「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その3)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回から、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

東西山家の村々
東西山家の村々(再掲):赤が東山家、青が西山家
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「風土記稿」山川編で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡の村々の江戸時代の炭焼の歴史について、現代の市町村史の中で比較的仔細に記述しているのは「山北町史 通史編」(以下「通史編」)ということになるでしょうか。その第4編第5章「村むらの稼ぎ」の中で、同町域内の炭焼の実態について伝えられた史料をもとに9ページほど(357〜365ページ)にわたって解説しています。

「通史編」の項ではまず、村明細帳に記された炭焼についての記述をみるところから始めていますが、同書では以下の様にその一覧を示した上で「驚くほど少ない」(357ページ)と評しています。

表4-20 山北町域村むらの炭焼きの記録

村名入会山
皆瀬川

◯正月御飾道具・門ぐい・鬼打木・炭2俵表但し江戸廻し運賃高割りにて納め申し候(貞享3年・1686年)

◯当村の内に釜炭先規より焼き申し候(宝永5年・1708年)

◯男女渡世の儀、耕作の間、男は真木・堅炭・鍛冶炭□□抜山取りつかまつり、女は川村山北へせをいにて下し申し候(元文3年・1738年)

都夫良野

◯当村は山家田畑少なく薪のほか堅炭・鍛冶炭そのほか稼ぎ御座無く候、道法6里小田原宿まで持ち出し代銭替少々ずつにて渡世の足しつかまつり候(享保17年・1732年)

神縄

◯農間稼ぎ方この儀蓑を作り川村辺に持ち出し代に替え渡世のたしにつかまつり候もっとも焼炭もつかまつり候て同断(天保5年・1834年)

谷ヶ

◯当村枝郷(中略)内林先規、稲葉家丹後守様御代まで、焼炭出し申し候えども、その後山伐り尽し出し申さず候、また右の内林木立も御座候に付、先規の通り炭焼き出し申したく候(享保6年・1721年)

◯当村枝郷(中略)銘々所持の内林等焼炭につかまつり渡世送り申し候(元文3年・1738年、延享3年・1746年)

中川

◯農間稼ぎの品、男、炭焼き、女、炭俵わけ(明治4年・1871年)

◯先年、亥の砂降り以前までは角木・才木ならびに雑木・薪川下げ致し渡世につかまつり来り候処、砂降り以後変地まかり成り、売木等中絶つかまつり候、その以後は下駄・木鉢・柝木・炭焼き等渡世につかまつり候事(年不詳)

※「山北町史 通史編」358ページより、年度の後の西暦はブログ主による追記


山北町谷ヶの位置(「Googleマップ」)
現在の山北町域には上記の5村の他に川村向原・川村岸・川村山北・湯触・川西・山市場・世附・玄倉・平山の各村が含まれていますが、この9村のうちで村明細帳が現在まで伝えられているのは川村山北・湯触・川西・平山の4村に留まっており、うち川西村は延享3年の、平山村は寛文12年のものが伝わるのみです。従って、失われてしまった明細帳にも炭焼に関する記述があった可能性は否定出来ませんし、「風土記稿」山川編の記述から考えても炭焼を行っていた村はもう少し多かったと見て良さそうです。

とは言え、残された記述を良く見ると、これらの地域でも江戸時代を通じて常に炭焼が盛んに行われていた訳ではないことが見えてきます。「通史編」で谷ヶ村の例を引いてまとめた次の文章の中に、炭焼の行われなかった時期や要因が幾つか書き上げられています。

谷ヶ村では枝村の畑や三ツ家などで稲葉氏の治世のころから炭を焼いていたが、その後、山の木を伐り尽してしまい、炭が焼けなくなった。さらに宝永四年の富士山噴火による降砂のため炭焼きは完全に中止になった。

その後、村では享保三年(一七一八)十月、炭焼きの再開を代官所に願い出た。炭木の伐採候補地は、退ヶ沢(のけざわ)辰ヶ沢(たつがさわ)大河原(おおがわら)の三か所で、その結果、炭釜一口につき一日あたり八貫目俵で一俵の焼き上げを条件に炭釜三口の再開が許可された。その後、享保二十年からは、七年ごとに小田原藩と谷ヶ村関所に対して、炭焼きの「願継書」を提出するようになった。関所では、この「願継書」をもとに要害山(ようがいやま)での樹本の伐採状況を見分し、要害山として支障がなければ炭焼きを許可していた。また延享四年(一七四七)には、炭釜が三六口に増加された。その後は炭釜数と炭焼き場所が固定され、谷ヶ村関所で炭焼き場所に御定杭を立てて要害山を保護した。

寛延元年(一七四八)八月に、谷ヶ村は炭焼きと諸荷物運搬の許可を求める願いを谷ヶ村関所に提出した。前年の延享四年、富士山噴火後、幕府領になっていた村むらが小田原藩に復帰したが、その際、谷ヶ村農民の稼ぎの中心になっていた炭焼きと諸荷物運搬が谷ヶ村聞所から停止されたため、谷ヶ村では年貢上納に差し支えることを理由に、この停止措置の解除を聞所に願い出た。それに対し関所は七年間に限って、今まで涌りに炭焼きを行ない、炭竃(すみかまど)を三六個以上に増やさないことや関所要害の内や沢前で炭焼きを行なわないこと、山抜けをする者にも気を付けることを条件に炭焼きを許可した(『近世』史料309)。このように支配代官や要害山を管理する関所の許可を得て炭焼きが行なわれていた。

(上記書359〜360ページより、ルビも同書に従う、以下同様)


ここには、山資源の枯渇による炭焼の停止、宝永の富士山噴火による影響、そして谷ヶ村関所の差し止めに伴う中断と、3通りの炭焼中止の要因が記されています。うち、最初の山資源の枯渇に関連して、「通史編」では入会山の炭焼の実情を次の様に紹介しています。

元禄七年(一六九四)、虫沢(むしざわ)村(松田町)の村民が皆瀬川村八丁まで入り込んで炭焼きを行なうという出来事が発覚した。皆瀬川村の北東部、八丁からさらにときん沢を登りつめた辺りに平僧山(へいぞうやま)がある。ここは皆瀬川村・玄倉村・虫沢村の三か村の村境になっている場所で、以前からこの辺りで炭焼きをしていた虫沢村の者が、春ころから八丁近くまで下ってきて勝手に鍛冶炭を焼くようになった。皆瀬川村では、虫沢村の者が自分たちが使わない炭を焼くので、鎌四丁を押収し藩に届け出た(『近世』史料121)。

明和八年(一七七一)三月、川村山北は、八丁奥の皆瀬川村山での炭焼きが原因で水不足が生じているので、山元村である皆瀬川村の同地域での炭焼きの差止めを藩に訴えた。藩からの問い合わせに対して皆瀬川村では、川村山北が申し立てている炭焼き場は、村の苅畑になっているところで小木があるだけである。ここには川村山北だけが入会い、ほかの村の入会場所は別にあり、皆瀬川山の内では、以前からどこでも勝手に炭窯を作り、関所に十分一を納めて炭を焼いて農間の稼ぎにしていた。これまでも炭焼きの停止の話はなかった。近年になり水不足になったからと炭焼きを止められたら、炭焼きのほかに稼ぎもなく生活が苦しくなるので今まで通の炭焼きを続けさせてほしいと回答している。この炭焼き継続の願いは受け入れられなかったため、皆瀬川村では、同年六月になり藩に対し八丁奥での入会地から一里半ばかり山奥に入った地域での炭焼きを願い出ている。

この水不足は炭の焼き出し量の増加にともなう大量の原本伐採が原因で、皆瀬川の水源地の森が荒れたからと考えられる。どこでも勝手に炭を焼いていたことから、入会地の資源の乱伐がその背景にあるといえる。翌九年に両村の間で内済となり、炭焼き停止の区域を八丁奥の東しんなし山、西はからん沢より奥とし、それ以外の山域での炭焼きはそれまで通りとした(『近世』史料334)。

(360〜361ページより)


炭焼以外にも村で使う薪などの伐採の分もあったとは思いますが、炭材自体の枯渇だけではなく、それによる水資源への影響なども配慮しながら、伐採する場所を調整していたことが窺えます。また、炭材が枯渇するにつれて次第に山奥へと炭焼場が移動していく傾向も見て取れます。それは焼けた炭を搬出する距離が更に延びていくことを意味し、それだけ炭の積み出しが困難になることになります。

次に、富士山噴火の影響については以前見た通り、漆の木に対して与えたダメージがかなり長期にわたって続いたことが数々の史料で明らかです。一方、炭焼に関しては享保6年に再開を申し出ているということから、富士山噴火の十数年後には影響を脱しつつあった、もしくは比較的影響が限定的であったと見ることが出来そうです。「山北町史 通史編」では更に富士山噴火後3年しか経過していない宝永7年(1710年)に皆瀬川村の農民に炭焼を許可したことを記しています(359ページ)。実際には「砂に埋まった山畑で採れるわずかな竹を利用して炭を焼いて(360ページ)」いた状態であった様ですが、それでも漆貢税を免除された記録のある都夫良野村の北隣に位置するこの村では、残った森林資源を使って炭焼を何とか維持した様です。

これは前回の津久井県鳥屋村の「奥野山稼出し炭・材木等書上」に見た通り、炭焼の対象となる樹種にかなり幅があり、その中には「かしわ木」の様に寧ろ荒廃した環境を好む樹種まで入っていますから、噴火以前の植生には復旧しないまでも、代わりに荒廃した環境に強い樹種を使って炭を焼く環境が戻って来たということではないかと個人的には考えています。前回見た鳥屋村の様な史料がこの地域で残っていれば具体的な比較が出来るのですが、今のところ類似の文書は見つかっていない様です。

一方、谷ヶ村関所が炭焼を差し止めた件は、津久井県の荒川番所が基本的に徴税のための施設であったのに対し、谷ヶ村関所は箱根周辺の他の関所同様、「要害」を守護する役割が主でしたから、支配が幕領から藩領に戻された際に懸念を感じたということかも知れません。もっとも、川村関所では通過する炭に対して「十分一(じゅうぶいち)銭」を納める条件になっていましたから、その点は谷ヶ村関所と機能面の棲み分けが行われていた側面もありそうです。「山北町史 通史編」ではこうした関所の存在が周辺の地域の炭焼が大きく発展せず、小規模な農間稼ぎの範囲に留まる原因になったと見ていますが(362ページ)、これは次の様な関所の運用が影響したものと言えそうです。

一方、谷ヶ村では、酒匂川右岸に位置する谷ヶ村関所が物資の通行を禁止していたため、同じ右岸に位置する同村の人びとは関所を通って直接平山村経由で荷物を通すことができないため、酒匂川を渡って左岸に出なければならなかった。さらに川村関所を通過するためには山間部にある都夫良野村を通る道に出なければならず、そこへ出るための馬道もなく大変な不便を強いられていた。そうして遠回りをして川村関所に出て、そこで荷物の検査を受け、十分一銭を納めていた。

正徳元年(一七一一)九月、領地替えにより関所の管理が幕府の酒匂会所(さかわかいしょ)に移ったのを契機に、谷ヶ村関所の荷物通過ができるように会所に願い出た(『近世』史料251 )。結果は不許可になり、改めて川村関所を通すように代官から申し付けられた。その後も申請を出したものの許可されず、谷ケ村から平山村へは荷物を通すことはできなかった。

(363〜364ページより)



谷ヶ村付近の明治29年の地形図(「今昔マップ on the web」より)
それでなくても、最初に見た様に、炭は陸運では運び出し難い品目と見做されていました。そういう荷物を、都夫良野村の明細にある様に「道法6里小田原宿まで持ち出し」ていた訳ですから、積み荷の炭への影響もそれだけ大きくなってしまいます。谷ヶ村はそこから更に1里程山奥へ入った場所に位置している上に、更に険しい山道を越えなくてはなりません。そこにこの様な関所の運用による制約が重なって遠回りをさせられているとなれば、とても炭を大量に焼いて里へ送る様な稼ぎに注力出来る状況ではなかったでしょう。



山北町中川の位置。大半が丹沢山中を占める
(「Googleマップ」)
因みに、上記一覧中の中川村の年不詳の村明細には、富士山噴火前には「角木・才木ならびに雑木・薪川下げ致し」と、伐り出した木を筏にして流していたことを窺わせる記述があります。江戸時代には基本的には水運がなかったとされる酒匂川の支流で、それも特に急流となる上流で、中川村の「川下げ」がどの様に行われていたのかが気になりますが、噴火後は地形が変わってしまって水運が出来なくなったために「下駄・木鉢・柝木・炭焼き等」に切り替えたとしている訳ですから、筏であれば運び出せた丸太の様な大きなものが運べなくなり、止むなく陸運に耐えられる様な品々に加工する様になったということになります。この中川村に至る道は「奥山家道」と呼ばれていたことは以前紹介しましたが、この道は幅が精々5〜6尺程度、世附村に入る辺りでは僅かに3尺と記されていますから、とても荷馬を使える道ではなく、専ら人が担いで降りる必要があったのでしょう。

こうして見て行くと、これらの村々での炭の生産には制約が多かったことが見えてきますが、それでも小田原藩に国産方役所が設置された頃から、この地域の炭を少しでも多く流通に載せようとする動きが出て来ます。

文政期を過ぎると、当地方の炭は、小田原藩国産方の統制を受け、各地の仲買人や問屋が売買を扱っていた。その多くは江戸に海上輸送されていた。文久二年(一八六二)の将軍家茂(いえもち)の上洛が触出された際に、藩が使用する炭の量が多くなるとの見込みを藩から示され、江戸への出荷が停止になることがあった。そこで炭問屋側は、炭の相場を書類に認めて提出し、その相場価格で必要量の炭を藩に納め、その余りを江戸に送った。しかし、その後三年間、炭値段が据え置かれたため、慶応元年(一八六五)、幕末の諸物価高騰のなか、焼夫の手間賃・縄、俵の値段、駄賃などが高値になり、炭の値上げを願い出た(『南足柄市史3 資料編 近世(2)』)。その後の顛末(てんまつ)は不明だが、藩の財政再建を目論んだ国産方の思惑をみることができる。

江戸への炭の輸送は、小田原から海路で運ばれた。しかし小田原の海岸には港の設備がないため、山間部から運ばれた炭は、海岸で小舟や伝馬船(てんません)に一度積み替えて沖に停泊している廻船(かいせん)に移された。江戸に運ばれた炭は、取引先の問屋に納められた。天保十二年(一八四一)、谷ヶ村の武尾(たけお)家は江戸の炭問屋「桐屋」に、二度に分けて五〇〇俵の炭を送った。一月に北辰丸で二〇〇俵を、四月に天神丸で三〇〇俵を運んだ。代金は二九両ほどになる。このなかから前金で受け取った金額や二回分の運賃・駄賃等を精算してこの年の取り引きは終わる。嘉永三年になると輸送量は一四三〇俵になった。この年は九回に分けて納め、代金は七七両余りになった。

(364〜365ページより)


小田原藩の国産方については漆について見た際にも登場しました。その過程で藩領内の漆以外の産物についても多少なりとも関与していたことがわかります。実際、前回掲出した「神奈川県史 資料編 近世(6)」の炭焼に関連する10件の史料のうち、文書番号127と128は国産方役所宛ての文書になっています。特に文書番号128「駄賃付馬士不法につき足柄上郡内二十四カ村農間炭買主願書」では、足柄上郡内で生産された炭を運搬する駄賃稼ぎの横暴を改めさせる様に郡内の村々が国産方役所宛てに訴え出たものですが、その冒頭には

乍恐以書付御伺奉申上候御事

一私共農間稼炭仕入江戸送り仕来り候処、近年駄賃附馬士共猥相成、炭俵山出し貫目如何様相改候も、浜納家着迄之間途中ニ而目軽相成候勿論、剰届不足等間〻有之、右准し等閑之廉〻多ク、荷主共甚迷惑仕候…

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」862ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


と、ここにも積み出した炭が海に辿り着くまでに目減りしてしまう状況が記されており、如何に炭の運搬が陸運にとって厄介なものであったかが窺えます。また、ここで「農間稼炭買主」として捺印署名している村々の名前を見ると、
  • 川村山北
  • 川村岸
  • 川村向原
  • 中川村
  • 神縄村
  • 湯触村
  • 川西村
  • 都夫良の(野)村
  • 皆瀬川村
  • 弥勒寺村
  • 中山村
  • 大平村
  • △大平台村
  • 猿山村
  • 雨坪村
  • 苅野岩村
  • 苅野一色村
  • 内山村
  • 平山村
  • 谷ヶ村
  • 矢倉沢村
  • □竹之下村
  • □桑木村
  • □柳嶋村
と、足柄上郡のみではなく足柄下郡(△を付した村)、更には足柄峠の向こうの駿河国駿東郡の村(□を付した村)まで入っており、炭焼の渡世に関わる村が広範囲に広がっていたことがわかります。


今回は「山北町史 通史編」の内容を一通り確認するだけで随分と長くなってしまいました。次回山北町域以外の状況を見て「風土記稿」山川編の記述について触れます。




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この記事へのコメント

- aunt carrot - 2016年03月18日 08:19:52

関所と険しい山の地形、、、
大変な苦労で炭を焼き、運んでいたのですね。
昔の人たちの苦労の一旦を知ることができました。
いつもありがとうございます

Re: aunt carrot さま - kanageohis1964 - 2016年03月18日 08:37:20

こんにちは。コメントありがとうございます。

炭が振動に弱く、特に陸運では運び難い性質があるという「日本木炭史」の指摘は私にとっても盲点でした。この点と水運の有無による有利不利が重なって、炭焼を行おうとする村々に様々な影響を与えていたのだろうと思います。そういう中で炭材が次第に山奥に行かないと手に入らなくなるというのは、相当に頭の痛い状況だったでしょうね。

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