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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その3)

今朝方「その2」を上げたばかりですが、一気に行きます。

前回まで、江戸時代の東海道の保土ヶ谷から戸塚までの区間が、戦国時代の後北条氏統治の頃までは遡らない可能性が高いことを見てきました。そうなると、この区間については徳川家康が江戸入りした後に新たに開発されたことになってきますが、その点について「戸塚区」がなかなかユニークな指摘をしています。

戸塚区汲沢町…の旧家森家に伝わる同家家譜には次のようにある。

(家譜頭部略)

三代

義秀 森織部正、往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也。天正十九年村境(普請脱カ)を被仰付、谷切・峯切・道切・川切の四通の御触。義秀弟長慶は権大僧都法印、保土ヶ谷円福寺七代住職。

(家譜以下略)

(太田勇「鎌倉街道周辺の旧家を訪ねて」郷土戸塚区歴史の会発行「とみづか」第三号)

この家譜は直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難いが、三代義秀の時、天正十九年(一五九一)、山を削って谷を埋め、川の流れを変えて道を切り開く、まさに空前の大土木工事がこの地において行われたことを、簡潔な表現のうちに雄弁に物語っている。

この時、保土ヶ谷の権太坂を通り境木(地蔵堂が出来たのはもっと後の万治二年のことである)で武相国境を越えて品濃坂を下る道も同時に開かれたと思われる。そして森家家譜に出て来る谷切、峯切、道切、川切によって切り開かれた道は柏尾を経て矢部で柏尾川を渡り、吉田、戸塚を過ぎて大坂を登り、原宿から鉄砲宿の坂を降りて、遊行寺横へ出るというもので、汲沢村の村境南縁は、まさにこの新道の貫く所であった。…

(63~65ページ、文中太字はブログ主)


家譜が少々長いので該当する代である義秀の部分以外をカットしましたが、初代から十七代までの家譜がひと通り掲載されています。そして、三代の義秀の箇所以外では同種の事業を行ったという記述が見当たらないので、義秀の行った普請が森家の戦国時代から大正時代に及ぶ歴史の中でも異例の大規模なものであったことが窺えます。

「区史」自ら「直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難い」と認めているものの、確かにそれほどの普請を行う必要がある様な大規模な施設が、当時のこの地方に他に思い当たるものがないので、その点では普請を行った対象としては東海道が最有力候補ということになりそうです。

更に、この森家が汲沢村の名主であり、「往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也」とわざわざ断っていることから、中田と隣接する岡津の地に当時存在していた「岡津陣屋」のことが想起されます。

岡津陣屋は元は後北条氏が築いた支城の1つであった岡津城で、現在の岡津小学校と岡津中学校を含む一帯にありました。ここに、徳川家康が後北条氏滅亡後に関東代官の一人として彦坂元正を派遣して岡津陣屋を開いたのですが、元正はここで東海道整備の指揮に当たります。当然、普請に当っては周辺の村々の名主に声を掛けて回っていることでしょうから、森家はそうした指示を受けて実地に当たる立場にあったことになり、その観点でもこの家譜の記述は街道の普請を指すものである可能性がますます高くなると思われます。

以上、保土ヶ谷から戸塚へ向かう道筋が江戸幕府開設の頃の普請である可能性が高いことを長々と解説してきました。特に、この道が岡津陣屋の指揮の下に行われた可能性が高いことを念頭に置いて改めてこの区間の道筋を眺めた時に、昔ながらの伝統的なルート取りとは異なる道筋があることに気付きます。


川上川と平戸永谷川に沿う区間
それは、品濃坂を降りた辺りから川上川沿いを、更には平戸永谷川沿いを進んで赤関橋へと向かう区間と、


不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進む区間
不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進んで五太夫橋へと向かう区間です。


川上川(右)と平戸永谷川(左)の間にて(ストリートビュー

特に、川上川と平戸永谷川がごく細い地峡を挟んで隣接する間を東海道が抜けるこの場所は象徴的で、どちらの川が溢れても通れなくなる可能性のある、普通に考えればかなりリスクの高い所を通り抜けており、私は永年この道取りが大変不思議で仕方がありませんでした。多少なりともアップダウンを減らしたかったのだろうにしても、もう少し尾根筋を経てこの区間を回避することを考えなかったのだろうか、と。今はこの位置で川上川から平戸永谷川へ流入する様に潜函が埋められていますが、このことも現在の治水技術上から見て水害防止上対策が必要だと判断されやすい地形であることを裏付けています。

これらの区間以外は、権太坂から境木を経て品濃坂を降りてくるまでは典型的に尾根筋を経る道筋ですし(途中品濃一里塚付近で谷宿谷戸を横切るとは言え、谷戸頭に当たるので足元への影響は軽微)、上記の各支流を渡る箇所以外ではほぼ山際に沿って進んでおり、あまり無理を感じない道筋を通っているだけに、尚更この3本の河川に寄り添って進む区間が異質に見えます。


【ニコニコ動画】原付二種で行く旧街道
・東海道編その五(品濃坂-藤沢宿)
ちょうどこの区間を原付二種で走った動画がアップされ直しましたので、こちらも参考になさって下さい。これの1:04~1:52で川上川〜平戸永谷川沿いを、3:35~3:52で舞岡川沿いを進んでいます。

これが、上記で見た様に、これらの区間の普請を彦坂元正率いる岡津陣屋の指導の元に行ったのだとすれば得心が行きます。森家家譜に「谷切・峯切・道切・川切」とあることもその裏付けになりますが、これらの区間では街道の整備と共に大規模に治水工事をセットにして行ったのではないでしょうか。


旧日光街道:草加〜蒲生間の新綾瀬川沿い
大規模な河川改修工事を行った上で、敢えて街道を川沿いに進ませた区間の例としては、日光道中・奥州道中の草加宿〜蒲生宿間に現れる、新綾瀬川沿いの直道が挙げられると思います。こちらは上記の東海道沿いの各河川よりも更に大規模に、排水目的で新たに掘った新綾瀬川沿いに堤を築き、その上を街道を通すという、より大胆な工法が採用されています。


【ニコニコ動画】【車載動画】原付で日光街道を走ってみた
(その4)草加-蒲生
こちらについては、原付で日光街道を撮影されたこちらの動画が大変丁寧に解説されていますのでご参考にどうぞ。恐らく街道歩きをされている方々には良く知られた動画シリーズの1本ですね。後半のMADな部分はさておき(笑)、冒頭から4:56辺りまでが該当区間になります。特に、1:52~2:20辺りでこの区間の工事についてわかりやすく図解されています。

この、治水工事を施して増水時の排水を十全に確保した上で敢えてその脇に街道を通すという、当時としては画期的な方法論が、東海道のこれらの区間と大変に良く似ています。

そして、こうした新たな手法は、やはり誰かがその技術を外から持ち込まなければ実現不可能なものです。当時の具体的な普請の記録が見つかっておらず、現在は河川の改修も進んだので具体的な施工の内容を窺い知ることも困難ですが、徳川家康が江戸入りに際して各地に配備した代官が、それぞれに江戸時代の交通網を整備する上で重要な役割を果たしていることを考えると、彼らがこうした新しい技術を各地に浸透させていった可能性はかなり高いと思われます。

その点で、江戸時代初期に同地に存在した岡津陣屋がこの地で果たした役割は、恐らくかなり大きかったのではないかという気がするのです。



追記(2013/11/27):レイアウトを見直しました。
(2015/11/24):ストリートビューを貼り直しました。


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