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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その5:小坪・新宿の見取絵図の姿とその歴史―1)

浦賀道見取絵図-小坪付近1
「浦賀道見取絵図」より小坪村付近
(東京美術版より複写:一部不整合を起こしているのは 
複写時の制約によるものです)
鎌倉から名越切通を越えて、小坪の新宿に入り、田越川を渡った所までを、3回(その1その2その3)に分けてご紹介してきましたが、この新宿については「浦賀道見取絵図」に描かれた姿が問題です。まず、その見取絵図の新宿付近の部分を引用します。

縮小したら見え難くなってしまいましたが、小坪村付近の道筋の両脇の平地には格子状の模様が薄く描かれています。これは田畑を現しており、田越川に合流する支流に沿って一本道が田畑の中を通っているのが良くわかります。田越川からは若干離れており、支流もごく細いもので微高地が比較的得やすい地形であることから考えると、低湿地を無理に突破する道筋ではなく、絵図の見た目ほどには川からの水害のリスクはない様です。

浦賀道見取絵図-小坪付近2
上記「小坪村」付近を拡大
問題は、「小坪村」と丸で囲われた箇所の下に位置する、現在の新宿に相当する「集落」の描き方です。ここには家が僅か数軒しか描かれていません。これが特に何も役目を負っていない集落であれば何も問題はないのですが、小坪村は浦賀道、更には三崎道の継立場を受け持っていました。「新編相模国風土記稿」の小坪村の項にはこの様に記されています。

…鎌倉より浦賀及び三崎に達する往還あり、村内にて人馬の繼立をなす 西は鎌倉郡雪ノ下村、同郡長谷村迄各一里、東は浦賀郡内下平作村へ三里三崎道秋谷村へ二里、
(「新編相模国風土記稿」卷之百八 村里部 三浦郡卷之二 雄山閣版より)

一般的には継立を担う村は比較的大きな村で、継立場には人馬の往来が呼び水になって集落が発達しやすいことから考えると、「見取絵図」のこの描かれ方は少々不思議です。「浦賀道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」は江戸幕府の内部資料として作成されたものであり、実地調査に基づいて家並みを表現している筈ですから、集落の侘しさなどを誇張して表現する様なことはあり得ず、絵図が作成された寛政〜文化年間に実際にこの様な状況だったのでしょう。

何故この様な状況であったのか、参考になる資料がないか探したところ、逗子市の郷土史についてのエッセーをまとめた本に次の様な記述を見つけました。

披露山の高橋家の分家が新宿に下り名主代理として人馬継立等を行った。近村名主の寄合所で会所と呼び村々の事務を取った。高橋家は今も「会所」の屋号で呼ばれ地域旧家の人々の寄り合いの場として親しまれている。…この会所と、隣接する逗子開成校の校庭とにかけて、藤塚とも富士塚とも呼ばれる塚があって地名にもなっていた。
 古墳説、古戦場説色々あったが昭和九年発掘調査が行われ、祭祀用と思える室町期の「かわらけ」各種が出土した。
(「逗子 道の辺百史話-道の辺史話総集編-」(逗子道の辺史話編集室 昭和61年)87ページ「新宿会所と藤塚」より)


継立場を設置するに際して、多少なりとも水害の愁いのない高地を選んだところが藤塚だったということなのではないかと思いますが、それはさておき。

元々小坪村の集落の中心は、現在の小坪港の周辺と、そこから内陸へと入り込む谷戸付近にありました。「見取絵図」でも、図の上方、和賀江島の付近にその集落が描かれて「小坪村」と表記されています。ここは典型的な漁業の村で、延享元年の本百姓53軒、漁師百姓260軒(牛尾家文書による)と、人口の大半が漁業に従事していましたが、それぞれに名主が存在するという変則的な自治形態になっていました。そのうち、農業の従事者の名主を「岡名主」と呼び、上の文の「披露山の高橋家」はこの岡名主を代々務める家柄でした。その分家が、本来の集落から離れた田越川に近い場所に出張していって、人馬継立を行う様になったというのです。

この出張の理由は「風土記稿」に記された継立の里程を良く見ると何となく見えてきます。鎌倉方面には1里なのに、浦賀や三崎に向かう方向にはそれぞれ3里、2里と長くなっていますよね。

小坪の本集落の周囲は山に囲まれているだけではなく、その山が磯辺にまで達していて、周囲からのアクセスが極めて悪い場所にありました。このため、小坪村に入るにはどちらから行くにしても山越えを強いられるのですが、特に南側には難所が1つありました。披露山です。

鎌倉から小坪の集落を抜けて新宿に至る道筋は、古くは名越切通共々鎌倉幕府の頃から存在していましたが、これを現在残っている道から再現すると大筋で次の様な地図になります。中学校や高級住宅街化によって江戸時代の道筋が失われた箇所も多いため、飽くまでも目安ということになりますが、大筋での高低差を見極めるのには十分かと思います。この地図をクリックするとルートラボのページに移動しますが、是非そこに表示される標高グラフでどの区間が登り降りが厳しそうかを確かめてみて下さい。


披露山から新宿方面に降りる坂は「七曲坂」と呼ばれていますが、ここに特にきつい坂があり、現在でも最大で40%前後の傾斜があります。名越坂にも同じくらいの坂が鎌倉側の頂上付近にありますが、現在はここは階段が設置されているために多少きつさが緩和されています。七曲坂の方も先日歩いてみましたが、階段などが設置されない土のままの急坂が残っていることもあって、一層の険しさを感じさせるものになっていました。なお、名越切通、披露山のどちらを通るにせよ、意外にもここが浦賀道全区間を通じての最高地点に当たります。

「新編相模国風土記稿」の各村々に記述された継立の里程を一通り書き出して並べてみると、当時の継立では、平地を行く場合は2里程度が標準で、丹沢など山中に入る区間では人馬の体力に配慮して1里程度が標準になってくることが窺えます。ですから、特に下平作村の3里はかなり長い(しかも、後日改めて取り上げますがこの区間は必ずしも平坦な道程ではない)ということになります。秋谷村方面はそれよりは短めですが、岩礁を抜けたり沢を高巻きする道筋であった様です。

これでもし、小坪村の継立場が小坪の本集落の方にあるとなったらどうなるか。下平作村や秋谷村から小坪に向かってきた人馬にとっては、継立の平均以上の道程を長々と歩いてきて、やっと目的地が見えた所で胸突き八丁の急坂が待ち構えていることになってしまいます。それでは余りにも厳しく、継立村相互の不公平が過ぎるため、小坪村が継立の出張所を新宿に出すことで、下平作村や秋谷村からの人馬を披露山の前で受け継ぎ、その分厳しい山越え区間を担当する小坪の継立が短くなっている、という分担になっている訳です。

しかし、新宿の立地についての説明はこれで良くても、見取絵図の新宿が僅か数軒のみになっていることの説明としては不足です。次回はこの点をもう少し検討してみたいと思います。

なお、現在の地区が「新宿」と称する様になったのは明治時代以降で、江戸時代には「東小坪」と称していましたが、ここでは話の便宜上現在の地名である「新宿」で通します。



追記(2013/11/16):レイアウトを見直しました。


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