「武甲相州回歴日誌」の箱根の記述を巡って

以前、明治8年(1875年)の小田完之(かんし)「武甲相州回歴日誌」(以下「日誌」)から、鎌倉周辺小田原周辺について記されているものを取り上げました。今回は箱根を巡る記述を見てみます。

明治8年の8月3日から15日まで、途中江の島で台風の影響で1日足止めを余儀なくされた以外は比較的速いテンポで各村を巡回して小田原に入り、そこで足柄県庁(当時はまだ足柄上郡・下郡などは足柄県の属でした)にも足を運んだり、小田原以南の海沿いの村々を巡ったりして18日まで滞在しています。これに対して、箱根山中の巡回には翌19日から23日までの5日間を要しており、ここまでの日程を考えると比較的多く時間をかけていると言えます。「日誌」からその経路を挙げると

十九日 晴。小田原ヲ出テ板橋田澤ノ山畑ヲミテ湯本ニ到宿ス。…

廿日 晴。朝七時湯本ヲ出テ険峻ヲ繞リ箱根宿ニ到リ投ス。須雲川畑宿等茶畑少々アリ。…

二十一日 晴。滯留。箱根ヨリ元箱根ニ到リ神社ノ境内山嶽ノ内ニ終日。…

廿二日 晴。元箱根ヲ出テ船ヲ命ジ、西シ新宮山下ヨリ姥子仙石原ヲ經テ宮城野二宿ス。…

廿三日 晴。木賀ヲ發シ山路ヲ盤旋シ小田原ニ來ル。

(「日本庶民生活資料集成 第12巻」1971年 三一書房 331〜333ページより、ルビ・傍注も同書に従う、…は中略、以下「日誌」の引用も同様)

この様に、箱根の内輪山に位置する各村をほぼ一通り巡って小田原に戻って来ています。

「武甲相州回歴日誌」の箱根山中の経由地・滞在地
「日誌」の箱根山中の経由地・滞在地
街道は江戸時代の道筋のもの
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
他の地域よりも日数を要している理由の1つには、やはり基本的には平野部の移動であったここまでの区間と違い、険しい山中の移動であったからということもあるでしょう。当時は箱根山中の道も少しずつ馬車に対応出来る様に改修が施され始めており、完之も

箱根道ノ險惡人ノ知ル處、近頃篤志ノ者稟請シテ湯本ノ東茶屋ノ處マテ、早川ニ傍テ平坦ニ路ヲ開キ人力車ヲ馳セ容易ニ湯本ニ逹ス。

(331ページより)

と記しています。とは言え、改修の対象となったのは専ら温泉宿への道でしたから、完之が巡回で使った経路にはまだ江戸時代までの道と殆ど変わらない箇所が多く残されていた筈です。因みに、完之はこの道中では基本的に徒歩で移動しています。

他方、完之のこの出張の目的の1つは植生調査にありました。「日誌」では全般にそうした側面の記述があまり多くないので、平野部と箱根山中で観察した植物の種数にどの程度差があったかは明らかになりませんが、それでも平野部よりは観察すべき植物は多かったと見て良いでしょう。

ただ、同時にこの出張では各村の農業の実情を視察し、必要に応じて村の有力者らの相談に乗ったりしています。そして、この箱根の山中はその点で課題の多い地域であったことが、「日誌」の記述から見て取れます。特に箱根宿の衰退の様子はかなり問題となっていた様です。20日の箱根宿の記述には箱根宿に差し伸べられた援助の経緯なども記されていますが、何れも成果が思わしくなく、その経緯に対する完之の苛立ちが見て取れます。

箱根宿ニ入ル。十一時駒左吾左衞門宅ニ到り驛亭ノ景況ヲ聞クニ、關門撤シテ往來少ナク衰微何極ラン。此地高山峻嶺水冷ニ霧深シ。作物更ニナシ、皆三島、小田原ヲ仰ク。百三十戸旅亭凡十戸計ノ外ハ雇夫馬夫ノ類雇錢ヲ目途トスルノミ。行路寂蓼ナレハ忽糊ロニ窘ス。近來料ラスモ洋人ノ屢婦女ヲ携來リ每戸宿ヲ投スルガ爲ニ稍利潤アリ、纔ニ活路ヲナスト。又曰ク稻田畑作渾テ盡力シテ種々經營スト雖ドモ、花開クモ結實ニ到ラス、氣候陰冷異常ナルヲ以也。縱令蘿(蔔)、牛芳等ヲ作ルモ一作ノミニテ跡ハ忽荒蕪トナリ培養手數料計算等當り難シト。予聞テ愀然之ニ久シ。

評ニ曰、箱根宿ハ德川氏關塞ノ爲ニ三島、小田原ノ兩方ヨリ五十戸ツヽヲ移シ、箱根本村ヨリモ移住シ諸侯ノ投宿ヲ要シ、每戸僥倖ニ永逸シ弊習甚多シ。今ニ到テ尙人情舊弊地力ニ食ムノ氣勢ナシ。馬ヲ養ハサルヲ問フ、馬ヲ養フ時ハ行旅ノ負擔ヲ運搬スル、簡便ナル時雇夫困窘スト云フ。自暴自棄ノ心ナラスヤ。今夫地力ヲ食ムノ心アレバ經綸ノ道果シテアルヘシ。埆瘠陰冷ノ地能ハサルト云者ハ蓋シ未夕策ヲ盡サヽルナリ。往古以來用材ノ多キ且梅、桃、櫻、海棠、杜鵑(さつき)花、(款)冬、玉簪花(ぎばつしゆ)等眼前生育シ、蜀葵秋海棠ノ色亦美ナリ。鷄犬相聞へ四時行レ萬物育シ、霧深ク水冷カナル地ハ天下ニ多シ。北海諸國ノ如キ心ヲ用テ經綸スレハ開作日二興ル。此地東山ノ土ヲトリ湖水ノ浅處ヲ埋メ、篠竹アルハ深ク掘起シ嚴冬ニ晒シ乾シ、春時モ取集メ火ヲ放テ之ヲ燒キ、三作ノ蕎麥ヲ種ル。又牛馬ヲ養フニ野草富足ヲ以テ刈草ヲ多ク貯へ厩肥ヲ作り、赤壚赤埴ノ下ニ布キ埋メ山中ノ硫黃土ヲ集メ、本函根山溫泉ノ末流ヲ汲テ之ヲ洒キ、馬鈴薯ハ勿論、雜穀、早稻、疏菜類ヲ作ルベシ。又石灰ヲ焼クベシ。又鷄ヲ多ク養テ洋人ノ需用ニ供シ、鷄糞ハ陰濕ノ地ヲ乾カスノ良效アリ。培養秘錄畜鷄ノ法ヲ折衷スベシ。石楠花ヲ植テ人目ヲ悅ハシメ、漆樹ヲ植ヘ又水冷カナル處ニ山萮菜(わさび)ヲ栽ルモ宜シカルベシ。

又聞ク柏木忠俊縣令トナリテ箱根驛ノ衰微ニ屬シ、逐ニ衣食ニ窮竭シテ退轉スルニ到ルベキヲ憐ミ、三百圓ノ私金ヲ貸付シ馬鈴薯五十俵ヲ買入レ山畑ヲ起シ之ヲ栽ヘシム。然ドモ驛夫等各々雇錢ヲトリ其金モ大抵紛散シ、一旦開發セシモ固ヨリ懇誠ヲ盡サス、忽篠笹叢生シ馬鈴薯モ遂ニ皆無ニ到リ、其後又三百圓金ヲ憫給シ牛ヲ牧セシム。然ルモ其金ヲ帶テ豪然横濱ニ滯留シ、逐ニ南部邊ノ牛ヲ買テ歸ル。前後費用困乏ニ到リ牛ハ借リ得テ歸ルモアリ。之ヲ箱根神社ノ裏山ニ放ツ。氣候ニ慣レス且手入行届カス漸々憔悴或ハ斃ルヽモノアリ、恐レテ他村へ托ス。遂ニハ債主ノ督促シ依テ其牛ヲ返ス等其儘從前ノ自棄自暴、更ニ奮發ノ氣力ナシ。豈輕薄ノ事ナラスヤ。

(332ページより)


以前も記した様に、箱根宿は東海道の継立を成立させる必要から、江戸幕府がお膳立てをして小田原と三島から人やものを運び上げて成立させていた街でした。そのため、その様な時代が終わって自活を求められる様になっても、外部から貸与された資金や種苗などを活着させることが出来ずにいた様子が綴られています。箱根宿の幕末から維新頃の動向についてはもう少し他の史料も宛てがって検証した方が良いと思いますが、少なくとも完之の目には永年こうした外部の援助に頼り切った経営に慣れてしまっているために、環境が変わっても自力で尽力しようという意識が足りない故と見て、まだ他にも作付を試みるべき作物が多々残っていることを記している訳です。

もっとも、耕作適地の有無を別にしても、専ら宿泊や荷継で生計を立てる人々が集まっていた宿場町では、そもそも農地との繋がりの極めて希薄な生活が営まれていたために、土地を耕す能力自体に乏しかった一面もあったのではないかと思われます。実際、仙石原村や宮城野村の辺りの記述では、箱根山中でも農業や山仕事が主体であった地域であっただけに、箱根宿に比べると状況はそこまで悪くはない様に見えます。完之の目には、まだ江戸時代からの農業を維持する以上の生産増強への動きは乏しいと見えていた様で、実際に一部の農家のみが牛を飼っている状況であった様ですが、完之の訪問から5年後の明治13年(1880年)に仙石原で牧場を開墾する許可を求めていることは以前の記事でも出てきました。

進テ壹里半仙石原ニ至ル。此地北山西山屏風ヲ列スルカ如シ、村家ハ山下ニ依リ向陽背陰南面ノ原野一望極リナシ。東南ニ山アリ。本宮山等ノ背面ナリ。滿野ノ牧草皆牛ノ尤喜フ草ナリト云リ。仙石村ハ每戸馬ヲ養ヒ雜穀ヲ作ル。稻種ハ信州ヨリ持來ルト。芝肥厩肥草木灰ヲ用ル多シ。屋根萱モ刈出ス人風古朴、皆是舊政府時分ノ人ノミ牛ヲ牧スル。如何ント云ヘハ他人ノ來り開ヲ待ツノ心卜察セラル。依テ故障ハナシト思ハル。四方熟覽シ東ニ出テ曠野ヲ經テ石逕盤囘シ崎嶇艱難日暮レテ宮城野字ハ木賀ニ至リ松坂屋ニ宿ス。宮城野ハ朝鮮稗靑芋等ヲ路傍ニ見ル多シ。河原ノ石砥質アルカト思フナリ。

(333ページより)


また、元箱根では箱根宿に配給された馬鈴薯を一部分けてもらい、こちらでは成育に成功させていることが記されています。仙石原での記述でも灰を多用していることが記録されていますが、元箱根でも地質を改良するために灰を土に混ぜ込んでいるのが注目されるところで、やはり火山灰土で酸性が強いと思われる土には然るべき対処が必要であったのでしょう。こうした知識はやはりある程度の耕作の経験が裏付けとして必要で、箱根宿にはそうした裏付けがなかったことが差となって現れたのではないかと思います。

畑尻卜唱ヘ小山ノ半腹自ラ畦ノ形狀ヲナシテ篠竹雜草薪料多シ。村家三十戸稍箱根驛ニ勝ル人情他カヲ恃ムノ氣少シクアルナリ。…

評ニ曰、…又川井卯三郎ナル者前年柏木縣令ヨリ箱根宿馬鈴薯付與ノ時、乞テ僅カニ種子ヲ受ケ十分ノ生育ヲ得タリ。其法山草篠竹ヲ芟集メ、火ヲ放テ燒灰トナシ山畑ヲ起シ、精細ニ土ヲ砕キ草木灰ニ人糞ヲ和シ、棒穴ヲツキ灰糞ヲ饒ニ入レ、馬鈴薯四ツ割ヲ壹箇ツヽ埋メ培フタリ。自餘蘿(蔔)、牛芳ヲ作ル。是又能生長ス。早稻ヲ作テ牡丹餅茶屋ニテハ餅ヲツキ近來湖魚ヲトル日ニ多シト。夫結香ヲ作リ馬鈴薯ヲ作リ蔬菜等迄モ經驗アリ。疑ヒヲ入レサルナリ。藥草モ多シ、取テ用ユヘシ。

(333ページより)


何れにせよ、箱根の農業振興が完之や足柄県の政務上の課題の1つになっていたことも、箱根山中で余分に日数をかけた理由の1つに挙げられると思われます。

ところで、元箱根では新たに温泉を引いているのが注目されます。

近況本宮山ノ半腹ヨリ熱泉ヲ引キ、元箱根ニ浴室ヲ開クノ勢アリ。筧竹百六十丁ヲ通シ開業シタリシニ、過日ノ雨ニテ崩壊又近日ニ修理シ愈成業ノ勢ヒ、願人ハ川井卯三郎、菅沼伊平太等銀主ハ靜岡縣士族人見勝太郎ナリト云リ。此地果シテ潤益ノ多キニ到ラン。

(333ページより)

やはり温泉を持っていることが宿泊客誘致の上で強みになるという読みがあったのでしょう。それまで「箱根七湯」と呼ばれていた温泉以外でも、外部からの出資者も巻き込んで湯場を開こうという動きが早くから起こっていたことがわかります。ただ、完之の役職や関心事に温泉はそれほど入っていなかった様で、木賀で宿泊した翌日には小田原までの温泉場をほぼ素通りしており、「日誌」にはごく簡潔にこれらの温泉場が栄えていることを書き留めるのみになっています。また、湯本までの道が温泉客を運搬する人力車のために整備されたことは記していても、その温泉については「溫泉ノ天助ヲ感ス」(332ページ)とひとこと書き付けた程度に留まっています。

幾らかまとまった記述が見られるのが姥子の温泉です。完之は次の様に記しています。

十時頃姥子ニ至ル。此地明礬ヲ製造ス。以前ハ盛ンニシテ今ハ衰フ。此溫泉ノ近傍水流酸氣アリ。溫泉能ク眼病ヲ療ス。又馬病ヲ治ス妙ナリトテ群旅來宿ス。

(333ページより)

箱根の明礬について以前2回に分けて委細を紹介しました。明治時代に入って明礬の精製にかかる労力が見合わなくなって衰退していったのですが、完之が訪れた明治8年時点で既に箱根では明礬精製を殆ど行わなくなっていたとしています。ただ、2年後の明治10年の「第1回内国勧業博覧会」では明礬も出品されていますから、完全に明礬精製を止めてしまっていたと言えるかは微妙なところです。何れにせよ、元は明礬精製に使われていた温泉であるということが、完之の関心を引くポイントであった様です。

また、上記の宮城野村付近の記述の中に、早川の川底に見える石が砥石に向いているのではないかという指摘があります。実際には、この近辺では火打ち石が生産されていたことを以前紹介しましたが、完之が見立てたのはその黒色の石ではないかと思います。小田原付近では製塩の可能性についても記述していた完之は、他にも堂ケ島の辺りで砥石を生産していることを記す(333ページ)など、どうやらこうした鉱物類の産物にも少なからず興味関心を持っていたのでしょう。ただ、この行程で芦ノ湯や大涌谷付近を経由することがなかったためか、あるいは明礬同様にこの頃には既に生産が衰退していたためか、完之の記述の中ではこの地で生産されていた硫黄については触れられていません。

他方、完之が本来植生調査に出かけて来ていたこともあり、箱根山中に生えている樹種や植物については折りに触れて記述されています。
  • 棕櫚樹ノ生木ヲミルニ地質ニ叶フ者卜察セラル。然ドモ餘□作モノモナシ、惜ムベシ。(19日、板橋村付近で:331ページ)
  • 社前ニ到ル。路左二喬樹森立ノ際厚朴ニ類シタル葉俗ニトチノ木卜呼フ。七葉樹也。函山ニ一株ノミト云ヘリ。聞說山西ニハ白苟藥、黃連(わうれん)、結香多シト。山路通シ難タキヲ以テ親シク之ヲ見ス。「コマ木」、「山カハ」、「ビンカ」、「モチノキ」、ネバノ木ノリヲトル諸種アリ。「チフリ」草トテ里人陰干ニシ疝積ノ藥ニ妙ナリト云。(21日、箱根神社付近で:332〜333ページ)
  • 右岸頭ニ異常ノ躑躅異常ノ杉樹アリ。一枝ヲ折取ル。(22日、姥子への向かう船上で:333ページ)

しかし、箱根山中で盛んであった挽物細工については大平台村に木地職が多いことを記しているのみです。また、各種の薬草についても、良く見ると何れも地元の人からの聞き取りを書き記しており、それほど重きを置いて調査している様には見えません。その背景には、完之が近代化を目指していた明治政府の役人のひとりとして、これらの産物を見立てていたことがあるでしょう。少なくとも、江戸時代から地元に伝わる「七湯の枝折」を基本に据えて見繕ったと考えられる「第1回内国勧業博覧会」の箱根からの出品物と比較すると、完之が書き付けたものは若干違って見えてくるのは確かです。その様なこともあって、「新編相模国風土記稿」で取り上げられた箱根の産物でも、上記で取り上げたもの以外には殆ど触れられず、芦ノ湖で鱒や「赤腹(ウグイ)」などを獲っていることを記すのみ(333ページ)に終わっています。

小田原に戻った完之の以降の足取りについては、後日改めてまとめたいと思います。
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