【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その10:写真集…上山口→木古庭)

その9」の続きですが、浦賀道は上山口村から木古庭村へと入っていきます。

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浦賀道(戸塚):上山口小学校付近
上山口小学校付近の下山川

左の写真の撮影位置
上山口小学校付近から再開です。この小学校の敷地も江戸時代には水田でした。ここは川沿いに浦賀道が進んでおり、今は治水工事が施されて街道面と川筋との高低差がそれなりに確保されているものの、江戸時代にはどうだったのでしょうか。

小学校を過ぎる辺りから、左側の山が迫ってきます。

浦賀道(戸塚):上山口・県道との合流地点
上山口・県道との合流地点

県道との合流地点の位置
県道が再び下山川を渡って浦賀道と合流します。ここまでの区間では新たな県道のための敷地を下山川の北側に確保出来なかったので、橋を2つ架けて下山川を一旦渡る道筋にせざるを得なかったのでしょう。ここから先、浦賀道は下山川と傍らの山の間の狭い敷地を進みます。

浦賀道見取絵図:木古庭村境付近
浦賀道見取絵図より:木古庭村境付近

浦賀道(戸塚):上山口の庚申
上山口の庚申塔
上山口の庚申塔の位置
傍らの崖は県道の拡幅のために多少削っているかも知れませんが、崩落防止のために法面をコンクリート吹付けで固めた様子からは、あまり大々的に削った訳ではないかも知れません。その法面にも次第に草木が生え始めています。

この壁面の東脇辺りに、ひげ題目が刻まれた庚申塔が祀られていました。「見取絵図」の「庚申」がこれに当たるのでしょうか。

浦賀道(戸塚):県道より大沢谷川上流を望む
県道より大沢谷川上流を望む

大沢谷川の位置
現在は「大沢谷川」と名付けられている川の上に来ました。「見取絵図」では「字大沢口」と記されており、同時に「木古庭村」の名が記されている通り、ここがかつての上山口村と木古庭村の境に当たります。その地域は現在もほぼそのまま「木古庭」の地名として受け継がれています

この川も「飛石渡リ」と記されていますが、御多分に漏れずここも治水工事の名残が見られ、当時よりは多少低い場所を川が流れています。規模としては前回の「猪俣川」に近いでしょうか。

浦賀道見取絵図:木古庭村中心部
浦賀道見取絵図より:木古庭村中心部

浦賀道(戸塚):木古庭・「路地」の入口
木古庭・「路地」の入口

左の写真の撮影位置
現在はガソリンスタンドが建っている辺りを抜けると木古庭の中心地に入り、左手の山が後退していきます。しかし、集落の大半は斜面に作られた宅地にある様です。かつてはこの斜面の多くは畑でした。

今回の問題の区間は、ここで右手に見られる細い「路地」です(写真では公園の左に入る道、右手に行くと下山川に突き当たる)。WEB上で検索して見つけた浦賀道散策の記録の中には、この路地を浦賀道の名残と考えているものも見受けられましたし、実のところ私もここを訪れるまではその可能性が高いと考えていました。

しかし、実際にこの路地に足を数歩踏み入れた所で「これは違う」と気付きました。
  • 1m四方ほどのグレーチングが道幅の過半を占めている。これはかつては水路であった所に蓋をした痕跡で、もし傍らを街道が過ぎていたのであれば、その分の道幅(最低でも1間分)が残っていないとおかしいが、その余地がない
  • 周囲に比べて路地が一段下がった場所にある。なお、下山川側は後に水田が宅地化される際に土を入れて嵩上げされていると思われますので、当時の地平とは異なりますが、それを差し引いても路地の土地が下がり過ぎる。
など、街道がかつてここを抜けていたにしてはその痕跡がなさ過ぎるのが、その理由です。

ではかつての道筋は何処へ行ったのか、迅速測図で木古庭村付近を見返しながら散々悩みましたが、1946年の空中写真を見て、現在の県道の辺りにもう1本、迅速測図に見られるのとほぼ同じ蛇行を経る道があるのを見つけてようやく納得しました。当時は現在の県道に近い辺りを、より地形に合わせた曲線を描きながら進んでおり、この道沿いの数軒の家屋を挟んで現在は路地と化した水路があり、その南側に現在は宅地と化した水田が下山川との間に広がっていた、という位置関係になる様です。空中写真で水路が黒く見えているのは、山々の影から見て正午近い時刻の撮影で水路に影が落ちているためと考えられます。

但し、「見取絵図」で木古庭の集落中を横切る数本の水路は迅速測図や空中写真では確認できず、下山川自体が迅速測図に描かれた位置と空中写真の位置が異なっている(耕地の中央を通っていたものが南側斜面の下に移されている)ことから、あるいは大正時代から昭和初期にかけての耕地整理の過程で水路も付け替えられているかも知れず、路地の水路もその際に出来たものかも知れません。

この蛇行した道の痕跡は、現在の県道よりも多少はみ出る場所があってもおかしくなさそうですが、1963年の空中写真と比較しても恐らく周辺の土地区画と合わせて整理されており、痕跡は消滅しているものと思われます。従って、現在は県道沿いをそのまま進む以外にありません。

余談ですが、この2枚の航空写真には木古庭周辺から阿部倉にかけて莫大な数の棚田が写っており、特に5月に撮影された1963年の写真の方では水を張られた阿部倉の棚田に太陽が反射しているのが見えています。当時の景観を窺い知る貴重な資料ですね。

浦賀道(戸塚):木古庭・交番裏の開渠
木古庭・交番裏の開渠

左の写真の撮影位置
かつての浦賀道の痕跡がこの付近で唯一残っているのは、木古庭駐在所交差点から北側にへの字状に逸れる道筋です。かつての水路がこの道と丁度相対する形で県道に交わっており、これも水路をかつての街道筋と錯覚させる原因の1つになっています。

この地域の水路が大半暗渠化されている中で、唯一開渠になって残っている水路が見えています。水はその流れを殆ど感じないほど浅く、江戸時代もこの水量ならば洗い越しでもおかしくなさそうですが、「見取絵図」ではここも「飛石渡リ」と記されています。そして、この水路の傍らに木古庭村の「高札」が立っていました。交番がこの付近に設置されているのも、この地が古くからの中心地だからなのかも知れません。

なお、絵図上で「飛石渡リ」とされている箇所は全部で7箇所、木古庭のこの高札前の飛石渡りが一番浦賀寄りです。ここまでで紹介した5箇所の他に堀内村と一色村の域内に1箇所ずつあったのですが、そちらは紹介しそびれました(汗)。もっとも、どちらも現在は暗渠化されていて場所を特定するのは難しそうです。

浦賀道見取絵図:鎌倉板橋付近
浦賀道見取絵図より:鎌倉板橋付近

浦賀道(戸塚):不動橋橋名板
不動橋橋名板
浦賀道(戸塚):不動橋より下山川上流を望む
不動橋より下山川上流を望む
不動橋の位置
浦賀道は、現在は「不動橋」と銘打たれた橋の辺りで下山川を渡ります。「見取絵図」では「鎌倉板橋」と記されており、県道建設後も「鎌倉橋」時代の橋脚が川の中に残っていたと「葉山町郷土史」に記されていましたが、川の中を覗いた限りではそれらしきものは見当たりませんでした。恐らくはその後に改修が入って消えたものと思われますが、単に私が見落としただけかも知れません。「鎌倉橋」の名前は、この道が鎌倉幕府のあった頃から続くと木古庭村の人々に思われていたからでしょうか。

現在の「不動橋」の名称は木古庭不動尊への分かれ道であることを意識してのものと思われます。実際、私もこの日この橋から木古庭不動尊へと向かいました。他方、浦賀道は下山川の左岸沿いを少しの間遡上します。

浦賀道(戸塚):横浜横須賀道路下にて下山川上流を望む
横浜横須賀道路下にて下山川上流を望む
浦賀道(戸塚):下山川脇にて金沢方面と分岐する浦賀道を見る
下山川脇にて金沢方面と分岐する
浦賀道を見る

浦賀道が下山川を離れる位置
そして、現在は横浜横須賀道路の下になった分岐路で浦賀道は右に曲がって下山川を離れます。現在は下山川が直流化されたので厳密な位置は異なりますが、ここで分岐する道は木古庭から金沢方面へ抜ける道であったことが、「見取絵図」上で次の文言で記されています。

金沢江道程三里
松平大和守役所江道程二里半

「松平大和守」とは松平川越家を指しており、その役所への道が具体的に示されている訳です。替地によって川越藩領が三浦郡内に出来るのは文政3年(1820年)と絵図完成の20年も後ですが、それ以前の寛政年間から川越藩は浦賀奉行所の補佐役を任じており、絵図の作成は丁度その頃と重なります。当初川越藩の陣屋は浦郷(現在の横須賀市浦郷、追浜付近の海沿い)にあったので、恐らくその頃から既に同地に役所を置いていたのではないでしょうか。

この様な記述が成されるのは、当然幕府側がこの道を重視していたからではあります。以前見た通り「江島道見取絵図」でも江の島への道は明示されなかった様に、絵図作成の目的に適わない道筋については単に「野道」等と記されて行方を明記しないのが、一連の「五海道其外分間見取延絵図」の流儀です。

しかしながら、この道を敢えて通うとすれば当時どの様な局面が想定されていたのか、少々引っ掛かる所ではあります。この道を通るのが有利になる様な箇所として考えられるのは旧秋谷村など相模湾沿いの南側の村々ということになりそうですが、それらの土地に当時から浦賀奉行所管轄の要所があったという話もないですし…。この木古庭から下山川沿いの谷戸底を金沢方面へと向かう道は、その先で安針塚や十三峠が連なる尾根へと登って金沢・浦賀道と合流しており、浦賀への往来が金沢経由ではなく鎌倉回りなのはこの十三峠付近の区間があるためと説明される位に険阻な区間に分け入ることになるだけに、この道筋をわざわざ迂回路として利用することも考え難く、尚更見取絵図にわざわざ明記した目的が気に掛かります。

浦賀道(戸塚):浦賀道と金沢方面の道との分岐にあった道標
浦賀道と金沢方面の道との分岐にあった道標

道標の現在の位置
この分かれ道から少し進んだ所に、かつてこの分岐点に置かれていたとされる道標が祀られています。傍らに立てられた由緒書きによれば、文政5年(1822年)の日付を持つこの道標は、上を走る横浜横須賀道路の建設によって移設される前には、既に木古庭町内会館の敷地に移されていたとのこと。川筋の付け替えや道幅の拡幅等によって設置場所がなくなってしまい、町内会館の敷地に持って来られたのでしょうか。

また、見取絵図では下山川の支流がこの付近にあり、土橋が架けられていた様に描かれていますが、現在はこの川筋に相当すると思われるものは見当たりません。辛うじてこの道標が祀られている辺りに細い水路らしきものが埋設されているのが見つかったものの、水は殆ど無く、果たして絵図に描かれている支流に当たると考えられるのか、それとも暗渠化されている別の水路があるのかは不明です。何れにせよ、浦賀道はこの辺りから下山川の流域を抜けていくことになります。

今回また説明が長くなってあまり先に進めませんでした(汗)。分水界を越える辺りからは次回に廻します。

P.S. お陰様でここに来て「ブログ村」のランキングが上がって来まして、御覧戴いた方々に大変感謝しております。今後共よろしくお願い致します。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。

(2013/11/17):レイアウトを見直しました。

(2014/03/09):「国土変遷アーカイブ」が「地図・空中写真閲覧サービス」に統合されてURLが変更されたため、そちらにURLを変更しました。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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