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【史料集】「新編相模国風土記稿」三浦郡各村の街道の記述(その2)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の三浦郡の各村に記された街道に関する記述をまとめます。今回は残りの2本の街道を取り上げます。

鎌倉から三浦半島西岸に沿って進む三崎道(ここでは仮に「鎌倉・三崎道」と呼称します)は、次に取り上げる「鎌倉・浦賀道」と堀内村までの区間が重なっています。更に、堀内村で分岐して南下する三崎道が文化13年(1816年)に起きた崖崩れで通行不能となったため、一色村へと迂回していたことがこれらの村々の項に記述されています。「葉山町の歴史とくらし」によれば、崩壊したのは「真名瀬の南、柴崎の山側崖」としており、この崖を有する大峰山の南側で崩落を起こした様です。以下の地図では橙色の線でこの一色村からの迂回路を示しています。旧道に復した年代は確認出来ませんでした。

また、その南の秋谷村でも「大崩」という小名で過去に崖崩れがあったことを記しており、総じて崩落しやすい箇所が多く、道筋を維持するのが難しい区間を含んだ道であったと言えます。

下宮田村と菊名村の境で浦賀から来る三崎道と合流しますが、その先の区間は前回既に取り上げましたので、ここでは省略します。

鎌倉・三崎道の各村の位置(北半分)
鎌倉・三崎道の各村の位置(北半分)

鎌倉・三崎道の各村の位置(南半分)
鎌倉・三崎道の各村の位置(南半分)(何れも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

もう1つの道である「鎌倉・浦賀道」については以前「浦賀道見取絵図」を検討しましたので、詳細についてはそちらに委ねます。ここでも、2本の三崎道との重複区間については省略しました。

「風土記稿」の鎌倉郡の項では以前指摘した通り名越切通の方ではなく、海沿いから披露山へと向かう道筋を本道として取り上げている節がありました。それに対して、こちらでは小坪村の項で海沿いを進む道を「鎌倉道」と称して別記しているところから、ここでは名越切通を経由する道を本道として考えている様です。この辺りの「風土記稿」の見立てにはやはり不整合があったことになるでしょう。

鎌倉・浦賀道の各村の位置
鎌倉・浦賀道の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
﹇鎌倉

三崎道﹈
久野谷村百九(三)◯名越坂奈古衣左加 名越切通とも唱、鎌倉名越町に通ず登二町、

※域内を通じる街道について直接の記述はない。名越坂の辺りでは、「浦賀道見取絵図」によれば、鎌倉方からまず久野谷村の飛地が現れ、次に小坪村の飛地を挟み、そして久野谷村の域内に入るという順に並んでいる。

小坪村百八(二)鎌倉より浦賀及び三崎に達する往還あり、村内にて人馬の繼立をなす西は鎌倉雪ノ下村、同郡長谷村迄各一里、東は浦賀道郡内下平作村へ三里 三崎道秋谷村へ二里、村内海岸巖腹壁立して高四五丈、上に小徑通ず鎌倉道なり、此所より眺望すれば東方近く杜戸の濱あり、四方鎌倉靈山の崎突出し中央に江島浮び出て又大磯小磯の海濱を望み、遠くは富峰雲際に秀て其美景を賞すべし、
◯坂三 一は村北にあり、名越坂或は名越切通と云ふ、鎌倉郡大町村名越町に達す、故に此名なり、登二町一は廣尾坂村の中程にあり登六町、一は飯島にあり小坂にて切通なり、【元祿國圖】に住吉切通と載する是なり、…此餘山間に孔道四あり、是土民捷徑の爲に穿つ所なり高七八尺長七八間より十五間に至る土俗通矢倉と呼ぶ、…◯田越川 村東櫻山界を流る幅十二間板橋を架す、流末は海に入る、
櫻山村百八(二)西南の方に浦賀及び三崎への往還係れり、
◯田越川太古衣加波 東隣沼間村矢ノ根川の下流村北にて烏川と呼び、逗子村界を流れ、淸水川と稱し小坪村界に至り始て田越の名を得、夫より直に海に入幅二十間【東鑑】に多古江と書し【承久記】は手越に作る、… ◯田越橋太古衣波之 田越川の落口にあり長二十五間、

※田越川については「東鑑」「承久記」の他に「平家物語」「東鑑脱漏」の引用が掲載されている

堀内村百八(二)◯往還一 鎌倉より浦賀三崎に達す濶一間餘、此道元は村内にて兩路に分れ、海濱を過て一色村に出るを三崎道とせしが、文化十三年海岸闕崩れ、往還不便なりしより今の如く一路となれり、當村立場あり、里俗是を葉山茶屋と云、
◯小名 △鐙摺安布數里◯北の方を云ふ、土人の傳に賴朝三浦に遊覧の時山路狭く、乗馬の鐙をすり往來自由ならず、故に此名起ると云ふ、今はさる嶮難の地にあらず、… △三ッ浦海濱なり、元祿國圖堀村内(ママ)之内三ヶ浦村と記す、今は全く村内の小名となれり、 △森戸元杜戸に作る、海面へ突出せる地にて勝景なり、杜戸明神鎭座す、… △眞名瀨之牟奈世 △辻 △東 △木ノ下 △牛ヶ谷 △向原 △塚田 △葉山田 △高砂
◯岩崎坂 浦賀道にあり登十五間 …◯龜井戸川 艮方より西流して海に入る、一名木下川或は森戸川とも唱ふ濶五間落口にては十四間橋三を架す一は木の下橋、一は龜井戸橋共に長五間、一は森戸橋長十四間
一色村百八(二)鎌倉より浦賀三崎に達する往還あり、村内にて兩路に岐す、東は浦賀道南は三崎道なり、三崎道は初堀内村より海濱を通ぜしに海岸崩潰せしより今の道に替る、濶一間餘、
◯瀧ノ坂 浦賀道にあり登一町二十間 ◯古松 浦賀道の側塚上にあり、平松と呼ぶ圍二丈許、枝葉延亘し、東西十一間南北十二間、高三丈四尺、枝埀て地を距こと僅か二尺許、其圖下に出す、

※古松の図については省略。

下山口村百十(四)三崎道海濱を通ず幅一間、
◯川 上山口村より入り北方を流れて海に入る濶四間許板橋二を架す三崎往還なり
秋谷村百十(四)三崎道海濱を通ず濶一間、此地其夫馬繼立場なり其道程は西は小坪村、東は和田村、各相去二里、
◯小名 △子安 △東久留和 △西久留和 △臺 △南町 △新町 △原 △御堂山 △大崩海岸にて古此地の山岳崩れて海に入れり、其山足を三崎道通ず、… △佛塚 △峯山 △中じなし
蘆名村百十(四)三崎道村内を貫く濶一間、
長坂村百十(四)三崎道海邊を通ず、
荻野村百十(四)三崎往還村南に在リ幅一間、路傍に古松あり、圍六尺、一本松と唱ふ、枝葉往還に盤桓す、
大田和村百十(四)村南に鎌倉より三崎への往來係れり、
林村百十(四)海邊に三崎道係る、
◯小名 △黑石此地に黑石と呼ぶ巨石あり、地上に出る所高二尺、大さ壹間程 又塔の石と呼ぶものあり、三崎道を隔て黑石と相對す、高九尺、大さ四間、… △下海道 △芝 △宮ノ下 △芝房
◯川 大田和村堺を流れて直に海に入板橋を架す、大橋と呼ぶ長四間、
本和田村
和田赤羽根村
和田竹之下村
百十(四)今三村槪して和田鄕の唱を冠る、是古は和田の一村なりし故なり正保の改に和田村と載す、慶安中各村となれり、されば地域犬牙して區別することを得ず、故に今括載す、…鎌倉より三崎への往還中程を貫けり濶八尺、此所人馬の繼立場あり北方秋谷村、南方三崎町へ各二里、長井・(ママ)林・須輕谷・高圓坊・下宮田の五村にて助役す、

※この3村は明治8年(1875年)に合併して「和田村」となり、現在も「初声町和田」として町名が引き継がれたた。但し、小字「和田ノ里」「赤羽根」「竹ノ下」は現在の地形図にその位置が記されているため、大筋の位置関係は把握出来る。ここではこの3村の惣鎮守だった白旗神社の位置を当時の村の中心地と仮定して「本和田」として地図上にプロットした。

◯義盛塚 三崎道の東にあり方六間餘和田義盛の墓なりといへど由來は傳へず、又本和田村の屬に殿屋鋪と唱ふる所あり、是義盛の宅跡ならんと云按ずるに、…

※「迅速測図」では、当村域内を南下してきた三崎道は白旗神社の辺りで東に向きを変え、下宮田村と菊名村との境へ尾根筋を登って行く様に描かれている。現在「和田義盛旧里碑」として伝えられる史蹟は国道134号線の西側にあるが、こちらは上記の「殿屋鋪」に該当する地域の一角。「義盛塚」として記されている塚の位置は不詳。

下宮田村→前回金沢・浦賀・三崎道の同村の項参照
菊名村
金田村
小網代村
二町谷村
諸磯村
東岡村
三崎町
﹇鎌倉

浦賀道﹈
久野谷村→上記鎌倉・三崎道の同村の項参照
小坪村
櫻山村
堀内村
一色村
上山口村百十(四)往還一條東西に貫く浦賀より鎌倉への道なり幅六尺許、
◯小金坂 浦賀道にあり登二十間許、
木古庭(きこば)百十四(八)浦賀道村の東西を貫けり、
◯坂二 一は浦賀道にあり、新道仁比美知と云登一町半許、 一は北寄にあり、高祖坂と云登一町許、坂下に高祖井、或は高祖加持水など唱る井あり、是等日蓮の舊跡なるべし
上平作村百十四(八)往還一、東北方三村の接地にあり道幅一間餘、浦賀より鎌倉への往還なり、
◯小名 △臺畑 △鳥井戸 △傳馬場 △竹林 △石井 △中山 △阿部倉 △外田 △湯ノ澤南方にあり、こゝに徑三尺深二尺許の洿池あり、池中硫黄の氣あり、相傳ふ温泉の跡なりと、…
(池上村)百十四(八)

※上平作村の記述に見える通り、村境に浦賀道が掛かっていた筈だが、関連する記述は見えない。

下平作村百十四(八)村内に浦賀より鎌倉への往來を通ず、當所其繼建のことを司れり東方浦賀へ二里、西方小坪村へ三里、助役は木古庭・上平作・池上・金谷・不入斗・佐野・小矢部・森崎の八村にて預れり、
金谷(かねや)百十四(八)浦賀道幅一間餘係る
(大矢部村)百十三(七)鎌倉より浦賀への往還係る幅五尺、

※「浦賀道見取絵図」の記す道筋では、浦賀道は小矢部村の北境付近を通っており、小矢部村の南に位置する大矢部村の域内とは隔たっている。この記述がどの道筋を指しているのかは不明。

小矢部村→前回金沢・浦賀・三崎道の同村の項参照
公鄕村
大津村
東浦賀
西浦賀

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は三浦郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「三浦郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。






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