「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その5)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回から愛甲郡図説に取り上げられた村々の由緒を確認します。

愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編でのみ取り上げられた足柄上郡・下郡の各村のうち、各村の記述で炭焼について触れられていたのは宮城野村と土肥吉浜村のみでしたが、愛甲郡の6村については一転してどの村も記述が厚めになっています。結論を先に書いてしまえば、愛甲郡の村々が炭の産地として「風土記稿」に取り上げられたのは、各村に伝えられる「由緒」の故であることが、山川編や愛甲郡図説の文面に既に見えています。その点で、この6村は他の郡の炭焼とは一線を画す存在と言えます。

この由緒は、煤ヶ谷(すすがや)村(現:清川村煤ヶ谷)と、それ以外の三増(みませ)・角田・田代(以上、現:愛川町)・中荻野・下荻野(以上、現:厚木市)の5村の2種類に分けて見ることが出来ます。まずは戦国時代末期の由緒を伝える煤ヶ谷村から先に見てみましょう。ここでの「風土記稿」の記述は由緒を示す文書の引用が特に長くなっていますが、今回は敢えてその部分も可能な限り含めます。なお、一部の文書で村名が「すゝがき」と記される例がある点についても「風土記稿」中で別記されていますが、ここでは省略します。

北條氏分國の頃は

  • 板倉修理亮 【役帳】曰、板倉修理亮十五貫文、中郡煤ヶ谷領家方下古澤共、大普請時半役六十三貫三百八十文、同所癸卯檢地增分、此役重而惣檢地上改可被仰付以上、七十八貫三百八十文、
  • 井上加賀守 六十五貫七百五十文、煤ヶ谷井上加賀守地所吉澤共、此内九貫四十七貫七百五十文、癸卯檢地增分、
  • 同雅樂助 十二貫七百五十文、煤ヶ谷地方井上雅樂助、此内九貫七百五十文、癸卯檢地增分

等知行す、其頃村民炭を燒て每年十二月小田原に貢ぜし事、

  • 元龜二年十二月 名主傳兵衞所藏文書曰、傳馬八匹無相違可出之、御臨時之炭自煤ヶ谷參分被召寄、御用可除一里一錢也、仍如件、未十二月二日自厚木小田原迄、宿中幸田奉之、
  • 天正元年十二月 傳馬十二匹可出之每年相定すゝがき炭五十俵被召寄御用也、仍如件、癸酉十二月すゝがより小田原迄江雪奉之、
  • 五年十二月 傳馬八匹可出之すゝがき炭届用可除一里一錢者也、仍如件、丑十二月十六日すゝがやより小田原迄宿中、
  • 十三年十二月 傳馬十二匹可出之每年被召寄、すゝがき炭五十俵被召寄、御用也、仍如件、酉十二月すゝがきより小田原迄宿中江雪奉之、以上數通の文書、皆北條氏の傳馬朱印を押す、

の文書に見えたり、今も土人農隙に是を燒活計となせり、白炭と呼り、又此地良材に富るを以て小田原に運致せし事、

  • 天正七年五月 御備曲輪御座鋪幷塀材木…以上貳百卅三丁、木數以上貳百七拾七人、山造口養四貫七百九文、坂間鄕寅歳年貢秩父前より可出、以上五百五十四人、人足、以上右來六月晦日を限而必可爲出来、然者材木之寸方少も無相違樣堅可申付候、若於妄之儀者奉行人可處巖科者也、仍如件、天正七年己卯五月二十六日山奉行、板倉代井上代安藤豐前奉虎朱印あり、按ずるに、文中地名を載ざれど、板倉井上は其頃の地頭なれば、當所の山より出せしは論なし、
  • 十六年七月 三間梁百間之御藏材木、煤谷へ申付分二百八十本、柱長九尺五寸方五寸、山造九十三人、人足五百六十人、五十丁、棟木土臺長二間方四寸、六寸、同廿五人、同百人、六十丁、棟木長二間方五寸、同三十人、同百二十人、百丁、短柱長二間方五寸、同五十人、百丁、小貫立長八尺五寸方四寸、此代二貫文、以上百九十八人、山造口養三貫三百六十六問、以上九百八十人、人足、倩賃、十九貫六百文、以上二十六貫九百六十六文、右八月廿日可爲出來、此日限至于蹈越可被懸巖科者也、仍如件、天正十六年戊子七月十三日、板倉殿安藤豐前奉、虎朱印、

の文書に所見あり、

◯舊家傳兵衛 世々里正を勤む、北條氏より炭材木等の事に依て出せし文書七通其分前に出す及豐太閤の制札を藏す 先祖は井上氏なりしが按ずるに、【役帳】に當所の地頭井上加賀守、同雅樂助とあり、是等の支族なる歟、御打入の頃氏を改て山田千阿彌宗利と號し、當村に在て豆州金山より出す材木及炭等の御用を奉りし人に附屬して其事を辨ぜしとなり、夫より子孫連綿して今に至る、

(卷之五十八 愛甲郡卷之五 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、扱いも以下同じ、適宜リスト化して整形、…は中略)



愛甲郡清川村煤ヶ谷の位置(Googleマップ
「日本木炭史」では、この4件の文書について「新編相州古文書」という文献から引用していますが(91〜93ページ)、この「新編相州古文書」は元来が「風土記稿」の編纂に当たって各村から収集した文書を書き写した史料集です。「日本木炭史」に載っている他の史料を勘案しても、恐らくこれらの文書が、相模国での炭焼の行われていた具体的な地名が確認出来る最も古い記録ということになるでしょう。勿論炭焼自体はそれ以前から相模国内でも各所で行われていたに違いありませんが、元亀2年(1571年)以前については今のところ裏付けを取ることは出来ないことになります。年代的には小田原北条氏の4代目氏政から5代目氏直の頃に当たります。

煤ヶ谷から小田原までの道筋(概念図)
煤ヶ谷から小田原までの道筋(概念図)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの4通の記録によれば、煤ヶ谷で焼かれた炭は伝馬によって小田原まで運ばれたことになります。当時の継立場がどの村に配置されていたかなど、具体的な経営実態は不詳ですが、煤ヶ谷からは伊勢原まで下って矢倉沢道へと出て(この間約2里半)、ここから更に関本を経て小田原までは7里程にもなりますから、かなりの長距離を陸送したことになりそうです。輸送量や積み荷へのダメージを考えると、あるいは煤ヶ谷から玉川沿いに岡田へ向かい、そこから相模川の水運に載せて小田原まで運んだ方が、多少遠回りでも利があったのではないかとも思えますが、少なくともこれらの文書からは、水運を部分的にでも活用したことを窺う事は出来ません。


また、この地は良材の産出にも長けたとしており、小田原からの求めに応じて伐り出した木材を運び出していたことを明かす文書が2通掲載されています。その際に併せて莫大な数の人足を求められており、この村にかけられた負担がかなり大きなものであったことが窺い知れます。更に、運び出す前に狂い無く採寸することが求められており、角材などの形にしてから出荷していたことがわかりますが、煤ヶ谷から小田原までの距離を考えると、折角製材しても運送中に傷が付くなどの影響などはなかったのかが気になります。もっとも、そもそも陸路しかない地から丸太のままで木材を運び出すこと自体が極めて困難であることを考えれば、予め多少なりとも製材して細分化しないことには搬出出来ないという事情が優先されたのかも知れません。因みに、一旦製材した後は水気に曝してしまうと寸法に影響が出てしまいますから、この状態にしたものを運ぶ以上は水を被りかねない海路を行く訳に行かず、やはり陸路を考えていたことになりそうです。

ともあれ、煤ヶ谷から小田原までのこの距離を考えると、確かに優良な森林資源の供給地ではあったのでしょうが、それにしてももっと近隣にも供給地があった筈ではないかと考えたくなります。江戸時代になって、足柄上郡での炭の産地が多々記録されている状況から見ても、距離的にはこれらの地の方が近傍にあるのですから、炭の供給の主力になりそうなのは戦国時代にあっても足柄上郡・下郡域の方が先であってもおかしくはありません。しかし、江戸時代の消費量に比べれば煤ヶ谷の4通の文書に記された炭の量は決して多いとは言えませんが、煤ヶ谷村に同様の文書が複数残っている状況からは、この遠隔地からの炭の供給が常態化していたことがわかります。

戦国期の類似の文書が相模国内の他の地に伝わっていませんので、当時の相模国の炭や他の森林資源の供給状況の全貌はわかりません。しかしながら、小田原からこれほど離れた地に対して多大な負担を強いて炭や木材を供給させていることからは、あるいは小田原に近い山の木々がかなり伐り尽されてしまっていて、遠隔地にまで手を広げないことには小田原の求めに応じられない程になっていたのかも知れません。無論、その背景には氏政の頃に小田原北条氏の勢力が関東一円に拡大していたため、その戦力に必要となる武具の生産が更に必要であったこと、小田原の町も相応に人が集まり、都市化が進んでいたこと、武田氏による小田原包囲時の城下への放火による建物への損耗などの影響があったと考えられるでしょう。

「風土記稿」では、江戸時代に入ってからも煤ヶ谷村が炭焼を行って農間渡世をしていることを書いていますが、同村の延享元年(1744年)12月の村明細帳でも

一男耕作之間ニ者白炭・鍛冶炭・真木・薪勝手次第山稼仕、厚木町市場道法弐里余附出シ売代替渡世送り申候、

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」541ページより)

と記し、白炭や鍛冶炭を焼いていたことを記しています。この時の主な搬出先は厚木までの2里あまりとされており、この距離であれば当時の炭の搬出距離としては比較的近傍であったと言えるでしょう。厚木の町で消費される分に留まったのか、それとも厚木から更に相模川の水運に載せられて江戸まで送られていたのかはわかりません。

他方、三増・角田・田代・中荻野・下荻野の5村の由緒は何れも徳川家康の東国入り後の動きに関するものです。以下、長くなりますが「風土記稿」から関連事項も含めて一通り書き出します。
  • 中荻野村(卷之五十七 愛甲郡卷之四):
    • 御打入の頃より年每に炭を貢せしを以て、諸課役を免除せらる炭百二十三俵を貢せしが、元祿十一年より炭代永を納む、詳なる事は三增村の條に出す、
    • ◯御炭山 西方上荻野村を隔て、角田村に跨れり高十八町峯を界とす、是も下荻野村と入會なり、御打入後此山にて御茶事に用ゐられし炭を燒て貢す當村及三增・角田・田代・下荻野五村より六百俵を貢す、詳なる事は三增村の條に出す、故に此名あり、山中に東照宮を勸請し奉る石の御祠三所二は當村一は下荻野村持、
  • 下荻野村(同上):
    • 當村も前村と同く炭を貢せしを以て諸課役を免除せらる炭六十九俵を貢せしが、元祿十一年より炭代永を收む、
    • ◯御炭山 同[西]方上荻野・中荻野二村を隔てあり、是も前[西山]と同く中村と入會なり山中に東照宮を勸請し奉れる事、旣に前村に云へる如し、
  • 角田村(卷之五十八 愛甲郡卷之五):
    • ◯御炭山 南にあり登十三町程、 中下荻野二村持の御炭山に續き峰を界とす、一に鹽河山志與久可宇也末と云、御打入の後此山にて御茶事の炭を燒て貢ず、故に村民傳馬夫役を免除せられて今に然り當村炭數百二十俵元祿十一年より代永を領主地頭に收む、猶三增村條に詳載す、
  • 田代村(同上):
    • 御打入の頃より炭を貢ずるを以て諸の課役を除かる三增村條に詳載す
    • ◯御炭山 三所にあり、中下荻野・角田・三增等の村々と同く公に炭を燒し所なり當村六十俵を貢ず、後年永錢を地頭に收む、詳なる事は三增村條に辨ず、按ずるに永祿十二年十月三增合戰の時、北條衆當所の山に敗走せしこと、【關八州古戰錄】に見えたるは曰、…以上山々の内なるべし、
  • 三增村(同上):
    • …[天正]十八年小田原陣の時五月豊太閤制札を與へ見まし村と記せり六月東照宮よりも亦賜はれり本多中務少輔忠勝、平岩七之助親吉、戸田三郎右衛門尉忠次、鳥居彦右衞門尉元忠等奉て連署す、御打入の後諸の課役を免除せらる、是每年炭を貢ずる故なり詳なる事は御炭山の條に出す、
    • ◯御炭山 北方にあり登五町程御打入の時三州より從ひ奉りし農氏三人又左衞門、三郎左衞門、市右衞門と云、子孫今村民にあリ、彼地の舊例に據て當村の山十八町、及角田田代中荻野五村(ママ)の山にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、年每に六百俵を貢ず當村二百二十八俵據て慶長中諸課役を除かる村民又七所藏文書曰、先日者大儀候然者御茶之湯炭御やき候に付て、見ませ千石之所、御鷹之え之上り犬惣別萬諸役引申候間、其分御心得可有之候爲其如斯狀進し候以上、猶々上り上り犬惣別之諸役引申候間每年其分御心得可有候以上、卯九月十日みませの鄕又左衞門殿、九郎右衛門殿、參木部藤左衛門華押、伊丹理右衞門華押 按ずるに、又七小野澤を氏とし、祖又七は天文十二年八月十日死し、今に連綿すと云、享保十三年にも伊奈半左衞門忠達承り改て免除の下知あり相州愛甲郡三增村・角田村・田代村・中荻野村・下荻野村右五ケ村、此度人馬相免候儀者、先年權現様御入國之節三河國より又左衞門、三郎左衞門、市右衞門御供仕、其上御茶之湯炭御吉例として六百六十俵宛御本丸江每年御上納仕候譯に付、朝鮮人琉球人數度之來朝之節、人馬御免幷御鷹御用何に而も御免被下候趣願出候に付、願書留置相免者也、享保十三年申二月 加藤武治右衛門栗田彌藤治池田文八郎今本書は失ひて冩を藏、 元祿十一年より炭代として、永錢を領主に納む、今も山中に炭竃あり、
    • ◯三增峠 乾の方志田山御炭山の中間、長竹村津久井縣に屬に跨り、峯を界とす登凡五町、道幅二間、永祿十二年合戰ありしは此麓なり、其頃は芝山なりしを【甲陽軍鑑】大全曰、此時は皆柴山なり、今は大形木立なり云々、 天正十八年七月東照宮關東へ遷らせ給ふの時、此峠を御遠見あらせられ、安藤彦兵衛直次、彦坂小刑部元正或は直道に作る、小栗忠左衞門久次等に命ぜられ、樹木を植しめらる、【大三川志】曰、天正十八年七月廿九日神祖小田原を發し放鷹し給ふ、甲相の境三增峠を望み、永祿中の戰場を遙に望み給ひ、此山森々と茂らざるに依て、永祿中武田信玄備を壘て押通り、北條の兵を敗る、此地敵國の境なれば備有る可き處也北條家武装衰へ此地の見透く如くしたるに依て敗軍す、今より雜木を植茂らせば、敵の軍備も容易には成難しと、安藤彦兵衞直次、彦坂小刑部直道、小栗忠左衞門久次に此山を茂林になす可しと命じ給ふ、又故老諸談其餘の書にも此事見ゆ、其傳異同あれど、意同ければ略す、故に今雜木繁茂せり、

(前文を受けて「同」等と表記したり、表記が欠落している箇所については、その意味する所を[ ]に表記)


5村では何れも、家康が東国入りを果たした後、茶の湯用の炭を焼かせるために「御炭山」を設け、年に5村合わせて600俵余りを貢ずる様になったこと、その見返りに諸役を免ぜられていたこと、そして元禄11年(1698年)から炭ではなく代永銭を領主に納める様になったことを書き記しています。

中荻野・下荻野・角田の御炭山の位置(推定)
中荻野・下荻野・角田の「御炭山」
角田村の「御炭山」については推定地
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
今回はまず、ここで記されている「御炭山」の位置を可能な限りで示します。名前は同一ですが、実際は複数の山が「御炭山」と呼ばれていました。御用地であることを知らしめる意を強く含んでいた地名と言って良いでしょう。

最初に中荻野村と下荻野村の「御炭山」は、何れも上荻野村の北側にある飛地に位置していました。Googleマップ上で厚木市下荻野中荻野の範囲を表示させると、どちらも南側の本村に対して北側にかなり広い飛地が点在していたことが観察出来ます。「厚木市文化財調査報告書 第36集 厚木の地名」(1996年 厚木市教育委員会)によれば、これらの地は明治時代に入っても「炭山」という小字として存続していましたが、中荻野の方はその後「狐平」という小字と合併されました。右の地図ではこの「厚木の地名」の付図から場所を特定しています。現在はこれらの地はゴルフコースになっている様です。

次に角田村の「御炭山」については、「愛川町文化財調査報告書 第15集 あいかわの地名—高峰地区—」(愛川町教育委員会 1985年)では「今回の調査にあらわれなかったもの」として「風土記稿」の引用を掲載(72ページ)しているものの、場所については記載がありません。ただ、中荻野や下荻野の「御炭山」と峰を隔てて接している場所にあったとしていますので、上記の地図ではこの記述を頼りに凡その場所を指し示しています。位置関係としてはこの3村の「御炭山」が相互に近接していたことになるものの、角田村の「御炭山」は中津川渓谷のかなり急な赦免に面しており、また炭窯の設置場所として南面が好まれる中でやや北向き加減なのが気になります。



愛川町田代の位置(Googleマップ

三増の御炭山の位置(推定)
三増の御炭山の位置(推定)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
田代村については「御炭山」が3箇所にあったと「風土記稿」は記していますが、「愛川町文化財調査報告書 第18集 あいかわの地名—田代地区—」(愛川町教育委員会 1989年)では「その所在ははっきりしない。」(9ページ)と書いており、「風土記稿」にもその場所を推定すべき手掛かりとなるものが見えないため、現在の愛川町田代の町域内の何れかということ以上は不明です。田代村の中間を中津川が流れ、両岸に山が連なる地形であるため、この両岸に分散していた可能性は高そうですが、これも推測の域を出ません。

そして三増村の「御炭山」ですが、これについても上記の「あいかわの地名—高峰地区—」では角田村の「御炭山」同様、「風土記稿」の引用を提示するのみで、その場所については記していません(71〜72ページ)。ただ、「風土記稿」の村の北にあったとする記述と、「三増峠」が「志田山」と「御炭山」の間にあったとする記述から、三増峠の西にある志田山に対し、御炭山が三増峠の東に位置していたことがわかります。右の地図ではこの記述を頼りに凡その位置を示してみました。

ここまでで大分長くなりましたので、この5ケ村の「御炭山」については、次回もう少し掘り下げて検討します。



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