【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その2)

前回江戸時代の馬入の渡しの運営主体が須賀村や柳島村、馬入村などであり、平塚宿とは関わりを持っていなかった点が六郷の渡しの場合とは異なる点を取り上げました。今回はそれを受けて、明治時代に入って馬入橋が架けられる経緯を調べてみます。

まず、その概略については「茅ヶ崎市」が比較的詳しくまとめていましたので、これを引用します。

従来の渡し船に代わる馬入川架橋工事の計画は、明治八年(一八七五)の船橋架橋がはじめてであった。足柄県令柏木忠俊は、馬入の渡しは増水時には杜絶し、また「平日ノ不便且土俗ノ癖習不尠」(『神奈川県史料』第九巻、一八五頁)として橋梁建設を思い立ったが、洪水の多い相模川では「如何様堅橋ニテモ永世不朽ノ目途難相立」(同右)として、長さ七〇間、幅二間の船橋の架設を計画し、建設費に渡船賃金をあて、馬入村の戸長に立て替えさせることとして、四月に内務省に架橋の伺いを提出し、五月に許可を受けた。翌九年、足柄県が神奈川県に合併されると、県は改めて、長さ二六六間、幅三間の木橋の建設を計画し、十二月に官費による架設を申請したが却下され、翌年工費の二十年賦拝借を申請したがこれも認められなかった。そのため「通行人民便利ノ為メ」(『市史』2、二八号)として、馬入村の民費によって建設し、橋賃を徴収して償却することとした。架橋工事は翌年夏には大半が終ったが、秋の洪水で流失したようである。十六年(一八八三)には六〇〇〇円余を投じて長さ二三〇間、幅三間の木橋が建設されたがこれも流失した。その後も三十六年(一九〇三)、三十七年と架橋を繰り返し、明治四十年(一九〇七)の大出水の翌年に至って永久橋が建設された。

(「茅ヶ崎市史 第四巻 通史編」1981年 414ページ)

最初に架けられた船橋、その次に架けられた明治11年の橋については他の市史などでも記述されているものの、その後の落橋と再架橋の経緯についてはあまり触れられていなかったり、明治41年から施工された「永久橋」を2代目と記していたりと、あまりきちんと記述されているものが見つかりませんでした。そうした中ではこの記述が今のところ一番詳細ということになるかと思います。

この記述に従えば、表向き、架橋と落橋の連続であった点は六郷橋と全く変わっていないと言えます。しかし、記述の中に「足柄県」「神奈川県」の名前が見える点は大きく異なっています。つまり、県行政が積極的にこの架橋の音頭を取っている訳です。六郷橋の場合は地元の名主だったり組合だったりが自ら動いていて、行政府の名前は明治末期頃まで出て来ませんでした。何故馬入橋の方は県行政が加担する格好になっているのでしょうか。

この点については「神奈川県」が次の様に書いています。少々長くなりますが御了承下さい。

ところで内陸部を流下する河川は、舟運によって少なからぬ貢献をする半面、道路交通を各地で遮断する大きな障害となった。そのため江戸時代以来各地に渡船場が設けられ、相対(あいたい)または定賃銭によって貨客の輸送に当たった。しかし、各地の渡船場は、江戸時代を通じてしばしば排他的な営業権を確立し、通行上の不便や近隣諸村との争論を招くこともまれではなかった。

このような事情は、幕府の崩壊や貨客の増加によって、維新以後しだいに変化しはじめた。そして、政府もまた明治四年(一八七一)十二月、布告第六四八号によって、新道開拓や架橋を奨励し、落成のうえは工費の多少に応じ、通行料金の取立てを許すことを明らかにしたのであった。

このような方針は一八七三年六月、六郷川架橋と渡橋賃取立の認可、というかたちで具体化された。…架橋願書が、一八七三年三月、八幡塚村鈴木左内および北品川宿芳井佐右衛門から東京府に提出された(『東京市史稿』帝都十一)。それによれば元来この渡船場は「往来之諸人(おびただ)しく、なかんずく横浜開港以来いや増し、馬車其のほか差しあつまる」場所であるが、渡船のため少なからぬ難儀を被っているので、このたび仮橋を架け、経費の償却のため五二か月半有料としたいというものであった。

この願書は東京府を経て所管の大蔵省に進達され、同年六月二十九日認可された。…

このような大蔵省の方針は神奈川県にもただちに反映し、一八七四年六月、第一七八号によって、渡船・架橋を旧慣から解放した「渡船架橋規則」が布達された。そして、これによって渡船・渡橋の運営は旧慣にとらわれず、すべて地元の村々がおこない、甲村の渡船・渡橋を乙村が支配する等のことを廃止すること、徒歩可能な河川で渡船・渡橋を強要する等の行為・奸計(かんけい)をおこなわないことなどが指示されることになったのである。

(「神奈川県史 通史編 6 近代・現代(3)」昭和56年 497〜498ページ、ルビも原文通り、…は中略)


つまり、あの鈴木左内の架橋は明治政府の通達を好機と捉え、それまで川崎宿が独占していた渡船権を架橋を契機に取り戻そうという動きであった訳です。成立当初の明治政府には十分な財源がありませんでしたから、架橋を奨励したくとも原資が無かったので、金は出せないが地元で財源が不充分ならば有料にしても構わないという「お墨付き」を与えてこれに代えたということになります。「積年の思い」を募らせていた八幡塚村にとっては、この通達は文字通り「渡りに船」だったことでしょう。

しかし、その左内橋が僅かな期間しかもたずに落橋し、自力での再架橋が叶わなかった経緯を考え合わせると、やはりこの試みは架橋技術や財政面の裏付けについて十分な勝算があってのことだったとは言えず、明治政府もその点への考慮はしていなかったと言わざるを得ないでしょう。せめて架橋技術に長けた技術者を施工時に派遣するなどの施策が採られていればまだましだったのかも知れませんが、その様な技術者自身がまだ絶対的に足りない状況(と言うよりこれから技術を習得しようという段階)下では、多少の無理には目を瞑っていたということになりそうです。

馬入の範囲。相模川東岸に飛び地がある
Yahoo!地図上で見る
とは言え政府の指令とあらば各県も動かざるを得ず、地元の関係者との協議の場を持ったということなのでしょう。相模川の場合、前回見た通り平塚宿による独占といった江戸時代からの「しがらみ」とは無縁ではありましたが、逆に周辺の村々が応分に分担して渡船場を運営していた分、架橋するとなれば改めて調整が必要になり、その音頭取りを上位の地方行政単位である県が担う格好になった、ということになるのでしょう。

おまけに「旧慣から解放」と言っても、馬入村にとっては周辺の村々と渡船場の運営の負担を分担していたものが、逆に馬入村1村の負担ということになってしまったということでもあります。地図を見るとわかる様に、馬入村の範囲は相模川の西岸のみではなく、東岸にも飛び地を持っており、馬入の渡しの辺りは両岸とも馬入村なので、地元の村の負担で架橋という話になると、相模川の規模を考えると負担が大き過ぎるのは目に見えていることでした。県もその点を考慮して負担軽減のために明治政府に援助を願い出ている訳ですが、当初に上記の様な通達が各県に出ている状況下では通る余地は無かったのでしょう。敢え無く却下されて結局六郷橋と同様の運用をする所に落ち着いたのでした。

最初の足柄県の船橋の計画は、その点ではなるべく無理をしないで実現可能な落とし所を探った結果なのだろうと思います。船橋であれば、江戸時代から既に幾度か架設した実績があり、その経験を持った人間が揃っていたと思われますので、架設に際して技術的な支障は無かった筈です。


もっとも、前回触れた相模川の水運は明治初期にはまだまだ健在でした。その船主にとっては船橋架橋は通行の妨げになるものを川の中に作られることになりますから、川を上下する舟が通過する時には船橋を一旦解放して通船し、通過後にまた戻すという運用が必要だった筈です。その煩雑さを考えると船橋という選択が必ずしも最適な選択ではなかったのではないかと思います。実際、明治8年に足柄県令の名前で内務省に伺いを立てて受理された上申書の最後には

其後人民彼此苦情ヲ鳴ラス者アリ、今ニ至リ未タ着手セスト云フ

(「平塚市史 5 資料編 近代(1)」1987年 595〜596ページ)

と追記されています。具体的な苦情の内容は書かれていませんが、苦情を寄せた中に須賀村や柳島村の名前があったとしてもおかしくないだろうと思います。

この船橋の運用は僅かな期間で終了しますが、足柄県から業務を引き継いだ神奈川県が木橋の建設に動いたのは、必ずしも水運に対しての配慮だけではなかった様です。「平塚市史 資料編」に明治10年の「馬入仮橋架設議定書」という資料が掲載されていて、ここで架橋に向けて関係者が合意したことが記されているのですが、その末尾にはこういう一文が追記されています。

先般村内渡船賃予備金勘定不明瞭之廉ヲ以、私共ヨリ奉出頭候処、本月(引用者注:10月)十八日本庁二課長安野義範殿・飯塚冬胤殿橋梁架設之義ニ付、当区平塚宿ヘ御派出ニ相成、吏員并小前一同御呼出之上、村内不熟之段厚キ義御論説彼我之件総遂熟議、帳簿不可解之廉下方ニ於テ双方并ニ正副戸長立会之上精算仕度候間、先般御煩慮奉懸候書面乍恐御下渡被成下度、双方連署ヲ以テ此段奉願候也

(「平塚市史 5 資料編 近代(1)」1987年 605ページ)

どうも船橋の資金運用を巡って何か揉め事があったらしいことが臭ってきますが、その具体的な経緯はともかく、揉め事の解消のためにより堅牢な橋を架する方向にすることで収集を図ろうとした意図があった様です。この議定書には実に90人以上の連署が並んでおり、それだけこの船橋運用に関与していた人(大半は出資者なのでしょうが)が多かったことを裏付けています。

ともあれ、こうした経緯を経て明治11年に最初の馬入橋の架橋工事が行われたことは確かな様ですが、上記の「茅ヶ崎市史」の書き方では果たして竣工できたのかも怪しく、竣工後程なく流失してしまった様にも読めます。とは言え、5年後には次の橋が架けられている以上、何れにしても架橋後長くもたずに落ちてしまったことには変わりはないでしょう。

この初代の木橋の架設に際して、その資金の工面の話については資料が残っているのですが、技術面でどの様な配慮が成されたかについては記録が見当たりません。考えてみれば、江戸時代を通して270年以上もの間、そして鎌倉時代に架かっていたと伝わる橋からは更に数百年、相模川には橋が架かっていなかったのですから、地元の村々にはこんなに大きな橋を架けた経験は全く無かった訳です。近隣では平塚宿の西側に位置する花水川(現在の金目川下流)が比較的大きな川になりますが、「新編相模国風土記稿」に記された花水川の川幅は25間(「高麗寺村」の項による)しかありません。ですから、その数倍の規模の架橋にいきなり取り組むことになった筈ですが、神奈川県側から何らかの技術的な援助はなかったのか、疑問として残ります。例えば東京であれば、当時であっても江戸時代から隅田川での大規模な架橋の経験のある棟梁はまだ健在だった筈ですから、そういう技術力のある人間を招聘して架橋に臨む等の手は打たれなかったのだろうか、という気がします。

まぁ、いきなり従来からの伝統的な工法で架橋に挑んで失敗した、という話であれば比較的わかりやすい話ではあるのですが、初代の架橋からさほど間を置かずに、次の架橋に挑まざるを得ない状況になったことには変わりはありません。実はこの2代目の架橋が問題なのですが、この話はまた次回に。



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この記事へのコメント

- A☆六文銭 - 2013年02月01日 21:37:48

 こんばんは。いつも拙ブログをお読みいただいているようで、どうも有難うございます。(コメントも頂戴し、有難うございます)

 神奈川県は隣県であるにもかかわらず、用事がないと行かないため、地域の歴史を実はあまり把握していません。
 この10年、遠方へ遠征していることが多いので、これからは近隣の歴史も色々知っていきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いいたします。

- kanageohis1964 - 2013年02月01日 21:55:11

こんばんは。アクセスどうもありがとうございます。

確かに普段行き慣れない地域についてはどうしても疎くなり勝ちですよね。私のブログはどちらかと言うと少し突っ込んだ内容になっていることが多いと思いますが、なるべく他地域の方でも入っていける様な内容にしたいと思っています(成功しているかどうか不安ですが…)。今後またよろしくお願いします。

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