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【武相国境】境川(その2)

前回を受けて、境川沿いの武相国境について、もう少し検討を深めてみます。今回は古い文献の引用などが増えますが御容赦を。

「太閤検地で国境が境川沿いに定まったと考えられている」という話を掘り下げるには、大きく分けると2つの問題を整理する必要があります。
  1. そもそもの「国境」が定まった律令時代の頃の話。国境が定まった経緯やその頃の境川周辺の様子を一通り探ってみる必要があります。
  2. 太閤検地の頃の話。何故その頃になって改めて国境を定める必要があったか、という問題がその中心になります。
勿論、2つの問題は独立して存在しているのではなくて、律令時代の国境がその後経た経緯が太閤検地の際の国境再設定の原因になる訳ですから、そのことを念頭に置いて説明を組み立てることになります。

つまり、7世紀頃から16世紀末頃までの、かなり長い期間の歴史を俯瞰する必要が出て来る訳で、これはなかなかの難問です。古い時代の歴史にはあまり強くないので何処まで成功するかわかりませんが、ともあれ、私なりに考えられることを書いてみようと思います。

時代を遡る方向で解説を行う方法もあるのですが、あまり一般に知られてはいない事柄が多い場合は、やはり順を追って律令時代の頃から話を始めるのが良さそうです。律令時代の国郡制の解説が丁度「相模原市史」にまとめられていますので、そちらを拝借すると、

律令体制における地方行政の組織としては、国・郡・里制を採用し、長官としてはそれぞれ国司・郡司・里長をおいた。…

この国郡制が成立したのは、大化二年(六四六)八月、「よく国々の協会を見て、あるいは(ふみ)し、あるいは図にして持参せよ。国県の名はその持参した時に定めよ」という詔がでているから、それからそう遠くない時期に定められたものであろう。…

(「相模原市史」第一巻 1964年 276~277ページ …は中略)

従って、「国境」が定められたのもこの頃だったことになります。

それでは、当時の武相国境がどの辺に定まっていたのか、現在は境川の両岸は町田市相模原市に集約されていますが、両市の市史はこの様に書いています。
  • 町田市(1974年):

    「当時(注:奈良〜平安時代)おそらく南多摩丘陵の尾根づたいや山巓(さんてん)見通し線などで相摸国との国界が定められ、現在の境川線より丘陵内部に入っていたと思われる。」

    (上巻 280ページ)

  • 相模原市

    「…武相国境が境川を隔ててかぎられたのは、「武蔵通志」によると、文禄三年(一五九ニ)であって、それまでは境川が高座川と呼ばれたように、川の両岸は相州高座郡であった。千二百年以前の天平時代においてはもちろん相模国で、おそらく国境は多摩丘陵であったと思われる。」

    (第一巻 299ページ)

両者とも「多摩丘陵」の上を通っていたという点では共通しています。具体的に武相国境が通っていた位置を裏付ける文献などは特に見出されていない筈と思いますので、その点を反映して「と思われる」という表現になっていますが、「尾根づたいや山巓見通し線などで」という表現からは、境川の分水嶺をその候補として考えている節が色濃く漂っている様に思えます。

ただ、これが比較的確乎としたものであったならば、果たして太閤検地に際して改めて国境を引き直すということになったかどうか。勿論、上記の引用中に出て来る(みことのり)がある以上、全く未定であった筈はありません。しかし、少なくとも戦国時代の頃には国境を再確定しなければならない状況があったと考えないと、わざわざ線引をやり直す理由を見出すのは困難です。と言うよりも、今となっては当時の国境が不明になっているからこそ、上記の引用でも「と思われる」という表現になっている訳です。この点は後で改めて検証するとして、まずは当時の境川周辺の状況を確認してみましょう。

境川の北側、多摩郡の当時の開発状況については、町田市史では

武蔵野の奈良・平安時代は、まだ未開の空閑地が広々と連なる草深い地方であった。七世紀代以降多くの帰化人たちを相次いで武蔵国に配置しているのも、空閑地を与えてその開発に貢献させようとの配慮が強く働いていたようである。天平宝字二年(七五八)の新羅郡設置の条にも「武蔵国の閑地に移す」と記されている。平安時代に入り仁明天皇の天長十年(八三三)にいたってもなお人煙の乏しい地方が広がっていたことは、同年五月に武蔵国衙からの上申のように「管内曠遠(こうえん)にして行路難多く、公私の行旅、飢病するものおおし、よって多磨・入間両郡の界に悲田処を置き、屋五宇を建てん」と、行路病者救済のために国司たちが浄財を出挙して救護所を設置することを申請している状況からも知られる。

(「町田市」上巻278ページ)

と表現しています。もっとも、一口に「多摩郡」と言っても現在の東京都西部全域がほぼその中に入りますので、これだけでは多摩郡の南端に当たる境川周辺の地域に何処まで当て嵌められるのか、一概には言えない様にも思えます。しかし、郡全体が未開というのに辺境地が先に開拓が進むというのも妙ですから、境川近辺が例外であったと考える方が難しいということになるでしょう。


因みにこの事情は「吾妻鏡」の仁治二年(1241年)十一月十七日の項に

…今日箕勾太郎師政募去承久三年勲功勸賞、拜領武藏國多磨野荒野、…

(強調はブログ主)

と表現されていることから見ると、鎌倉時代まで下ってもあまり変わっていなかったことが窺えます。

他方、相模原市史では、土師器や須恵器の出土地の分布から境川沿いに古代の村に相当する「郷」があったと考えている様です。もっとも、相模川とその支流域については詳説されているのに比べると「本市域の郷は境川をはさんで一郷が存在したと思われる。(第一巻 283ページ)」といった表現で済まされているのが気掛かりです。

というのも、実は境川は水田の灌漑には必ずしも向いていなかったのではないか、という懸念があるからです。大分時代が下ってしまいますが、「新編武蔵風土記稿」から、境川沿いの村々の記述を一通り拾ってみます。出来れば「新編相模国風土記稿」でも同様にしたかったのですが、両者で編集方針が変わってしまったためか、「相模国」の方には土性などは記述されていません。ただ、右岸と左岸で大きく様子が異なるということもないでしょうから、一連の記述から一帯の様子を窺い知ることは出来ると思います。
  • 鶴間村 …水田すくなくして陸田多し、村内すべて平衍なれども、土性はことによからずして、糞培の力をからざれば五穀生殖せず、もとより川にそひたれば、夏雨秋霖の比は水溢の患あり、されど、常は用水に乏しくして、多く天水を待ち播種する地なれば、やゝもすれば旱損の年多しと云、…
  • 金森村 …当初は原野に添し村にて、すべて平地なり、水田少して陸田多し、土性は黑土にして糞培の力をからざれば五穀生殖せず、しかのみならず水旱ともに患あり、…
  • 原町田村 もと曠原の地ゆへ皆陸田なり、土性は黑土にて専ら糞培の力をたのめり、…
  • 森野村 …土地もとより低くして、平かならざれども、さまで嶮岨と云ほどのことにもあらず、土性は黑土砂交などにて畑多く田少し、霖雨の時は境川溢て水損の患あり、また旱損の患もまぬがれぬ地なり、…
  • 木曾村 …地形平かにして土性は黑土なり、水田は少く陸田は多し、やゝもすれば旱損の患あり、…
  • 根岸村 …水田少くして陸田多し、ことに旱損の患多き地なりと云、土性は黑土にして薄土なり、糞培の力をからざれば五穀生殖せず、…
  • (以上卷之九十 多磨郡之二)

  • 小山村 …水田少く陸田多し、土性は眞土黑土なり、…
  • 上相原村 …その中西の方によりては、前後ともに山高く聳えたれば谷あひのごとくにて、、冬の頃は朝夕の日をさへ見ることを得ずと云、民家のうしろは山丘にして、前はうち開けたる平地なり、土性は眞土にて、水田少く陸田多し、水旱ともに患なし、…
  • 下相原村 …土性はなべて眞土にて、水田少く陸田多し、…
  • (以上卷之百三 多磨郡之十五)

(以上、雄山閣版より)

こうした表記が多く誇張を含んでいるということは良く言われるものの、それを差し引いても、境川沿いの村々が、あまり灌漑には恵まれていなかったことが窺えます。比較的優良な条件に恵まれている上相原村も、山間だけに水田はそれほど広く取れなかったことを考えると、この区間全体では好条件の土地が少なかったと言わざるを得ないと思います。

江戸末期でこれですから、灌漑技術が発達していなかった律令時代にまで遡った時に、少なくとも江戸時代よりも状況が良かったとは考え難いでしょう。前回確認した様に、境川の水量は当時も現在もそれほど変化が無く、地形も灌漑に影響が出るほどには変わっているとは言い難い訳ですから、この点の条件に変化があったと想定するのは難しいことになります。


深見神社の位置
この様に律令時代の徴税の基本になる水田が作り難い地域は、少なくとも郷の中心を成すには弱いのではないか、という気がします。もう少し下流に下ると、現在の大和市域に「深見」という郷があったことが「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に記されており、現在も深見神社にその名が見えますから、あるいは多少遠距離ではあっても深見郷が細長く上流まで伸びていたのかも知れません。それは最終的に高座郡が相模野から鵠沼海岸までを含む広い範囲でまとまっていくことからも窺い知ることが出来る様に思います。


相模国分寺跡上空写真
他方、「相模原市史」では相模国分寺の建立に際して、相原や小山にその瓦を焼くための「かまば」が設けられたことを紹介しています。上記に引用した武相国境の見解はその節に記述されていることですが、その点を根拠に現在の町田市域で発掘されている「かまば」跡は、当時の相模国内に属する筈という見解を示した上で、次の様に続けています。

いずれも丘陵の斜面の「のぼりがま」であり、付近に瓦用の泥土を産し、日当りはよく、下に川が流れていて水に便利な地点である。瓦工は瓦用泥土を採掘して、水でこね、型によって泥土板を作る。それを日向で干して乾燥させ、かまの中に並べて火入れをするのである。

(同書第一巻 301ページ)

瓦のための粘土や水の産出地がかまどのそばに必要である点は同意なのですが、もう1つ大事なものについて記されていないのが気になります。燃料になる薪の産出地の問題です。

当時の瓦は寺院以外には使えないものでした。後に宮廷などでも使われる様になるものの、何れにしてもごく限定された建物の屋根を葺くためのものだったのですが、それはやはり瓦を焼くために莫大な量の燃料が必要になるからでしょう。相模国分寺の規模で何枚ぐらいの瓦が必要であったかは不明ですが、武蔵国分寺では50万枚という途方も無い数字が出ていますので、規模の大小はあっても数万枚のオーダーを下回ることはまずないでしょう。相原や小山の「かまば」がそれらの全てを賄った訳ではないとは言え、それだけの量の瓦を焼くとなれば、当然それだけの薪を伐り出して来なければならないことになります。

具体的にどれだけの薪が必要だったのか、これも正確な所は不明ですが、当時の畿内では

…奈良山丘陵のかなりの範囲が現在開発によって大住宅地となっているが、平城京建設直前の景観はおそらく開発前の状況と大きく変わらなかったのではなかろうか。樹木が生い茂り、谷川には澄んだ水が流れていたことであろう。それらの樹木が瓦を焼く燃料として利用された。したがって、瓦生産が進むにしたがって、奈良山丘陵からは次第に緑が失われていったことであろう。平城京造営時に営まれた瓦窯もおおむね奈良山丘陵に築かれたのだが、大まかにいうと古い順に西から東へ移っている。粘土採取の都合というより、燃料確保のために少しずつ東へ移動しながら窯を築いていったのであろう。

(「ものと人間の文化史100 瓦」森郁夫著 法政大学出版局 2001年 137~138ページ)

…という程に乱伐が激しく、宮城建設のために必要とされる木材と相まって森林資源を使い尽くしていく様な状況でした。それに比べれば地方の寺院の建設用の瓦の燃料消費量はまだましだったのかも知れませんが、

建物の造営工事が始まり、大方の骨組みが仕上がると屋根の瓦葺きが行われる。このことは、昔も今も変わりないことである。屋根さえきちんとしていれば雨が降っても内部の工事が進められる。したがって、短期間に大量の瓦を必要とする

(同書134ページ 強調はブログ主)

という状況と重ね合わせると、やはり一時的にせよ寺院建設に際しては大量の資源を消費することには変わりなかったと思われます。

そして、薪は日常生活でも必要なものでしたから、それだけ大量の薪を一気に伐り出されてしまうと、近隣の集落にとっては必需品の入手が困難な状況を作られてしまうということになってしまいます。ということは、こうした施設を作る場所の近隣には、あまり大きな集落がある場所は選び難いということになります。つまり、こうした「かまば」跡が発掘されているということは、その当時の周辺人口があまり大きくなかったことの裏付けにもなると思えるのです。

この様に見ていくと、やはり律令時代当初の境川上流域は、あまり開発が進んでいなかった可能性の方が高くなってきます。そうなると、その当時の武相国境は一先ず定めがあっても、未利用地同士が接している様な状況ですから、武蔵国・相模国両国の統治という観点では散在する集落のまとまりを括る以上の役目を負っていなかったのではないかと考えられます。

次回はもう少し時代が下った頃の境川周辺の様子を検討してみたいと思います。



追記(2013/12/08):レイアウトを見直しました。
(2015/01/22):相模国分寺跡の空中写真の表示が一部ブラウザで崩れていたため、その部分のレイアウトを見直しました。


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この記事へのコメント

- kame-naoki - 2013年01月26日 10:50:11

こんにちわ。
現在の行政区分上、町田市には横穴墓はたくさんあるのに、高塚古墳は確認されていないのではないかと思います。一方、相模原市内では高塚古墳が確認されています。もしかしたら、国境の辺境という地理と関係しているのでしょうか。

- kanageohis1964 - 2013年01月26日 11:51:32

こんにちは。コメントありがとうございます。

> 現在の行政区分上、町田市には横穴墓はたくさんあるのに、高塚古墳は確認されていないのではないかと思います。一方、相模原市内では高塚古墳が確認されています。もしかしたら、国境の辺境という地理と関係しているのでしょうか。

確かに古墳時代まで遡るとその様な違いもありますね。境川は細い川ではありますが、右岸の相模原台地と左岸の多摩丘陵で地形が根本的に違います。その差が土地利用の違いに繋がって、結果として辺境化した可能性もありそうですね。

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