【脇往還】金沢・浦賀道(その3:田浦の地形②)

前回に引き続き、田浦周辺の地形を検討します。今回は金沢・浦賀道を離れて、それよりも海側の地形を追ってみます。「そんなに無理して高い所まで登らなくても、もっと海に近い場所に道を付けることは考えられなかったのか?」という疑問の答えを追ってみよう、というのが狙いです。

確かに、急坂を遠回りして登り降りすることになる十三峠への道筋は厳しいものには違いありませんが、ならばもっと海沿いに道を付ける目はなかったのか、何が海沿いの道を阻んだのか、それを確認してみましょう。

こういう場合、地形図を仔細に追うのが本筋ですが、ここにはもう少し一般の人にも見えやすいものがあります。この区間を経由する鉄道や幹線道路です。

◯京浜急行
浦賀道(金沢):逸見・京浜急行との交点-1
逸見・京浜急行との交点より逸見駅方面を見る
浦賀道(金沢):逸見・京浜急行との交点-2
逸見・京浜急行との交点

浦賀道が京浜急行を潜る地点
前回逸見駅に向けて降りてきた所で記事を区切りましたが、尾根の麓に沿って金沢・浦賀道を進むと、途中で京浜急行の下を潜ります。

京浜急行の路線を金沢・浦賀道の道筋と比較すると、前身の湘南電気鉄道が多分に金沢・浦賀道の道筋を参考にしていることが窺えます。特に、能見台駅から浦賀までの区間はほぼ金沢・浦賀道に沿う様に線路を敷き、鎌倉・浦賀道の「その16」でも触れた様に、主要な集落のある場所に駅を設けました。鉄道も事業として成立する「見込み」が無ければ開業させられませんから、既存の交通事情を参考にするのは当然のことではあるのですが、陸運よりも海運に旨みがあるために当時は人があまり通らないと評されていた金沢・浦賀道に沿って鉄道を通そうというのは、少なからずリスクもある事業ではあったのではないかと思います。

とは言え、急坂には特に弱い鉄道のことですから、十三峠や按針塚に登るわけには到底行かず、この区間では按針塚になるべく近い麓を内陸側へと進むルートを採りました。安針塚駅から頂上までは直線距離で900mも離れており、標高差も100m以上ありますが、これが限界だったというところでしょうか。なお、現在の「安針塚」駅は開業当初は「軍需部前」という駅名で、必ずしも按針塚への観光客狙いで開業した駅はなかった様です。前回迂闊に「安針塚」と書いてしまっていましたが、これは飽くまでも駅名の表記で、塚の名前は三浦按針その人の名前の通り「按針塚」ですね。後で修正します(汗)。

安針塚〜逸見駅間の地形
しかし、ただでさえ山がちな場所を敢えて内陸へ進めば、それだけトンネルを使って突破しなければならない区間が増えてきます。追浜〜京急田浦間こそトンネルは1箇所ですが、京急田浦〜安針塚間には4箇所、安針塚〜逸見間にも4箇所のトンネルがあり、その先も逸見〜汐入間で2箇所、そして汐入〜横須賀中央間はほぼ全区間がトンネルになっており、合計するとこの間に12箇所ものトンネルが掘られています。

京浜急行:逸見駅より安針塚駅方面を望む
逸見駅より安針塚駅方面を望む
京浜急行:逸見駅より汐入駅方面を望む
逸見駅より汐入駅方面を望む
京浜急行:逸見駅ホームより安針塚方面のトンネル群を見通す
逸見駅ホームより安針塚方面の
トンネル群を見通す
特に、京急田浦〜安針塚〜逸見間はトンネルの数が極端に増えており、かつその間の「明かり」区間の距離が何れも短いのが特徴です。最初の2枚の写真の、金沢・浦賀道を越える区間はトンネル間の距離が120m程しかありません。

こちらの写真は逸見駅のホームから両側のトンネルを見たところです。ここは240mほどトンネル間の距離がありますが、写真を良く見るとトンネルの手前の石垣の形状や傍らの家屋の敷地の高さなどから、切通を付けているところがあることがわかります。つまり、実際の谷戸の幅としてはもっと狭いということです。

逸見駅のホームの端から安針塚駅方面を見ると、直線区間が比較的長いためにこの区間の4本のトンネルを見通すことが出来ます。

◯JR横須賀線
JR横須賀線・田浦隧道全景
JR横須賀線・田浦隧道全景
JR横須賀線・七釜隧道全景
JR横須賀線・七釜隧道全景
横須賀線は元は東海道線から横須賀軍港へのアクセスを確保するために明治22年(1889年)に敷設された支線です。その目的から、横須賀付近の海岸線沿いを走ることになるのは当然の成り行きでした。

しかし、逗子から田越川の谷沿いに進んできた横須賀線が、その先で分水嶺の下を潜って東京湾側に出た後、坂を下って田浦駅に近付くと再びトンネルを潜ります。これが田浦隧道で、トンネルを抜けた先に田浦駅があります。

この田浦駅は両側をトンネルに挟まれている駅として鉄道マニアの間では有名な存在ですが、これらのトンネルに阻まれてホームの長さが十分に取れず、11両編成の列車が停車する際には先頭から1両目と2両目の一番前のドアが開けられない運用を続けています。11両編成の列車は220mあるのですが、ホームの長さは200mを切っていることになります。

JR横須賀線・田浦隧道脇の斜面
田浦隧道脇の斜面
ここもトンネル脇の石垣や、周辺の斜面の形状から、実際の谷戸の幅がトンネル間の幅よりも狭いことがわかります。

この駅の北口を出ると、長浦港の岸壁まで200m程しかありません。勿論これは港湾整備の過程で埋め立てられて出来たものですから、当初の海岸線はもっと駅寄りだったことになります。それにも拘わらず、海岸線寄りを走る鉄道はトンネルを掘らねばならず、しかもトンネル同士の間隔がこれだけ狭くなってしまう、という地形になっていることがわかります。

JR横須賀線・田浦隧道の先を見通す
田浦隧道の先を見通す
JR横須賀線・七釜隧道の先を見通す
七釜隧道の先を見通す

田浦〜横須賀駅間の地形
その上、田浦駅を出た横須賀線は、駅端の七釜隧道を含めてやはり4つのトンネルを経て横須賀駅へと到着します。京浜急行の場合と違って田浦〜横須賀間はカーブが連続しますので、隣のトンネルまでを見通すことは出来ません。

京浜急行の場合は比較的山間を走っているために谷戸幅が狭くなる面がありましたが、実際は海岸沿いに出てもその傾向が変わっておらず、海を眺めながらトンネルを次々と潜るという、なかなか得難い車窓が展開します。

なお、上の地図でも確認できる様に、国道16号線も田浦駅の手前で横須賀線と交差すると、その先では横須賀線とほぼ並行して走りますので、トンネルも隣の鉄道と同期して現れます。因みに、この区間では国道16号の拡幅に際して用地の確保の関係からか、上り車線と下り車線が大きく分かれて進みます。



この様に、田浦一帯では海岸まで突き出た尾根によって区切られた細い谷戸が幾筋も連なっています。現在はトンネルを掘削することでこの地帯を突破する方法が使えますし、実際横須賀市内はトンネルが多数設けられているのですが、江戸時代には通行用のトンネルは極めて珍しい存在でした。神奈川県内では小坪村に数本の細い隧道が掘られており、現在も一部残ってはいるのですが、それらは飽くまでも地元の住民のための抜け道であり、街道の様な一般の通行人が用いるものとして供されているものではありませんでした。

となると、細い谷戸が連続する地形を通過するにはその都度尾根筋を越えて行かなければならなくなります。この一帯の尾根までの標高差は少なく見積もっても20mから30m、高い所では50m近くの高低差がありますから、この尾根を次々と登ったり下ったりを繰り返す様な道筋では、却って疲れやすい道中になるであろうことは容易に想像出来ます。

その上、この辺りの尾根は何れも麓の方が傾斜がきつく、こういう場所では巻き道を付けないと坂の傾斜を緩めることが出来ません。しかし、この一帯は今でも崩落危険地域が多数設定される様な地質の場所ですから、巻き道を付けるために斜面を大きく削ってしまうと、それだけ崩落の危険が増すことにもなります。勿論通行人への危険が増しますし、そのための予防策や崩落後の修復が度重なれば担当する地元の村々への負担も増します。

こうした条件を考え合わせると、無理に海岸線を行くルートを付けて細かい登り降りを何度も繰り返すよりは、その様な地帯を大きく迂回するために相模湾との分水嶺まで登ってしまう…という判断も、確かに止むを得ない判断ではあったのかな、とも思えます。そして、その様な道を敢えて行く程の喫緊の用事のない場合であれば、寧ろ平坦な道が多い鎌倉経由を行った方が…という判断が平時には優勢だったのかも知れません。

しかし…

金沢・浦賀道が平時の公儀には地形面で使い難い道筋であったとしても、前々回引用した川越藩主の手紙にある様に、非常事態には一刻の猶予もなく馳せ参じる必要から、やはり多少なりとも近道を使う選択をすることになるであろうという判断を退ける程のものだったかどうか。そうなると、金沢・浦賀道が「五海道其外分間見取延絵図」に含められなかったのは、やはり不自然なものではなかったか、という疑問を晴らすには至らないと思います。

また、鎌倉・浦賀道が本道として考えられていたのであれば、道幅や架橋、継立場等で不足を感じる状態のままで運用されていたことが、ますます不可解なものに見えてきます。無論、これらにもっと抜本的な梃入れを行うのであれば、地質面での困難さはあるにしても、金沢・浦賀道に何らかの手を入れて近道を本道として使える様に誂える、という動きがあっても良さそうですが、結局どちらの動きも見られないまま、幕末を迎えることになっていったのは、何が災いしたのか。

そこで、この課題を解くために、これらの街道にまつわる歴史的事実をもう少し掘り下げたいと思います。それは、これらの街道の継立は、下田から浦賀に奉行所が移ってきた享保5年(1720年)になって初めて本格的に組織されたということです。この継立の組織自体も、周囲の街道とは異なる方式が採られているのですが、次回はこの「享保5年」という時代背景を踏まえながら、この問題を私なりに解いてみたいと思います。



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追記(2013/11/21):レイアウトを見直しました。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- kame-naoki - 2012年12月31日 10:32:36

こんにちわ。

いつもご訪問ありがとうございます。
ブログを拝見していて、フィールドと情報量はすごいと驚いています。

良い年をお迎え下さい。また、新年も宜しくお願い致します。

- kanageohis1964 - 2012年12月31日 11:06:55

こんにちは。コメントありがとうございます。

まぁ、後から気付いて改めてバタバタと出掛けて行って…などということことも多いので、正直効率悪いなぁと思っているところですがw。

こちらこそ、来年もよろしくお願いします。

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