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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その5)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道の最後の1本と、鎌倉郡図説では取り上げられなかった「鎌倉道」を確認します。

5本目の「鎌倉道」は武州金沢から雪下へ入る「金沢道」または「六浦道」と呼ばれる道です。峠村から朝比奈切通を越え、鎌倉の域内に入って「風土記稿」の記す「谷合四ケ村(やつあひしかむら)」のうち西御門村(現:鎌倉市西御門の大部分)以外の3村を経て雪下に至ります。この道筋については「風土記稿」の記述で特に問題となる箇所は見当たらない様です。ただ、この道についての由緒などは主に峠村の項に集中して記されています。

六浦道:鎌倉郡中の各村の位置
六浦道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

鎌倉道㈣に記された脇道の各村の位置と戸塚—金澤の道
鎌倉道㈣に記された脇道の各村の位置と
戸塚—金澤の道(「地理院地図」上で
作図したものをスクリーンキャプチャ)
なお、鎌倉郡図説の鎌倉道㈣の記述には、

此道筋、笠間村より分れ、巽方公田村に達し、鍛冶谷村、上之村等にて岐路となり、末は武州久良岐郡日野・峯・氷取澤・鎌利屋四村に達する小徑あり、

という付記がありました。ところが、この記述の中に出て来る村名を地図上でプロットすると右の様になり、この記述がどの道筋を指しているのか上手く特定が出来ません。上之村や中之村の記述には「金澤道」と称する道が見られるものの、実際は「戸塚から金澤への道」とされており、鎌倉郡図説の道筋の一部を指し示すのみと見られます。右の地図では「迅速測図」上でこの道筋に近いと思われるものを拾って仮に線を引いたものですが、特に笠間村内で戸塚からの道筋と接続する部分には主要道であることを示す表示を施された道筋が釜利谷への道と繋がっておらず、多分に推定を含んでいることを御了承下さい。以下の一覧では「金澤道㈡」として、中之村と上之村のこの道に関する記述を収めました。因みに、上之村の記述に見える「久良岐郡宿村」は釜利谷郷の一村で、明治時代に入ってすぐ他の釜利谷郷の村と合併して釜利谷村となりました。図説の記述はこの道筋以外も含んで記されているものと思われますが、それがどの道に当たるのかは判断出来ませんでした。

さて、鎌倉郡図説に取り上げられたのは以上5本の道ですが、鎌倉郡の各村の記述の中には、この何れにも当てはまらない「鎌倉古道」が幾つかの村に記されています。これらを拾い上げ整理してみると、概ね2本ないし3本の道筋に分かれる様です。まず、山崎村の項には元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉に攻め入った折に、山之内へ攻め入る際に通った道筋として「太平記」に紹介されていることが記されています。この村の他に、上町谷村と梶原村の記述が、概ねこの記述に沿って該当する道筋を辿っている様です。ここでは「風土記稿」の記述に合いそうな場所を地形図や「旧鎌倉街道・探索の道—上道編」に掲載された地図を手掛かりに概略で線を引いてみましたが、あまり精度は高くありません。飽くまでも参考程度に御覧下さい。


鎌倉古道㈠の概略の道筋と各村の位置
鎌倉古道㈠の概略の道筋と各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)

他方、柄沢村や城廻村には武州多磨郡木曽町(現:東京都町田市木曽)へ通じる「鎌倉古道」の存在について記しています。渡内村に記されている「鎌倉古道」もこれらの道に繋がるものと思われます。ただ、この3つの村の位置関係からは、1つの道に繋がるものではない可能性がありそうです。これも「旧鎌倉街道・探索の道—上道編」に掲載された地図を参考に、該当しそうな道筋を大筋で拾ってみました。

鎌倉古道㈡の概略の道筋と各村の位置
鎌倉古道㈡の概略の道筋と各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

どちらの「鎌倉古道」も、「風土記稿」が編纂された天保年間時点で残っていた道筋や地元からの報告を頼りに、「太平記」などの古典と照合して見出した道筋ということになります。彼らの判断した道筋が実際に鎌倉時代のそれと正確に合致すると言えるかは難しいところですが、少なくとも昌平坂学問所が鎌倉時代の古道に少なからず興味を抱いていたのは確かであり、「風土記稿」にもその片鱗が反映したということになるでしょう。



街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈤ ※六浦道峠村九十八
(三十)
往還一條あり村の中程を西東に達す巾六尺許武州より鎌倉への路なり、
◯朝比奈切通 鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村界にあるを大切通と云ふ道巾四間許、大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ道巾二間許、共に鎌倉より六浦への往還に値れり、仁治元年十一月始て道路を開かんことを議定あり【東鑑】曰、…… ◯峠坂 村中より大切通に達する坂なり、延寶の比淨譽向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人艱苦を免ると云此僧延寶三年十月十五日死、坂側に立る地藏の石像に、此年月を刻せしと【鎌倉志】に見ゆれど、今文字剝落す、
◯鼻缼地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云長一丈許是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缼損せし如くなれば鼻缼地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絕えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缼とは唱へしなりと云、◯上總介墓 金澤往還南陸田間にあり、所在を字して塔島と呼り、土俗傳て北條高時滅亡の時當所にて討死せし上總介某の墓なりと云ふ、【鎌倉志】には上總介廣常が事歟と記せど、今碑の樣を見るに當今の物とも思はれず、固より文字を鐫されば其詳なることを知るべからず、
十二所村九十三
(二十五)
◯太刀洗水 【鎌倉志】には梶原が太刀を洗し所と記し、里俗は朝比奈と言傳ふ、
◯地藏堂二 一は金澤道の側にあり、石像を置く長三尺、鹽嘗地藏と號す里俗の傳に、何れの頃にや、六浦の鹽賣、鎌倉に出る每に商の最花にて、鹽を此石地藏に供せし事あり、故に名づくと云ふ、光觸寺持、

※二階堂村の項で周辺の村についても合わせて記されている関係で、ここではこの道について直接言及はされていない。道脇の「太刀洗水」について参考までに書き出したが、「朝比奈切通」の名がない。

淨妙寺村九十四
(二十六)
◯座禪川 報國寺門前を流る滑川の下流なり、寺門入口に橋あり渡月橋と呼ぶ、◯胡桃川 胡桃谷の山間より出、公方屋鋪の傍を流れ座禪川に合す、往還の係る所小橋を架す、胡桃橋と名づく、

※二階堂村の項で周辺の村についても合わせて記されている関係で、ここではこの道についての直接の言及はなく、往還に架かる橋についてのみ触れられている。

二階堂村九十
(二十二)
當村並に西御門・淨妙寺・十二所四村の地は南北の二方、大藏の谷々にして其中間平坦の地に田圃を開きし村落なるが故、中古以來は四村を槩して谷合四ケ村也都安比之加牟良と闔稱し、全く一村の如し、正保・元祿改定の國圖には正しく四村に分載したれば夫より已後の所爲なるべし、今に至りては四村の目も自然小名を呼が如くになれり、故に四隣廣袤等の事爰に括載して各村に分記せず、…武州金澤道四ヶ村の南方を通ず幅二間、
◯座禪川 村南を流る幅二間より三間に至る、十二所村、滑川の下流なり、此餘村内所々谷間より出る淸水一條の小川となり、金澤道を横切て座禪川に合す、往還の係る所橋を架す長三間、歌ノ橋と呼ぶ、鎌倉十橋の一なり古傳に、澁川六郎兼守と云ふ者、死刑に處せらるべきを、十首の詠歌を、荏柄天神社に法樂しかば、遂に其刑を免かる、後報賽のため、此橋を架す、是より此號ありと云へり、
雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘
◯小名 …△横小路 古は横大路と稱す、鶴岡赤橋の前より東折して寶戒寺に到る通衢を云、…
◯筋替橋 須智賀江橋とも書す、横小路より大藏町に到る、街角の小流に架す石橋長二間、にて鎌倉十橋の一なり、…
*金澤道㈡ 戸塚

金澤
中之村
(三十二)
前村[上之村]と地形錯雜するを以て廣袤四隣は彼村に闔載す、…戸塚宿より金澤への往還巽方に係れり幅凡三尺許、
上之(かみの)
(三十二)
本郷六村當村及中之村・鍛冶ヶ谷・小菅ヶ谷・桂・公田の六村を云、故に今皆本鄕と唱ふの一なり、…此地は鄕中の東、上の方にあるを以て今の村名を負せしと云、されど其地域は犬牙せり、就中中之村とは最も錯雜して四隣廣袤各村に辨別しがたし、…金澤道係れり幅六尺、東方武州久良岐郡宿村に通ず、
◯坂三 猿田坂武州久良岐郡金井村に達す、登三町許、白坂・梅澤坂共に武州金澤道なり登同上等の名あり、

※現在は新番地表記が進んだこともあり、この辺りのかつての村域を現地名から推し量ることは殆ど不可能になっている。差し当たり、この村が一番東にあるという点から最も金沢寄りにあったと判断し、後ろに置いた。

*鎌倉古道㈠(宮ノ前村)百三
(三十五)

※山崎村の項に宮前村の名前が見えるが、本項には関連する記述は見当たらない。

上町谷村百五
(三十七)
鎌倉古道村内にあり、
◯小名 △天神下鎌倉古道の係る所なり、 △根田 △谷戸 △三田町 △橋場 △うたう坂 △梅田 △上吉目 △山王ヶ谷
◯戸部川 西堺を流る幅六間、板橋を架す長八間、町谷橋と呼ぶ
山崎村九十八
(三十)
鎌倉の古道、村南山上にあり村岡鄕宮前より、上町谷を經當村十三坊塚邊より梶原村に至り、六本松より化粧坂に登れり、これ【太平記】に載する所、義貞の官軍山之内に欄入せし路なるべし、
◯小名 △熱海 △湯之本 △神代 △禰宜崎 △寶積寺谷 △大谷 △柿原 △西谷 △十三坊塚 △大下 △稻荷山 △池ノ谷 △藥師堂免
梶原村百五
(三十七)
鎌倉道坤方より東方に貫く幅三尺より五尺に至る古道は東方山上にあり路傍に塚あり、道中塚と唱ふ、是當時の遺名なるべし、

※この「鎌倉道」がどの道を指すかは不明。藤沢〜長谷の道が域内に係っていたとは考え難い。

扇ヶ谷村八十九
(二十一)
◯假粧坂 或は氣生又形勢に作る、相傳ふ古平家の大將の首討取て假粧し實檢に備へしより此名起ると云ひ、一說に昔遊女の居住せし地なれば此名を負せしとも云り【相山日記】曰、……坂上に松樹あり、紅掛松と呼ぶ來由詳ならず

※鎌倉古道の存在については直接言及されていないが、山崎村の項でこの坂の存在に言及されているため、ここで取り上げた。なお、由緒には「相山日記」の他、「太平記」「鎌倉大草紙」「回国雑記」が引用されている。

*鎌倉古道㈡柄澤村百四
(三十六)
建久四年四月右大將賴朝武州入間野に狩せし路次當所を歷て武州關戸宿に到りし事【重須本曾我物語】に見えたり曰、…今も武州多磨郡木曾町邊へ通ぜしといふ、鎌倉古道村内に係れり、盖し此道なるべし
城廻村百四
(三十六)
鎌倉道村内に係れり幅二間餘西方にある古道は鎌倉より武甲二州及び木曾への往還なりしと云ふ南方村岡鄕五村の地より、西方山谷新田に係り、東海道を横切東俣野村に至り、高座郡に達せしと云へり、
渡内村百四
(三十六)
鎌倉道村の西北に係る幅七尺より二間に至る古道は中程にあり、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。






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