を得ていましたが、何れも出掛けることは叶わずにいます。

そうした中で、昨年秋に平塚市博物館 で興味深い特別展が催されていたことを、つい最近になって知りました。

2017年度秋期特別展 ひらつかの村絵図を読む(2017年10月21日〜12月17日、リンク先は当時の機関報のPDF)


このブログでは「新編相模国風土記稿」中の街道に関する記述を拾い上げる作業を行っていますが、生憎と大住郡の分が未完成になっています。それはひとえに、「風土記稿」中の大住郡の街道に関する記述を拾い集めて同じ道について書かれていると考えられるものを照合していっても、なかなか思う様に繋がらない箇所が散見されるからで、何か他の史料を照合しながら記述を検証しないと整理が付かない状態になっています。特に、大住郡内各村の道の位置関係が具体的にわかる地図が必要ですが、地形図と言えるものは明治初期の「迅速測図」が最古で江戸時代まで遡ることは出来ません。無論、道の位置はそれほど容易には変え難いものですから、「迅速測図」もある程度の参考にはなるものの、人力車等の出現に合わせて道を付け替えたりしたケースもあるため、これだけを典拠にするのは問題があります。

市町村史などの江戸時代の史料集には絵図が付属しないことが多く、付属しても精々数枚程度で、多数の絵図をまとめたものを見ることがなかなかありません。ある程度高精細で大判のカラー印刷が必要になることから、コスト面の制約をクリア出来ないのが要因としてはあるのでしょう。神奈川県立図書館で検索した限りでは、相模国域では
  • 相模原市(旧市域:かつての津久井郡域含まず):

    「相模原市史 第5巻付図」(1965年、村絵図10点)

  • 足柄上郡山北町:

    「江戸時代がみえる やまきたの絵図:山北町史 別冊1」(1999年)

  • 旧津久井郡津久井町(現:相模原市緑区内):

    「ふるさと津久井 第3号:特別号『津久井の古地図』」2002年

が見つけられた程度でした。神奈川県域に拡げても、他に
  • 川崎市:

    「絵図でめぐる川崎-失われた景観をさぐる-」(2010年)

を挙げることが出来るのみです。

その点で、平塚市のこの特別展の様に村絵図をまとめて参照出来る機会は、何処の市町村のものであってもなかなか貴重です。幸い、この特別展では図録も製作されており、大住郡の街道についても何かヒントが得られるかも知れないと期待を持って取り寄せてみたところ、かなり充実した内容で有益な資料として活用出来るものとなっていたので、ここで紹介することにしました。因みに、図録の巻末の主要参考文献の一覧には上記の川崎市の図録の名前も挙げられており、今回の特別展開催に当たって何かしらの示唆を得ているものと思われます。

この図録の目次は次の通りです。

  • 第1章 描かれたひらつかの村々
  • 第2章 川へのまなざし
  • 第3章 裁許絵図
  • 平塚市域の近世略年表
  • 平塚市域迅速測図
  • 平塚市域の近世村
  • 平塚市域54か宿村の合併

まず、第1章に収録された絵図の村名又は領域名を一覧にしてみます。複数の村絵図が採録された村もありますので、ある程度の区別のために年代を添えることにしました。表題の脇に「江戸時代」「明治時代」とのみ記されているものは、本文中から凡その年代が推定されている箇所を採用しています。絵図の中には、相給で複数の領主がいる村のうち1人の領主の分のみを描いたものも含まれています。配列は図録の掲載順です。

  • ◎平塚宿・平塚新宿(文化8年・1811年)
  • ◎南原村(文化文政期以降)
  • ◎南原村(文化8年以降)
  •  新土村(江戸時代年代不詳)
  •  入野村(明治時代年代不詳)
  •  飯島村(明治時代年代不詳)
  •  寺田縄村(寛文5年以降・近代後筆あり)
  • ◎松延村(明治時代年代不詳)
  • ◎大神村(文政13年・1830年)
  • ◎大神村(文化文政期)
  • ◎岡崎郷八ヶ村(江戸時代年度不詳)
  • ◎丸島村(明治4年・1871年)
  • ◎真田村(元禄元〜5年)
  •  真田村(明治8年・1875年)
  •  南金目村(明治8年・1875年)
  • ◎北金目村(江戸時代年代不詳)
  •  北金目村(江戸時代年代不詳)
  •  北金目村(江戸時代年代不詳)
  •  北金目村(明治時代年代不詳)
  • ◎北金目村(江戸時代年代不詳)
  • ◎広川村(江戸時代年代不詳)
  •  片岡村(明治時代年代不詳)
  •  土屋村(明治時代年代不詳)
  • ◎土屋村(天保7年・1836年)
  • ◎中原御林(文化文政期以降)


「ひらつかの村絵図を読む」第1章に採録された村絵図の対象地域
第1章に採録された村絵図の対象地域
「中原御林」は除いているが、平塚宿・須賀村以北
中原村・四之宮村以南の比較的広い地域が
描かれている
(図録80ページ「平塚市域の近世村」に着色して作成)
図録の凡例には、展示資料の中に図録に採録されなかったものもある旨の記載があり、また今回の展示に供されなかった絵図もあると思われますので、これが平塚市域で見つかっている江戸時代の村絵図の全てであるとは言えないでしょう。とは言え、平塚市域の江戸時代の村絵図をこれだけまとめて見られる資料が出来たこと自体、喜ばしいことです。

また、上の一覧で村名の前に付した◎は、一緒にトレース図が添えられているものです(以下の一覧も同様)。原図だけでは判読が難しい所が多いですから、全部ではないにしてもかなりの枚数の絵図にトレース図が添付されているのは大いに役に立ちます。

第1章の中では北金目村の5枚が最多ですが、こうした絵図は村の状況を領主などに説明する必要がある度に描かれていたことがわかります。明治時代に入ってから描かれたものも混ざっていますが、その描き方は基本的に変わっておらず、明治に入ってもしばらくは旧来の方法で絵図を作成することによって村内の事情を把握していたことが窺えます。寺田縄村の江戸時代の絵図に明治時代の後筆があることも、江戸時代の絵図が明治時代に入っても利用し続けられていたことを意味しています。

因みに、「風土記稿」の編纂に当たり、昌平坂学問所は文政7年(1824年)頃から各村に村明細帳を提出する様に求めており、その際に村絵図を添える様に指示しているのですが、今回の特別展に展示された絵図にはこの時に描かれたと考えられるもの(正本の方を提出するので、残っているとすれば控ということになりますが)は含まれていませんでした。これが残っていれば、「風土記稿」と照合させるには最良の史料ということになるのですが、実際にはなかなかその様な絵図を見掛けることがありません。

第2章は治水や利水に関係する絵図がまとめられており、その性質上から複数の村に跨がる絵図が多くなっています。以下の一覧では、掲載されている絵図を拾い上げましたが、関連する文書が他に数点掲載されています。絵図の名称だけでは描かれている地域がわかりにくいものは、適宜解説を加えました。絵図の名称は図録によるもので、必ずしも絵図そのものにこの名称が記載されているとは限りません。

  • ◎金目川通り堰位置図(享保6年以降、最上流の北金目村より最下流の平塚宿間の金目川流域)
  • ◎南原村巡見絵図(天明8年・1788年)
  •  掛渡井図(江戸時代年代不詳、南原村)
  •  上平塚境悪水吐圦樋図(江戸時代年代不詳)
  •  拾弐ヶ村麁絵図面(明治時代年代不詳、広川村・公所村・根坂間村・河内村・入野村・入部・久松村・長持村・友手村・徳延村・松延村・山下村)
  •  片岡村・飯島村堤絵図(江戸時代年代不詳)
  •  大堤決壊図(江戸時代年代不詳、南金目村他)
  •  土屋村堤防決壊図(明治3年・1870年)
  • ◎相州大住郡土屋村之内字庶子分寺分金目川通堤切所之絵図面(明治元年・1868年)
  • ◎岡崎郷田地用水絵図(江戸時代年代不詳)
  • ◎岡崎郷田地用水絵図(江戸時代年代不詳)
  • ◎相模川絵図(江戸時代年代不詳、大神村及び高座郡倉見村・宮山村)
  •  須賀・柳島本浜入会浜略絵図(明治8年・1875年)
  •  相模川河口絵図(享保13年以降、須賀・柳島村)

第1章の北金目村の5枚の絵図でも、隣の南金目村に築かれた金目川の大堤が描かれるなど、治水が主関心事になっている村が少なくなかったことが窺えます。現在の平塚市域には、東の境を相模川が流れ、西側の広範囲を金目川水系の流域が占めていますが、この第2章に集められた資料は大半が金目川水系に関するもので、相模川に関するものは最後の3枚だけでした。これが果たして今回の特別展の対象になった絵図がたまたまそういう傾向を持っただけなのか、それとも平塚市域に残っている治水・利水関係の絵図の分布がその様な傾向を持っているのかは、これだけでは判断出来ません。江戸時代に相模川よりも規模の小さな金目川水系に関する絵図や文書が多くなる傾向があったとすれば、その理由が何処にあるのか、興味を惹かれます。

第3章では複数の村の間で争われた裁許の判決として作成された絵図がまとめられており、必然的にこちらも複数の村を含む絵図が並んでいます。以下の一覧でも文書類は対象外としました。

  • ◎金目川通堤川除普請裁許絵図(貞享元年・1684年、金目川以北、玉川以西の全28村の位置が描かれる)
  •  金目川通組合縮図(明治14年・1881年、前図の対象域に南金目村が加わる)
  • ◎五ケ村用水裁許絵図(宝永7年・1710年、入山瀬村・西海地村・矢崎村・大句村・城所村)
  • ◎平塚村・大磯村浦境争論裁許絵図(元禄5年・1692年)
  • ◎川幅改定絵図(貞享3年・1686年、南金目村他)

2番目の絵図は最初の絵図に示された広域の治水組合が明治時代まで存続していたことを示すためのものですから、最初の絵図と一組のものと言えます。つまり、ここには全部で4つの裁許絵図が示されているのですが、その年代は何れも江戸時代初期と言って良く、第1章の絵図のうち年代がはっきりしているものが何れも江戸時代後期から明治時代にかけてのものである点とは好対照になっています。無論、この場合も展示された絵図にたまたま共通していた特徴かも知れませんが、村同士の諍いを治めてもらうために起こした裁判の記録という性質から、後年まで末長く保管されやすかったことが、絵図の古さとなって現れているのかも知れません。

また、裁許の性質上、絵図の作成された年月がはっきりしている上、絵図に表現された事項の信頼度も高いと期待されることから、史料としては特に有効なものと言えます。そのためか、ここでは4枚の絵図全てにトレース図が添えられ、関連する文書が併せて展示されるなど、前2章に比べて幾らか手厚い解説が施されています。

因みに、この4枚の裁許絵図の中でも3枚は治水や利水に纏わるものであり、特にこれらの問題に取り組む上では絵図の製作は必要不可欠であったことが窺えます。

これらの絵図はそれぞれに目的に合う様に描かれていることから、雑多な情報を1枚の絵図に集約する様な描き方はされていません。ですので、私の様に村内の街道の位置関係を探しているなど、絵図本来の目的とは合致しない情報は必ずしも記されるとは限りません。主要な道であっても太い線で描くだけで道の名前などは含まれていない可能性も高く、私の目的がこの図録によって十分満たされるかどうかはまだ未知数です。とは言え、こうした絵図をまとめて参照する機会が少ない中では、この図録は貴重な存在であることには変わりありません。私のブログで未完のまま措かれている箇所が完成するのが何時になるのかは定かではありませんが…。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(まとめ)

前回までで、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)の、足柄峠までの記述を一通り見て来ました。該当記事の一覧を改めて掲げます。


「その1」では3箇所の渡し場についてまとめて取り上げたのに対し、残りの回は継立の分析を中心にしながら「日記」の記述を日程に沿って取り上げる格好になりました。当初は継立とその他の記述を分けてまとめようと画策していたのですが、土地勘のない人には日程とは違う順序で取り上げることで位置関係がわかりにくくなることを考慮し、継立以外の記述を分離するのは思い留まりました。

何れにせよ、今回は特に「日記」の記述を都度関連する史料と照合して検討する作業の分量が増え、殆ど「日記」よりも矢倉沢往還や沿道各地の当時について書いている様な文章となりました。それは特に「日記」に記された継立の記録が、矢倉沢往還の継立場として伝えられている村と照合した時に、3箇所で「継通し」された様に見えるなど、疑問点が散見されたことが大きな理由です。武四郎は特に蝦夷地の念入りな探検取材に基づいて、それまで日本では知られていなかった蝦夷地の地図を作成するなどの業績があった人物であり、こうした調査の経験を豊富に持っていた筈です。その様な人物が勅命を受けて調査した上で著した紀行文中に、何故この様な疑問点が散見される結果になっているのか、そこは掘り下げるべき課題ではないかと考えました。

継立に見られる「継通し」の課題については、書き漏らしの可能性は残るものの、特に矢倉沢については史料で実際に行われた可能性を裏付けることが出来ました。伊勢原についても寄場組合の一時的な返上にその可能性を考えてみましたが、二子・溝ノ口や荏田については少なくとも正式な運用上の措置として継通しが行われた可能性を見出すことが出来ず、世田谷の継立場の不自然さなどから公ではない形で継通しが行われた可能性を考えてみました。何れも裏付けは十分とは言えず、引き続き他の史料を探索する必要があると思います。また、武四郎がこの道中に書き残したメモの様な文書が他にないかなど、この道中でのみ発生した事象を裏付けてくれるものがないか、探してみたいところです。

こうした検討が必要である以上、「日記」を当時の矢倉沢往還沿道の修景のための史料として無批判に扱うのは、問題があると言わざるを得ません。今回検討した中では、特に「その4」で検討した国分村付近の記述にそれを強く感じました。

とは言え、矢倉沢往還を経由した紀行文や道中記はあまり見つかっていないのが現状ですし、また維新直後の混乱期の紀行文というのも希少な存在です。その点で、今回の様に他の史料と照合しながら、史実と看做すことが出来る記述がどの程度含まれているかを検証する価値はあると思います。

特に「その2」で検討した善波の継立の様子などは、当時の紀行文中で継立の様子を書き記す例が多いとは言えない中で、輸送需要が多くない区間での継立の運用の事例の1つとして、見るべきものがあるのではないかと考えています。



武四郎のこの時の道中は、東海道を避けて内陸の道筋の実情を探ることが目的としてあったとは言え、基本的には京への参上が主であったと考えられます。そのために各地で時間をかけて調査を行いながら先に進む道中ではなく、京への道中を急ぎながら、継立人足など道中で出会った地元の人々からの聞き取りに重きを置くことになった様です。その分、継立場以外の沿道各村の記述が薄くなったり、同行した人足らの証言に「日記」の記述の精度が縛りを受けるといった影響が出たと言えます。

こうした武四郎の道中の様子からは、明治政府は武四郎の提案には興味は示したものの、飽くまでも「暫定的な」措置としての迂回路の可能性を即席で探らせようとした意図が窺えると思います。正式なルート開拓が目的であれば、武四郎にはもっと掘り下げた調査の依頼が行き、より多くの時間を掛けた道中になったと考えられるからです。

もっとも、今回は立ち入った解説は出来ませんが、足柄峠以西ではもう少し「日記」の記述に厚みが増している様にも見えます。例えば、足柄峠までの区間には挿画は一切ありませんが、以西の記述の途中には合計で6枚の挿画があります。どの様な記述についてどの程度の文量が増えているのか次第なのですが、あるいは相模国内については「大山街道」として知られている区間が主であるために、比較的「周知」の区間と判断して記事量を削減したのかも知れません。

こうした比較を行うためにも、出来れば残りの区間の記述についても、ここまでの区間と同様の分析を試みたいところです。しかし、神奈川県在住の私には静岡県以西の史料集に当たるのが難しく、同じレベルでの検討は難しいのが実情です。このため、私の分析は神奈川県境に辿り着いたところでひとまず区切りを付けざるを得ません。静岡県や愛知県の郷土史料にアクセス可能な方に、以西の分析は委ねたいと思います。



最後に、足柄峠以西の記述のうち、特に興味深い「大井川の(たらい)渡し」について書いた箇所を紹介し、多少の解説を加えて結びに代えたいと思います。

2月16日(グレゴリオ暦3月28日)に武四郎一行は大井川の畔に位置する「小永井村」(志太郡藤川村小長井、現:静岡県榛原郡川根本町東藤川字小長井)に到着して宿泊し、翌日はここから大井川左岸沿いを下流へ下って「田の口村」(志太郡田野口村、現:静岡県榛原郡川根本町田野口)へと向かいます。そして、ここで大井川を渡河することになるのですが、その記述は次の通りです。

(さて)(ここ)で向越(し)を賴に深サ貮尺五寸、渉り七尺位の盥を川に卸し、是に我等兩人と兩掛并に人足をのせて(さおさし)行に、兩三日の雨天にて水嵩も餘程まし、水勢岸を轉して白浪逆卷て盪出せしに何の苦もなく南岸に着ぬ。此船頭の言に最早昨日より大井川は留りしが、此處は如此、昨夏等は肩越は三十一日留りしが此處は一日も留ざりしと。依て十月位より追々盥越しえ商人等は廻りぬ。然る處渡し場より此盥ごしを故障申來り、其故致し方なく止めたりと語る。

梅島南岸。北岸よりは少し田も多き由に見ゆる。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 661ページより、以下の引用文も何れも同書より、ルビは原則同書に従い、一部ブログ主が追加)



田野口〜梅島の地形図。右側(左岸側)上方に田野口、左側下方に梅島がある
両者の間は1km以上は離れている(「地理院地図」より)

「東海道山すじ日記」大井川の盥渡し図
「日記」盥渡しの挿画
(「日記」660ページより)
一行は「梅島」(榛原郡上長尾村梅島、現:静岡県榛原郡川根本町上長尾字梅島)に上陸しています。地形図で確認出来る通り、ここは田野口よりはかなり下流に位置しています。当時の渡しが川の流水圧に逆らわない様に対岸やや下流を目指して渡っていたことを考えれば、基本に沿った渡し方ではあるのですが、それにしても殆ど短い川下りと言っても良い程の距離を下流に流れているのは、それだけ大井川の流れが急であったことを反映しているのでしょう。下で触れる通り、この日の大井川は長雨で増水していましたから、通常よりも余分に下流へ流れて対岸へ辿り着いたのかも知れず、実際、後年の田野口の渡しは、梅島よりももっと上流に対岸の上陸地点が設けられていました。

深さ2尺5寸(約76cm)、直径7尺(約212cm)の盥に、武四郎一行に荷物(「両掛」とは天秤棒の両側に振り分け荷物を入れる箱を付けた行李)を載せて、3日間の雨で増水している大井川の急流を、船頭が容易く乗り切って対岸に渡したと書き記しています。更に、船頭によれば、前日から東海道の徒渡しが止まっているが、この渡しは止まっていないこと、前年の夏は東海道は31日も止まったが、ここは1日も止まらなかったと証言しています。このため、10月頃から「廻り越し」を求めてこの渡しまでやって来る商人の姿もあったが、その後東海道の渡しから「廻り越し」を差し止める様に言って来たため、止むを得ず「廻り越し」を中止したとの船頭の言が続きます。


この証言は、この渡しの位置を考えると尋常ではない状況だったことが見えて来ます。東海道の渡しがある嶋田から田野口までは、現在のトンネルなどが整備された道筋でも片道で30km以上も隔たっており、東海道から大井川渡河のためにこの渡しまで迂回するだけでも最低で2日は余計に掛かってしまいます。「日記」では右岸の道程について

扨此川南通り下の方は下長尾、瀨洋、つゝら、石風呂、秡里、家山、小和田、高熊、福用、上尾、横岡、牛尾島、金谷とつゞけり。凡十三里斗のよし

(「日記」661ページより、強調はブログ主)

と、更に長い距離が記されています。しかも、東海道付近よりも険しい山中へと入っていかなければならない道を上り下りしなければならないことになります。

そこまでの遠回りをしてでも、東海道筋で何日も足止めされてしまうよりはましだという判断が出来てしまう程に、当時の川支えが常軌を逸していたということです。恐らくは、廻り越しに応じてくれる渡し場を求めて上流へと向かううちに、遂に田野口まで到達してしまったのでしょう。更には、そこまでの遠回りに対してさえ、東海道筋から廻り越しの差し止めを言って来る程に、他の渡し場に対する締め付けが厳しかった事態が窺えます。

大井川の廻り越しは、実際にはもっと東海道に近い所で行われていました。大井川の場合は主に東海道より下流側を迂回することから「下瀬越し」と呼ばれていました。

正徳元年(一七一一)に下瀬越しや、忍び越しなどの廻り越しは禁止するという定書が道中奉行から出されている(『島田市史』中巻)。このとき「旅人何様にたのむといふ共 御法度之脇道へまはるへからさる事」と規定した。どんな人でも脇道を通って渡ってはならないと定めたのに、川幅が広くなっている下流域は大水になっても歩いて渡れることから大っぴらに渡るものもいて、道中案内書にも廻り越しの案内があったほどである。たとえば寛正四年(一七五一)の『東海道巡覧』(『大井川とその周辺』所収)の金谷宿の条に

宿 大井川洪水の時ハ川下色尾と云所へ廻越川幅広き故川浅し 宿の内右手道有藤枝江出ルなり

大井川 洪水の時ハ色尾へ廻る 金屋より一里有

とある。禁止されてはいても世間では廻り越しは周知の事実となっていた。

掛川藩も藩士が牧之原から色尾経由で江戸へ出たとき、上湯日の庄屋が手助けをしている。また天保十五年(一八四四)に掛川藩の殿様が領地の巡検と遊山をかねて向榛原へ行くとき色尾越えをしている。下流では旅人の手引きをして賃銭をもらうものがいたのである。これに対して島田・金谷宿の宿役人や川越し役人は彼らを捕らえて自分たちの既得権益を守ろうとした。彼らに見つかって罰を受けることを恐れた下流域の人たちは、漁船を利用して海を通って渡るという方法で日銭稼ぎをするものがいたほどである。

このように大井川下流域では役人の目をかすめて川越に手を貸す人足がいたのであるから、田沼街道を渡る人は多かった。先の久保田文書に、藤枝宿からの順路になっているから「御家中方は右道筋御通行成られ」ていた。相良藩の家中によく利用されていたばかりでなく、相良から公用の荷物を江戸屋敷へ継送りするときは、榛原町静波の柏原村、吉田町片岡の上吉田、大井川町上新田、藤枝宿などで継送りをしていた。

(「東海道と脇街道」 小杉 達著 1997年 静岡新聞社 127~128ページより)


大井川の主な下瀬越えの位置
大井川の主な下瀬越えの位置
色尾を経由する道については不詳のため
ここでは色尾の位置のみを示した
田沼街道は藤枝宿付近で分岐するが
大井川を越えた後何処から東海道に
復帰するかは不明
(「地理院地図」)上で作図したものを
スクリーンキャプチャ

西島「田沼街道下瀬越遺跡」付近
進行方向が大井川、左手に立つ標柱に遺跡の案内がある
ストリートビュー

ここで名前が挙がっている「色尾」や、いわゆる「田沼街道」が大井川を渡る西島〜大幡の渡しは何れも島田や金谷よりも下流で、「田沼街道」に当たる現在の富士見橋から東海道の徒渡りの辺りまでで川伝いにおよそ11km余り、色尾はそれよりも上流にありますので、何れも武四郎一行が通過した田野口〜梅島より遥かに東海道から近く、しかも牧之原台地の斜面を除けば基本的には平坦地で道も相応に整備されていましたから、旅程が大幅に遅延する様な廻り道ではなかった筈です。

無論、渡しは地元の人々にも日常の往来のために必要なものでしたから、そうした人々にまで大幅な迂回を強いる様な制約を課す様な無体なことは島田や金谷の人々にも幕府にも出来る筈もありません。しかしながらその分、こうした地元の人のための渡しが陰で旅人を渡す「抜け駆け」の可能性も残り続け、島田も金谷も普段からそこに神経質にならざるを得ない事情があったのは確かでしょう。

とは言え、幕末から明治維新の頃の島田〜金谷の川留めの多さや長さは尋常ではなく、そこに疑問を感じていた武四郎としては、彼なりの「廻り越し」のルートを提言しようという思いもあったでしょう。また、「日記」の終わりにはこの渡し場の問題を綴った、紀行文というよりも「建白書」といった様相の文章が相当に長々と続いて締め括られます。その中では、大井川では川越人足の安全を確保する観点から舟運が禁じられており、沿岸の村々がそこに不満を持っていることを名主から聞いたことが記されるなど、武四郎がとりわけこの渡しに対しては抜本的な対策の必要性を痛感していたと言えます。

もっとも、「日記」の頃には既に、この様な東海道の徒渡りの独占的な状況が瓦解していく直前に差し掛かっていました。

江戸時代には、宿駅制度を守るために他の街道や渡河地点を利用することは、地元の人以外は禁じられていた。しかし、明治になってその原則も揺らいでいつた。谷口村では、毎年冬には護岸工事に用いる河原石や砂利を採取するために仮橋が架けられたが、やがて作業終了後も撤去されずに大っぴらに、旅人の廻り越しに利用されるようになった。

明治二年七月、徳川幕府直参の新番組の人たちが、開墾のために牧ノ原台地に入植したが、彼らの静岡方面への近道として谷口村の仮橋が利用された。翌年には静岡藩主、徳川家達が牧ノ原開墾地を視察するときにも使われた。この仮橋は御用橋と呼ばれて固定化され、誰が教えるともなく往来の旅人が増え、川支えのときには船も用意されて相当の賃銭を取るようになった。そして、その道筋には旅籠も建てられていたようである。

このような動きに対して両宿の役人や川庄屋らは、明治三年五月に「廻り越し取り締まりの願書」を島田郡政役所に提出した。それによると「谷口村や細島村では新規の船をつくり、船賃を取って多くの旅人を渡している。このままでは金谷・島田宿は眼前に廃宿の姿と向かい合っており、心痛している」とある。これに対して郡政役所では「廻り越し制限の回状」を下流の九カ村に出し、村方の者以外の人を案内、川越しをした場合は厳重に処罰を加えるとした。しかしその直後に民部省から、大井川に渡船か橋か便利な方法を設けるようにという通達があり、廻り越しは取り締まられることもなく、存続することになった。

(「大井川に橋がなかった理由」 松村 博著 2001年 創元社 179〜180ページより)


その後程なくして、島田〜金谷の渡しにも舟が用いられる様になって、川越人足の大量リストラが始まり、余剰となった人足の一部はかつての御林などの開墾に向かって、静岡の茶所の基礎を作っていくことになります。

明治政府が江戸時代に構築された街道に関する様々な運用を変更していくに当たって、武四郎の「日記」が果たして何処まで影響を及ぼしたのかはわかりません。また、武四郎がこうした変化が直に起こることをどこまで予測していたかも不明です。しかし何れにせよ、維新後の時代の趨勢の変化の中では、幕藩政治の中で固定的な運用が維持されていた渡しは、早晩に崩壊せざるを得ない命運にあったと言えるのかも知れません。

「日記」に記された沿道の諸事情は、その意味ではこうした大規模な変化が起きる直前の姿のスナップショットであり、江戸時代に組まれた街道にまつわる制度の最終的な姿を読み取れる点で、貴重な存在と言えるでしょう。

その一方で、こういう問題に厳しい目を向けていた武四郎だからこそ、その後の東海道の各渡し場に橋が架けられたり崩落したりしていく変遷の様を、彼の手で記録して伝えて欲しかったとも思うのです。
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