スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その2)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回から、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道を順次取り上げます。

鎌倉郡図説には全部で5本の「鎌倉道」が記されています。この地にかつて幕府が置かれていた頃からの由緒が伝わる道筋も少なくない土地柄ですから、「風土記稿」の鎌倉道の記述もその裏付けとなる史料の引用がかなり多くなっています。また、江戸時代初期に編纂された「新編鎌倉志」も多々参照されており、こちらも必要に応じて引用されたり言及されたりしています。ただ、鎌倉郡図説に取り上げられた道筋がどの様な判断で選び取られたのかを考える上で、少なくともこうした由緒が最優先という訳ではなかった様です。もっとも、由緒以外にどの様な判断が働いたのかを、各村の記述との対比で明らかにするのはなかなか難しいというのが、各村の記述を一通り書き出して並べてみての感触です。


その「鎌倉道」最初に置かれているのは、藤沢宿の大鋸町から鎌倉・雪下を結ぶ道です。この道の上で継立が営まれていたことは、藤沢宿の継立先の中に「雪下村」の名前が見え、更に雪下村の継立先の記述にも藤沢宿の名前が見えていることで確認出来ます。


他方、藤沢からの継立としては長谷を経由する道がありました。以下の地図ではこの2つの道筋を収めましたが、どちらも大鋸町のかなり近い場所で東海道から分岐することがわかります。「鎌倉郡図説」ではこの道筋については言及していないため、以下の一覧では㈥としてまとめました。各村の記述でも触れていない箇所が多々見られますが、長谷村の継立の記述では藤沢宿が継立先として示されています。一方、藤沢宿の継立先からは長谷村の名前が漏れています。「風土記稿」ではこうした記述にも多少遺漏が見られるため、これも単に書き漏らした可能性が高いと思われますが、雪下も長谷も鎌倉方面への継立であるために見落としたか、より代表的な方面だけを書き記したのかも知れません。もっとも、双方とも途中の道幅が1間または6尺(どちらも約1.8m)と極めて細い箇所があり、これでは継立馬が通過するのもギリギリであったと思われ、すれ違いに難儀する程の交通量ではなかったものと推測されます。

三浦郡小坪方面から鎌倉を経由して藤沢まで、あるいはその逆を行く継立が、雪下と長谷のどちらを経由地として使っていたかはわかりません。ただ、以前江島道のまとめで触れた様に、鎌倉や江の島は江戸時代には参拝に訪れる大名やその奥方、あるいは公家や例幣使なども訪れることが多かったことを含めて考えると、この2つの継立場は経由地としてよりも最終目的地や出発地としての活用が多かったのかも知れません。


城廻付近の明治36年測図の地形図
該当する道は「城廻/城宿」と記した集落の南側を東西に経由する
「相模陣」と記された箇所を通る道(「今昔マップ on the web」より)
道筋についてはどちらも「迅速測図」を基本に、明治36年測図の地形図も参照して推定しています。これらから判断する限り、城廻村(現:鎌倉市城廻など)の「鎌倉道」は藤沢〜雪下の道筋からは北に隔たっており、村内を通過してはいないと思われます。しかしながら、この村の記述では別途「鎌倉古道」(これについては後日取り上げます)を記していることから、この村域に属する道のうちのどれを「鎌倉道」と称したものか、従ってどちらに向かう道筋を念頭に置いていたものか、判断が付かずにいます。このため、便宜上この道の一覧に入れてその旨を追記するに留めました。

以下の一覧や地図では大鋸町から鎌倉方面へ向かった時に先に登場する村の順に並べてありますが、笛田村(現:鎌倉市笛田など)は村域がかなり広く、実際は常盤村(現:鎌倉市常盤など)の南で長谷村と「大仏(おさらぎ)切通」で接しています。一覧や地図ではこうした位置関係については十分に表現出来ていない点は御了承下さい。


藤沢〜鎌倉間の2つの継立道:各村の位置
藤沢〜鎌倉間の2つの継立道:各村の位置
青の線が「鎌倉道㈠」(大鋸町〜雪下)、紫が「鎌倉道㈥」(大鋸町〜長谷)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈠ ※藤沢宿大鋸町

山之内
大鋸町百三
(三十五)
東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

※ここで指摘する「鎌倉道」が、常盤〜長谷の道を指す意図だったのか、それとも玉縄を経由する道を指すのか、どちらもこの記述の特徴に合うので一概には言い難い。

◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
柄澤村百四
(三十六)
鎌倉道東西に貫けり、
◯觀音坂 鎌倉道にあり登二町許
渡内村百四
(三十六)
鎌倉道村の西北に係る幅七尺より二間に至る古道は中程にあり、
◯小名 峯加藤三左衛門が采地の闔稱なり、
◯坂二 一は觀音坂本村峯渡内、兩分内にて、鎌倉道に在リ、登一町許幅七尺より二間に至る、一は二傳寺坂峯渡内の分内にて、城廻村に接せり、登幅ともに上に同、と呼べり、
(城廻(しろめぐり)村)百四
(三十六)
鎌倉道村内に係れり幅二間餘西方にある古道は鎌倉より武甲二州及び木曾への往還なりしと云ふ南方村岡鄕五村の地より、西方山谷新田に係り、東海道を横切東俣野村に至り、高座郡に達せしと云へり、

※少なくとも、大鋸町〜雪ノ下の継立道がかつての城廻村の村域を通っていた可能性は薄い。それとは別の「鎌倉道」を指している可能性もあるが、現時点ではどの道を指す意図であったか不明。

植木村百四
(三十六)
藤澤より鎌倉への往還、東西に貫く幅六尺許
岡本村百四
(三十六)
藤澤より鎌倉への道村内を通ず幅八尺より二間餘に至る、
◯小名 △番匠免【小田原役帳】に、… △平戸 △山居佐無幾餘 △飯島 △戸部宿玉繩城ありし頃の宿驛なりと傳ふ、 △戸部表 △東谷戸 △内越 △八段目 △峯ノ下 △土腐 △谷ノ坪
◯戸部川 柏尾川の下流なり、村の東界を流る幅八間より十二間に至る、鎌倉道の係る所なり、板橋を架す長十二間、小袋谷・臺等の村々にて修理す
臺村九十八
(三十)
藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず巾二間より四間に至る又戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り巾六尺、村界にて前路に合す、
◯戸部川 西界を流る中十二間橋を架す、戸部橋と唱ふ長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ幅一間より三間に至る西方にて此川に注ぐ、
小袋谷村九十八
(三十)
戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず幅二間、

※以下、雪ノ下までの道は鎌倉道㈣参照。

◯戸部川 村西を流る幅八間餘橋を架す、戸部橋と唱ふ當村・臺・岡本三村の持にて、臺村に詳なり、
*鎌倉道㈥ ※藤沢大鋸町

長谷
大鋸町百三
(三十五)
東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

※鎌倉道㈠の同町の項参照。

◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
(彌勒寺村)百三
(三十五)

※村の西方、境川沿いをこの道が抜けている。この村については「村岡五ヶ村」の1つとして高谷村の項に四隣などが合わせて記されているが、当村の記述にも高谷村の記述にも、この道に関する記述は見当たらない。

(川名村)百五
(三十七)
江島道村内を貫けり幅三間、
◯戸部川 村の北界を流れ幅十間餘乾隅にて境川に會す、土橋を架せり長十五間

※この橋で戸部川を渡ったところで「江島道」と分かれて東へ向かう道が長谷への道だった筈だが、関連する記述は見当たらない。

(手廣村)百五
(三十七)

※街道に関する記述はない。

笛田村百五
(三十七)
鎌倉道乾方に係る幅六尺、
◯大佛切通於佐羅義幾利土保志 東方にあり登二十間許、坂上は長谷村の界なり、
常葉(ときは)百五
(三十七)
藤澤より鎌倉への往還村南を通ず大佛切通を經て、鎌倉に達す、幅一間許、
長谷(はせ)九十六
(二十八)
三浦郡三崎・浦賀等よりの往還二條村内を通ず、一は江ノ島道神明町兵橋脇より左折して坂之下村に至る、幅凡四間より六間許に及ぶ、一は藤澤道なり幅二間半當村人馬の繼立をなせり東方、三浦郡小坪村へ一里、北方、藤澤宿へ二里を送る、

※小名及び稻瀨川については鎌倉道㈡の長谷村の項参照のこと。

◯大佛坂 大佛の西にあり登四十五間、此地を大佛切通と唱ふ、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


今回は鎌倉郡図説の5本の「鎌倉道」のうち、実質的に1本しか取り上げていませんが、長くなりそうなので以降は次回に廻します。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- aunt carrot - 2016年02月20日 22:58:52

大船フラワーセンターの玉縄桜の地名、玉縄の地名が載っていますね。
地図のことは深くはわかりませんが、
今も同じ地名があるとみていて楽しいです。

Re: aunt carrot さま - kanageohis1964 - 2016年02月20日 23:24:38

こんにちは。コメントありがとうございます。

あの辺りは古くから村岡城が造られたり玉縄城が造られたりと、鎌倉のすぐ外の砦としての歴史が厚く重なる地域ですよね。地元に住んでいる方々もその点は強く意識されているのではないでしょうか。

江戸時代後期にはそれらの時代とはまた違った交通のあり方があったということになるだろうと思うのですが、「風土記稿」には昌平坂学問所がその辺を見極めるのに意外に苦心した跡が見えているという気がします。

トラックバック

URL :

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。