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【武相国境】境川(その3)

前回は武相国境の境川沿いの変遷を見るために、律令時代当時の様子を探ってみました。今回も引き続き境川周辺の歴史を見ていきますが、奈良・平安時代の当地の歴史を考える上で見ておきたい遺跡についての話から始めます。


矢掛・久保遺跡の場所
遺跡の名前は「矢掛・久保遺跡」と言います。現在は京王相模原線が走っている高架線の細長い敷地が発掘調査の対象となったのですが、その経緯について当遺跡の報告書には次の様に記されています。

矢掛・久保遺跡の調査は、京王線多摩センター駅とJ.R.横浜線橋本駅とを結ぶ、京王線延伸工事に伴い実施された緊急調査である。途中昭和61年には、鉄道沿いに敷設されることとなっていた市道東橋本83号線の対象箇所、およびそれに付随したいくつかの支線の調査も併行して行われた。

調査は昭和59年5月7日より開始されたが、これに先立ち昭和56年12月に、京王帝都株式会社(以下「京王」という)の主催になる地元説明会があった。この席上参加者から、遺跡が存在することの指摘がなされた。これを受けて、翌57年1月7日には、京王、神奈川県教育委員会(以下「県教委」という)、相模原市教育委員会(以下「市教委」という)の三者による現地踏査があり、その結果遺跡地図の補正がなされたのである。したがって、周知の相模原市№266遺跡の対象範囲が北西方に著しく拡大されることとなった。

(「矢掛・久保遺跡の調査」久保哲三・柳谷博編 矢掛・久保遺跡調査会 1989年 27ページより)



矢掛・久保遺跡付近の1974〜78年頃の空中写真
現在の地形図を薄く透過(「地理院地図」より)


矢掛・久保遺跡付近のストリートビュー
該当地域を一通りストリートビューで探してみた限りでは、現地一帯は一部に畑が残っているものの、既に住宅地化がかなり進んでいるためか、今のところ特に遺跡についての案内などは存在しない模様です。地名も住居表示変更に伴って「東橋本」「宮下本町」になっていますが、どちらもかつての「小山村」に当たる地域です。「矢掛」の名は同地の小字ですが、現在は遺跡名と周辺のアパート名に残る程度になっています。

そんな訳で、残念ながら現地に赴いても遺跡に直接繋がるものを見出すのは現在のところは困難ですが、出土品の一部が相模原市立博物館常設展示室に展示されていますので、そちらを訪問する方が良いでしょう。

この遺跡からは、縄文期から弥生期にかけての遺跡や中世〜近世の遺跡も少々出土しましたが、中心を成すのは奈良〜平安時代のものです。まず、竪穴式住居跡と共に掘立柱建物跡や溝状遺構など、固定的な集落があったことを窺わせる遺構が数多く見られ、その多くから多種の土師器や須恵器が出土しました。それらの出土品の検討から、この遺跡の時期は8世紀から11世紀と推定されおり、かなりの長期間にわたってこの地で集落が維持されていたことが窺えます。

また、この遺跡からは10点ほどの瓦片が出土しました。前回触れた通り、瓦葺きが認められていたのは当初は寺社のみで、その後の宮殿などに用いられる様になったものの、勿論地方の役所レベルで用いる様なものではありませんでした。こうした背景や出土した点数などから考えて、恐らく実際に屋根を葺くために用いられていたと考えるのは難しいでしょう。私個人の見立てでは、恐らくは相模国分寺のために大量に焼いた瓦のうち、割れたり歪んだりして不良になってしまったものや、不良を見越して予備に焼いて余ってしまったものを集落に持ち帰ったのではないかと思います。何に使っていたのかは不明ですが、この集落の人間が相模国分寺の瓦焼きに参画していたことの証拠にはなるのではないでしょうか。

更に、出土品の中には墨書した土器や、円面の硯片、更に仏塔と思われる破片が見つかっており、後者は市の指定文化財になりました。これらはこの集落に読み書きの出来る人間がおり、仏教信仰が持ち込まれていた証拠と考えられており、その点が評価されて文化財保護されるに至った訳ですが、そうなってくると気になるのがこの集落の規模と、この集落が郡衙などの主要拠点であった可能性です。

今のところ、発掘調査の対象地点がかなり限られていて、対照地点の外側にまで集落が広がっていたことを示す遺構も見つかっているものの、具体的にどの程度の規模の集落であったか、全容がわかっている訳ではありません。この地に万一郡衙やその関連施設があったとすれば大発見なのですが、報告書ではその可能性については特に触れられていません。ただ、国郡制でも地方に対して発した詔が滞りなく浸透するためには口頭レベルでは到底追い付かないので、少なくとも村長(むらおさ)レベルには読み書きと仏教についての知識が伝播していた可能性の方を個人的には考えたいところです。

一方、8世紀から11世紀の長期にわたって集落が維持されていたという発掘結果を踏まえて考えると、この集落が少なくともある程度の規模を持っていた可能性の方が高そうです。しかし、ある程度以上の規模を持つとなると、その集落が崖下の境川沿いの水田だけで十分に養えたかどうかが気になってきます。矢掛・久保遺跡の辺りでは境川は南側の段丘崖に近い所を流れていますので、当時の流路が大きく変わっていなければ南側の水田だけでは到底足りていた様には見えず、対岸の水田までこの遺跡の集落が耕作していた可能性は高いと思われるものの、そうなると北側の多摩丘陵には境川沿いの水田を耕作する集落はなかったか、あってもごく小規模な集落しかなかったことになるでしょう。


境川・京王相模原線高架橋下付近のストリートビュー
矢掛・久保遺跡の住民はこの川から水を得たであろう
また、相模原台地の上は平坦で広い土地を得やすいものの、水利という点では非常に条件が悪い一面があります。この辺りでの地下水位はかなり低く、境川沿いの段丘崖でもまとまった湧水ポイントが殆どありません。従って、かなりの深度まで掘らなければ井戸が作れないためか、矢掛・久保遺跡でもこれまでの調査結果では井戸遺構がありません。湧水も期待できないとなれば、水は境川まで直接汲みに行かなければ得られないことになります。この遺跡から大量に出土した土師器や須恵器の一部、特に甕は境川から汲んで来た水を溜めておくための必需品だったでしょう。

こうした条件を踏まえた上で、この地に集落が長期にわたって維持され得たのは何故なのか、考えられそうなものを「相模原市史」から拾うと、当時の相模国の養蚕が挙げられそうです。同書にはこの様に記されています。

諸国の養蚕や機業ははやくより奨励されていたようで、令の規定によると、上戸は桑三百根漆一百根以上、中戸は桑二百根漆七十根以上、下戸は桑一百根漆四十根以上栽培を命ぜられていた。七世紀においては百済・高麗・新羅などの帰化人が、しばしば関東地方に移住しており、とくに相模・武蔵は多かったので、彼らの指導による産業開発も多かったであろう。また政府は和銅四年(七一一)には、織部司の挑文(とうもん)師(花紋の織りだしを教えるもの)を、諸国に派遣しているから、前記の「一()綾、二窠綾(ブログ主注:格子型に織り出す模様の種類であることが前記で解説されている)」などは、それらの指導によって生産されるにいたったものであろう。

和銅七年(七一四)には、はじめて相模・常陸・上野の三国から(あしぎぬ)を貢進した。延喜式では相模国は麁糸上納十一か国、輸絁十か国のうちにはいっている。また平安時代初めに、政府が陸奥国に養蚕を行わせるため、機織りの上手な婦女を派遣した時、相模国からも、伊勢・三河・近江・丹波・但馬などとともに、二名をだした。養蚕・機業においては、相当古くより相模国は先進国の一つに数えられていたらしい。なお織機は普通、地機(いざりばた)が用いられたもののようである。

(「相模原市史」第一巻 1964年 315ページ ルビは一部ブログ主)


以上は境川流域に限ったことではなく、相模国のこととして語られているので、相模国の主要な養蚕地域がどの辺であったかについては定かではありません。ただ、相模原台地の様に日当たりが良い場所は桑栽培の適地なので、候補地としては有力だと思います。日影にならない広い土地が桑栽培に使えるという点が好まれていたとすれば、あるいはこの地を支える有力な産品ということになり、起伏に富んで日影の出来やすい多摩丘陵よりも集落が発展した要因としても考えやすくなります。

但し、矢掛・久保遺跡でも紡錘車が発掘されているものの、僅かに2例(と未完成品と考えられている塊1例)のみなので、これだけでは養蚕が大規模に行われていたことの裏付けにはなりませんし、そもそも絹以外の織物のために使っていた可能性も等しく考えなければなりません。この辺は将来更に周辺地が調査される機会を待つことになるでしょう。

ただ、こうした事例を踏まえて考えると、口分田の配分という点では不利な条件の土地でも、他の作物に活路を見出して相応の規模の集落を維持出来ている所はあったということにはなりそうです。こうした地域が、やがて律令制度が衰えて荘園や開発地主が増え、武士が登場する時代になるとどうなっていったのか…といった辺りの話はまた次回に。今回は少々武相国境の話から幾らか離れてしまいましたが、次回はもう少し戻ってくる…筈と思います(汗)。



追記(2015/01/22):ストリートビュー中に地図が表示されなくなったことを受けて、矢掛・久保遺跡付近のストリートビューについてはサイズを変更し、代わりに「地理院地図」の古い時代の空中写真を併せて表示させる様に変更しました。
(2016/01/08):再びストリートビューを貼り直しました。

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この記事へのコメント

- ポタ麿 - 2013年01月26日 23:19:43

こんばんは。先日は私のブログにコメントいただきましてありがとうございました。

それにしても地域の歴史についての考察がすごいですね!
もちろんこの方面に関してはかなりの見識をお持ちなのでしょうが、それに並行して丹念に文献などを調べられているのがよくわかります。

それではまた勉強を兼ねて訪問させていただきたいと思います。

- kanageohis1964 - 2013年01月26日 23:41:52

こんばんは。アクセスありがとうございます。

どうしても文字が多くなり勝ちなブログで、今回も文字だらけになってしまったので半ば無理やりストリートビューを追加したのが本当のところです(汗)。

どうぞまたよろしくお願い致します。

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