FC2ブログ

【過去記事再掲】石上の渡しについて(その1)

前回の記事を受けて「神奈川県植物誌」の引用をまとめて掲載する予定でしたが、まだ全然作業が進まないまま1ヶ月が過ぎてしまいました。間を繋ぐため、今回は私が閉鎖したブログで公開していた過去の記事を再掲することにしました。江島道の途上にあった「石上の渡し」について、私なりに調べたものをまとめたものです。

「地誌のはざまに」で江島道を一通り取り上げた際には、この時の記事の中から一部をダイジェストしました。その様なこともあり、この記事は当ブログ内で改めて公開しておくのが良いと考えました。

この記事は2011年に公開したもので、当時は複数日に分けていました。今回はそのうち最初の3日分をまとめて掲載します。一部当時のブログ内相互の参照を指示した箇所は書き改めています。また、当時Googleマップ上で作成した地図については今回「地理院地図」上で再作成しました。



① 紀行文・旅日記から(1):川名橋を通ることはあったか


石上の渡しについて、実際のところはどうだったのか、もう少し事例を集めてみたいと考え、当時の紀行文などを紐解いてみることにしました。幸いなことに、藤沢近傍の紀行文の抜粋を集めた史料集が発刊されていたため、まずはこれを読み進めることにしました。

藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)-紀行文・旅日記抄- 」(藤沢市文書館編・刊)


全部で95編の紀行文や日誌の抜粋が収められており、差し当たりその中から明治維新以前の紀行文に一通り目を通しました。その結果、幾つか興味深い点がわかってきましたので、数回に分けてまとめてみたいと思います。

まず、藤沢宿から江の島への往来に、石上の渡しを経ずに川名へ抜けてしまう道を進む事例が本当にあったかどうかについて。今回目を通した中では、1例だけ明らかに川名橋を経ているものがありました。

「富士山紀行」安永九年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「【安永九年七月二十一日】…四ツ谷より此迄一里ニ不足、雨ハ止ミたれ共六合水まし而渡りハ可難と口々にいへける故幸已ニも当れは江の嶋の嶋姫の神社に参る、車田を南壱里斗ニ而いしがミと云所ニ至る、此所水増し而舟ニ而渡り馬くらばしと云所ニ至る、川越て渡る、片瀬村を過て海浜ニ至る…」
「二十二日、…片瀬村を過馬喰橋を渡り右へ行き川名村ニ休ふ雨の甚しけれは也、片瀬よりは鎌倉郡とす、石上の川上を圯橋にて渡り藤沢駅に至る、」

ここで「圯橋」というのは他の用例から察するに「壊れ掛かった、ボロボロの橋」位の意味でしょうか。少なくとも江の島へ向かう時に「舟ニ而渡」ったその翌日の帰り道に、同じ渡しを通った時に「橋」と表現するのは不自然でしょう。石上の上流にあった橋を渡ったという解釈で良いと考えます。

高山彦九郎の経由ルート(推定)
高山彦九郎の経由ルート(赤線・推定)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」「陰翳起伏図」等合成
別ページで表示
右の現在の地図は川筋は勿論当時と異なりますが、馬喰橋から北上して「右へ行」けば石上の渡しには行かずに確かに川名方面に出る点は一緒です。川名の集落は鎌倉みち沿いを中心に固まっていたことが迅速測図(リンク先は「今昔マップ on the web」)からも窺え、「川名村ニ休ふ雨の甚しけれは也」ということであれば、雨宿りをしたのは恐らく街道まで出て来てからでしょう。とすれば、川名橋はそこから目と鼻の先にあり、そのまま藤沢宿まで行ってしまったとしても不自然なところはありません。

川名の地名が明確に登場する紀行文はこの1編のみでした。しかし、道中の出納を事細かに記した日誌の中に、石上の渡しでの出費が抜けているものがあり(「己未東遊記草」安政六年[三河国渥美郡吉田]山本忠佐)、途上で買い食いした柿の値段まで書き記した日誌に当時12文まで値上がりしていた渡し賃を書き漏らすとは考え難く、藤沢から江の島へ向かう際に川名を経たのかも知れません。

もっとも、江の島まで詣でようという旅人は多かれ少なかれ「散財する」ことを厭わずにいた気配がどの紀行文にも見られ、その意味では僅か5〜12文(金額については後日改めて取り上げる予定です)の渡し賃をケチろうという人はそれほど多くなかったのかも知れません。高山彦九郎の例でも、川名橋へと逸れた理由は飽くまでも雨で川が増水していたからでした。

② 紀行文・旅日記から(2)渡しは実は「橋」だった?


今回紀行文集を読み進めていて一番驚いたのが、実はこの渡しは「橋」であった、ということでした。

そのことを一番明確に物語るのが次の一編でしょう。以下引用は何れも昨日同様「藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)」から。
「江ノ島参詣之記書写」弘化四年[武藏國江戸]著者不明
「一 藤沢宿入口橋ヲ渡り江ノ島弁天金ノ鳥居有、此所より島迄壱り九丁
一 半道程ニて片瀬渡場百姓渡舟賃払 尤舟ヲ弐艘つなき置

また、この一編も当時の様子を具体的に表現しています。
「玉匣両温泉略記」天保十年[武藏國江戸]原正興
「【天保十年五月六日】…馬入川渡り、車田と云所より右に江嶋道あり。そなたへをれてゆくに、田畑の間の細道なり。片瀬川の上、石亀の渡は、両岸に小舟をつなぎて、舟より舟へ板をわたしたるもの也。これをわたりて少しゆけば、…」

つまり、「渡し舟」と言いながら実態は「舟橋」だったというのです。この文の他にも石上の渡しを「舟橋」「橋」と表現したものがかなりあります。具体的には…
「甲午春旅」安永三年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「【安永三年(1774)一月十八日】…江ノ嶋を出はたさ村石亀村、川有舟橋也、過て藤沢宿、江嶋弁財天と言額をかけたる鳥居有、…」
「伊勢道中記」文政九年[出羽国田川郡清川村](藤四郎)
「【文政九年二月七日】…次ニ橋賃五文ニ而渡ル
「道中記」文政十年[出羽国田川郡酒田]石塚長三郎
「夫ヨリ宿ニカエル間ニ、カタ瀬村入口二茶屋アリ 出口二川アリ、橋賃五文渡レハ、石上村 右ノ方ヨシ、次二、」
「伊勢参宮日記」弘化二年[陸奥国]藤原某氏
「【弘化二年六月二十日】…藤澤江…夫よりかねの鳥井まて帰りて、江の嶋道へ入ル、たひてい村続キ也、余程行て、つなき舟のわたし有、五文ツゝなり
「伊勢参宮並諸国神社・仏閣礼拝道中記」安政五年[陸奥国閉伊郡(末前村)七瀧]久兵衛
「【安政五年三月二十二日】一 江ノ嶋 …十丁斗行て小川小ばしあり拾弐文つゝ

確かに、渇水期や冬場の徒士渡しの様に、一時的に舟橋や仮橋を渡す運用をしていた渡し場の例は他にも様々あったと思います。しかし、上記2編の記述では、どうも通年で舟橋になっていた様に見えます。「橋」と表現された紀行の日付をみると、確かに当初は冬場の渇水期のものが多いのですが、その後季節を問わず舟橋が渡されていた様に見えます。

これは幾つかの疑問を抱かせる話です。まず、舟橋は当初からそうであったのか、それともある時期を境に舟橋に切り換えられたのか。また、本当に通年で舟橋が架けられていたのか、当初は季節的なものだったのか。別の紀行文では「渡し」とだけ記されているものも多く、これが本当に舟を漕いで渡すものだったか、それとも舟橋を渡る際に払ったお金を「渡し賃」などと表現したものか、読み取り切れないものが多く、他の史料と合わせてみないと断定的なことは言い難いと考えられます。

但し、この紀行文集に複数回登場する「高山彦九郎」の記述では、上記では「舟橋」と書いているのに対し、昨日引用した様に安永9年には「舟ニ而渡り」としています。上記の紀行は冬、昨日のは夏の話であり、あるいはこの頃には冬の渇水期だけ橋を渡したものかも知れません。

次に、境川の下流部では藤沢宿までの間で舟運がありましたから、舟橋を架けたままでは邪魔になってしまいます。当然、川を上下する舟がここを通過する際には渡した板を退けなければなりませんが、先日書いた通りこの辺りで12間ほどの川幅があったとするならば、上記の様に「舟ヲ弐艘つなき置」いて板を渡したとすると、その間の板の長さがかなり長くなってきます。そうなると、その都度この板を退けたりするには重くなり過ぎてしまいます。実際のところ、どの様な運用で舟を通していたのか、今回見た紀行文の中ではその様子を描いたものはありませんでした。これも、他の史料に当たってみないと何とも言えません。

そして何より、この様な運用になった経緯でしょう。当時の人気観光スポットであった江の島・鎌倉への往来の途中にある橋であり、鎌倉から戸塚や金沢へ抜ける旅人も多かったとは言え、比較的交通量は多かった筈です。その渡しを舟橋に切り換えたのは何か支障のある要因があったからと考えられますが、それは一体何でしょう。

個人的な関心としては、境川の何らかの地理的な変遷が舟橋への変更に影響を及ぼしているのではないかとも思えるのですが、まだ具体的な切り口は見つかっていません。引き続きこの問題については突き詰めて考えてみたいと思います。

③ 紀行文・旅日記から(3)石上?石亀?


ここまで既に数編の紀行文を引用しましたが、その中にこの渡しの名称が「石亀」と表記されているものが2編ほどありました。
「玉匣両温泉略記」天保十年[武藏國江戸]原正興
「…片瀬川の上、石亀の渡は、…」
「甲午春旅」安永三年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「…石亀村、川有舟橋也、…」

興味深いのは、この高山彦九郎が6年後の紀行文では表記を改めていることです。
「富士山紀行」安永九年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「…いしがミと云所ニ至る、…」
「…石上の川上を圯橋にて渡り…」

恐らく、この間に藤沢近傍について古記を紐解くなどして知識を改めたのでしょう。「いしがミ」とわざわざカタカナを交えて書いたのはその由だったのかも知れません。逆に考えると、初回は渡し守にでも地名を尋ねたのでしょうから、その発音が「いしがめ」の様に聞こえていたのでしょう。「石亀」としている例は上記の他にもありました。

因みに、「石神」と表記している例も1件見つかりました。これも、恐らくは渡し場で地元民に尋ねて聞き覚えた音に漢字を当てたのでしょう。
「御伊勢参宮道中記」文久二年[出羽国田川郡肝煎村]森居権右衛門
「…参詣致し町に帰り橋脇ニ右方に江島弁財天の鳥井唐銅ニて有夫ヨリ拾丁斗通りて石神(ここ)ニ片瀬川ト申川 渡賃拾二文出し…」

石上の地名は比較的古く、鎌倉中期の「東鑑」にも見られるとのことなのですが、付近の地名としては西行の歌などにも現れる「砥上が原」の方が著名で、渡し場の集落の名に過ぎなかった石上は今一つ認知されていなかったのかも知れません。徳川光圀がこの辺りを巡った時の紀行にも石上の地名は現れてはいるのですが…。
「鎌倉日記(徳川光圀歴覧記)」延宝二年[武藏國江戸小石川]
「片瀬川 藤沢海道ノ南ヘ流出ル小川也。駿河次郎清重討死ノ所也。東鑑ニ片瀬ノ在所ノアタリニテハ片瀬川トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川ト云。」
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

「神奈川県植物誌2018 電子版」の発行と、当ブログでの過去の引用箇所との照合(その1)

かねてより、「神奈川県植物誌」の改訂版の編集が行われていることを、3年ほど前の記事の中で余談の形で紹介したことがありました。2018年度内に発行する目標が当初から掲げられていましたが、ほぼ予定通りに完了し、昨年11月8日からまず電子版から公開が始まりました。

『神奈川県植物誌2018 電子版』公開ページ(以下「神植2018」)


電子版は1800ページを超える大冊であるにも拘らず、全編が1本のPDFに収められており、ファイルサイズは何と120MBもあります。私がこれまで見てきたPDFに比べて桁違いの大きさに達しており、流石に私の古い環境では処理能力が不十分で、ページをめくるのも一苦労という有様です。巻末の索引から該当箇所を探し出すことが多くなるであろうこの手の事典では、PDFを細分化してしまうとどのファイルに該当ページがあるのか探しにくくなりますから、敢えて1本に纏められているのも理解は出来ます。とは言え、このPDFのファイルサイズは正直なところ「常軌を逸している」と評さざるを得ないもので、まさか電子版の公開によって私のパソコンの非力さを痛感させられることになるとは思いも寄りませんでした。

とは言え、これ程の大冊を電子版のみとは言え無償で公開するというのは大英断と言って良いでしょう(印刷版は有償頒布)。これまでの厚さが6~7cmはあろうというA4判の大きな書物では、これを野外での活動で参照するために持って行くなどとても考えられないことでしたが、電子版なら処理能力が十分であればタブレットに収めて持ち歩くことも可能ですから、フィールドで見つけた植物を調べるのに「神植2018」を現場で閲覧することも不可能ではなくなりました。ポケット判の野草事典を遥かに凌ぐ植物が採録されており、しかも神奈川県内であれば従来の観察実績がある植物に限って掲載されている訳ですから、県内での植物の野外観察には最適な事典が出来たと言えるでしょう。


今回の改訂の主な目的は勿論、前回の「神奈川県植物誌2001」(以下「神植2001」)以降の神奈川県内の植生の変移を反映することにありますが、それ以外の今回の大きな変更点として、科の配列順を挙げる必要があります。「神植2018」の「凡例」には次の様に解説されています。

(2) 科とその配列は,基本的に,シダ植物はChristenhusz et al.(2011. A linear sequence of extant families and genera of lycophytes and ferns. Phytotaxa, 19: 7-54),Christenhusz et al.(2011. Corrections to Phytotaxa 19: Linear sequence of lycophytes and ferns. Phytotaxa, 28: 50-52)を基にした海老原(2016・2017. 日本産シダ植物標準図鑑Ⅰ・Ⅱ. 学研),裸子植物はChristenhusz et al.(2011. A new classification and linear sequence of extant gymnosperms. Phytotaxa, 19: 55–70),被子植物はAPG Ⅳ(The Angiosperm Phylogeny Group, 2016. An update of the Angiosperm Phylogeny Group classification for the orders and families of flowering plants: APG Ⅳ. Botanical Journal of the Linnean Society, 181: 1-20.)に従った.被子植物の科の番号はAPG Ⅳにより,シダ植物と裸子植物は上記の体系の配列の通し番号に,シダ植物にはP,裸子植物にはG,被子植物にはAを付したものである.科の和名は,基本的に,シダ植物は海老原(2016,2017),種子植物は大橋ほか(2015~2017. 改訂新版日本の野生植物 1~5. 平凡社)によった.

(「神植2018」12ページより、以下も含め強調は何れもブログ主)


「神植2001」の「凡例」の同項目は次の通りでした。

(2) 科とその配列は, シダ植物は岩槻邦男編(1992, 日本の野生植物シダ, 平凡社)に, 種子植物はメルヒオル・ヴェーダーマン編(1954, A.Englers syllabus der Pnanzenfamilien 12 Aunage,I)とメルヒオル編(1964, A.Englers syllabus der Pnanzenfamilien 12 Aunage,II)に従ったが, 一部改変されている. 

(「神植2001」9ページより)


「神植2018」では「APG」という言葉が、「神植2001」には「エングラー(Engler)」という人名が見えていますが、どちらも種子植物の分類法を指す際に散見する言葉です。この切り替えの詳細な背景の解説は、種子植物については「神植2018」の193〜194ページで行われています。簡単に言うと、分子生物学の研究に則った新たな分類法が近年普及してきたため、今回の改訂を機に採用したということです。

『神植誌88』では,当時多くの植物標本庫や図鑑類で採用されていたエングラーとプラントル(1887-1915)による体系に準じて編集を行った.『神植誌01』では,すでに『朝日百科,植物の世界』(1994~1997)や『北アメリカ植物誌』(1993~)がおもにクロンキストの体系(1981, 1988)に従っていたが,利用者の便を考慮し,その時点で,国内でもっとも新しい植物誌であった『日本の野生植物』(1981~1989 平凡社)が採用しているメルヒオルらの改訂によるエングラーの体系(1954, 1964)を採用した.

しかし,その後,1998年には,分子系統解析の手法に基づいたAPG(Angiosperm Phylogeny Group)による分類体系が発表され,数度の改訂を経て,2016年にはAPG Ⅳ(APG 2016)が公表された.国内においても,これらの分子系統解析の手法に基づいた体系の解説書などが出版されつつある.『植物分類表』(大場 2009)はクビツキーを基礎にしたマバリーの体系を,『日本維管束植物目録』(米倉 2012)はLAPG Ⅲの体系を元にし,日本の維管束植物全体の体系を示すため,シダ植物や裸子植物も含んだものとなっている.また,図鑑類や地方植物誌おいても,APG体系のものが刊行され始めた.さらに,2015年には,『神植誌01』刊行時,国内で最新の植物誌とされた『日本の野生植物』の改訂新版(2015~2017平凡社)がAPG Ⅲ体系に基づいて刊行され,APG体系が一般的になりつつある状況が進行し,利用の便を考えても,機は熟したと言える.そこで,本書では基本的にAPG Ⅳ(APG 2016)の体系に従うこととした.

(以下も含め「…」は中略)


これはシダ植物においても同様で、17ページにおいて変更の経緯が説明されています。こうした変更をどこかの機会を捉えて実施しなければ、何時までも古い体系を維持しなければならなくなりますから、何れはやるべきことであったと言えます。

但し、「神植2001」と「神植2018」の2冊を比較して変異を捉える場合に、体系の変更による影響が紛れ込む可能性がある点には注意が必要です。例えば「ウルシ属」では、「神植2001」では日本に「6種1変種」が存在しているとされているのに対し、「神植2018」では「5種」に減っています。「神植2001」では「ウルシ属」に「ツタウルシ」「ウルシ」「ヌルデ」「リュウキュウハゼ」「ヤマハゼ」「ヤマウルシ」の6種が含まれていますが、「神植2018」ではこのうちの「ヌルデ」が「ヌルデ属」に分離されたために「ウルシ属」の数が減る結果となり、「ヌルデ」の県内の分布については特に変異はありませんでした。また「1変種」はこの「ヌルデ」に含まれる「ハネナシヌルデ」を指していることから、この分も「神植2018」では「ヌルデ属」に移ったことによって減ったことになります。つまり、今回の「ウルシ属」の数の減少は、県内に分布する種が減ったことを意味しないことになります。

こうしたことを踏まえ、今回の改訂で分布の変化が見られたものがどの程度存在するのか、巨冊同士を個人で比較してその全てを洗い出すことは到底不可能ですが、私のブログでも「神植2001」を幾度となく引用して来ましたので、「神植2001」を引用した記事毎に、「神植2018」に現れた変更箇所を洗い出す作業を行ってみることにしました。文量がかなり多く、作業に手間取っているため、この突合作業の結果は後日別の記事に書き出すことにしました。

本草図譜巻六「紫草」
「本草図譜」より「紫草」(右・再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
従って結論を先に書き出すことになりますが、これらの中で最も大きな、そして残念な変更はムラサキの記述のそれでしょう。「神植2001」でも最後に生息が確認されてからかなりの年数が経っていることが指摘されていたものの、絶滅したとはされていませんでした。しかし「神植2018」に至っては、最後の確認から30年が経過している事実を踏まえ、神奈川県内では絶滅したという判断に変わりました。

勿論栽培されている株は植生調査の対象外ですので、県内の何処かの庭先や畑で栽培が続けられている可能性は残っています。また、これらの栽培株から野生に再び逸出したり、あるいは隣接都県から入って来る可能性も全く無いとは言えません。従って、将来新たに野生のムラサキの生息が確認されて判定が再び覆ることがあるかも知れません。しかし、神奈川県のレッドデータブック(以下「県RDB」)の編纂に当たっては、この書物はシダ類や被子植物の生息状況を判定する際に最も基本とされています。その様な書物において判定が「絶滅」と変更されたことの意味は大変に大きく、近い将来改訂されるであろう県RDBにおいても、ムラサキが「絶滅種」に新たにリストアップされることが確実になったと言わざるを得ません。因みに2006年版の「県RDB」ではムラサキは「絶滅危惧ⅠA類」と判定されていました。

以前上記リンク先の記事に記した通り、江戸時代には相模国各地の山野に自生するムラサキを掘り出して、その根を利用していた歴史があったものですが、現在は県内の植生によってその痕跡を窺い知ることも出来なくなってしまいました。「県植2018」や「県RDB」ではこうした利用があった歴史については触れられていませんが、採集圧への懸念があっての配慮でしょうか。可能であれば次回の改訂では多少なりともその歴史についても簡潔に記述を加えておくべきと考えます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2補足)

昨年の5月の「その1」から11月の「まとめ」まで、松浦武四郎の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)の神奈川県域内の区間について、私なりの分析を試みました。その際には冨山房から出版された武四郎の紀行集(吉田武三編、1975 & 77年)に依拠しており、他の翻刻や影印には当たることは出来ませんでした。特に「その2」では「窪田」と表記されている地名が「荏田」の誤記または翻刻ミスではないかと書きましたが、影印を見ていないためにどちらであるかを断定することは出来ませんでした。

最近になって改めてネット上を探したところ、「松浦武四郎案内処」というサイトの中に「日記」の影印と翻刻が掲載されていました。そこで、「窪田」と記されている箇所を確認してみました。

該当箇所は上記翻刻の8ページ、5行目の一番下にあります。私は崩し字を読む能力はあまり持ち合わせていませんが、ここに記されている字は少なくとも「荏」の字とは読めないもので、「窪」とするのが妥当である様に見受けられます。従って、この箇所については翻刻ミスの可能性は消えたと言ってよいと思います。武四郎自身が何らかの理由で当地の地名を「窪田」であると判断して書き記したことになりますが、その理由については「その2」で考察した通りです。

なお、「松浦武四郎案内処」の他のページに従えば、明治2年の道中の日誌は残っていないとのことであり、武四郎が書き残したものによってこの道中の事情を更に掘り下げることは、残念ながら叶わない模様です。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

【道中記・紀行文】にまつわる記事一覧

各種の道中記・紀行文に基づいて書いた記事がかなり溜まってきたので、それらの記事を俯瞰してアクセス出来るような一覧を作っておこうと思い立ちました。

ここでは、あくまでも個々の道中記・紀行文を軸にして組み立てた記事のみを一覧に含めました。それ以外にも記事中で道中記や紀行文を引用したものは多数あるのですが、煩雑でわかりにくくなりそうなので割愛しました。これら引用が含まれる記事へのアクセスを考え、道中記や紀行文の表題による検索結果(表題では上手くヒットしない場合は作者名による検索結果)へのリンクを最後に付加しました。何れにせよ、道中記や紀行文を素直に頭から順に解説する様な記事がなく、これらの中に登場する周囲の景観や産物などを選り出して解説するといった体裁の記事ばかりになっていますので、その点は予めご了承下さい。

カテゴリーに「道中記・紀行文」を用意していますが、以下の記事は必ずしもこのカテゴリーに分類されている訳ではありません。基づいた文章には、いわゆる「道中記」や「紀行文」ではなく、日記などに分類すべき文章であっても、旅路の様子を記録したものについてはここに含めました。

以下の一覧は、基本的には、道中記・紀行文が成立した年の順に並べていますが、「慊堂日暦」の様に複数年に亘っている文章については、基にした箇所の年のうち、最も古い年を基準にしています。それぞれの道中記・紀行文には、記事を作成する際に参照した文献を示しました。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

短信:【江島道】大源太公園付近のストリートビューが一部更新されました

一昨年の3月頃、大源太公園敷地内に江島弁財天道標が移設されたことを短信で紹介しました。その時点ではまだGoogleマップのストリートビューには反映されていませんでしたので、更新されたのを確認次第追記する旨予告していました。

先日久々に同地のストリートビューを確認したところ、一部ですが更新されているのを見つけました。公園の植樹の根元に小さなスペースを確保して、そこに石段を設けているのが確認出来ます。Googleマップ上でこのストリートビューを表示させると昨年2018年8月の撮影と表示が出ますが、この表示箇所に仕込まれたプルダウンによって過去のストリートビューを閲覧出来ますので、直前の2017年時点との比較をすることが可能です。


ストリートビュー

但し、更新されたのはかつての江島道上の分だけで、これですと道標まで距離があり過ぎて委細は良く見えていません。もう少し近い地点のストリートビューを見ようとすると、道標移設前の2017年2月撮影分が出て来てしまいます。因みに、公園の向かいの民家でも工事前の光景が写っています。


ストリートビュー

こちらの道はマンションの構内を周回するのみで通り抜けは出来ませんので、住民や配送などの目的がある車両以外は基本的に入って来ない道であるために、更新されずに残ったのでしょう。その性質を考えるとこの道のストリートビューが更新されるまでは時間が掛かりそうです。

現在ストリートビューに写っている範囲では、移設された道標の傍らにガイドが併設されているのは確認出来るものの、その内容までは判読は出来ません。同地を訪れた方々の写真を拝見する限り、基本的には、道標についての簡単な解説と、道標が片瀬市民センターの敷地からこの公園へと移設された経緯が記されている様です。道標本体は角が一部欠損するなど経年の影響は否めませんが、比較的良好な状態が保たれている様に見受けられます。末長く保存されることを願いたいところです。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

NEXT≫