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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その5)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は国分以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



武四郎は旅の初日に長距離を進み、「その1」で見た「厚木の渡し」を渡って厚木(現:厚木市厚木町、他)の街に入ります。この街について「日記」には

三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、ルビも同書に倣う、以下の「日記」引用も同書より)

と記されています。

渡辺崋山の「游相日記」では、崋山はこの街に数日間留まって、街の有力者などと連日会ったり写生に出かけたりした様子を詳しく書いています。それに対して武四郎の場合は西への旅路を急ぐ中での1泊ですから、この街の様子を自分の目で見て廻ったと言うよりは、多くは宿泊先で聞いた情報を書き記している様で、伝聞を示す語尾が目立ちます。「三千軒の市町」というのも、「新編相模国風土記稿」では実際の家を「三百三十戸他長吏八戸」(卷之五十五 愛甲郡卷之二)と「日記」の10分の1程度の数を示していますから、地元の人が誇張して武四郎に伝えたのでしょう。

実際、武四郎は翌朝も宿を急ぎ発って更に矢倉沢往還を進みます。厚木からは一旦岡田(現:厚木市岡田)まで南下した後、西へ折れて愛甲(現:厚木市愛甲東)へと向かいます。愛甲村では農家ばかりで荷継は名主家で行ったことを記したのに続き、「日記」には次の様な記述が見られます。

按ずるに厚木より糟谷に行には此處までは下らず。直道を船子村え切り候はゞ餘程近くぞ覺ゆ。

(「日記」649~650ページより)


土地勘がない武四郎にも、西に向かう前に南下して幾らか遠回りをしていることに、朝日や並行している相模川の位置などで気付けたでしょうから、もっと近道があるのではないかと彼の荷物を担いでいる人足に話しかけたのかも知れません。一方、船子村(現:厚木市船子)の名前は流石に武四郎が知っていたとは考え難く、恐らくは人足から伝え聞いたのでしょう。街道の周囲が水田であったと「日記」にも記されていることから、遠方まで視界を遮るものが殆どなく、あるいは街道から船子村の集落が水田越しに見えていたかも知れません。

厚木付近の国道246号線の変遷
厚木付近の矢倉沢往還→国道246号線の変遷
青線:かつての矢倉沢往還の道筋 黄色線:旧246号線の道筋
橙色線:現在の国道246号線(大和厚木バイパス)の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地(リンク先PDF)」を合成しているが、水田を示す黄色が大きく拡がっている)
「今昔マップ on the web」で同地の地形図や空中写真の変遷を見る

実際、明治初期に編纂された「迅速測図」で見ても、厚木村の西側は広大な水田地帯になっており、ここを抜ける道は畦道としてはあったと思われるものの、旅人や荷継などが通過するには足下が十分ではないぬかるみやすい道筋であったのでしょう。「その1」で取り上げた十文字の渡しから関本へ至る道筋の様に継立の抜け道として使うには、整備が行き届いていなかったであろうと考えられます。

かつての矢倉沢往還は昭和31年(1956年)国道246号として指定されますが、厚木付近はその後の整備によって道筋が大きく変わり、船子の地を通過する様に付け替えられました。「日記」からは実に80年以上の歳月が過ぎていました。武四郎が連れの人足と語り合ったのであろう「船子経由の近道」は、図らずも遠い将来の国道の通過地を「予言」する形になりました。

これが実現するためには、一帯の水田を埋め立てて市街地へと大規模に作り替える再開発計画を、待つ必要があったということになるのでしょう。過去の地形図や空中写真で変遷を追うと、国道246号線が最初に船子を経由する様になった1960年代には、一帯にまだ広大な水田が残っていたものの、大和厚木バイパスが開通した1970年代には、周辺が急速に市街地に切り替えられているのがわかります。現在では、旧246号線が恩曽川と並行して進む厚木市温水(ぬるみず)の「赤羽根」付近では水田が僅かに残っているものの、現在のバイパス周辺にかつての水田地帯の面影を探すことは、殆ど不可能になっています。



File:Tokaido07 Hiratsuka.jpg - Wikimedia Commons
宝永堂版「平塚:縄手道」
高麗山の丸い特徴のある形が強調されている
当時の浮世絵で平塚宿を描く場合
かなりの確率で高麗山が取り上げられている
(By 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido,
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons
Mt.Komayama(高麗山).JPG
現在の高麗山(2006年撮影)
独特の山体は現在も当時のまま
(By FlyMeToFullmoon(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく)
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons

その愛甲からは、

爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

(「日記」649ページより)

と、東海道の平塚宿の西に位置する高麗山(こまやま)が比較的近くに見えると書いています。この山については、善波峠の記述でも

此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、

(「日記」650ページより)

と、馬入川(相模川)から高麗山を経て大磯や国府津までの遠景を一時足を止めて眺めていた様です。


矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
愛甲から高麗山までは直線距離で約10km、善波峠からは9kmほどと、どちらもそこまで「近い」と言える距離だったかは微妙なところです。それでも、武四郎の目には「高麗山」の姿は容易に目に付いたのでしょう。彼自身は郷里である伊勢・松阪から東への往来などで、大磯宿から平塚宿付近を通過する際にこの山の姿は何度となく目にしているであろうものの、それらは何れも南側から、そしてかなり近くからの姿であった筈です。それに対して、「日記」の際の「高麗山」の姿は北側から、それもかなり離れた場所から眺めたものとなり、勿論武四郎には初めて見るものだったでしょう。それでも武四郎に「あれが『高麗寺山』か」と認識させる程度に、高麗山の位置と形は独特のものであったということが言えます。

彼にとっては、不慣れな道を急ぐ道中にあって、通い慣れていたであろう東海道との位置関係を認識し得るひと時ではあったでしょう。同行する人足からのアドバイスも受けた可能性もありますが、「高麗山」の独特の姿や位置は、その位置関係を彼に容易に知らしめる役目を果たしたと言って良さそうです。



下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
参考のために「田村通り大山通り」を追加
(「地理院地図」状で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

下糟屋・高部屋神社とかつての矢倉沢往還
当時の集落はこの辺りに集中していた
ストリートビュー

愛甲を出た武四郎が、「その2」で取り上げた善波(現:伊勢原市善波)で荷を継ぐまでの間に、「糟谷」(下糟屋、現:伊勢原市下糟屋)と「神渡」(神戸(ごうど)、現:伊勢原市神戸)の2箇所で継立を行っていることを記録しています。どちらも大山詣での頃には賑わうことを記しています。

しかし、この区間の継立村は、他の史料で確認する限りでは若干異なっています。まず、「新編相模国風土記稿」で各村の記述を拾うと次の様になっています。

  • 下糟屋村(卷之四十四 大住郡之三):

    脇往來四條係れり、大山道幅二間下同矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、

  • 伊勢原村(卷之四十六 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 神戸村(卷之五十 大住郡卷之九):

    往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、

(以上何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


見ての通り、ここに挙げた3村は何れも矢倉沢往還の他にも主要な道が通り、交通の要衝となっていたことがわかります。とりわけ伊勢原(現:伊勢原市伊勢原)は大山詣でに向かう中継地として特に賑わった地であり、継立でも要衝となっていたことが示されています。しかし、「日記」では伊勢原の名前は出て来るものの、この街については特に何も記されておらず、継立についても記載はありません。また、「日記」で継立を行ったとしている神戸については、通常は継立場ではなく、公儀の継立の際にのみ人馬を出していたとしており、その点では公儀とは言えない武四郎一行が神戸で継立を行っている点と整合しないことになります。

また「風土記稿」の記述自体も、下糟屋村の記述では同村からは伊勢原まで18町、つまり半里(約2km)を継ぐとしているのに対し、伊勢原村の記述の方は同村から江戸方の継立先は愛甲としており、下糟屋村の記述と噛み合いません。こうした不整合は特に大住郡の街道の記述に多く、恐らくは村からの報告をほぼそのまま記したのでしょうが、これをどの様に解釈すべきかも課題となってきます。

一方、「その3」でも紹介した、天保9年(1838年)の「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307~310ページ)で、この区間の記述は次の様になっています。

嶋織部知行所外弐給/同州愛甲郡愛甲村

一高九百五拾九石余

月番/名主/定七

内高弐百弐拾壱石/戸塚宿へ助郷相勤申候、

此間粕屋村有り

伊勢原迄壱里

飯河三郎知行所/同州大住郡伊勢村(原脱)

一高四拾七石

月番持/組頭/善兵衛

善波村迄壱里

伊勢原ゟ善波村之間/板戸・白根・神戸

田原清之丞知行所/同州同郡善波村

一高三百拾三石

名主/清吉

内半高/東海道平塚宿へ加助郷相勤申候、

近来相州はたな領御鷹匠内山七兵衛組御野先相成候付、 御鷹御用相勤候故、前後継場村〻ニ而ニ而往還役相勤申候、

曽屋村迄壱里

此所善波峠と申難所なり、

(上記書308ページより、一部改行を「/」に置き換えの上、文意に合わせて適宜単語を入れ替え、強調はブログ主)


こちらでは、下糟屋村(粕屋村)は継立村に入っておらず、愛甲の次は伊勢原で馬を継ぐことになっています。その点では「風土記稿」の伊勢原村の記述と整合していることになります。また、神戸村はこの文書でも継立村に入っておらず、公儀の際の継立についても触れられていません。

何れにせよ、「日記」の継立はこうした記録に見られる継立村の配置と上手く合いません。何故この様な事態になったのでしょうか。

考え得る可能性の1つは、「その2」で二子・溝の口や荏田を「継ぎ通し」した問題を取り上げた時と同様、武四郎の記憶違い、もしくは書き間違いでしょう。「下糟屋」を「糟谷」と書いていたり、「神戸」を「神渡」と書いていたりと、ここでも地名表記の漢字が現地で一般的に使われていたものとは異なっています。記述の精度に留保がつく以上、何かしらのミスが紛れ込んだ可能性を考えない訳には行きません。しかし、「日記」の記述の何処がどの様に間違っているのかを具体的に示すことが出来ない以上、可能性があるという以上の指摘をすることは出来ません。特に、神戸村の記述がこの様な形で「日記」に登場する部分については、ここで何かしらの所要を済ませたのでないとすると武四郎の記憶に留められているのが不自然になりますから、かなり確度が高いのでしょう。

他方、「日記」の記述通りに継立が行われたとすると、何故伊勢原を飛ばして「継ぎ通し」されたのか、普段は継立を行わない筈の神戸村がどうしてこの時は荷を継いだのか、その理由を探る必要があります。世田谷から長津田までの長距離を継いだ際には、何かしらの不正が行われた可能性を考えましたが、下糟屋から神戸の区間ではこうした不正は行い難かったのではないかと思われます。上記で見た通り、下糟屋から伊勢原まではわずか半里と至近にある上に、以下で見る通りこの2つの村は組合などの活動を通じて交流が深いことから、双方の村民が顔を見知っている可能性が世田谷の例より遥かに高いからです。

しかし、「伊勢原市史」に掲載されている当時の文書を探した限りでは、幕末のこの区間の継立の事情を直接説明出来るものを見つけることは出来ませんでした。特に神戸村に関しては近世の現存文書がないと「伊勢原市史 資料編 近世2」に指摘されており、この村の立場からこの問題を考えるのはほぼ不可能な状況にあります。ただ、「伊勢原市史 通史編 近世」に記されていた明治維新直後のある「事件」が、あるいはこの問題を考える上でのヒントになるのではないかと思えました。そこで今回は、これを手掛かりに個人的な見解を述べてみたいと思います。

同書の「第4章 伊勢原の町」中の「第9節 伊勢原村寄場組合」では、幕末に関東一円の村々で組織された「寄場(よせば)組合」について、伊勢原とその周辺の村々の諸事情について紹介し、解説しています。文化2年(1805年)に幕府が治安維持の目的で新設した「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)(関八州取締役等とも呼ばれる)」に対し、その活動を補佐する目的で、文政10年(1827年)に村々を編成してその中心となる村を定めることになりました。矢倉沢往還周辺の25ヶ村(東組15ヶ村、西組11ヶ村)については、当初は東海道の大磯などの宿場を寄場として編成する案が提案されましたが、矢倉沢往還周辺からでは遠過ぎるために村々の反対に遭い、この村々の中から寄場を出すことになりました。そして、伊勢原村は、一帯の25ヶ村の中では村高が47石余りと最も小さかったものの、大山詣での拠点として宿駅としての施設が充実していたことから、関東取締出役の役人が宿泊するなどの形で利用することが多かったこと、そして25ヶ村のほぼ中程に位置している上に大山街道が集中する立地であるために、他の村から通いやすいこともあり、他の村々から請われる形で寄場となったことが、史料を数点引用しながら詳説されています(343〜348ページ)。


しかし、この伊勢原村が明治に入った頃から一時的に寄場を下糟屋村に譲っていたことが、「下糟屋村組合への変更」という項で紹介されています(348〜351ページ)。これによれば、明治元年(1868年)11月頃には寄場は伊勢原村から下糟屋村に移され、翌々年の明治3年5月26日付で再び寄場を伊勢原村に戻しています。何故寄場が移されたのか、残されている史料からは詳らかにはならない様ですが、何か金銭面での混乱が発生したものと同書では考えられています。

「日記」の道中は明治2年のことですから、ちょうど寄場が下糟屋村へと移されていた時期に当たります。寄場組合は治安維持のための自治組織ですから、専ら陸運の担い手である継立に直接関係するものではありません。しかし、下糟屋に寄場の肩代わりを依頼しなければならない程の大きな混乱が伊勢原村に発生していたとすれば、その混乱が継立の運営にも及んでいたとしても不思議ではありません。

そして、明治3年に伊勢原村への寄場組合の復帰に際して神奈川県に提出された請け証文には、伊勢原村の他に下糟屋村(この請け証文では「下粕屋村」と書いている)、上粕屋村と並んで、神戸村の名主(上粕屋村のみ代理)が名を連ねています(350〜351ページ)。この証文によって、神戸村が下糟屋村と共にこの問題に関与していたことを窺い知ることが出来ます。とすれば、寄場組合の問題が継立にも影響を及ぼしていたのであれば、神戸村がその肩代わりをしていても不思議はありません。そして、この様な状況で神戸村が継立を肩代わりしていたならば、「その2」で見た様に善波村の継立場の場所がわからなかったのも合点が行きます。神戸村の人足にとっても善波まで荷を運ぶのが初めてであった可能性が高いからです。

繰り返しになりますが、以上は飽くまでも推測であり、今後更に史料を探し出して検証すべきです。ただ何れにせよ、武四郎にとっては自分の荷を運んでもらっている継立の村々の諸事情は、預かり知らぬことであったと言え、そのために委細が記されていないのでしょう。その分、「日記」の継立に関する記録を読み解く際には、関連する史料に当たって検証する必要が多々あると言えます。



次回もう1回、「日記」に記された矢倉沢往還の継立や沿道の様子を見ていきます。
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カテゴリーに「道中記・紀行文」を用意していますが、以下の記事は必ずしもこのカテゴリーに分類されている訳ではありません。基づいた文章には、いわゆる「道中記」や「紀行文」ではなく、日記などに分類すべき文章であっても、旅路の様子を記録したものについてはここに含めました。

以下の一覧は、基本的には、道中記・紀行文が成立した年の順に並べていますが、「慊堂日暦」の様に複数年に亘っている文章については、基にした箇所の年のうち、最も古い年を基準にしています。それぞれの道中記・紀行文には、記事を作成する際に参照した文献を示しました。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その4)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は鶴間以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



国分の位置
国分の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

かつての国分の継立は
「まんじゅう屋」という旅籠が取り扱っていた
現在のこの消防団の敷地の辺りにあったという
なお、当時の道筋は現在とは幾らか異なっている
ストリートビュー

武四郎一行が相州鶴間の次に荷を継いだのは国分(こくぶ)(現:海老名市国分南)でした。相州鶴間からは2里(約8km)の道程を歩いて、相模川に向かって長い坂を下り、目久尻(めくじり)川を渡って丘を越えた先に位置します。

前回検討した「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」には、相州鶴間が道中奉行らに提出した訴状に

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ瀬(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

とあり、更に

  長津田村        御伝馬継キ村

   此間壱里

 武州鶴間村         無役村

   此間弐町

 相州鶴間村         御伝馬継村

   此間三里

  厚木町         御伝馬継村

(何れも「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページより、)

と書いていたことが記録されています。これに従うと、享保14年(1729年)時点では相州鶴間は国分村を継立村として認識していないことになります。

この訴状の通りなら、訴訟当時の相州鶴間は厚木まで片道3里、往復で6里の道程を人馬が歩いて荷物を運んでいたことになります。これだけで往復でざっと6時間ほどの時間が必要です。更に、この間には「厚木の渡し」が挟まっていますから、往復では2回この渡しを渡らなければなりません。「その1」で検討した通り、この渡しは滅多に「川留」になることはないとは言え、舟の待ち時間が余分にかかる事になります。これではこの区間を担当した人馬は1日の仕事の大半をこの往復で過ごすことになります。

相州鶴間の負担の重さを多少なりとも軽減する上では、途上の村にも継立村を引き受けてもらうことは必要だったでしょう。その点で、後年国分村が新たに継立を引き受ける様になったことは、相州鶴間にとっては歓迎すべきことだった筈です。

もっとも、国分村が幕末に作成した文書では、かつては継立を行っていなかったことに触れられておらず、前々から継立村であったかの様な書き方になっているため、これらの史料の整合性の検討が必要になってきます。嘉永6年(1853年)に、国分村が戸塚宿の当分助郷に指名された際に、その免除を訴えた「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」という文書の中には、次の様なくだりが登場します。

江戸赤坂口ゟ相州矢倉沢往還、武州八王子宿ゟ相州鎌倉之横往来ニ而、四方一村ニ而人馬御継立仕、

(「海老名市史3 資料編 近世1」553ページより、以下も含め、傍注も同書に従う)


この記述では、国分村は矢倉沢往還の東西方向の継立のみならず、八王子方面から鎌倉方面へと抜ける道筋についても継立を行っており、相州鶴間と同様に辻に位置する村であるという記述になっています。こうした辻に位置する村が、当初は継立を請け負っていなかったとすると、例えば相州鶴間から国分村を経て八王子方面や鎌倉方面へ向かう荷物の様に、辻で向かう方向を変える荷物の取り扱いが困難になります。このため、この文書の記述通りなら、以前は継立を行っていなかった状況が考え難くなって来ます。

ただ、国分村は自村の継立村としての位置づけについて、やや誇張気味に書いている側面もありそうです。江戸時代も大詰めの慶応元年(1865年)に国分村が差し出した「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」という文書には、以下の様な記述が見られます。

…一躰当村之義、江戸ゟ内藤新宿継出、青山通り矢倉沢往還唱ひ、東海道沼津宿(駿河国)之脇往還ニ而、乍恐東照宮様(徳川家康)御神霊、久能山(遠江国)日光山(下野国)御改移之節御通行被為在候砌、厚木町(愛甲郡)ゟ当村御継込、夫ゟ靏間村御継立御用相勤来、既往還附中原(大住郡) 御殿相唱へ、御神霊様御宮跡今以暦然相残有之、就中、甲州道中荻野村(愛甲郡)ゟ継出相成、又一道ハ武州川越(入間郡)ゟ継出、八王子宿(武蔵国多摩郡)ゟ之往還、座間村ゟ当村継込、又一道東海道藤沢宿ゟ之往還、用田村ゟ当村継込、又壱道東海道平塚宿(大住郡)ゟ、相模川東通大谷村ゟ当村継込相成、又壱通東海道戸塚宿(鎌倉郡)往還深谷村ゟ当村継込、其外横浜表御開港已来、神奈川宿・程ケ(土)谷宿・戸塚宿其外鎌倉辺之往還仏向村(武蔵国橘樹郡)ゟ継出シ、瀬谷村(鎌倉郡)ゟ当村継込相成、御役々様方日々不絶夥敷御通行継場付、…

(「海老名市史3 資料編 近世1」606〜607ページより)


内藤新宿は甲州街道の宿場ですし、家康の遷座の際に通った道筋については前回見た通り矢倉沢往還ではなく府中通り大山道であり、更に中原街道の終点に位置する筈の中原御殿の話まで出てくるなど、国分村の役割を記す上で直接は関係のない街道筋の話を多く盛り込んでいます。村の高札を復活させる上でその重要性を強調する必要があったとは言え、この記述にはやや誇張された話が少なからず盛り込まれていることを念頭に置いて読むべきでしょう。

慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」麁絵図
慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」添付の麁絵図(国分村付近の部分)
(「海老名市史3 資料編 近世1」608ページより)
この文書に付属している麁絵図では、右の通り国分村を通過する道として、矢倉沢往還の他に「世谷(瀬谷、横浜市瀬谷区)」「深谷(綾瀬市)」「用田(藤沢市)」「大谷(海老名市)」「下荻野(厚木市)」「座間(座間市)」への道筋が引かれています。しかし、これらの道の重要度を勘案した描き方にはなっておらず、矢倉沢往還以外の道筋の交通量などはこの図からは読み取ることは出来ません。道の繋がり方も、座間や用田へ向かう道は確かに麁絵図の通り国分村に直接繋がっていますが、「迅速測図」で確認する限り、あとの道は途中で別の村の中で分岐して向かうことになり、これほどの本数の道が国分村に直接乗り入れている訳ではありません。


「新編相模国風土記稿」の国分村の項では、村を通過する街道について

矢倉澤道あり東西に通ず道幅二間、當村より東の方郡中下鶴間村へ二里、西の方愛甲郡厚木村へ一里の繼立をなす、

(卷之六十四 高座郡卷之六 雄山閣版より)

と矢倉沢往還のみを取り上げ、継立も矢倉沢街道上で行われている方についてのみ触れています。その点も考え合わせると、国分村の主張する南北方向の継立の取扱量は多くはなかったと考えるのが妥当でしょう。とすれば、国分村の継立はやはり享保14年よりは後になって成立したもので、国分村が文書に記す様な南北方向も含めた継立を取り扱う様になったのは、それ以降のことだった可能性が高いと考えられます。




国分村の継立の歴史に拘っているのは、武四郎が「日記」で記した国分村の状況についての記述を掘り下げる必要を感じているからです。この国分でも、武四郎は自分が目にしたり人足から聞いたと思しき沿道の様子を書き付けています。

此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。人家惣而畑作にして麁食(そしよく)のよし。夕喰〔食〕炊ぐを見るに割麥に半ば(くさり)の有る芋また大根を細く折て、それの雑炊てふもの煮る様に見ゆ。(わずか)江戸より一日路の地にてかくも異ることは、其女どもの着ものもまた()にして大に旅情を催たり。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従う)


「新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻、卷之六十四国分寺幷舊跡圖
「新編相模国風土記稿」卷之六十四 高座郡卷之四
「国分村」中「国分寺幷舊跡圖」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
まず「国分尼寺」ですが、「日記」は「有と(いふ)」という、伝聞を記した書き方になっています。ですから、これは継立人足など地元の人から聞いたことを記していることになります。実際、「国分」の名前が示す通り、この地には律令時代に「国分寺」が置かれ、幾度となく衰退と再興を繰り返しながらその宝物などが受け継がれてきました。

けれども、私が調べることが出来た限りでは、この「国分寺」が幕末から明治初期にかけて、尼僧を住職に迎えるなどして「尼寺」となっていた史実は確認出来ませんでした。明治元年時点の住職は「筧山」と称していましたが、尼僧であるという事実は確認出来ませんでした。また、天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では、まだ境内の建物は現存している様に描かれていますが、相模国分寺のサイトによればこのうち本殿や経蔵、山門などは幕末に失われているため、「日記」の明治2年の時点では既に右の「国分寺幷舊跡圖」の通りではなくなっていたものと考えられます。しかし、それでもこの寺は「相模国分寺」として存続していた筈です。

Sagami-kokubunji doushou.JPG
相模国分寺梵鐘
(By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品,
CC0, via Wikimedia Commons
従って、「日記」の「国分尼寺」は字義通りには受け取ることが出来ませんが、時代を遡れば、以前は国分寺と共に国分尼寺が存在しており、当時もそのことを伝える寺宝があったことがわかります。国分寺跡地の北方には国分尼寺の跡地が残っており、発掘調査で礎石や瓦などが出土しています。この跡地のある辺りの小名も「尼寺」と称し、その名残りを伝えています。

更に、現在も国分寺境内の鐘楼に架けられている梵鐘は、正応5年(1292年)に国分尼寺に寄進したものであることが刻印されており、国の重要文化財に指定されています。当然、「日記」当時にもこの梵鐘の存在は知られており、「風土記稿」の国分寺の項にも、この梵鐘の銘文が転記されています。

「日記」の該当箇所には過去形が使われていませんので、書き損じでなければ武四郎は「国分尼寺」を「現存」するものとして書いたことになります。察するに、この箇所は、かつての国分寺や国分尼寺の歴史について、継立人足などから伝え聞く過程で、何かしら説明の混乱があったか、あるいは武四郎が取り違えたことを反映したものではないかと思います。現在の国分寺山門に上がる石段は県道40号からやや奥に入った場所に位置していますが、当時の矢倉沢往還はこの石段に近い場所を通っていたとされています。それであれば、当時は矢倉沢往還を進む旅人からも、国分寺の石段や山門などが見えたと思われます。あるいは武四郎一行が矢倉沢往還を進む途上で国分寺の失われた山門の跡を眺めながら、この寺のことが人足との間で話題となったのかも知れません。




次に、「日記」ではこの村が畑作中心で食べ物に恵まれておらず、腐りかけの大根を雑炊にして夕食にしていたと書いています。着ているものなども含め、村がかなり困窮している様子が伝わりますが、この記述を何処まで当時の実情を描いたものと考えるべきなのでしょうか。

確かに、当時の国分村に困窮する村民が少なからず存在していたことを示す文書が複数存在しているのは事実です。「海老名市史3 資料編 近世1」には、弘化3年(1846年)の「凶作救済金滞分半金容赦願」という文書が掲載されています(536〜537ページ)。天保4年(1833年)に始まった「天保の飢饉」の救済のために無利息で貸与された金30両の夫食(ふじき)貸しが半額ほど返済した所で滞納する事態となり、挙句に先代の名主が潰れてしまい、全財産を売却して債務弁済に充てる始末になっています。この文書は残りの債務のうち半額を免じてもらい、残りを10年で弁済させてもらえる様に、新たな名主以下村役人が借主である領主に宛てた願書です。最終的にこの額を完済出来たかどうか、後年の証文が掲載されていないので不明ですが、村の困窮振りを示すこの様な文書が書かれてから「日記」の20年あまり後の間に倒幕という大きな社会の混乱があったことを考えると、事情はさほど変わってはいなかったのではないかと考えられます。また、翌年には国分村の組頭であった伝右衛門が家出してしまったために、領主から村人に対して伝右衛門の家財を交代で見廻る夜番が指示されたことを示す文書も伝わっています(同書539〜540ページ)。この村組頭の出奔も、やはり村の困窮と関係があるのかも知れません。

更に、上記で紹介した嘉永6年「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」の別の場所には、次の様な記述が見られます。

当村方先年家数百三拾四軒御座候所、追々潰百姓弐拾弐軒出来、当時百拾弐軒

(上記書553ページより)


村の家数が134軒から112軒と22軒も減ってしまったのは、明らかに「天保の飢饉」の影響でしょう。当分助郷を断るこの願書で本当は一番強調したかった箇所ではないかと思われるのですが、控えめに後ろに近い箇所で触れるに留められているのは、当時の村々でこの飢饉の影響を逃れた所が殆どななかったからではないかと思われます。

一方、国分村のこの様な困窮の最中にも、相応に財力を保有した家があったのも事実です。上記の「凶作救済金滞分半金容赦願」ではかつての名主家が潰れたことが記されていますが、この頃の名主家の当主は代々「善六」を名乗っていましたが、この家が国分村の名主となったのは天保年間のことです。初代の善六は享保年間に僅かな家財を譲り受けて本家から独立して、元文年間から「穀渡世」、つまり米穀商を行って財を成します。やがて、国分村の領主となった佐倉藩堀田家に対して度々融資をしています。そして、その融資先は幕末には国分村内のみならず、江戸や藤沢宿で商売を立ち上げる商人へも行われる様になっており、その財力が大きくなっていたことが窺えます。

国分村には善六の他にも3軒、寛政から文政年間に米穀商を立ち上げた家があり、幕末には少なくとも4軒の米穀商が存在していました。天保8年に一時これらの米穀商が営業停止にされた際に解除を求める嘆願書が提出されているのですが、この中に名を連ねた米穀商の中では、国分村の4軒が最多でした(以上、「海老名市史」通史編・資料編 及び「幕末の国分村」池田 正一郎著 1979年 自費出版を参照)。

以上を勘案すると、「日記」の当時、国分村にはまだ「天保の飢饉」によって疲弊した名残りが色濃く、それが武四郎と同行した継立人足の証言や、武四郎自身が目の当たりにした国分村の夕餉の様子や着ているものに表れていたのでしょう。その限りでは、「日記」の記述は国分村の当時の実情をよく伝えているとは言えるでしょう。しかし、当時の国分村には困窮の最中にも村内外に金を用立てるだけの実力を持った家が存在し、村を支えていたのも事実です。その点では、「日記」に記された国分村の様子を、あまり拡大的に適用し過ぎない様に注意して取り扱うべきでしょう。

また、丘陵地にあって水田より畑が多い国分村に、名主を筆頭に米穀商が4軒もあり、特にその1軒がとりわけ力を持っていたということは、村内よりも村の外部で生産された米穀の流通によって富を蓄えていた可能性が高く、それには村を通過する交通路の存在が不可欠だった筈です。特に、相模川の水運と陸路の結節点であった厚木や、その手前に拡がる広大な水田地帯である海老名耕地との間を繋ぐ道筋、つまり矢倉沢往還の存在が重要だったでしょう。

そう考えると、享保14年には矢倉沢往還の継立村ではなかったこの村が、幕末に書かれた文書では自村について誇張気味に交通の要衝であることを力説するまでに変わっていった背景に、この米穀商の存在があることが見えてきます。無論、この道を往来する大山詣での参拝客の増加も影響した側面もあるでしょうが、あと1里進んで「厚木の渡し」を渡れば厚木の大きな街に入ってしまう位置付けでは、旅籠の集客では苦戦する可能性が高く、そこだけでは利点が十分ではなかったのではないかと考えられます。

「日記」の記述ではその様な村の有力者の存在が見えてきません。国分村の主要な集落はこの矢倉沢往還の周辺にあり、名主家などもこの集落内にあったと思われますが、あるいは武四郎は裕福な家々にはあまり目を向けていなかったのかも知れません。



今回も国分村について解説して終わってしまいました。次回は厚木から先の「日記」の記述を分析する予定です。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その3)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回も継立について取り上げつつ、それ以外の沿道についての記述を見ていきます。



相州鶴間・武州鶴間の位置
相州鶴間・武州鶴間の位置関係
継立場の位置が確定出来ないため
ここでは仮に、武州鶴間側は「日枝神社」付近に
相州鶴間側は「鶴林寺」付近にマーカーを置いた
両者の距離は約1km
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
長津田まで途中の継立場を「継ぎ通し」ながら荷物を運んできた武四郎一行は、一転して比較的短い距離を継いでいきます。史料によって記載されている距離に多少幅がありますが、長津田から相州鶴間までは、「相州青山往還宿々控帳」(下記参照)に従うと1里10町(約5km)、武州鶴間から相州鶴間の間は、「新編相模国風土記稿」に従うと何と僅か5町(約550m)しかありません。この場合、長津田から武州鶴間の間は差し引き1里5町ということになります。但し、「日記」は8町(約880m)と記しています。何れにしても、国境を挟んで同じ名前を名乗る隣村同士だけに、村の中心となる集落同士でもさほど距離がないのは自明のことです。


この武州鶴間と相州鶴間との間の継立については、天保12年(1841年)に成立した「新編相模国風土記稿」に、次の様に馬と人足の場合によって継立場が異なることが記されています。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


武四郎は「日記」に継立の事実を示すのみで、その経緯などについては何も記していません。しかし、武州鶴間から相州鶴間の間の道筋には取り立てて急な坂などはなく、2つの村の間を流れる境川にも橋が架かっていて、荷運の困難となる要因がこれと言って見当たりません。その様な道筋で、こんなに短い区間で荷継が繰り返されるとなれば、その都度荷物の受け渡しや馬の載せ替え、更には駄賃の支払いが必要になるなど、荷主には要らぬ手間が増え、所要時間が長くなるなどの不便を強いられることになります。前回見た通り、この道中では武四郎の荷物を継立人足に運ばせていた訳ですから、荷主として多少なりとも違和感を感じていてもおかしくありませんが、「日記」にはその様な記述は一切ありません。

何故これ程までに短い距離を継ぐ様な運用が行われていたのでしょうか。ここでは「日記」を一旦離れ、他の史料を2点ほど見て、この2つの村の継立に何が起きたのかを類推してみたいと思います。1点めは、前回も一部引用しましたが、享保14年(1729年)の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページ)です。この史料は武州鶴間側の当時の名主家に伝わる文書で、相州鶴間が武州鶴間を相手取って訴訟を起こした際の一連の顛末が、双方の書状や裁許状などの写しによって明らかにされています。長大な文書ですので全文をここに掲載することは出来ませんが、裁判の経緯を掻い摘んで記せば、次の様になります。

  • 訴訟を起こした時点では、矢倉沢往還の継立を務めていたのは相州鶴間のみで、武州鶴間は務めていない(と、相州鶴間側が主張する)。
  • これに対して、当時何も夫役を担っていない(と相州鶴間側が主張する)武州鶴間にも継立役を負わせるべきとするのが相州鶴間側の主張。
  • 武州鶴間側は、既に武州木曽の定助郷を勤めており、また相州鶴間や長津田には歩行人足を出しているのだから、武州鶴間を無役とする相州鶴間側の主張は間違っていると反論。
  • 武州鶴間側の証人として武州木曽の名主が呼び寄せられ、武州鶴間側の主張通り、同村の定助郷を務めていると証言。


木曽一里塚碑
相州淵野辺村から境川を渡った先に位置する
府中方の小野路にも一里塚碑が残る
ストリートビュー
「今昔マップ on the web」で
同地の地形図の変遷を見る
武州鶴間が武州木曽の助郷を務める様になったのは、徳川家康の没後の元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へ遷座する際に、後の府中通り大山道を通過した時のことであることが、武州鶴間の反論でも、武州木曽の証言でも触れられています。武州鶴間から木曽までは直線距離でも8km以上も離れており、かなり遠方の村々まで助郷に駆り出されたことになりますが、この遷座の際はかなり大掛かりな行列を組んでいた関係で、隣接する村々だけでは人馬を補えなかったために、多少遠方の村にも助郷の要請が行ったのでしょう。その時の縁で、その後も木曽まで助郷を務めに行っていたことが、武州鶴間が矢倉沢往還の継立を拒否する根拠になっていた訳です。


また、武州鶴間は反論に際して自村を矢倉沢往還の「間の村」と表現しており、長津田や相州鶴間にも人足を出していると書いています。つまり、この時点では正式な「継立村」ではなかったことになります。この人足の出し方が、既に継立に近い運用であった様にも読めるのですが、何れにせよその様な事実があったとすれば、相州鶴間はその事実に目を瞑って訴訟を企てたことになり、その「勝算」を何処に見込んでいたのかが気になります。

こうした双方の申し立てを受けて、幕府の道中奉行や勘定奉行、更には江戸町奉行に寺社奉行が加わって、総勢10名の奉行が下した裁許は次の通りです。武州鶴間側の言い分が全面的に認められ、相州鶴間の訴えが退けられる判決となりました。

右御吟味被成候処、訴訟方相州鶴間村ゟ相手武州鶴間村ヲ一村之様申立、馬継不仕由申上候得共、相州・武州と国を隔候得、往古一村ニ而候とも、別村分り伝馬継候儀其所之例ニ而、古来ゟ相州鶴間村伝馬を継キ、武州鶴間村木曽村定助勤、其外江茂歩行人足継キ来り候間、訴訟方鶴間村申所難立、不及御沙汰候由被 仰聞、御尤に奉存候、依之有来り候通相州鶴間村伝馬継いたし、武州鶴間村定助・歩行人足(ママ)格〻可相勤旨被仰渡、双方奉畏候、右被仰渡候趣相背候ゝ、御科可被 仰付候、為後証連判一札差上ケ申所仍如件、

(上記書316ページより)


興味深いのは、ここで相州鶴間は武州鶴間とは元は1村であったという主張をしており、奉行もひとまずはその由緒を吟味した痕跡が見られることです。鶴間郷がやがて境川を境に分かれていった事情については、かつて武相国境を検討した際に少々検討しました。戦国期には既に別々の村となり、それぞれの領主によって収められていたであろうと考えられる鶴間が、享保の頃まで時代が下っても、なお奉行の面前でこの様な由緒を自村の主張の補強のために使っていたことになります。かつて同じ村であったという「義理」もあるのだから、ということになるでしょうか。自村の主張を少しでも正当化する意図が垣間見得ます。そうは言っても、享保の頃には既に別の村に分かれて独自の活動を行って久しいことが認定されてしまい、主張は認められずに終わるのですが、村のこうした由緒が時代が下っても影響を及ぼしていた一例と言うことが出来ます。

一方、相州鶴間としてはかなり無理のある訴訟であったにも拘らず、江戸の奉行所まで通う労力を掛けてでも敢えて訴えを起こすだけの動機があったことになります。それはひとえに、継立にかかる労力負荷が重荷になっていたということに尽きるでしょう。相州鶴間の継立は矢倉沢往還の東西方向だけではなく、八王子道の南北方向も担っていました。ですから、必ずしも矢倉沢往還だけの輸送需要だけのことではないかも知れませんが、2本の道の継立のために人馬を出す負担が過重になっていたからこそ、武州鶴間にも歩行人足を出すだけではなく、より本格的に継立役を分担して欲しいと考えた筈です。

当然ながら、その背景には矢倉沢往還の継立に対して、当時既に相応の輸送需要が存在していたことになります。その点で、この享保14年の裁許の一件は、当時の矢倉沢往還の継立の実情の一端を窺わせる史料であると言えます。

しかし、訴訟によって相州鶴間の訴えが否定されてしまったことで、武州鶴間はそれ以降も「継立村」となることはなくなった筈です。奉行の裁許が出たことを考えると、少なくとも相州鶴間側からこれを覆すのはかなり困難なことになったと考えられます。



次に、「新編相模国風土記稿」成立の3年前に当たる天保9年(1838年)に作成された「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307〜310ページ)には次の様に記されています。


人足之義

前鶴間ゟ向鶴間迄賃銭八文請取継立仕候、馬長津田ゟ向鶴間迄附越候、

(上記書307ページより、字下げも同書の文字数に従う)


ここで「前鶴間」と書いているのが武州鶴間、「向鶴間」が相州鶴間を指しています。一見すると、この記述は「風土記稿」とほぼ同様の運用を記述している様に見えます。しかし、上記引用箇所の少し手前で、長津田の次の継立場については

相州鶴間迄壱里拾町

と記しており、相変わらず長津田から相州鶴間に継いでいた様にも読めます。つまりこれだけだと、武州鶴間から相州鶴間の間だけ継立を請け負っている様にも読めてしまいます。その点で、この文書の記述は相互に若干混乱している様にも見受けられます。

この文書が写しであることから、原本の記述がどうであったのか、精確なところを読み取るのは難しくなっています。しかし、記述の整合性が今一つ綺麗に均されていない様に見えることから、この「人足之義」のくだりは後から追記された可能性もあると考えられます。それであれば、その際に「相州鶴間迄壱里拾町」の一文は訂正を入れ損ねたものとも読み取れます。

こうした混乱からは、武州鶴間が増え続ける矢倉沢往還の継立に対して引き続き人足を出し続けてはいたものの、飽くまでも享保14年の裁許に則って対応していたことが窺えます。つまり、この時点でも武州鶴間はまだ「間の村」という認識でいたのかも知れません。ただ、「新編相模国風土記稿」の「下鶴間村」の記述では、継立先について特に表現が分けられている訳ではないので、「武州鶴間」も継立村の1つであるかの様に見えているということが言えます。

「日記」に話を戻すと、武四郎の武州鶴間と相州鶴間の記述では、継立場の規模等に差異があった様には見えません。実際には相州鶴間の方が八王子道の継立も請け負っていた関係で武州鶴間より多少なりとも規模が大きかった筈ですが、こうした記述になったところから考えると、武州鶴間の継立場も「間の村」が片手間にやる程度のものではなく、実質的に常設と見える様な風情の場所で運用がなされていたのかも知れません。

因みに、矢倉沢往還を往来する「大山詣で」の参拝客が増加してきたのは、大山講が隆盛した江戸時代の中期頃、宝暦年間以降と考えられ、享保14年の裁許よりは後年のことになります。「日記」では、武四郎は武州鶴間、相州鶴間とも「茶店」が存在したことを記していますが、武州鶴間も増大する「大山詣で」の参拝客を無視出来なかったことが窺い知れます。

また、相州鶴間には旅籠が数軒あった筈なのですが、、武四郎はその存在を記していません。見逃してしまった可能性が高いと考えられますが、一方で明治元年に「神仏分離令」が発令された影響で大山講も大きな影響を受けていましたから、沿道の宿泊施設もその動向を見極めて店仕舞いするなどの動きがあった可能性もあります。これも他の史料との照合が必要な箇所と言えるでしょう。



ところで、事情は定かではありませんが、武四郎はこの道中ではかなり先を急いでいた様です。日程を見ると、あるいは東京から京都へ還幸していた明治天皇が、何時再び東京へ行幸することになるのかわからなかったからとも思えますが、「日記」の文面からは当の武四郎にさほど「焦り」を感じるのが難しく、彼にとっては別段普段通りのペースで進んでいたのかも知れません。

「日記」には長津田で昼食を摂ったことが記録されています。初日の宿泊地は厚木ですが、赤坂からの距離は途中の経由地によっても変わって来ますが概ね12里以上になります。東海道を進んだ場合には初日には精々戸塚辺りで宿泊するのが通例であったことと比較すると、相模川を初日に越してしまう武四郎の行程は、当時としてはかなりの「強行軍」と言えます。因みに、赤坂から長津田までは8里あまりもあり、この日の行程の半分以上を進んでおり、厚木の渡しを渡る頃には日が暮れていますから、冬場で日が短いことを考慮しても、長津田での昼食は幾らか遅い時刻になった可能性はありそうです。

以前このブログでも何度か取り上げた渡辺崋山の「游相日記」(天保2年・1831年)では、途中宿泊した折に主人と深夜まで酒を酌み交わして翌日は遅く出発したこともあって、1日に進む距離が短くなり、荏田と下鶴間で宿泊したことが記されていますから、「日記」とは極めて好対照な道中だったと言えるでしょう。

武四郎の道中が日程的に余裕がないものであった分、道中の周景の描写は比較的薄めになったのではないかと思われます。自宅を出てから相州鶴間に到着するまでの間の記述には、各継立場の簡単な様子と脇道に関する記述が出る程度で、周辺の田畑や作物についての記述は一切現われません。相州鶴間に着いた所で初めて

地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。從是小松原、大松原等有中を正面さして一筋道。見むきもやらず左右處々に畑も見ゆれども何れも芋麥のよし也。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより)

という、周辺の田畑についての記述が現われます。

地味の良さは人足から伝え聞いた可能性もありますが、冬場で休耕中の田畑が多い分、土の状態が見えやすかったということかも知れません。食べているものが良くない様に見えるというのは、茶店などで休憩している旅人の皿の上を見たのでしょうか。麦は冬を過ごさせるものですから実際に栽培されているものを見ている筈と考えられますが、やはり冬場では栽培されているものも乏しいことから、同行する人足に話を訊いたのでしょう。

鶴間以西の矢倉沢往還
鶴間以西の矢倉沢往還のルート図に
数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの
矢倉沢往還のすぐ南側に引地川源流地が見えるほか
かつての谷戸と思しき窪地が南北方向に何本も並んでおり
何れも矢倉沢往還の近くに端を発しているのが窺える
矢倉沢往還の走る辺りが
相模原台地の地下水が地上に現われ始める地帯に
相当していることがわかる
(「地理院地図」上で作図したもの
をスクリーンキャプチャ)
相州鶴間の水田は境川と支流の目黒川沿いに集中しており、その西側は相模原台地の上に当たり、水田に必要な利水が確保出来ないために、畑が大きく広がっていました。「大和市史4 資料編 近世」のまとめるところによれば、下鶴間村の村の水田14町7反3畝2歩(約14ha)に対して畑が74町1反9畝12歩(約74ha)あり、全耕地面積の8割以上を畑が占めていました(35ページ)。更に、村の西側は「相摸野」の南端が大きく占め、「鶴間野」などとも呼ばれるこの地は、西隣の栗原村に差し掛かる地域まで入会地となっていました。

「日記」の記述は、基本的にはこうした土地利用の実状をよく反映していると言えます。「小松原」「大松原」とあるのが、武四郎の見た「相模野」の描写ということになるでしょう。とは言え、やはり先を急ぐ道中では周囲に細かく目を配るほどの余裕はなかったと思われ、まして土地勘のない村の実状について掘り下げたことを書くのは無理なことであったでしょう。人足が相手では、聞き出せる村の実情についての情報も、限られたものになってしまうのは避けられないところです。

この点は、崋山の「游相日記」と比較するとその違いが良くわかります。彼の道行きの目的の一つは、その途上の農産物などを視察することにありました。その分、武四郎に比べれば「相模野」についての予備知識もありましたし、前日までの道中に現地の人々に訊ねて仕入れた情報も持っていました。その分、武四郎の「日記」の記述よりも一歩踏み込んだものになっています。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

鶴間原出づ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よつて、柴胡(サイコ)の原ともよぶ。諸山いよいよちかし。

(「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)所収、327ページより)


崋山はこの地域の養蚕についてとりわけ関心を持っていたことが、桑と山桑(柘)の違いについて具体的に記しているくだりからも窺えます。また、別の場所で長津田や鶴間が養蚕を行っていることを記していることからも、この地が養蚕に積極的に取り組んでいることを知った上で周囲の様子を見ていると考えられます。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via
ウィキメディア・コモンズ.)
そして、崋山自身が俳諧に精通していたこともあり、「相模野」が「柴胡が原」とも呼ばれていることは承知であったのでしょう。崋山が旅した天保2年9月22日(グレゴリオ暦:1831年10月27日)はミシマサイコの花期(概ね8〜10月)としてはほぼ終わり頃で、運良く道端で咲く柴胡の花を見られたかどうか微妙なことから、「柴胡多し」の記述を字義通りの目撃情報として受け取るべきかどうかは一概に言えませんが、少なくとも崋山が「相模野」に差し掛かった折に「柴胡が原」のイメージを重ねて見ているのは確かでしょう。

武四郎は、道中通過する地域についてのこうした予備知識は、持ち合わせていなかったのでしょう。また、桑は冬場には葉を落とすことから、周囲に桑を植えている家や畑があることに気付き難い季節だったことは考えるべきかも知れません。もっとも、武四郎が人足との会話で比較的裕福な村であると知らされた際に、継立や養蚕など村の経済の支えになり得る稼業について話題にならなかったのかという点は気掛かりです。特に養蚕は、幕末の開国後にそれまでの幕府の方針が転換されて積極的な推進・援助策が打ち出される様になっており、天保の頃とは違って憚りなく取り組むことが出来る環境になっていた筈です。しかし、「日記」には養蚕については触れられずに終わっています。あるいはこうした産業には、武四郎の興味が向かなかったのかも知れません。



今回は結局鶴間周辺の記述についての分析で終わってしまいました。次回はもう少し先に進みたいと思います。

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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は、東京を発って足柄峠を越えるまでの区間で営まれていた継立についての記述を見ていきます。

今回はまず、「日記」中の記述をまとめて取り上げます。基本的には現在の神奈川県域に限定しますが、多摩川を渡る手前の継立についても含めます。

  • 世田谷(648ページ、現:東京都世田谷区世田谷):

    世田谷馬繼人家百軒[ばかり]籔中に立繼けり。茶店旅籠(はたご)や等もなく只馬繼と言ばかりなり。

  • 長津田(以下649ページ、現:神奈川県横浜市緑区長津田):

    長津田馬繼。はやごや茶店有。爰にて晝食す。

  • 鶴間[武蔵国](現:東京都町田市鶴間):

    また原道一り八丁にして鶴間馬繼。茶店有

  • 鶴間[相模国](現:神奈川県大和市下鶴間):

    細き流れをこへて八丁、相模鶴間馬繼茶店。是より相模の國のよし。地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。

  • 国分(現:神奈川県海老名市国分南):

    二りにして國部村馬繼茶店。此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。

  • 厚木(現:神奈川県厚木市厚木町):

    厚木宿馬繼。茶店。旅籠や有。三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

  • 愛甲(現:神奈川県厚木市愛甲東):

    上岡田、下岡田、酒井、小柳村等過て一り愛甲農家斗にて名主の宅にて馬繼ス。爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

  • 糟谷(以下650ページ、現:神奈川伊勢原市下糟屋):

    糟谷市町よろし。乘馬有。名主にて馬繼す。はたごや有。大山比には餘程繁華の由也。

  • 神渡[神戸(ごうど)](現:神奈川県伊勢原市神戸):

    一り、神渡市町少し有。馬繼有。爰も大山比は盛のよし。

  • 前波[善波](現:神奈川県伊勢原市善波):

    前波馬繼也。村の山の端のこゝかしこに一二軒づゝ散居。何處が馬場なるや問しかば、此上の茶屋にて呼べしとて九折(つゞらをり)しばし上るや、あやしき藁屋にて茶わかしひさぐ家の有により爰にてヲテンマーと呼け(る)や、遙か向ふ谷の森かげにて答えしが、あれは山彦かと思ひたゞずむ間に其山かげより二人の人出來りぬ。かくて其場通(り)を上ること凡十丁斗に峠に至る。此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、下ることしばしに而一り

  • 十日市場・曾屋(現:神奈川県秦野市):

    十日市場市町乘馬も有。はたごや。馬繼。并て曾屋一り。宜敷處也。

  • 千村(現:神奈川県秦野市千村):

    千村山の上に一村落有て馬を出す。地味至而よろし。また人家も富るよし。

  • 神山(現:神奈川県足柄上郡松田町神山):

    神山村田作多き村也。名主宅(に)而繼。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて(つぎ)其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)(原文抹消)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。

  • 関本(現:神奈川県南足柄市関本):

    關本畑村にして少し町並有。馬繼。從小田原三り

(以下も含め、「日記」の引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従うが、ブログ主が付加したものは[ ]にて示す)


継立場の位置を地図に示すと以下の通りです。ここでは、「日記」に登場する継立場を赤で、登場しない継立場を青で示しています。

矢倉沢往還の継立場の位置
矢倉沢往還の継立場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「明治期の低湿地」を合成)

「新編相模国風土記稿」中の矢倉沢往還に関する記述は、以前の記事でまとめましたので、ここではリンクのみ一覧で示します。なお、「新編武蔵風土記稿」については必ずしも継立について記述しない事例が多いため、ここでは割愛します。


善波の位置
善波峠の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
現在は新旧2本のトンネルで峠を潜る
かつて継立場があったと思われる辺りは
現在は大きく削平されて「ホテル街」になっており
当時の「つづら折り」の坂道などの名残はない
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この一連の記述の中で最初に注目すべきなのは、善波での継立の様子でしょう。1、2軒ほどの家が山裾に建ち並ぶ様な集落で、何処が継立場なのかを訊いたところ、坂上の茶屋で訊けと返事があり、つづら折りの坂を登ると藁で出来た茶屋がありました。ここで店の主が「おてんまー(御伝馬)」と呼ぶと遠くの谷の森陰から返事があり、山彦が返ったのかと思いきや、やがて2人の人足が現れた…と、武四郎が目撃した様子が具体的に記されています。

この様な記述を、継立の実情を知りたいだけの武四郎の質問に、地元の人がわざわざ実演してみせた様子を書き記したものであると考えるのは、あまりにも無理があります。つまり、武四郎はここで実際に自身の荷物を運んでもらうべく、継立を利用していたことがわかります。当然ながら、彼が善波でだけ人足を雇ったと考えるのも不自然ですから、彼はこの京への道中で一貫して継立に荷物を運んでもらっていたのでしょう。とすれば、「日記」の一連の継立の記述は、この道中に実際に彼の荷物を受け継いだ場所ということになります。どれ程の荷物を武四郎が携えていたのかは「日記」に記載はありませんが、勅命を受けての道中であり、前年にも北海道に関する一連の資料を持参して褒美を受け取っていることから考えると、この時も当時の通常の道中よりは多少なりとも荷物が多かったと考えて良さそうです。


また、この道中では常に彼の荷物を運ぶ人足が同行していたことになります。当然ながら、道中ではこの人足から地元の様々な情報を得ていたことになるでしょう。「日記」に書き付けられている沿道の情報のうち、明記がないものの多くはこの継立人足からのものである可能性が高そうです。もっとも、その精度については人足の記憶違いなどの影響も有り得ることから、他の史料と擦り合わせて検証する必要があると思われます。もう少し日程に余裕を持たせていれば、要所で村役人などもっと精度の高い情報を持っている人物に会って話を聞くことも出来たでしょうが、少なくとも「日記」の記述から読み取れる限りでは、その様な人物に会った機会は殆どなかった様です。

実際、「日記」中の継立に関する一連の記述をもう少し分析してみると、そこには様々な「疑問点」が浮かんで来るのも事実です。以下、その疑問点を書き連ねてみます。



まず、善波では当時人馬が継立場に常駐していなかったことがわかりますが、これはそれだけこの辺りでの継立の輸送需要が低かったことを物語っています。幕府から「百人百疋」の人馬を常駐させることを義務付けられていた東海道の様な街道の場合は、継立場に荷主が到着した時に次の区間を受け持つ人馬がいないという状況が起きない様にしなければなりません。しかし、それに見合った輸送需要がなければ、それだけ余った人馬が仕事がないまま日がな一日暇を持て余すことになり、収入がないままに食費等のコストだけが嵩むことになります。

矢倉沢往還の場合は東海道の様な人馬の常駐義務はありませんでしたから、善波では普段は人馬を常駐させず、他の仕事をしながら荷主が来るのを待っていたのでしょう。その分、荷主には次の区間に向けて出発するまで「待ちぼうけ」を喰わせることになりますが、その時間を短縮出来る程の需要がないのであれば、これも止むを得ないことではあったでしょう。


もっとも、幕末の混乱の中で、特に文久2年(1862年)に起きた「生麦事件」の後は矢倉沢往還に東海道を移す計画が検討されていた位で、この時期には荷物が矢倉沢往還に流れて継立も相応に輸送需要が上がっていた筈です。それだけに、明治2年の「日記」に記されたこの光景の通り需要が低かったとすれば、それは善波付近にはこうした需要が及ばなかったことによるものなのか、あるいは倒幕によって混乱が収まったことにより輸送需要が急速に東海道に戻ったことを意味するのかが気掛かりですが、この記述だけでは判断しかねる所です。

一方、武四郎が通い慣れない道中の事情に疎いのは当然としても、善波まで荷物を継いだ人足は、基本的に自分の荷役の到着地である次の継立場について知識があっても良さそうです。しかし、「日記」の記述を見ると善波の継立場の所在についてわざわざ当地で問い合わせている様に見えます。いささか要領を得ない対応である様に見えますが、これも輸送需要が少ないために人足側も経験値が乏しかったのかも知れません。



次に、最初に荷物を継いだ世田谷ですが、藪の中で馬を継いだという、継立場にしては随分仮設の様な場所であったのみならず、茶店も旅籠もなかったことが記録されています。これ自体もかなり妙な状況ですが、問題なのはこの先、長津田まで継立についての記述が現われないことです。

二子と溝の口の位置
二子と溝の口の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
実際は、この間に二子・溝の口(現:神奈川県川崎市高津区二子・溝口)と荏田(現:神奈川県横浜市青葉区荏田町)に継立場があった筈なのですが、これらについての記述が見られません。まず、二子・溝の口では「新編武蔵風土記稿」によれば
  • 二子村:

    相州街道村の中程を南北へ貫く、民家八十二軒此街道の左右に軒を並ぶ、其内商家旅店も交れり、溝口村と組合て宿驛の役を勤むと云、

  • 溝の口村:

    相模國矢倉澤道中の驛場にて、此道村へ係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、…當所昔は今の二子村の地をも合せて村内なりしに、一旦分村し當村のみ宿驛にて其役を勤めしとぞ、然るに二子村盛なりける程に、二村持合となり、今は月ごとに半月づゝわかちて人夫を出すなり、

(何れも卷之六十一 橘樹郡之四、雄山閣版より)

と、2村が交互に継立を勤めていたことが記されています。しかし、「日記」では

溝の口在町。人家少し。町なみ立つづく。茶店はたごや有。從日本橋四里といへり。此道すじ世田ヶ谷え廻りて太子堂と云に出て、此處え來らば半里も近きよしなり。

(649ページより)

と、茶屋や旅籠が建ち並び、またここまでに別の「近道」が存在していたことを何者かから告げられた旨の記述があるものの、ここで荷物を継いだことは記されていません。

荏田の位置
荏田の位置。青線が矢倉沢往還(概略)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
荏田に至っては、今回参照した「紀行集」に掲載された「日記」ではその名前すら登場しません。もっとも、「貮りにして窪田并て(649ページ)」と記されているのは、沿道周辺に該当する地名が見当たらないことや、溝の口から荏田の距離が2里とされていること、更に字形の類似から、「窪田」が「荏田」の誤記もしくは翻刻ミスではないかと思われます。委細は「日記」の原本を見ないと確定は出来ませんが、何れにせよこの記述では同地はほぼ素通りしたに等しく、ここで荷物を継いだことが全く語られていないことに変わりはありません。因みに荏田での継立については「新編武蔵風土記稿」には記述が見られませんが、享保十四年十月の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」という訴訟の記録では

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」313ページより、強調はブログ主)

と、荏田村が継立村の1つとして書きつけられているなど、荏田の継立に関する史料がいくつか伝わっています。

何故この様な記述になってしまっているのか、原因の1つとして考えられるのは「記載漏れ」です。先程の「窪田」に引き続いて「并て」とあるのは、「窪田」が「荏田」のことと考えると相当に理解不能です。荏田から次の長津田までは2里と隣接する様な距離ではありませんし、その間には市が尾村が挟まり、地形上も恩田川の谷を越える比較的足に負荷の掛かる区間ですので、それなりに歩いた実感はある筈です。「窪田」が長津田に隣接する地元のみで通用する程度の小名だったとしても、荏田を差し置いて記録された理由がわかりません。他の意味で荏田と長津田を並列的に語ろうとしたと解釈するのも、かなり無理があると言わざるを得ません。つまり、「日記」のこの区間の記録の精度が必ずしも高いとは言えない点を考えると、継立場についても記載漏れの可能性を考えないといけないのも事実です。

もっとも、武四郎のこの時の紀行が勅命を受けてのもので、「日記」がその報告書としての性質を持っていること、また街道上で運用されている継立の実情は、当時の交通行政上は特に人や荷物を運ぶ上で必要となる労力の調達がどれだけ滞りなく行えるかという主関心事でした。その点では、継立にまつわる情報の精度が低いままで「日記」を提出したのだろうかという疑問は残ります。武四郎の思い違いが反映した可能性があるにしても、他の継立区間に比べてこの区間だけ継立場間の距離が長過ぎる(合わせて4里も余分に運んだことになる)ことに、武四郎が無頓着であったと考えるのも、いささか不自然であると考えられます。

今ひとつ考えないといけない可能性は、実際に「日記」の記述通りに継立が行われたということです。しかし、これは2箇所の継立場を勝手に「継ぎ通し」したことになり、継立の運用上は重大な「ルール違反」です。継立場間で予め取り決められている通りに荷物を継ぎ送らないということになると、継ぎ通しを行った人足に対してはその距離に乗じた運賃収入が余分に支払われることになるものの、「継ぎ通されてしまった」区間を受け持つ人足にとっては仕事を奪われてしまうことになります。こうした身勝手な運用が横行してしまうと、継立を担当する村相互の信頼関係を損ねることになりますので、何処で継立を行い、その区間で駄賃をいくら取り立てるのかといった取り決めを厳しく守ることが、継立村相互に求められていました。

しかし、ここで考えなければいけないのが、「日記」に記された明治2年当時の社会状況です。江戸幕府が倒れて明治新政府が樹立された直後のこの時期、継立については基本的には引き続き江戸時代と変わらない運用が続けられてはいました。しかし、東海道では折りからの急激なインフレに対応すべく、定飛脚の継立料の大幅な値上げを認めるなど、部分的な改定を行ってはいたものの、旧来からの運用を維持するには苦しい状況が続いていた様です。輸送業務が新設された陸運会社に引き継がれて近代化が行われるのは明治4年から5年にかけてですので、「日記」の数年後ということになります。幕末から維新直後の矢倉沢往還の運用の実態を明らかにする様な史料は私は今のところ未見ですが、こうした社会状況は多かれ少なかれこの道筋でも影響を及ぼしていたのではないかと考えられます。

世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
世田谷付近の矢倉沢往還の新道と旧道
当初は世田谷村の中心地を通る道筋だったが
後に幾らか近道となる道筋が本道となったとされる
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした事情を勘案しながら、改めて長津田に至るまでの道筋を見返すと、どうも世田谷での継立が「不自然」な形で行われていることが気に掛かります。次の継立場だった筈の溝の口で、本来は別の近道があった筈ということが指摘されているのは、あるいは新町(現・世田谷区桜新町)を経由する矢倉沢往還の新道を経由せずに、世田谷の代官屋敷があった中心地を抜ける旧道を行ったのではないかと考えられます。人家の数が百軒ほどと比較的多いのは、村の中心となる集落を抜けた可能性は高いものの、藪の中で継立をという記録からは、そのどちらでもない道を行って本来の継立場ではない場所に連れて行かれた可能性さえあります。武四郎の自宅から世田谷まで荷物を運んで行った人足と、その先長津田までの遠距離を運んだ人足が、最初からそのつもりで示し合わせて「継ぎ通し」を企んだことになりそうです。

土地勘のない武四郎には、通常ではない荷継が行われていることが見抜けなかったのかも知れません。一方、溝の口や荏田の継立場の前を武四郎の一行が過ぎる際に、「継ぎ通し」を咎める人間がいなかったとすれば、矢倉沢往還の継立の当時の運用も、かなり混乱する事態に陥っていたのではないかと推測されます。

実際にこの区間で何が起きていたのか、「日記」の記述からだけでは断定は出来ません。しかし少なくとも、他の様々な史料から確認出来る矢倉沢往還の本来の継立運用からは外れた記述となっていることは確かです。この記述を、幕末から維新直後の継立運用の実情を物語る事例と看做すことが出来るものかどうか、検証が必要ではないかと、個人的には考えています。



次回も「日記」の継立などの記述を取り上げる予定です。

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