FC2ブログ

石上の渡し→山本橋の記録:小川泰堂「四歳日録」より

前々回の記事前回の記事で、石上の渡しにまつわる私の過去の記事を再掲しました。その際、石上の渡しや山本橋についてはその後新たな情報を得ていないということを書いたのですが、その直後に別件で分析を始めた資料の中で、偶然石上の渡しから山本橋に切り替えられた頃の記録を見つけました。今回はその記録についてまとめることにしました。

今回調査している資料はこちらです。

藤沢市史料集(二十二) 小川泰堂「四歳日録」(上)

藤沢市史料集(二十三) 小川泰堂「四歳日録」(下)

(以上 藤沢市文書館編集・発行、以下「(上)」「(下)」、または「日記」)


小川泰堂(文化11年・1814年〜明治11年・1878年)は幕末から明治にかけて活躍した藤沢の医師です。「高祖遺文録」「日蓮大士真実伝」といった、日蓮に関する編著作で知られる人ですが、藤沢の地誌として「我がすむ里(藤沢名所図絵)」を弱冠16歳の時に著した人という側面もあります。


「四歳日録」は明治6年(1873年)の元旦から明治10年の7月までの4年あまりにわたって書き続けられた泰堂の日記です。今回この「日記」を紐解いたのは、以前の記事で取り上げた「中空日記」に見られる藤沢宿付近の観天望気に繋がる記述が、何かしら見つけられるかどうかを捜すのが目的だったのですが、その中で偶然山本橋へ切り換えられた翌日の記述を見つけ、それを切っ掛けに山本橋に関連する記述を捜す作業を先に行うことにしました。


明治20年測図の地形図に見られる山本橋と、同地の現在の地形図
この時点では明治6年に架橋された山本橋が存続していたと見られる
(「今昔マップ on the web」)より

「日記」の該当箇所は次の通りです。

(注:十二月)八日 晴、片瀬へゆく。石神の(わたし)口、橋となる。昨七日より人を往來(ゆきゝ)せしむ、橋錢(はしせん)一人一錢なり。こは區長(くてう)山本莊太郎の發起(ほつき)丹誠(たんせい)によるといふ。橋番(はしばん)の男に橋名(はしのな)をとへばいまだ(きか)ずといふ。我れ心中に龍口山(りうかうさん)()の山本氏起立(きりつ)せしゆゑ、龍本橋(りうほんきやう)などありたしと思へり。

((上) 67ページより。以下を含めルビも同書に従っているが、何れも原文に付されているもの。漢字表記も異体字を用いている箇所と現行の漢字を用いている箇所が共存しているが、Unicodeで表記可能な限り同書に従う。括弧内の注はブログ主)


この記述と、「日記」の他の箇所から読み取れることは、概ね次の通りと考えられます。

① 開通日の問題


まず、「日記」に従えば山本橋の開通日(竣工日)は明治6年12月7日だったことになります。今のところ山本橋の開通日を書いている資料はこの日記以外に見ていませんので、現時点では「『四歳日録』に従えば」という留保が外せません。ただ、上記書の解説を執筆された泰堂の御子孫によれば、泰堂は「日記」を書く上で時には下書きを行った上で清書をしていたとのことであり、ルビがまめに振られるなど日記としては他者の目に触れることを意識したかの様な一面も見られることから、この様な記述の精度には相応に気を配ったのではないかと考えられます。

これに対して考えなければならないことが2点ほどあると思います。まず1点目は、前回の記事に登場する「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」の記述には「明治6年10月」と記されていることです。「日記」の日付とは2ヶ月程度のズレがあることになります。「取調書」の方は開通から30年以上経過してからの調査に基づいたものですから、自身の見聞を書き付けているであろう「日記」の記述よりは間接的なものと言わざるを得ません。しかし、そのことを以って一方的に「取調書」の方を誤りと結論付けてしまうのは尚早と言うべきでしょう。同種の記録を更に探索する必要があります。

小川泰堂邸と山本橋等の位置関係
小川泰堂邸と山本橋等の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」「陰翳起伏図」等合成
別ページで表示
2点目は、山本橋の架橋工事の開始時期です。「日記」には架橋中の様子に関する記述は見られません。この橋、あるいは石上の渡しを泰堂が通過するのは、藤沢宿内にあった泰堂の家の位置から考えて、江の島や龍口寺常立寺といった片瀬村(現:藤沢市片瀬)の寺院を訪れる際の途上であったと考えられます。因みに「日記」の記述によれば、泰堂が鎌倉へ行く際には江島道を通らず、手広・常盤を経て長谷へと向かう「かまくらみち」を使うのが常でした。


そこで、山本橋が開通する直前に江の島方面に向かった日の記述を「日記」から探すと、3ヶ月ほど前の同年9月11〜12日だったことがわかります。この2日間に泰堂は自宅と片瀬の間を2往復していることになります。

十一日 曇る、午前七時八萬(はま)(注:泰堂の妻)を(たづさえ)龍口寺(りうかうじ)參詣(さんけい)し、常立寺(じやうりうじ)に一盃をすゝめられ、又茶店(ちやてん)嶋屋(しまや)(なにかし)樓上(ろうしやう)酒飯(しゆはん)し正午人車(じんしや)(たす)けられて(かへ)る。東京より根本明甫(めいほ)・藤懸亥淵(かいえん)・柴田孤松(こしやう)及び藤助・根本の(せかれ)辰麿(たつまろ)五名(とごにん)來訪(らいはう)せり。(よろこん)宴飲(えんいん)(うなが)し午後四時これに(ともなは)れて又片瀬(かたせ)の方に散歩(さんぽ)し、此夜は江の嶋觀濤軒(くはんとうけん)宿(しくす)。…

十二日 朝六時より大雨(たいう)(ぼん)(かたふ)く、午後晴る。常立寺の案内(あんない)にて皆々一齊(いつせい)龍口寺(りうかうじ)(さい)し、仁兵衞・藤助外二名とは至急(しきう)橫濱(よこはま)(いた)るとて發車(はつしや)す。亥淵(がいえん)孤松(こしやう)明甫(めいほ)淸談(せいだん)(あま)りありとて()(たづさ)へて(ともな)ひつれ、我が艸廬(さうろ)(かた)りあかす。…我れ昨日(きのふ)は家に居らず、今日午後(ごゝ)四時(しゝ)還行(かんかう)發輿(はつよ)(注:留守中に寒川神社の御輿が藤沢に来ていたものが帰還する際のことを記している)を拜して燈下(とうか)(しる)す。

((上) 51〜52ページより、以下も含め「…」は中略。なお、「擕」の字は手偏が「隹」にのみ掛かる形の異体字が用いられている(リンク先はグリフウィキの該当字のページ)。また「宴」の字はウ冠(宀)が鍋蓋(亠)に置き換えられた異体字を用いている(グリフウィキにも登録なし)。何れもUnicodeに登録がないためこの字で代用。)


しかし、ここには石上の渡しの名前は全く登場しません。勿論、石上の渡しで山本橋架橋に向けた動きがあった点についても記述はありません。これを、この3ヶ月ほど前の時点ではまだ工事が始められていなかったと解すべきか、それとも泰堂が工事に興味を示さず記述しなかったと見るべきかは、この記述だけではどちらとも解釈できません。

ただ、前回の記事で紹介した「皇国地誌」などの記述から、この橋が木製であったことはわかっており、概ね在来の工法によって築かれたものであろうと推測できます。それであれば、40m弱の橋をこの3ヶ月の間に架けてしまうこと自体は、それほど難しいことではなかったのではないかと思われます。また、先述の「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」の「明治6年10月」という日付も、竣工日ではなく起工日と取り違えた可能性も考えられます。それであれば9月時点では架橋に向けて何ら動きがなかったことになります。

何れにせよ、この点を考える上では更に別の史料が必要です。

② 橋銭の問題


「日記」の記述では橋銭は「ひとり1銭」だったとしています。これは、前回紹介した服部清道氏の「3文」と一致しません。服部氏は「藤沢市史資料 第十一集」の中でこの話を記す際に出典となる文書を示していないので、服部氏が参照している史料がどれなのか、探し出す必要があります。

そもそも、明治4年(1871年)には新たな通貨である「円」が発行されていますから、それから2年あまり経った山本橋開通時点で旧来の通貨による橋銭の支払いが認められていたのか、という問題が服部氏の「3文」という橋銭にはあることになります。ただ、旧通貨から新通貨への切り替えは実際にはスムーズには進まず、旧通貨の新通貨への引き換え停止は何度も繰り延べされて明治の中頃まで続けられています。橋銭についてもその点を配慮して当初は新旧両方の通貨に対して価格を設定せざるを得なかったのかも知れません。そうであれば、泰堂の「1銭」と服部氏の「3文」が同時期に並存していた可能性もあり得ることになります。


因みに、「日記」中で山本橋の橋銭の記述が登場するのはここのみです。その後も泰堂は幾度となく江の島方面に出掛けていますので、その都度橋銭を支払っていた筈ですが、そうした細かい出納については「日記」では滅多に記されていません。

③ 橋の名称の問題


橋番をしていた男性が橋の名を問われて「聞いていない」と答えてます。これは、実際に橋に名前がまだなかったためとも考えられますし、何らかの事情でこの男性に橋の名称が伝わっていなかったためとも考えられます。これも更なる史料収集が必要です。

開通から1年ほど経過した7年12月の「日記」には

(注:十二月)九日 …日仁上人(注:常立寺住職)の誘引(ゆういん)(より)て…片瀬(かたせ)常立寺(しやうりうじ)きに(いこ)ひたるに、…(しい)一泊(いつぱく)をすゝめられしかども、…(いとま)()ぐ。日仁上人…我が(かへ)るを送らる。山本橋にいたる(ころ)日もたそがれけれは、こゝに上人に()し夜をかけて家にかへる。

((上)133ページ、強調はブログ主)

と書いていますので、仮に開通時点で橋の名称が決まっていなかったとしても、その後1年未満で「山本橋」の名称が決まって周知されたことになります。

また、この橋には橋の名称を掲げる橋銘板の掲示が、少なくとも開通時点ではなかった(若しくは目立たない箇所にあって泰堂も橋番の男性も気づき損ねた)ことになります。もっとも、そもそもこの時代に、橋の名称を橋に掲げる習慣がどの程度あったのかについても確認が必要です。

因みに泰堂は橋の名称について個人的な考えを書いていますが、その内容から橋の創立者である山本荘太郎とは知己であったことがわかります。但し、「日記」には泰堂と関係のあった人物の名前が非常に多数登場しますが、その中で山本荘太郎の名前は他に1回登場するのみです。この山本荘太郎については、藤沢市の他の史料に名前が登場しますので、後日それについて取り上げて改めて山本橋との関連を考えてみたいと思います。



この他にも、泰堂が「石上」(現:藤沢市鵠沼石上)を「石神」と表記している点についても検討が必要ですが、これについては他の地名の表記についても一緒に取り上げた方が良さそうですし、そうなると山本橋の話題から若干逸れて行ってしまいますので、これについては次回以降に廻します。

スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

【過去記事再掲】石上の渡しについて(その2)

前回に引き続き、今回も閉鎖した以前のブログから、「石上の渡し」について私なりに調べてまとめた記事を再掲します。2011年に5回に分けて公開したもののうち、残りの2回です。当時はGoogleブックスで検索してヒットした文献へのリンクを含んでいましたが、今回確認したところ表示出来なくなっていたため、その箇所は書き改めています。

石上の渡しについてはこの記事以降に得た情報が乏しく、現在も当時と私の見解が殆ど変わっていないのが実情です。ただ、明治になって早々に山本橋が架橋された後、県によって架け替えられるまで水害等で落橋したという記録を見ていませんので、在来の工法でもこの位置での架橋は十分に可能であったと言えます。その様な箇所が永きにわたって舟橋として運用されて渡し賃を申し受けていたという実態は、鎌倉幕府の頃からの由緒のある渡河地であったという根拠がなければ考え難いことであり、こうした観点から当時の記録を更に探して検証する必要があると考えています。

④ 紀行文・旅日記から(4)渡し賃の変遷


引き続き、石上の渡しの話題。今度は渡し賃の問題です。

最初に、今回見ることが出来た紀行文(何れも「藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)」所収)から、一通り渡し賃の記されたものを並べてみます。必ずしも石上の渡しであることが明記されていなくても、文脈からこの渡しである可能性が高いものを含みます。

「いせ参宮道中小つかい帳」明和八年[出羽国村山郡楯南村]安孫子周蔵
「八日
 一、弐十壱文 ゑのしま舟ちん、海渡し
 一、八文 ふち沢江の出口渡し
 一、五十文 平つかより馬」
「参宮道中記」安永六年[出羽国村山郡高屋村]今井公七
「…此間ニ舟橋ニ五文出ス」
「伊勢参宮旅日記」文政六年[陸奥国牡鹿郡大瓜村]菊枝楼繁路
「…夫より川有、舟セン五分」(五文の誤り?)
「伊勢道中記」文政九年[出羽国田川郡清川村](藤四郎)
「…次ニ橋賃五文ニ而渡ル」
「道中記」文政十年[出羽国田川郡酒田]石塚長三郎
「…カタ瀬村入口ニ茶屋アリ 出口ニ川アリ、橋賃五文渡レハ、石上村」
「伊勢参宮日記」弘化二年[陸奥国]藤原某氏
「…つなき舟のわたし有、五文ツゝなり」
「伊勢参宮並諸国神社・仏閣礼拝道中記」安政五年[陸奥国閉伊郡(末前村)七瀧]久兵衛
「…十丁斗行て小川小ばしあり拾弐文つゝ」
「御伊勢参宮道中記」文久二年[出羽国田川郡肝煎村]森居権右衛門
「…石神村爰ニ片瀬川ト申川 渡賃拾二文出し」
「旅中安全」文久二年(著者不明)
「一 廿四文 渡船」※この辺り2人での道中と推測
「道中記」年次不詳[出羽国村山郡寒河江]著者不明
「一 江の嶋 …此間さきニ川有、舟ちん五文なり…」

事例が多くなりましたが、幕末の安政年間以降は、当時の政情不安を反映してインフレが進んでいましたので、相応に12文まで渡し賃が跳ね上がっていますが、それ以前は5文で安定していた様です。最後の「道中記」も、逆に5文の船賃から安政年間以前であろうと考えたくなる程です。因みに、「旅中安全」については相模川の渡しまでは3人での道中で、江の島での宿泊が2人に減っているのですが、わざわざ江の島までついて来て宿泊せずに引き返すよりは、江の島へ向かう手前で別れたものと考えた方が辻褄が合うものと考えました。それであれば1人前12文で他の同時代の事例と同じになります。

問題は、最初の安孫子周蔵の事例でしょう。今回見た紀行文の中では最初の事例に当たるのですが、8文とそれ以降よりも高い値段になっています。これをどう解釈すべきか、もう少し詳しく分析する必要があります。

「神奈川の東海道(下)」(神奈川東海道ルネッサンス推進協議会、神奈川新聞社発行)にこの安孫子周蔵の明和8年の紀行文について解説されているのですが(166~169ページ)、この本に従えば周蔵独りでの道中ではなく、3名での道中であったとのこと。そうなると、この渡し賃が1人前なのか3人前なのか、俄に判断し難くなります。3では割り切れない額であることから1人前と考えると、その後の事例よりも高い金額を渡し守に支払ったことになってしまいます。

何故その様なことになったのか、手掛かりになりそうな史料を探っていて、この渡しについての興味深い申し合わせ書が見つかりました。

差上申一札之事(控)

一 石上船賃銭割方之儀、去未年より段々御吟味御座候処、此度 寺社御奉行 土屋能登守様ニおゐて御吟味分明ニ相分、先規之通村一対に罷成候上ハ於渡場初穂奉加として、先年之通り(びた)九貫文宛差上可申儀被御渡候奉畏候。万一違犯仕候ニおゐてハ如何様ニ茂御仕置奉受可申候。右之義共子孫江申伝違背為仕申間敷候。為後証惣百姓連印仕差上申処如件
安永四未年十二月九日
石上村

(以下百姓連名連判8名分、及名主重兵衛署名と印)

御地頭所
御役人衆中

これは「藤沢市史資料 第十一集(服部清道編 藤沢市教育委員会)」に収められていたものですが、編者によれば、「この文書は、石上渡しが漸く幕吏の眼のつけるところとなり、寺社奉行の吟味によって渡場初穂奉加として鐚九貫文宛年々上納することを申し渡されたことについての石上村惣百姓の連印請書である。」とのこと。

徳川光圀もかつてこの地を訪れていることを考えると、幕府が全く関知していなかったというのもおかしなことですが、恐らくはその頃は取るに足らない交通量だったので黙認していたのでしょう。それが、江の島詣でが庶民にも普及してくるにつれて交通量が増え、それに伴って渡し賃収入が膨れたために、幕府としても取り締まることを考えたのではないでしょうか。

そして、この「安永4年(1775年)」という年を上のリストに当てはめてみると、丁度安孫子周蔵(明和8年=1771年)と今井公七(安永6年=1777年)の間に来ます。偶々なのかも知れませんが、その後5文でひとまず安定した事を考えると、どうやらそれまで少々高い渡し賃を吹っ掛けていたことを幕府に咎められた、という見方が出来そうです。実際のところ、上には引用しませんでしたが、周蔵は石上の渡しを8文で渡った同じ日に、馬入の渡しを10文で渡っているのです。2つの河川の規模の違いを考えると、石上の渡しの8文は如何にも割高です。苦情が幕府の耳に入ったとしても不思議ではありません。

そして、その様に考えていくと、この渡しがその後舟橋の運用へと変わっていくのも、幕府に渡し賃を据置かれたために「労力削減」を考える様になったと考えると合点がいきます。野良仕事の合間に渡しの仕事をする手前、あまり人を張り付けて置けないとすれば、舟橋に変えて渡し賃を取る番人だけを置く様になっていったのではないでしょうか。

⑤ 石上の渡し→山本橋へ


「石上の渡し」が明治に入って山本橋へと変わっていくことは既に触れた(再掲時注:先行する記事で「新編相模国風土記稿」の「石上の渡し」の記述を取り上げた際に、「山本橋」への架替について紹介した)通りですが、最後にこの経緯を少し浚ってみたいと思います。

明治初期のローカルな地誌を探るには、まずは「皇国地誌」を紐解くのが妥当な所でしょうか。以下、私が閲覧したのは「藤沢市史料集 11村明細帳 皇国地誌村誌」(藤沢市教育委員会)に収録されていたものです。

まず、鵠沼村の「山本橋」の項には、次の様に記されています。

山本橋 鎌倉府ノ頃武蔵国八王子駅ヨリ府ヘノ往来渡リニシテ天正年間マテハ砥上渡リト唱ヒシヲイツノ頃ヨリカ石神渡リトナリシヲ明治六年片瀬村ノ農山本某ノ発明ニシテ架梁トナスサレハ其旧名ヲ襲フテ砥上橋トコソアルベキニ山本橋ト標セルハ惜ムベシ橋ノ(やや)西ニ今(なお)老松ニ株アリ渡リナリシサマ著ルシ
中央ヨリ東南東字石神土耳砥上ナリニアリ片瀬川ニ架シ鎌倉郡片瀬村ヘ通シ江島往来トス長十七間幅弐間半木製ニシテ修繕ハ本村片瀬両村ノ民費トス

他方、片瀬村の同じ「山本橋」の項には、この様に書かれています。

山本橋 三等往還藤沢駅ヨリ江ノ島鎌倉通ニ架リ村ノ北方片瀬川ノ上流ニアリ本村ヨリ鵠沼村エ通ス水量三尺橋間長二十三間巾二間ノ木製ニシテ山本庄太郎自費修造ス

帝国大学図書館に保管されていたものの震災で焼けてしまったこの「皇国地誌」については、各地方に保管されていた各村分の写しを見るしかありません。渡しの両岸にあった鵠沼村や片瀬村についても、それぞれ地元の旧家に保管されていたものが所収されています。鵠沼村の村誌の奥付には「明治十二年二月一日編成」、片瀬村の方は「明治十年五月」とあり、また鵠沼村の方は神奈川県の役人の名前になっているのに対して片瀬村の方は村の「用掛り」の名前が記されているなど、両資料が編纂の段階の異なるものであることが窺えます。が、何れにしても最終的な彫琢を経る前の、より地元の見立てに近い記述になっているものと考えられます。

このため、両者の記述に齟齬があるのは「新編相模國風土記稿」等と良く似た経緯と考えられるのですが、より詳述することを目指したためか、単なる齟齬では済まない食い違いが現れています。それが上記中私がアンダーラインをした箇所ですが、橋の修繕費の受け持ちについての認識が食い違っているというのは、穏やかな話ではありません。

鵠沼村側の記述を更に良く見ると、架橋を企てた農家の名前が片瀬村の方には「山本庄太郎」と明記されているのに、鵠沼村側が「山本某」とされていたり、「山本橋ト標セルハ惜ムベシ」「今仍老松ニ株アリ渡リナリシサマ著ルシ」と、渡しが廃されてしまったことへの未練と暗に山本橋への批判的な眼差が見え隠れしています。

実は、明治末期に編まれた「鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書」には、この山本橋について次の様に記されています。

旧クハ藤澤ヨリノ往還ニ船渡アリ、石上渡ト唱ヘ、当村ト鵠沼トノ持ナリシカ、後明治六年十月片瀬ノ豪農山本庄太郎私費ヲ以テ巾弐間半、長廿三間ノ木橋ヲ架シ、橋銭ヲ徴収セシモ、其後明治三十三年ヨリ縣費ヲ以テ架橋スルニ至レリ

つまり、最初に私費で架けられたこの橋は、引き続き通行料を徴収する目的で架けられたものだったのです。服部清道氏によれば橋銭は当初3文であったとしています(藤沢市史資料 第十一集)が、架橋の時期と通貨の切り換えの時期を考えると、この額も早々に円に切り換えられた筈で、その後の物価変動に応じてスライドしていったものと想像出来ます。それはさておき、幕府が無くなって上納金も廃止になったと思われるものの、引き続き「渡し」業務を続けるつもりであった筈が、片瀬村から橋を架けられてしまったことに対して、鵠沼村側が不満に思うところがあったのではないでしょうか。

もっとも、これも上記にある通り神奈川県が改めて費用負担して架橋したことで、最終的に通行量徴収の運用が廃止され、恐らくそれに従って対立も解けたことでしょう。因みに、藤沢から片瀬(今の江ノ島駅)まで江ノ島電気鉄道が開通するのは明治35年、山本橋の県費架橋からは僅か2年後のことでした。江の島詣での参拝客が只でこの橋を渡って行った期間は、さほど長くはなかったと思われます。

なお、初代の山本橋の規模についても鵠沼村と片瀬村とで長さで6間(約10.8m)もの違いがありますが、これをどう判断するかは不明です。但し、片瀬村の方に「水量三尺」とあることから、橋の下の通船を考えて水上90cmほどの空間が出来る様に考慮していたことが窺えます。

「石上の渡し」の件は今回で一旦締めて、後日また何か気付いたことがあれば追記したいと思います。

※引用文中の強調・ルビはブログ主が付けたものです。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

【過去記事再掲】石上の渡しについて(その1)

前回の記事を受けて「神奈川県植物誌」の引用をまとめて掲載する予定でしたが、まだ全然作業が進まないまま1ヶ月が過ぎてしまいました。間を繋ぐため、今回は私が閉鎖したブログで公開していた過去の記事を再掲することにしました。江島道の途上にあった「石上の渡し」について、私なりに調べたものをまとめたものです。

「地誌のはざまに」で江島道を一通り取り上げた際には、この時の記事の中から一部をダイジェストしました。その様なこともあり、この記事は当ブログ内で改めて公開しておくのが良いと考えました。

この記事は2011年に公開したもので、当時は複数日に分けていました。今回はそのうち最初の3日分をまとめて掲載します。一部当時のブログ内相互の参照を指示した箇所は書き改めています。また、当時Googleマップ上で作成した地図については今回「地理院地図」上で再作成しました。



① 紀行文・旅日記から(1):川名橋を通ることはあったか


石上の渡しについて、実際のところはどうだったのか、もう少し事例を集めてみたいと考え、当時の紀行文などを紐解いてみることにしました。幸いなことに、藤沢近傍の紀行文の抜粋を集めた史料集が発刊されていたため、まずはこれを読み進めることにしました。

藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)-紀行文・旅日記抄- 」(藤沢市文書館編・刊)


全部で95編の紀行文や日誌の抜粋が収められており、差し当たりその中から明治維新以前の紀行文に一通り目を通しました。その結果、幾つか興味深い点がわかってきましたので、数回に分けてまとめてみたいと思います。

まず、藤沢宿から江の島への往来に、石上の渡しを経ずに川名へ抜けてしまう道を進む事例が本当にあったかどうかについて。今回目を通した中では、1例だけ明らかに川名橋を経ているものがありました。

「富士山紀行」安永九年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「【安永九年七月二十一日】…四ツ谷より此迄一里ニ不足、雨ハ止ミたれ共六合水まし而渡りハ可難と口々にいへける故幸已ニも当れは江の嶋の嶋姫の神社に参る、車田を南壱里斗ニ而いしがミと云所ニ至る、此所水増し而舟ニ而渡り馬くらばしと云所ニ至る、川越て渡る、片瀬村を過て海浜ニ至る…」
「二十二日、…片瀬村を過馬喰橋を渡り右へ行き川名村ニ休ふ雨の甚しけれは也、片瀬よりは鎌倉郡とす、石上の川上を圯橋にて渡り藤沢駅に至る、」

ここで「圯橋」というのは他の用例から察するに「壊れ掛かった、ボロボロの橋」位の意味でしょうか。少なくとも江の島へ向かう時に「舟ニ而渡」ったその翌日の帰り道に、同じ渡しを通った時に「橋」と表現するのは不自然でしょう。石上の上流にあった橋を渡ったという解釈で良いと考えます。

高山彦九郎の経由ルート(推定)
高山彦九郎の経由ルート(赤線・推定)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」「陰翳起伏図」等合成
別ページで表示
右の現在の地図は川筋は勿論当時と異なりますが、馬喰橋から北上して「右へ行」けば石上の渡しには行かずに確かに川名方面に出る点は一緒です。川名の集落は鎌倉みち沿いを中心に固まっていたことが迅速測図(リンク先は「今昔マップ on the web」)からも窺え、「川名村ニ休ふ雨の甚しけれは也」ということであれば、雨宿りをしたのは恐らく街道まで出て来てからでしょう。とすれば、川名橋はそこから目と鼻の先にあり、そのまま藤沢宿まで行ってしまったとしても不自然なところはありません。

川名の地名が明確に登場する紀行文はこの1編のみでした。しかし、道中の出納を事細かに記した日誌の中に、石上の渡しでの出費が抜けているものがあり(「己未東遊記草」安政六年[三河国渥美郡吉田]山本忠佐)、途上で買い食いした柿の値段まで書き記した日誌に当時12文まで値上がりしていた渡し賃を書き漏らすとは考え難く、藤沢から江の島へ向かう際に川名を経たのかも知れません。

もっとも、江の島まで詣でようという旅人は多かれ少なかれ「散財する」ことを厭わずにいた気配がどの紀行文にも見られ、その意味では僅か5〜12文(金額については後日改めて取り上げる予定です)の渡し賃をケチろうという人はそれほど多くなかったのかも知れません。高山彦九郎の例でも、川名橋へと逸れた理由は飽くまでも雨で川が増水していたからでした。

② 紀行文・旅日記から(2)渡しは実は「橋」だった?


今回紀行文集を読み進めていて一番驚いたのが、実はこの渡しは「橋」であった、ということでした。

そのことを一番明確に物語るのが次の一編でしょう。以下引用は何れも昨日同様「藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)」から。
「江ノ島参詣之記書写」弘化四年[武藏國江戸]著者不明
「一 藤沢宿入口橋ヲ渡り江ノ島弁天金ノ鳥居有、此所より島迄壱り九丁
一 半道程ニて片瀬渡場百姓渡舟賃払 尤舟ヲ弐艘つなき置

また、この一編も当時の様子を具体的に表現しています。
「玉匣両温泉略記」天保十年[武藏國江戸]原正興
「【天保十年五月六日】…馬入川渡り、車田と云所より右に江嶋道あり。そなたへをれてゆくに、田畑の間の細道なり。片瀬川の上、石亀の渡は、両岸に小舟をつなぎて、舟より舟へ板をわたしたるもの也。これをわたりて少しゆけば、…」

つまり、「渡し舟」と言いながら実態は「舟橋」だったというのです。この文の他にも石上の渡しを「舟橋」「橋」と表現したものがかなりあります。具体的には…
「甲午春旅」安永三年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「【安永三年(1774)一月十八日】…江ノ嶋を出はたさ村石亀村、川有舟橋也、過て藤沢宿、江嶋弁財天と言額をかけたる鳥居有、…」
「伊勢道中記」文政九年[出羽国田川郡清川村](藤四郎)
「【文政九年二月七日】…次ニ橋賃五文ニ而渡ル
「道中記」文政十年[出羽国田川郡酒田]石塚長三郎
「夫ヨリ宿ニカエル間ニ、カタ瀬村入口二茶屋アリ 出口二川アリ、橋賃五文渡レハ、石上村 右ノ方ヨシ、次二、」
「伊勢参宮日記」弘化二年[陸奥国]藤原某氏
「【弘化二年六月二十日】…藤澤江…夫よりかねの鳥井まて帰りて、江の嶋道へ入ル、たひてい村続キ也、余程行て、つなき舟のわたし有、五文ツゝなり
「伊勢参宮並諸国神社・仏閣礼拝道中記」安政五年[陸奥国閉伊郡(末前村)七瀧]久兵衛
「【安政五年三月二十二日】一 江ノ嶋 …十丁斗行て小川小ばしあり拾弐文つゝ

確かに、渇水期や冬場の徒士渡しの様に、一時的に舟橋や仮橋を渡す運用をしていた渡し場の例は他にも様々あったと思います。しかし、上記2編の記述では、どうも通年で舟橋になっていた様に見えます。「橋」と表現された紀行の日付をみると、確かに当初は冬場の渇水期のものが多いのですが、その後季節を問わず舟橋が渡されていた様に見えます。

これは幾つかの疑問を抱かせる話です。まず、舟橋は当初からそうであったのか、それともある時期を境に舟橋に切り換えられたのか。また、本当に通年で舟橋が架けられていたのか、当初は季節的なものだったのか。別の紀行文では「渡し」とだけ記されているものも多く、これが本当に舟を漕いで渡すものだったか、それとも舟橋を渡る際に払ったお金を「渡し賃」などと表現したものか、読み取り切れないものが多く、他の史料と合わせてみないと断定的なことは言い難いと考えられます。

但し、この紀行文集に複数回登場する「高山彦九郎」の記述では、上記では「舟橋」と書いているのに対し、昨日引用した様に安永9年には「舟ニ而渡り」としています。上記の紀行は冬、昨日のは夏の話であり、あるいはこの頃には冬の渇水期だけ橋を渡したものかも知れません。

次に、境川の下流部では藤沢宿までの間で舟運がありましたから、舟橋を架けたままでは邪魔になってしまいます。当然、川を上下する舟がここを通過する際には渡した板を退けなければなりませんが、先日書いた通りこの辺りで12間ほどの川幅があったとするならば、上記の様に「舟ヲ弐艘つなき置」いて板を渡したとすると、その間の板の長さがかなり長くなってきます。そうなると、その都度この板を退けたりするには重くなり過ぎてしまいます。実際のところ、どの様な運用で舟を通していたのか、今回見た紀行文の中ではその様子を描いたものはありませんでした。これも、他の史料に当たってみないと何とも言えません。

そして何より、この様な運用になった経緯でしょう。当時の人気観光スポットであった江の島・鎌倉への往来の途中にある橋であり、鎌倉から戸塚や金沢へ抜ける旅人も多かったとは言え、比較的交通量は多かった筈です。その渡しを舟橋に切り換えたのは何か支障のある要因があったからと考えられますが、それは一体何でしょう。

個人的な関心としては、境川の何らかの地理的な変遷が舟橋への変更に影響を及ぼしているのではないかとも思えるのですが、まだ具体的な切り口は見つかっていません。引き続きこの問題については突き詰めて考えてみたいと思います。

③ 紀行文・旅日記から(3)石上?石亀?


ここまで既に数編の紀行文を引用しましたが、その中にこの渡しの名称が「石亀」と表記されているものが2編ほどありました。
「玉匣両温泉略記」天保十年[武藏國江戸]原正興
「…片瀬川の上、石亀の渡は、…」
「甲午春旅」安永三年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「…石亀村、川有舟橋也、…」

興味深いのは、この高山彦九郎が6年後の紀行文では表記を改めていることです。
「富士山紀行」安永九年[上野国新田郡細谷村]高山彦九郎
「…いしがミと云所ニ至る、…」
「…石上の川上を圯橋にて渡り…」

恐らく、この間に藤沢近傍について古記を紐解くなどして知識を改めたのでしょう。「いしがミ」とわざわざカタカナを交えて書いたのはその由だったのかも知れません。逆に考えると、初回は渡し守にでも地名を尋ねたのでしょうから、その発音が「いしがめ」の様に聞こえていたのでしょう。「石亀」としている例は上記の他にもありました。

因みに、「石神」と表記している例も1件見つかりました。これも、恐らくは渡し場で地元民に尋ねて聞き覚えた音に漢字を当てたのでしょう。
「御伊勢参宮道中記」文久二年[出羽国田川郡肝煎村]森居権右衛門
「…参詣致し町に帰り橋脇ニ右方に江島弁財天の鳥井唐銅ニて有夫ヨリ拾丁斗通りて石神(ここ)ニ片瀬川ト申川 渡賃拾二文出し…」

石上の地名は比較的古く、鎌倉中期の「東鑑」にも見られるとのことなのですが、付近の地名としては西行の歌などにも現れる「砥上が原」の方が著名で、渡し場の集落の名に過ぎなかった石上は今一つ認知されていなかったのかも知れません。徳川光圀がこの辺りを巡った時の紀行にも石上の地名は現れてはいるのですが…。
「鎌倉日記(徳川光圀歴覧記)」延宝二年[武藏國江戸小石川]
「片瀬川 藤沢海道ノ南ヘ流出ル小川也。駿河次郎清重討死ノ所也。東鑑ニ片瀬ノ在所ノアタリニテハ片瀬川トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川ト云。」

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

「神奈川県植物誌2018 電子版」の発行と、当ブログでの過去の引用箇所との照合(その1)

かねてより、「神奈川県植物誌」の改訂版の編集が行われていることを、3年ほど前の記事の中で余談の形で紹介したことがありました。2018年度内に発行する目標が当初から掲げられていましたが、ほぼ予定通りに完了し、昨年11月8日からまず電子版から公開が始まりました。

『神奈川県植物誌2018 電子版』公開ページ(以下「神植2018」)


電子版は1800ページを超える大冊であるにも拘らず、全編が1本のPDFに収められており、ファイルサイズは何と120MBもあります。私がこれまで見てきたPDFに比べて桁違いの大きさに達しており、流石に私の古い環境では処理能力が不十分で、ページをめくるのも一苦労という有様です。巻末の索引から該当箇所を探し出すことが多くなるであろうこの手の事典では、PDFを細分化してしまうとどのファイルに該当ページがあるのか探しにくくなりますから、敢えて1本に纏められているのも理解は出来ます。とは言え、このPDFのファイルサイズは正直なところ「常軌を逸している」と評さざるを得ないもので、まさか電子版の公開によって私のパソコンの非力さを痛感させられることになるとは思いも寄りませんでした。

とは言え、これ程の大冊を電子版のみとは言え無償で公開するというのは大英断と言って良いでしょう(印刷版は有償頒布)。これまでの厚さが6~7cmはあろうというA4判の大きな書物では、これを野外での活動で参照するために持って行くなどとても考えられないことでしたが、電子版なら処理能力が十分であればタブレットに収めて持ち歩くことも可能ですから、フィールドで見つけた植物を調べるのに「神植2018」を現場で閲覧することも不可能ではなくなりました。ポケット判の野草事典を遥かに凌ぐ植物が採録されており、しかも神奈川県内であれば従来の観察実績がある植物に限って掲載されている訳ですから、県内での植物の野外観察には最適な事典が出来たと言えるでしょう。


今回の改訂の主な目的は勿論、前回の「神奈川県植物誌2001」(以下「神植2001」)以降の神奈川県内の植生の変移を反映することにありますが、それ以外の今回の大きな変更点として、科の配列順を挙げる必要があります。「神植2018」の「凡例」には次の様に解説されています。

(2) 科とその配列は,基本的に,シダ植物はChristenhusz et al.(2011. A linear sequence of extant families and genera of lycophytes and ferns. Phytotaxa, 19: 7-54),Christenhusz et al.(2011. Corrections to Phytotaxa 19: Linear sequence of lycophytes and ferns. Phytotaxa, 28: 50-52)を基にした海老原(2016・2017. 日本産シダ植物標準図鑑Ⅰ・Ⅱ. 学研),裸子植物はChristenhusz et al.(2011. A new classification and linear sequence of extant gymnosperms. Phytotaxa, 19: 55–70),被子植物はAPG Ⅳ(The Angiosperm Phylogeny Group, 2016. An update of the Angiosperm Phylogeny Group classification for the orders and families of flowering plants: APG Ⅳ. Botanical Journal of the Linnean Society, 181: 1-20.)に従った.被子植物の科の番号はAPG Ⅳにより,シダ植物と裸子植物は上記の体系の配列の通し番号に,シダ植物にはP,裸子植物にはG,被子植物にはAを付したものである.科の和名は,基本的に,シダ植物は海老原(2016,2017),種子植物は大橋ほか(2015~2017. 改訂新版日本の野生植物 1~5. 平凡社)によった.

(「神植2018」12ページより、以下も含め強調は何れもブログ主)


「神植2001」の「凡例」の同項目は次の通りでした。

(2) 科とその配列は, シダ植物は岩槻邦男編(1992, 日本の野生植物シダ, 平凡社)に, 種子植物はメルヒオル・ヴェーダーマン編(1954, A.Englers syllabus der Pnanzenfamilien 12 Aunage,I)とメルヒオル編(1964, A.Englers syllabus der Pnanzenfamilien 12 Aunage,II)に従ったが, 一部改変されている. 

(「神植2001」9ページより)


「神植2018」では「APG」という言葉が、「神植2001」には「エングラー(Engler)」という人名が見えていますが、どちらも種子植物の分類法を指す際に散見する言葉です。この切り替えの詳細な背景の解説は、種子植物については「神植2018」の193〜194ページで行われています。簡単に言うと、分子生物学の研究に則った新たな分類法が近年普及してきたため、今回の改訂を機に採用したということです。

『神植誌88』では,当時多くの植物標本庫や図鑑類で採用されていたエングラーとプラントル(1887-1915)による体系に準じて編集を行った.『神植誌01』では,すでに『朝日百科,植物の世界』(1994~1997)や『北アメリカ植物誌』(1993~)がおもにクロンキストの体系(1981, 1988)に従っていたが,利用者の便を考慮し,その時点で,国内でもっとも新しい植物誌であった『日本の野生植物』(1981~1989 平凡社)が採用しているメルヒオルらの改訂によるエングラーの体系(1954, 1964)を採用した.

しかし,その後,1998年には,分子系統解析の手法に基づいたAPG(Angiosperm Phylogeny Group)による分類体系が発表され,数度の改訂を経て,2016年にはAPG Ⅳ(APG 2016)が公表された.国内においても,これらの分子系統解析の手法に基づいた体系の解説書などが出版されつつある.『植物分類表』(大場 2009)はクビツキーを基礎にしたマバリーの体系を,『日本維管束植物目録』(米倉 2012)はLAPG Ⅲの体系を元にし,日本の維管束植物全体の体系を示すため,シダ植物や裸子植物も含んだものとなっている.また,図鑑類や地方植物誌おいても,APG体系のものが刊行され始めた.さらに,2015年には,『神植誌01』刊行時,国内で最新の植物誌とされた『日本の野生植物』の改訂新版(2015~2017平凡社)がAPG Ⅲ体系に基づいて刊行され,APG体系が一般的になりつつある状況が進行し,利用の便を考えても,機は熟したと言える.そこで,本書では基本的にAPG Ⅳ(APG 2016)の体系に従うこととした.

(以下も含め「…」は中略)


これはシダ植物においても同様で、17ページにおいて変更の経緯が説明されています。こうした変更をどこかの機会を捉えて実施しなければ、何時までも古い体系を維持しなければならなくなりますから、何れはやるべきことであったと言えます。

但し、「神植2001」と「神植2018」の2冊を比較して変異を捉える場合に、体系の変更による影響が紛れ込む可能性がある点には注意が必要です。例えば「ウルシ属」では、「神植2001」では日本に「6種1変種」が存在しているとされているのに対し、「神植2018」では「5種」に減っています。「神植2001」では「ウルシ属」に「ツタウルシ」「ウルシ」「ヌルデ」「リュウキュウハゼ」「ヤマハゼ」「ヤマウルシ」の6種が含まれていますが、「神植2018」ではこのうちの「ヌルデ」が「ヌルデ属」に分離されたために「ウルシ属」の数が減る結果となり、「ヌルデ」の県内の分布については特に変異はありませんでした。また「1変種」はこの「ヌルデ」に含まれる「ハネナシヌルデ」を指していることから、この分も「神植2018」では「ヌルデ属」に移ったことによって減ったことになります。つまり、今回の「ウルシ属」の数の減少は、県内に分布する種が減ったことを意味しないことになります。

こうしたことを踏まえ、今回の改訂で分布の変化が見られたものがどの程度存在するのか、巨冊同士を個人で比較してその全てを洗い出すことは到底不可能ですが、私のブログでも「神植2001」を幾度となく引用して来ましたので、「神植2001」を引用した記事毎に、「神植2018」に現れた変更箇所を洗い出す作業を行ってみることにしました。文量がかなり多く、作業に手間取っているため、この突合作業の結果は後日別の記事に書き出すことにしました。

本草図譜巻六「紫草」
「本草図譜」より「紫草」(右・再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
従って結論を先に書き出すことになりますが、これらの中で最も大きな、そして残念な変更はムラサキの記述のそれでしょう。「神植2001」でも最後に生息が確認されてからかなりの年数が経っていることが指摘されていたものの、絶滅したとはされていませんでした。しかし「神植2018」に至っては、最後の確認から30年が経過している事実を踏まえ、神奈川県内では絶滅したという判断に変わりました。

勿論栽培されている株は植生調査の対象外ですので、県内の何処かの庭先や畑で栽培が続けられている可能性は残っています。また、これらの栽培株から野生に再び逸出したり、あるいは隣接都県から入って来る可能性も全く無いとは言えません。従って、将来新たに野生のムラサキの生息が確認されて判定が再び覆ることがあるかも知れません。しかし、神奈川県のレッドデータブック(以下「県RDB」)の編纂に当たっては、この書物はシダ類や被子植物の生息状況を判定する際に最も基本とされています。その様な書物において判定が「絶滅」と変更されたことの意味は大変に大きく、近い将来改訂されるであろう県RDBにおいても、ムラサキが「絶滅種」に新たにリストアップされることが確実になったと言わざるを得ません。因みに2006年版の「県RDB」ではムラサキは「絶滅危惧ⅠA類」と判定されていました。

以前上記リンク先の記事に記した通り、江戸時代には相模国各地の山野に自生するムラサキを掘り出して、その根を利用していた歴史があったものですが、現在は県内の植生によってその痕跡を窺い知ることも出来なくなってしまいました。「県植2018」や「県RDB」ではこうした利用があった歴史については触れられていませんが、採集圧への懸念があっての配慮でしょうか。可能であれば次回の改訂では多少なりともその歴史についても簡潔に記述を加えておくべきと考えます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その2補足)

昨年の5月の「その1」から11月の「まとめ」まで、松浦武四郎の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)の神奈川県域内の区間について、私なりの分析を試みました。その際には冨山房から出版された武四郎の紀行集(吉田武三編、1975 & 77年)に依拠しており、他の翻刻や影印には当たることは出来ませんでした。特に「その2」では「窪田」と表記されている地名が「荏田」の誤記または翻刻ミスではないかと書きましたが、影印を見ていないためにどちらであるかを断定することは出来ませんでした。

最近になって改めてネット上を探したところ、「松浦武四郎案内処」というサイトの中に「日記」の影印と翻刻が掲載されていました。そこで、「窪田」と記されている箇所を確認してみました。

該当箇所は上記翻刻の8ページ、5行目の一番下にあります。私は崩し字を読む能力はあまり持ち合わせていませんが、ここに記されている字は少なくとも「荏」の字とは読めないもので、「窪」とするのが妥当である様に見受けられます。従って、この箇所については翻刻ミスの可能性は消えたと言ってよいと思います。武四郎自身が何らかの理由で当地の地名を「窪田」であると判断して書き記したことになりますが、その理由については「その2」で考察した通りです。

なお、「松浦武四郎案内処」の他のページに従えば、明治2年の道中の日誌は残っていないとのことであり、武四郎が書き残したものによってこの道中の事情を更に掘り下げることは、残念ながら叶わない模様です。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

NEXT≫