【史料集】「新編相模国風土記稿」愛甲郡各村の街道の記述(その6)

引き続き再開が覚束ない状況です。今回も以前から書き溜めていたものをアップしますが、そろそろ在庫が途切れそうです…。

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の愛甲郡の各村の街道の記述をまとめます。今回は、愛甲郡図説では触れられなかったものの、各村には記述が見られる道筋を中心にまとめます。

今回もストリートビューの埋め込みが多いため、本文は追記に押し込んであります。



愛甲郡図説で取り上げられた「大山道」が一般に「八王子通り大山道」と呼ばれる道筋であることは以前紹介しました。愛甲郡の各村の記述で「大山道」に関する記述を拾っていくと、この「八王子通り大山道」からは遠く離れていることから該当しないと考えられるものが、熊坂村と半繩村の2ヶ所で見つかります。この道筋を一般に何と呼んでいるかははっきりしなかったのですが、ここでは「熊坂通り大山道」と仮に呼んでおきます。


相模原市緑区橋本・「棒杭」の石標(ストリートビュー
この道は「久所の渡し」で相模川を越え、角田経由の八王子道から分かれて熊坂村と半繩村を通り、「才戸の渡し」付近で「八王子通り大山道」に合流する道であったと思われます。高座郡中では橋本の南までは「八王子通り大山道」と同じ道で、「棒杭」と呼ばれる地で「久所の渡し」へ向かう道と「八王子通り大山道」が分かれていますので、同じ方向へ進む道も複数の経路が存在していたことになります。


熊坂通り大山道:愛甲郡中の各村の位置
熊坂通り大山道:愛甲郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


荻野新宿交差点
右が府中通り、左の県道が八王子通り
ストリートビュー
「風土記稿」の愛甲郡内の各村に記された「大山道」は以上なのですが、今回は特別にどの村にも記されなかった「大山道」をもう1つ取り上げます。高座郡の各村の街道の記述をまとめた際には、同郡の淵野辺・下溝・磯部村を経て、「磯部の渡し」を渡って愛甲郡に入る「府中通り大山道」の存在について紹介しました。この道はその先で対岸の猿ヶ島村から下荻野村の新宿へと抜けて「八王子通り大山道」に合流していたのですが、何故かこの道筋に関する記述は愛甲郡図説にも、そして各村の記述にも見られません。三田村や下荻野村には「大山道」という記述が見られるものの、愛甲郡図説が「八王子通り」の方を意識していることを考えると、これらの記述は「府中通り」を指していると考えるのは困難でしょう。


猿ヶ島の渡し碑(ストリートビュー
それ以上に問題なのが、「磯部の渡し」に対応する猿ヶ島村の渡し場についての記述では、「私に渡船を設て耕作に便す、」と通行人を渡す渡し場ではないことを記していることです。磯部村の記述では「矢倉澤道の係る所なり對岸猿島村にて進退す、」となっていましたから、2つの記述の間には明らかに齟齬があります。

実際には旅客を渡す実績があったにも拘わらず、「風土記稿」上では対岸の耕作場や秣場などに渡るために専ら村民が使っている、といった趣旨の記述がなされていた例としては、大住郡四之宮村の「四之宮の渡し」を挙げることが出来ます。こちらの渡し場が「馬入の渡し」のいわゆる「廻り越し」に使われていた実例については以前紹介したことがあります。

猿ヶ島の渡しについても、何らかの事情で表向きは農事用の渡しとしていたのかも知れませんが、具体的にどの様な事情があってのことだったかは不明です。相模川の馬入の渡しには大規模な通行が予定されている場合には、より上流の各渡し場から船を出す運用がなされていましたが、四之宮や猿ヶ島はその対象とはなっていませんでしたから、あるいは「こうした役務を担わされる様な通行がある渡し場ではありませんよ」という主張をこれらの渡し場がしていたのではないか、と個人的には想像していますが、今のところ裏付けはありませんし、「風土記稿」編纂時にこれらの村々からの報告をどの様に取り扱ったのかも不明です。また、この様な扱いをされていることからは、「府中通り」がどの程度大山への参拝客に利用されていたのかも気になります。

以下の地図では、他の方の街道歩きのレポートなどを参考に大筋での道筋を引き、現在の住所を頼りに当時の村名をプロットしてみました。

府中通り大山道:愛甲郡中の各村の位置
府中通り大山道:愛甲郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


迅速測図上の「岡田の渡し」付近(「今昔マップ on the web」より)
次に、厚木村の「渡船場」の項には「藤沢道」という記述が見え、同村の継立先の中にも藤沢宿が含まれています。藤沢から「厚木道」と呼ばれる道が存在すること、そして「風土記稿」の高座郡図説や各村の記述が混乱している点については以前紹介しました。その際にはこの道は社家村から岡田の渡しを経て大住郡岡田村へと渡り、そこから平塚道(八王子道)を経て厚木へ向かうという説明をしましたが、「風土記稿」の大住郡上岡田村・下岡田村の項にもその旨の記述が見られます。しかし、厚木村の記述は上下岡田村を経由する道ではなく、社家から相模川左岸を北上して河原口村から厚木へと渡る道であった様に記されています。


厚木の渡し碑(ストリートビュー
厚木の渡しは厚木の中心街よりも北に位置しており、各街道もこの渡し場の辺りで分岐していましたので、これらの街道から厚木の街を経ずに藤沢へと向かうのであれば、厚木の渡しを渡ってしまう道筋もあり得たと思われます。しかし、藤沢方面からの荷物を厚木で継ぎ立てることを考えた場合、厚木の渡しまで向かうとなると対岸の厚木を一旦行き越すことになりますので、その分だけ遠回りになってしまいます。この辺りの運用の実態については更に史料を探す必要がありそうです。


厚木市岡津古久の位置(Googleマップ

厚木市小野の位置(Googleマップ

残りの2つの村に記録された街道、すなわち岡津古久(おかつこく)村の「八王子道」と小野村の「伊勢原道」「荻野道」については、それぞれかつての村域内のどの道を指すのか、更には隣接する村のどの道へ接続して目的地へ向かっていたのか、委細が不明です。「荻野道」については大住郡西富岡村や三ノ宮村に「荻野道」があり、これらと繋がっていた可能性も考えられるものの、「厚木市史 近世資料編(6) 村むらと生活」でも起点・終点を不明と記しています(381ページ)。小野から荻野へ向かうのであれば「八王子通り大山道」が主要道とも考えられるため、実際は同じ道を指している可能性もありそうです。何れにせよ、これらの道については当時の村絵図が出て来ない限り、委細を掴むことは困難と言えそうです。


街道「風土記稿」の説明
*大山道㈡角田村五十八(五)◯相模川 艮の方を流る幅三十間許、河原幅百間より百五十間に至る、堤を設く高八尺許 …◯渡船場 相模川にあり幅三十間許、武州八王子路の係る所なり、船二艘を置、高座郡田名村と組合持、

※「大山道」がこの渡しを通っていたことについての記述は見られない。

熊坂村五十七(四)甲州大山幅九尺、の二道通ず、
◯相模川 東界を流る幅四十間餘、河原共六町餘、往昔此所に東國への街道係りて船渡あり六倉の渡と唱ふ、後年角田村に移せりと云傳ふ今も渡場あれど村民耕作の便とするのみ、僅に船二艘を置對岸高座郡田名村に通ず、當村と八菅村の持なり、

※明記はないが当初はこの渡しを大山道が通っていた。

半繩村五十七(四)此餘檢地往還流作場前村[熊坂村]に同じ、

※位置関係から熊坂村から才戸の渡しへの道が通過していたものと思われる。

◯小名 △坂本八菅村に跨れり、 △大塚熊坂・八菅二村と入會の地なり、 △下熊坂志多久末左加 △若宮
◯坂六 新坂古此邊に匂坂と云坂ありしを、中古廢して此坂を開けり、八菅村に跨る、 御嶽坂熊坂村にては祀禮坂と云、吹上坂・本坂・若宮坂・市島坂等の名あり長二町又は三町餘

※吹上坂が大山道の経路に当たると考えられる。

以南は三田村内の才戸の渡し付近で大山道㈠に合流していたものと思われる
*大山道㈢猿ヶ島村五十六(三)◯相模川 東南を流る川幅三十七間程 河原共百廿間許私に渡船を設て耕作に便す、川に傍て堤あり高六尺

※府中通り大山道が渡っていたのはこの渡し場の筈だが、この記述では公には通行人を渡さない運用ということになる。

山際村五十六(三)

※この街道に関連する記述はない。

關口村五十六(三)
川入村五十七(四)
三田(さんだ)五十六(三)大山道係れり幅九尺、

※この村には大山道が2本通っていたことになるが、記述は1つのみ。愛甲郡図説に「八王子通り大山道」が記されていることから、三田村の記述もそちらを意識していた可能性の方が高いと思われるものの、どちらかの道筋に特徴的な記述がある訳ではない。

下荻野村五十七(四)大山道係れり幅八間、巽界に係れり、

※この村には大山道が2本通っていたことになるが、記述は1つのみ。愛甲郡図説に「八王子通り大山道」が記されていることから、下荻野村の記述もそちらを意識していた可能性の方が高いと思われる。「幅八間」の記述が見られる点も、現在の荻野新宿での道幅の差や迅速測図、明治初期の地形図で「八王子通り」の方を主要道として扱っていることと併せて考えると、やはり「八王子通り」の特徴であったと見る方が筋が通る。

*藤澤道厚木村五十五(二)…其餘…藤澤東方高座郡用田村へ二里、等への諸道、皆當所より四分し、各行李を輸致せり、

※継立の存在が語られているだけで街道の名称等については明記なし、

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、

※以下委細は矢倉澤道の厚木村の項参照

*八王子道岡津古久(おかつこく)五十五(二)八王子及び大山道二條を通ず各幅八尺
*伊勢原道小野村五十五(二)大山・伊勢原・荻野の三道係る各幅二間、
*荻野道小野村五十五(二)大山・伊勢原・荻野の三道係る各幅二間、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は愛甲郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げたが、特に短い場合は全文をそれぞれの街道の欄に収め、その街道の名称を強調表示とした。

※村の配列は、「愛甲郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


さて、これで大住郡以外の相模国各郡の街道に関する記述を書き出したことになります。従って、途中で一旦中断させた大住郡の各村の記述をまとめる作業に立ち返らなければなりませんが、何時頃公開出来る状態に持って行けるのか、未だに目処が立ちません…。



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