【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その17:写真集…浦賀船番所・奉行所・燈明崎)【訂正追記】

その16」でようやく浦賀の入口に到着しました。「浦賀道見取絵図」はその浦賀の町並みを燈明崎まで描いて終わっていますので、今回はその「終点」まで向かいます。

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浦賀道見取絵図:浦賀付近
浦賀道見取絵図:浦賀入口付近(再掲)

江戸時代には入江を挟んで「東浦賀」と「西浦賀」に分かれていました。更に「浦賀道見取絵図」では明記されていませんが、「新編相模国風土記稿」では西浦賀は更に南側を「西浦賀分郷」と称して別の村として独立していることを記しています。東浦賀も西浦賀も、後ろに「町」「村」「宿」といった集落の形態を示す接尾語を付けずに呼んでいたのが特徴です。

「見取絵図」では上の方に描かれているのが西浦賀です。船番所・奉行屋敷・燈明台といった施設は何れも西浦賀にありましたので、今回は専らそちらへと進みます。

浦賀道:下平作の継立場から2里の位置
下平作の継立場から2里の位置
その12」で下平作の継立場について取り上げた際に「新編相模国風土記稿」の記述を引用しましたが、それによれば下平作から「東方浦賀へ二里」と記されていました。8km弱に相当する距離ですが、下平作の該当箇所から8kmの地点を「ルートラボ」上に作成した浦賀道のルートで探すと、西浦賀の町の入口付近までしか達することが出来ません。ルートの含む誤差を考慮に入れても距離がかなり足りないことから、この里程には浦賀の街中の距離が含まれていないことが窺えます。

浦賀道:浦賀駅前から船番所前の距離
浦賀駅前から船番所前の距離
実際問題として、浦賀は細長い入江の両岸に、当時の宿場町の様に細長く伸びた街場を形成していました。現在の京急浦賀駅前の交差点から、かつての船番所のあった辺りまででも1.5km、奉行屋敷までは2kmほどもあります。当時1里2里といった距離で継立を営んでいたことを考えれば、半里ほどにも達する街中の距離までは含められなかったのでしょう。

浦賀道見取絵図:叶神社〜船番所付近
浦賀道見取絵図:叶神社〜船番所付近

浦賀:廻船問屋跡の商家
浦賀:廻船問屋跡の商家

廻船問屋跡の位置
江戸時代の浦賀は、縄文海進の頃に形成された海蝕崖の下に、海退後に細く堆積した平地に集中して発展しており、それが上記の様な町の形に繋がっている訳です。

この様な地形の中に当時としては大きな軒数の町が形成されるとなると、どうしても平地が不足気味であった様です。浦賀に集まった廻船問屋の数は全部で105軒を数えましたが、これらの問屋は基本的には崖下の細い平地に伸びる道の両側に軒を連ねていたものの、やはりそれでは足りず、その崖が途切れる所で谷戸が内陸に向けて伸びており、その谷戸方向にも町が伸びていた様です。

この「廻船問屋跡」というガイドが立てられた古い商家は、そんな浜伝いの道と谷戸へと入る道の辻にあり、この辺りが問屋街の中心地であったのかも知れません。このすぐ近くに西叶神社や東福寺などの主要な寺社が固まって存在しています。

浦賀:「浦賀園」扁額
「浦賀園」扁額
浦賀:愛宕山公園からの眺望
愛宕山公園からの眺望

「浦賀園」入口の位置
こうした地形が良く理解できるのが、この「浦賀園」、現在の愛宕山公園でしょう。明治26年(1893年)に造られた公園である「浦賀園」に登る階段はつづら折りになっていて、海から僅か数十メートルの位置にある高台から停泊中の船や道沿いの家々を眼下に見ることが出来ます。

浦賀:蛇畠ガイド
蛇畠ガイド
また、浦賀園の南には「蛇畠(じゃばた)」という町名があり、「見取絵図」にも「蛇畑」と記されているのを確認できますが、その由緒はこの写真にある通りで、これも浦賀の地形ならではの名前であることがわかります。午後には日陰になるこの崖の下で耕作するのはなかなか大変そうですが…。

浦賀:船番所跡
浦賀船番所跡

船番所跡の位置
江戸時代の船番所は、この蛇畠町の浜に設けられていました。享保5年(1720年)に下田から移ってきた浦賀奉行所の出先機関である船番所では、江戸に出入りする全ての船の積荷を確認する業務をこなしていました。この年以降は浦賀の沖を乗り越すことが禁じられ、全ての船が浦賀で積荷の検査を受けなければならなくなったのですが、何分当時の日本最大の消費地に物資を送り込む船が全部集まる訳ですから、その全てをチェックして廻るとなれば当然人員が足らず、浦賀に多数集まった廻船問屋は何れも船番所の指揮下で実際に船に乗り込んで積荷を確認する役目を担っていました。

浦賀:船番所跡から入江パノラマ
船番所跡から入江パノラマ
現在は船番所の建物などは全く残っておらず、その所在を示すガイドが幾つか立てられているのみです。跡地は現在ボードウォーク調の親水広場として整備されていますが、そこから浦賀の入江をパノラマ撮影しました。対岸の東浦賀の町並みがほぼ収まっています。

浦賀道見取絵図:浦賀奉行屋敷付近
浦賀道見取絵図:浦賀奉行屋敷付近

浦賀:為朝神社
為朝神社

為朝神社の位置
浦賀奉行所跡に向かう際に現在目印となるのは、この為朝神社でしょう。こじんまりとした神社ですが、拝殿の彫刻の彫琢の細かさが目を引きます。

この神社の前で内陸へと向かう方向へ折れる道が奉行所跡へ向かう道です。しかし、この神社が創建されたのは文政の頃(1820年頃)とされていることから、それ以前に作られた「見取絵図」には当然記載されていません。この奉行所への道の途中に当時は木戸があったことがわかりますが、その中が奉行所の与力など要職の住居に充てられていました。

浦賀:奉行所跡-1
奉行所跡:南側の堀
浦賀:奉行所跡-2
奉行所跡:東側の堀
奉行所跡の位置
現在浦賀奉行屋敷の跡地には社宅の建物が3棟建っていますが、周辺の堀は当時のものとのこと。もっとも、石垣は当時のものにしては積み直した様にも見えるのですが…。水路自体には手が入っている様ですので、その際に補修が入っているかも知れません。

浦賀:第六天榊神社
第六天榊神社
浦賀:第六天榊神社境内からの眺望
第六天榊神社境内からの眺望
この奉行所跡の全容を見るには、奥の第六天榊神社の境内に上がる方が良いかも知れません。この神社もこの地に移されたのが昭和初期とのことですから、当然「見取絵図」には記されていません。

絵図では奉行所の周囲は水田になっていた他、谷戸に沿って鉄砲の練習場があったことが窺えます。これらの施設が狭い谷戸の中にぎりぎりに収まっていたことが窺えます。奉行所の敷地は2000坪弱ですが、それさえやっと収まる敷地しかなかったことを考えると、「その15」で取り上げた大津陣屋が浦賀から離れた立地にならざるを得なかったのも、止むを得ないことだったのでしょう。

奉行所では船番所から集まってくる積荷の数を主要品目毎に集計して3ヶ月毎に江戸の勘定奉行へと送っていたとのことで、浦賀から江戸への道はこうした報告を届ける通信路でもあった訳です。

因みに、この神社の拝殿の扉の両脇にガラスが張ってあるのが見えますが、この中には鏝絵(こてえ)が収められていました。写真を撮っていた時には浦賀の鏝絵の歴史について頭に入っていなかったので、そのまま細部を撮らずに立ち去ってしまったのですが、他の方のサイトに掲載されている写真と比較すると、最近になって彩色と補修を加えた上でガラス板で保護したものの様です。

浦賀道見取絵図:燈明崎付近
浦賀道見取絵図:燈明台付近

浦賀:坂の上から燈明台を望む
坂の上から燈明台を望む

燈明台へ向かう道の位置
浦賀奉行屋敷を過ぎて燈明崎へ向かう道は、「見取絵図」では極端に細く描かれています。もっとも、これは実際にそこまで細かったという意味よりも、燈明崎への道が他の「野道」と同等の道であるという意味で捉えるべきでしょう。もはや町中ではなく、荷馬の行き交う道ではなかっただけに、更に細い道になっていた可能性はありますが。

現在は燈明崎へ向かう途中で、坂を登り切った辺りから燈明台の姿を見通すことが出来ます。因みに、地図の左上にマリーナが見えていますが、ここはかつての石川島造船所の跡地で、その一角に煉瓦造りの明治時代のドックが残っています。今回は立ち寄れませんでしたので写真はありませんが。

浦賀:燈明崎の慰安碑
燈明崎の慰安碑

燈明崎の位置
ここはあまり人の来る場所ではなかったからか、燈明崎は処刑場としての一面も持っていました。今も大きな鎮魂碑が立っています。こんな場所で日々燈明台の明かりを世話し続けるというのもなかなかホラーな話ではありますが…。「見取絵図」では燈明台の傍らに浜高札が立てられているのが確認できますが、こんな人気の乏しい場所に敢えて高札が立っているのも、そんな御法度を戒める場の証なのかも知れません。

浦賀:燈明台
燈明台
浦賀:燈明崎前の岩礁-1
燈明崎前の岩礁:遠くに房総半島が見えている
浦賀:燈明崎前の岩礁-2
燈明崎前の岩礁
燈明台の礎石の石垣は江戸時代のものが残っており、その上に復元された燈明台が載っています。その姿は「見取絵図」でもごく小さくではありますが描かれています。かつてはここで毎晩菜種油魚油を1升炊いていたそうですが、光量はどの程度だったのでしょうか。

とは言え、波の洗う燈明崎の岩場を良く見ると、波の下にもかなり遠くまで岩礁が隠れています。関東大震災で一帯が1mほど隆起していることは念頭に置かなければなりませんが、見た目以上に座礁の危険のある場所であったことが窺えます。

「見取絵図」では、燈明崎の近くに「アシカ嶋」と表記された小島が描かれています。名前から察するに、かつてはここにアシカが集っていたのでしょう。

これで「浦賀道見取絵図」を最後まで辿ったことになりますが、次回もう少し浦賀の写真を披露したいと思います。



訂正:✕菜種油→◯魚油
迂闊に「菜種油を燃やしている」などと書いてしまいましたが、東浦賀の一連の村明細帳を見て、菜種油を使ったことはなく、一貫して魚油を使っていたことがわかりました。失礼致しました。請け負っていたのが東浦賀の干鰯問屋衆なのですから、彼らの元で精製される魚油を使うのは当然の話しですね(汗)。

東浦賀の明細帳は享保18年から慶応4年までかなりの数が残っていますが、その多くに燈明台のの運用に永年携わっていることが記されています。何れもほぼ同一の内容なので、ここでは慶応4年の明細帳から該当箇所を引用します。

一 港口燈明堂 壱ヶ所

、慶安元年石川六左衛門様・能勢小十郎様御見分之上、御取建相成、御入用御渡相成、燈人足東浦賀村役被仰付、干鰯問屋共相勤申候処、元禄四年諸入用・普請等至迄、当所干鰯問屋被仰付、是迄相勤来申候、則、壱ヶ年入用左奉申上候、

一 魚油 六樽 代金弐拾九両三分程

但、近年五ヶ年平均

一 燈身紙共  代金六両三分程

但、同断

一 燈人足   給料金弐拾両

右之通御座候、尤、魚油之義、直段格別高下御座候、右度〻建替、取繕等仕候処、猶亦大破およひ候付、昨年八月中ゟ建替取掛り、当正月中皆出来仕候、

(「慶応四年五月 三浦郡東浦賀村明細帳」から 「相模国 村明細帳集成」2001年 青山 孝慈著・青山 京子編より引用)


この様に、毎年かなりの額をその燃料代などに費やしてきたことがわかります。もっとも、享保18年には魚油の消費量が「年4樽で4〜5両位迄」だったとしていますので、幕末までに随分とインフレが進んだことも見て取れます。



追記(2013/11/20):レイアウトを見直しました。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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