「七湯の枝折」の「米つつじ」

昨年の5月頃に、「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から「釣鐘つゝじ」を取り上げました。今回は同じ「七湯の枝折」に掲載されたもう1つのつつじである「米つつじ」を取り上げます。

米[酋阝]躅 明ばん山ニ多く生ス

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより、字母を拾えない文字については[ ]内にその旁を示す)


「つつじ」の表記がここでは妙なことになっていますが、箱根町教育委員会のこの本の注では「躑躅(つゝじ)」とのみ記していますので、ほぼ誤記と見做して良いと考えているのでしょう。今回は、和名の「ハコネコメツツジ」以外は「米つつじ」とひらがなに展開して表記することにします。

「箱根七湯図絵」芦のゆ
歌川広重「箱根七湯図会」より「芦のゆ」
南から北を見る構図になっており
「明礬山」はこの絵の左上から右手中程にかけての
稜線の膨らんだ辺りに位置することになる
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
画像を正位置に回転)
「明ばん山」については以前も何度か登場しましたが、箱根七湯のうち最も標高の高い芦ノ湯の北寄りに位置する「山」で、当時この地で明礬の精製を行っていたことからこの名があります。「米つつじ」はこの様な所に生息していたと記すものの、この植物についての具体的な特徴については何も記載がなく、また絵図も添えられていません。

「釣鐘つゝじ」の時にも当時の本草学や花譜などの書物に、この種に該当する記述が見られるかどうか探してみましたが、結局の所見当たりませんでした。今回の「米つつじ」の場合も「釣鐘つゝじ」で確認した書物をひととおりあたってみたものの、残念ながらこちらもそれらしき記述を見つけることが出来ませんでした。このため、当時の人がこの植物をどの様に見ていたのか、手掛かりが乏しいのが実情です。「七湯の枝折」と並んで箱根の当時の地誌とも言える「東雲草」(雲州亭橘才著 文政13年・1830年)にも、「米つつじ」に関する記述は見られませんし、更には「七湯の枝折」を参照しつつ更に独自の調査を書き加えようとしていたと見られる幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)でも、産物の項に「米つつじ」はありません。「七湯の枝折」の記述も詳細とは言えませんし、「米つつじ」は地元で存在は知られていてもさほど注目されてはいなかった、というところなのかも知れません。

「米つつじ」の存在がより広く認知される様になったのは、明治時代に入ってこの植物の研究が始められてからです。「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)ではその研究の経緯について次の様に記されています。


ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.; Tsusiophyllum tanakae Maxim., Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8(1870)の基準産地は箱根

落葉または半常緑の低木で、茎は倒伏して地面をはうようにして、多数分枝し、高さ60cmに達する。葉は楕円形または倒卵状楕円形、小型で長さ4〜12mm、やや質厚く、密に互生する。表面は伏せた毛があり、裏面の脈上および縁辺に褐色の毛がある。花は6〜7月、花冠は白色、筒状鐘型で外面に毛がある。雄しべは5本、花冠から突き出ない。葯は縦裂し、花糸に毛がある。本種はコメツツジあるいは同一系統の祖先より火山裸地に適応、分化した種と考えられ、箱根に分布の中心がある。北は秩父山地から南は御蔵島まで分布し、ブナ帯の風当りの強い岩場に生える富士火山帯の特産種、フォッサマグナ要素の代表種である。1870年にロシアのマキシモウィッチが、花が筒型で葯が縦裂する形質を重視して、新属新種Tsusiophyllum tanakae Maxim.として記載した。のち大井次三郎(1953)は葯の縦裂はツツジ属中の異端種にすぎないと考え、ツツジ属に併合する学名R. tanakae (Maxim.) Ohwiをつくった。しかし、杉本順一(1956 植研31:63-64)はこの学名が台湾のアリサンシャクナゲR. tanakai Hayataに使われていることを指摘し、R. tsusiophyllumを提唱した。また最近、高橋・勝山ら(1992、1998)はハコネコメツツジとオオシマツツジの雑種とされたコウズシマヤマツツジについて研究し、それを裏付ける成果を発表した。本誌ではツツジ属に含める説を支持する学名を採用した。なお「植物の世界63:92」に、永田芳男は本州産でハコネコメツツジとヤマツツジの自然雑種を見出し、カラー写真で紹介している。ハコネコメツツジは箱根町のシンボルとして、天然記念物に指定し保護している。

(上記書1099〜1100ページより、強調はブログ主)


箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置
箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置(再掲
この植物の標本が箱根から持ち帰られたこともあって、以降の和名では「ハコネコメツツジ」と箱根の名を冠する様になりました。論文が発表された1870年は西暦で書かれているとあまり違和感がありませんが、和暦に直せば明治2年から3年、これほど早い時期に箱根でもあまり記録が見られなかった植物の研究が海外で公表されているとなると、この外国人が一体どういう経緯で「米つつじ」の標本を手に入れたのかが気になってきます。「米つつじ」が「明礬山」で見られると「七湯の枝折」が記していることと考え合わせると、これまで紹介してきたハコネサンショウウオ石長生の様な例とは異なり、江戸時代にも外国人の往来があり得た東海道筋からはかなり隔たっていますから、たまたま通りすがった道すがらに見出すといった経緯では標本を入手出来なかった筈です。今回はこの経緯をもう少し掘り下げてみます。

神奈川県植物誌2001」上では「マキシモウィッチ」と表記されていますが、一般にはドイツ語風に「w」を「v」の発音に読んで「マキシモヴィッチ」と表記されていることが多い様です。カール・ヨハン・マキシモヴィッチはロシア国籍のバルト・ドイツ人の植物学者で、幕末に日本が開国されたことを知ってその植物調査のために来日、滞在しています。彼と箱根の関わりについては、北海道大学総合博物館の2010年の企画展示の図録に解説されていました。

1861年 1月末に横浜に向けて箱館を出港したマキシモヴィッチと長之助は12月1日に横浜に着く。横浜周辺で若干の採集をした後、すぐ12月末に長 崎に向けて出港、翌1862年1月初めに長崎に着いた。長崎周辺で採集をし、この時に2回目の来日をしていたシーボルトに会ったとされる(井上 1996)。 しかしこの年3月末には早くも長崎を出港し、1862年4月初めには江戸に到着し、再び長崎に向けて出港する12月中旬まで江戸周辺や箱根、富士山で採集している。この年1862年の12月21日には再び長崎に舞い戻り、翌年1863年の12月末まで長崎に滞在し、採集は九重山、阿蘇山、熊本、島原などに及んでいる(井上 1996)。これら1862年の関東地方、1863年の九州では、物情騒然としている時期でもあり、長之助を派遣して採集させたことが多かったようである(ファインシュタイン 2000)。1863年12月末に長崎を出港して翌1864年1月9日に江戸に到着した。ヨーロッパへ旅立つのはその年の2月1日なので、1ヶ月余りで標本等の整理を行い、さく葉標本72箱を持ち帰ったという(井上 1996、須田 2010)。

(「マキシモヴィッチと長之助、宮部の出会いと別れ」高橋英樹著、「マキシモヴィッチ・長之助・宮部:北海道大学総合博物館企画展示「花の日露交流史—幕末の箱館山を見た男」図録」8ページより、強調はブログ主)


ここで登場する「長之助」とは須川長之助のことで、陸中の出身だった彼はちょうど函館に渡ってきたマキシモヴィッチと知り合って彼の助手として活動する様になります。従って、マキシモヴィッチは勿論、長之助も箱根をはじめとする関東はこの時に初めて訪れており、必ずしも一帯の地理に長けていたとは考え難い状況だったことになります。

彼らが箱根を訪れた1862年は文久2年に当たりますが、この年の旧暦8月21日にあの「生麦事件」が起きていることを考えれば、外国人が安易に地方へと入っていける世情ではなかったことは容易に察しがつきます。長之助を派遣することが多かったというのはそういう世情を考慮すれば理解できるところで、箱根へ向かったのは長之助だけであった様です。上記で引用した企画展示の図録には、この時に長之助が採集したというハコネコメツツジのタイプ標本の写真が掲載されています(同書35ページ、PDFでは40ページ)。なお、この頃は幕府が外国人が自由に旅行できる地域を制限しており、箱根はその地域に入っていませんでしたが、マキシモヴィッチの場合は植物調査という名目がありましたから、許可さえ得られれば彼も箱根まで入っていくこと自体は可能だった筈です。

上記の通り箱根に入っていった須川長之助もこの土地には不慣れであったでしょうし、元より外部の人間が村落に入っていくことには慎重な時代である上に、幕末のきな臭い世情も重なっていることを考えれば、当然地元の人々の案内なしに箱根で植物調査を行うことは不可能だった筈です。

とすれば、この「米つつじ」の存在について長之助が気付いた背景には、地元の人の手引きがあった可能性が少なくないと思います。具体的に誰が彼を案内したのか、そしてその案内者が「七湯の枝折」に「米つつじ」が記されていることを意識していたかは不明ですが、明礬山に長之助を手引きして「米つつじ」を紹介した人がいたのだろうと思います。


「Rhododendrae Asiae Orientalis」の該当箇所(Googleブックスより)
因みに、マキシモヴィッチがハコネコメツツジについて最初に紹介したのは「Rhododendreae Asiae Orientalis(東アジアのツツジ属)」という論文中でした。当時の慣習に従ってこの論文もラテン語で記されており、私もGoogleの翻訳サイトで概略の意味を掴むのがやっとですが、流石に「Hakone」などの日本語が記されている箇所は理解できます。

マキシモヴィッチが提唱したハコネコメツツジの学名には「Tsusiophyllum tanakae」と「田中」の名前が記されており、この論文でも日本の田中という植物学者の協力があったことを記しています。当時の植物学者として田中姓ということであれば田中芳男を最初に挙げることが出来ますが、実際に田中芳男を標本採集者と記している論文(リンク先PDF)も見つけました。これは北海道大学総合博物館の指摘と上手く噛み合いませんし、田中芳男の「富士紀行」で富士山や箱根を訪れたのは明治4年(1871年)、それ以前に関東各地に遠征しているのは慶応2年(1866年)にパリ万国博覧会に出展する昆虫の採集であったことから考えると、田中芳男が標本採集に直接関与したのかは良くわかりません。ただ、マキシモヴィッチが関東に滞在していた当時には幕府の参与であった田中芳男が、「ハコネコメツツジ」をマキシモヴィッチが発表するまでの間に何らかの形でマキシモヴィッチに協力していたことは確かです。例えばその役職からは、長之助が箱根に植物採集に出掛ける際に、往来に支障がないように手形を出すなどの支援をしていた、といったことも可能性として考えられると思います。

何れにせよ、マキシモヴィッチが「ハコネコメツツジ」を発表するまでの経緯は、それまでケンペル、トゥーンベリ、シーボルトらが持ち帰っていた植物とはやや異なる形でヨーロッパに持ち帰られ、新たに研究される様になったという点で、その標本採集の転換期にあったことを象徴する植物の1つであったと言うことが出来そうです。

マキシモヴィッチも上記の論文でこの植物が希少(planta rara)であることを既に記していますが、現在はハコネコメツツジは国のレッドデータブックでも、更には神奈川県のレッドデータブックでも「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されています。また、県のレッドデータブック2006年版ではハコネコメツツジ群落についても取り上げられています。

ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.(ツツジ科)

県カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類(旧判定:希少種)国カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類

判定理由:箱根と丹沢の標高1000m以上の風衝地岩場に生え、総個体数は1000株未満と推定され、定量的要件Dより絶滅危惧Ⅱ類と判定される。

生育環境と生育型:ブナ帯の風衝地岩場に生える常緑低木

生育地の現状:変化なし

存続を脅かす要因:園芸採取

保護の現状:国立公園、国定公園

県内分布:(箱根町、秦野市、松田町、南足柄市、相模原市緑区、山北町)

国内分布:北は秩父山地から南は御蔵島まで

文献:神植誌2001 pp. 1099-1101.

特記事項:Tsusiophyllum tanakae Maxim. Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8 (1870) の基準産地は箱根

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 114ページより、県内分布は記号で羅列されているものを市町名に置き換え)


ハコネコメツツジ群落 Rhododendron tsusiophyllum community (16044)

判定理由:国RDB(神奈川)、RD植物、原記載地、既報告、複合構成

存続を脅かす要因:園芸採取

県内の分布:丹沢・箱根のブナ帯の風当たりの強い岩角地に分布する。

特記事項:植物社会学的な植生単位(群集)としてはオノエラン—ハコネコメツツジ群集が報告されている。オノエラン—ハコネコメツツジ群集は箱根で記載された植生単位で(『箱根・真鶴』)、その原記載地としても重要である。種としては絶滅危惧Ⅱ類とされる。箱根の植分としては田中(1994)による現況報告がある。

(同書186ページより)

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- りえてつ - 2016年05月30日 06:46:23

こんにちは。

ハコネコメツツジについて勉強になりました。
歌川広重の絵を見ると心が落ち着きます。

Re: りえてつ さま - kanageohis1964 - 2016年05月30日 09:19:51

こんにちは。コメントありがとうございます。

本当は「米つつじ」の江戸時代の絵がないかと思って色々と探したんですが、ちょっと見つけることが出来なかったんですよね。箱根に拘らなければあるのかも知れませんが、繁殖地が限定されているだけにそこまでわざわざ行って描いてくる絵師もいなかったかも知れないです。広重の絵はその代わりという位置付けだったんですが、「明礬山」が描いてあるらしいことに気付いたのは1つ発見ではありました。

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