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【旧東海道】その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道

前回東海道筋を追って藤沢宿まで降りてきたあと、浦賀道に「寄り道」して2ヶ月経過してしまいました(汗)。改めて、藤沢宿から先の旧東海道を辿ります。

↓今回も分量が多くページが重いので、一覧から見ている方はなるべく「別タブで記事を開く」をクリックして下さい。




旧東海道:遊行寺橋→小出川
藤沢宿遊行寺橋→小出川間の旧東海道
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み加工したものをスクリーンキャプチャ)

今回取り上げるのは、藤沢宿から茅ヶ崎付近の地形です。この区間の特徴を見るのに、丁度良い場所が2箇所ありますので、まずはその2地点から話を始めます。

旧東海道:藤沢・伊勢山橋北側脇の坂道と藤沢本町駅
伊勢山橋北側脇の坂道と藤沢本町駅

1箇所目は、旧東海道と小田急江ノ島線の交点です。ここは立体交差になっていて、小田急線の上を旧東海道が越えていきます。すぐ北側に藤沢本町駅がありますが、「本町」の駅名は東海道線の藤沢駅がかつての宿場町から離れた場所に開設されたのに対して、こちらは宿内に駅が出来たことに因んでいます。

東海道の跨線橋の脇から藤沢本町駅に降りる坂は40mほど。上の写真は広角寄りで撮っているために駅が遠目に写っていますが、この坂だけを見ていると東海道がわざわざ跨線橋で小田急江ノ島線を越えている様に見えます。因みに、「伊勢山橋」の名前はこの写真の奥に見えている伊勢山から採られています。

旧東海道:藤沢・伊勢山橋南側脇より江戸方を見る
伊勢山橋南側脇より江戸方を見る
旧東海道:藤沢・伊勢山橋南側脇より小田急江ノ島線掘割を見下ろす
伊勢山橋南側脇より小田急江ノ島線掘割を見下ろす

しかし、道路周辺の建物の様子を良く見ればわかる様に、これは自然地形の起伏の上を街道が通っているのであって、昭和4年(1929年)に小田急江ノ島線が敷設された際にここを掘割として伊勢山橋を架けたのです。地形のお陰で容易に立体交差化が実現できた訳ですね。


藤沢宿・真源寺付近の迅速測図。地図の不透明度を「100%」に設定すると、現在の地形図に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)

伊勢山橋の南側には風早山真源寺が一段高い丘の上に立っていますが、迅速測図上で該当箇所の等高線を確認すると、その東側の旧神奈川県立藤沢高校等もほぼ同じ標高の敷地を持っています。更に旧高校の東側にはより等高線が複雑に入り組んだ地形が見られ、この一連の丘が東側で高まりを見せていることがわかります。

余談ですが、現在はこの丘に切通しが付けられ、その中を湘南新道が通過しています。もう松が取れたというのに今更三ヶ日の箱根駅伝の話も何ですが(汗)、3区のコースはこの湘南新道を経由して国道134号線へと向かうため、遊行寺の坂を降りて境川を渡ると、この丘のためにもう一回アップダウンを経ることになります。

旧東海道:JR相模線との立体交差-2
東海道を潜るJR相模線
旧東海道:JR相模線との立体交差-1
JR相模線の列車が東海道下を潜る

さて、同様の地形がもう1箇所、旧東海道とJR相模線の交点で見られます。こちらは大正10年(1921年)、小田急江ノ島線より8年ほど前に、前身の相模鉄道が開業させた路線ですが、こちらも同様に掘割の下を線路が通過する形で立体交差が実現しています。なお、この辺では国道1号線はかつての東海道と同じ場所を通っています。

写真は東海道沿いから北側に降りて、線路脇から街道方面を見たところです。線路の上から街道の路面までは5m少々といったところでしょうか。

旧東海道:JR相模線脇の坂道に砂が溜まる
この線路脇に降りる坂道には、随分と砂が溜まっています。この砂がこの一帯の丘の正体を教えてくれます。この一連の丘は全て砂丘で、藤沢から茅ヶ崎にかけて海岸に並行に連なる砂丘の上を、旧東海道が進んでいるのです。

旧東海道:二ツ谷稲荷境内の砂地-2
二ツ谷稲荷境内の砂地
旧東海道:二ツ谷稲荷境内の砂地-1
砂地に点々と野鳥の足跡が

今は道路面もアスファルトで固められているため、足元の地質を容易に見られる場所は殆どありませんが、こういう時は周辺の寺社の境内が意外に良い観察ポイントになります。この2枚の写真は二ツ谷稲荷神社の境内ですが、やはり足元は砂地が目立っており、地止まりした野鳥の足跡がくっきりと残っていました。

「ふじさわの大地」より
藤沢宿付近の地形分布
「ふじさわの大地」より
縄文海進の頃には、東海道が通っている辺りは海の底でした。それが、海退が進むにつれて各河川の運ぶ土砂が堆積し、そこに海岸から吹き上げる砂が巻き上げられて海岸に並行に砂丘が発達したのです。更に海退が進むと砂丘列が新たな海岸線に近い場所に出来る様になり、この辺にはこうした砂丘が幾筋も出来ていますが、東海道はこれらの砂丘列のうち一番北側を進んでいる訳ですね。左の図は「ふじさわの大地 ―人々の暮らしと自然―」(藤沢市教育文化センター編 2002年 61ページ)より引用した藤沢宿付近の地形の分布図ですが、東海道の位置が描き込まれていますので、砂丘との位置関係が良くわかると思います。

因みに上本進二氏のこの原図は神奈川県南部一帯の遺跡発掘調査報告書などで良く引用されています。

旧東海道:「牡丹餅立場」のガイド
「牡丹餅立場」ガイド
旧東海道:「牡丹餅立場」のガイド(部分)
ガイドに引用された「東海道細目分間之図」

ただ、砂丘というのは風による影響で地形を変えやすく、砂塵が舞うことになるので必ずしも歩きやすい環境ではなかった様です。最近になって茅ヶ崎市が立てた「牡丹餅立場」のガイドには、「東海道細目分間之図」が引用されていますが、この絵図の中にこんな文言が見えています。

此へんふかき砂地/風にて砂ふき上候ゆへ
時々道かハる/子供中がへりいたし/申候

最後の1文が意味不明ですが(まぁ、この絵図は旅行者向けのガイドなので洒落なのでしょう)、街道の両側に松並木が植えられていてもその程度では砂が舞い上がるのを防ぐのには大して役に立たなかったのでしょう。また、この茶店に立ち寄った公家が残した紀行文には

「出された牡丹餅の餡の色は街道の砂よりも黒く、街道から舞い上がるほこりでむさくるしい」
(「神奈川の東海道(上)」神奈川東海道ルネッサンス推進協議会編 179ページ)

などと書かれているとのことですから、よほど砂塵が酷かったのでしょう。

東海道分間延絵図:引地川右岸
東海道分間延絵図:引地川右岸付近
一番内陸側の砂丘でこれですから、海岸沿いの砂丘は海風が直接吹き付けることになるだけに、もっと砂塵が酷くなることは容易に想像がつきます。鵠沼辺りでは、かつては嵐の翌日に大きな砂山が出来て、子供の格好の遊び場になったと言い伝えられているくらいですから、それだけ風が運ぶ砂の量が多かったことになります。今は茅ヶ崎の海岸線には国道134号線に沿って広大な防砂林が整備されていますが(この様子も箱根駅伝の3区や8区の一風景になるわけですが)、神奈川県のサイトによれば防砂林の整備が始まったのは大正9年とのことで、江戸時代まで遡るものではありません。江戸時代にはこの海岸付近に鉄砲の稽古場があり、そこに通ずる道が「東海道分間延絵図」に記されていますが、これもなかなか利用が難しい土地であったが故なのかも知れません。「新編相模国風土記稿」の鵠沼村や茅ヶ崎村の項には

此邊松露初茸を産し、又漁獵の利多し
(卷之六十 茅ヶ崎村 雄山閣版より)

の様に、松露などが特産品であったことが記されていますので、典型的な「白砂青松」の地だったのでしょう。

東海道分間延絵図:四ツ谷大山道辻付近
東海道分間延絵図:四ツ谷大山道辻付近
それでも、砂丘を降りればそこには池や沼が多かったことが「東海道分間延絵図」にもしっかり描かれており、吹き曝しになっても足場を確保するには高みを進むしかなかったのでしょう。絵図には沼の様に描かれた中に「水田」と記されたものが含まれていますが、当時は底の浅い沼地を水田として利用するケースがあったので、恐らくこの絵図の水田もその様な形で作られたのではないかと思います。また、現在の茅ヶ崎駅付近に当たる場所にも池が複数個描かれています。そもそも、「鵠沼」「菱沼」「南湖」など、如何にも湿地帯が多かったことを象徴する地名がこの付近には大変目立ちます。

その様に考えていくと、江戸時代の東海道は、
  • 海岸から吹き上げてくる砂塵を少しでも避けるために、なるべく海岸から離れながら
  • 点在する池や沼を避けるためには砂丘を利用する
という場所を通っていた、と考えることが出来そうです。

もっとも、道筋の変更が江戸時代の中でもあったと記録されているということは、より長い時間の中ではもっと大きな地形の変遷を考慮に入れなければならないということでもあり、その点では地形に由来する(あざな)の由来を考える際には厄介な面があるかも知れません。「十間坂」という、古くからその名が伝わりながら今は殆ど坂としてはなだらかになってしまった場所がありますが、これもかつてはもっと大きなアップダウンであった可能性もあり、それが人為的なものなのか、それとも自然に消えたのか、そんな可能性についても考えないといけないかな、とも思います。十間坂の道筋自体の変遷も勿論あり得ると思います。

そして、東海道のこの先には相模川という、やはり地形に大きな変化をもたらす存在が横たわっており…という辺りから、次回に続きます。



今更ながらの付け足し:そう言えば「勝手にシンドバッド」の冒頭、「♪砂まじりの茅ヶ崎」でしたね。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。併せて一部レイアウトを見直しました。
(2015/07/24):「ルートラボ」の地図を「地理院地図」に差し替えました。
(2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを、「今昔マップ on the web」の埋め込み地図に差し替えました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- 松木剛 - 2013年10月05日 07:30:54

茅ヶ崎十間坂に住まうものです。興味深いお話を楽しく拝見させて頂いております。
最近、ある本で「十軒酒屋上野宿」という場所を知りました。「十間坂」というからには「坂」つまり地形と由来を考えるが妥当と思いますが、この相模川近辺の上野宿というのが気になります。十軒酒屋が十間坂となった可能性はないのでしょうか。
ちなみに、国土交通省の表記もJRも「じゅっけんざか」とフリガナしていますが、日本語では「じっけんざか」が正しいと思います。
ご見解あればお尋ね致したく。
参考 【相模川の合戦】
http://books.google.co.jp/books?id=Xup94ksgGhwC&pg=PA102&lpg=PA102&dq=%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6&source=bl&ots=-0Oz6hKMfD&sig=-wBAX47dC5HNWciCCkEaeKf5sMY&hl=ja&sa=X&ei=qzpPUoarIMb0lAWIvYDQDg&ved=0CGkQ6AEwCA#v=onepage&q=%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6&f=false

- kanageohis1964 - 2013年10月05日 08:34:47

こんにちは。コメントありがとうございます。

お尋ねの件、御指摘いただいた「神奈川の東海道(上)」は自宅にもありますので内容を確認しました。確かに「十軒酒屋」と書かれてますね。ただ、Web上で「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」の翻刻を探したところ「十間酒屋」と書いているものも見つけました(http://www12.ocn.ne.jp/~sakumo/siryou3nakasendai.html)ので、これはもう少し他の資料を漁ってみる必要があるかも知れません。

尊氏のこの時の進軍ルートを考えると、「十八日、相模川合戦、今夜十間酒屋上野宿、」とあるのは確かに茅ヶ崎付近に当たると思われますので、十間坂の地名を考える際の事例のひとつとして考えておくべきとは思います。もっとも、これが「十間坂」地名の由緒と言えるかどうかは、他の事例も探してみないと何とも言えないところかなという気がします。

- kanageohis1964 - 2013年10月06日 19:33:44

松木様:

追加でお返事差し上げます。図書館で「神奈川県史」を確認して来ましたが、やはり「十間酒屋」と表記されていました。また、「茅ヶ崎市史 資料編(上)」でも「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」の翻刻が掲載されており、ここでも「十間酒屋」と記されていて、同市史の通史編でも
>その夜、尊氏らは十間酒屋(今の十間坂の地)で野営した。(同書141ページ)
と記していました。茅ヶ崎市史が神奈川県史の孫引きである可能性もあるのですが、その場合はその旨表記されているところ「(国会図書館所蔵文書)」と表記されていましたので、別途同史料を直接参照している可能性の方が高そうです。つまり、「十間酒屋」の表記の方が正しいと考えて良さそうで、「神奈川の東海道(上)」の方が誤記である可能性が高そうです。

なお、「上野宿」は茅ヶ崎市史にある様に、上で野宿したと読むのが正しい様です。ということは、「十間酒屋」は坂のふもとにあったのでしょうかね。同史料に「今夜小田原上山野宿」と出て来るのも小田原の山の上、今の小田原城に連なる尾根の上で野営したと解釈する様ですので、「今夜十間酒屋上野宿」も同様に解すべきかと思います。

- 松木剛 - 2013年10月14日 19:21:29

コメントの御礼遅くなり申し訳ありません。ご丁寧な解説ありがとうございました。
「の上で野宿」のご説、ありがとうございました。
茅ヶ崎に限らず、湘南のこの地は江戸時代前より砂丘を迂回したり、湿地を回り
路したりで東海道はできていると聞いています。つまりあちこち坂だらけなのは
理解できますが、十間というのは腑に落ちませんでした。
ありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。

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