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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物は、前回の「草綿」から1ヶ月以上間が空いてしまいました。今回から取り上げるのは「炭」です。

  • 山川編(卷之三):

    ◯炭足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、古愛甲郡煤ヶ谷村より年々北條氏に炭を貢せし事、其頃の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て貢せしに、元祿十一年より代永を收む、又近き頃丹澤山にて、燒せられしが今は廢せり、

  • 愛甲郡図説(卷之五十四 愛甲郡卷之一):

    ◯炭寸美◯古煤ヶ谷村より年々炭を貢せし事、北条氏の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、每年六百俵を貢せしに元祿十一年より代永錢を收むる事となれり、近き頃丹澤山にて炭を燒せられし事ありしが、今は廢せり、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


愛甲郡図説に記されている内容と山川編に記されているそれはほぼ同一のものですが、山川編の方には更に足柄上郡や足柄下郡から産出される炭についても記載があります。しかし、足柄上郡・足柄下郡の図説にはこれに該当する記述はありません。

因みに、足柄上郡の「東西山家(やまが)」については、同郡図説中に次の様に紹介されています。

北邊山間の數村を東山家古は菖蒲・八澤・柳川・三廻部・萱沼・彌勒寺・中山・土佐原・宇津茂・大寺・虫澤十一村なりしが、今は萱沼以下をのみ入、七ヶ村と呼べり、西山家皆瀨川・都夫良野・湯觸・川西・山市場・神繩・玄倉・世附・中川九村、近き頃より玄倉以下三村を、新山三ケ村と稱す、と唱へり、按ずるに、川村山を隔てたれば、東西山家の名を唱ふるなるべし、

(卷之十二 足柄上郡卷之一)


東西山家の村々
東西山家の村々:赤が東山家、青が西山家
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この記述を踏まえ、現在の地形図上でこれらの村々をプロットすると御覧の様になります。少々領域が広く、かつ東山家の村々が比較的狭い地域に集中しているため、地図を3分割して縮尺を変えています。「東山家」7ヶ村は明治9年(1876年)に合併して(やどりき)村となり、昭和30年(1955年)に松田町と合併後も引き続き「寄」を名乗っていますが、現在の地形図上では江戸時代の村名が字として別途記されているため、この地図ではその位置にマーカーを打っています。「風土記稿」では過去には菖蒲・八澤・柳川・三廻部(みくるべ)の4村(現在は何れも秦野市、上記7ケ村の東隣の地域)も「東山家」のうちに入っていたことを記していますが、「風土記稿」編纂時点ではこれらの村々は外れていたとしているため、地図には反映しませんでした。「西山家」の9ケ村は現在は何れも山北町に属していますが、酒匂川沿いに存在した川村(岸・山北)の北側の山岳地帯を指すものであったのだろうと「風土記稿」では推測しています。

言うまでもなく、ここで言う「炭」は「木炭」を指します。基本的には木を密閉状態で加熱することによって揮発成分を飛ばして炭化を進めることによって作ります。江戸時代の日本では化石燃料の利用はまだ一般的ではありませんでしたから、当時の燃料の主力はほぼ植物に由来するものでした。「炭」はそれらの中でも「薪」と共に当時の燃料の中心的な存在であったと言って良いでしょう。今回は「風土記稿」の表記に合わせる意図で、専ら「木炭」の意で「炭」で表記を統一します。


「風土記稿」に記された村々の当時の「炭」の生産の実情を見る前に、まずは江戸時代の炭の生産や使用の状況を全般的に確認するところから始めたいと思います。今回は参考文献として次の3冊を参照しました。

  • 新装版 日本木炭史」 樋口 清之 著 1993年 講談社学術文庫1076(以下「木炭史」)
  • ものと人間の文化史71 木炭」 樋口 清之 著 1993年 法政大学出版局(以下「ものと人間」)
  • 木炭の博物誌」 岸本 貞吉 著 1984年 総合科学出版(以下「博物誌」)

このうち、最初の2冊は共に「日本木炭史」(1957年 全国燃料会館刊)から派生した著作であることが、それぞれの「はしがき」に記されています。史料類がある程度残されているのは前者の方ですが、後者には後日執筆された史話が追加されているため、ここでは両者を適宜使い分けることにしました。基本的には半世紀以上前に編まれた著作が基本となっているため、上記の出版年よりも内容がかなり古いことになりますが、書き下ろしが主体となっている法政大学出版局の「ものと人間の文化史」のシリーズに、1962年に出版された「木炭の文化史」(東出版)が解題されてそのまま再出版されたことから見ても、その後この著書に大きく追加するべき研究成果もあまりないものと見え、実際適切な類書を見付けることが出来ませんでした。「木炭の博物誌」は著作時点の話が中心ですが、各地の炭の種類の紹介などで参考となる記述があったため、併せて参照することにしました。

これらの書物で紹介されている話の中には色々と興味深い話も多いのですが、話が膨らみ過ぎてしまいますので、ここでは「風土記稿」に記された話を検討するのに必要な点に絞って紹介したいと思います。

炭は古代から利用されてきたことは確かで、奈良東大寺の大仏の鋳造に際しては16,656石もの炭が使われたことが記録されるなど、金属や皮革、漆などの加工業で盛んに用いられていたことが記録に残っています。鎌倉時代に入ると炭が流通に乗る様になり、鎌倉幕府が建長5年(1253年)10月11日と翌6年10月17日に炭をはじめ薪、藁、糠などの燃料や飼料の価格統制に乗り出したことが「吾妻鏡」に見られることから、既にこの頃から炭の価格が幕府のまつりごとの課題として取り扱われていることがわかります。鎌倉の滑川下流の「炭売川」の異名が、「鎌倉七座」の1つである「炭座」が同地に存在したとされることと関係付けられていることからも、当時から炭の流通が盛んに行われていたことが窺えます。ただ、その産地など具体的なことは史料からは明らかにならない様です。もっとも、鎌倉時代にはまだ炭は消費地の近傍で生産されるのが中心で、あまり長距離の移動は行われていなかった様です。

炭の生産地から消費地への移動が盛んになってくるのは、軍需などの目的で大量に炭が必要となった戦国時代に入ってからで、この頃になると馬や舟を使って輸送を行った記録が残る様になります。それまでは炭を「籠」に入れて運んでいましたが、遠距離を効率良く運ぶために「炭俵」が使われる様になったのもこの頃です。但し、この頃でも生産地と消費地の距離はまだそれほど長いものとはなっていなかった様です。

とは言え、戦国時代には江戸時代に見られる炭の利用法がほぼ定着してきた時代に当たり、生活の中で、あるいは武器の製造のために必要な熱源としての利用も多様化し、更に茶の湯の普及が日本の炭を独自に発展させるのに大きく寄与しました。

中世において日本の炭が世界一の品質をもつに至ったのには、茶の湯が大きな役割をはたしていることは先にも述べた。茶道は足利義政の佗茶趣味によって独立の芸道にすすめられて以来、戦国大名の間にも流行し、千利休によって完成をみた。茶は炭を重要な要素として成立する芸道であって、炭の形、色沢、質、熱質の吟味を重んじた。炭の文化史上において、茶道のもつ意義は特に忘れることができないのである。しかも茶の趣味はやがて日本人の日常生活にとけ込み、食事の習慣、礼法、調理、起居に至るまで影響を与えたので、日本人の生活と炭とをいっそう離れない関係にしていった。…炭の形・質・組み方・火相などを観賞することは、世界中で日本の茶道だけであり、炭はここにりっぱな芸術として扱われているのである。

(「ものと文化」61〜62ページより、…は中略)


江戸時代の炭はこうした時代を受けて更に一般に普及し、飛躍的に消費量が増えていくことになりました。特に江戸や大坂の大都市圏での炭の消費量は膨大なものへと膨れ上がって行きました。

近世における二大消費都市である江戸と大坂は、いうまでもなく炭の自給ができないので、すべて他の地方から運ばなければならなかった。文久年間(十九世紀後半)ころ江戸の炭の入津高は年平均二三八万三六八〇俵(『諸色直段引下』)、天保十二年(一八四一)に大坂の炭の入津高が一八一万八〇〇〇俵(『南北堀江誌』)に達したというから、いかに大量の炭が両都市へ年々運ばれたかが知られる。…江戸への炭の仕出国としては、古くから一二カ国(武蔵・伊豆・相模・駿河・甲斐・遠江・常陸・上野・下野・上総・下総・安房)があげられた。大坂へは、日向・土佐・豊後・阿波をはじめ、摂津・河内・和泉・紀伊・伊予が、おもな仕出国であった。これらのうち陸運によるものと水運(海・河)によるものとがあったことは説明するまでもない。諸国の中小都市や純農村においても、これを小規模にして同様のことがおこなわれた。

(「ものと人間」119〜120ページより)


「江戸名所図会」巻9「国分寺村炭かま」
江戸時代の炭焼きの様子を描いた絵図は意外に少ない
「江戸名所図会」巻九「国分寺村 炭かま」の図
武蔵野の雑木林も炭の供給地であったことが窺える
因みに「新装版 日本木炭史」の表紙カバーも
この絵の一部を使っている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸や大坂以外の消費量については推測するしかありませんが、特に城下町や宿場町など、町人の比率が高い地域を中心に炭の消費は多くなったでしょうし、金属の加工や窯業、更に漆器でも研磨用に炭が用いられるなど、産業分野でも炭の用途は多数存在しました。従って全国では江戸や大坂の何倍もの炭が年々消費されていたことは確かでしょう。

こうした大規模な消費地へは専用の炭船を使った水運が中心となりました。とは言え、産出地の多くは水運に不向きな山中にあることから、水運がある場所までは陸送せざるを得なかった訳ですが、陸送ではどうしても揺すられる時間が長くなることから炭俵から炭が抜け落ちて目減りしてしまう難点があり、伝馬では敬遠される存在だった様です。他方、海上では炭が水を被る可能性もあり、そうした課題に対応する意味でも炭俵の形状が次第に工夫される様になりました。

相模国の炭もこうした江戸の旺盛な炭の消費を下支えする地域の一角を成した訳ですが、江戸への供給地の中でもとりわけ名高かったのは、天城(伊豆半島)と佐倉(現:千葉県佐倉市)の炭でした。

佐倉炭・久留里炭 上総・下総(今の千葉県)の地方も、近世の炭の産地として知られた。なかでも佐倉炭と久留利炭とは、茶用炭として有名であった。佐倉炭は「性和にして疾火興る」(『松屋筆記』)といわれ、久留利炭は、池田一ノ倉炭に次いで日本で第二位の炭とさえいわれた(『本朝食鑑』『和漢三才図会』)。『佐倉風土記』にも、佐倉炭は千葉、埴生両郡の際に産出し、茶炉用によく、池田炭に似るが、ただ香気を欠くだけであると説明してあって、良質であることを讃えている。

江戸における佐倉炭の値段は、下り炭(熊野・田辺炭)などにくらべてきわめて安いが(上炭新価一俵四六〇文、佐倉上炭一俵一三五文。『天保十三年物価書上』)、佐倉炭は江戸に近いので、運賃などの関係で安かったと思われる。佐倉炭は初め領主堀田家が専売し、のちに千葉の炭問屋に依託して江戸へ出荷させたので名をひろめた。この移出は享保年間(十八世紀初め)に始まっていて、古い歴史をもつ。一般に佐倉炭の初めは、寛政五年(一七九三)に富塚村の川上右仲が藩に建議して、(くぬぎ)林輪伐法をおこない、相模から製炭技術を輸入してつくったといわれるが(『千葉県印旛郡誌』など)、これはそれまでの下総炭の改良を指したものと考えられる。佐倉炭の名も、佐倉で生産されるのではなく、堀田家の領内の村々でつくられ、佐倉へ集荷して、千葉から江戸へ送ったのでそうよぶのであって、下総炭の総称といってもよい。 (67〜68ページ)

伊豆・天城炭 天領である天城山を中央にもつ伊豆国は、伊豆といえば天城炭が思い出されるように、天城炭の産地であった。天城炭は、天城山林の用材でつくり、御用炭とよばれて、江戸で知られた高級炭である。『松屋筆記』には、いま江戸で用いる炭の中で天城炭は上品(じょうひん)であり、これは堅炭で石窯を築いて焼く、と説明してある。天城炭の起こりは、安永二年(一七七三)ともいわれるが(『嬉遊笑覧』)、天城御用炭請負人儀兵衛の願書(嘉永二年、『江川文童』)によれば宝暦年間(十八世紀なかば)と記されている。そのころ伊豆の山本文之右衛門という人が紀州熊野地方へ行き、三年間炭焼の業を習ってきて始めたことが古記にみえるという(『静岡県林産物』)。

しかし伊豆地方の製炭は、すでに近世前期からおこなわれており、田方郡狩野村吉奈の点検書には、寛文九年(一六六九)ごろ村民が広漠たる原野を薪炭用材に供しようとして樹木を植えたのが、棚葉山官林となったことを伝えている(『静岡県之産業』)。天城山から年々六五万貫(一〇万俵)の御用炭が生産された。また天城山以外でも各地で炭が焼かれ、農閑期の副業とされた(『一話一言』)。 (70〜71ページ)

(以上「ものと人間」より)


天城と佐倉の位置
参考:天城と佐倉の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
特に天城炭の場合、江戸時代の幕府の「御林」は建材用途が主であったのに対し、この天城山の御林の場合は製炭用の雑木林が用いられていたという点で異例の存在であったと言えます。この「御林」は勘定奉行から韮山代官所に申し渡されて厳重に生育状況を管理され、伐り出された雑木は請負人に無償で提供される代わりに、炭の売上高から所定の運上金を幕府に納める必要がありました。江戸幕府が自らこの様な施策に乗り出した背景には、増大する江戸の炭需要を確保するとともに、その価格の安定という目的がありましたが、他方でこの「御用炭」は江戸城の「御風呂屋炭」として活用される側面もありました。こうした領内の炭の産出に関して領主が強く管理する例は「木炭史」で多数挙げられています(第三章第一節第六項「諸藩の製炭管理」)。

他方で、上の文中でも指摘されている様に佐倉炭が相模から技術指導を受けて改良を図ったと伝えられていますが、「博物誌」では「佐倉付近の炭やきやさんたちが改良したものであろう。」(204ページ)と、必ずしも相模国での炭焼技術がそのまま伝わったものとは見ていない様です。とは言え、少なくとも相模国が当時炭の産地として先進的な存在であったことは確かな様です。次回からこの辺りの事情を各種史料をもとに確認していく予定ですが、まずは相模国全体の炭の生産事情を見るところから始めたいと思います。




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この記事へのコメント

- aunt carrot - 2016年03月12日 07:34:58

大変興味深く拝見いたしました。
炭は茶道の発展とともにあったと思っていましたが、
漆や金属加工にも必要だったのですね。
江戸城のお風呂屋炭とありますが、
お風呂を薪でなくて炭で沸かしたのでしょうか?
今も横須賀の子安の里に炭焼き小屋があります。
それもいつのころからなのか、知りたくなりました。
いつもありがとうございます。

Re: aunt carrot さま - kanageohis1964 - 2016年03月12日 08:40:37

こんにちは。コメントありがとうございます。

炭の消費量全体で、産業用途のものはかなりの比率を占めたと思います。ただその全貌は残念ながら明らかにするのは難しい様です。

将軍家の「炭風呂」の話は「ものと人間」などに詳しく書かれていますが、炭で風呂を沸かしたというのはやはり将軍家などごく限られた身分の人たちだけでしょうね。100万都市と言われた江戸の町の炭の消費量が238万俵ということは、ひとり年平均で2.3俵しか割り当てられない訳ですから、炭の使用量が多くなったと言っても民間の生活用の燃料の主体はやはり薪の方ではあったでしょう。町民まで炭で風呂を沸かしていたら到底この数字で収まらないと思います。

三浦半島の炭焼についても次回出来るだけ取り上げてみる予定です。

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