スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【脇往還】金沢・浦賀道と鎌倉・浦賀道:幕末の動き


鎌倉・浦賀道のルート:下馬〜浦賀
前回までで、鎌倉・浦賀道や金沢・浦賀道に見られる道幅や飛石渡り、継立場といった施設の不十分さが生じた原因について、一先ず私なりの見解をご紹介する所まで終わりました。地形面の問題に加え、江戸時代中期に当たる享保年間に継立が本格的に編成されたという時代背景が大きく影響した、という説明をしたと思います。

でも、私自身がこの道について「浦賀道見取絵図」や「新編相模国風土記稿」を追い始めた時に最初に感じたのは、何とも不相応で収まりが悪い、ということでしたし、一通りこうして自分なりに整理してみても、「とは言え…」という感触は今ひとつ拭えないでいます。それは、やはり現代の私たちが、浦賀の地が幕末にどの様な歴史を辿ったか、既に知っているからかも知れません。

「浦賀道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」が作成されたのは寛政12年〜文化3年(1800~1806年)です。あのペリーの浦賀来航は恐らく学校の歴史の時間に散々年号を暗記させられて今でも覚えているという人は多いのではないでしょうか。1853年、和暦では嘉永6年に当たります。つまり、「見取絵図」はその50年ほど前の姿、ということになります。その頃にはロシアの使節が根室や長崎に来たりしていますので、幕府もそろそろ外国船への守りが重要になってくることは意識し始めていたとは思われるものの、まだ浦賀が海外との折衝役になる日が来るとは考えていなかったであろう頃です。事実、浦賀奉行所は当初は一連の遠国奉行の中での序列は下の方で、それが引き上げられたのは奉行所の役割に外国船の警備が加えられた後でした。

幕末の一連の動きについてここで仔細に検討することは手に余りますので、差し当たりWikipediaの幕末の年表へのリンクだけ置いておきます。ここでは浦賀道の往来が幕末にかけて増大していったことが窺える資料を2つ、「逗子市」から引用しようと思います。何れも「通史編 古代・中世・近世・近現代編」(平成9年)に掲載されているもので、浦賀道での継立の負担が増大していったことが窺えるものです。

久野谷・山野根・桜山三か村の小坪駅人馬勤高
 ―高百石につき1ヶ年平均勤高―
年次寛政〜
文化年間
文政4〜
天保13年
天保14〜
弘化3年
弘化4〜
嘉永2年
人足25人44人60人247人
1疋1疋2疋30疋
〔資料〕嘉永元年9月「乍恐以書付御歎願申上候」
1つ目の表は、小坪村の助郷を勤めていた久野谷村、山野根村、桜山が増大する助郷の負担を軽減する様、当時の領主であった川越藩の代官所に宛てて嘉永元年(1848年)に提出した嘆願書に書かれていた一覧を表に起こしたものです(上記書449ページ)。この表は「高百石につき1ヶ年平均」とありますので、実際に差し出した人馬はそれぞれの村の石高に応じて掛け算することになります(江戸末期の各村の石高から見て、山野根村はこの表の通り、久野谷村がこの表の3倍、桜山村が同じく4倍と考えれば大体良さそうです)。

特徴的なのは、人足の方が先に増えていっていることで、これは比較的軽量の荷物の継立から業務が増大したことを意味しています。恐らくその代表的なものは書状でしょう。浦賀を始めとする三浦半島の各拠点と江戸との間での連絡が密になるに連れ、その通信を担う役目が過重になっていったことが窺えます。それにしても、いよいよ海外からの圧力を具体的に感じる嘉永の頃になると、人馬の調達が急激に増えたことが良くわかります。

ペリー来航と人馬継立高の激増 ―小坪村継立場の場合―  〔単位〕人・疋
期間
*( )は嘉永7年
嘉永6年(1853)嘉永7年(1854)
人足(賃払い)馬(賃払い)人足(賃払い)馬(賃払い)
正月20日〜晦日(29日)
22 (  21)
1 (  1)
350 ( 280)
11 ( 10)
2月朔日〜29日(晦日)198 ( 113)27 ( 24)199 ( 119)25 ( 24)
3月朔日〜晦日(29日)769 ( 739)152 (152)911 ( 719)62 ( 61)
4月朔日〜晦日748 ( 724)106 (106)2518 (2302)318 (318)
5月朔日〜5日
22 (  19)
2 (  2)
38 (  28)
6 (  6)
合計1759 (1616)288 (285)4016 (3448)422 (419)
〔資料〕嘉永7年11月「当春異国船渡来ニ付人馬継立高書上帳」

そして、そのピークはやはり浦賀にペリーが来航した頃に来た様です。こちらの表は嘉永7年、つまりペリー来航の翌年の小坪の継立場が前年からの継立の実績をまとめて、当時所領していた彦根藩に報告したものを元に編集されたものですが、1ヶ月の人馬の往来が一気に増えたことがわかります(上記書450ページ)。この表の中では嘉永7年4月の1ヶ月間の人馬の往来が最大になっていますが、これを単純に30で割ると1日平均約84人の人足と10匹以上の馬が継立のために往来していたことになります。当然、街道を往来するのは継立ばかりではありませんから、鎌倉・浦賀道はこれ以上の人馬が往来していたでしょうが、その道が今まで見た通り「一間余り」の幅しかなかったというのですから、その分狭い道の中での「譲り合い」をしながら先に進まなければならない訳で、ただでさえ労力負荷が大幅に上がっている中では人馬ともに相当にストレスを感じざるを得ない状況だったでしょう。

因みに、括弧内に入っている「賃払い」の数字は、各村々の割り当てでは賄い切れなかった分を駄賃を出して雇った分ということで、この表で見られる様に大半の人馬が雇われていたということは、助郷組合に割り当てられた分をとうに使い果たしてしまっていたということになります。この点からも、元々考えられていた継立への負荷を大幅に越えた負担を各村々が負っていたことが窺えます。なお、同様の影響は恐らく金沢・浦賀道でもあったと思われますが、今回は上記の2つに対比できる資料を見出だせなかったので、ここでは鎌倉・浦賀道の事例だけに留めておきます。

浦賀道(鎌倉):小坪・富士見橋を下流側より見る
現在の富士見橋:江戸時代には「田越橋」(再掲)
それでいて、この道幅を拡げたり飛石渡りを解消して増大する交通量に対応しようとした形跡は、調べた範囲では見当たりませんでした。明治時代に入ってもほぼそのままの道幅で据え置かれていたらしいことは、以前「その19」で引用した「葉山町郷土史」の記述からも明らかです。恐らく、幕府側も各村々も、のしかかってきた負担を捌くので手一杯で、とてもそれ以上の普請に手が回らなかったのでしょう。それどころか、田越橋の度重なる落橋の補修に、普請の担当だった小坪村も桜山村も財政面で手が回らなくなり、挙句安政の大地震で落橋してからはしばらく渡舟での連絡で凌ぐ有様でした。


こうして、浦賀道が結果的にその規模に不相応な役割を担い、その役割を何とか果たしつつ幕末を迎えた一連の顛末を眺めるにつれ、そこに「歴史の綾」が見え隠れする気がしてきます。無論、それぞれの時代にこの道を通った人たちには、その後に待ち受けている歴史の行方は当然見えていない訳ですから、後世から見て「何故こっちじゃなかったんだろう」というのは、飽くまでも結果が知れたが故の後知恵でしかないのですが、それでも、幕末に狭い道を窮屈そうに譲り合いながら人馬がすれ違っていく様を見ながら、「何故最初からもっと…」などと思っていた奉行所の役人がいたのではないかなぁ、なんてことをつい想像してみたくなったりもするのです。

そして、三浦半島の脇往還の辿った歴史を一通り見た上で、改めて東海道を振り返ってみると、こちらは江戸時代を通して日本で最も重要な街道であり続けたという実情もありつつ、江戸に幕府を移して全国の大名を総動員して土木事業を行なっていた江戸時代初期だったからこそ、あれだけの規模を持った街道を整備出来た、という側面が浮かび上がってきます。例えば保土ヶ谷〜戸塚付近の東海道の普請を考えても、江戸という新しい中心地に向けての陸路を確保するという題目の下で、大規模な労力を投下出来なければ、街道が別の場所を通っていたかも知れない…という所でようやく東海道の話に繋がって来ました。次回からは藤沢まで来て止まっている東海道筋の話に戻したいと思います。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。