「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その8)

前回まで「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見て来ましたが、今回は関連する話題をもう少し取り上げた上で、ここまでのまとめをしたいと思います。

相模原市のホームページには、「大沼の土窯つき唄」という仕事唄の歌詞と音声(MP3)が掲載されています。これは大沼新田で炭焼用の土窯を築く際に音頭を取るのに唄われていたものです。


大沼新田の明治39年測量の地形図
ほとりに「大沼神社」が建つ沼が大沼、東に小沼
(「今昔マップ on the web」)
大沼新田(現:相模原市南区西大沼・東大沼その他)は江戸時代には淵野辺村の一角で、水の得にくい相模野にあって地下に宙水があり、その上に「大沼」が出来て深堀川という境川の支流の源流地となっていた地域でした。今はこの大沼も、その東にあった小沼も埋め立てられて宅地と化していますが、現在の区画の形状にはかつての沼地の存在を窺う事が出来ます。

元は境川対岸の武州木曾村との入会地でしたが、元禄年間に知行替えによって代官支配になったのを切っ掛けに新田開発が行われ、宝永4年(1707年)に検地が行われて「大沼新田」が成立しました。しかし、土地が痩せていて耕作には不向きだった様で、「相模原市史 第二巻」では大沼新田の開発経緯について各種の文書を引いて解説した上で、次の様に記しています。

…上矢部新田村に比較すると、一戸あたりの平均所有反別は約三倍以上、一名あたりの耕作反別は約二倍以上となり、嘉永三年反別書上による場合は、なおこの二倍近くになるのである。これだけを見ると、大沼新田入植農民は恵まれているようにも見えるのであるが、大沼新田の場合はすべて見取り畑なのである。土地の伝承によると、開墾当初は肥料を与えなくても作物がとれたが、いく年かたつと土地が瘠せてくるのでそこを林畑として放置し、また新たに開墾したといっている。したがって嘉永六年(一八五三)の村高書上帳にも、烏山大久保領三九九石五斗九升一合中、本村出百姓分の四一石九斗七升三合は永荒引となって年貢の対象からはずされている。このように荒地が多かった上に、地味も瘠せていて、反収麦が四斗ぐらいしか収穫できなかった。田圃は大沼の池を利用したが雨が降らないと作れず、田植をしないで、ばら蒔きをする有様であった。

こんな状態だから、いきおい農間余業に頼らざるを得ず、養蚕や植林からの薪炭材の伐採その他が生業の主要なものとなっていた。

(上記書276〜277ページより、…は前略)


相模原市史 第二巻」では続いて薪炭材を得るために植林が進められ、麦蒔きが終わった農閑期に炭焼が行われていたとしていますが、その炭焼で使用する炭窯の構築については次の様に記し、その過程で「土窯つき唄」が唄われたことを紹介しています。

…庭の適当なところに深さ約一メートル、縦五メートル、横四メートルぐらいの矩形の穴を掘り、その中に一・五メートル(約五尺)に二・三メートル(約七尺五寸)の楕円を描いて、それに「ごず」(炭のくだけ)を五寸から一尺の厚さに敷き(これは土地の湿度の状態によって加減する)それに茅をのせる。そしてその上に一尺二寸に切った薪を二段に積み上げ、なおそれに「なぐり」(かさま・さしこみともいう)と称する細い薪を一〇把ほど一尺二寸から三尺ぐらいの厚さに積み重ねる。それらの全体には本町田・図師辺から買って来た粘土を約五寸ほどの厚さにすっぽりとかぶせる。ただ短辺の入口には積んだ薪のおさえとして二尺四、五寸の松その他の雑木の薪を立てかけて下には土管を置いて火口とし、反対がわには煙出しにする型をはめこんで置く。そして土がまつきがはじまる。部落のものがおたがいに奉仕しあって三〇人ぐらい集まり、手製の杵を逆手にとって、「おばばなーよ、どけえ行く、三升ざるをさげて、このえんやらやあ、よめの在所へ孫だきに、えーえんやーこのえんやらやあ」と土がまつき唄を謡いはやしながら周囲をめぐって、力をこめてつき固める。

(上記書277〜278ページより、傍点を下線に置き換え、…は前略、強調はブログ主)


この「相模原市史」に掲載された「土窯つき唄」は「木炭の博物誌」にも引用されています(154ページ)。歌詞が相模原市のホームページに掲載されているものと異なり、囃子詞も合いませんので、同一の唄か否かをこれだけでは判断出来ませんが、あるいは同じ節で歌詞を替えているだけかも知れません。なお、「神奈川県民謡緊急調査報告書」(神奈川県教育庁文化財保護課編 1981年)にも大沼の「土窯つき唄」は収録されていますが、炭窯の構築に際して唄われるとされているものは他には採録されていませんでした。

大沼新田の「土窯つき唄」の発祥を考える上では、同地で炭焼を行う様になる過程で、炭窯の築造技術がどの様に入って来たのか、特に土窯を使った炭焼が当初からのものであったのかどうかが気になるところです。ただ、前回まで見た津久井や宮ケ瀬の炭焼と比較した場合、少なくとも大沼新田の平坦な土地では横穴式土窯を掘れる様な斜面は存在しないことは明らかです。境川の河岸段丘面にはその様な斜面も存在しますが、ここは新田の地域の外にありますから、何れにしても横穴式土窯が津久井県から伝播してくる可能性は皆無だったと見て良いでしょう。他方、津久井の「ボイ炭やき」は手軽に大量に炭を焼くには良くても、単価が安くなることは避けられませんから、特に植林した林から炭材を伐り出せる様になった初期の頃にはそれほど豊富に炭材が採れたとは考え難く、あまり規模の大きくない大沼新田の炭焼には向いていなかったのではないかと思います。つまり、この地域に関しては当初から土窯を築いて炭焼を行った可能性の方が高いのではないかという気がします。それであれば、「土窯つき唄」はこの地で炭焼が開始されて早々に唄われ始めたのかも知れません。

もっとも、炭窯を造る際にはいざという時のためにも水が近くにあることが必要でしたから、大沼新田で炭窯の適地と言えるのは大沼から近い地域に限られていたことになります。「相模原市史」で炭窯が庭で造られていたと記すのも、水利の限られた土地では集落に近い場所で炭焼を行わざるを得ない事情もあったのでしょう。「木炭の博物誌」では炭窯を築く場所について「人家に近いところでは炭がまの煙が迷惑になる」(143ページ)としていますが、そこは事情を忍んで煙いのを耐えていたということでしょうか。

因みに、「相模原市史」は炭窯構築に必要な粘土を境川の対岸にある武州本町田村や図師村(どちらも現:町田市)から運んでいたとしています。富士山や箱根火山が過去に噴出させた火山灰土が分厚く堆積する相模原台地上では粘土が得難いことから、粘土層が露出している地域まで台地を降りて求めに行かなければならなかったのでしょう。炭窯の構築技術の変遷を考える際には、築造に必要な素材の有無も念頭に置く必要がありそうです。



愛甲郡の5ケ村の「御炭山」について見た際に、中荻野・下荻野両村が祀っていた「東照宮」を取り上げました。これらの村が神格化した家康を祀っていたのは、炭焼そのものへ成功を祈願するものと考えるよりも、家康がこの地に齎した恩恵への謝意に基づいたものと考えるべきでしょう。その点では、炭焼に関連した信仰の事例としてはやや特殊と言えそうです。

炭焼にもう少し直接的に関係しそうな信仰としては、「津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」(津久井郡文化財調査研究会編 1988年)が記す「山の神」が挙げられるでしょう。

信仰の対象は、山の神である。山の神は田の神が収穫が終わると山にのぼって山の神となると、言われるが、田の少ない津久井ではこうした伝説はない。山の神の縁日は一月十七日で、この日には「日待(ひまち)」を行い、山仕事に従事する者や猟師は山に入ることを禁じた。現在でも「山の神日待」を実施している地域があるが、最近では自治会の会合や新年会を兼ねて一年の計画をたてるという方法に変っている。また毎月の十七日に山入りを禁じている家もある。

山入りの行事は、二本の竹筒を水引きで結び中に酒を入れて山に供える。炭焼は、初山入(火入)の日と最終日(掃抜(はきぬき))には同じ行事をして簡素な祝を行う。

(上記書95ページより)


類似の信仰について記録がないか、神奈川県内の各市町史に付属する民俗編をざっと探してみたのですが、あまり記述を見出すことが出来ませんでした。ただ、意外にも「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」に同様の記述を見付けることができました。特に、縁日に山入りが禁忌されている点に共通する点が見られます。

山仕事をする人達は山の神を祀り、山の神様に仕事をさせていただいているという心持ちであった。毎月七日は山の神の命日だから山へ入ってはいけないといい、一般の人も薪採りで山に入る事をさけた。山の神の命日を八日だとする所や一七日とする所もあり江の島では八日・一八日・二八日は山に入るなといっている。

遠藤打越の炭焼きをしていた家では山の神のオヒョウゴを掛けて山講を行った。同じ遠藤神明谷には山の神の祠があり、二月一四日にオタキアゲといって正月の内飾りを燃やし、御馳走を供えた。また春は一月一七日、秋は一〇月一七日に山講を行い、この時薪や炭の値を決めた。部落によっては山仕事をする人々で太子講を持ち、一番年長者をカシラと呼んでカシラの家で寄合いをした。

(上記書335ページより)



藤沢市遠藤・打越の地形図と空中写真
現在も笹久保谷戸を中心に雑木林が残る(「地理院地図」)

どちらかと言うと炭焼に限定せず山仕事全般の神様という側面が強く、特に江の島では流石に炭焼は出来なかったでしょうから、木を伐る場合でも薪か木材だったでしょう。それでも、丹沢山地北部の津久井と相模原台地南端の藤沢市域に共通した信仰が見られることから、その間に位置する各村でも山仕事に従事する人たちの間で幅広く信じられていたものと思われます。ただ、こうした信仰が何時頃まで遡るのかといったことも含め、今回はあまり深く掘り下げることが出来ませんでしたので、機を改めて資料を集められればと考えています。



今回は近代以降の事情については詳細に触れる余裕がありませんが、ここまでの話に関連して2点ほどエピソードを取り上げます。

1つは「佐倉炭」についてです。例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」の出品目録には、旧相模国域からは
  • 足柄上郡谷ヶ村
  • 同郡川西村
  • 津久井郡鳥屋村
  • 足柄下郡沼代村
からの炭の出品が見られますが、この最後の沼代村(現:小田原市沼代)の炭は「佐倉炭」と名乗っています。当時の神奈川県域からは他に武蔵国多摩郡桧原村の炭が同じ様に「佐倉炭」と称して出品されています。

元は下総国佐倉藩の取り仕切る炭であった「佐倉炭」が出品されるとすれば、元来ならば明治以降の行政区画で言えば千葉県ということになる筈で、実際千葉県庁の出品物の中にも「佐倉炭」が含まれています。しかし、旧相模国域や武蔵国域で生産された炭が「佐倉炭」と名乗る例が示されている点からは、この頃には既に「佐倉炭」が地域を示すものというよりも一種の「ブランド」として独り歩きを始めていたことが窺えます。実際、時代が下って大正14年(1925年)の「愛甲郡制誌」でも

林產製造の中見るに足るべきものは所謂「相模の白炭」で古來「幕府の御用炭」と稱せられ名聲頗る高いものがあつた宮ヶ瀨村、煤ヶ谷村、愛川村等の奥山に多くを產し里山では黑炭を多く產出する、製炭法の當否は炭質の良否、燒步に深い関係のあるのは云ふまでもないことで先年白炭、黑炭(佐久良炭)の製炭法の講習を各所で開催して以來着々好成績を擧げつゝある。

(上記書208〜209ページより、強調はブログ主)

の様に、「佐倉炭」がその本来の地名から離れて表記まで変わってきている例が見られます。

「木炭の博物誌」では、現在の「佐倉炭」の産地は茨城や栃木で、特に従来からの製炭法を維持しているのは茨城県鉾田付近のみとしています(207ページ)。こうした記述からは、江戸時代に名を馳せた同地の炭焼がその後関東一円に広まる過程で、その名を引き継ぎながらも製炭法の方は更に各地で改良を受けていったものと思われます。「内国勧業博覧会」の例はその様な動きが明治初期には既に存在し、更に「愛甲郡制誌」の例は、かつて「御用炭」を産出し、その「佐倉炭」の発祥に際して技術を輩出した側の土地でも製炭法を「逆輸入」する流れがあったことを示しているのかも知れません。

もう1点は、神奈川県内の各市町史を点検する過程で、炭焼を養蚕や製茶と結び付けている記述が幾つか見られたことです。何れも相模原台地の上に位置する各市の「民俗編」に見られ、特に「座間市史」が比較的詳細に事情を書き記しています。

炭は主に商品として出荷することを目的に焼かれたが、ヤマを持つ人が材料の木材を提供し手間賃を払って炭を焼いてもらうこともあり、これを「賃焼き」といった。このような炭は養蚕の温暖育、すなわち蚕室を温めることに用いられたが、窯で一回焼くと、一年分の燃料として使うことができたという。

(「相模原市史 民俗編」74ページより、対象は旧津久井郡との合併前の市域が対象)

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、特に、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして蚕室の保温を行った。こうした意味において、養蚕とヤマとの関わりは深かったという。大正時代になると、座間宿に石炭屋が出来て、練炭を売るようになり、燃料は木炭から練炭に変わっていった。また、昭和十二年(一九三六)に陸軍士官学校が移転し、ヤマが減ってしまったため、養蚕組合では一時、麻溝台・大沼・谷口(相模原市)あたりのヤマを買って、薪炭を取りに行ったこともあったという。

養蚕組合が一番最後まで炭を焼いていたというが、炭よりも練炭の方が安く手に入るので、養蚕用の燃料も徐々に木炭から練炭へと変わった。その後、養蚕組合でも、粉炭を買って練炭の製造を始め、レンタンブチと言って、練炭を共同で作ったという。」

(「座間市史6 民俗編」219~220ページより)

家庭用の炭は、たいていはゾウキ(補注:ハンノキなどの雑木を焼いて炭にしたもの)で、良質なカタズミ(補注:クヌギ・ナラ・カシを焼いた堅炭)は、養蚕やお茶作り用に使われた。深見あたりでは、とくにお茶作り用にホイロ(焙炉)で使う炭を買いに来る人が多かったという。

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、ことに、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして、蚕室の保温を行った。春蚕(はるご)の時期は、二眠くらいまでの稚蚕期には、蚕室の炉の中へ炭を伏せ込んで暖をとるため、炭の需要が高かったという。しかし、マイシン(埋薪)という、薪も一緒に伏せ込む方法が採られるようになってからは、炭の需要は減ったという。

(「大和市史8(下) 別編 民俗」434ページより、補注は同所の別の箇所を参照の上ブログ主追記)

炭の用途は火鉢などの家庭用と、養蚕での部屋の保温や茶揉みに使うものがあった。中心は養蚕用でああったため、蚕が始まる前は忙しかったという。

(「綾瀬市史8(下) 別編 民俗」137〜138ページより)

炭焼きもまた冬から春にかけての小遣い取りの仕事であったが、大正時代の養蚕の盛んな頃には需要も多く、七、八月を除いてどこでも冬の間だけでなく一年中焼いていた。その頃には年平均三〇俵位は必要だった。それ程養蚕をしなくても、製茶には一俵位必要だし、普通年に一五俵もあれば充分だった。」

(「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」332ページより)


高座郡は明治時代に入って神奈川県内でも特に養蚕の発展が著しかった地域の1つです。同郡の村々は江戸時代には冬場の農閑期に炭焼を行っており、相模国西部の山間の様に年間を通して炭を焼いていた訳ではありませんが、こうした地域が寧ろ明治時代以降の養蚕の隆盛に伴って、その下支えとなる燃料として炭を自給する様になる傾向を示したことになります。「相模原市史」の場合だけ少し傾向が異なりますが、これは大沼新田の雑木林がこの頃には広大になり、外販用の炭焼が盛んになったことが背景にあります。「座間市史」の記述には、同時期に廉価で入手出来る様になってきた石炭との競合が指摘されていますが、石炭の場合は閉鎖空間での燃料として用いるには脱硫したものを使う必要があることから、その加工の手間で必要となる労力や経費を合わせた時にはまだ自前のヤマで焼く炭にも分があったということでしょう。「大和市史」では堅炭を養蚕などに用いる傾向があったことを記していますが、これは長時間蚕室を暖める必要があるために火持ちの良い炭が必要だったからだろうと思います。

近代に入って化石燃料の利用が増えていった中でも、炭は家庭用としてだけではなく、産業用途としても引き続き使われる局面が多々あり、そうした背景の下でなお盛んに炭焼が続けられていた、ということになるでしょう。



当初は4回程度でまとまるかと想定していましたが、思った以上に書くべきことが増えてしまい、今回を含めて8回になってしまいました。改めて、ここまでの記事の一覧を掲げます。


「風土記稿」が愛甲郡の各村の炭焼を取り上げたのは、明らかに小田原北条氏や「御用炭」の由緒を重視したものと言って良いでしょう。山川編で取り上げられた足柄上郡や足柄下郡の炭焼は、相模国全体で炭焼の盛んだった地域を考えると必ずしも地域の選択が妥当であったとは言い難い側面もありますが、相模国も山岳地域を中心に江戸の膨大な炭需要を下支えする地域の一角であったことは確かです。特に穀類の生産に乏しい山間にあっては、炭が村の稼ぎの主力となっていた地域が多く、荒川番所や川村関所でも貢税の対象として重視されていました。

その炭焼も白炭と黒炭に大別され、更に「御用炭」の様に将軍の茶の湯に用いられるものや、鍛冶炭の様に当時の産業用途のものといった種類に応じて炭が焼き分けられていたことも、伝えられている文書類によって明らかです。宮ケ瀬で発掘された「横穴式土窯」や、同地で行われていたと言い伝えられる「ボイ炭やき」の存在からも、相模国で焼かれていた炭が単一なものではなく、必要に応じて炭焼の方法を変えていたことを窺わせます。ただ、現状では当時のその具体的な技術を明らかにするには、史料がまだ充分とは言えない様です。

また、小田原の旅籠・小清水からの発注に見られた様に、炭焼では一度に生産される量が膨大となり、その運搬に必要となる労力も大きく膨れ上がる傾向にありました。つまり、当時の物流にとっても主要な運搬品目のひとつであったことがわかります。その様な品目が「日本木炭史」が指摘する様に運搬し難い性質を持っており、足柄上郡24ケ村が駄賃稼ぎの横暴を訴えた際の文書からも、炭の運搬が陸運にとって「難題」となっていた状況が垣間見えます。江戸時代当時の物流や交通事情を考える上では、こうした荷物の性質についても勘案する必要があると言えます。

江戸時代の相模国の炭については今回でひとまずの区切りとします。後日何か追記すべきことがまとまったら改めて取り上げたいと思います。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

大沼新田の中里源兵衛 - 東屋梢風 - 2016年04月05日 18:29:38

毎回興味深く拝見しています。
また、当方ブログへのご訪問ありがとうございます。

ご存知かと思いますが、大沼新田の中里家は長く炭生産を手がけており、明治期になっても一冬に千俵ほど焼いていた、とのことです。
当主の源兵衛が残した「炭売上帳」(天保2年)によると、生産した炭の販売先として、上麻生・高石・菅生・長沢・長尾(現在の川崎市西部)の炭問屋の名が記載されているとか。
この地域でも炭焼は盛んに行われ、地元の問屋は近郷近在の炭までも買い入れ、合わせて江戸など消費地へ運んで売っていました。
また、炭焼窯に適した粘土を産出し、この粘土が相模原へ運ばれ窯造りに使われたそうです。
以上、『津久井街道 登戸・生田・柿生をたずねて』という郷土史本で読みました。

Re: 東屋梢風 さま - kanageohis1964 - 2016年04月05日 18:42:29

こんにちは。コメントありがとうございます。

大沼新田の場合、むしろ明治時代以降の方が雑木林の面積も拡がり、薪炭の産出が活発になっていった傾向はありますね。あの地域からだと江戸までは陸送一本ですから、江戸により近い地域の炭問屋と組むことで輸送面の不利な部分を補ったという言い方は出来そうです。

炭窯用の粘土の供給地と流通先の問題は地質の分布とも絡みますから、もう少し掘り下げてみると興味深いことがわかるかも知れないと感じました。

- トイプーラブ - 2016年04月05日 22:48:27

いつもすごい量の情報量で
すごいなと 思いながら、訪問させて頂いています。

ご心配お掛けしました。
お優しいお言葉嬉しかったです。 
おかげさまで 元気になりました。
有難うございました<(_ _)>

これからも 宜しくお願いします。

Re: トイプーラブ さま - kanageohis1964 - 2016年04月06日 07:32:38

こんにちは。こちらまでお返事にお越しいただきありがとうございます。

快復されたようで何よりです。今後ともよろしくお願いします。

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