【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その6:小坪・新宿の見取絵図の姿とその歴史―2)

前回に引き続いて、「浦賀道見取絵図」に描かれた小坪・新宿の姿について検討します。

江戸時代の脇往還の場合、継立を勤めた村に宿場が出来ることがしばしばありました。しかし、延享元年(1744年)の小坪村の明細帳には、

一 往還之泊宿不仕候、

一 当村名所旧跡無御座候、
(「逗子市史 資料編Ⅰ」より引用)

と、村内には宿がなかったことが記されています。

浦賀奉行所と江戸との往来にも使われたとされる道ですが、当時江戸を早朝に発ってもその日の晩には保土ヶ谷か、余程頑張っても戸塚で宿泊することになるのが普通でしたから、浦賀まで1日で踏破するのは流石に厳しかったのではないかと思われます。しかし、距離的に見て翌日には浦賀まで踏破出来たでしょうから、恐らく奉行一行が三浦半島内で宿を取るということは考え難かったでしょう。

他方、鎌倉・金沢方面の遊覧に訪れた参拝客が、更に三浦半島南部へと訪れる可能性があれば、参拝客相手の宿泊を業務とすることも考えられたでしょう。しかし、寛政九年(1797年)の「東海道名所図会」に取り上げられた項目を見ると、小坪近辺に存在する名所としては以下の項目が取り上げられています。

  • 小壺鷺浦(字が異なるが「小坪とも書す」と記されている)
  • 守殿明神(森戸村、現在の葉山町堀内)
  • 鐙摺山
  • 六代御前墓(田越川畔)
  • 神嵩(神武寺)
  • 岩殿観音(久野谷村、現在の岩殿寺)
  • 御猿畠山(名越切通の北、法性寺境内)

これがどういう順に並んでいるのか、「小壺鷺浦」の前に登場する「光明寺」と、「御猿畠山」の後に登場する「日蓮水」「石井(長勝寺)」まで、やや外れた場所に位置する「新居閻魔」「鎌倉漁村」を外して直線を引くと、こんな地図が出来上がります。地図をクリックするとルートラボのページに移動しますが、その地図中の吹き出しの上にマウスカーソルを持って行くと、各地点の名称が表示されます。

この全てを巡るとなると、神武寺の山上までの往復が入りますのでちょっと時間が足りないかも知れませんが、ほぼ1日で巡って鎌倉まで帰ってくる道筋を考えることが出来るのではないでしょうか。そして、これらのうちの南限は「守殿明神」であることがわかります。三浦半島内に参拝客が入ってくる南限はこの辺りだったと考えて良いでしょう。

小坪・大崎公園から小坪港・マリーナ方面を望む
小坪・大崎公園より小坪港方面を見る
そのため、小坪村には参拝客がやってくる可能性はありましたが、彼らは基本的に名所を巡って鎌倉に帰って行ってしまうので、泊まりに来る客を見込めなかったのでしょう。

宿泊客が望めないとなれば、東海道などの様に公儀以外での荷継で稼ぐ方向が考えられますが、浦賀奉行所のお陰で浦賀の湊は栄えていても、そこから荷揚げされて陸送される荷物は少なかった様です。浦賀では本来江戸に出入りする船便を逐一停泊させて荷物を改める、海の関所の役割を果たしていただけですから、大半の荷物はそのまま船に載ったままということになりますし、八王子など内陸向けの荷物を陸揚げするならば、例えば相模川河口の須賀湊など他に適地がありました。また、半島内で収穫されるものを近隣に売りに行く場合は百姓自ら担いで行くのが普通でしたから、遠方からの荷物を駄賃を取って運ぶ様な局面はもとより考え難い立地ではあった訳です。

浦賀道見取絵図-小坪付近2
「浦賀道見取絵図」より小坪村付近(東京美術版より:再掲)
こうしたことを念頭に置いて、「浦賀道見取絵図」の小坪村付近の描かれ方を見返すと、やはりこの図の描かれた寛政〜文化年間の頃には、公儀の継立も含め、継立場の負荷があまり高くなかったということが言えそうです。下田から浦賀に奉行所が移転してきたのは享保5年(1720年)、三浦半島内の継立が組織されたのは丁度その頃なので、それから約80年間、この様な状態で黙々と継立を勤めていたことになります(小坪村が新宿に継立場を移動したのが享保5年より後の可能性もありますが、そうなると前回検討した通り下平作村や秋谷村の負担が厳し過ぎることになるので、私としては継立が組織された当初からこの状態であった可能性が高いと考えています)。

但し、幕末になって浦賀沖がきな臭くなってくると、それに従ってこの道の往来も俄に増えていきました。恐らく小坪新宿に家が増えたのはその頃で、明治維新後の「迅速測図」でも街道筋に家が増えた姿が描かれています。こちらは明治13~19年(1880~86年)の作成ですから、「浦賀道見取絵図」からは約80年後の姿ということになりますね。

この辺は東海道をはじめとする遠距離を行く主要な街道とは事情が異なる一面で、それが公儀の運搬での各村々への負担にも影響を及ぼしていく訳ですが、そこに踏み込む前にまずこの浦賀道を終点まで歩き、更に「もう1つの浦賀道」を取り上げた上で、もう一度この話に戻ってきたいと思います。



おまけ:
鎌倉・光明寺山門より本堂を望む
鎌倉・光明寺山門より本堂を望む
鎌倉・光明寺山門
鎌倉・光明寺山門
現在は小坪坂を目指すには光明寺の境内から裏手に廻る必要があります。今回は裏手から降りてきたのですが、夕陽を浴びる山門と、山門下から眺めた本堂を。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。

(2013/11/16):レイアウトを見直しました。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- たっつん - 2012年11月25日 06:23:30

私にとって神奈川はまだほとんど手付かずの地。
いつかいろいろと回ってみたいと思います。
(記事と関係のないコメントですみません。)

- kanageohis1964 - 2012年11月25日 08:28:25

何と言っても鎌倉を擁する地ですから、寺社巡りの題材には事欠かないですね。今の時期だと観光客でごった返していますけれど。

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