「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。

小浜藩主の居城であった小浜城址の位置
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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