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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その19:まとめと道幅の問題)

鎌倉から浦賀に向かう「浦賀道」は、地元の方を除くと一般的にはあまり馴染みのない道筋かと思いましたので、今回は特に「浦賀道見取絵図」と対照しながら逐次的に個々のポイントを追ってきた訳ですが、やはりここまで長くなると全体の見通しが悪いですね。改めて振り返ってポイントをまとめたいと思います。

その前にまず、今回鎌倉から浦賀にかけての全18回の記事をリストアップします。




そして、戸塚から鎌倉までと、鎌倉から浦賀までのルートを改めて掲げます。

戸塚から鎌倉まで


鎌倉から浦賀まで



浦賀道(鎌倉):名越第一切通
名越第一切通
鎌倉・下馬の辻を発った浦賀道は、その先でいきなり名越の切通を越える急坂に挑むことになります。しかし、そこを下った先では、大筋では、相模湾側から東京湾側へと三浦半島を横断する道筋でありながら、その分水界を越える道は意外なほど平坦な道筋となっていました。その結果、この浦賀道全区間を通じての最高標高地点は、名越の切通の頂上にあります。

古くは鎌倉から走水へ抜けて、そこから水路で上総へと向かう古東海道のルートとして使われたと考えられており、鎌倉時代にも三浦半島を支配した三浦氏の居城である衣笠城と鎌倉を結ぶ道として使われたと考えられているのも、三浦半島を横断するルートとしては最適なこの地形が最も有力な裏付けになる様に思われます。

上山口の棚田:上方の公道より
上山口の棚田
その緩やかな分水界に当たる上山口〜阿部倉間には、鍾乳洞由来の豊富な地下水脈を活かして多数の棚田が存在するエリアであったことも併せて紹介しました。神奈川県内の貴重な棚田風景が残っているということもあって、この記事は割と良く参照されていた様です。

首都圏近郊の比較的短距離の古道で、鎌倉は言うに及ばず、他にも浦賀など史跡には事欠かないので、街道歩きをされる方には地味ながら意外な「穴場」だと思います。物足りない方は街道を逸れて衣笠城址まで足を伸ばすというオプションもあります。

浦賀道見取絵図:木古庭村中心部
浦賀道見取絵図より:木古庭村中心部
他方で、「浦賀道見取絵図」を検討していくと、道中に洗い越しが1箇所、そして何より「飛石渡り」が7箇所も描かれており、これは同時期に作成された一連の「五海道其外分間見取延絵図」中の他の絵図で、神奈川県内や近郊の区間を比較して、他の街道では見られない特徴であることを指摘しました。

この点は出来れば「五海道其外分間見取延絵図」の残りの絵図も一通りチェックしたい所ではありますが、流石に分量が膨大なので完了するのが何時になるのかはわかりません。他の絵図も参照するなら洗い越しや飛石渡りだけ確認するのでは勿体無いですしw。ただ、江戸に近く幕府の目も十分に届く地域で、架橋が困難とは思えない地域で何故こういう整備状況のまま措かれていたのか、という課題は考えてみる価値があると思いました。

浦賀道見取絵図-小坪付近2
浦賀道見取絵図より:小坪新宿付近
また、「見取絵図」で確認できる小坪や下平作の継立場には集落が形成されておらず、少なくとも絵図が描かれた頃までは継立の負荷はそれほど大きくなかったと思われる点を見てきました。

因みに、東海道の場合は江戸初期に周辺の村々に対し、治安の観点からなるべく街道の近傍に住む様に通達が出ており、そのため宿場を離れた所でも山中でもない限り街道筋に集落が多数点在していたのですが、浦賀道の場合は全体として各村々の集落の形成地が必ずしも街道の周辺にはなく、寧ろ離れてしまっている箇所の方が多かったことも追記しておいた方が良いかも知れません。

さて、今回はもう1つ追加して指摘したい点を取り上げます。戸塚から鎌倉にかけての区間についても、「新編相模国風土記稿」の各村々の記述から浦賀道の道幅を拾い出して一覧化しましたが、鎌倉から浦賀にかけての各村々についても同様の一覧表を作ると、この様になります。

雪下村
大町村
久野谷村
小坪村
桜山村
堀内村濶一間餘
一色村濶一間餘
上山口村幅六尺許
木古庭村
上平作・下平作・池上村入会道幅一間餘
金谷村幅一間餘
小矢部村道幅一間餘
公郷村
大津村幅一間餘
西浦賀
(以上、雄山閣版より。引用に当たり小字の記述もサイズ変更せず)

戸塚〜鎌倉間に比べると随分と未記載になっている村が多くなってしまいました。この点を埋められる史料が無いか確認した所、以下の村明細帳が出て来ました。

文政八年三月「地誌御取調書上帳」相摸国三浦郡久野谷村

一 街道 鎌倉郡雪之下村ヨリ三崎・城ヶ島御用御通行、浦賀御奉行様御通行并不事之人馬道、但シ道幅弐間、同郡小坪村ヨリ同村新宿境迄十丁、…

逗子市史 資料編Ⅰより引用)

文政八年三月「三浦郡桜山村地誌取調書上帳」

一 街道、村西南方有之、浦賀道と唱、道幅壱丈

文政八年四月「三浦郡西浦賀村地誌取調明細帳」

一 町方街道壱筋、但、大津村ゟ入口谷戸町/内川新田ゟ入口田中町弐間余継場下平作村迄道方弐里、

文政八年五月「三浦郡木古庭村地誌御調書上帳」

一 往還浦賀ゟ鎌倉之道御座候、
道幅一間余も御座候、諸御役人中様御通行之節、…

(「相模国 村明細帳集成」2001年 青山 孝慈著・青山 京子編より引用)
(以上強調はブログ主)
何れも「文政八年」の明細帳ですが、これらは何れも「新編相模国風土記稿」の作成のために各村から提出させたもので、まさに「風土記稿」の原資料ということになります。しかし、何故かこれらは「風土記稿」には採用されませんでした。因みに、上山口村の同年の村明細帳には「風土記稿」に記述されたものと同じ「幅一間余」という道幅が記されています。

「風土記稿」の作成に当たっては各村からの明細帳がそのまま採用された訳ではなく、これらを元に実検を経て、その中から適宜取捨選択や追記が施されて執筆されています。従って、村明細帳に記載されているのに「風土記稿」に取り上げられなかったのは、何らかの問題を見出したからなのかも知れません。今回たまたま久野谷村の境にある名越の切通について、最近の発掘調査を「その2」で取り上げましたが、それによれば江戸時代の切通の幅は最大で幅270cmでした。これは当時の尺貫法に直せば「一間半」に相当する幅です。無論、切通は飽くまでも浦賀道のごく一部の区間に過ぎないのですが、これは「二間」と称するには若干サバを読み過ぎと判断された可能性もありそうです。桜山村の「道幅壱丈」は10尺に相当しますのでメートル法に直すと3m程になりますが、これもあるいは同様の判断によって採用されなかったのかも知れません。

もっとも、久野谷村はまだ鎌倉の隣接地であり、「その6」で見た様に参拝客が来ない訳ではないエリアでしたから、まだ幾らか道幅を広めにする動機付けがあったとも考えられます。桜山村もその点では森戸明神の途上ですし、浦賀はその繁栄振りから考えて相応の広さの道を構えていてもおかしくないところです。そうであれば、当時の道幅は明細帳の通りで「風土記稿」に採用されなかったのは別の理由ということになります。しかし、現時点ではどちらであるかを判断するに足るだけの裏付けがこれ以上ありませんので、部分的にはもう少し広かった可能性もある、という判断に留めます。

そうであったとしても、戸塚〜鎌倉間が大筋で「幅二間」を確保していたのと比べると、鎌倉〜浦賀間のうち、少なくとも堀内村から先は大筋ではその半分程度の幅しかなかったことになります。ざっと2mほどということになりますね。実際、葉山町が刊行した「葉山町郷土史」(昭和50年)でも

 当時の道は多く田畠をさけて山や浜を通り道巾も狭く街道筋でも二メートル位であった。川には橋らしい橋もなかったので大雨後は当分川を歩いてわたるしまつ、荷駄は人馬で、人は歩くか籠に乗る程度でこの不便さは明治中頃まで続いていた。

(同書56ページ)
と記しており、この道幅が大筋正しいものであることを裏付けています。

東海道五十三次保永堂版「川崎宿」
歌川広重「東海道五十三次(保永堂版)」より
川崎宿
("Tokaido02 Kawasaki" by 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
この道幅が何を意味するかは、当時の馬の積荷の様子を見るとわかるでしょう。「東海道五十三次」保永堂版の「川崎宿」の絵の中に、対岸で渡し舟を待つ荷馬の姿が描かれています。背中に載せているものが何であるかはっきりしませんが、傍らの馬子の大きさから見てもその肩幅程度の直径はありそうです。当時の米俵が直径約40cmと言いますから、確かにその位の大きさのものを積んでいると言えそうです。これが馬体の両脇に1つずつあるということは、2つで80cm、馬体の幅もそれ以上はありそうですから、仮に50cmとするとトータルで130cmに達することになります。

道幅が2m程度しかない所にこの様な積荷の馬が両側から来れば、当然すれ違えるだけの幅がない訳ですから、どちらか一方が辻などを使って退避したりしながら行き交うしかありません。人馬の往来が大して見込めない道であれば、この程度の譲り合いは大して問題になりませんが、交通量が増えてくればその都度退避を繰り返すことになり、所要時間に響いてきてしまいます。つまり、「道幅一間余」では当時の人馬による輸送でも充分な容量を持っていなかった、ということになります。

こうして見てくると、この「浦賀道」は「浦賀御奉行様御通行并不事之人馬道」(上記久野谷村の明細帳)にしては、その整備状況にどうも疑問符が付いてしまう点が色々と見えてきてしまいます。この道は一体何故この様な運用を続けていたのか?

この問題は、浦賀から江戸へと向かう道筋としてはもう1本、既に見てきた様に金沢経由の道があった、という点を重ねると一層複雑になってきます。陸路で比較すると明らかに金沢経由の方が鎌倉経由よりも近道だった筈なのですが…という辺りから次回に続きます。



追記(2013/11/20):レイアウトを見直しました。
(2015/01/04):Wikimedia Commonsのライセンス表記を追加しました。


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この記事へのコメント

- YUMI - 2012年12月26日 10:22:46

こんにちは。
地元にいながら、郷土史はあまり手をふれてこなかったので、浦賀道の整備など、言われてみればたしかにそうですよね。
さて…
次回が楽しみです。

- kanageohis1964 - 2012年12月26日 11:20:50

こんにちは。

実のところ、私もこれまで東海道から内陸側を主に見ていて、「そう言えば三浦半島」と紐解いてみたら、どうも変だなという所が次々出て来て、これはもう少ししっかり掘ってみないと…というのが、今回の記事の切っ掛けになっています。なので、まだまだ掘り下げ足りない部分が多々あると思いますし、この記事を切っ掛けに議論が深まれば良いなとも思います。

取り敢えず次回の記事を急ぎ仕上げます…。

- 薄荷脳70 - 2012年12月30日 08:11:59

おはようございます。
毎回楽しく読ませていただきました。
流石に鎌倉のお膝元ですから文化も歴史も興味深いことだらけです。といいながら私的に埼玉から神奈川へは結構気合入れないと行けないのが辛いところです。
戸塚から鎌倉までのルートには大船辺りもあるので、来年は鎌倉の山崎に住んでいる弟の所に行きがてら散策してみたいと思っています。
本年はコメント等もいただきありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎えください^^

- kanageohis1964 - 2012年12月30日 09:26:39

おはようございます。コメントありがとうございます。

戸塚〜鎌倉間は幾らか端折り気味に紹介しましたが、そこは江戸時代の鎌倉参拝の道ですから、もっと掘り下げれば他にも色々と紹介できるものはあったと思います。是非散策を楽しんできて下さい。

こちらこそ、来年も改めてよろしくお願い致します。

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