スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その4)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に続き、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

前回は現在の山北町域に属する村々の状況を、同町の町史で確認しました。これらの村々は「西山家(やまが)」に属することになりますが、「東山家」に属する現在の松田町域の炭焼については、同町が発行した「まつだの歴史」に次の様に記されています。

貞享三年(一六八六)「稲葉家引継書」に「松田村の内くぬき林を立置、毎年一念炭焼申し候、炭竃損い候えば、軽奉行これを遣し修覆仕り候、竃数壱口、炭焼八郎右衛門、才兵衛・理右衛門・太郎兵衛・小右衛門」とあり、小田原藩領内でも相当の産地であったことがうかがわれる。

万延二年(一八六一)の史料をみると、小田原領二十四ヶ村の農間稼炭買主の中に、弥勒寺村の市郎兵衛と中山村の源之丞の二名の名前が見える。この者たちは農間稼ぎに炭を仕入れて江戸に扶ちているのである。

松田は炭の生産が盛んだったようで、貞享三年(一六八六)の金手村・山北村・堀之内村(現小田原市)・宮の台村(現開成町)などの村鑑(むらかがみ)を見ると「松田惣領村炭釜手伝人足御用次第出し申候」とあり、炭焼きが盛んであったことがわかる。また大寺村・虫沢村なども炭焼きが盛んに行われていたようである。

一金拾五両也

右は友八炭山仕入金(たし)かに受取り申候、もっとも来る十月中に急度(きっと)五百俵相渡し申すべく候、念のためにかくのごとくに御座候

以上

(文化・文政年間か)九月廿二日

相州大寺村

中津川銀左衛門(印)

白子屋清五郎殿

これは、友八(大寺村の者)の炭山仕入金を確かに受け取った。十月中に必ず五百俵の炭を小田原宿の旅籠である白子屋に納めるというものである。

(上記書137〜138ページより)



松田惣領の位置(「Googleマップ」)
松田惣領は東山家と呼ばれた村々の南に位置し、村内を矢倉沢往還が通じ、継立場としての色合いの濃い村ですが、江戸時代初期には稲葉氏の代の小田原藩の主要な炭焼場であったことが史料に見えています。しかし、史料の日付を良く見ると、惣領での炭焼が盛んであったのは江戸時代初期で、その後は北側の東山家の村々へと炭焼が移っていった様に見えます。あるいはこの地域でも、当初は比較的交通の至便な場所で炭を焼いていたものが、前回見た様な山資源の問題で山奥へと炭焼場が移っていったのかも知れません。実際、前回の引用文中にあった、虫沢村の村民が隣の皆瀬川村にまで入り込んで炭を焼いていた事件も、入会地の炭材の不足が背景にあったと考えられ、炭材の確保が次第に難しい状況に陥っていったことが窺えます。

大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
青線は甲州道、紫は矢倉沢道、赤は東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
ここで掲載されている大寺村の文書の宛先に小田原宿の旅籠である「白子屋」の名前が登場しますが、この旅籠は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中でも、小田原に着いた弥次郎兵衛の台詞の中で「おいらァ小淸水(こしみず)白子屋(しらこや)に、とまるつもりだ」という形で紹介されています。この旅籠について他の記録を見ることは出来ませんでしたが、脇本陣であった「小清水」と共に名前が挙がっている訳ですから、それに匹敵するだけの格式を持っていた、比較的大きな旅籠ということにはなるでしょう。この旅籠が発注した500俵の炭は、恐らく旅籠の業務で使う分が主と考えられます。これが1年分と仮定すると1日当たり平均1俵と1/3程度の炭を1つの旅籠で消費する計算になります。1俵当たりの重さが記されていませんので総重量は計算出来ませんが、仮に小さな4貫(15kg)入りの俵としても500俵で7.5トンになり、1日平均20kg程度を消費する計算です。かなりの量である様に見えますが、宿泊客に出す料理の熱源の他、冬場の暖房に火鉢に入れる分など、旅籠で必要となる局面が意外に多いこと、旅籠に宿泊する客の多さを含めて考えると、これでも年間分としてはギリギリということになるのかも知れません。

これは炭の送付先に江戸以外の宛先が具体的に記された史料としては興味深い一例と思います。大寺村からですと、麓の松田惣領まで運び出せば(この間も中津川沿いに2里以上の距離がありますが)、そこから小田原までは矢倉沢道で一旦関本へ向かい、更に甲州道を南下する経路の継立で運び込めるでしょう。とは言え、1俵の重さ次第で馬1匹に積める俵の数も変わりますが、全体で500俵分となると、何れにせよ延べでかなりの回数馬が往復する必要があるでしょうから、その輸送費だけでも馬鹿になりません。また、9月下旬に受注して10月中に500俵納品完了というスケジュールですから、1ヶ月あまりで全ての業務を完了するにはそれなりに人を雇う必要もある筈です。予め相当額の仕入れ金が支払われているのは、そうした必要経費を充当しないことには、これだけの量の炭焼に対応出来ないから、ということになります。


山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
さて、「風土記稿」山川編に取り上げられた炭焼の村々のうち、東西山家の全16村については、各村の記述の中では炭焼に触れられていませんでした。これに対し、箱根山中に当たる宮城野村については、「風土記稿」の同村の記述にも

農隙には男は炭を燒、女は蓑衣を製して活計を資く、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と記されています。ただ、この村の炭焼の実情については他に史料を見出せなかったため、詳細は不明です。なお、西隣の仙石原村は山奥に位置することと間に仙石原関所がある関係で、通常は炭焼は行っていませんでしたが、弘化2年(1845年)には凶作によって村が困窮する事態となったため、関所に十分一銭を納める条件で一時的に炭焼を行う許可を求めた文書が「神奈川県史 資料編9 近世(6)」に掲載されています(860〜861ページ)。この文書では文化10年(1813年)から3年間炭焼を許可されて困窮時の救いとなったことが記されており、一時的な稼ぎとしてのみ認められていたことがわかります。

もう1箇所、足柄下郡の「土肥山辺」で炭焼を行っていたことが山川編に記されていますが、こちらは「風土記稿」の土肥吉浜村の項に次の様に記されています。

◯土產 △石 △炭土肥鄕中多く燒出せり、都下にて、眞鶴炭と云是なり、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、…は中略、強調はブログ主)


ここで「真鶴炭」という名称が登場しますが、「風土記稿」の真鶴村の項には

◯湊 東西百十五間、南北二百五間、深二丈餘、 東方を港口とす、港とは稱すれど、他國の廻船入津するに非ず、但風浪に逢ひ蹔し港中に泊するのみなり、當今小廻船八艘、石・薪炭 樒、又湯ヶ原温湯等を、都下に運漕す、魚艇五艘俗に生魚船と唱ふ、漁魚を都下に運致するものなり、を置て運漕に便す、海路の里程、江戸へ三十七里、三崎へ十八里、浦賀へ二十三里、下田へ二十六里、網代へ五里、按ずるに、港名古記に見えず、正保國圖に湊と載す、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、強調はブログ主)

とあり、真鶴村の湊が保有する小さな廻船が地元で産出する石の他に、近隣で産出する(しきみ)、湯河原温泉の湯とともに、薪や炭を運んでいたことを記しています。

真鶴村については以前足柄下郡の各村から産出する「石」の産地の1つとして取り上げました。安山岩質の溶岩ドームが海中に突出した形になっている真鶴半島に位置するこの村には、当時は小田原藩主が植えさせた黒松林がありました。今は遷移が進んで広葉樹林になりつつありますが、黒松林は積極的に炭材にするものではなく、「風土記稿」の真鶴村の項でも「林 巽方にあり領主の林なり、」(卷之三十二 足柄下郡卷之十一)とこの黒松林の存在以外には記していませんので、炭材を供給出来る林がなかったのが当時の実態でしょう。従って、土肥吉浜村の記す「真鶴炭」は、飽くまでも積み出し港としてその名が冠されていたことになります。

山川編の

足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、

という書き方では「是を」が指す範囲がその前に登場する村々全てに係る様にも読めてしまうのですが、位置関係から見てもこれは現実的ではなく、土肥吉浜村の記述との整合性からも「土肥山辺」のみを指すと捉えるべきでしょう。とは言え、土肥吉浜村の項の書き方では「真鶴炭」の呼称が江戸で流布していた様に読めますが、実態はどうだったのでしょうか。

この「真鶴炭」の名称が他の文献などに登場する例がないか、可能な限りで探してみましたが、見付けることは出来ませんでした。「湯河原町史 第三巻 通史編」では同町域の炭焼について、地元に伝わる史料を元に6ページほどに渡って記していますが(276〜281ページ)、「風土記稿」に記された「真鶴炭」の名称については触れられていません。同書では文化6年(1809年)の「御用留」の記録を元に、6箇所で全部で27の炭窯を構築し、約10,000俵もの炭を焼いて、山代金120両を入会山のある吉浜・鍛冶屋村に支払ったことが紹介されています。この年には相応の生産規模を誇ったことが窺えますが、実際は炭焼を行う際に根府川関所への願書が必要であったことから、「湯河原町史」では同地の炭焼は断続的に行われていたものと考えられており、その様な状況下では特定の地名が流通時に広く流布する状況はなかなか考え難いところです。

また、最初に紹介した3冊の参考文献のうち、「日本木炭史」では莫大な史料を収集して著されていますが、近世の炭の名称(193ページ)には「相模炭」の名前は書き上げられているものの、「真鶴炭」の名はありません。「木炭の博物誌」には相模国域で産出する炭の名称として「煤ヶ谷炭」「三保炭」が挙げられているものの(214ページ)、やはり「真鶴炭」の名前は出て来ません。無論、まだ探していない書物に登場例があるかも知れませんが、特に「日本木炭史」の様に史料の網羅性の高い文献にすら登場しないとなれば、やはり「真鶴炭」の名が人口に膾炙していた時期が存在したとは極めて考え難いでしょう。

ただ、土肥郷は伊豆に隣接する地ですから、同地の「天城炭」の知名度に対して思うところがあって、それに抗して自分たちの炭を売り込む目的で、石材で著名な積み出し港の名前を炭に冠することを思い付いたのかも知れません。

以上、ここまで津久井県や足柄上郡・下郡などの炭焼の実情を見て来ましたが、これを改めて「風土記稿」の山川編の記述と照して見てみましょう。山川編では足柄上郡の東西山家と宮城野村、足柄下郡の土肥郷の山辺を産地として挙げていましたが、その生産の実情は険しい地形の中から長距離を運び出さざるを得ない制約や、関所の存在などに縛りを受けながら、それでも幕末に向けて次第に生産量が増えていく状況であったことは史料から窺えました。しかしながら、それらの事情の中で産出される炭が、相模国の他の地域、特に前々回に確認した津久井県から産出される炭を差し置いて、相模国の代表的な産物として特記されるだけの特徴を持っていたことを裏付けられる記述には出会わなかったと思います。「山北町史」で一覧化された村明細帳の記述の中には、「白炭」と「鍛冶炭」の名前が見られますので、求めに応じて炭を焼き分けるだけの技量をこの地方も備えていたことは確かでしょう。けれども、そうして出来上がった炭が他の地方から送られてくる炭と比較して特段に優秀であったことを評価する様な記述も見つかりませんでした。

それどころか、足柄上郡・下郡よりも内陸に当たる筈の津久井県の方が、相模川を使った水運を手近に使える分だけ、炭に悪影響を与える陸運の距離を短縮出来ることから、水運が使えない足柄上郡よりも有利な立ち位置にあったとさえ言えます。荒川番所の取り分が5分の1だったのに対し、川村関所の取り分が10分の1と荒川番所の半分だったのも、それだけ山から陸運で運び出すのが困難だったことを領主側も認識しており、こうした事情に配慮していたことを示しています。

足柄上郡や足柄下郡の図説では産物に「炭」が入らなかったにも拘わらず、山川編で改めてこれらの郡の村々が追加されたのは何故なのか、津久井県が産地として取りあげられなかった理由同様に不明です。一連の史料を見る限り、この記述をそのまま当時の相模国の炭の産地の分布として捉えてしまうことには、問題があると言わざるを得ないでしょう。

強いて想像を逞しくするならば、山川編で取り上げられた村々が何れも小田原藩領であったことから、国産方役所の影響を考えてみることは出来るかも知れません。「風土記稿」の編纂に当たっては小田原藩が少なからず協力したと思われること、その結果として産物の記述に少なからず影響が表れたのではないかという見解を以前披露しました。前回見た様に国産方役所は領内の炭の産出についても関与していたことが幾つかの文書に見えていますから、恐らく昌平坂学問所に渡されたであろう領内の産物の一覧には「炭」も入っていただろうと思われます。特に、東西山家の炭の産出については各村の記述にも見えないことから、これらの地の炭焼については国産方役所の様な外部の部署からの情報がなければ、書き加えられることがなかったのではないかと思えます。宮城野村の炭焼や土肥吉浜村の「真鶴炭」も、その過程で山川編で改めて取り上げ直されたのでしょう。

一方、津久井県の村々については幕領として韮山代官所が治めていた期間が長く、文政11年(1828年)に県内の11村が小田原藩領となったものの、太井村(この村は一部が藩領となった)にある荒川番所は引き続き韮山代官所の管轄でした。従って、荒川番所が取り立てていた炭の五分一銭はその後も幕府に納められたことになり、小田原藩は県内の炭の産地を多く所領に得ながらも、国産方役所としては実質的に権限を持ち得なかったことになります。あるいはそのことが国産方から昌平坂学問所へ伝えられた炭の産地の一覧に影響し、結果として津久井県が炭の産地から抜け落ちてしまったのではないか、というシナリオは考えてみることが出来そうです。

さて、ここまで愛甲郡の各村については敢えて触れずに来ましたが、次回はこの村々の炭焼の由緒について見る予定です。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- オータ - 2016年03月21日 12:50:47

こんにちは。いつも、ヤフーの拙ブログに ご評価をいただき ありがとうございます。挨拶が 遅れましたことをお詫びします。

もともとは東京育ちなのですが、北海道へ来て30年になろうとしています。東京農業大学農学部林学科で学びました。
神奈川県に関しては 学生時代に 大山の北部にある東丹沢で シカの生態調査をしたり、多摩丘陵の雑木林をテーマにした卒論で川崎市北部などを歩いた程度です。 とても詳しく ちょっと難しい記事には 恐縮しますが、読み応えがあります。炭焼きですか… 神奈川でも こんなにたくさんの記録があるのです。確かに雑木林、谷戸のある里山を活用した農家の生活の中で 炭焼きも欠かせない仕事だったでしょう。と、これくらいは申せますが…林業を専攻しながら、学生時代ほとんど この勉強をしていなかったので 恥ずかしい限りです。
これからも よろしくお願いいたします。失礼しました。

Re: オータ さま - kanageohis1964 - 2016年03月21日 13:19:32

こんにちは。コメントありがとうございます。

江戸時代の炭焼の記録はその多くが貢税に関するものであったり、流通にまつわるもので、具体的にどの様な炭を焼いていたのかという辺りになるとなかなか事情が窺えないですね。それでも、江戸の様な大きな消費地への供給を支える地域の一角であったことは確かな様です。その辺りの事情が少しでも書き留めておければと思います。

こちらこそ、これからもよろしくお願いします。

- 甚右衛門 - 2016年04月01日 17:17:51

甚右衛門です

コメント拒否の件有難うございました
早速やってみます、うまくいくことを祈りながら・・・

Re: 甚右衛門 さま - kanageohis1964 - 2016年04月02日 11:26:09

こんにちは。こちらまでお越し戴いてお返事ありがとうございます。

無事コメントを復活出来るようお祈りします。

トラックバック

URL :

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。