【史料集】「新編相模国風土記稿」津久井県各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の津久井県の各村の街道の記述をまとめます。今回は、各村の項に記されながら津久井県図説には記されなかった道について取り上げます。

まず、甲州街道よりも北側に位置する沢井村と佐野川村の項には「甲州街道の間道」などと称する道が記されています。武州八王子から和田峠を経て相模国に入り、佐野川村と沢井村を経て小淵村で甲州街道に合流する道筋です。一般には「佐野川往還」「甲州裏街道」などと呼ばれていますが、この道は佐野川村の途中で分岐して倉子峠を経て甲州上野原宿へと向かう道筋も知られています。佐野川村の項では関連する地名を含む記述も拾ってみましたが、この中では佐野川〜上野原間の道筋については特に触れられていません。


案下の口留番所跡碑(ストリートビュー
因みに、甲州街道の関所はかつては小仏峠上にあり、後に駒木野に移されましたが、八王子から佐野川往還を経由して上野原方面に向かった場合は、途中の案下の口留番所を経由することになります。この口留番所については「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図会」(リンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」の該当箇所)にも記述があり、村方の持ち分として村民が管理している番所であることを記しているものの、その具体的な運用については記していません。村民が管理する番所では役人が運用する関所と同様の管理は難しいと考えられることと、津久井県内の口留番所が何れも村民以外の通行を原則認めない運用をしていたことを考え合わせると、恐らくは同様に遠方からの通行者を通さない運用であったと思われますが、委細未確認です。

佐野川村の項には、江戸時代以前には同村で継立が行われていたことを証す古文書が存在していたことを記しています。とすると、かつてはより遠方への往来がこの道を通っていたのかも知れませんが、江戸時代には遠方への通行者は甲州街道に集中され、佐野川往還を含むそれ以外の街道は飽くまでも近隣の通行に特化していったことになりそうです。

佐野川往還:津久井県内の各村の位置
佐野川往還:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

残りの道筋は何れも甲州街道よりも南に位置します。まず、青山村の北の端で西へと分岐して甲州道志村まで向かう道について、途上で経由する青野原村と青根村の項に記載があります。この道の名称についてはどちらの項にも記されていませんが、現在の国道413号線にほぼ並行していた道で、一般的には「道志道」と称されることが多いため、ここでも仮にその名称を記しています。この途上にも青野原村に口留番所がありました。

道志道:津久井県内の各村の位置
道志道:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

もう1本は、高座郡側から下川尻・上川尻の市場を通り、太井の荒川番所の辺りで相模川を越えて三ケ木村へと向かい、他の街道と合流する道筋です。「風土記稿」上の各村の記述では「津久井道」などと呼ばれており、他の道筋との区別を付け難いのですが、ここでは便宜上、この道の途上、相洋中学校脇の道標に見られた「久保沢道」の呼称を仮に使用します。この上川尻村の久保沢と、下川尻村の原宿が津久井県内の主要な市として高座郡からも顧客を集める地であり、この道筋はこれらの市へ向かう道筋であったと言えるでしょう。また、かつては中野村の川和が市場として賑わっていたものの、その後この市は廃止されてしまったことが「風土記稿」に記されていますが、恐らくは川和の市は久保沢や原宿に取って代わられたのでしょう。

この道筋には中野村から直接三ケ木村に入る道と、中野村から又野村を経て三ケ木村に入る岐路が存在した様です。三ケ木村内には信玄道が南北に通っていましたので、村内の南と北でそれぞれの道が合流する様な道筋であったと思われます。途上には荒川の渡しの脇に番所がありましたが、ここは相模川水運に対して五分一銭の徴収を行う番所で人改めの機能は持っていませんでした。この道から甲州街道方面に抜けた場合は鼠坂関で、道志道方面に向かった場合は青野原の口留番所で人改めを受けることになります。

久保沢道:津久井県内の各村の位置
久保沢道:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

また、青野原村の記述には村内で鳥屋村方面に分岐する道が存在することが記されています。この道については鳥屋村の項には特に何も記されていませんが、隣接する愛甲郡の記述には煤ヶ谷村や宮ケ瀬村を経由して鳥屋村へと入ってくる「甲州道」が存在したことが記されています。この箇所は愛甲郡の記述との摺り合わせがあまり上手く出来なかったと言えます。

なお、この道は現在の神奈川県道54号に相当する道ですが、明治29年の地形図を現在の地形図と見比べると青野原や鳥屋の分岐点が大分異なることが窺えます。当時の道のうち、特に鳥屋側は既に廃道となっている様で現在の地形図に全く反映されていないため、ここでは「今昔マップ on the web」で該当箇所を示すに留めます。


鳥屋村〜青野原村間の「甲州道」(「今昔マップ on the web」)

津久井県:その他の村道・間道が記された村々
その他の村道・間道が記された村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
その他、津久井県の記述には村道レベル、もしくは精々隣村への連絡道として使われていたと思われる道についても記された村が比較的多く見られます。また、相模川の渡船場についても記述が多く見られ、下記一覧にもその記述を拾いましたが、これらについては解説は省略します。

以上の各村の記述の中には、比較的主要な道筋であっても「隣村への通行」と記す記述も見られ、こうした傾向からは、八王子千人同心が津久井県の街道についてまとめるに当たっては、各村から上がってきた報告を基本的にそのまま採録し、より広域的な交通を担っていたと思われる道をその中から選抜して各村の記述に手を入れる、といった作業はあまりなされなかった様に見受けられます。その点では当時の津久井県内の交通について委細を判断する際には注意が必要ですが、こうした記述が比較的多く残ったことで、当時の街道について少しでも情報を得るという点では他の郡に比べて有意義な一面もあるのも事実です。

今回の地図も何れも明治29年頃の地形図に見られる道路を参考に線を引いています。出来るだけ江戸時代当時に近いと思われる道筋を選んでいますが、判断が付き難い区間は現道に従う様にしています。また、ダムの建設に伴って水没したり、道が廃止されたと思われる区間については凡その線を引かざるを得ませんでした。


街道「風土記稿」の説明
*甲州街道の間道︵佐野川往還︶小淵(おぶち)百十九(四)◯小名 △小淵 △上小淵 △藤野 △上澤井 △關野宿正保・元祿の改に、小淵村の内、關野村と記せり、

※関野宿の西辺りでこの間道が甲州街道から分岐していた筈だが、関連する記述は見当たらない。

澤井村百十八(三)甲州より武州へ往來の間道南北に亘れり、南方小淵村より來り西北の方佐野川村に達す道幅凡六七尺
佐野川村百十九(四)一條の徑路高低盤囘して往來をなせり、甲斐國より武藏國への間道あり南、小淵村より來り、北、國界の峠に達す、是峠の頂上にて、武相經界をなせり、仍て兩國各接する所の地名によりて、頂上より已西は和田峠と呼び、頂上より已東は案下峠と呼べり、御分國已前も往來にて、繼場などもありし事と見へて、今に傳馬屋敷と呼べる遺名あり、里正が所持する古水帳に傳馬屋敷と記せるあり、傳へ言ふ、貢税繇役を免除せられしが、寛文の頃より或は民の宅地となり、或は田畠となりければ、是よりして貢税を上納せしことになりぬ、
◯小名 △和田元祿の改に佐田川村の内和田村と記す、其後村名を省て小名となる △下岩正保の改に佐野川の内岩村と唱しが、其後村名を省て上岩・下岩と分て小名とす、 △鎌澤 △遠里 △橋詰 △御靈 △上川原 △上岩
◯倉子山地名の起審ならず下岩にあり、山上に天神祠を祀る神社部に出す麓より頂まで五町程是より稍高く、曲徑を登ること廿八町、蠶山に至る、◯蠶山古也麻或は神山と書し或は古山と書す、 三國峠に至る中腹にあり、地形頗平坦、石楯尾神社を祀て前社と稱す事蹟神社の條に辨ず、 ◯三國峠正保・元祿の改に三國嶽と書す、今は峠と書す、三國往來の間道あり、武相甲三國接壤の峻嶺なり、蠶山より稍高く、攀登ること廿餘町 頂上に一祠あり、大同年中の造營なりと云ふ、今は小石祠なり事蹟神社の部に辨ず、 …◯和田峠 武相經界の峠なり、陟降二十町許縣内にては和田峠と呼ぶ、多磨郡恩方にては案下峠と呼ぶ、兩國各接する所の地に因て呼べり、武藏國より甲斐國へ間道の一條是に由る道幅三四尺より五六尺に逮べり
*道志道靑山村百二十一(六)一條の道係れり、東方上長竹村より來り、乾方三ケ木村に達す、村内に係る事凡三十町路幅八九尺より二間に逮べり、村の中程より岐して坤の方へ一條係る道幅凡前に同じ、是は鳥屋村に達す皆隣村への通路なり、

※この2路の記述はどちらも道志道には該当しない。青山村の北辺あたりで信玄道から分岐していた筈。

靑野原村百二十一(六)一條の路係れり、高座郡邊より甲州への間道なり、東方靑山村より來り、西方靑根村に達す、村内に亘る事凡一里半、此往來に口留の關所あり、關より已東三町許にして路兩岐す、巽行すれば鳥屋村に至る、
◯小名 △西之野 △靑野原 △長野 △梶野 △前戸 △燒山嶽 △靑根村鳥屋村及び當村接壤の境上にあるが故に各村の條に載す、
◯口留番所小名靑野原にあり 高座郡邊及び縣内より甲州都留郡道志村への往來なり、近鄕の木こり・草刈・耕作人の外は不通の番所なり、村民代るがはる是を守る、
靑根村百二十(五)一條の通路係れり西方甲州都留郡道志村より來り、東方靑野原村に達す、當村に亘ること一里半餘、道幅四五尺より六尺に餘れり、
◯板橋二 共に道志川に架す、其一は宮澤橋長六間幅六尺其一は湯口橋長八間幅六尺

※牧野村の項で指摘する南北の道筋に連なるものと思われるが、この橋を渡ってきた道が道志道と接続する筈の区間については記されていない。

*久保沢道下川尻村百二十三(八)村内に(ママ)條の道あり道幅凡二間、東方高座郡上相原村より來り、村内を經る事九町許にして上川尻村に達す、茲に原宿と云へるは村の東偏にて一區をなし編戸の民相對して軒を並ぶる事、四十四戸、往古より市を立て米穀及び庶物を賣買すること久保澤と相對抗して每月七の日を定日として市を立てり頗る賑はへり、縣中の村落この兩地の如くなるはあらす、人物も亦西偏山村の風俗とは同じからず、
◯小名 △原宿 △本鄕 △砂 △町屋 △小松 △雨降 △穴川 △風間 △瀧尻
上川尻村百二十三(八)村内に一條の道津久井往還にて、甲州への通路なり東西に亘れり、東方下川尻村より來り、村内を經ること廿四町にして西方中澤村に達す道幅凡二間、小名久保澤の一區には民戸相對して軒を並る事五十、是所には古ヘより市を立て米穀及び庶物を賣買す每月三の日を定日とす是故に近隣の村々より群聚していと賑はへり、縣の東偏に在て頗る打開けたる村からなり、人物も亦西偏、山村の風俗とは異なり、
◯小名 △畑久保 △尻無澤 △谷ヶ原 △向原 △久保澤 △小松 △町谷 △雨降阿女夫良之
◯相模川 村の南界を流る、西方中澤村より來り、東方高座郡大島村に達す、水路凡廿五町川幅五十間程渡船場あり、明王坂下より小倉村に渡す、是を小倉の渡と呼ぶ、卽小倉村の持なり、

※小倉の渡しは津久井往還に含まれるものではないが、小倉村側の記述との整合性があるため、ここに書き出した。

上中澤村・下中澤村百二十三(八)上下に分て二村となるといへども、田園山林及び民家共に駁雜して聢と經界を分ち難ければ、上下二村をすべて茲に綴るもの一村の如くす…一條の路係れり、東方上川尻村より來り西方太井村に達す、村内に亘ること十三町道幅凡二間、是は津久井街道にして甲州への通路なり、
◯相模川 村の南界を流る、西方太井村より漑ぎ來り、東方上川尻村に達す、村内を經る水路凡十三町川幅凡四十間、渡船場あり、荒川の渡と云、是は太井村、當村と二村の持なり、旣に太井村の條下に辨ぜり、又此川に架する土橋も亦當村と太井村二村の持なり、是亦太井村の條下に辨ぜり、

※太井村の記述から考えて、土橋は冬季の仮橋のことか。

太井(おおい)百二十三(八)一條の路係れり、東方中澤村より來り、西方中野村に達す、村内を經ること十町許道幅二間程、是は津久井街道にて甲州への通路なり、
◯小名 △小網組 △荒川組正保の圖に、太井村の側に、荒川村と別村に出せり、今は小名に屬す、 △北根小屋組
◯相模川 西方より北東を流て村界をなす、西方中野村より來り、東に斜に巽に至り小倉村に達す、水路屈曲して一里四町程、渡船場一所、荒川より中澤村に達す、是を荒川の渡と呼ぶ此渡船、當村、及び中村澤(ママ)の持なり 冬より春までの間は土橋を架す、長六十間、幅九尺、此橋の用具は、根小屋村・長竹村・靑山村・鳥屋村・靑野原村・靑根村・中野村・三ケ木村・寸澤嵐村・若柳村・三井村・又野村・上川尻村・下川尻村、十四ケ村より出せり 津久井街道にして甲州への通路なり、此渡船場に通船二艘あり、當國須賀浦に達す當村より須賀浦まで水路八里半
◯荒川番所 五分一運上取立の番所なり六畝廿一歩の地を除す相模川に臨て立てり、凡材木炭薪船筏ともに五分一の貢賦を此所にて收む、御代官手代一人、下役二人こゝに居て其事を掌どる、
中野村百二十一(六)一條の街道東西に係れり、甲州への往來なり 東太井村より來り、西、三ケ木村に達す、村内に亘る事十六町三十間道幅九尺街道の東寄りの小名を川和と呼ぶ、此所は民家相對して軒を並ぶ事八十二戸、往昔は每月六度の市を立て、世に所謂川和縞其外庶物を交易して土地も賑はひしが、延享年中より市廢して今は寂寥たる村落なり、

※この後に「川和絹」の記述が続くが省略。

◯小名 △森戸 △川和 △上之山 △奈良井觀音堂にある古記に、上奈良谷とあるは、此地なるべし、 △大澤 △川坂 △不津倉
又野村百二十一(六)一條の道係れり東方中野村より來たり西方三ケ木村に達す、村内に亘ること十町餘道幅二間程、卽是津久井街道にて甲州への通路なり
◯小名 △坊海戸 △麻加土萬賀止 △西海戸 △中原 △下向 △上向
三ケ木(みかぎ)百二十一(六)當村には縱横に數條の道係れり、凡縣内四方の往來津久井街道と唱へ、甲州への通路なり、皆此里に由らざるものは寡し、先其槪を謂はゞ南北に亘る大路は南方靑山村より來たり、村北に至て東西の一條に合す、村内を經る事十七町許道幅二間程、即其東西の一條亘り九町程、も皆隣里への往來なり東方は又野村に達し、西方は道志川を渡て、寸澤嵐村に達す、
*甲州道鳥屋(とや)百二十一(六)村田に坂峠はなけれども、縱横往來する所の通路、高低曲折不平の土地なり、

※街道についての明記はないが、愛甲郡図説に従えば南方から宮ケ瀬村を経由してきた「甲州道」が入ってくる筈。この道はそのまま北へ抜けて青野原村に入り、道志道に合流する。

靑野原村→上記道志道の同村の項参照
※その他の村道

間道
牧野村百二十(五)二條の通路係れり、其一は西方甲州都留郡より東方寸澤嵐村に達す、村内を經る事二里餘道幅四、五尺(ママ)より六尺に餘る其一は北方日連村より南方靑根村・靑(野)原村に達す、村内を經る事二里十町餘道幅三四尺より五六尺程、

※雄山閣版では冒頭の「二條」の2字が欠落。鳥跡蟹行社版を参照して補充。

◯道志川 西方甲州都留郡、秋山村より沃ぎ來り、東方寸澤嵐村に達す、村内を流るゝこと凡三里許川幅十間より十四五間に及べり…◯橋六 道志川二條の流に架して村間の通路とす、皆木橋なり、其一は長二十間餘幅五尺、其一は長二十間餘幅六尺、其一は長十八間幅五尺、其一は長八間幅五尺、

※南北方向の道筋は南で青根村に入って道志道と交わると思われる。

三井(みい)百二十三(八)◯相模川 村南に緜聯して隣界をなす、西方千木良村より漑ぎ來り、東方中澤村に達す、村内にかゝる水路一里廿二町に餘れり、渡船場あり、川坂の渡と呼ぶ、當村より中澤村への通路の渡なり、又當村に通船二艘あり、大住郡須賀浦に達す、

※街道に関する記述は特になく、隣村へ渡るだけの渡と思われるが、念のために書き出した。

小倉(おぐら)百二十三(八)村内に一條の道係れり、北上川尻村より來り、西根小屋村に達す、村内を經る事、凡十町道幅六尺
◯相模川 村の北端を流る、西方根小屋村より來り、村に係ること凡一里川幅四十間、東南に流て葉山島村に達す、渡船場あり、上川尻村に達す、是を小倉の渡と呼、卽ち小倉村の持なり、按ずるに相模川の渡津多しと云へども小倉の渡の如きは寡し、いと打開けたる場所にて北岸には明王阪及び明王瀧の佳境あり、南岸には小倉の里及び小倉山の地形を眺み、爾して中流の一水渺々として素練を牽が如く、數十里の間に緜遽たり 岸に繫げる舟も渡舟の外或は通船厚木及び須賀浦に達す或は材木筏などこゝかしこ往來に漂漾せり、
葉山島村百二十三(八)唯小徑一條三增村に達するの外佗の往來なし、西方に接する小倉村境の如きは亘嶺嶮岨或は盤巖重疊して行路難し、或は巖に架し、或は谷を鑿し、墻屋接聯せり、
◯相模川 村東の界を漑ぐ、乾方小倉村より來り巽の方愛甲郡角田村に達す、村界を流るゝ事廿五町に餘れり、渡船場二所あり、其一は下倉渡と呼、高座郡大島村に渡す或は神澤渡と呼ぶ其一は下河原渡と呼、高座郡田名村へ渡す共に當村の持なり、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は津久井県中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「津久井県図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。





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