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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その15:写真集…衣笠・宇東川→大津陣屋)

その14」で法塔十字路の解説が長くなってしまい、その先を分割せざるを得なくなってしまいました。

↓今回も分量が多くページが重いので、一覧から見ている方はなるべく「別タブで記事を開く」をクリックして下さい。



浦賀道見取絵図:宗源寺付近
浦賀道見取絵図:宗源寺付近

浦賀道(戸塚):宇東川
宇東川

浦賀道が宇東川を渡る位置
法塔十字路のすぐ近くを走る県道26号線を越えた先で、左手に「宇東川緑道緑地」と記された遊歩道が現れます。この遊歩道は河川を暗渠化したもので、反対側は開渠になっており、そのすぐ先で平作川に合流します。「見取絵図」でも石橋が描かれていますが、流末は平作川と合流する様には描かれていません。見取絵図では水系を仔細に記すのは目的の内にはなかったため、道筋から目指できる範囲外での流末の合流箇所などについては、必ずしも実体を描いていません。

絵図ではここからしばらく、街道の傍らを別の川が沿って流れる様に描かれていますが、この川も暗渠になってしまっている様です。この辺りから江戸時代には公郷(くごう)村に属していました。

浦賀道(戸塚):公郷町の庚申塔群
公郷町の庚申塔群
浦賀道(戸塚):公郷神社
公郷神社

公郷町の庚申塔群の位置
そのすぐ近くの民家の敷地内に、写真では見切りましたが「公郷町の庚申塔群」と記されたガイドと共に8体の庚申塔が安置されています。ガイドによれば一番左のものが寛永16年(1639年)と横須賀市内では最古の庚申塔ということになるのだそうですが、これらの庚申塔が元々祀られていた場所が何処なのかは記されていません。「見取絵図」にもその所在が描かれていませんので、恐らくはかつての公郷村の域内に散在していたものをここにまとめたのでしょう。

すぐ向かいには「公郷神社」がありますが、これも「見取絵図」にはありませんので、後の世になって開発が進む中で周囲の神社を合祀したのかも知れませんが、委細を確認することは出来ませんでした。

浦賀道(戸塚):曹源寺山門前
曹源寺山門前

東光山曹源寺の位置
東光山曹源寺前に来たところで、浦賀道を逸れて山門前まで上がってみました。「その11」で阿部倉の「宗源寺坂」で一度出て来ましたね。

創建は未詳ながら奈良時代後期頃、開祖は行基とされています。山門をくぐった先に更に階段が続いているのが見えていますが、尾根筋を登る途上にこのお寺が立地しています。

かつては隣の県立横須賀高校の敷地もこの寺の領地であったとのことで、浦賀道はその南端に沿って進んでいたのでしょう。絵図では「字宗源寺前板橋」と橋があったことが記されていますが、これも現在は暗渠化によって確認できなくなっています。

浦賀道見取絵図:妙真寺付近
浦賀道見取絵図:妙真寺付近

浦賀道(戸塚):妙真寺
神金山妙真寺

妙真寺の位置
絵図では浦賀道がしばらく直進する様に描かれていますが、山裾から離れかけていた浦賀道はY字路で左方向に入り、再び山沿いに進む様になります。妙真寺の前で山裾に沿って道が曲がりくねり始め、進行方向に谷戸の風景が目立つ様になります。江戸時代には、この辺りから大津村に属していました。

写真は応永元年(1394年)創建の神金山妙真寺に上がる方向を見上げたところですが、この辺りの古刹は何れも高台の上に鎮座していますね。

浦賀道見取絵図:溜池付近
浦賀道見取絵図:溜池付近

浦賀道(戸塚):青面金剛塔群
青面金剛塔群
浦賀道(戸塚):元溜池奥の領主林
元溜池奥の領主林
青面金剛塔群が祀られている場所
浦賀道はやがて、谷戸の奥へと進み始めます。この辺ではまだ林が幾らか残っているものの、新たな宅地の開発で左手の山を切り崩しているところでした。「見取絵図」ではこの一帯の林に「領主林」と記されています。また、この谷戸の奥に「字池谷」と記されていますが、これが谷戸全体の名前として用いられていたかどうかは不明です。

アパートの建物が連なる一角に、多数の青面金剛塔が並べられています。最も古いものは天明8年(1788年)、最新のものは昭和の年号が刻まれており、最近まで一貫して講中が続いていたことが窺えます。左端にはこの庚申塔の由緒を刻んだ平成8年の奉納碑が添えられています。

ここは「見取絵図」では大きな溜池が2つ描かれている箇所に当たります。迅速測図でもこの溜池の存在を確認することが出来ますし、周囲の谷戸にもな溜池が描かれています。この溜池は1947年の空中写真でもまだ存在していたことが確認出来ます。この溜池に流れ込む水路を上流へ辿ると、その先に「庚申」と書かれた離れ小島の様な小さな林が描かれており、あるいはこれらの青面金剛塔はここに祀られていたのかも知れません。

浦賀道の途上、上山口付近の山間部で棚田を潤す水脈の存在を見てきた後で、海が近いこの地まで下ると溜池頼りの灌漑の跡地へと向かうことになるというのも、利水の難しさを垣間見る様な気がします。山中の上山口から阿部倉にかけての地域が大きな地下水脈を頼ることが出来ているのに対して、この辺まで下ると尾根が小さくて水脈としては不十分なので、平作川から幾らか離れた谷戸では溜池がないと水田を十分に潤すことが出来ない訳ですね。

この溜池は1963年の航空写真では埋められて宅地へと転換されたことが確認出来ます。平作川沿いにはまだ水田が残っているのが確認できるので、やはり灌漑の不利な所から宅地への転換が図られていったということになるのでしょう。

浦賀道(戸塚):元溜池から上る道
元溜池から上る道

この坂道の位置
コンクリート製のアパートが谷戸に立ち並ぶ中、その途中で浦賀道は右に折れて谷戸を離れ、坂を上ります。ここで浦賀道は平作川の流域を離れることになります。坂の小さな峠を越えた先にも小河川があった筈で、「見取絵図」にもそれらしき水路が描かれているのですが、全域が暗渠化された様で地図上では確認出来なくなっています。

浦賀道(戸塚):天神坂のガイド
天神坂のガイド
浦賀道(戸塚):元天神社の狛犬・手水鉢と青蓮寺の庚申塔
元天神社の狛犬・手水鉢と青蓮寺の庚申塔
元天神社の位置
下り坂に転じた所に「見取絵図」では「天神坂」と記されています。名前の由来になった「天神宮」も絵図に描かれているものの、現在はこの天神社は諏訪神社に合祀されて狛犬と手水鉢だけがこの地に残っています。

この辺りから、写真の様なガイドを見掛ける様になります。左端に「市民協働事業」と記されているのは、ボランティア活動を行政が支援する形でこの様なガイドを立てているということでしょうか。ガイド中に見える「青蓮寺」は、「見取絵図」では後ほど出て来る諏訪神社の隣に描かれています。

浦賀道見取絵図:後の大津陣屋付近
浦賀道見取絵図:後の大津陣屋付近

浦賀道(戸塚):大津公園越しに京急久里浜線方面を見る
大津公園越しに京急久里浜線方面を見る

大津公園の位置
天神坂を降りて現在の大津公園に出て来る辺りから、県立横須賀大津高校の校地を抜ける辺りまでは、「見取絵図」に描かれている道筋が消えてしまっています。絵図ではこの辺りは一面水田で、その中の集落の間を浦賀道が曲がりくねりながら抜けているので、恐らくはこの平地の中の微高地を縫って進む道だったのではないかと推測します。

しかし、この一帯には「見取絵図」完成後40年近く経った天保14年(1843年)に、外国船への備えのために三浦郡に替地を受けた川越藩によって大津陣屋が建設されます。9800坪(約3.2ha)もの広大な敷地に土を入れて陣屋を築くとなれば、それによって道筋が影響を受けるのは当然で、明治政府が維新後早々にこの陣屋を引き払った後も、既に直線化された後の浦賀道が残されているのが迅速測図上で確認出来ます。私が「見取絵図」上の道筋を現況や「迅速測図」と当てた感触では、恐らく「迅速測図」に描かれている浦賀道よりももう少し北寄りを進んでいた筈と推測していますが、既にその位置を特定することは出来なくなっています。

川越藩が替地を受ける前から浦賀奉行所を支援し、浦郷に役所を設けていたことは木古庭村から金沢へ抜ける道について紹介した際に触れましたが、大津陣屋はその浦郷の役所からの移転先として造られました。目的は配備する人員の増大と重要拠点である浦賀の近傍地への移転ですが、何分浦賀は海沿いの平地が乏しく、とても9800坪もの敷地を確保出来ないために、浦賀道沿いで比較的広大な平場のあるこの場所が見立てられたのでしょう。大津陣屋から浦賀の船番所まで、それでも1里以上あり、その間に矢ノ津坂を越えなければいけなかったりするのですが…。

なお、現在は大津公園の中を抜けて京急久里浜線の下を抜ける直線道路の途中に、浦賀道のガイドが設置されています。

浦賀道(戸塚):大津陣屋のガイド
大津陣屋のガイド
浦賀道(戸塚):元大津陣屋の石橋
元大津陣屋の石橋

大津陣屋のガイドの位置
大津中学校の敷地の中に、旧大津陣屋の構内にあった石橋が移設されて保管されています。かつては刑務所の敷地内(現大津公園のグラウンド)に移されていたものとのこと。基本的にはこれが大津陣屋の唯一の遺構とされていますが、他に次回紹介する信誠寺の山門が陣屋から移されたものと言い伝えられています。

昔はこういう文化財を地元の学校の敷地内に設置して、それを学校関係者以外の人が見学に来てもさして問題にならなかったと思うのですが、今は生徒児童の安全への配慮から部外者の校地への立ち入りが厳しくなりましたし、下手をするとカメラを持って学校周囲を歩くのさえ疑いの目で見られかねない時代になってしまいました。この写真も周囲の目を気にしながら校門の外から撮影しています。学校がこういう制約が多い場になってしまった以上、今後はより多くの目に触れるべき文化財を移築する場所として、校地が選ばれることは減っていかざるを得ないのではないかと思うものの、半面地元の歴史を研究し伝える場として、地元の学校がその役目を果たすことがなくなってきたとも言える訳で、その点は何とも歯痒いところです。

なお、この石橋が大津陣屋の構内にあったことは伝わっているものの、それがどういう目的で架けられていたものであるかは不明です。「見取絵図」に描かれている石橋下の川が引き続き陣屋の敷地内を貫流していたとすれば、その上に架かっていた可能性も高まるのですが、勿論陣屋内の用水堀などに架かっていた可能性も否定できません。

次回は浦賀まで辿り着ける…筈です(汗)。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。

(2013/11/19):レイアウトを見直しました。

(2014/03/09):「国土変遷アーカイブ」が「地図・空中写真閲覧サービス」に統合されてURLが変更されたため、そちらにURLを変更しました。


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この記事へのコメント

- たっつん - 2012年12月19日 21:01:19

こんばんは。
狛犬と手水鉢だけが残っているんですね。
なんだかさみしい気もしますが、それだけでも残されていることを喜ばなければいけないのかもしれませんね。

- kanageohis1964 - 2012年12月19日 21:44:43

こんばんは。コメントありがとうございました。

大正年間に1村1社の行政指導に従って村内に散らばっていた社が村の総鎮守に一気に合祀されたので、ここの天神社もその流れで他の9社とともに諏訪神社に合祀された様です。そうなると、一気に何体も狛犬や手水鉢が来ても置き場がないので、神様だけ収容されて残りは地元に残ったんでしょうね。
一緒に祀られている庚申も神仏分離令で廃寺になったお寺のものですから、そういうものが集められているというのも何だかなぁと思います。

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