【史料集】「新編相模国風土記稿」愛甲郡各村の街道の記述(その5)

まだ復帰の目処が立ちませんが、休載前にある程度書き溜めていた原稿を取り敢えず公開します。

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の愛甲郡の各村の街道の記述をまとめます。今回は、愛甲郡図説で紹介された街道のうちの残りの1本について考えてみます。

今回はストリートビューの埋め込みが多いため、本文は追記に押し込んであります。




巡見道石標:厚木市温水(ストリートビュー
愛甲郡図説で最後に取り上げられたのは「巡見道」です。これは、幕府の「巡見使」が通行する際に利用された道を指します。幕府の「巡見使」には「諸国巡見使」と「国々御料所村々巡見」の2種があり、前者は私領・幕領を問わず各地を巡見するものですが、後者は御料を巡見するものでした。どちらも基本的には将軍の代替わりに際して実施され、天保9年(1838年)まで行われています。但し、「道しるべを追って 厚木の街道」(鈴村 茂著 1984年 県央史談会厚木支部、以下「厚木の街道」)によれば、この天保9年の巡見は将軍の代替わりではなく、いわゆる「天保の飢饉」の被害状況を視察する目的であったとしています(23ページ)。

厚木市史 近世資料編(6) 村むらと生活」(以下「厚木市史」)では、この天保9年3月の「幕府巡見使経路図」という地図が収録されています。この地図には巡見道沿いの村々の名前や巡見使が宿泊する家が記されており、巡見使の通行に際して沿道の村々がその準備に追われたことがわかります。定期的に実施されるものではなかった以上、巡見の頻度は決して多くはなかった筈ですが、にも拘わらず「巡見道」の名前が伝えられているのは、やはり沿道の村々にとっては巡見使の通行が大きなイベントであったからでしょう。「風土記稿」に記されたのもこの道筋でした。

もっとも、「甲州道」と重なる下荻野〜上荻野村間など、「巡見道」の名前を伝えていない村も多く、基本的には通常は他の用途を担っていた道筋が巡見使通行に使われたと認識されている区間が多かったということになるでしょう。「風土記稿」の林村の項ではこの道は「荻野道」と記されており、この道が普段は荻野の街場へ出るために使われていたことが窺い知れます。「厚木の街道」では荻野から糟屋までの区間が「糟屋道」あるいは「荻野往来」と呼ばれていたことを記し、その道標を幾つか紹介しています(74〜81ページ)。今回は基本的に「厚木の街道」に従いながら、「迅速測図」なども参考にして該当する道筋を探ってみました。また、特別にもう3箇所ほどストリートビューで「糟屋道」の道標が見られる地点を紹介します。途上には大山道との分岐もあり、参拝に向かう旅人が通ることもあった様です。


厚木市及川・「かすやみち」の道標を兼ねた庚申塔
ストリートビュー

厚木市林・「糟屋道」の石碑
奥側の小祠は「民衛門地蔵」(ストリートビュー


厚木市林・「大坂上」の大山道との分岐
左が糟屋道、右は大山道(ストリートビュー
以下の一覧では、「幕府巡見使経路図」に記された愛甲郡の村々を書き出した上で、「風土記稿」の各村の記述を拾って記入しましたが、「巡見道」に関連する記述のない村の方が多くなっています。

巡見道:愛甲郡中愛甲村〜下荻野村間の各村の位置
巡見道:愛甲郡中愛甲村〜下荻野村間の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


愛川町角田・下之街道公民館
傍らに「高峰村役場跡」の石標が立っている
ストリートビュー
他方、下荻野村で甲州道に入った巡見使一行は、田代村に入って東へ進路を変え、信玄道に入って三増村を経て津久井県へと向かったとされています。この田代村からの道筋については、明治29年の1/50000の地形図との照合では、大筋で今の神奈川県道54号線(相模原愛川線)に近いものと考えられます。この先では角田村の箕輪で信玄道と交差し、更に以前紹介した角田経由の八王子道に繋がっていたと思われます。

因みに、地形図上のかつての角田村の辺りには「下之街道」という字が記されていますが、この地名はいわゆる「カイト地名」に由来するもので、段丘の下に位置する集落を意味しており、この道筋との関連は薄い様です。但し、この集落の中に明治から第二次大戦後まで存続した「高峰村」(角田村と三増村が合併して成立)の村役場の跡地があり、この道沿いに村の中心地が存在していたことは確かです。

巡見道:愛甲郡中田代〜角田村間の道筋
巡見道:愛甲郡中田代〜角田村間の道筋(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
巡見道愛甲村五十五(二)幅二間[矢倉澤道と]下同じ…又巡見道西寄を通ず、
長谷村五十五(二)南北に亘りて巡見道係る幅二間、
溫水(ぬるみず)五十五(二)又八王子道巡見道とも云西南に係れり幅二間、
◯小名 △本村 △高坪村 △淺間山村以上二所元祿の改に當村の枝鄕とせり、 ◯赤羽根村【北條役帳】には別村とす、前に注せり、

※「幕府巡見使経路図」では「温水」の地名はなく、代わりに「浅間山村」の名が記されている。

恩名村五十五(二)

※巡見道に関連する記述はない。

戸室村五十五(二)
林村五十五(二)荻野道南北に貫く幅二間、
及川村五十六(三)

※巡見道に関連する記述はない。

下荻野村五十七(四)

※甲州道㈠を進むが、関連する記述はない。

中荻野村五十七(四)
上荻野村五十七(四)
田代村五十八(五)

※当村で甲州道㈠を外れるが、関連する記述はない。

角田村五十八(五)

※当村で津久井道(甲州道・信玄道)に合流するが、巡見道に関連する記述はない。

三増村五十八(五)

※当村で津久井道(甲州道・信玄道)を進むが、巡見道に関連する記述はない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は愛甲郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げたが、特に短い場合は全文をそれぞれの街道の欄に収め、その街道の名称を強調表示とした。

※村の配列は、「愛甲郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


愛甲郡図説に記された街道については以上ですが、各村の記述にはこれらに当て嵌まらない街道の記述が数本見られるため、次回(時期は不詳ですが)はその様な街道の記述について取り上げます。



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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- りえてつ - 2016年07月08日 07:37:05

おはようございます。

御身体の具合はいかがですか。
一日も早い快復をお祈り申し上げます。

Re: りえてつ さま - kanageohis1964 - 2016年07月24日 13:52:17

こんにちは。お返事が遅くなりまして申し訳ありません。

まだ復調しておりませんが、少しずつリハビリに努めます。

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