「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その2)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回はまず、「山川編」で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡の炭の産地について考える上で、相模国の炭の産地が他にどの地域に分布していたのかを確認するところから始めます。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には近世の産業にまつわる史料が集められていますが、その産業編第2部「林業と石材」中に「炭」にまつわるものを集めた項があります(846〜865ページ)。ここには全部で10件の史料が収められていますが、その表題や日付を一覧にすると次の通りです。

番号表題日付
120津久井県村々生産炭・木材等荒川番所五分一運上定値段定書延享4年(1747年)6月
121足柄上郡谷峨村炭焼運上等赦免につき請書寛延元年(1748年)8月
122足柄下郡米神村炭焼願につき根府川村故障無き届書天明4年(1784年)12月
123津久井県鳥屋村奥野山稼出し炭・材木等書上寛政2年(1790年)2月
124津久井県牧野村運上炭焼出し赦免願文化4年(1807年)3月
125愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳天保5年(1834年)8月
126足柄上郡仙石原村困窮につき炭焼願弘化2年(1845年)11月
127足柄上郡皆瀬川村・川村山北困窮につき平僧山にて炭焼願安政6年(1859年)8月
128駄賃付馬士不法につき足柄上郡内二十四カ村農間炭買主願書万延2年(1861年)2月
129津久井県与瀬村新規炭焼請書文久2年(1862年)10月
※「神奈川県史 資料編9 近世(6)」より各史料の見出しを拾い上げたもの。番号と日付は漢数字を算用数字に置き換え。

無論、「神奈川県史」に収録された史料は県下に伝わるものの全てではなく、県史編集者が必要性を考慮して見繕ったものが収められている訳ですから、ここで挙がっている文書の関与する土地だけが相模国内での産地として限定される訳ではありません。しかし、少なくとも主だった産地と考えることは出来るでしょう。この10部の文書の関与する産地としては、「風土記稿」で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡・愛甲郡の他に、津久井県の名前が文書番号120・123・124・129の4件で登場します。



荒川番所の位置(再掲)現在は津久井湖の水面下
「新編相模国風土記稿」卷之123太井村「荒川橋之図」
「風土記稿」卷之百二十三より「荒川橋之圖」
夏場には船渡しだが冬場で仮橋が架けられている
図の中央の大型の建物が荒川番所
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当図部分のみ抜き出し)
その最初の「津久井県村々生産炭・木材等荒川番所五分一運上定値段定書」(以下「値段定書」)は、荒川番所に納める運上金の価格を改定した際の文書です。荒川番所については以前も登場しましたが、「風土記稿」では

◯荒川番所 五分一運上取立の番所なり六畝廿一歩の地を除す相模川に臨て立てり、凡材木炭薪船筏ともに五分一の貢賦を此所にて收む、御代官手代一人、下役二人こゝに居て其事を掌どる、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八 太井村の項、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と紹介されています。相模川を舟運で下る荷物に対して賦課される運上金を取り立てるのが彼らの主な役目ですが、その対象品目の中に「炭」が含まれています。「値段定書」ではその筆頭に炭が取り上げられていて、相模川を下る品目の中でも主要な地位を占めていたことが窺えます。

この文書の中に「蓑笠之助」の名前が登場しますが、この人は富士山の宝永大噴火の後、酒匂川の土砂災害の復旧に義父である田中休愚とともに従事し、後に南町奉行所に取り立てられて幕臣となった役人です。工事の完了後の享保19年(1734年)に津久井県の大半が所領として与えられたため、それ以後荒川番所の管轄も彼の支配下に入ったことになります(寛延2年・1749年まで)。この「値段定書」はそれまでの運上金取立の運用を周辺の市場での価格動向に照して見直して勘定奉行に報告し、認可された結果が村方に通達されたものです。

その冒頭には「白炭」が2項目記されています。因みに「白炭」とは炭焼の最終過程である「ねらし」で一旦高温に曝して炭の純度を高めたもので、この行程で灰を被せて火を消すために炭が白っぽくなることからこの名で呼ばれます。タイミングを間違えると炭が灰になってしまうなど高い技量を要求される行程ですが、出来上がった炭は火持ちが良いことから高級炭とされます。

相州津久井県村〻五分一運上定直段左之通奉伺候

一 白炭 五俵

但壱俵四貫目入

此五分一運上炭壱俵

此代鐚五拾文宛

但定直段

鳥屋村・青野原村・青山村・寸沢嵐村・中野村・与瀬村・三井村・太井村ゟ出シ候白炭五分一定直段、前〻八貫目入壱俵付七拾文相極取立来候処、江川太郎左衛門(英彰)支配所之節ゟ四貫目入ニ而出之候間、八貫目入半滅三拾五文之積百姓共相願候得共、御吟味之上四貫目入壱俵五拾文定直段相極取立可申旨、御証文引付を以取立候付、猶又此度市場町〻問屋共方ゟ相場付取之吟味仕候処、直段難相増御座候間、是先御証文之通、荷物出次第書面之定直段割合ニ而取立候積、

一 白炭 五俵

但壱俵四貫目入

此五分一運上炭壱俵

此代鐚四拾文

但定直段

青根村・牧野村弐ケ村ゟ出シ候白炭、五分一運上之儀、右両村山奥ニ而外村ゟ道法弐里半余遠ク、至極難所附出候得共、只今迄外村之通鐚五拾文宛取立候処、右之通難所附出候付、貫目軽ク仕出、市場払方も下直候間、先格之通拾文引之積運上相納度由相願申候付、此度吟味仕候処、壱俵四貫目入と申名計りニ而、実三貫弐百目ならて無之段、相違無御座候、右弐ケ村之義古証文も外村ゟ拾文引之積り御座候、依之向後貫目之無差引四貫目入相定、壱俵鐚四拾文ツヽ之積り、荷物出次第書面之定直段割合ニ而取立候積り、

(上記書846〜847ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


「〜荒川番所五分一運上定値段定書」に登場する白炭の産地
この文書の「白炭」の項に登場する村々の位置
赤が50文/5俵の村、青が40文/5俵の村
(「地理院地図」)
同じ「白炭」の運上金の項が2つ出て来るのは、村によって金額が異なるからですね。ここで登場する村々の位置を地形図上でプロットしてみましたが、確かに青根村と牧野村は荒川番所から大分離れた場所に位置しているため、運び出す労力負荷が過大になることを配慮して手心を加えていることがわかります。前回も見た通り、それでなくとも炭の陸運には困難が伴う実情がありましたから、距離が延びればそれだけ積み荷の炭が輸送時の振動で損傷を受ける度合いが増えてしまうことになり、その不利は勘案しなければならないという共通認識が領主側にもあったことが窺えます。

とは言え、この文書の説明によれば、元は1俵が8貫(約30kg)で運上金が70文であったものが、韮山代官であった江川太郎左衛門の支配であった時(享保16年頃)に半分の4貫匁の俵に変更されています。その意図は良くわかりませんが、その際に運上金も半分の35文でという村々の願いは叶わず、50文になってしまった訳ですから、この時に運上金を吊り上げられたことになります。村方の願いが聞き入れてもらえなかったのは、白炭の取引価格が相応に上がっているのだから、という理屈でしょう。蓑笠之助はその運上金の価格が妥当であるかを最新の市場の動向と照して確認し、その定めの通りで今後も取り立てると決めた訳です。

「値段定書」では白炭に続いて「鍛冶炭」の運上金が定められ、荒川番所に近い村々は8貫入りの俵5俵につき(びた)86文、青根村と牧野村は白炭同様の手心を加えられて10文引きの76文となりました。なお、鐚86文の村は「鳥屋村・青野原村・青山村・寸沢嵐村・千木良村・三井村・又野村・太井村」と、白炭とは若干顔ぶれが異なっています。千木良(ちぎら)村は今の相模ダムの下流左岸、与瀬の東側に位置する村で、又野村は中野村の北側に位置しています。これらの村からは鍛冶で使う低廉な炭だけを産出していたことになります。地形面で他の村々と異なる、炭焼に不利な環境があったとは考え難いので、白炭の炭焼技術が不足していたということになるでしょうか。

文書は更に薪の運上金を定めていますが、ここでは青根村や牧野村の名前はなく、「三ケ木村・中野村・寸沢嵐村・三井村・若柳村・長井村・根小屋村・中沢村」に対して、やはり運上金を500束に対して永200文に据え置くことが定められています。一部の村は白炭を出している村と重複しているものの、こちらにのみ名前が記されている村々では炭焼を行っていなかったことになります。また、薪は大量に伐り出しても安くなってしまうので、相模川から遠い青根村や牧野村では険しい山中を長距離に亘って運び出す労力に見合わず、商品価値のある炭にしないことには割が合わなかったということになるでしょう。

実際、文書番号129「津久井県与瀬村新規炭焼請書」では、村内の御林の雑木を見立てて6貫の炭俵にして100俵分ほどの炭が焼け、金1両当たり炭21俵の価格になる見込みを報告し、御林の役人宛てに炭焼の用命を求めている文書です。無論、御林の木々は村方の一存で自由に伐ったり出来ないものでしたから、これは役人の方から求めがあって見積もりを出したということになるでしょう。山で稼ぐ村々にとっては、炭は現金収入に繋げやすい産品であったことが窺えます。

もっとも、文書番号124「津久井県牧野村運上炭焼出し赦免願」では、牧野村内の御林(「風土記稿」では全部で6箇所の御林が存在したことが記されている)の材木のうち不要になった分を炭に焼いて江戸で売り捌いて運上金を収める様に求められたものの、石窯を使って焼いたところが炭が多く粉になって売り物にならなくなってしまい、見込みよりかなり目減りしてしまったため、目論見通りの運上金を収められなくなってしまったことへの詫び状となっており、古くから白炭を焼いてきた筈の村でも必ずしも求め通りの炭を焼けるとは限らなかった様です。最初の荒川番所の文書は、そうした炭焼の技術の有無という観点から読むことも出来るのではないかと思います。因みに、この文書は下書きのためか後付けがなく、誰に対して宛てて出す予定であったかは不明です。

こうした村々がどの様な種類の木を炭に焼いていたかが窺い知れるのが、文書番号123の「津久井県鳥屋村奥野山稼出し炭・材木等書上」です。これは鳥屋村の名主・与頭・百姓代が領主・江川太郎左衛門の手代の求めに対して報告したものですが、どの様な事情があってこうした問い合わせを受けたのかは不明です。この文書では炭にする樹種の他に、板材にする樹種(4種)と、下駄に使う樹種(5種)が記されていることから、その使い分けに関心を寄せる様な動きが何かあったのでしょう。以前「椎茸」を取り上げた際に同じ鳥屋村の寛政5年の文書を取り上げましたが、年次が近いことから考えると、あるいは3年前のこの頃から既に打診があったのかも知れません。

この文書によれば、「白炭焼出稼来候木品」として「すろの木/ふなの木/もみじの木/はいた木/かしわ木/白ゑひす木/あらは木/ふじ木/ならの木/くぬき木/なたくま木/みねはり木/さくら木/うりの木/なゝかまと木/かつら木/はんの木/あつま木」と、全部で18種類もの木が書きつけられています。およそ丹沢山中の雑木林に生えてくる樹種は一部を除いて白炭にされていたと言って良さそうです。これに対して「鍛冶炭焼出稼来候木品」には「かつの木/すきの木/いも木/うつ木/なへくた木」と5種が書き付けられるに留まっており、白炭に比べて意外に樹種が少ないのが興味深いところです。何れにせよ、鳥屋村に限らず津久井県の他の村々が炭に焼いていたのも多かれ少なかれこれらの樹種であったと考えて良さそうです(以上、上記書853〜854ページ)。

これらの文書から窺える様に、津久井県の炭焼もかなり大掛かりに行われ、荒川番所を通じて領主への主要な貢税の対象とされていたことがわかります。「風土記稿」では津久井県を炭の産地として挙げていませんが、その取捨選択がどの様な判断に拠っているのかは良くわかりません。



相模国内の他の郡域はどうでしょうか。そこで気になってくるのが、「風土記稿」の三浦郡上山口村の項に、次の様に「炭竃」という小名が記録されていることです。

◯小名 △三頭美可志羅◯… △三國峠當村・櫻山・田浦三村に跨れる小山なり △石登以之能保利 △間門末加度 △正吟之也宇[糸巳]無 △唐木作加良紀左久 △新倉仁比久良 △蚫塚山安波比都可也末 △粟石 △寺前 △大澤 △星山 △高塚 △炭竃

(卷之百十 三浦郡卷之四より、…は中略、字母の拾えない漢字は[ ]内に旁を示した)



三浦郡葉山町上山口の位置(Googleマップ
確かに上山口村は以前取り上げた通り浦賀道の途上あり、南北に山が連なる内陸の村でした。南側の山の斜面には棚田が広がっていましたが、北側は森林になっていましたから、こうした所から産出する雑木を使って炭焼が行われていたとしても違和感はありません。

ですが、関連する史料を探してみたものの、この「炭竃」に該当する場所が上山口村の何処に該当するのか、そして実際に炭焼がそこで営まれていたのかを確認することは残念ながら出来ませんでした。「風土記稿」には地名が転訛して如何にも炭焼を行っていそうな村名に変わってしまった例も載っていることもありますし、また何らかの地形を炭窯に見立てた比喩表現である可能性も含めて考える必要があり、これだけでは同地で炭焼が行われていた痕跡と判断するのは困難です。強いて挙げれば、やや時代が下った明治初期の「皇国地誌残稿」の上山口村の項に

地勢

北及南ニ山ヲ負ヒ東西田圃ニ連ナリ運輸不便ナレドモ山林居多ニシテ薪炭乏シカラス

(「神奈川県郷土資料集成 第4輯 神奈川県皇國地誌残稿 上巻」1963年 神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 167ページ上段より)

とあるのがその可能性を窺わせるものの、「皇国地誌残稿」の地勢の項を眺めていくと多くの村で「薪炭」と書いていて具体的に炭焼を行っていることを書いていない村が多く、飽くまでも原木となる雑木林が多いことを表現しているだけかも知れません。もう少し他の裏付けが欲しいところです。



横須賀市秋谷の位置
江戸時代の「秋谷村」はこの他に同市子安を含む地域
Googleマップ
ですが、「新横須賀市史 通史編 近世」の283ページには、三浦郡秋谷村(現:横須賀市秋谷)の名主家であった若命(わかめ)家の「安政三辰年十二月」の日付を持つ文書から編成された表が掲載されています。ここには、当時この村から炭や薪が村の外に向けて販売されて幾らかの現金収入を得ていたことが示されています。この表の元になった文書から該当箇所を引用します。

一、炭六百俵

但 金壱両

代金拾二両

五十俵替

一、薪壱万七千五百把

但 金壱両ニ付

代金五十両

三百五十束

右之品々村方ニ而遣払之余り、右書之通他所売出仕候、…

(「相州三浦郡秋谷村(若命家)文書 上巻」横須賀史学研究会編 213ページより、…は中後略)


もっとも、基本的にはこれらの生産は村内での消費分が主で、外販分は飽くまでもその余剰分と書いています。貢税の対象とされることを警戒していたものと思われますが、基本的には漁業を主体に生計を立てる村では、農林産物にかけられる労力にも制約があり、山稼ぎを主体とする津久井県の様には大規模化することが難しい側面もあったと言えるかも知れません。因みに、同地では現在でも炭焼を続けている家が存在していますが、「三浦半島の史跡みち: 逗子・葉山・横須賀・三浦」(鈴木かほる著 2007年 かまくら春秋社)では現在の炭焼技術は明治時代初期に伝えられたものとしています(237ページ)。とは言え、若命家の文書からは同地の炭焼自体はそれ以前から続けられていたことがわかります。

こうした自家消費中心の炭焼が当時どの程度の村で行われていたのか、史料で裏付けるのは難しいところですが、必要に応じて伐り出して来た薪材の一部を炭に焼くといったことは幅広く行われていたのかも知れません。高座郡の相模野の一角を開墾した大沼新田・溝境新田・淵野辺新田でも、その乏しい産物を補うために雑木林を作り、一部を炭に焼いていた例もこちらに数え上げることが出来るでしょう(同地の炭焼については後日改めて取り上げます)。

次回は「風土記稿」山川編の記す足柄上郡や足柄下郡の炭焼について、その記述の問題点を取り上げる予定です。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- aunt carrot - 2016年03月15日 08:07:36

若命家に関して炭焼きをしていた記録があるのですね。
明治以前から大規模でなく炭焼きがあったということですね。
記録があるというのは素晴らしいことですね。
今度行ったら炭焼きの木がはぜる音と煙に昔を
思い起こしてみたいです、
いつもありがとうございます。

Re: aunt carrot さま - kanageohis1964 - 2016年03月15日 08:40:17

こんにちは。コメントありがとうございます。

そうですね、もし江戸時代に炭焼がもっと大規模に行われていたら、恐らく貢税の対象となって村明細帳などにその旨記録されたでしょうが、若命家の文書でも確認出来たのは引用した文書1点だったことからは、あまり常態化してはいなかったのではないかと思います。自家用に焼くだけだったので技術的にもあまり練られたものになっていなかったのを、領主の縛りのなくなった明治以降に本格化するに当たって外部の技術を学んできたということなのかな、と想像しています。

- 土佐けん - 2016年03月15日 21:11:39

本日はご訪問・コメントを頂き、ありがとうございます。
これからも頑張っていきますので、よろしくお願いします^^

Re: 土佐けん さま - kanageohis1964 - 2016年03月15日 21:32:38

こんにちは。コメントありがとうございます。

あの硯のすり減り具合は凄いもんだと思いました。またそれを良く残していたものだと思います。
こちらこそ、またよろしくお願いします。

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