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【史料集】「新編相模国風土記稿」愛甲郡各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の愛甲郡の各村の街道の記述をまとめます。今回は、愛甲郡図説で紹介された街道のうち、5番目と6番目の街道を取り上げます。


八王子道㈠と大山道の追分に立つ
不知火像をはじめとする石碑群
右が大山道、左が八王子道で厚木方面
ストリートビュー
愛甲郡図説で「大山道」として紹介されている街道は1本のみです。実際には愛甲郡中には複数の大山道があった筈なのですが、それらについては後日改めて取り上げます。その準備として、ここでは便宜的に「大山道㈠」としましたが、他の多くの「大山道」と区別する際には「八王子通り大山道」と呼ばれることが多い様です。また、「厚木市史 近世資料編(6) 村むらと生活」では「大山道(荻野道)」と「荻野道」の別称を紹介しています。

この道は上依知村で前々回取り上げた八王子道㈠と合流して当麻の渡しを渡り、橋本を経由して八王子へと向かいます。八王子以北、熊谷や川越などから大山参拝に南下する場合に主に使われる道筋であったと考えられます。南側では岡津古久村から先で大住郡に入り、東西富岡村を経由して他の大山道に合流して大山へと向かうことになります。

この道筋では下荻野村が往来の主要な拠点であったことが、小名の「新宿」に記された市場についての記述や、同村での大山道の道幅が「幅八間」と市のための空間が確保された道筋であったことで窺い知ることが出来ます。市が立つ街では道幅が極端に拡がる例としては以前原町田のものを紹介しました。

大山道㈠:愛甲郡中の各村の位置
大山道㈠:愛甲郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


田代・上原に残る甲州道道標(ストリートビュー
愛甲郡図説では「甲州道」を2筋取り上げています。1つめは厚木から下荻野・中荻野・上荻野を経て津久井県の長竹村へ入る道筋としています。厚木からこの方面への道筋としては他に前回取り上げた「信玄道」があった訳ですが、継立が運用されていたのが甲州道であったことからは、どちらかと言えばこの道が津久井県と厚木とを結ぶ主要道だったと言えるかも知れません。

また、愛甲郡図説ではこの甲州道の起点を「平塚宿」としています。この平塚から厚木までの道は実質的に「厚木八王子道」(平塚道)と重複する道です。他方、「厚木市史 近世資料編(6) 村むらと生活」では、「風土記稿」高座郡図説に掲載された「今考定図」で藤沢からの厚木道が「甲州道」と記されていることや、「幕府巡検使経路図」ではこの道が「厚木 平塚 藤沢 江戸道」と記されていることを取り上げ、この道が平塚にも藤沢にも繋がっていると認識されていたことを指摘しています。この辺りは当時の「街道」がどの様に捉えられていたかを知る上では興味深い一例と言えそうです。

「風土記稿」の甲州道の記述で今一つ腑に落ちないのが、半原村の項では村の中心を通るとしながらも「志田峠への道」であるとしていることです。志田峠自体は長竹村に位置していることが記されていますが、ここを通過する道を明治期の地形図で確認する限りでは、この峠を経由する道は半原村の域内を通っていた様には見えず、三増村の境界付近をかすめて田代村へと入る道であったと考えられます。田代村の「東方を通ず」という記述も、こちらの道筋を意識している様に思われます。志田峠の付近では中津川の段丘が川からかなり高く聳えていることから、この峠から半原村の集落へ向かうのはかなり無理がある様に見受けられ、実際に明治期の地形図からはこの峠から中津川を越えて半原村の中心集落へと向かう道はなかった様に読み取れます。

他方、半原村の中心集落を通過した場合には、その位置関係から中津川を2回余分に渡る必要が出て来ます。こちらの方が標高の低い河岸段丘上を行くことになりますので、峠越えがない分脚への負担はこちらの道の方が小さくて済みそうですが、当時の橋の強度では増水時の問題もありますし、半原村から中津川を越えて長竹村へ向かう途上には、河岸段丘の急な崖を登る区間も含まれています(現在は国道のために大きく崖を削っているため、この段丘崖の当時の道筋は失われている様です)。この辺りは更に検討が必要ですが、他の方の甲州道踏破時のレポートを見ても、この区間の道筋を1つに特定するのは難しい様ですので、以下の地図では2通りの道筋を描き込んでおくことにしました。

甲州道㈠:愛甲郡中の各村の位置
甲州道㈠:愛甲郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
大山道㈠上依知村五十六(三)此道[八王子道]西へ分るゝ岐路あり、大山道なり、幅九尺、
川入村五十七(四)津久井大山幅九尺、の二條係る、
◯坂三 諏訪坂登二町餘幅二間、葭坂登一町半幅一間、寺坂登一町餘幅一間、等の名あり、

※「諏訪坂」が大山道の坂に該当する。

棚澤村五十七(四)大山道幅二間、係れり、
◯小名 △本村 △市島 △小坂 △才戸 △下平
◯中津川 東方を流る河原幅共一町半、平水十五六間より二三十間に至る、此水を用水とす、土橋を架す才戸橋と云、水除堤を設く高六尺、

※この「才戸橋」が大山道の橋に相当するが、こちらでは季節による橋の架橋の運用については記されていない。

三田(さんだ)五十六(三)大山道係れり、幅九尺、
◯小名 △才戸 △十軒村 △宮村 △山ノ根 △川原村 △蟹淵 △稻荷市場 △根岸
◯中津川 東界を流る川幅二十間程河原共幅五町許、十月より二月迄は土橋を架す長十五間

※位置関係からこの「橋」が「才戸の渡し」を指しており、大山道の橋と思われる。こちらには季節によって架橋と渡しの運用があったことが記されているものの、夏場の渡河方法については記載なし。

下荻野村五十七(四)大山道幅八間、巽界に係れり、

※雄山閣版の原文ママ。鳥跡蟹行社でも「八間」と記されている。大山道の側に新宿の集落があったことが迅速測図で見て取れることから、この幅は宿場というよりも市場としての広さを示している可能性もある

◯小名 △子合村古は小合に作る、按ずるに、… △新宿市場にて長三町六間、天文の頃小合・公所兩所の民、爰に移りしより新宿と呼ぶ、此内に又原村と云小名あり、 △公所村具志與牟良 △升割 △中金井以上三所、中荻野村と犬牙の地なり、
◯荻野川 南方を流る幅七間より十間に至る ◯土橋二 荻野川に架す、其一を萬年橋と呼長八間、一は無名なり長九間、

※この2つの橋のどちらが大山道のものを指しているかは不明。現在大山道に該当する県道63号の該当の橋は「荻野橋」と称している。

及川村五十六(三)

※現住所の分布から見て村域の西側を大山道が通過していたと思われるが、関連する記述は見当たらない。

飯山村五十七(四)大山幅九尺、丹澤の二路かゝる、
◯小名 △千頭勢牟豆 △臺 △尼寺仁無茲 △川久保 △久保 △旗谷 △辻 △打越 △山岸 △下原 △菩提 △砂場 △矢崎 △白山

※「千頭」は橋の名称にも反映している。

◯小鮎川 村内の山間より出る かまが澤・こふた澤・湯の澤・大はた澤・中を澤等の數流此川に會し中程を流る幅十三四間、田間の用水とす、土橋五を架す、栗橋長十二間千頭橋長十三間久保橋長八間菩提橋長十三間砂場橋長六間等の名あり、

※かつての飯山村域はこの小鮎川に沿って伸びていたために架かっていた橋の数も多くなっている。このうち「千頭(せんず)橋」が大山道に属しており、現在も同名の橋が存在する他、橋際の交差点の名称にも反映している。

愛名村五十五(二)艮方より坤方に亘りて大山道を通ず幅九尺、
溫水(ぬるみず)五十五(二)大山道村の中程を貫く幅九尺、

※現在の新番地表記では「毛利台」がかつての温水村の西端に位置する地域で、その西境をこの大山道が通っているが、温水村の「中程」とは言い難い。別の道筋を「大山道」と称した可能性が高く、その場合は何処かでこの大山道に合流する支道の様な位置付けと思われるが、詳細は未確認。

小野村五十五(二)大山・伊勢原・荻野の三道係る各幅二間、
◯玉川 村の中程を流る幅八間、兩岸に堤を設く高一間、橋二を架す各長八間餘、

※位置関係から1つはこの道のものと判断される。

岡津古久(おかつこく)五十五(二)八王子及び大山道二條を通ず各幅八尺
甲州道㈠厚木村五十五(二)…其餘…甲州西方下荻野村へ二里、…等への諸道、皆當所より四分し、各行李を輸致せり、

※継立の存在が語られているだけで街道の名称等については明記なし、

妻田村五十六(三)甲州道係る幅二間、公甲の往來には、下荻野村より當村迄人馬を繼爰より厚木村に送れり、
◯小名 △反田曾利太◯【關東古戰錄】… △木賣場 △市場 △中村 △白根

※「木売場」「市場」はこの道筋の小名と考えられる

◯小鮎川 西堺を流る幅二十間、平水七八間、每年春冬の間橋を架して往來に便す、西北の方に堰を設て用水とす、堤あり高五尺許

※位置関係から甲州道の渡河地点について記していると思われる。夏場の渡河運用については不詳。

及川村五十六(三)甲州道係る厚木邊よりの道なり、幅九尺、
◯小名 △小山 △久保 △瀨戸 △三川尻

※「三川尻」はこの道筋の小名と考えられる

三田(さんだ)五十六(三)

※村の西境を甲州道が進んでいた可能性があるが、同村の記述にこの道に関すると思われるものは見られない。

下荻野村五十七(四)當村は古よりの村驛にて民戸も往還の左右に連住せり、…甲州道幅二間、村の中程を貫けり公用の往來には人馬の繼立をなせり、厚木村より二里程にて當村に來り、夫より中荻野村に繼ぐ、厚木村の方へは當村より妻田村に達す、

※小名については上記大山道㈠の同村の項を参照のこと。

◯荻野川 南方を流る幅七間より十間に至る ◯土橋二 荻野川に架す、其一を萬年橋と呼長八間、一は無名なり長九間、
中荻野村五十七(四)甲州道あり幅九尺、
◯小名 △馬場村古へ馬市ありて調馬せし所と云、按ずるに、下荻野村民所藏、天正中の文書に馬場町にて馬市をなせしこと見ゆ、卽此地なり、曰… △公所具志與◯以下四所共、下荻野村犬牙の地なり、 △中金井古は金鑄と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鑄工銅銕を鑄し地にて、今も地中より銕屑出ると云々、 △升割窪 △山中 △本村
上荻野村五十七(四)甲州道幅二間餘係れり、
◯小名 △澤村 △橫林村 △久保村 △淸田谷村勢伊太加也度牟良 △檜ヶ谷村 △王子原村 △後谷村 △荒井村 △田尻村 △陽野村 △打越村
田代村五十八(五)甲州道東方を通ず幅六尺より九尺に至る、
◯中津川 西南を流る幅十間或は二十間、河原幅五十間より百間に至る、田間の用水に引歩渡場あり、九月より三月迄土橋を架す長二十間
半原村五十八(五)志田峠津久井縣長竹村の屬、への往還村中を貫く道幅二間許、
◯坂二 馬渡坂東方にあり登五町程、眞名倉坂西北にあり、登二町許、志田峠への道なり、等の名あり、 ◯中津川 村の西より北東を遶りて流る幅五間或は十間、河原幅五六間より二十間に至、土橋二を架す各長十三間、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は愛甲郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げたが、特に短い場合は全文をそれぞれの街道の欄に収め、その街道の名称を強調表示とした。

※村の配列は、「愛甲郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。






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