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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その1)

現在の馬入橋の位置
旧東海道の検討、「その8」では「旧相模川橋脚」の史跡の検討を行いました。何れにしても江戸時代には既に橋はなく、相模川は馬入の渡しで舟渡ししており、六郷橋の様には架橋が試みられることはありませんでした。この六郷橋の経緯については「その2」で3回に分けて隣接する2本の鉄道橋を含め、明治時代の様子までを検討しましたので、馬入橋についても比較の意味で同様の検討を加えてみたいと思います。

架橋の動きが全く無かったとは言え、やはりまずは江戸時代の渡し場の運営状況を確認する所から始めるべきでしょう。六郷の渡しとの比較で1つ着目しておきたいのは、六郷の渡しの場合は川崎宿が実質的に渡船場の運営権を独占しており、その収益を宿場の財政の柱に据えていたのに対し、馬入の渡しの場合はその様な気配が見えないことだろうと思います。

旧東海道:馬入の渡し石碑
馬入の渡し碑(再掲)
馬入の渡しの場合、舟を出していたのは須賀村と柳島村でした。このうち、須賀村については平塚市博物館がそのWebサイト上で「ひらつか歴史紀行」と題した読み物の中でまとめられていますので、こちらを一通りお読みになるのが良いと思います。その中で、馬入の渡しに関連する話が出て来るのは「その3」で、相模川水運の廻船業の運営権を巡って、須賀村と柳島村の争論があり、幕府の裁許するところとなった経緯が書かれています。その裁許の結果、それまで須賀村が馬入の渡しの舟を出していたのを、柳島村も同様に舟を出す条件で、廻船業を須賀村同様に営むことが認められた、というものです。

ここでも触れられている通り、背景には相模川を上下する水運が江戸時代に増大する傾向にあり、馬入の渡しは結果として両村の廻船業の権利の担保になっていたことが窺えます。こうした負担を背負ってでも、須賀村や柳島村にしてみれば、より大きな利益の元になる廻船業が担保される方が重要だったということでしょう。特に須賀村の方は、「ひらつか歴史紀行」の別の場所で触れられている通り、江戸時代以前から河口で相模川水運の拠点として栄えていたことが知られています。思えば鎌倉幕府が開かれた頃から、相模湾は武家政治の中心地に物資を供給する重要な役割を果たしていた筈で、その点では湾岸に沿って進めば程なく目的地に着けてしまう「地の利」は絶大だった筈です。それが江戸幕府に移ったということは、相模川の水運にとっては三浦半島を隔てた隣の湾まで「遠回り」せざるを得なくなったことになるのですが、条件が悪くなったのにも拘わらず水運が更に発達していったということは、江戸という一大消費地がそれまでとは比較にならないほど巨大であったこと、そして相模川の上流が江戸への物資の大きな供給源の1つとして機能していたことの現れでもあるだろうと思います。


相模川河口付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
なお、「ひらつか歴史紀行」の文中で相模川の柳島村への流路の変更の話が出て来ます。これは旧相模川橋脚の回に触れた「古相模川」とは別の流れで、迅速測図でも見られる柳島村側へ逸れている分流を指していると思われます。この明治初期の地図で見ても、須賀村の辺りの大集落からその繁栄ぶりを窺うことが出来ますし、柳島村の一帯が砂州や湿地に囲まれていて恵まれた耕地が少ないことから、対岸の須賀村と争議になっても水運への進出を敢行した背景が窺えると思います。

また、相模川を上り下りする舟の側から見ると、渡船はその進路を横切る存在ということになります。将軍や朝鮮通信使などの大通行の際には相模川にも船橋を臨時に架設しましたが、架設中は相模川の流通が滞ってしまうことになります。大通行が終わると船橋は速やかに撤去されましたが、これは相模川の舟運を一刻も早く再開させる観点からは当然のことでした。更に、「ひらつか歴史紀行」の「その5」で舟運に使われていた高瀬舟について解説されている通り、この舟は帆船であると共に岸辺からの曳航も行われる舟でした。帆をかけるにしても、曳航するにしても、川に橋が架かっていると何かと邪魔になることには変わりありませんから、結果的にとは言え、相模川に架橋されていなかったのは水運にとっては都合が良かったと言えるでしょう。

旧東海道:馬入の渡し川会所跡碑
馬入の渡し川会所跡
因みに、水主(かこ)(船頭)を出していたのは馬入村・今宿村・松尾村・下町屋村・萩園村の5ヶ村で、このうち渡し場西岸に当たる馬入村の畔には川会所が設けられていました。川止め・川明けを始めとする渡船場の管理運営を司る場所ですが、現在川会所跡の碑は国道1号線からは見え難く、旧東海道歩きをしていると見過ごされやすい場所にあります。現在の馬入橋が若干ですがかつての渡し場よりも下流に架かっているので、国道から少し離れてしまっていることも見つけ難い一因になっています。

何れにせよ、平塚宿がこの渡船場の運営には全く関わっていなかったことがわかります。渡船場から宿場までは意外に距離があり、後に宿場に加わった八幡村(現在の平塚駅前付近)まででも1km、元の宿場の東端に当たる見附町ですと2kmはありますので、関与しなかったのも当然ではあります。とは言え、川崎宿と六郷の渡しの事例と並べてみると、当時の渡船場の運営も案外地域によって様々に事情が異なっていたことが窺えます。

六郷の渡しの場合は川崎宿の独占状態に対して八幡塚村が度々渡船権を求めて訴えるという経緯が、明治時代になって名主鈴木左内の六郷橋架橋の動きに繋がっていった訳ですが、それとは異なる背景を持つ相模川の場合、明治時代以後の架橋の動きはどうなっていったのか、その辺りを次回追ってみたいと思っています。実はこの件に関する資料が思う様に見つかっていないので、どう纏めたものか考えあぐねている所ではありますが…。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
(2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを、「今昔マップ on the web」の埋め込み地図で置き換えました。


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