【史料集】「新編相模国風土記稿」三浦郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回は三浦郡を取り上げます。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第5巻三浦郡図説今考定図
「風土記稿」三浦郡図説
(卷之百七 三浦郡卷之一)の
「今考定図」
(「国立国会図書館デジタル
コレクション
」より
該当箇所を切り抜き
北が上になる様に回転)
三浦半島の全域が郡域と重なる三浦郡の場合、その地形の関係から郡内を通過して更に他郡へと抜けていく道が存在しないのが特徴です。半島には金沢と鎌倉から入ってくる道筋が2本あり、これらが半島南端の三崎へ向かう途上で合流しています。また、半島内には東西方向に断層が幾筋も走っている関係で、半島内部の山々もどちらかと言うと尾根筋が東西方向へと向いています。このため、内陸部を南北へと抜けようとするとアップダウンの激しい道になってしまうことから、半島を南北に抜ける道は基本的に海に近い場所を通っています。

また、相模湾と江戸湾を隔てる位置にある関係で、江戸時代には三崎や浦賀に番所が置かれるなど要所として機能したことから、交通網もこの2つの町へ到達する道が主に使われる様になり、それらの道に沿って継立が編成されました。

その結果、「風土記稿」の三浦郡図説に取り上げられた道は、半島の西側と東側の海岸近くを南北に向かう道と、三浦半島断層群の北側に沿って無理なく半島を横断出来る「浦賀道」の3本に留まっており、極めてシンプルな道路体系になっていると言うことが出来ます。三浦郡図説の「今考定図」でもこの3本の道筋が描かれるに留まっています。なお、三浦郡図説の記述では「往還二條」となっており、3本目の「浦賀道」は西側を走る道からの「岐路」と記し、副次的な位置付けと認識していることがわかります。因みに、三浦郡図説ではこれらの道に明確な名称を付けていませんが、ここでは便宜的に「金沢・浦賀・三崎道」「鎌倉・三崎道」「鎌倉・浦賀道」と呼び分けることにします。また、これを機に「各郡の街道の記述」の三浦郡の各街道の名称もこちらに合わせることにしました。


「風土記稿」三浦郡の3本の街道と継立場
「風土記稿」三浦郡の3本の街道と継立場(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ただ、浦賀や三崎を拠点とするこれらの道は、三崎付近や浦賀付近、そして小坪付近でお互いに比較的長く重複しており、「風土記稿」のこれらの区間の村々の記述の中にはこうした状況を反映したものもあります。他方で、街道に関する記述がない村があったり、2本の街道が存在する筈の村に片方の記述が欠けていたりと、必ずしも記述が安定しないため、こうした箇所には適宜注釈を加えながら取捨選択を加えることにしました。

今回は、金沢から三崎への道のみを取り上げます。横須賀から大津にかけては天保14年(1843年)に海岸沿いを進む新たな道が通されましたが、「風土記稿」編纂時点ではまだ横須賀から内陸に進んで小矢部村の法塔十字路で鎌倉からの浦賀道と合流する道筋でした。ここでの地図もその道筋を反映しています。

「風土記稿」では全般に、継立の終着地と目される町については継立先などの記述を行わない方針を採った様で、そうした町の1つであった西浦賀にも継立に関する記述が見られません。しかし、浦賀の場合は他方で三崎からの継立については中継地でもあった筈で、その点は上宮田村(現:三浦市南下浦町上宮田)や横須賀村の記述から補って読み解くことになります。

金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(北半分)
金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(北半分)

金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(南半分)-2
金沢・浦賀・三崎道の各村の位置(南半分)(何れも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明

金澤

浦賀

三崎道
浦ノ鄕村百九(三)往還一條浦賀道なり西北の方武州六浦村より入る、幅二間、村南に岐路となる三崎道と唱ふ幅二間、山徑崎嶇にして三の峠あり、其中北方にあるを傍爾堂と呼び南方にあるをがらめきと唱ふ、

※この「岐路」がどの道を指すのかは不明。

田浦村百十五(九)武州より浦賀への往還係る幅一間餘
長浦村百十五(九)浦賀道村の西南に係る、里俗半ヶ濱通りと云半ヶ濱は當所の小名なり、山徑崎嶇にして、最も難所なり、
◯坂三 平見坂浦賀道にあり田之浦坂登各二町川尻坂登一町、等の名あり
逸見(へむみ)百十五(九)浦賀道係る、
◯坂四 關屋阪・高札阪・芦川阪・日去り阪等の名あり登各一町
◯三浦安針墓 浦賀道の傍山上にあり、二墓相並ぶ高各七尺一は妻女の碑なり、安針恒に云、我死せば東都を一望すべき高敞の地に葬るべし、さあらば永く江戸を守護し將軍家の御厚恩を泉下に報じ奉らんと、則其遺言に任せ、此山上に葬れり安針が卒年傳を失へり、村内鹿島社寛永十三年の棟札に大檀那三浦安針と記せば、其頃尙現存せし事知るべし、山北は海面を隔て武州金澤・神奈川・羽根田の邊を眺望す、

※現在の「逸見」の読みは「へみ」であるが、「風土記稿」ではこの読みを「倍無美」としていることから、左のルビもこちらに合わせた。

横須賀村百十五(九)浦賀往還の繼立場なり西浦賀へ二里、武州金澤町屋村へ三里繼送れり、
◯小名 △坂本 △鹽入 △賀横須 △楠ヶ浦 △塔ヶ谷泊船庵跡の邊にあり、往古三重塔ありし跡と云ふ、… △堂ヶ塚村北海濱にあり、… △長峯 △泊り
深田村百十四(八)金澤より浦賀への往還、村の中程を貫く、
公鄕村田津→下記公鄕村参照
中里村百十四(八)村の中程に武州金澤より浦賀への往還係る、

※現在の横須賀市の町名からは完全に消失しているこの村は、「東、深田村、西、不入斗村、南、佐野村、北、横須賀村」と接していたと「風土記稿」に記されている。現在の不入斗公園の東側、鶴久保小学校前の交差点付近に位置していたと思われる。

(佐野村)百十五(九)鎌倉より浦賀への往還係る幅一間餘、

※安浦経由の道が開かれるまではこの村を経由していた筈なので、この記述は金澤と鎌倉を取り違えたものと考えられる。

(小矢部村)百十三(七)浦賀より鎌倉への往還係る道幅一間餘、

※「浦賀道見取絵図」や「迅速測図」の表記から、法塔十字路があったのは小矢部村と考えられ、「風土記稿」編纂時にはまだここで鎌倉と金澤の「浦賀道」が合流していた筈だが、上記の記述では鎌倉からの道のみが記されている。

公鄕村百十四(八)往還二條あり一は鎌倉より浦賀へ達す、一は武州金澤より浦賀への道なり、
◯小名 △田津【倭名鈔】鄕名の遺名なり 事は村名の條に辨す、 △宗源寺曹源寺邊を云ふ、每歳臘月十九二十日の兩日、此地に市あり、 △神金加里加禰 △山崎 △堀内

※金沢からの道筋は深田村の先で田津(現:横須賀市田戸台)を経由しているので、この記述はその点を指していると思われる。

大津村百十五(九)鎌倉より浦賀への往還係る道幅一間餘、
◯小名 △馬堀 △矢ノ津 △竹澤原 △蛇沼 △山下 △根岸 △井田 △池田 △宿
(東浦賀)百十三(七)◯小名 △新井町 △洲崎町 △新町 △大ヶ谷町以上通衢の名なり、道幅二間半、

※街道に関する直接の記述は見られない。上記小名に道幅に関する記述が見えるため、ここに採録した。

(西浦賀)百十三(七)◯小名 △濱町 △虵畠町 △紺屋町 △宮ノ下町 △谷戸町 △田中町以上市廛のある所なり、道幅各二間、

※横須賀村や上宮田村の記述に西浦賀への継立について記されているが、その点も含め、街道に関する記述はない。上記小名に道幅に関する記述が見えるため、ここに採録した。

西浦賀分鄕百十三(七)村の南方に三崎道係る道幅八尺
◯小名 …△久比里村南の惣名なり、元祿の改には西浦賀村之内久比里村と載す、相傳ふ鎭守若宮社に納むる石より地名起れり、 …△馬場先 △馬隠し場 △御船藏古船藏ありし跡と云以上久比里の屬、

※地形図上、この道筋上に「久比里坂」の名が見えている。

久里濱村百十三(七)浦賀より三崎への往來係る幅九尺、
◯坂二 共に南方三崎道にあり、一は白砂坂登一町餘一は稻荷坂登一町餘と唱ふ、
(野比村)百十五(九)

※久里浜村から野比村域内に入ってくる筈だが、関連する記述が見当たらない。因みに、久里浜村から野比村に入ってくる辺りに、地形図上は「尻コスリ坂」の地名が記されているが、野比村の項に記述された小名や坂の名に該当するものは含まれていない。この坂は現在は周辺地ともども削平されており、当時の地形を留めていない。

(長澤村)百十二(六)

※野比村からこの村に入ってくる筈だが、街道に関する記述はない。

(津久井村)百十二(六)

※長沢村からこの村に入ってくる筈だが、街道に関する記述は見えない。

上宮田村百十一(五)村東三崎より浦賀への往來係れり濶一間、人馬の繼立をなす近隣十六村にて其役を助く、三崎へ二里、浦賀へ二里半餘の道程なり、
下宮田村百十一(五)村の中間三崎道係る、

※どちらの道を指すかについて明記がないが、「村の中間」という記述からは鎌倉からの道を意識しているものと思われる。金沢からの道は菊名村との村境を進んでいたものと考えられる。

菊名村百十二(六)三崎より鎌倉への往還係れり、

※三浦郡図説ではこの村の中で金沢から来た道と鎌倉から来た道が合流していることが記されているが、ここでは鎌倉からの道についてのみ触れられている。なお、この道は上宮田村・下宮田村との境を進んでいたものと見られる。

金田村百十二(六)村の西界に浦賀より三崎への往還係れり、
小網代村百十一(五)三崎道係れり濶三間、

※金田村との境を走っていたものと思われる。

二町谷村百十二(六)村の東南に鎌倉より三崎に至る往還係る濶三間、

※この村の他、向ヶ崎・東岡・中之町岡・原・宮川は何れも三崎町から分村したものであることが「風土記稿」の三崎町の項に記されている。明治8年(1875年)にこれらの村々が合併して「六合村」となり、現在は三浦市の町名に「三崎町六合」として残っている(但し原村は「原町」、東岡村は「東岡町」として独立した町名になっている)が、これらの村々の中で三崎への道について記しているのはこの二町谷村と東岡町のみである。諸磯村と境界を接していることがどちらの村にも記されているので、恐らく現在の三崎町六合の西側が「二町谷村」であったと考えられる。しかし、肝心の二町谷村の項に諸磯村が「東」にあるとする点が辻褄が合わない。また、上記の「村の東南」も西界を走っている筈の三崎道の記述としては実情を表記している様に見えない。因みに諸磯村の項には二町谷村は「南」にあると書いており、何れにしてもこれらの記述は読解に際して取捨選択が必要である。

諸磯村百十一(五)三崎道東界に係る幅一間、
東岡村百十二(六)鎌倉及浦賀より三崎への往還係る當所にて人馬の繼立をなせり鎌倉道は和田村浦賀道は上宮田村行程各二里、東岡・原・宮川・毘沙門・松輪・菊名・城ケ島の七村にて其役を助く、
三崎町百十一(五)◯切通 村の中程にあり登二十六間、幅八尺、

※相模湾沿い・東京湾沿いに南下してくる三崎道の終着地である筈だが、直接的な記述は見られない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は三浦郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「三浦郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。





追記(2016/04/14 14:50):東岡村が一覧に漏れていたため、追加の上地図を差し替えました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- たんめん老人 - 2016年04月14日 12:10:53

以前、藤村の『夜明け前』を読んでいたら、江戸に旅行した主人公がその足で、三浦半島に住む遠い親戚を訪ねる個所があり、そこで「公郷」という地名に出会い、そういえば、私の中学・高校時代には京急に「横須賀公郷」という駅があった(1963年に「京浜安浦」、87年に「京急安浦」、2004年に「県立大学」に改称)のを思い出したことがありました。『夜明け前』を読み直せば、ここに登場する地名がもっと出ていたことが分かるかもしれません。

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2016年04月14日 12:28:19

こんにちは。コメントありがとうございます。

確かに「公郷村」が第一部の前半に出て来ますね。主人公の青山半蔵は金沢から海上を渡し舟で横須賀に向かい、そこから公郷村に入っていますね。当時はこの区間は十三峠を無理に越えるよりも海上を行くのが一般的になっていましたから、半蔵一行もそちらを利用する想定にした様です。

島崎藤村が「夜明け前」を書くに当たっては実家の文書などをかなり仔細に検討した様ですから、公郷村の名家のことなどもそれなりに裏付けを取ったのでしょうね。「風土記稿」でも数名中世から続く家柄について記載があります。

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