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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その9:写真集…葉山郵便局交差点→上山口・猪俣川)

その8」の続き、浦賀道はかつての一色村から上山口村へと入っていきます。

鎌倉から浦賀へのルート図を掲出してから大分過ぎてしまいましたので、ここで今一度ルート図を再掲しておきます。出来ればこの図に適宜ズームして掲げることが出来れば良いのですが、そういう機能はないのでお手数ですが適宜ルートラボの画面上で該当箇所を探してみて下さい。なお、今回の記事作成に当たって一部手直しを加えております(今後も引き続き修正は加える予定です)。


浦賀道:鎌倉から浦賀までのルート(再掲)


↓今回も分量が多くページが重いので、一覧から見ている方はなるべく「別タブで記事を開く」をクリックして下さい。


浦賀道(戸塚):葉山郵便局交差点の分岐
葉山郵便局交差点の分岐

葉山郵便局交差点の位置
葉山郵便局交差点です。この辺りから県道は滝の坂に向けての上り坂になりますが、その左脇に逸れていく道があります。迅速測図1946年の空中写真との照合から個人的にはこの脇道がかつての浦賀道であろうと考えているものの、この交差点の下を流れる下山川の支流との位置関係が上手く整理できていません。「見取絵図」ではこの下流から描かれている様ですが、上流側がありません。


旧道は次の信号で県道と合流して谷戸底を離れて高度を上げ、滝の坂へと向かいます。

浦賀道見取絵図:瀧の坂付近
浦賀道見取絵図より:瀧の坂付近
※画像を取り込んだら青が殆ど見えなくなってしまいました。

浦賀道(戸塚):滝の坂交差点の分岐
滝の坂交差点の分岐

滝の坂不動尊の位置
滝の坂交差点の先で県道は現在はトンネルになっていますが、このトンネルの上は土被りが殆ど見当たらず、掘割に蓋をしたと考えた方が良さそうです。「見取絵図」や「迅速測図」の観察では、ここから更に高巻きする様には見えないのですが、1946年の空中写真(上記と同じ)では滝の坂付近で大きく北側に湾曲する道が見えており、旧道はここから左手に折れて急坂を登る道であることがわかります。

また、「見取絵図」ではこの付近から浦賀方面に沿って流れる沢が描かれています。川筋が峠を越すことはあり得ませんので、峠はその沢の端より鎌倉寄りにあることがわかります。この沢の水源になっているのは滝の坂不動尊付近と思われるので、峠は不動尊の前辺りにあったことになり、現在辿れる道筋でも、確かに不動尊前辺りが一番高くなっています。

この峠を越えると、上山口村の領域へと入ります。

浦賀道(戸塚):滝の坂不動尊からの眺め
滝の坂不動尊からの眺め
浦賀道(戸塚):滝の坂不動尊の手水鉢
滝の坂不動尊の手水鉢
滝の坂不動尊(吾妻神社)まで上がってみました。ここの井戸の脇に日本武尊の由緒が記されており、現在は手水鉢に湧き水が導かれています。県道の工事によって水位が下がったとしているのですが、かつてはもう少し水量があったということでしょうか。木古庭不動尊の不動の滝に比べると、後背の山の規模に大きな違いがありますので、水脈の規模にも相応に差が出てしまいますが、古くからの信仰を集める湧泉であることには違いはありません。

この時点で大分日が西に傾いてきてしまいました。現在は不動尊前の道は行き止まりになっていて先に進めませんので、引き返して滝の坂隧道を潜ります。

浦賀道(戸塚):不捨山新善光寺
不捨山新善光寺
浦賀道(戸塚):新善光寺前からの眺め
新善光寺前からの眺め
新善光寺の位置
トンネルを抜けた先には不捨山新善光寺があります(この記事掲載時点ではGoogleMapsもYahoo!地図も揃って「万捨山」と間違っています。ゼンリンに連絡済み)。見取絵図ではこの門前で道の中央に置かれた「新善光寺石杭」を迂回する様に回り込んでいますが、今は勿論その様な迂回は残されていません。「新編相模国風土記稿」の上山口村の項では、浦賀道の道幅を「幅六尺許」としていますから、1.8m程の道の小さな迂回であれば、全体でも今の県道の幅に収まる程度ではあったでしょう。

今は県道を挟んで山門の向かいに交通安全祈願の観音像が祀られています。その傍らの道から下山川方面を見ると、かなりの高低差があることがわかります。浦賀道は一度小金坂(「古金坂」「黄金坂」とも。蛇紋岩を産出したことに由来するとのこと)を下り、「水源地入口」交差点付近で沢を1つ渡りますが、この沢には江戸時代も土橋が架けられていました。なお、葉山御用邸の水源地が付近にあることがこの交差点名の由来ですが、水源となった井戸は下山川の南側にありますので、浦賀道とは反対側に位置します。因みに、この御用邸水源地にも鍾乳洞が繋がっているとのこと(「葉山町郷土史」町政五十周年記念 昭和50年)で、あの木古庭の不動の滝や上山口の棚田と水源を共有していることになりますね。

浦賀道(戸塚):上山口の浦賀道風景
上山口の浦賀道風景

左の写真の撮影位置:湘南国際村交差点付近
湘南国際村交差点からは傍らの階段を上がるのがかつての浦賀道に当たる様ですが、「迅速測図」ではこの道は1本線で描かれており、現在の県道方面に太い道が進んでいます。「見取絵図」上ではこの付近ではあまり下山川に接近して進んでいないので、その点は両図の差異点と思われ、明治時代初期までに道が付け替えられた可能性を考えた方が良いかも知れません。

浦賀道:新沢付近
浦賀道見取絵図より:新沢付近

浦賀道(戸塚):新沢橋橋名板
新沢橋橋名板
浦賀道(戸塚):新沢橋より新沢上流を望む
新沢橋より新沢上流を望む
新沢橋の位置
今回街道を逐次的に見ている理由の1つは、「見取絵図」上で「飛石渡リ」と記された各地点の状態をチェックすることにあります。上山口村ではまずこの「新沢」の渡河地点が飛石渡りになっていました。

現在の新沢は治水工事によって河道が掘り下げられ、護岸が切り立っていますので、わざわざ川底に降りる方が危険なくらいですが、勿論当時は現地平に近い高さを流れていたのでしょう。沢はこの護岸の下で僅か数十cmほどの低水路を作って流れています。江戸時代の水量と比べてどうかはわかりませんが、「川」ではなく「沢」と呼ばれていることからも、当時も平常時の水量はあまり多くない沢だったのではないかと思います。ただ、治水工事の規模から見て増水時にはかなり水が来る様ですから、当時も増水時に備えて相応に川幅は確保していたのではないかと思われ、それは人馬がひと跨ぎに出来る幅ではなかったのでしょう。その部分を飛石で渡る様に設えていたのだろうと思われます。

そして、「迅速測図」の状態が道の付替えを意味しているとすれば、あるいは明治初期までにはこの飛石渡りは新道に振り替えられていたのかも知れません。「見取絵図」の東京美術版の解説では、文政八年の上山口村の書上の板橋の数や位置について絵図との齟齬があることを指摘していますが、その書上では新沢に「長二間、幅四尺五寸」の板橋が架かっているとされているとのことで、或いはその間に道替えがあった可能性も考えて良さそうです。

因みに、現在は「下山川」の名前で呼ばれる川に、「見取絵図」上ではこの付近に「蛇塚川」の名前が記されています。小規模な河川の場合、流域の村々によって川の名前が異なっていることは、この時代には良くありました。「蛇塚(じゃづか)」の名前は付近の小山から取られており、大蛇を葬ったとする伝説がある様です。

浦賀道見取絵図:トウチン川付近
浦賀道見取絵図より:トウチン川付近

浦賀道(戸塚):栗坪川名板
栗坪川名板
浦賀道(戸塚):道中橋橋名板
道中橋橋名板
浦賀道(戸塚):道中橋より栗坪川上流を望む
道中橋より栗坪川上流を望む

道中橋の位置
次に浦賀道が渡る沢には、現在は周辺の小字から取ったと思われる「栗坪川」という名前が付けられています。しかし、「見取絵図」に書かれた名前は「トウチン川」。橋の名前も現在は浦賀道に因んでか「道中橋」ですが、「字トウチン川板橋」と記されています。由緒については不明ですが、語呂が面白いだけに何とも気に掛かります。Webで検索したら「禅寺の便所」などと出てきましたが、この川の上流にある大昌寺は浄土宗のお寺ですから当たらないですね。「陶器の枕」も変ですし、「こびとの頭の先にある触手のようなもの」というのもますますわかりません。

橋の名前があったことからも、この川には江戸時代も板橋が掛かっていたことになりますが、水量は確かに新沢よりは多めで、この奥の谷戸も新沢よりは大きなものです。勿論、この川も現在は治水工事を施され、垂直護岸によって護られています。

因みに、浦賀道から別れた県道27号線はこの辺りで下山川の南側へ橋を渡っていますが、浦賀道の方は一貫して北側を進んでいます。

浦賀道(戸塚):栗坪付近の風景-1
栗坪付近の風景
浦賀道(戸塚):栗坪付近の風景-2
対岸の畑に棚田の名残が見える
写真の撮影位置:下山川の畔を浦賀道が沿う
その下山川が次第に浦賀道に寄り添ってきます。北側には山裾が迫っていますので、ここを抜けるのでなければ下山川の南側へと迂回するしかありません。ただ、下山川からは十分に高い位置を進んでいますので、この辺では道が水に浸かる可能性はまずないでしょう。

対岸には畑が作られていますが、良く見ると畦の作り方が棚田のそれですね。「迅速測図」でもここは「水」と水田であったことが示されています。

この日は既に薄暗くなっていたために周辺をゆっくり観察する余裕はありませんでしたが、この辺りからなら対岸の山裾にも棚田があるのが見通せる様です。

浦賀道(戸塚):栗坪の六地蔵
栗坪の六地蔵
浦賀道(戸塚):栗坪の庚申塔群
栗坪の庚申塔群
このすぐ先に、「栗坪の庚申塔群」があり、六地蔵が一段高い場所に祀られています。元禄4年(1691年)の日付が刻まれていることから、浦賀道の継立成立前からあったことになります。「見取絵図」でも「庚申」「六地蔵」が記されており、その傍らに高札が立てられていますので、家屋などが存在しないこの道端が、古くからこの村の「中心地」であったことになるのでしょう。

浦賀道(戸塚):猪俣橋橋名板
猪俣橋橋名板
浦賀道(戸塚):寺前の庚申塔
寺前の庚申塔

猪俣橋の位置
猪俣川に到着しました。ここも「見取絵図」では「猪股川 飛石渡リ」と記されています。草木が覆っていて川面が上手く見通せなかったために写真がありませんが、栗坪川よりは規模が小さいことが飛石渡りの理由でしょうか。新沢よりは水流は多めではありましたが…。この辺の、架橋の有無の基準がどの辺にあったのかは、現在の地形からだけではなかなか分かり難い所です。

猪俣橋の脇には、「寺前の庚申塔」が祀られています。これも寛文11年(1671年)と、継立成立前の日付を持っています。「寺前」の小字は猪俣川上流に西光寺があることに由来するものです。

この日はここで日が落ちてきたため、カメラをしまいました。次回は木古庭村を抜けていきます。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。

(2013/11/17):レイアウトを見直しました。

(2014/03/09):「国土変遷アーカイブ」が「地図・空中写真閲覧サービス」に統合されてURLが変更されたため、そちらにURLを変更しました。


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この記事へのコメント

- エドルネ - 2012年12月05日 17:24:08

楽しく拝見いたしました。
古道や歴史全般に知識が浅いので、ちょくちょくこちらにお邪魔して
勉強させていただきますね。
それにしても、「トウチン川」気になりますね。

- kanageohis1964 - 2012年12月05日 17:41:29

アクセスありがとうございます。

上では触れませんでしたが、「葉山町郷土史」など明治以降の葉山の郷土史にまつわる文献で字の一覧を見ても、「トウチン」の名前が出てないんですよね。近代化の過程で消えてしまったのかも?とは思うものの、如何せん意味自体が不明ではその理由も追えず…。

葉山町は「町史」がまだ出版されていなくて、地元の古文書の閲覧に制約があるので、その辺が改善されてくるとまた新たな情報が出てくるかも知れず、取り敢えずはそこに期待するしかないですね。

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