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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物一覧から、今回は山川編にのみ記された次の2品を取り上げます。

  • ◯醋大住郡中原上宿の民、造釀せしを同所の縣令成瀨五左衞門、年々公に獻ず、故に成瀨醋と稱せしとなり、後年其事廢せり、當所より江戸靑山に通ずる道に御醋街道の名今に存す、
  • ◯雲雀大住郡波多野庄邊及び糟屋庄の邊に多し、慶長の頃中原の御殿を、土人雲雀野の御殿とも稱せしと云う、

(卷之三、以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)



平塚市中原の位置(Googleマップ
平塚市御殿はこの西隣の地域
新番地表記によって江戸時代の村域とは変異がある
どちらも大住郡中原上宿・下宿(現:平塚市中原、御殿他)に縁のある「産物」ですが、大住郡図説ではこれらについては触れられていません。一方は調味料、他方は野鳥という、全く性質の異なるこれらの品を同時に取り上げる気になったのは、これらが「風土記稿」の産物一覧に収まった経緯が共通していると思われるからです。今回は先にその経緯を考えるところから話を始め、その後にそれぞれの「産物」について見ていくこととします。

高座郡渡内村(現:藤沢市渡内)の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りし、後に相模国内の徳川家康の由緒のある事績をまとめるべく天保10年(1839年)に「相中留恩記略」を著したことについては、以前玉縄の梅干について取り上げた際にも紹介しました。その「相中留恩記略」の「中原御殿蹟」の項には次の様に記されています。

中原御殿跡は中原上宿にあり。今御林となり、松樹生茂れり。長八拾間に、横六拾間程あるべし。四方に御堀蹟残れり。抑、当御殿は東照大神君様御放鷹のころ、御仮宿りに設け給ひし御殿にして、或は雲雀野の御殿とも唱へしとなり。こは此辺雲雀の名所なるを以てなり。当御殿へ度々成らせられし事は、其頃の書にも見えたり。其大略、…又、成瀬五左衛門殿、当所の御代官たりし頃、此地にて酢を醸し、江戸御城へ奉れり。其風味格別なるをもて、成瀬酢と呼び、御賞翫ありしとなり。今の江戸青山往来新道は、其ころ御酢運送ありしをもて御酢海道など呼なせリとなり。

(「相中留恩記略」1967年 有隣堂 校注編 44ページより、…は中略、強調はブログ主)


後で見る通り、「風土記稿」の中原上宿・下宿の項には多少なりとも記述が見られるものの、大住郡図説では取り上げられなかったこの2つの産物が山川編で「復活」したのは、この「相中留恩記略」の記述が影響している可能性が考えられます。

そこで今回は、これらの産物について現在明らかに出来る範囲で、「相中留恩記略」にどの様な点が評価されて採録されたのかを見ていきたいと思います。今回はまず、「醋」の方を取り上げます。


「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、かつて同地で醸造されていた醋について次の様に記しています。

古村民金左衛門と云者、醋を造醸せしを、時の縣令成瀨五左衞門重治、公に奉れり、故に是を成瀨醋と稱せられしと云う、何の頃か其事止て、今は造醸するものなし金左衛門の子孫今も村民たり、其家の傳へに、每年奉りし中、或年例に勝れて味美なりしかば、公より其製の例に替たると尋られしに今年は京師より製法に精き者を呼て、造らしめし由答え奉る、然るに當所の醋は、田舎の製を賞翫する所、京師の製法に倣ふは、却て賞翫を失へりとて、是より奉る事を止められしと云、今も當時造醸せし器を藏す、

(卷之四十八 大住郡卷之七より)


先にここに名前が出てくる「成瀬五左衞門重治」について見ておく必要があるでしょう。徳川家康が江戸に入った後、関東の広大な所領は代官頭らによって統治されていましたが、やがて彼らの死亡や失脚に伴って代官頭が消滅すると、代って在地の代官によって治められる様になりました。うち、相模国の大住郡・淘綾郡・愛甲郡の幕領は、同地の代官頭であった伊奈忠次の没後、中原に置かれた陣屋を拠点とする複数の中原代官によって治められていました。中原陣屋は中原御殿を中心とした一帯に展開され、本陣、役所、米蔵、牢屋などを備えていました。

成瀬家はこの中原代官のひとりで、五左衞門重治は慶長16年(1611年)から中原代官を勤め、寛永10年(1633年)に亡くなっています。従って、「成瀬醋」の献上が始められたのはこの在任中の20年あまりの期間のうちの何れかということになります。

この「成瀬醋」について比較的記述が厚いのは、人見必大(ひとみひつだい)が元禄10年(1697年)に刊行した「本朝食鑑」です。原文は漢文で書かれているのですが、今回は少々長く引用したいと考えましたので、東洋文庫の翻訳版を引用します。

〔集解〕酢は、諸州の家々で盛んに造っている。大抵(およそ)水の善いものを択ぶことが先決である。昔から和泉(いずみ)酢を上としている。当今も盛んに製造して、四方に贈り、都市で販売しているが、三年以上経ったものが一番よい。その色は濃い酒のようで、味は甘くて甚だ酸い。近代では相州の中原の成瀬氏で造られるものが第一等で、駿州の吉原善徳寺で造られるもの、同州の田中の市上(まち)で造られるものがこれに次ぐ。以上の三所の酢は、いずれも泉州の醋の法に基づいて、これにいろいろ工夫を加えたものである。

中原の醋法としては、仲秋の吉日に、まだ脱殻していない早(うるち)(せいろう)で蒸し、(さらし)()し、(つき)(ふる)って上白米とし、この一斗を(やや)硬めの飯に煮て酒飯のようにしたのを用いる。麹六升と水一斗八升とを(はか)り定めておき、先ず堅炭一箇、鉄釘一箇を縛り合わせて、(かめ)底に入れる。こうするのが造醋の厭法(こつ)である。次に飯を温いうちに甕に入れ、固く()き定めて、水が()き出さぬように注意する。次いで水を差し、次に麴を入れ、厚紙で覆うて内蓋とする。その上へ、木蓋で甕の口を掩い、さらに重ねて柿渋紙で木蓋の上を覆封する。外は左索(ひだりない)の繩で七回半縛り定める。この甕を日光のあたる処に置いて、動揺させぬように、また非常の物に触れぬように、雨露が内に透過(しみこま)ぬようにして、七・八日間をおく。天気快晴の日を()ち、甕蓋(かめのふた)を開くが、内の紙蓋を開かず、気を漏らすだけである。夕方には外蓋を掩い、渋紙を縛る。翌日の午前にも、また気を漏らす。もし雨天であれば、蓋は開けない。このようにして二・三十日ねかしてから、前のように開封すると、内蓋が沈んで酸味が出るようになっている。これは酸が醸成されたためである。しかし醋が出来あがったといっても、(かす)()してはいけない。翌春の二・三月になって醋の熟するまで()って、布嚢(ぬのぶくろ)に入れて汁を()し、滓を取り去るのである。五・六月になって、また淳の生じるを()って、瓶に入れ、緩火で一・二沸煮立たせてから滓を取り去って清澄にし、その甕を屋内の涼しい処に移して、半ば土に埋めておくと、秋の彼岸のころになってすっかり熟成する。これは、大抵(ほぼ)泉州・田中・善徳寺の法とは同じであるが、就中(とりわけ)、中原は修製の妙を得て、異香・奇味がある。他の企ての及ばぬものであって、その深秘のところは人に伝えられない。

(「本朝食鑑1」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫296 118〜119ページ、ルビも同書に従う。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら


和漢三才図会巻105「酢」
和漢三才図会 卷之百五より「酢」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
当時の相模国の酢が高く評価されていたことについては「和漢三才図会」でも記していますが、こちらは「中原」の名前を出していませんし、醸造法についてもごく手短にしか書いていません。それに比べると、「本朝食鑑」の記す醸造法はかなり仔細に及んでおり、しかも基本的には酢の名産地の醸造法が共通であるとしながらも、中原のそれには更に秘法が存在することを最後に書き加えています。因みに、この醸造法は現在の米酢のそれと殆ど変わりがなく、この頃には米酢の醸造法が確立していたと言うことが出来ます。

人見必大の父・元徳は徳川幕府に仕えた侍医であり、とりわけ小児科医としての名声の高い人物でした。そのため、将軍だけではなく諸大名などとも交流があり、「本朝食鑑」の出版に当たってはそうした伝手で資金援助を得ています。兄・友元も儒学者という家柄で、人見家は学者一家として高い地位にありました。こうした家柄と交流関係が、特に幕府に献上されていたという「成瀬醋」についての知識をふんだんに入手するのに有利に働いた可能性は高そうです。また、必大が「成瀬醋」をこれ程までに高く評価するのは、あるいは人見家でもこの酢を実際に用いる機会が多かったのかも知れません。


豊田付近は今でも田畑が拡がる地域
遠方に見えているのは大山
ストリートビュー
この「本朝食鑑」の記述に従えば、「成瀬醋」は基本的な所では和泉国などで醸造されていた酢の製法と大差のない米酢であったことになります。元より、酢は日本でも古代から醸造され、和泉国の酢はその頃からの歴史を有しています。その製法が時代が下って他の地域でも醸造されるようになっていたことになります。中原上宿・下宿は平塚宿周辺同様に砂丘地の上にあり、米の作付けにはあまり向いていない土地柄ですが、「風土記稿」の中原上宿・下宿の項には、北側に位置する豊田本郷の村民が中原御殿の前を開墾して移住して成立したことが記されています。この豊田本郷を中心とする一帯は広大な水田が拡がる米どころであり、醸造に必要な米はそちらから入手出来たでしょう。

但し、細部では「成瀬醋」なりのノウハウを有しており、それが独自の風味を生み出していたのかも知れません。中原の村民金左衞門が何時頃から、またどの様な経緯で酢の醸造を始めたのかは不明ですが、和泉国の醸造法と大差ないとされていることから考えると、あるいは成瀬五左衞門重治が何らかの伝手で手に入れた醸造法を金左衞門に指導して始めさせた可能性も考えられます。その後試行錯誤を繰り返すうちに独自のノウハウを蓄積したのでしょうが、何れにせよ、後に醸造を止めてしまった時にそのノウハウも失われてしまったということになりそうです。

もっとも、「風土記稿」の記すところも飽くまでもかつての醸造家の言い伝えですから、風味を改善すべく京から名人を招いたのが結果的に仇になったとする話をどこまで史実として勘案するかは微妙なところがあります。実際、中原上宿に伝わる「大住郡中原宿万覚抜書」(天保10年・1839年)という文書には次の様な記述が見えます。

一成瀬酢之事、正徳年中留り申候、「享保十八(「 」朱筆)年相留申候ト有之、

一高七百六石六斗八升四合五勺

中原村高辻

高三百七石七斗六升八合

上中原村

斎藤喜六郎御代官所

高三百八拾弐石壱斗九升四合

下中原村

同 御支配所

高拾六石七斗弐升弐合五勺

若林六郎左衛門知行所

、先年御膳御酢差上申候付、朝鮮人御用相勤不申候処、享保八年ゟ御酢相止申候付、享保十二年年ゟ平塚宿助郷役一統相勤申候得共、此度馬入川船橋御用被 仰付候得、違背可仕様無御座候間被 仰付次第相勤可申候、然共、朝鮮人御用之儀初之儀御座候得者、隣村別前被 仰付被下候様奉願上候、以上、

享保廿一年六月

中原上下役人

堀江清次郎(成真)様御手代

平尾茂平太殿

長田用八郎殿

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 700〜702ページより、…は中略、強調はブログ主)


「大住郡中原宿万覚抜書」は中原上宿の名主家が備忘のために様々な文書の抜き書きなどを書き留めた覚書で、江戸時代の同地の地誌や歴史が一望に出来る史料です。ここでは2ヶ所に「成瀬醋」献上の廃止に関する記述が見られますが、最初の「享保18年」は2番目に書き写された文書の日付の関係から考えると誤りと見られます。その2番目の文書では享保8年(1723年)に「成瀬醋」の献上が停止されたことが明記されており、更にその結果として、それまで免除されていた助鄕などの役務を4年後の享保12年から新たに務めなければならなくなったことがわかります。因みにこの文書は、朝鮮通信使の江戸への通行に合わせて相模川に浮橋を架ける役務が中原上宿・下宿にとっては初めてのことであったため、どの様に対処すべきかを問い合わせている文書です。

以前梅沢の鮟鱇を取り上げた際にも触れましたが、こうした献上品が各地の大名や旗本等によって過剰な負担をしてでも幕府に届けられている実情を見て、徳川吉宗が享保7年(1722年)3月に献上品の節減を命じています。年代から見て、この「成瀬醋」もその一環で献上廃止に追い込まれたと見るのが妥当なところではないでしょうか。「風土記稿」の記す醸造家の言い伝えも、あるいは幕府側の献上廃止の動きを受けて質の向上を企てたところが却って裏目に出たということなのかも知れませんが、少なくとも主因という訳ではなさそうです。

また、この文書から「成瀬醋」の献上が中原上宿・下宿にとっては役務の免除という便益と結び付いていたことがわかります。こうした便益はかつての中原御殿を預かっていた中原陣屋・中原代官と関係が高いと見られ、それが「相中留恩記略」への採録へと繋がっていったと見ることが出来そうです。「風土記稿」編纂時には既に生産されていなかった「成瀬醋」を敢えて山川編の産物には含める判断がされたのも、やはり同じ理由からでしょう。

一方、成瀬家をはじめとする中原代官はその後子孫が世襲していましたが、元禄の頃には代官家は何れも没落などによって廃されており、享保の頃には既に代官職からの献上という裏付けを失っていたことも、献上廃止の背景として考える必要があるかも知れません。以前見た愛甲郡の5村からの炭の場合は、献上が廃止された後も諸役御免の方は幕末まで堅持されており、こうした扱いの差が生じた要因を考える上では、その酢に結び付けられて語られている中原代官家の存在が大きい様に思えます。


中原上宿付近の一里塚跡付近(ストリートビュー
右の電柱の脇に一里塚跡を示す標柱が立っている
「御酢街道 一里塚跡」碑
標柱の向かいの民家の塀の裾に埋め込まれた
「御酢街道 一里塚跡」の碑(2007年撮影)


中原道のルート(ルートラボ)
さて、「風土記稿」の方には記載がありませんが、「相中留恩記略」には献上に際して中原道を使って江戸まで運んでおり、その由緒からこの道が「御酢街道」の別名で呼ばれていることを記しています。平塚から豊田へ向かう南北の道沿いに展開していた中原上宿の中途で東に分かれる道筋が中原道ですが、その分岐点から程近い場所にかつては一里塚があり、現在はその場所の民家の塀の裾に目立たない形で「御酢街道 一里塚跡」と刻まれた石碑が埋め込まれています。既に製法を失った「成瀬醋」を再現することは望むべくもない今となっては、「風土記稿」にも記されている醸造に使ったという甕(現在は平塚市博物館蔵)と、この街道の別称が、かつて名を馳せたこの地の産物の数少ない証ということになるのかも知れません。


次回は「雲雀」について取り上げる予定です。




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