【史料集】「新編相模国風土記稿」津久井県各村の街道の記述(その2)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の津久井県の各村の街道の記述をまとめます。今回は、津久井県図説に記された残りの2本の街道について検討します。

図説の記述をまとめた際にも、この残りの2本の道筋が一部区間で重複している様に見えることを指摘しました。各村の記述を拾いながら該当するものを探していくと、この図説の記述に合わせて2つの道筋を特定するのがかなり難しいことが見えてきます。

まず、津久井県図説の一覧にも書き足した通り、2本目の道の記述に「都留郡小淵村」という明らかな誤記があり、これをどう解釈するかが問題です。どちらかと言えば「小淵村」の方を正と考えて「都留郡」が誤りと判断するのが良さそうに見えますが、その場合は次の「信玄道」と大半の道筋が重なっていることになる点が若干不自然です。今回は差し当たりこちらと解釈しましたが、他方で、「都留郡」の方を正と考えて「小淵村」の方を他の村と取り違えた可能性も考えられなくもありません。その場合は、例えば道志村方面への道を指したと解釈することも可能ですが、志田峠からの道筋を道志村方面と結び付けて見るのが適切かどうかという課題があります。


志田峠と三増峠の位置(「地理院地図」より)
何れにしても、2本目の道には「志田峠」、3本目の道には「三增峠」の名前が見えていますが、この2つの峠の間は1km少々しか離れておらず、2つの峠を越えてきた道は長竹村の中で合流しているのは確かです。それにも拘わらず、これらの道を共に津久井県図説で主要な街道の1つとして取り上げた意図は今一つ見えないところがあります。

一方、3本目の「信玄道」では経由する村の名前が書き連ねてあることから、この道筋を特定するのは比較的容易です。しかし、日連村の次に名倉村の名前が記され、そこで相模川を渡って甲州街道の上野原宿へと向かうとしている点は、長竹村の項で日連村からは吉野宿へ向かうとしている点と噛み合いません。この「信玄道」の名前は永禄12年(1569年)の武田信玄の相州侵攻時の進軍ルートになったことに由来しており、「風土記稿」中でも幾度となく「甲陽軍鑑」の名前や引用が顔を出します。特に長竹村の「三増峠」の項にはここで起こった戦いの一部始終が長々と引用されているのですが、首実検を行った反畑(そりはた)から先の道筋については触れられていません。ただ、当時の主要な道筋と考えられているのは丹田前の渡しを経て吉野宿へ渡る、長竹村の項に記されている道の方です。

天保六年津久井県地誌捜索廻村経路
天保6年の千人同心の
津久井県地誌捜索経路(再掲)
(「八王子千人同心の地域調査」所収)
この問題を考えるために、津久井県を担当した八王子千人同心が、その取材の過程で書き残したものに手掛かりを求めることにしました。天保6年(1835年)に津久井県内を巡回した折の記録である「築井鑑」を元に模式的に起こしたルート図は以前(あゆ)」の表記を巡って津久井県の部の成立の経緯を見た際に紹介しました。この図に記された日付に見られる様に、一行は各村を極めて手際よく巡回し、1日に1〜2村を訪れていますから、当然ながら当時の津久井県内の道筋を念頭に全ての村を訪れる順番を予め決めて出発したに違いありません。言い換えれば、この千人同心が進んだルートには多少なりとも使える道が存在した筈です。

ここで、千人同心一行が3月5日から7日にかけて辿ったルートを見ると、佐野川村から小淵村へと降りて来た一行は、甲州街道を関野宿から藤野へと東へ向かい、そこから相模川を越えて名倉村に入って一泊しています。そして、翌日には葛原を経て日連村へと歩を進めています。津久井県図説で「信玄道」として記された道筋はこのルートに当たります。あるいは、図説を記す際にこの時の記憶が念頭にあってこちらを「信玄道」と記したのかも知れませんが、少なくとも名倉村の項には対岸との渡しについては記述があっても、この村を経由する街道についての記述はありません。

ここで考えるべきなのは、それぞれの記述がどの道を指しているかを同定しつつ、「風土記稿」編纂当時の各街道の様子が実際はどうであったかを洗い出すことなのですが、今回は「風土記稿」以外の史料をあまり確認出来ていないため、飽くまでも暫定的に過去の地形図などを頼りに該当しそうな道を選び出して並べたものと考えて下さい。今回の検討では、実質的に図説のこの2つの街道は大半が同じ道筋を指しており、通過する村はほぼ同一ということになりました。名倉村と対岸の小淵村についても末尾に追記しましたが、名倉村には関連する記述がなく、該当する土橋の項にも隣村への通路という表現がなされていて、村側としてはこの道を遠方へ向かうための街道とは見做していなかった模様です。また、青山村にも同様の記述が見られ、村によって道筋に対する見方が異なっていたことが窺えます。

津久井道・信玄道:津久井県内の各村の位置-2
津久井道・信玄道:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

今回のこの地図は、「今昔マップ on the web」上で明治29年の地形図を参照して該当しそうな道筋を推定して作成しました。一部相模湖や津久井湖の影響で水没した区間があり、更に明治29年時点でも既に道を付け替えたかと思われる箇所もあり、飽くまでも凡そのものであることを御了承下さい。

街道「風土記稿」の説明
﹇津久井道﹈

信玄道
長竹村百二十二(七)一は巽方志田峠より西方靑山村に達す、村内を經る事凡三十町道幅二間程、其一は同く巽方より來る一條、石ヶ澤にて兩岐し、乾の方に亘り北方の根通りを經て根小屋・靑山兩村の間に達す、村内を經る事三十三、路幅狹小にして通行難し、是を古街道と唱へ或は信玄道と呼ぶ信玄道は當村より西方靑山村・又野村・三ケ木村に至り、道志川を渡り、寸澤嵐村若柳村反畑鼠坂の關に係り、夫より日連村を經て、吉野宿に至る、永祿十二年十月武田信玄諸軍を引率して小田原城を攻敗り凱陣する時、小田原方の諸將二萬餘兵三增峠に出張して合戰に及べり、其時甲軍大に勝利を得て、三千二百六十九級を獲て是路よりして西向し、寸澤嵐村反畑に於て首實檢を執行ひ、甲陽に凱陣する是其古道なり、
◯小名 △二郎根仁呂宇禰【甲陽軍鑑】韮尾根に作る、 △稻生伊奈布 △沼 △石ヶ澤 △喜登宇豆久
◯志田峠 御林山なり反別六十七町六反陟降凡七八町許愛甲郡厚木荻野邊より縣内往還の峠なり、道幅凡二間、 ◯三增峠 是峠志田峠より東方に續き同じく御林山なり陟降前に同じ志田峠三增峠の間に小徑あり、中の峠と云ふ此邊おしなべて志田山と唱へ、長松茂生し嶮岨崔嵬萬木灌叢せり、其間凡一里許、三增峠は當村と愛甲郡三增村の間に接したる境上の峠なり、三增村は峠已東二十町許にあり、是邊はおしなべて永祿十二年十月武田信玄の諸軍、北條氏康が麾下の諸將と合戰せし所にて世に所謂三增合戰の古戰場これなり按ずるに【武德編年集成】に曰、…

※以下「甲陽軍鑑」等から三增峠の合戦に関する引用が特に長く続き、関連する小名との照合が仔細に行われているが省略。

根小屋(ねこや)百二十二(七)一條の道係れり、南愛甲郡三增村境より北方太井村境に達す、村内に亘る事一里十一町路幅五六尺より一條に餘れり、小田原より甲州への通路なり、

※現在の町名では三増峠と直接接しているのは相模原市緑区根小屋だが、当時は志田峠や三増峠が御林山として長竹村の属とされていた。ここで記されている道筋は部分的に信玄道とされている道筋と重なっているが、途中から太井村への道と分岐することになる。

靑山村百二十一(六)一條の道係れり、東方上長竹村より來り、乾方三ケ木村に達す、村内に係る事凡三十町路幅八九尺より二間に逮べり、村の中程より岐して坤の方へ一條係る道幅凡前に同じ、是は鳥屋村に達す皆隣村への通路なり、
三ケ木(みかぎ)百二十一(六)當村には縱横に數條の道係れり、凡縣内四方の往來津久井街道と唱へ、甲州への通路なり、皆此里に由らざるものは寡し、先其槪を謂はゞ南北に亘る大路は南方靑山村より來たり、村北に至て東西の一條に合す、村内を經る事十七町許道幅二間程、即其東西の一條亘り九町程、も皆隣里への往來なり東方は又野村に達し、西方は道志川を渡て、寸澤嵐村に達す、
◯小名 △野尼 △原替戸 △二本木 △新宿
◯道志川 村の西界を流る、西南間靑山村より來たり水路三十町許にして相模川に入る川幅十間より十二間に至る渡船場津久井街道西行して甲州に至るあり、落合の渡と呼ぶ或は沼本の渡と云ふ、寸澤嵐村に渡す、當村及び寸澤嵐村の持、

※現在の町名「三ケ木」は「みかげ」と読むが、「風土記稿」ではこの村の読みを「美加岐牟良」と記しているところから、左の読みもこちらに合わせた。

寸澤嵐(すあらし)百十七(二)當村もと若柳村と一村にして其後いつの頃にか分村せり【小田原役帳】に、若柳を載せて、當村を闕く、されば村の起立は若柳村と同じき事知るべし、山林田野及び民家共に兩村駁雜せり、是故に里務は總て一體にすと云、…村の方量、及び四境共に若柳村の條に辨ず、
◯小名 △鼠坂禰牟佐加 △山口 △沼本 △道志 △增原 △關口 △舘 △南畑 △新戸
◯道志川 村の東界を漑ぐこと一里半許、南靑野原村より來り東流して村内落合川原にて相模川に入…渡船場一所道志川落合にて渡す、當國厚木通り、吉野宿へかゝり、甲州への往來なり、冬より春の間は、假橋にて渡す、長二十間、幅五六尺、 ◯反畑 街道の南傍にあり、一區の麥田なり、其間に首塚三あり、一は周匝七八間高一丈餘、上に淺間祠を祀る、松及び雜木叢生す、其二は周匝二三間、高七八尺【甲陽軍鑑】反畑を曾利畠に作、武田信玄小田原の諸將と三增峠の戰に勝利を得て、討取所の首級を此處に於て實檢に備ふと云傳ふ【甲陽軍鑑】に云、…

※現在の町名は「すわらし」と読むが、左の村名の読みは「風土記稿」の「須阿良志」の表記に合わせた。街道に関する直接の記述はないが、表記からは若柳村の項参照の意で略したものと考えられる。道志川の記述には鮎漁についての解説が長いため、その部分は省略した。

若柳村百十七(二)當國小原邊より甲州への往來の街道一條係れり、東寸澤嵐村の内、沼本より西寸澤嵐・若柳兩村駁雜の地、鼠坂川原まで一里半餘 道幅凡二間程、按ずるに、永祿十二年、武田信玄、三增峠の合戰に勝利を得て、是路にかゝり、凱旋すと云ふ、
◯小名 △若柳 △奥畑 △阿津 △鼠坂當村と、寸澤嵐村に駁雜すれば兩村の條に載す、
◯鼠坂關【名寄帳】には、口留番所と記す、當村と寸澤嵐村の民代る代る是を守る、村民芻蕘の外、他の往來を許さず、 ◯人改所是は鼠坂關の脇、相模川の水路に據て設たり、甲州及び縣内、總て西方より積み出す、賣買荷船、或は筏、上は乘のもの、往還するを改む、里正是を管せり、 ◯相模川 北方村界を流ること一里二十町に餘れり、西方日連村より來り、東方寸澤嵐村に達す川幅凡二十四五間
日連(ひづれ)百二十(五)◯小名 △杉 △勝瀨 △靑田 △新倉 △日連
◯相模川 村の北界を屈曲して東流す、西方名倉村より來り、東方寸澤嵐村に達す、村内に亘ること三十二町、渡船場二所、其一は勝瀨渡と呼、與瀨宿に渡す、其一は丹田前渡と呼、吉野宿に渡す勝瀨より以西五町許、丹前の渡あり、彼と是と二瀨越と呼、甲州街道の捷徑、間道なり、

※津久井道・信玄道に関する記述は見られない。

吉野宿百十八(三)◯相模川 村の南端を流る、西方小淵村より來り東方與瀨村に達す、村内を經る水路十五町、渡船場一所、當宿より日連村に渡す、是を丹田前渡と呼ぶ甲州街道の捷徑なり 旣に總說に載す、

※津久井道・信玄道がこの渡船場を経由してくることに関する記述はない。

名倉村百十九(四)◯相模川 村の北界を東流すること三十町餘、西方甲州都留郡鶴村より來り、東方日連村に達す川幅凡四十間餘、 ◯秋川 水源は甲州都留郡秋山村より漑ぎ來り、南方牧野村と當村の境を經ること三十二町餘川幅廣狹ありて凡十間餘、 ◯土橋二 各秋川に架す各長六間幅三尺、一は牧野村に達し、一は日連村に達する通路なり、

※街道に関する直接の記述は見られない。また、相模川の渡し場についても記述がない。

小淵村百十九(四)◯相模川 村の南界を東流すること二十丁餘川幅三十間餘、渡船場あり、押尾渡と云名倉村へ達す、當村の持なり、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は津久井県中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「津久井県図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。





追記(2016/04/26 18:40):一覧に根小屋村を追加し、地図を差し替えました。
(2017/05/14):青山村の記述に信玄道に該当しない道筋についての記述が含まれているため、該当する部分を強調表示に変更しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- ナラタオートサービス - 2017年05月10日 20:07:20

一條の道係れり、東方上長竹村より來り、乾方三ケ木村に達す、村内に係る事凡三十町路幅八九尺より二間に逮べり、村の中程より岐して坤の方へ一條係る道幅凡前に同じ、是は鳥屋村に達す皆隣村への通路なり、
これは、グーグルマップの35.571512, 139.236065

Re: ナラタオートサービスさま - kanageohis1964 - 2017年05月11日 14:10:12

コメントありがとうございます。

御指摘の箇所は青山村の記述の津久井道の本道の方を指しておいででしょうか。作図ではあまり明確に見えないかと思いますが、「津久井道・信玄道:津久井県内の各村の位置」の図上の線は青山付近ではほぼ国道412号線を通っており、御指摘いただいた地点を通っております。

他方、文中に岐路として書かれている鳥屋村への道は、村の中程から「坤(南西)」への分岐とあることから、御指摘の地点ではなく宮前付近から南西に向けて分岐する、現在の県道513号線に当たる道を指しているかと思われます。これは(その3)で青野原村から鳥屋村への道と併せて一覧に含めるべきでした。:

- ナラタオートサービス - 2017年05月13日 21:10:33

私は武田信玄が通った道を知りたくて連絡した次第ですが
もし自分がその時代のその場に立った時にその道の方角を記すと思います
よって
貴殿の仰る方角は、ちょっと違う気がします。一條の道係れりグーグルマップ 35.566114, 139.246292、東方上長竹村より來り、乾方三ケ木村に達す、村内に係る事凡三十町路幅八九尺より二間に逮べり、村の中程より岐して坤の方へ一條係る道幅凡前に同じ、是は鳥屋村に達す皆隣村への通路なり、それではどこに向かっていたのでしょうか
武田信玄は グーグルマップ35.570608, 139.239452を通っている事になっています。この場所ですと合点がいくと思われますが
如何でしょうか。

Re: タイトルなし - kanageohis1964 - 2017年05月14日 11:16:20

再びコメントありがとうございます。

「一条の道係れり」は「村の中程より」以下には掛かっていません。そこから「鳥屋村に達す」までは別の道のことを書いており、それら2本の道を差して「皆」と受けている訳です。信玄道に拘っていらっしゃる様ですが、鳥屋村への道は信玄道とは別の道のことを言っています。

その点が明確になる様に、信玄道に該当する記述のみ強調表示に変更しました。

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