島崎藤村「夜明け前」と公郷村と浦賀道

前々回の記事に対して、たんめん老人さんから島崎藤村「夜明け前」に出て来る公郷村についてコメントをいただきました。そこで今回はその補足として、「夜明け前」の題材となった公郷村の名家や浦賀道について少しまとめてみます。

「夜明け前」は幕末から明治にかけての木曽路・馬籠宿の本陣家の当主、青山半蔵を主人公に据えた小説です。藤村自身が馬籠宿の本陣家の末裔であり、半蔵は藤村の父がモデルであるとされていますが、木曽山中の宿場が主な舞台となったこの小説に相州の漁村が登場するのは、この長編小説の中で安政年間を書いた第一部第二章の中です。この本陣家を訪れた山上七郎左衛門という人物が、隣の妻籠宿の本陣に泊まった際にその2つの定紋が自身のものと同じであることに気付いたことから、馬籠・妻籠の青山家の先祖が元は三浦の山上家から分かれてこの地に移ってきたことを知り、半蔵がはるばる公郷の地まで先祖の出身地を訪れる、という筋になっています。

木曽路から江戸を経て東海道を進んだ半蔵一行は金沢まで陸路を進み、そこからは海路で横須賀へと向かい、上陸して程なく公郷村の山上家の屋敷に到着します。小説から当時の景観が参考にされたと思われる箇所を抜き出してみます。

…三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。

当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを(おも)って見ることはできた。ある(みさき)のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。

公郷村(くごうむら)とは、船の着いた漁師町(りょうしまち)から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑(のどか)なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷だ。

半蔵の前にいる七郎左衞門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衞門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。

松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衞門は浦賀の番所通いの話などを半蔵等の前で始めた。…

夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の(がけ)の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏(みゃくはく)のように、()をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。

(青空文庫版より、…は中略、強調はブログ主)


無論、小説ですから何れも氏名は変えられているのですが、この公郷の名家にもモデルが存在します。島崎家も実際に三浦一族の末裔で、同じ三浦一族の中で永嶋姓を名乗った3代目の正義の弟、正胤が木曽で島崎姓を名乗る様になったという関係にあります。永嶋家については「新編相模国風土記稿」でも

◯舊家庄兵衛 里正なり、家號を永島と云ふ、家系一卷を藏す 其略に先祖三浦大田和平六兵衛義[勝]、新田義貞鎌倉を攻るの時先陣を承りて武功を顯す按ずるに、【太平記】に… 後相模次郎時行に從ひ、足利尊氏と戰ひ又楠正成の手に屬す、…義藤の子平太郎義政故ありて家號を永島と改む、…正重後出雲守と稱す、北條氏茂に隨ひ浦奉行を勤、其子庄太郎正氏後出雲守永正十七年家を襲ぎ濱代官海賊役を勤む、永祿七年國府臺合戰に氏綱に隨て軍功あり、天正四年二月死す、其子庄司正朝母は正木兵部大輔が女なり、天文十五年より父と同じく濱代官海賊役を勤む家藏天正十三年七月、北條氏より田津濱代官に與る文書あり、此頃當所の内三十五貫二百五十文の地を與へらる家藏永祿六年癸亥十二月の文書に見ゆ、天正二年正朝左京亮となる同十八年小田原に籠城して討死す、其の子莊吾正資の時より村民となり、今の庄兵衛に至りて八代なり 松平肥後守容衆領分の頃軍船水主差配役を勤め、苗字帶刀を許さる、文政四年松平大和守矩典が領主たりし時も亦舊の如し、所藏古文書十一通あり

(卷之百十四 三浦郡卷之八 雄山閣版より、…は中略、なお[勝]については下記コメント参照のこと)

などと記されており、永年浜代官や水主(かこ)差配役といった、主に海に関係の深い役を代々務めてきた家柄であったことがわかります。上記の引用箇所をはじめ、半蔵に家系図をはじめとする文書を見せるくだりの設定にも、この永嶋家に伝えられているものが多々反映されています。

この永嶋家の屋敷の長屋門が現在も残されており、横須賀市の「風物百選」に指定されています。

永嶋家赤門

江戸時代の総名主・永嶋家の長屋門。朱塗りであることから赤門と呼ばれている。門扉は江戸時代のものと推定されるが、柱や桁などは新しく何度か改修されている。

永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代は小田原北条氏の支配下にあって浜代官を努め、江戸時代には名主を務め代々永嶋庄兵衛を名乗っていた。

島崎藤村の『夜明け前』にもこの永嶋家が「公郷村の古い家」として登場してくる。赤門の脇に文久2年(1862年)の浦賀道を示す円柱形道標があり「右大津浦賀道、左横須賀金沢道」と刻まれている。以前は今と反対側の磯浜の側の聖徳寺坂下にあった。

また今は米が浜で営業している料亭「小松」はこの赤門の前にあった。

横須賀市ホームページより)



永嶋家赤門の現状。手前の石の円柱が道標
ストリートビュー
永嶋家赤門と浦賀道の位置
永嶋家赤門と浦賀道の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)

この赤門と浦賀道の位置関係を、地形図上で「明治期の低湿地」の主題図を合成して作成しました。主題図の元になった迅速測図は三角点を用いた厳密な測量を行って作図したものではないため、現在の地形図とは精確に重ねることが困難になっており、特に三浦半島域内ではその傾向が強い様でかなり大きなズレを生じています。上記の永嶋家の屋敷があった辺りに海を示す濃い青が重なっているのはその影響ですが、少なくとも永嶋家の屋敷の敷地が直接海に面する場所にあったことが直感的にわかりやすいことから、敢えてこの図を選択しました。ともあれ、この付近の海面は大正年間に安田保善社によって大きく埋め立てられ、その周辺の海面も幾度かにわたって埋立地が拡大されていきました。日の出町、米が浜通といった現在の横須賀の中心街は何れもそれらの埋立地の上に築かれ、国道134号線もこの上にありますので、現在の景観や交通がこうした埋立事業よって大きく変貌したことは確かです。


従って江戸時代当時の景観や交通事情を考える際にはこうした地形の変遷を考慮する必要がありますが、浜代官など海の要職を代々務めたとされる永嶋家の屋敷が、かつては海に面する地に存在したのは当然ではありました。

そして、「夜明け前」の描写では「公郷の古い屋敷」には「裏山」があり、その上の茶室から家主と半蔵が、崖を洗う海を眺望するシーンが描かれています。上記の地形図に重ねた色別標高図でも永嶋家の敷地に接する様にして高い崖地が存在し、門前の道がかなり深い切通を降りてくることが読み取れます。勿論、現在の切通はその後も更に拡幅されてきたものですが、切通脇の聖徳寺の敷地や門前の道の形状から、当初の地形の概略を窺うことが出来ます。

永嶋家の長屋門前に保存されている標柱型の浦賀道道標は文久2年の刻印がありますが、これは浦賀道が安浦の浜筋を通る様に付け替えられた後のものということになります。無論、それまでも永嶋家の屋敷へ通じる道が何処かしらにあった筈ですが、恐らく当初は継立の馬を通すには厳しい細くて急な道だったのでしょう。それでも船の方が至便な交通手段であった彼らにとっては、陸路が脆弱でも大した不便もなかったものと思われます。


米が浜付近の迅速測図
「米ヶ濱」の字の下の海岸に崖地を示す描写が続いているのが確認出来る
(「今昔マップ on the web」)
実際のところ、浦賀道が横須賀から内陸へと入っていく道筋を辿っていたのは、その先の米が浜から安浦にかけて、切り立った海岸段丘が海に張り出していて海沿いを進む道をつけることが出来なかったからです。龍本寺が乗るこの段丘は標高が50mほどあります。この段丘からの眺望の良さは現在もこの段丘上に位置する横須賀中央公園からの眺め(ストリートビュー)で確認出来ますが、眼下には横須賀共済病院の建物の屋根が見えています。この病院の敷地側から崖を眺め(ストリートビュー)ると、段丘崖を補強するコンクリート擁壁が病院の建物に匹敵する高さにまで直立しており、その高さを窺い知ることが出来ます。

陸路の交通量がそれほどではなかった時期には、敢えてこの段丘を削って安浦方面への降り口を付けるだけの動機を得られなかったため、金沢から浦賀へ向かう継立道は横須賀から小矢部の法塔十字路へと迂回していたのでしょう。それが、幕末になって浦賀の役割が増すにつれて、迂回路で時間をとられている訳に行かなくなったことで、浜へ降りる切通をつける動機が生まれてきた訳です。

藤村は実際にこの公郷の永嶋家にも訪れていた様で、その際に屋敷周辺の景観についても一通り把握した上で「夜明け前」のこの箇所の執筆に臨んだことが、引用した箇所の表現にも窺えます。そしてその海岸に屹立した海岸段丘の麓にあった屋敷の景観は、浦賀道の道筋の変遷を考える上でヒントを提供してくれるものである様に思います。



追記(2016/04/20 18:40):「風土記稿」からの引用に手を入れました。委細はコメント欄をご参照下さい。なお、「風土記稿」に記されている「勝」の字の「力」を「水」に置き換えた形の字母はUnicode体系に定義されていない模様ですので、その意を汲んで上記の様に表記を変えました。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- たんめん老人 - 2016年04月20日 18:05:30

小生のいい加減なコメントに対して、詳しい記事を書いていただき感謝しております。『新編相模国風土記稿』の永嶋家についての記事の中で、「先祖大田和平六兵衛義藤』とありますが、『太平記』第10巻に新田義貞への相模の国からの加勢として登場するのは、「義勝」で、岩波文庫、新潮日本古典集成ともに「義勝」となっており、『風土記稿』の写し間違いではないかと思われます。日本古典集成版の頭注によると、『大多和系図』という文書があるようで、確認の必要がありそうです。(大多和とも大田和とも書くようです。)

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2016年04月20日 18:33:46

こんにちは。コメントありがとうございます。

御指摘どうも恐れ入ります。雄山閣版の該当箇所は印字が不鮮明で「藤」の様に見えたのでその様に記したのですが、鳥跡蟹行社版の同一箇所(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763971)を見ると、どうも「勝」の字の「力」の部分を「水」に置き換えた字が書いてありますね。原本がどうなっていたかは不明ですが、雄山閣版もあるいはこの字を「藤」の「艹」の部分を無理に削った活字を作って印刷したために、印字が不鮮明になったのかも知れません。

該当箇所にはその旨反映しておきます。

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