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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【旧東海道】その5 保土ヶ谷宿と今井川(その4)

前回、保土ヶ谷宿に沿って流れる今井川の改修についての疑問点を投げかけて終わりました。今回はその疑問点を検討するために、まず幕末の嘉永5年(1852年)に保土ヶ谷宿から出された今井川改修の嘆願書を引用します。今回は「保土ヶ谷区郷土史」(1938年)に掲載されているものを参照しています。全文を引用すると長くなりますので、今回の話の展開上必要な部分のみに留めます。因みに、残りの部分では(一部引用文中にも見えていますが)川を新たに掘ることによって失われる耕地の年貢の調整や工事資金工面の問題等について触れられています。

乍恐以書付奉願上候

一 橘樹郡保土谷宿役人共一同奉申上候當宿地内今井川之儀屈曲多く別而東海道往還字中ノ橋ニ而往還を東(より)西へ相流レ川下ニ至帷子川ゟ落合尙又東海道往還字帷子橋ニ而往還を西ゟ東え流出候ニ付水行不宜聊之水ニも中之橋上曲目ゟ宿内岩間町耕地へ一面押開き帷子川之儀も今井川落合之場所水勢相逆ひ水吐不宜川兩緣村々え押開き年々田畑水損御座候ニ付今井川通中之橋上ヨリ岩間町地内長四百間餘掘立候得ハ兩川共水行宜敷水災之愁無御座候ニ付新規掘立之儀奉願上度奉存候得共多分之人足相懸其上新川敷潰地御年貢諸役仕埋方手當備金旁多分之入用相懸り候事ニ付自力難叶年來打過罷在候處

…(中略)…

右之趣を以御伺被成下御下知相濟掘立方取懸候處新川深幅共目論見通ニ而ハ水行相滯候場所も有之新川掘立場處ゟ川上之方も敷下ケ洲浚切廣等不仕候而ハ水行不宜候ニ付夫々掘立浚方等仕漸皆出來仕見込之通水行宜敷罷成此上水難之愁有之間敷と難有仕合奉存中之橋之儀も取崩跡埋立往還平地ニ罷成右前後古川敷埋立町並屋敷御高入奉願上其餘古川敷之儀も追々埋立…(以下略)

橘樹郡保土谷宿

嘉永五年

子十一月廿二日 (以下連署)


当初は中橋の下流側に新たに堀を切るに留める見立てを幕府に打診したところ、それでは溢水に対応しきれないことから中橋上流側まで川底を掘り下げ中洲を浚うところまで対応したことがわかります。それはさておき、私が重要だと思うのは上記中太字にした箇所で、本流である帷子川について触れられていることです。「水勢相逆ひ」とは恐らくここが感潮域(河口付近で上げ潮時に海水が逆流してくる区間。現在の帷子川では、凡そ星川駅付近までが感潮域)であることを指していると思います。こういう所では上げ潮の時間帯に増水すると溢水の可能性が高くなりますが、単に川筋を直線的にしただけでは必ずしも所期の目的を達成できるとは限らないことが関係者間で認識されていたのではないかと思えるのです。

それに加えて、以前神奈川湊周辺について取り上げた時に触れた様に、帷子川は元々河口付近が埋まりやすい傾向を持っていた上に、富士山の宝永の大噴火によって火山灰が大量に運搬されて埋まっていく状況がありました。この影響は当然今井川にも及んでいた筈です。支流側で埋まった火山灰を取り除いたところで、本流の河口に溜まった土砂の方を十分に取り除いてもらえないと、支流の増水時にそこで滞留してしまうことになります。もっとも、降灰の影響を受けた相模国内や武蔵国南部の河川はどこでも川浚いに追われていたでしょうから、そこについてはこの嘆願書では敢えて触れずに済ませたのだろうと思います。飽くまでも今井川固有の事情を訴えて資金の補助を請願する段取りですから、降灰の件について触れてしまうと「それは周辺の他の河川でも同様の事情なのだから今井川だけ特別扱いという訳には行かない」と突き返されてしまいます。

その観点では、今井川が度々保土ヶ谷宿を水浸しにしてきたのは、果たして本当に中橋のS字の蛇行だけが問題であったのか、些か怪しい面があると思います。「聊之水ニも中之橋上曲目ゟ宿内岩間町耕地へ一面押開」く状況になったのは、上流から流れてきた火山灰が屈曲の急な箇所で溜まりやすいために川浚いが追いつかない状況になってしまったからではないかとも取れるのです。出来れば保土ヶ谷宿の冠水の記録と宝永大噴火の時期との相関が取れると良いのですが、そこまでの集計は今のところ難しい様なので、ひとまずこれは可能性だけ指摘するに留めます。

保土ヶ谷宿付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」から)
無論、それでも保土ヶ谷宿の道筋を直道化した際に、今井川も帷子川まで最初に直流化してしまえば…という見立てもあるとは思います。しかし、保土ヶ谷宿本陣家であった軽部家に伝わる「保土ヶ谷宿絵図」に見られる様に、明らかに人工的に掘削された水路になっているのは、街道がほぼ直角に曲がる地点を中心にしてその上流側と下流側の限られた区間だけで、中橋より下流は自然の流路のままに残されていることがわかります。なお、ネット上では「保土ヶ谷宿絵図」が「有鄰」の鼎談に掲載された小さなものしか見つかりませんでしたので、「東海道分間延絵図(保土ヶ谷神戸町の神明社のサイトにリンク)」の方を参考に…と思ったのですが、どういう訳かここでは今井川が中橋の上流側でも蛇行した姿で描かれており、ここに関しては適切ではありません。上記の嘆願書でも中橋の上流側は「新川掘立場處ゟ川上之方も敷下ケ洲浚切廣」に留まっており、それでも迅速測図では 東海道がほぼ直角に曲がった辺りから北へ一直線に伸びる姿で描かれている訳ですから、「保土ヶ谷宿絵図」の描き方の方が正しいことがわかります。

この人工的な水路になった辺りには本陣はもとより脇本陣や問屋場等、宿場の中枢に当たる施設が集中しています。ここから、普請が最も集中的に行われたのはこの辺りで、今井川の流路の付け替えはそれに付随して行われたのだろうと推察できます。恐らく、本陣付近で今井川が東向きから北向きへと大きく流れの向きを変える辺りでは、川の一般的な性質に従ってカーブは外側へと膨らんでいたと思われるのですが、そこから下流はもっと山際に近い場所を流れていたのでしょう。それを、街道沿いに旅籠などを建てられる程度の土地を確保できる様に東側へと付け替えたものの、それより下流は手を付け難いと判断して、中橋で従来からの自然の流路へと復帰させたのでしょう。

その理由については、あまり潤沢に資金を使えない中では今井川の流路の付け替えはこれが限度だった、と単なる経済的な要因とも考えられます。しかし穿った見方としては、感潮域の近い細流を迂闊に付け替えると、却ってそこから潮が上がりやすくなって水田に海水が入ったりする悪影響が出かねないので、そちらを懸念して敢えて手を付けなかったとも受け取れます。これも江戸時代初期の記録が出て来ないと俄に判断できませんが、その後永年にわたって中橋の溢水に根本的な手を打たなかった点と併せて考えると、必ずしも不用意な判断でこの様な施工をしたのではなく、こうした考慮点を入れて判断したのではないかと思えます。

さて、こうして行われた今井川の付け替えによって、かなりの残土が発生しました。その量3000立坪、メートル法に換算すると約18000㎥。高さ3mほどの土塁を築くと仮定して6000㎡の敷地を確保できる量ですから、かなりの量の残土が出たことになります。丁度お誂え向きに、当時江戸では黒船の襲来に備えて台場の建設が行われていたので、そこに目を付けた名主がこの残土を台場に供出して片付けたのでした。

ところで、これは当然新たな流路を掘ったことによる残土ではあるものの、その全てが不要になった訳ではない筈です。上記の嘆願書にもある通り、付け替えが完了したら旧流路を埋めなければなりませんから、その残余分を拠出したことになります。しかし、完全に直線化した新しい流路に対して旧流路は山際を迂回しているので、旧流路の方が多少なりとも長かった筈です。実際は中橋の上流側でも川底を掘っていますから、その分も合わさっているとは言え、それでも差し引きで残土が大量に出るということは、旧流路に比べて新流路は川の断面積がかなり大きくなった計算になります。

しかし、現在の高度な改修が施された今井川を見ても、川幅は精々10数mほどしかありません。他方、前回の「新編武蔵風土記稿」の記述の通り、当初の今井川の川幅は約10mですから、川幅はさほど広がっておらず、専ら川を深くする方に施工の主眼があったことがわかります。先程も触れた通り潮の遡上への懸念はあったと思われますが、それよりは滞水時に少しでも水が溢れない様にする方を優先したのでしょう。あるいは当時既に更に下流で新田開発を手掛けていますので、そういう水域であっても対策する方法への目処を付けていたのかも知れません。

今井川→帷子川合流地点
今井川→帷子川合流地点
今井川地下調節池の案内
今井川地下調節池の案内
勿論、流域の多くが宅地等に転用された現在では川底の掘削だけでは対応し切れず、両岸にコンクリート製の堤防を屹立させ、更に上流部に地下トンネル式の調節池を設けて上流からの増水を一旦受け止める様になりました(右の写真は同地の公園に立てられている案内)。左の写真は現在の今井川の帷子川への合流地点(帷子川も流路を付け替えられていますので、江戸時代の位置とは異なります)ですが、右隅に見えている堤防の高さは1.5mほどあります。横浜市の財力と人口の密集状況があってのことではあるものの、江戸時代の治水と並べて見るにつけ、「隔世の感」どころでは済まない隔たりを感じてしまいます。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
(2013/11/26):レイアウトを見直しました。
(2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを、「今昔マップ on the web」の埋め込み地図に置き換えました。


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