【脇往還】浦賀道:戸塚から鎌倉まで(その4:まとめ)

前回まで3回に分けて(その1その2その3)、戸塚から鎌倉まで歩いた際の写真を展示しました。ここで一旦、ここまでの区間の特徴をもう少し掘り下げながらまとめをしておきたいと思います。

まず、この区間の地図をもう一度掲げます。この地図をクリックすると別窓でルートラボのページに移動しますが、その下に高低グラフが現れるのでそちらも御覧になって下さい。

「浦賀道見取絵図」の呼称に従って基本的に「浦賀道」と呼ぶと最初に宣言しておきながら、実際ここまでの3回の中で「鎌倉道」の呼称も随分と使ってしまいました。道標などに「かまくら道」と彫ってあればそれに従わざるを得なかったからですが、それもその筈で、江戸時代中頃から江の島・鎌倉詣が盛んになると、この道は江の島道とともに東海道筋から江の島・鎌倉へと向かう周遊ルートを形成していたために、道行く人の最終目的地が大抵鎌倉であったからですね。

ともあれ、この区間は江戸時代にはかなり賑わいを見せた道筋であることは確かです。

歌川広重「東海道五十三次之内戸塚」保永堂版
(画像はWikipedia「戸塚宿」より)
因みに、有名な「東海道五十三次」保永堂版の戸塚宿の図では、吉田大橋の袂に鎌倉道の道標が描かれています。鎌倉道への分岐は高島橋を渡るルートの他に、この吉田大橋手前から柏尾川を渡らずに進む別のルートがありました。現在は柏尾川の川筋を大きく変えてしまっていますので、当時とは一致しませんが、大筋では以下の地図の様に川筋の堤防上を進み、現在の戸塚駅付近から川筋を外れて向かいの山裾に取り付いて高島橋からの道筋と合流する道でした。


戸塚宿・吉田大橋脇から徳禅寺前の鎌倉道
川沿いを進む分だけ水害に弱い面もあり、そもそも戸塚宿の大半をバイパスするので継立の人馬をはじめ宿内に用事がある通行人には無用の道筋ですが、神奈川・保土ヶ谷辺りで宿泊して鎌倉へ向かう旅人にとってはわざわざ戸塚に立ち寄る用事もないだけに、近道になる堤防道は便利だった様で、こちらの道も多用されていた様です。目的によって使い分けられていた訳ですね。なお、この道については「浦賀道見取絵図」では鎌倉道の別ルートであることを示唆する様な道筋は特に成されていません。

さて、この戸塚〜鎌倉間の道筋のうち、江戸時代に整備されたのは戸塚から新橋(にいばし)までで、その先はいわゆる鎌倉街道中道でした。しかし、その道筋は何れも湿地を避けて山裾を辿りながら、川を突っ切る必要がある場所ではなるべく最短距離になる場所を選ぶ、という基本が守られていて、水害の心配がありそうな場所は柏尾川本流を高島橋で渡る箇所と、支流の中では一番大きい㹨川を渡る新橋の辺りに限られています。その点では鎌倉時代からの道筋との間に目立った違いはないと言えると思います。その分、全体に平坦な区間が多く、体力を消耗する様なアップダウンの箇所は殆どありません。

唯一巨福呂坂切通の辺りだけ、鎌倉時代の普請の特徴が色濃く出ていたのかも知れませんが、大きく切り広げられて当時の面影を失った今となっては、朝夷奈切通などの景観を手掛かりに当時の雰囲気を類推するしかありません。この切通区間で、ここまでの区間の中では一番標高の高い箇所を通過しますが、それも精々標高50mに満たない高さですから、足への負担もそれほど大きい訳ではありません。

ところで、通行量が多かったこの道の幅について、「新編相模国風土記稿」から記述を拾うと概ねこうなります。道幅の記述のない村は省略しましたので一部の沿道の村が抜けていますが、かなりの村が網羅されていると思います。

上倉田村幅九尺より二間に至る
下倉田村幅二間
長沼村幅八九尺
飯島村幅二間
小菅谷村幅二間より二間半に至る
笠間村幅二間
岩瀬村幅二間
大船村幅二間
小袋谷村幅二間
台村藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず 幅二間より四間に至る 又戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り 巾六尺、 村界にて前路に合す、
山内村往還一條、村の中央を貫く 幅三間餘
(以上、雄山閣版より。引用に当たり小字の記述もサイズ変更せず)

凡その目安を考える際には、1間=180cm、1尺=30cm程度に考えておけば良いと思いますので、「幅二間」ということは概ね3.6m程度、現在の市道は最低4m幅ですのでそれよりはやや手狭な程度、と考えておけば良いでしょう。

上倉田村の辺りには上記の吉田大橋から分かれてくる区間が含まれていますので、幅が狭くなっているのはそれほど幅が取れない堤防の上ではないかと想像しています。長沼村の辺りには現在「貝殻坂」と呼ばれている小さな峠越えが含まれていますので、若干道幅が狭くなっているのはそのためかと思います。幅2m半前後だったということでしょうか。台村の辺りは現在の水堰橋付近に当たりますが、その辺りで1.8m幅に狭まっている理由は不明です。

それ以外の区間では概ね「幅二間」を維持していたということになりますが、これは当時の脇往還としては標準的な道幅でした。継立の人馬が無理なくすれ違える程度の道幅と考えれば、よほど人馬の往来が錯綜しなければ十分な道幅だったと言えるでしょう。

道幅に拘っているのは勿論、鎌倉から浦賀までの話に関係があるからですが、その話は次回以降に譲ります。



追記(2013/11/15):レイアウトを見直しました。


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