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【史料集】「新編相模国風土記稿」津久井県各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回から津久井県の分に取り掛かります。

「風土記稿」の津久井県の部を担当したのは昌平坂学問所ではなく八王子千人同心で、この部は天保7年(1836年)に成立しました。残りの郡のうち高座郡と三浦郡の部は一旦天保3年と5年に成立しているものの、この2郡の部は後に天保11年に改訂を受けますので、津久井県の部は同じ天保7年に成立した足柄下郡の部と共に「風土記稿」の中では実質的に最初期に成立したことになります。このため、津久井県の部の記述は他の郡の記述とは若干文体や構成に違いが見られることを「凡例」に記しています。

津久井県の街道の記述では、他の郡の記述に比べると叙述的な傾向が強まり、また比較的詳細な記述がなされている項が増えています。また、街道の景観についても「攢峰繚繞(さんぽうりょうじょう)」といった、漢詩の様な表現によって記されている箇所が幾つかありますが、実際にこの「風土記稿」の編纂に際して県内各地を巡回したひとりである塩野適斉が、その道中で見た景観を「津久井県紀行詩集」という漢詩集(天保6年・1835年)にして昌平坂学問所に提出しています。「風土記稿」の記述にも、こうした千人同心の文学的側面が顔を出したと言えるかも知れません。

記述が他の郡に比べて多少長いため、今回は「甲州街道」の分のみを取り上げます。御存知の通り、江戸時代の所謂「五街道」の1本ですが、幕府の道中奉行が作成した「甲州道中分間延絵図」や「甲州道中宿村大概帳」をはじめ、江戸時代には「甲州道中」と記されることが多かった中で、津久井県図説では「街道」という表記を用いており、各村の記述でも「道中」ではなく「街道」という表記が使われています。「津久井県紀行詩集」でもやはり「甲州街道」という表記が見られることから、千人同心の間では一般にこちらの表記を用いていた様です。この文中では以降も「風土記稿」に合わせて「甲州街道」と表記します。因みに、「風土記稿」中の昌平坂学問所が担当した箇所では結果的にこの街道について触れる箇所が存在しないため、学問所としてはこの道をどの様に表記していたかは「風土記稿」からは判断出来ません。


東海道についてはあらかじめ各宿場の継立についての記述を別途まとめた経緯もあったため、各郡の街道の記述をまとめる際にはそれ以外の記述をまとめる格好になりました。甲州街道の各宿場の記述でも継立についての記述が長くなっていますが、今回はそれらを分離せずにまとめてあります。因みに、小原宿は本来与瀬村の内に属していますが、1つの村に2つの宿場が存在するという、相模国内の他の宿場では見られない形態となっているためか、この小原宿の項は与瀬村の項からは独立して記述されています。

「風土記稿」では勝瀬と丹田前の2つの渡しを経由する「二瀬越え」についても、甲州街道の本道ではないとしながらも多くの旅人がこの道筋を利用していることを踏まえ、甲州街道の脇道として記述しています。この道筋については以前「慊堂日暦」を取り上げた際にも紹介しました。ここではこの勝瀬の集落についての記述を含む日連村の項を甲州街道の一覧に含めることにしました。

甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

この地図の作成に当たっては、umegoldさんの一連の「甲州街道」の動画を全面的に参考に致しました。沿道の様子についてはこれらの動画で大変仔細に検討されていますのでそちらに委ねます。

なお、現在は相模湖の底に沈んだ勝瀬集落付近の道筋を現在の地形図上に精確に再現するのは非常に困難なため、上記の地図ではごく模式的な線のみを記し、より精確には「今昔マップ」で遡れる明治29年の地形図を見ていただくことにしました。「二瀬越え」は確かに与瀬宿と吉野宿の間を短距離で結ぶ道筋であるため利用者は多かった様です。但し、与瀬の宿場が乗る河岸段丘と相模川の川原の標高差はおよそ70mほどにもなり、吉野宿は与瀬宿より若干標高が低いもののそれでも川原とは50mほどの標高差があり、これらの宿場から川原へ降りる道筋はつづら折りの細道になっています。以下の地形図では小縮尺故にこのつづら折りの道筋が充分に描き出せていない様ですが、渡し場を2ヶ所も通過することになる上にこの急坂を上り下りする区間が大通行に向かないために、主要道である甲州街道の本道としての指定は受けなかったのでしょう。


日連村勝瀬付近の明治29年修正の地形図
吉野駅から東へ向かう道の途上の渡が「丹田前の渡し」、勝瀬から与瀬駅へ向かう道の途上の渡が「勝瀬の渡し」
勝瀬から東南へ向かう道の途上に「鼠坂関」がある
(「今昔マップ on the web」より)


街道「風土記稿」の説明
甲州街道千木良(ちぎら)百十七(二)甲州街道一條係る道程、東、小佛峠より西、板橋まで凡二十二町、道幅六七尺より二間程にも及ぶべし、
◯小名 △赤馬阿古宇麻 △宿村 △中村 △西 △原 △底澤與瀨村と駁雜す、仍て兩村に載す、按ずるに【小田原役帳】に、そく澤と見えたるは、卽此底澤のことなるべし、
◯小佛峠武州多磨郡上長房村の内小佛宿の西偏にあり 武相二州境界の峠なり、甲州街道の一條及び小徑を隔てゝ國界とす、往昔は頂上に關ありしが是を小佛關と呼ぶ、或は富士見關と稱す、夫より少しく北に寄り、景信山と唱て、一區の地あり、北條氏照家臣、横地監物景信が、警備せし構への跡なりと云ふ、或云、八王子城滅亡の後、甲信警備の爲に千人隊も、爰を守りしなど云へる舊說あり、又曰大神君の台慮に、千人衆を以て、是險阨を守ば、千秋萬歳の後、たとひ西軍大敵、寄來ることありとも、三日は支ふべし、其間に東都に注進せば、玉川を渡らすまじと、のたまひしと云ことを、古老の口碑に言傳へり、斯ある故にや、千人隊を八王子に移されて、堡鄣となし玉ふこと、亦宜ならずや、 御入國の後今の駒木野に移せり駒木野は小佛峠を去こと、一里許東方にあり、是所より峠の頂に上る、折坂盤回せり、 此所は甲州口の險阨にして實に一人隘を守れば、萬夫向ふことなしと謂つべき要樞なり、【武德編年集成】に武田家の小人頭、原・萩原・石坂・志村・河野・山本・窪田等に、堪忍分を被下、武州八王子口に住せしめ、甲州境小佛口を拒しめたまふ、今千人頭是なりと見えたり、陟降一里半許、坂路曲折その數を知らず、北は案下山より檜原山、大菩薩峠に連り南は日連牧野の諸山より大室山・足柄山・箱根山のつゞく、其他攢峰層巒査渺乎として聯緜せる體勢は天賦自然關左八州の隔關天下の要樞、それ茲にあらずや、物茂卿が小佛嶺の詩に實景を陳るもの然り、其地形推て知るべし物茂卿が詩に曰、…
小原(おばら)宿百十八(三)與瀨村に屬す、江戸より十六里、往古より分れて一區の宿驛となる正保及元祿の改にも、與瀨村の内、小原村と見えたり、西方與瀨宿を距ること十七町、東方小佛宿を去ること一里廿四町に餘れり、小佛峠の國界に連て一條の往來東西に亘れり道幅二間程、(ママ)六十一、東西廿三町餘南北一里 甲州街道の繼場なり西方吉野宿へ一里十七町を繼ぐ、東行する者をば本村與瀨宿にて繼ぐ、片繼の驛なり、人馬定額、及び加宿鄕、加助鄕のことは、與瀨村の條下に辨ず、因て村高四石九斗四合地子免除せらる、宿驛の所民家相對し軒を並ること廿九、頗る打開けたるやうなれども北の方は小佛峠の嶮岨に續て攢峰繚繞せり、
◯小名 △中野組 △底澤組【役帳】に、一貫二百文、そく澤荒地と見えたるは此地なるべし、 △美女谷舊說に、往昔是處より美女出でければ、遂に地名となると云ふ、今其事實を探るに詳なることを知らず、
◯橋三皆甲州街道の往來に亘せり 其一は板橋にて長七間幅二間當宿と千木良村境の溪流に架す、昔は官造なりしが今は千木良村と當宿にて修造す、其一は小手澤橋長六間幅二間驛西の溪流に架す、其一は樋谷路橋長五間幅九尺驛北の溪流に架す、
與瀨(よせ)百十八(三)甲州街道の一條東西に亘り道幅七尺以上三間に及べり民家相對して軒を並ること八十八、是所を與瀨宿と唱へて繼場なり、西方吉野宿へ、道程一里、東方小原宿へ、道程十八町、小佛宿へ二里五町なり、斯く云る、繼場の順なれども西行する者をば、小原宿より吉野宿に繼ぎ、東行する者をば、與瀨宿より小佛宿へ繼ぐ、一村中に兩驛あれば互に其煩を除くものか、小佛宿は武州多磨郡に屬せり、傳馬屋敷五石一斗九升六合、地子免除せらる、起立は慶長元和の頃より繼立せしと云傳ふ、人馬の數は廿五人、廿五匹を出すを以て定額とす往年千木良・若柳・寸澤嵐の三村は、助鄕、太井・中澤・根小屋・靑山・上川尻・下川尻・三井・長竹・小倉・葉山島・高座郡相原の十一村は、加助鄕なりしが、文政七年より三十年間前に所謂助鄕の三村は、加宿鄕となり、加助鄕の十一村は代助鄕となれり、當宿と小原宿は一村中にて、東行する者をば與瀨宿にて繼ぎ、西行する者をば小原宿にて繼ぎ、片繼の宿驛なれば、人馬定額及び加宿鄕代助鄕の村々は兩驛に及ぼす、
◯小名 △横道組 △橋澤組
吉野宿百十八(三)元祿の改に、吉野村と書せしが、寛政中より吉野宿と書せしと云、…甲州街道の宿驛にして一條の大道、東西に亘り道幅凡二間、民家軒を並べて相對すること三十東、與瀨宿へ繼ぐ、道程一里、西、關野宿へ繼ぐ、道程廿六町傳馬屋鋪三石九斗八升九合、地子免除せらる、いつの頃より繼立せしや、起立の年月を傳へず、人馬の數は廿五人、廿五匹を出すを以て定額とす往年、日連・澤井の二村は、助鄕、中野・三ケ木・靑野原・靑根の四村は、加助鄕なりしが、文政七年より三十年の間、前に所謂助鄕の二村は加宿鄕となり、加助鄕の四村は大助鄕となる、
◯小名 △矢部 △奈良本 △椚々戸久具土 …◯相模川 村の南端を流る、西方小淵村より來り東方與瀨村に達す、村内を經る水路十五町、渡船場一所、當宿より日連村に渡す、是を丹田前渡と呼ぶ甲州街道の捷徑なり 旣に總說に載す、 ◯澤井川 西方澤井村より漑ぎ、甲州街道を横切り坤方に向て相模川に入る當村に係る水路七八町許、◯小猿橋板橋にて、其地形結構、甲州郡内領、猿橋驛の猿橋に殆ど相似たるを以て名くるものなるべし、 前に所謂澤井川に架して甲州街道に跨る長十四間、幅二間、左右欄干附橋上より水際に至る凡五丈八尺、其結構や兩岸に柱を立るの外、其他は一柱を支へず、是橋は元より官の費用にて造營せり、橋邊總て勝槪饒く、金龜岩鶯淵等の名區あり、◯金龜岩 相模川の中流にあり、高五丈許周圍四丈に餘れり、岩上に小松二三株ありて小祠を擁壓す、小祠は近世造立して淺間を祭る是よりして東の方少しく北により鶯淵の名區あり、◯鶯淵或は黃鸝淵と書す 相模川の中流、北岸にあり、方十間許水底量るべからず、

※二瀬越えについて「総説に載す」としているのは「渡津」の項の次の記述を指している。

「一は相模川渡と呼一は日連村勝瀨より與瀨宿へ渡す、故に勝瀨渡と呼、以上載する所の丹田前渡と、勝瀨の渡をすべて二瀨越と云、凡此二津の間、水流屈曲すれば、舟渡して經る所の路程甚近し、與瀨宿より吉野宿に至る陸路は、北方山に添て、迂回にして、路程最も遠し、土人水陸の行道曲直遠近の差ひあるを以て、弓と弦に比すれども、中々に弓と弦よりも甚し、是故に甲州への往來の徒、陸行するものの多くは、是二津を越て捷徑便利とす、按ずるに、是二津、其實は本道の渡と云にはあらねども、、往來するもの多くは、此渡にかゝれり、最も人の知る所なれば姑く茲に載す、

小淵(おぶち)百十九(四)甲州街道一條東西に亘り道幅二間程、民家相對して軒を並ぶること廿四戸、是所を關野宿と唱へて繼場なり東方吉野宿へ繼ぐ、廿六丁、西方甲州都留郡上野原宿へ達する、三十四丁、傳馬屋敷、三石五斗三升六合、地子免除せらる、起立は慶長・元和の頃より繼立せしと云傳ふ、人馬の數は、廿五人、廿五匹を出すを以て、定額とす、往年名倉・佐野川兩村は、助鄕、牧野村、又野村、愛甲郡半原村は、 (加脱カ)助鄕なりしが、文政七年より三十年の間前に所謂助鄕の兩村は、加宿鄕となり、加助鄕の三村は、大助鄕となる、
◯小名 △小淵 △上小淵 △藤野 △上澤井 △關野宿正保・元祿の改に、小淵村の内、關野村と記せり、
◯相模川 村の南界を東流すること二十丁餘川幅三十間餘渡船場あり、押尾渡と云名倉村へ達す、當村の持なり、◯境川 甲相二州の界を流る仍て名づく、西北の方佐野川村境より來り、村内にかゝること十丁餘、斜に南流して相模川に入川幅七八尺、 ◯土橋 甲州街道境川に架す長五間幅六尺當村及び甲州都留郡上野原村にて懸く、◯獅子岩 或は搖岩と呼べり高八尺、周匝一丈三尺、甲州街道の傍にあり、◯衣瀧 獅子岩の傍にあり、瀑勢一丈二三尺幅五六尺其形象殆ど衣を翻すが如し、仍て名づくるものか、水源は當村の奥、澤間より沃ぎ來り、下流は南に向て相模川に入、小路凡十丁に餘れり川幅七八尺
日連(ひづれ)百二十(五)◯小名 △杉 △勝瀨 △靑田 △新倉 △日連
◯相模川 村の北界を屈曲して東流す、西方名倉村より來り、東方寸澤嵐村に達す、村内に亘ること三十二町、渡船場二所、其一は勝瀨渡と呼、與瀨宿に渡す、其一は丹田前渡と呼、吉野宿に渡す勝瀨より以西五町許、丹前の渡あり、彼と是と二瀨越と呼、甲州街道の捷徑、間道なり、

※「二瀬越え」についての記載があるため、敢えて甲州街道の項に含めた。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は津久井県中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「津久井県図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。






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