注:当面、この記事は先頭に固定しておきます。最新記事は次の記事(09/13時点:「「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その4・「鵠沼」の「よみ」⑶)」)からです。
2023/04/28追記:固定した記事のために最新記事に気付いてもらいにくい状況を考え、本文を追記に移動しました。
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◯鵠沼よりしたるわが手柬の一節を、下に抄記すべし。…
(「長者短者」明治35年・1902年、「緑雨全集 : 縮刷※」斎藤 緑雨 著 大正11年・1922年 博文館 所収 719ページ)
君が痩のわれにまされる春の朝とりて別るゝ手と手の寒さ(くげぬまに綠雨君を訪ひて)
(「むらさき」与謝野 寛 著 明治34年・1901年 東京新詩社 16ページ)
鵠沼海水浴 藤澤停車塲より半里余海波静かに潮水淸く風光亦江の島に讓らず故に婦人小兒の浴塲に適す旅館には鵠沼館、待潮館あり宿料甚だ廉なり
(「通俗衛生顧問」岡崎 亀彦 編 明治35年・1902年 築地印刷所 52ページ)
鵠沼海水浴塲 江の島と相對し、大磯に至る海岸なる鵠沼は、西南に豆相の連山と相對し、海氣淸涼なれば、海水浴塲に適當す。東屋、鵠沼館、待潮館、三井樓等の旅館あり、宿泊料亦比較的に廉なり。此地藤澤驛を去る二十町、電車の便あり。江の島よりは渡船の便あり。
(「日本漫遊案内 上巻」坪谷善四郎 編 明治36年・1903年 博文館)
と1文字だけ違っている様なケースは単なる誤植と見られ、実際同書の別の場所では「飄吉――やあ、君は、鵠沼へ來て居たんだね。
(「少年膝栗毛」黒田 湖山 著 大正2年・1913年 博文館 186ページ)
飄吉――…走太君が勝てば鵠沼へ寄る、」(190ページ)の様に正しく表記されています。この資料の場合は他が合っていますので「くげぬま」の方に計数しましたが、
の様に資料中に誤植1件のみが出現するケースは「その他」に計数しましたので、その分取材不足を疑わざるを得ない様な事例は減っていることになります。それだけ「くげぬま」の「よみ」が世間に浸透してきた傍証とも言えます。少し遠くなりますが片瀨鵠沼あたりで小松原の中に寢ころんで雲雀の聲をきいたこともあります。
(「婦人週報 第貳卷 第五號※」大正5年・1916年 婦人週報社 6ページ)
この様な文章も、「鵠沼」の「よみ」が外部から流入する人々には最初から「くげぬま」として受け入れられていたことを支持するものになっています。この文章はまた、鵠沼が海水浴場や別荘地として開発されてから外部からの流入者の増加までの間に多少の時間が必要だったことを証言するものにもなっています。避暑として目下は有名になり貴紳の別莊が數多建てられました相州鵠沼は、私が最初參りました頃に宿屋が一軒しかなく、從て日本人も杖を曳くもの少なく誠に寂しい地でした、…
Kugenuma, a little village in Sōshū, is now a well-known place, boasting its many inns and villas of the wealthy; but when I first went there it was a extremely quiet and lonely (sea-side) resort. There was only one inn there, frequented by very few travelers, and the whole place had a solitary look.
(「外国紳士滑稽実話」エフ・ダブリュー・イーストレーキ(Frederick Warrington Eastlake) 著 明治36年・1903年 金刺書店 65〜67ページ)
松村には是非ゆつくり逢ひたいが、松村の近邊に恐ろしい者が一人ついて居る(であらふと僕は思つた、併し松村には敢て其有無を問はなかつた)上に、僕は明治評論の爲めに夏期附錄編輯の手傳をして居たので、三日にあけず鵠沼(松村が行つたのは鵠沼であつた)から今日來い明日來いと矢を射る如き松村が催促狀にも、曖昧な返事ばかりして居たが…
(「思出の記」徳富 蘆花 (健次郎) 著 明治34年・1901年 民友社 430ページ)
いたつきは おこたりぬれど/身のやせの まだしるき子の/この頃を なぐさめばやと/鵠沼に いざなひゆけば/あまつ空 隈なく晴れて/朝凪に 海はしづけし…
(「うた日記」森 鷗外 著 明治40年・1907年 春陽堂 466ページ)
お京さんは廂髪で黑縮緬のお羽織、こぼれ出る緋縮緬の振も艶めかしく、流石鵠沼美人と音にきこえた煙󠄁草屋の看板娘。
(「スヰートホーム」内藤 千代子 著 明44年・1911年 博文館 38ページ)
江の島に遊びて岩本樓にやどりける時
くげぬまの燈火みえてくれそむる江の島凉しいざ一夜ねん
(「大和田建樹歌集 : 一名・待宵舎歌集」大和田 建樹 著 明治44年・1911年 待宵会 183ページ)
こうした事例が極めて少ないため、公的機関が何時頃から「くげぬま」を正式に使う様になったのかを確定することは出来ませんが、この官報の事例から、少なくとも明治39年頃までには公的機関でも「くぐいぬま」ではなく「くげぬま」を「鵠沼」の「よみ」として使用する様になっていたことになります。逓信省告示第九十七號
本日ヨリ左記三等郵便局ヲ設置ス但郵便物集配事務ヲ取扱ハス
…
鵠沼郵便局 神奈川県高座郡鵠沼村
(14ページ)
と「クゲヌマ」の「よみ」が採用されています。編者兼発行者の川上 安二郎は奥付によれば藤沢の人であり、地元で書店を営んでいた様です。「藤沢市史資料 第30集※」(藤沢市教育委員会 編 1986年 藤沢市教育委員会)によれば、鵠沼の賀来神社の社殿階段据柱を明治36年に奉納した藤沢大坂町の有志者の名前中に、「川上 安二郎」が含まれています。そういう人物が藤沢町の隣接地である「鵠沼」の「よみ」を「クゲヌマ」と記していることからも、この時点で既に地元の人々にも「くげぬま」の「よみ」が広まっていたことが窺えます。鐵道ハ鎌倉郡ヨリ來リ、本郡藤澤ニ入リ鵠沼、明治、茅ヶ崎、鶴嶺ノ諸村ヲ經テ中郡平塚ニ達ス、是レ即チ東海道線路ニシテ明治二拾年六月ノ布設ニカヽル、
(3ページ)
ク々イヌマ」の「よみ」が記されているのを最後に、「くくいぬま」系の「よみ」を記した対照表がなくなります。この数年後に鵠沼村が藤沢町に吸収される格好で合併し、以降は藤沢町の大字の1つとして「鵠沼」が登場することになったこともその原因の1つではありますが、明治28年頃には既に「くげぬま」が定着し始めていたことを考えると、この様な資料の改訂に際して「よみ」の部分までタイムリーに更新されていたかどうかは疑問が残ります。
書名 | 編著者 | 出版年 | 出版社 | 「鵠沼」の項の記述 |
---|---|---|---|---|
実用帝国地名辞典 | 大西 林五郎 |
| 吉川 半七 他 | くぐいぬま 鵠沼村 相模―高座 |
帝国地名大辞典 | 富本 時次郎 | 1902~3 | 又間精華堂 | |
難訓辞典 | 井上 頼圀, 高山 昇, 莵田 茂丸 合編 |
| 啓成社 | 鵠沼 クグヒヌマ 地名。相模國高座郡――村。 |
大日本地名辞書 | 吉田 東伍 |
| 冨山房 | 中巻※:鵠沼 今鵠沼村と云ふ、引地川と片瀨川の間にして、藤澤驛の南二十餘町、海濱の沙丘の間に在り、…(鵠は白鳥の古名、クグヒなり、方俗訛りてクゲヌマと唱ふ)… |
日本百科大辞典 | 三省堂編輯所 編 | 1908~19(該当巻は1910) | 大日本百科辞典完成会 | 第參巻※:くげぬま(鵠沼) 神奈川縣相模國高座郡の海岸に在る海水浴場。正しくは「くぐひぬま」といふ。… |
帝國地名辭典 | 太田 爲三郎 編 | 1912 | 三省堂 | 上卷:クグイヌマ(鵠沼) 【神奈川】相模國高座郡「鵠沼」を見よ。 クゲヌマ(鵠沼) 【神奈川】相模國高座郡に在りし村。明治四十一年藤澤町に合す。…鵠はクグヒと訓むを正しとす。今誤󠄁りてクゲヌマと呼ぶ。 |
言泉:日本大辭典 | 落合 直文 |
| 大倉書店 | くぐひぬま 鵠沼【名】〔地〕くげぬま(鵠沼)を見よ。 くげぬま 鵠沼【名】〔地〕『くぐひぬま(鵠沼)の訛』相模國高座(カウザ)郡藤澤町の大字。… ※初版の「ことばの泉 : 日本大辞典」(1898年)には「鵠沼」に関する項目なし。 |
※索引の記述は省略 |
「大日本地名辞典」よりは2年ほど後の刊行になりますので、この編者が辞典から探し出してきて改めて記述したものかも知れませんが、そもそも「よみ」の変遷について触れていない案内書が大半を占めていた中で、この様な知見を見つけ出してきただけでもかなり珍しい存在であったのは確かです。鵠沼と砥上ヶ原 停車場より暫く進めば、線路の左側に沿ひて人家三々五五點在せり、此邊を一體に鵠沼といふ、古はクグヒヌマといひしが、訛りてクゲヌマと呼ぶに至れり、
(「東海道旅の友車窓の名勝観」神谷 市郎 (有終) 編 明治42年・1909年 博文館 26ページ)
著者は奥付に明記がありませんが序文から判断しました。「略称」と記した意図はわかりませんが、既に江ノ電が開業していたことは江の島について記している箇所に記述が見えますので、鵠沼駅などの呼称から「くげぬま」と呼ばれていることは察知している筈と見られます。そうであれば、あるいは「転訛」の意で「略称」という言い方を用いたのかも知れません。鵠沼こはくゝひぬまの略稱鵞鳥のごとく白き大鳥なり村は藤澤停車塲をさること凡そ十八町ばかり…
(「明治三十六年一月 神奈川縣見聞錄」[李家 隆彦 著] 1903年 長島 格 70ページ)
詩句に「くくいぬま」系の読みが詠み込まれていたのは今回検索した中ではこれが唯一でした。この中井 嗣滿が詠んだ短歌への返しとして小林 吉明が詠んだ「小林吉明君を相州鵠沼にとひ參らせける時
嗣滿
…
くゝひぬまともにはるはるおりたちてあさるや深きえにしなるらん
(「裏錦 第八卷 第九十六號※」明治33年・1900年 尚絅社 所収 「鵠沼雜詠 八月三十日」52ページ)
おり立ちてあさるえにしは沼の名のくゝひの首の長くあらなむ」という短歌も、「くくひぬま」の読みが前提にあって初めて成立する歌になっています。
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車田 藤澤町鵠沼村入合の縄手にして凡そ三町程なり
(「箱根熱海温泉道案内」橋爪貫一 編/加藤清人 画 橋爪貫一 明治10年・1877年 13丁)
「くくいぬま」系 | 「くげぬま」系 | その他 |
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鵠沼に出来た「待潮舘」という旅館で催された同窓会の報告記事が掲載され、その「よみ」は「くゞひぬま」とされている点が注目に値します。この「待潮舘」は後に「對江館」と名を変えますが、当時まだ開業したばかりの頃に当たり、ここで「耕餘塾」の同窓会が持たれたのは、この塾が鵠沼村の隣の羽鳥村にあったことから、地元でのこうした新設旅館の動きを逸早く知り得たからでしょう。この文章は従って近隣住民の報告と考えられることから、彼らはまだ「鵠沼」の「よみ」は「くゞひぬま」であると認識していたことになります。◯神奈川縣通信。=耕餘塾同窓會。神奈川縣高座郡羽鳥村なる同塾にては、毎年一回同窓會を開き、新舊生徒職員其他同塾に關係ある人々が會同する由なるが、去る三日第八回同窓會を鵠沼待潮舘に開きしに、來會者八十名、野外演習ベースボール綱引等の諸遊戯あり…
(「教育週報 第一號※」教育週報社 1889年・明治22年4月20日 13ページ)
さらば鎌倉、かしこはよろしからず。いで江の島はよかんめれ、されど此所も見あきぬ。そがもよりの鵠沼、かしこもさほどのところにてはあらず。と「鵠沼」の「よみ」を「くげぬま」と書き取っています。今のところ「デジタルコレクション」中で「よみ」を「くげぬま」とする資料の中では、これが最も早い出版物という位置付けになります。しかし、著者の「洒落齋主人」という人物については「デジタルコレクション」上での検索結果でもこの「女学雑誌」の連載が大半を占めており、今のところ委細が不明です。他の資料に「東京府 洒落齋主人」とあるものの、「女学雑誌」上の人物と同一である裏付けがありません。ただ、この人物の文章は何れも「戯文」と呼ぶべき内容で、問題の文章も各地の名所への旅行を画策する中で「鵠沼」が候補の1つとして挙げられる内容となっていることから、この人物と鵠沼との関係を匂わせる要素が希薄です。とすると、この「くげぬま」の「よみ」は鵠沼の外部の人間によって書き取られたもの、と考える方が良さそうです。しかし、この人物がどの様にして「くげぬま」という「よみ」を知ったかについては確認する術がありません。(19ページ・合本679ページ)
と記している点は、あるいはこの地誌が編纂された明治29年頃には、「くげぬま」の「よみ」が定着し始めていたことを示すものかも知れません。勝地 …高坐郡ノ鵠沼ハ、桃花ノ名所ナリ、
(7〜8折)
と「鵠沼」の「よみ」を「くげぬま」と書き取っているのは、居を移した現地で聞き取ったものである可能性が高くなります。従ってこれも「くげぬま」の「よみ」が定着してきていたことを示す資料の1つに挙げられそうです。して又右の方に眼を轉ずれば、鵠沼近く指呼の間に有つて、人家點々数へつべし。
(35ページ)
と、「鵠沼」の「よみ」を「くゞひぬま」と書いています。上記「自序」にある通り、水蔭は明治31年には「神戸新聞」の「三面主任」に任ぜられたのに伴って神戸へと転出していますので、片瀬には2年弱しか居住していませんでした。それからかなり年数が経ってから著した新たな小説の中では、「鵠沼」の「よみ」を旧来のものに転換したことになります。先刻、大森の停車塲で出會した女優の美壽江に、學士が初めて逢うたのは、鵠沼の海水浴塲東屋であつた。
(後編 129ページ)
※2023/08/20追記:この点については下記に追記をしました。
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定 永代賣渡申御道者之事
合さかミの國
一あつきのかうり一圓とハ申共、其内ニも在所小名ヲ付申候一圓
一とむろのかう
一高森かう
一ゑひなのかう
一さまのかう
一あいきやうのかう
一はせのかう
一おの野のかう
一なゝさわのかう
一い山のかう
一おきのかう
一とかいのかう
一岡さきのかう
一大上のかう
一すかのかう
一柳嶋のかう
一くゝいぬまのかう
一吉岡のかう
…
天文廿年辛亥十月吉日 宮後 南倉藤次へ弘幸書判
岡本鳴子や善兵衞殿參 口入 下馬所 藤二兵衞
〔読み下し〕
右、この御道者当知行相違無きもの也、然りと雖も、急用あるに依り、直銭三十五貫文、岡本鳴子屋善兵衛殿へ永代売り渡し申す処、実正明鏡なり、末代相違有るべからざるものなり、同じく天下大法の徳政ややもすれば乱れ行うとも、この道者の儀、別して申し合わす子細候間、相違すべからざるものなり、以後に違乱の儀候はば、我ら罷り出で、その裁き申すべきものなり、
(「厚木市史 中世資料編※」535〜536ページ、「平塚市史 1 (資料編 古代・中世) 本編※」では183〜185ページに同じ史料が掲載されている)
中世においても伊勢神宮への参拝は盛んであり、参拝にあたっては御師が介在し、道者の世話をして金品を得ていた。そのため道者は職つまり利権として把握されていた。南倉弘幸は厚木郡の利権を三十五貫文で鳴子屋善兵衛に売り、徳政があっても権利を主張しない旨を約束したのである。なお、当時厚木という郡名は使用されておらず、おそらく遠く離れた伊勢の住人南倉弘幸が、愛甲郡と間違えたものであろう。
(537ページ)
一くゝいぬまのかう」が見えており、この地名について「厚木市史」では注に「
藤沢市鵠沼か」と断定を避ける書き方をしているのに対し、「平塚市史」では「
藤沢市鵠沼」と特に疑問を挟まない書き方をしています。「厚木市史」が断定を避けた理由はわかりませんが、「くゝいぬま」が他の地名を指している可能性がないかを検証するために、この文書に挙げられている地名がどの程度の範囲に広がっているのか、地図上でプロットしてみました。
官宣旨 ◯天養記
左辨官下伊勢大神宮司
應任先宣旨、停止源義朝濫行、且令召進犯人、且任大神宮例、祓淸致供祭勤、相模國大庭御厨神人寺訴申、以高座郡字鵠沼郷、恣巧謀計、今俄稱鎌倉郡内致妨間、淸原安行字新藤太䓁、打破伊介神社祝荒本田彥松頭、打損神人八人身及死門事、
…
天養二年二月三日
右大史中原朝臣(花押影)
少辨源朝臣(花押影)
(読み下し)
左弁官下す 伊勢大神宮司
まさに先の宣旨に任せ、源義朝濫行を停止し、且は犯人を召し進ましめ、且は大神宮の例に任せ、祓い清め供祭勤を致すべし、相模国大庭御厨神人等訴へ申す、高座郡字鵠沼郷をもって、ほしいままに謀計を巧らみ、今俄に鎌倉郡内と称へ妨げを致すの間、清原安行字新藤太等、伊介神社祝荒本田彦松の頭を打ち破り、神人八人の身を打ち損じ、死門に及ぶ事、
(「神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(2)」伊藤 一美著、「藤沢市文化財調査報告書第42集」藤沢市教育委員会 2007年 所収 3〜4ページから、原文は「神奈川県史 資料編1 古代・中世(1)」からの引用 資料番号778)
乍恐申上候事
一当年近郷辻道者三ツ七分ノ取、くゝいぬまハ四ツ壱分ノ取、大庭ハ弐百石ノ高ニ而弐百卅表と定納ニ御座候処ニ、羽鳥ハ田畠共ニ六ッ半ニ被仰付候事めいわく仕候、其上近年とりを御出、役束御付くりや御させ候事めいわく申候、当年ゟ三ツ半ニ御定被成、取そん処ニ御座候間、けそん御引候て可被下候事、
…
右之段あら/\申上候、仍如件、
たつノ十一月七日
羽鳥村
相百姓中
ほしの作兵衛様御申上候、
(「神奈川県史 資料編8 近世5上※」807〜808ページ)
たつ(辰)」「
ほしの(人名のため特定困難:星野か)」がひらがな書きになっていますが、引用しなかった中にも「
さこ(雑魚)」「
とうし(湯治)」「
あたみ(熱海)」など、全体的にひらがな書きになっている箇所が目立ちます。恐らくはこの文書の作成者があまり漢字が得意ではなかったためにひらがなで書き留めた箇所が多いのでしょうが、結果的に「鵠沼」の「よみ」が書き留められる貴重な例となりました。
相摸 [高㘴郡]鵠沼村 [陶綾郡]國府本郷 [足抦下郡]酒匂村 神山村 風祭村 [足抦上郡]苅野岩村 [大住郡]馬入村 [津久井縣]千木良村
(赤枠は[]にて代用、「淘綾」「足柄」など通常とは異なる漢字が使用されている箇所も同書に従う)
郡邑島岐一竒名異称」の中であるため、景保としてはここに掲げられた村々の名称については「難読」と見立てたということになるのでしょう。その中に「鵠沼」も含まれていた、ということになります。忠敬が鵠沼村を含む一帯を測量のために訪れたのは享和元年4月22日(1801年6月2日)のことでした(リンク先は鵠沼郷土資料展示室運営委員・渡部 瞭氏「鵠沼を巡る千一話」)。その記録から景保がこの地名を見出した、という流れになりそうです。
年代 (10年刻み) | 「くくいぬま」系 | 「くげぬま」系 | その他 | 参考:「鵠沼」件数 |
---|---|---|---|---|
1868~1877 (明治元~10) | 0 | 0 | 1 | 6 |
1878~1887 (明治11~20) | 0 | 0 | 0 | 12 |
1888~1897 (明治21~30) | 9 | 9 | 8 | 140 |
1898~1907 (明治31~40) | 18 | 92 | 11 | 440 |
1908~1917 (明治41~大正6) | 7 | 204 | 4 | 748 |
1918~1927 (大正7~昭和2) | 9 | 184 | 2 | 1348 |
|
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