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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。
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