【旧東海道】その8 旧相模川橋脚と東海道(その3)

前回に引き続いて「旧相模川橋脚」を見ていきます。今回は、残った橋脚の並びから考えられることを私なりに追ってみます。

旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から-1
橋は現在の国道とは違う方角を向いていた
(橋脚傍らの解説模型から:再掲)
旧東海道:旧相模川橋脚を南側から見る
神奈川県衛生研究所の建物の前から
橋脚レプリカを見通す(再掲)

この遺構が相模川の本流に架かっていたか否かには関係なく言えることとしては、この10本の橋脚の並びが、今の国道≒江戸時代の東海道の方向とは違う方角を向いていることでしょう。国道に対して40度以上は南へ折れて橋に差し掛かる様な方向を向いています。今の神奈川県衛生研究所の建物の方向に橋が架かっていた様に見えます。


旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から-3
旧相模川橋脚の解説模型
旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から-4
解説模型の「現在地」
ところで、この史跡の確認調査と保存処理の終了後、周辺が整備されたことが上記報告書の第2分冊にまとめられています。その整備に際し、傍らには随分と詳細な解説模型やパネルが設置されました。特にこの解説模型は全部で16枚のタイルの上に周辺地の地形を迅速測図を元に再現していますが、意外に精度が良く、こんなものを良くタイルで形成したと思います。「現在地」にはちゃんと橋杭の位置が反映されています。そう言えば国道1号線沿いにトイレの便器でお馴染みの某大手メーカーの工場があったな…、という話はさておいて、折角なのでこの模型を使って考察してみましょう。

旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から-2
橋の向きから考えられる古東海道の道筋
前回も触れた様に、この橋杭から想定される橋の幅が9mと、当時としては最大級の太い街道筋のものであることから考えて、この橋が当時の東海道を渡すためのものであったと見て問題はないと思われます。この模型の地形は明治時代初期のものを反映していますので、鎌倉時代まで遡るとなると何処まで適用できるかはわかりませんが、仮にこの地形を念頭に置いて当時の道筋を引いてみるならば、この写真に描き込んだ矢印の様になるのではないかと思います。つまり、道は江戸時代よりも南の方へと進んでいたことになりますね。

この模型では、江戸時代に「古相模川」と称されていた流路を強調し、そこに架橋されていた様に描かれています。繰り返しになりますが、この明治時代の地形がそのまま鎌倉時代に適用出来る訳ではありません。しかし、もしも当時も橋の下辺りで川が蛇行していたとするならば、最新の発掘調査で出て来た中世の土留遺構が何故北側のみでしか見つかっていないかの説明になるかも知れません。川が蛇行する際には、遠心力の影響で外周側に力が加わり、内周側では堆積力が増すのに対して外周側で侵食力が強まる傾向があります。その外周側の侵食を抑えるために今回出て来た土留が設けられたと考えれば、内周側に当たる南側には敢えてその様な仕組みを設けなかったとしても不思議ではないのではないか、という訳です。

但し、勿論今後も新たに南側の土留遺構が発見される可能性がない訳ではありませんし、一方で南側の土留は第二次大戦前の小出川の改修工事に際して見落とされたまま掘り出されてしまっている可能性もあると思います。

また、これがもし大河の蛇行地点だとすると、わざわざそんな無理な力の掛かりそうな所を選んで架橋したことになってしまいます。河口付近で流速は緩いとは言え、大河に架橋しようとするならば、少しでも橋への負担が少ない場所を選ぶでしょう。裏を返せば、もしもこれが当時の地形のままであるならば、やはりこの橋脚の下を流れていた川は小規模なものであった、という説の裏付けになるとも言えます。もっとも、大河になればなるほど、流量が大きくなる分遠心力もより大きく掛かる関係で蛇行の半径も大きくなるのが普通で、この模型に見られる様な小さい半径の流路跡は、それ自体がより水量が小さな川のものであったことの証拠になるのですが。

さて、この橋が何時頃使われなくなったのか、また、それは何故なのでしょう。1つ言えることは、江戸時代までには現在の国道1号線の道筋へと移っていると思われ、橋が使われなくなったのも、恐らく東海道の道筋が変遷したことと関連しているだろうということは言えそうです。

東海道分間延絵図:相模川旧橋脚付近
東海道分間延絵図より 下町屋村付近
参考までに、同じ場所の「東海道分間延絵図」に、橋脚の場所をそれらしく描いてみました。この絵図では道の曲がっていく方向もそれなりに表現する方針で描かれていますが、下町屋村付近の東海道はほぼ直線に近かったことが窺えます。この道筋がより古い時代には南の方へと逸れていたということは、道筋をわざわざ大きく蛇行させることになりますから、地形の点で何かそうせざるを得ない事情があったと考えたくなります。

旧東海道:茅ヶ崎低地の自然発達史模式図から
「茅ヶ崎低地の地形発達史」地形分類図より
(部分・補足はブログ主)
一応、「第1分冊」に掲載された上本進二氏の地形変遷のモデル図(「史跡 旧相模川橋脚」報告書7ページ、但し左の図はその元図である「文化資料館調査研究報告(7)」茅ケ崎市文化資料館編から引用)や、神奈川県制作の地形分類図(同6ページ)を見ると、何れでも今宿村付近で国道1号線の南側に旧河道を挟んで東西に伸びる自然堤防が描かれており、旧相模川橋脚の対岸にまで伸びています。これらの図を見ていると、確かにかつてはこの自然堤防を辿って相模川の畔に向かっていたと考えたくなります。



東海道線の中島踏切の上から(ストリートビュー

付近の「治水地形分類図」
自然堤防が点在しており
その1つの上を旧東海道が通っている
(「地理院地図」より)
ところが、現在の地形図上でこの一帯の微高地を探すと、現在の国道1号線付近の方が幾らか高いのが見て取れます。上の図でも東海道線の線路が自然堤防上を進んでいる様に描かれており、確かにその上では標高が周囲より高いことが、「地理院地図」の該当箇所でも確認できるものの、実際はここは盛土の上に線路が敷かれていることによって周囲より一段高くなっているので、東海道線の周囲の標高は現在の国道1号線沿いの土地より、若干(と言っても1mに満たない程度ですが)低めの数値となっています。

理由の1つとして考えられそうなものを挙げるとすれば、相模川や支流の氾濫によって地形が変わり、それまでは南側を経由していた東海道が水に浸かりやすくなってしまったために、北側の道を新たに設けた、ということになりそうですが、これも推測の域を出ません。以前は南側の自然堤防がもう少し高かったのが、もう少し低くなってしまったのか、それとも北側の自然堤防が高くなった…などという地形の変動が起こる可能性をどの様に考えるか、現在の地形にこれといった痕跡がある訳ではないので、推測するのもなかなか難しいところです。

後日記(2015/01/23):ストリートビューのデザイン変更を受けて表示されなくなった地図の代わりに「地理院地図」の「治水地形分類図」を表示しましたが、これを見ると東海道が通る自然堤防の南にもう1つ中島の自然堤防があることがわかります。標高は東海道の通る自然堤防よりやや低いのですが、強いてかつての街道が進んだであろう場所を推定するとすればこの自然堤防の上ということにはなるでしょう。無論、中世まで遡った際にはこの標高の関係は異なっていた可能性も考える必要があります。

さて、上記の解説模型の説明の中で、「古相模川」という表現が出て来ました。これは「新編相模国風土記稿」の中では複数箇所で出て来ます。以下、相模川や東海道に関連する記述も含めて該当箇所を引用します。

◯柳島村 …此地相模川及諸流の落口に村落をなし、水田の用水も海潮を引て耕植を助け、水溢の患も固より多し、其地形新古相模川の二流村の西を流れ、其間(すべ)て河原なり、…かゝる海濱の地なれば變革屢なり、昔は海濱地先に柳島石利宇止世伎と云大石ありて茅崎村南湖との界を標せしが今は沙中に埋れりと云ふ、…◯相模川 平常は新古二川分流し、中間に洲渚若干あり、須賀村に添たる川今の相模川にして幅三十間當村に添たる流は古相模川なり幅五十間、此川上斜に北の村界より西の方迄中島村の界を廻れり、流末は共に湊口に至て海に入る、

◯今宿村 …◯古相模川 一名筏川と云ふ、此川村内にて長五十間許の處は幅三十間あり、さながら池の如し故に古池とも稱す、東海道の係る所板橋を架す長六間半今宿橋と呼ぶ、

◯中島村 …東海道村内を貫り海道の傍に、狀部屋と號する所を置、官邊及尾紀二侯を初め書狀往来の時、相模川水溢に逢ば此處に止置て村民等是を守る、是當村馬入渡りの東岸にあるを以てなり、慶安二年檢地の水帳を用ゆ、相模川に傍たれば毎秋(はん)濫の患に堪ず、崩入せし田地も若干なりと云、…◯古相模川 東界にあり、則今宿村に云る筏川是なり、◯相模川 村の西にあり、

(卷之六十一 村里部 高座郡卷之三 雄山閣版より …は中略、強調とルビはブログ主)


この「古相模川」という呼称は一体どの様に解釈すべきなのでしょうか。「風土記稿」に複数箇所で記されているということは、恐らくこれらの村々で共通にこの名で呼ばれていた可能性が高く、従ってこの流路が古くは相模川の本流であったと地元の住民が理解していた(実際にそうであったかどうかは別として)ということになるのではないでしょうか。迅速測図の旧相模川橋脚の付近を良く見ると、この古相模川に沿って堤防が築かれているのが確認出来ます(赤茶色くケバを付けてある線)。しかし、この位置関係では中島村は相模川本流の増水の際には堤防によっては守られないことになってしまいます。これでは「相模川に傍たれば毎秋泛濫の患に堪」えないのは無理からぬことで、あるいはこの小さな流れを「古相模川」と呼ぶことで、それより西側は相模川の氾濫原にある以上、毎年の氾濫も止むを得ないことと納得していたのかも知れません。勿論、今は本流寄りに別の堤防がありますが。

そして、こういう認識が元から地元にあったのであれば、関東大震災後に浮き上がった橋杭をかつての相模川に架かっていた橋のものとした沼田博士の鑑定も、結果として当たらないものであったとしても、古文書解析にのみ偏った見解であったとはあながち言えないのではないか、とも思うのです。

旧東海道:馬入の渡し石碑
相模川堤防上の「馬入の渡し」碑(2011年撮影)
ところで、「旧相模川橋脚」が相模川に架橋された橋のものではなかったとすると、「吾妻鏡」に出てくる相模川の橋は、記述が史実であるならば、当然現在の本流か、それに近い場所に架かっていたことになります。ならば本流の中にまだ橋杭が…とも考えたくなりますが、前回触れた通り廃橋後の橋杭は可能な限り再利用していたことを考えると、今となってはやはり望み薄なのでしょう。

また、この橋が廃止されたのが何時頃なのかも不明ですが、天文3年(1544年)の「東国紀行」に「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」と記されていることを見ると、どんなに遅くても戦国時代までにはなくなっていたのでしょう。架橋の経緯やその後の重臣の反対があったことを考えると、あまり長期にわたって維持されたとは思えませんが…。何れにせよ、江戸時代には相模川の渡河は舟渡しに頼っていたのは確かで、その後明治時代に入って再び架橋されるまで、橋の姿を見ることはありませんでした。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
(2015/01/23):ストリートビューのデザインが変わり、地図が表示されなくなったので、代わりに「地理院地図」の「治水地形分類図」を併せて掲載し、レイアウトを見直しました。
(2016/04/16):「地理院地図」の「治水地形分類図」が表示出来なくなっていたので、リンクを張り直しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- MorosawA - 2013年01月15日 09:00:41

kanageohis1964さん、こんにちは。先日はご訪問、ありがとうございました。

今日は雪かきで苦労しそうです。

そのうち法性寺→大切岸→名越の切通し→本覚寺→鎌倉駅と歩いたときの話をかきます。
kanageohis1964さんには笑われそうな話ですが・・・。

- kanageohis1964 - 2013年01月15日 09:25:58

こんにちは。アクセスありがとうございました。

まぁ、色々と口数の多いブログですが、そこはお気になさらずに…。今後ともよろしくお願いします。

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