「津久井県北部の柏皮」補足:三浦半島の漁網染め

相変わらず、定期的なブログ更新がままならない状況にあります。図書館にもロクに出掛けることが出来ずにいるので、限られた文献を借りて来て少しずつ読み込むことしか出来ていませんが、今回は、そんな文献の中で以前書いた柏皮の記事について示唆的な記述を見つけたので、備忘的に補足を行います。


これらの記事の中で、津久井県で産出するカシワの皮が、荒川番所を経て相模川経由で相模湾に下ったり、八王子を経て房総半島方面へと運ばれ、漁網の防腐のためのタンニン染料として用いられていたことを紹介しました。ただ、相模川を下った柏皮が相模湾沿岸や相模国の東京湾沿岸の漁村で利用されていたことを具体的に示す史料などを提示することは出来ませんでした。

今回、別件で以下の文献を読み進めていたところ、三浦半島のとある漁村での柏皮の利用例を確認出来ました。

  • ものと人間の文化史106 (あみ)」 田辺 悟 著 2002年 法政大学出版会

この「第Ⅱ章 網漁具の種類/5 網具の保存法」で、著者が地元の網元にヒアリングした調査結果が紹介されています。この網元は大正10年(1921年)生まれの三浦郡鴨居村(現:横須賀市鴨居)の人ということで、浦賀に隣接する東京湾側の漁村の人ということになります。ヒアリングの時期については記されていませんが、「網漁を主に今日に至っているが、最近は漁獲量が減少したため、沖に出ることはほとんどない。」(88ページ)と記しているところから見ると、この本の出版年からさほど遡るものではない様です。

そのヒアリング結果の中で、漁網の染料については次の様に記されています。

漁網を染めるための「渋液」(染料)には各種あるが、わが国では化学染料が普及する以前には、カシワ・ナラ・クリ・シイ・クヌギ等の樹皮を煮出したものや、渋柿の実を掲きくだいて採った柿渋その他にカンバ・ブナ・ハリノキ(赤楊)・ヤマモモ・ノグルミ樹の皮およびハマナシ(玫瑰)の根を用いることもあった。

私の住む三浦半島一帯ではカシワが最も一般的に用いられていたため、カシワギで染めるための小型の専用の槽(フネ)があり、この漁網を染めるフネ(海に浮かべて使用するものではなく陸上で水や湯を入れて使用する箱形のもの)を「カシャギデンマ・カシワギテンマ」と呼んできた。

上述の話者、斉藤新蔵さんによれば、昭和五年から六年頃、まだ一四〜一五歳の頃、網元であった話者の家では、漁網を染めるために、観音崎周辺の山に出かけてカシワの樹皮を持ち帰り、餅掲き用のウスとキネを用いてカシワの皮を掲いてこまかくしたものを布袋に入れ、それをオケ(四角い箱形のフネ)に加えた湯の中につけて色を出す。こうするとタンニン成分が出るので、網をその中につけて染めたという。

(上記書91〜92ページより)


また、93ページには「カシワギブネ(柏木舟)」の写真が掲載されています。これは『三浦市城ケ島漁撈用具コレクション図録』(三浦市教育委員会編 1988年)に掲載されているものとのことで、横160cm×縦75cm×高さ32cmの外寸から、各面の板の厚みはわかりませんが恐らく300ℓ程度の容積を持つと思われ、この槽に収まる程度のサイズの漁網を染めていたことも窺えます。勿論、この場合の「フネ」は「湯舟(ゆぶね)」と言う場合の「フネ」です。

私が捜した文献もまだ微々たるものではありますが、それらの中では差し当たっては上記2例が相模国の柏皮の利用実績を示す事例ということになります。勿論、これだけでは当時の柏皮の流通や使用の実情を理解する上では十分とは言えませんし、特に上記の事例が江戸時代まで遡ると言えるかは不明ですが、幾つか気が付いた点を書き留めておきます。

鴨居村周辺の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
観音崎は鴨居村の東側、西側には浦賀湊が位置する

このヒアリングでは、柏皮を観音崎周辺の山で入手したとしています。しかし、明治時代初期の迅速測図では、観音崎周辺の土地利用は「松」とされており、以後の地形図でも針葉樹林の地図記号が目立ちます。カシワの様な広葉樹林が優勢であった様には見えません。迅速測図の作成された明治時代初期の土地利用が必ずしも江戸時代まで遡るとは言えませんが、その後の地形図との比較で考えても、あまり積極的に樹種を転換していたとは考え難いものがあります。

以前の記事で触れた通り、カシワは競合種が多い場所では生育しにくく、津久井では下草を刈るなど人手をかけることでカシワ林を育てていました。こうした例を考え合わせると、観音崎周辺ではカシワが容易に入手出来る環境ではなかったのではないかという点が疑問です。カシワ以外の樹種も使用していたとされているのは、恐らくカシワの入手が困難であったために代用品を用いざるを得なかったからと推測されるものの、挙げられている樹種も何れも広葉樹で、これらも観音崎周辺で得られる環境があったのかが気掛かりです。

また、カシワを採りに入ったという林は入会地と考えられ、その点ではコストの掛からない入手先であったと言えます。つまり、津久井など遠方で産出した柏皮を購入していなかったことになります。無論、この例だけを以って三浦半島では津久井産の柏皮を使用していなかったと短絡的に結論づけることは出来ません。三浦半島の他の漁村で漁網の染料を何処から入手していたかの事例を更に集める必要があります。明治時代や江戸時代にはこの網元も遠隔地の柏皮を購入していた可能性もあるでしょう。

同じことは房総半島の各漁村に関しても言えます。今のところ、柏皮の入手先は八王子のほか、上州など遠隔地が挙げられているものの、半島の入会地の雑木林などで採取したものを使っていた村があったとしてもおかしくありません。そして、漁村によって柏皮の入手先が異なっていたのであれば、その違いはどの様な理由で生じていたのか、が問題です。

考えられる可能性のひとつは、網元の規模の大小で生じる購買力の大小で違いが生じていたのではないかということです。江戸の魚河岸まで押送船(おしおくりぶね)を使って魚を送り込む仕事をしていた網元なら、相応の購買力を持っていたと考えられるので、江戸時代には日本橋にあった魚河岸で魚を卸した後、帰路の船倉に買い求めた柏皮を積み込んで自分たちの湊へと帰る運用を行っていたと考えられます。他方、地元で消費する程度の魚を水揚げする小規模な網元では、遠方まで柏皮を買い求めに行くのは割に合わなくなってきますから、地元の入会地でカシワを捜して伐り出して使い、足りなければ他の樹種で間に合わせていた、ということになるのでしょう。

こうした運用について考えることは同時に、相模川を下ってきたり、八王子から日本橋へ甲州道中経由で運ばれた柏皮が、それぞれどの漁村へ運ばれていたのかを考えることにも繋がります。特に日本橋からも相模川河口からも相応に離れている三浦半島の各漁村が、どちらから柏皮を求めていたか、その流通範囲を考えてみたいところです。

何れにせよ、こうした課題を考えるには更に史料を探し出す必要があることは言うまでもありません。次の記録を見つける機会を待ちたいと思います。
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